前回は、オーストラリアでは皆が人間臭いという話でした。
他人に優しいのも、仕事がいい加減なのも、「人間というのはもともとそーゆーもの」という原型に近いからであり、人間というのは本来やんちゃな小学生みたいなものだと。そして、日本人だってその原型においては十分に「やんちゃ」で好奇心キラキラ瞳を持ってる筈という話でした(そうでなきゃ、あそこまで一気に文明開化なんか出来ない)。
さて、これで美しくフィニッシュしておけば良さそうなものですが、なにやら業病にとりつかれているかのような僕は、そんな入口だけでは満足できず、止せばいいのにどんどん泥沼の中に入り込んでいくのでした。なんだか移住の話から遠ざかっているようですが、遠ざかってません。キッパリ言っちゃいますけど。遠ざかるどころか、話はむしろ近づいています。遠くからクッキリ見える山も、いざ近くに寄り、登り始めたら、山の姿なんか見えなくなってしまうのと同じ。海外移住といい、人生の選択といい、「何のためにそんなことするの?」と言えば、突き詰めていけば「世界と人間の本当の姿を、よりよく知りたい、感じたいから」でしょう。そして本物に近づけば近づくほど、どんどん気持ちが良くなる。
「何を浮世離れしたこと口走っておるのだ、こいつは」とお思いでしょうが、長年住み慣れた日本環境を離脱した時点で、すでに浮き世から離れてしまってしまうのですよ。もうこれまでの常識という重力は通用しません。足を踏みしめるべき大地もフワフワしてて頼りない。そんな浮世離れした世界に突き進んで行くならば、そこでの羅針盤もまた浮世離れした「そもそも人間とは〜」という大風呂敷だったりするわけです。てか、そのくらい大きな風呂敷を広げないと、日々目の前に展開されている現実を統一的に理解できません。理解できないと、シリーズ3回目に書いたように「日本では○○だったのに」とブチブチ小言いうだけの毎日になってしまう。
海外というでっかい異物を咀嚼するには、それなりに大きな胃袋がいるだろう、そのためには「人間とは」という大原点にまで立ち戻って考えていくことになります。日本の常識が通用しない相手には、人間一般の常識で勝負していくしかないでしょ。海外移住の実際の日々の局面というのは、こういう人間一般の共通理解についてあれこれ考える日々でもあります。一旦山の中に足を踏み入れてしまえばそうなります。
「進んでいる」「遅れている」
さて、人間本来のほのぼの善意がオーストラリアや世界にはまだ残っているということですが、百均のように世界均一になってるわけではありません。そこには色々な温度差があり、地域差、階級差があり、マダラ模様になっています。
一般的にいって「遅れている」ところの方が、本来の人間くささは濃厚に残っているような気がしますし、よく言われます。都会よりは田舎、先進国よりは発展途上国、アメリカよりはオーストラリアという具合に。
話をミクロにして、シドニーに局限したとしても、シティは論外だから置いておくにせよ、イースタンサバーブやノースショアよりも、ウェストの方が人情味は厚い気がします。それは皆さんのシェア探しの手伝いをしていても感じます。英語がまだ不慣れな皆さんがどれだけアポが取れるか=「拙い英語をどれだけ辛抱強く聞いて、好意的に接してくれるか」=ということでも何となく推し量れるのですが、やっぱり西の方が成約率高いです。まあ、西の方がお値段リーズナブルなシェアが多いということもあるのだけど、比率換算してもやっぱり成約率は高いと思います。これには多々要因はあるのですが、進んでいる=高額所得者によってソフィスティケイトされているエリアよりも、遅れている=あんまりソフィスティケイトされていない庶民エリアの方が人間臭い。
これは日本でも同じことで、同じ東京でも山の手よりも、寅さんに出てくる葛飾柴又などの下町の方が人情味が厚いという世間通念がありますし、全国レベルでいえば、東京での生活に疲れた人が沖縄に住んで癒されているとかいう話があったりしますよね。同じことだと思います。
不自然で不愉快なシステム
さて、では、なぜそうなるか?です。
人間本来の善意や美徳をスポイルするような社会が、本当に「進んで」いると言えるのだろうか?というよくある楽しい議論もあるのですが、それはさておき、そのメカニズムです。社会のシステムが進み、技術革新が進み、人々の所得も増え、カロリー摂取量も増え、どんどん天国に近くなっている筈、だからこそ「進んで」いるのですが、そうなるほどに人間本来の体臭が薄れていくという傾向があるとしたら、それは何故か?なんでそうなるのか、そのメカニズムや論理則はなんなのか?あなたはどう思われますか?
