ゼロベースで「自家製メニュー」を組立てる
本当にやりたいのか?
さて、自家製メニューを作るときに気をつけなければならないのは、「○○はお金がかかるからやらない」等という陥りがちな発想です。
これは自分の頭で取捨選択しているようでいながら、予算(条件)に支配され、盲従しています。予算的に無理だというのは現実的な理由のようでいながら、本質的な理由になっていない。なぜなら、お金がかかるのがイヤなら、そもそもワーホリなんかやらないで日本で働いていればいいからです。どんなにケチったって、ビザ取得費用はかかるし、渡航費はかかる。
極論かもしれないけど、ワーホリに限らず「やりたいこと」に関して「最初に予算ありき」という発想で臨むのならばやらない方がマシだと僕は思います。予算ありきは、「やらねばならないこと」の場合に適用される原理でしょう。本当は馬鹿馬鹿しいからやりたくないんだけど、世間の義理とかしがらみで一応形だけでも整えないとならないような場合、義理チョコのように、一定の予算内で「適当にみつくろって」みたいな感じです。
人間、本気でやりたいことだったら妥協しません。払えるならば幾らでも払うし、借金してでも払う。そしてお金がないなら無いなりに、現在の時点で最大限そこに行けるようにする。どっかのピアニストの子供の頃の回想を読んだ記憶がありますが、ピアノが欲しいけど家が貧乏だから買えない、だから紙に自分で鍵盤書いて練習したとか。将棋盤が買えないから紙で作ったとか。僕らの子供の頃には、ギター弾きたいけど金がないから教室の箒をギターに見た立てて気分はスターという「21世紀少年」的な光景は普通にありました。もうほんと、アホみたいな、涙ぐましいことをやる。
絶対行きたい野外コンサートでチケットが取れなかったら、会場のダフ屋からでも倍払っても買うし、それでもダメなら会場の周囲からワンワン鳴ってる音だけでも聞きたい。同時存在していたい。スターがやってきたら、知り合いになれるチャンスなんか限りなくゼロに等しかろうが、そーゆー問題ではなくキャーキャー手を振る。その時点で背伸びして、ジャンプして、ちょっとでもそれに近づこうとする。もっとのめりこんだら、会社の金を遣い込んででも競馬走ったり、キャバクラ通いをしたりする。そういえば、女性銀行員がオンライン詐欺をしてまで男に貢ぎ続けた事件がありました。
「本当にやりたいこと」ってのはそういうことじゃないんですか。
「そこそこ手頃な予算」なんていうのは、忘年会や社員旅行の企画みたいなもので、別に心底やりたいわけではないけど、「まあ、やりましょか〜」くらいのモチベーションの場合でしょう。それが悪いとは言いません。普段の日常においてはそーゆーことばっかりかもしれない。
だからこそ、それらとは一線を画した、自分だけの祝祭(ハレ)としてクッキリ際だった「なにか」「やりたいこと」をやるのではないのですか。
予算その他で実現可能性があったら「やりたい」という灯がついて、実現困難になったら急速に灯が消えるのか。あなたのモチベーションや、生きる意欲みたいなものは、そんな金次第、条件次第で、信号みたいに点いたり消えたりするのですか?そんな点いたり消えたりするようなものは、無理にせんでいいです。その程度の物事に貴重な貯金を使うくらいなら、本気で全財産かけてもいいと思えるものを探した方がいい。その方が後悔のない生き方が出来ます。
欲望ホタルが道を照らす
そして、本稿との関連でいえば、この種の「そこそこ手頃」的な発想でいくと、手頃なメニューが無くなった時点で決定的に方向性を見失うことになる。何のために何をやってるのか、ある日突然暗闇にポツンと取り残されることになる。光はない。というか、もともと光なんか無いのだ。「メニュー」という誘蛾灯に導かれただけなのだ。待ってても照明はつかない。だから自分自身がホタルのように発光するしかないのだ。その発光とはなにか?といえば、「やりたい!」という強烈な欲望でしょう。