ぽっと簡単に思いつくのは、人間の文化・文明・システムというのものが、もともと本来的に不自然なものであり、それが進めば進むほど「自然」から遠ざかっていくのだとという議論です。人間生理に反して作り上げるのがシステムで、それが高度に積み重なっていくほど複雑な社会になり、不自然度は増える。
抽象的に言ってても始まらないから具体例を挙げますが、例えば「システム」です。今の日本で「成功」するにはどうしたらいいかという生々しい話を考えてみましょう。「成功」とは、ここでは「その社会内部において、相対的に所得や購買力が高く、社会的地位や権力が高くなること」だとします。早い話が金持ちになって、権力者になって、皆がペコペコすることを「成功」だという超下世話な話です。平均的な家庭に生まれ育った平均的な青少年がこの「成功」をゲットするために、最も効率的で達成率が高いルートは何か?「映画スターになる」のもテですが、効率性や達成率の点で低すぎます。昔っから言われている方法は、ガリ勉やって東大入って官僚になって上司の娘と見合い結婚して閨閥でまた出世して定年間際に局長、次長クラスまでって後は天下りして、、という「高度なシステム」に乗っかることです。なんだかんだいって一番成功率は高い。
しかし、そのシステムは不自然極まりないです。まず遊びたい盛りの思春期にクソ詰まらない勉強漬けの日々を送る、というだけで不自然ですよね。まともな人間性を持っていたら普通出来ないです。あ、ここでいう「まともな人間性」というのは、聖人君子のようにご立派なことではなく、「つまらないことはやりたくない」という人間本来の感情に正直だということです。もともと多感な思春期、やたら肥大した自我を持て余し、屈折した優越感と劣等感に七転八倒し、徐々に世界が開けていってガビーン!となる音楽や映画に出会い、しかも色気づいてくるという、どうしようもなく面倒臭いこの時期に、重力加速度9.8Gがどうのとか、三平方の定理がどうのとか、イイクニ作ろう鎌倉幕府とかやってるのは、かなり精神的にシンドイ筈です。それをやるだけではなく、全校一位のレベルまでやり、しかも何年もやり続けるのは大変なことです。大変なことをやってるからエラいとも言えますが、不自然なことをやってることに変わりはないです。
とはいっても、ある程度勉強が軌道に乗って、周囲から「あいつは出来る」と言われるようになると、それがアイデンティティになって(調子に乗って)、キャーキャー言われたい一心でさらに励むというのはごく自然な心理であり、それがどんどんエスカレートして、大学内部での競争、国家公務員一種採用試験での席次、省内での出世レースでシノギを削るのも、まあ、自然といっちゃ自然でしょう。なんだか知らないけど目の前に線を引かれると走り出してしまい、横にいる奴に抜かれると凄いくやしいというのは人間心理としてはまっとーなことですから。
しかしながら、日々の仕事の内容はまっとーなものもあれば、あんまりまっとーなではないものもあります。官庁においては省庁間の縄張り争いが激しく、子供のような陣地取り合戦のために、下っ端は斥候に出されたり、陣笠代議士のところに「ご説明を、、」とか行かされたり、かーなり「何やってんだか」みたいな日常が続いたりします。国会が始まれば、答弁のための想定問答集作りに走り、質問予定の野党議員の所に情報収集にパシリにいかされたり、夜明けまでかかって清書させられたりします。そして陰険で熾烈な派閥争い。上層部の思惑で駒のように右へ左へと走らされる。このシステムではエラくならなった奴が勝ちです。エラくならんかったら捨て駒のように使い捨てにされる場合もある。そんなことのために青春を犠牲にして勉強してきたわけではないから、あの手この手で出世を考える。当然のことだと思います。
そして、それが嵩じて、出世のために、殆ど会ったこともないような相手と結婚するというあたりで、もうかなり不自然になってきます。しかし、その時点では不自然とかゴタク並べてる余裕はなく、そうした方がこの組み上がってしまったシステムでは絶対有利なんだからやるっきゃないです。
日本の官僚制はしぶといです。突然変異を繰り返し抗生物質に強い新種になっていくウィルスにように生き延びる術を探しつづけ、そのしぶとさは、政権が変わったくらいでは揺らがない。これが日本のガンだという声は幾らでもあるのですが、中々是正されない。されるわけないですよね。だって子供の頃からの勉強漬けの「怨念」みたいなものが凝り固まっているわけですから、地縛霊並に強烈な磁場が発生しているだろうことは想像に難くないです。
さて、なんでここで地縛霊が出てくるかといえば、この国で「成功」しようとすれば、地縛霊レベルの怨念が生じるくらい、本来の感性に反したことをやり続けないとならないということですし、それは言葉を換えれば不自然なうえにも不自然な行動を積み重ねなければならない、ということでもあります。
淘汰圧の変形としてのシステム
今、僕は日本の官僚制の問題を論じているのではなく、「人間がつくった社会システム」一般の問題を論じています。人間の原始的な感性に忠実に、食べたいときに食べ、寝たいときに寝てるという自然児のような生き方をしていたら、社会的な「成功」は覚束ない。やはりどっから不自然なことを、無理にでもやらないと、そこそこの果実は得られないということです。
上の官僚の例は極端にデフォルメしてますけど、程度の差こそあれ、似たようなことは誰でもやってます。
わざわざ歩きにくいハイヒールを履いて、鬱陶しいストッキングはいて、男だったらクビが締まって不快なネクタイを締めて、それで不愉快極まる満員電車に乗って、隣の人の汗ばんだ肌と肌を密着させて日々通勤しています。なんでそんな不愉快なことをやってるの?といえば、システムにのっかるためにはそれをしないと仕方がないからです。その方がトータルでは幸せになれると思うからだし、実際にもそうだからです。
ちなみに僕は高校時代、東京の下町に住んで下町の学校に通ってましたが、毎朝地下鉄東西線の殺人ラッシュにもまれており、毎朝間近に接する社会人の人々の半分死人のような顔を「将来の自分」として見続けてきました。「システムに乗る」ということの意味を実地教育で見続けてきたわけです。当然恐怖心が湧き、「なんとかしなければ」と思い続け、「そうだ資格を得て自由業をやれば通勤しなくても済むかも」と司法試験を志したわけです。まあ、弁護士になっても通勤しなきゃならないことに変わりはないから、そのあたりがコドモの発想なんですけど、ともかく「このシステムには乗れない」と思い、「もう一つのシステム」に乗ろうとしたということです。でも、ま、システムに乗らなきゃいけないことに変わりはないから、後日になって、このシステムそのものが鬱陶しくなってオーストラリアにやってきたという経緯になります。もっともオーストラリアにもシステムはあるんだけど。
今は日本の例だけですけど、こんなことは世界中どこに行っても、あるいはどの時代であれ、本質的には同じです。
あなたがアフリカのとある部族に男の子として生まれたら、大人として認められるためには槍一本でライオンを倒してこないいけないとか、バンジージャンプやらないといけないとか、そういったシステムに乗らないとならない。中世の農民として生まれたら、年貢を納めないとハリツケにされたり、領主が指名したら愛する娘でも泣く泣く差し出さないとならない。とある部族では生贄に選ばれて殺されたり、祭礼の日になんかヘンテコなことをやらされたりする。そういうシステムがイヤだったら村を離れて一人で森に暮すことになるのだが、そうなると猛獣に襲われたり、他の部族に囚われて奴隷にされたり、食糧が尽きたら餓死するしかない。
なぜそんなケッタイなシステムがあるのか?
なぜ人は嫌々ながらもそんなシステムに従わないとならないのか?