ワーホリで来ました、海外に来ました、ではその「ワーホリ/海外」とは一体どんなワーホリ/海外なのか、どういう経験を得たいのか、なんでやりたいのか?それが明確かどうかです。発光してるかどうかです。眩しいくらいにギラギラ発光している人は迷うなんてことない。常に道は明るく照らされている。例えばイルカが好きだからオーストラリアでイルカ体験をしたいとか、自転車で一周したいとか、ラグビーやってるから本場で鍛えられたいとか。これが明確だったら、別にワーホリである必要もなく、観光ビザでも目的が達成できたらそれでいい。別に1年とか2年とかいう期間に縛られることもない。「堪能するまで」という大雑把だけどハッキリした期間設定がある。
いま「明確に」と書きましたが、別に言語的に明瞭でなくてもいいです。「なんかガビーンとする体験をしたい」というような曖昧なものでもいいです。日本での日常に忙殺されて「ちょっとタイムをかけたい」でもいいです。「じっくり将来を考えてみたい」もアリでしょう。「とにかくしんどいから逃げたい」も、その良し悪しはともかくとしてあるでしょう。一つとは限らないし、むしろ複数の動機がごちゃ混ぜになっているのが普通でしょう。それが何であれ、「何をしたいの?」「何で来たの?」です。本質的な動機、それが言葉にできなかったり、曖昧でもあってもいいです。むしろ曖昧な方がいいくらいです。
しかし曖昧であっても「こんな感じ」というのは感覚的にわかるでしょう。美味しい料理、大好きな音楽、「これ!」という基準は誰でもある。それをちゃんと把握しておくこと(それは言語的にではなく生理的・感覚的に)が、全ての原点になるし、解決策にもなるでしょう。それこそが方位磁石における「N」であり、ここがブレブレだったら誰だって道に迷う。
要は、あなたのホタル(欲望)は輝いているか?です。
朝の街灯のように、薄ぼんやりと点いてるんだかどうか分からない程度であれば、お仕着せメニューに引っ張られ、「賢く利用」も出来ず、メニューが尽きた時点で道に迷う。
サイコー!をつくるトップ階層、実現メニューの第二、事務処理の第三階層
「自家製メニュー」作成のためには、幾つかの階層があることを先に知っておかれるといいです。まずトップ階層があります。これは「やる気」の原点であり、夢物語でいい。その夢の現実化の段階で第二階層になり、さらにその下の現場の事務処理として第三階層がくる。下のレベルが上に混入するという「下克上」みたいな事態は、出来るだけ避けた方がいいです。
「やりたいこと」と「やれそうなこと」とは全然違います。
「やれそうなこと」=実行可能性/容易性というのは、大学入試の偏差値指導みたいなもので、何がしたいのか?よりも合格できそうか?で全てが決まっていくレベルでの話です。また、あーゆーことをやりたいわけですか?入試はまだいいですよ。日本社会にはまだまだ歴然として学歴差別があるし、とりあえずポイントを稼いでおこうかという実利性があり、実利性だけが全てだとも言えるから。でも、ワーホリにはその種の実利はない。やっても別に誰も褒めてくれないし、将来で有効なキャリアになる可能性はあるけど、それは実力あっての話で、単にやるだけだったら実利はない。
だから「やれそうなこと」「そこそこ手頃」という容易性は、メニューの作成においてはトップ階層の本質的な基準にはならない。トップレベルにおいては、自分がスーパーマンで無限にお金を持っているという前提でやるといいです。出来るかどうかなんか関係なく、可能な限りベスト!なプランをつくる。これが出来たらサイコー!というのを作る。ここがショボイと人生そのものがしょぼくなる。
このレベルにおいては、夢想OK、妄想OKです。なにがなんでもジュネーブの国際機関で働くんだ、でもって金曜のランチタイムはアルプスを望みながらワインを飲むんだとか、素敵な彼氏と二人で農場をもって子供は3人、犬の名前はパトラッシュとかでもいい、金髪のおねーちゃんにモテモテで〜とか、アホアホでいいです。アホアホがいいです。
トップレベルでの構想が決まったら、次にそのサイコー!を現実化するにはどうしたらいいかという「第二レベルの実行メニュー」が出てきます。何と何が必要か、何をどの順番でやっていけばいいかとか。でもって、予算が出てくるのは、さらにその下の第三階層の事務処理レベルです。「やりたいのは山々なんだけど、そうは言ってもねえ、今月ちょっとピンチで、、」という段階で、電卓叩いてウーウー言ってりゃ良い程度のレベルです。