これは簡単です。人間は一人では生きられないからです。まあ孤島の人、ロビンソン・クルーソーみたいにやってやれないことはないのでしょうが、これは非常に大変です。完全自給自足で、果実採取、農業、漁業、防衛(対ケモノや他の部族)をやろうと思ったら、まず飲用に足りるだけの水を確保するだけで力尽きてしまうかもしれません(地域によるけど)。一人で全部やろうと思ったら、かなり原始的な生活をせざるをえず、常に餓死の危機と隣り合わせになり、虫歯になっても盲腸になっても直す術がないからのたうち廻って苦しむしかないし、場合によってはあっさり死ぬ。当然、昔のように平均寿命が20年とかそのくらいの生活になるでしょう。
そういった生活レベルを向上しようと思えば一人では無理で、やはり分業体制なり何なりの工夫が必要で、要するに集団の力がいる。人間が社会的動物といわれるゆえんです。しかし個性の強い人間集団を一つの方向性に動かそうと思えば、ルールも必要だし、ルールを強制するだけの「力」も必要です。それは例えば単純に暴力であったり、迷信深い古代の人々を従わせるための呪術であったりします。逆らったら殺される、と。「システム」の発生です。
つまり、人間がある程度の生活水準を維持して、快適にやっていこうと思ったら、集団や社会の力を借りるしかなく、そこのシステムに乗っからないと話にならないということですね。だから、よほどの例外(戦後30年南洋のジャングルで過ごしていた元日本兵とか)でもない限り、およそ古代よりも生活水準を多少なりとも上げようとしたら、それなりのシステムに乗っからないとならない。これはアウトローとか盗賊でも同じで、そこには表社会以上に強力で暴力的なシステムがありますから。
なんでそんなに強力なシステムが必要かといえば、これはもう人間というのがそのくらい強力にワガママだからでしょう。自由にやらせていたら収集がつかなくなる。収集がつかないと、例えば狩猟や漁業などにおいては、チームワークの乱れになり、端的にその猟が失敗するリスクをはらみ、ひいては部族全員の餓死を招く。それじゃ何のために集団を形成したのか意味がなくなる。集団を作っている意味を最大限に追求しようと思えば、構成員の自由を徹底的に制限して、ルールに従わせるしかない。強い軍隊を作ろうと思えば、強烈なファシズムの下、命令一つで喜んで死んでいく兵士を作った方がいい。つまりは死をも恐れぬくらいの洗脳を施す。システムが最強になるとそういう状態になるでしょう。
21世紀の現代は、そこまで極端なシステム主義ではなく、個々人の自由と社会のシステムとの両立をできるだけ図ろうとします。
そこでいろいろなレシピー割合、例えば個人の自由60%にシステム40%にするか、3対7でシステム優先にするか、そういったバリエーションが模索されます。しかし、いずれにせよ何らかのシステムに乗らないとならないわけで、一般的にいえば、システムに乗っかる度合いが高ければ高いほど、その社会に順応し、より多くの「成功」をゲットすることが出来ます。例えば、会社に入って仕事をするにしても、個人の生活を大事にして残業は一切しないという選択もあるけど、全人生を会社に捧げて仕事一筋でやっていった方が仕事の量も質も高くなるから、組織内で重用され、出世し、給料も高くなる。
ところで、自然界には常に「淘汰圧」というものがかかっているといいます。適者生存の原則で、環境に適応できない個体や種族は滅んでいく、残酷な自然の「システム」です。人間一人で苦労して暮してもいけど、そこで生き延びるのは頑健な心身と、知能に恵まれた個体だけです。弱い奴から死んでいく。これが自然淘汰の圧力です。で、あまりにも環境がハードだから、集団を作って少しでも生存を楽にしようとしますが、それでも自然の法則は重力のように、エネルギー保存の法則のように、常にのしかかってきます。荒々しい自然環境という形ではなく、今度はその集団のシステムに順応できるか、そのシステム内部で生き延びていけるかという形に変形されます。集団に順応できない個体は、差別され、いじめられ、弾き出され、そして滅びる。
これは人間社会だけではなく、猿やオットセイ、アリやハチなど集団社会を形成する動物や昆虫世界でも同様です。若い新ボスに負けた旧ボスは石もて追われるように集団から追放され、オス同志の闘いに敗れたオットセイはハーレムをつくれず、女王蜂とのSEXを終えた雄ハチは用済みということで無情にも巣から追放されるといいます。人間が集団を形成し、社会のシステムを築くこと、それ自体が自然のイトナミといってもいいでしょう。そして、残酷な自然のオキテは、決して手を緩めてはくれません。まあ、生きていくってことは、それ自体が修行というか、大変なんだってことですね。この現実世界に存在したかったら、それなりの税金を神様(自然)に払えってことなのでしょう。