「現実的」という言葉は良く聞きますし、実際にもそうなんだろう。だけど、
あまりにも「現実的」という言葉に引っ張られると優先順位が狂ってきます。 第三階層の下っ端がトップ階層まで出てきて、なんだか詰まらな〜い、ぱっとしない世界になってしまう。進学でも、転職でも、結婚でも、「そうはいっても現実的に、、」とかウジウジ言いだしたら何にも出来なくなってしまう。
ワクワクというのは非現実的だったことがマジに実現されそうになった瞬間、「うそっ?」てぶわっと鳥肌がたった瞬間に生じるのだ。この「うそ?」がないと、世の中詰まらん。生きてて詰まらん。だもんで、メニューというのは、多少、非現実的であった方がいいし、非現実的である必要すらあるのだ。
真のモチベーションというのは、突き詰めればその非現実性に源があるのだから。
第二階層の注意点〜「頑張る」「根性」神話
これは「実戦原理」で書こうと思ってたネタですけど、関連するのでここで簡単に書いておきます。第二階層のプランを立てるときには、うって変わってシリアスになります。
「根性」みたいなイリュージョンは最後の最後に取っておいた方がいいです。気楽に「そこは頑張って」とかを持ってくると、まず絶対といっていいけどグチャグチャになる。
旅行しているときに、地図で見て大体の計画を立てるのですけど、全体のスケジュールとかで欲が出てきて無理目のプランになりがちなんですよね。○○まで電車で、○○まではバスでいって、ここから、、、う、交通機関がない、、でも、ま、5キロくらいだし徒歩でなんとか、、とか思ってしまう。で、実際にやってみたら、その頃には疲れ果てて、さらに山中だから5キロといっても平地の倍くらい疲労する。あわや遭難か?という半死半生のヒドイ目に合う。
「根性でカバー」なんてことは、まず出来ないと思っておいた方がいい。
そのあたりは登山家とかセミプロクラスの人達のやり方が参考になります。彼らのトップ階層の目標は「人類最高峰」とかサイコー!を目指す、これができたら死んでもいいくらいの快楽極大値のメニューを作る。しかし、第二階層になると極めて精密にやる。装備にせよ、ルート選定にせよ、絶対に過信はしない。根性なんてイリュージョンは持たない。それを言い過ぎると下山タイミングを失って、雪山遭難する。彼らの場合は、失敗=死ですから、プロになるほど無理はしない。
ワーホリメニューでも、「とりあえず4週間だけ学校行って英語ができるようになって」なんてのは「遭難」パターンです。
中高6年やってきて出来なかったことがわずか1か月で出来るわけがない。でも、そこで英語が出来るようにならないと次に進めないとしたら、ついつい「そこは猛勉強して」「死ぬ気で頑張って」とか考えてしまいがちなんですよね。
それって戦争末期の「竹槍でB29を撃墜する」のと同じです。カミカゼが吹くとかいってるのと同じ。
神風なんか吹かないし、現に吹かなかった。作戦というのは吹かないという前提でクールにたてるものでしょう。そこを強引に都合良くねじ曲げて、無理矢理信じ込むようになったら、それは一種の宗教です。都合がよいように勝手に「根性」とか「頑張る」を持ち出すわけですが、そこで「都合良く」考えていること自体が、自分に甘い証拠、根性がない証拠でしょう。現実を直視する勇気すらないんだから。
本当の意味で「根性」が意味をもつのは、第三階層の現場での事務処理レベルです。最初にシェアの電話をするときの超恐怖感情を乗り越えるとか、レジュメをもってローカルのカフェに突撃する最初の一軒とか、足がガクガク震えるような恐怖を乗り越えるときに、はじめて「根性」とか「頑張る」というのが出てくる。だから、
根性なんか一日3秒、せいぜい3分とか、そんなもんです。ギリギリ現場の急場しのぎ、入れすぎたスーツケースのフタが閉まらなくなったときの「うぉりゃ!」という一瞬の気合のようなものです。瞬発的な効用しかない。第二階層レベルのコンスタントで長期的なものに関しては、根性や頑張りを期待するにしても、「今現在の自分の根性」を冷静に見極めて、その程度だろうとするといいです。
最初はバッパーに泊まって世界中の友達を作って、、とか考えるのも幻想で、日本の地下鉄で外人さんに話しかけられても目を逸らすような自分が、そんなこと出来るの?と。実際には出来ないから、宿の中でひきこもりになり、出来るだけ話しかけられないように、人気のない時を見計らってキッチンにいく、、というハメになる。
根性も気合も大事だし、それがなかったら話にならないけど、それをなすべきときと、計算に入れてはいけない場合があり、その見極めが大事でしょう。
守破離
「守破離(しゅはり)」というのは、僕が柔道部の頃の顧問の先生(七段でおっかなかった)から教わった言葉です。日本古来の修行の手順で、最初は「守る」。まず自分よりも遙かに才能溢れ、はるかに精進を積んだ先人達の作り上げた型を学ぶ。師の教えの通り忠実に身につける。次に「破る」。師の教えや型以外に、他流派を参考にしたり、自分なりに改良してみたりして、もがくようにして研究する。最後に「離れる」というのは、これは教えられた型、これは改良ヴァージョンなどという枠そのものに囚われることなく、自由な発想で究めていくことです。
これは有名な言葉で(もともとは能の世阿弥の花伝書かららしい)、武道界では普通に教えられているでしょうし、ビジネス書や人生の奥義という形でよく紹介されています。
これを当てはめてみれば、ワーホリ定食的な物事を調べるのは、いわば「守」に当るでしょう。それなりに合理性があるからそういう手順になってるわけで、その内容を吟味し、なぜそうするか?を理解する。次に「破」では、それを自分なりにカスタマイズしてみる。一括パックではホームステイをすっ飛ばしていきなりシェア探しというオプションがありますが、これなどは「破」の一形態でしょう。
守・破の過程で、基本・応用を理解し自分の血肉にしたら、いよいよゼロから自分のオリジナルを作るようになります。自分だけのワーホリです。
なお、注意すべきは、守破離の過程を経ても外形的にはイッコも変わらないということもあることです。あれこれ考えて、模索して、最終的に出来上がった形態が、寸分違わず「守」と同じってこともあります。というかその方が多いかもしれない。それはそれで良いのです。結果的に全く同じであったとしても、それは意味が全然違います。なんとなくお仕着せメニューでやらされているのと、「なぜそれをやるのか」が理解できているのとでは、同じ事をやるのでも全然違う。
オリジナルというのは、別に「違って」なければならないということではないです。あなたという存在はどーしよーもなくオリジナルなんだから、
あなたがやれば何でもオリジナルです。ただ、表面上真似ているだけなのか、それともあなたのオリジナルな魂から発しているのかという源流深度の違いです。源流からやっていたら、同じようなことをやっていても、微妙にその人なりのアプローチの違い、視点の違いがでてきます。でも、そこで差異をあげつらっても意味がないです。
要は自分が心から納得できているかどうかです。
外見上の差異など本来的には問題ではない。「差異」にこだわるのは愚かなことだと思います。マーケティングなどの場合は差別化が大事ですが、それは「売るため」です。意味もわからず「イオン効果」を謳う家電製品や、無理やり「斬新な意見」を述べる学者や評論家のようなもので「売れるため」にやる。でもこれはマーティングではない。ウケ狙いのために生きてるわけでもないでしょう?
それと、守破離はどの段階でも存在します。同時存在するといってもいい。これは僕独自の見解かもしれないけど、時系列的に守破離をあてはめて、渡豪準備段階では「守」に徹して、改善もオリジナルも何も考えない、、というのは違うと思う。プランニングではプランニングの守破離があり、学校いってるときは学校行ってるレベルでの守破離があり、シェア生活ではそれなりに、バイトでも、ラウンドでも、どの段階においても守破離は存在します。基本・応用・オリジナルの3つのレベル、3つの視点があるのだということを常に常に考えておかれるといいと思います。
さて、基本的にはここまで。あとは、昔の自分の場合はどうだったかという余談や「まとめ」を次に書いてます。もうしどんかったら読まんでもいいです。
→次(ワーホリ実戦講座(10-4) 余談と結語)に続く