ともあれ人間社会のシステムが自然界の淘汰圧の変形だとすれば、ネクタイやストッキング、政略結婚などのシステムが本質的に不愉快なものであるのは当然すぎるほど当然でしょう。そのストレスに耐えきれない個体を排除し、優秀な個体のDNAだけ選別していくのが自然の意思だとしたら、気持ち良くて身体にいいことやってたら淘汰になりません。強烈な寒波が襲えば、一握りの強靱な個体だけを残して他の個体は凍死する。かくして寒さに強い遺伝子だけが子孫に受け継がれ、適者生存と進化が行われる。「淘汰」という科学的な言葉でいうからピンと来ないのですが、ありていに言えば、淘汰とは、血も涙もなく弱者を抹殺することです。たとえそれがシステムという形に変形されようとも、その殺人的な本質は変わらない。だとすれば、システムというのは本来的に毒性が弱められ、それだけでは致死量に達していない毒薬みたいなもので、それが不快に感じられるのもまた当然です。
システムの整備された「進んでいる」エリアとシステムストレス
さて、ここで話は戻って、「進んでる」社会ですが、進んでいるのはシステムが高度に組まれている社会であり、生産力にせよ、治安にせよ、生活水準にせよ、いずれも高くなっている社会です。
しかし、システムを高度にすれば、当然人間本来のワガママを抑圧される率は高くなり、淘汰圧も強くなるから、ストレスも高くなる。だから人間本来ののびやかさも失われる。
シドニーでも高額所得者の多い東や北エリアは、その種の進んだシステムに適応している人達が多いから、やっぱり日々のストレスが高いのでしょう。ウチのストリートでも弁護士やってる人がいて、年に一回のストリートパーティーでお話しするのですが、「ああ、キミも弁護士だったよね。だったら、わかるだろう?あの世界だよ。はああ」とオージーにしては珍しく疲れた表情を見せてました。大変そうだな、と。こっちのエリートは、日本のエリートとは比較にならないくらいメチャクチャ仕事しますからね。給料もいいけど、1日20時間働くみたいなクレイジーな状況にあるし。
そうなってくると、やはりストレスのためにのびやかさや温かさがスポイルされ、仕事中や、疲れ切って帰宅した後に、英語がヘタクソな奴の電話なんかまどろっこしくて聞いてられないのかもしれません。その意味でさきほど「シティは論外」と書いたわけですし、同じサバーブ郊外でも、より都会度の高いエリアは、なんというかほのぼのオーラが少ないですね。ノースではChatswoodなんかそうだけど、2キロしか離れていないLane Coveの商店街を歩いているときに感じるコミュニティ感覚(なんとなく「皆仲間」ってオーラ)がなく、相対的にギスギスしてるから居るだけで疲れてしまう。早く帰りたくなる。語学学校でもマンリーの学校に行った人は、シティなんか行きたくないっていうし、行ったらいったで「早くマンリーに帰りたい」とか思うといいます。わかるわ。
日本の「進んでいる」システム
さて、移住の話だったので、日本とオーストラリアの比較で言えば、これは日本の方が遙かに高度にシステムが組まれていますよね。
合理的なシステムはオーストラリアの方が多いけど(例えば賃貸借の敷金を家主ではなく公的機関が管理するとか、消費者救済システムとか)、システムの質はともなく、その複雑さは日本の方が遙かに高いです。もう天地の差くらいあるかもしれない。
これは過去のエッセイで何度も紹介していますが、日本の法制度そのものは意外とオーストラリアとそれほど差はないです。これも過去回で集中的に紹介しましたが、労働法にせよ、自転車の規制にせよ、法律の内容そのものは実はそれほど日本とは違わない。じゃあ、現実の労働環境が全然違うのは何故かといえば、日本の方が労働法を守ってないからです。システムはあるけど日本は守らない。だったら日本の方がのびやかで人間性豊かな社会じゃないかと思いきや、日本には法律や制度以外により強力な「日本というシステム」があります。これも「コード(”ドレスコード”のように非公式のルール)」ということで、過去回で論じましたけど(
ESSAY 134/ 日本帰省記 (その3))、「日本人だったら当然そうするもの」というキマリゴトが多い。どこの民族にもヘンテコな文化やワケの分らんコードは多いのですが、日本は単一民族・文化に近いので、その純度が高く、よって内容も濃密になる。法律や契約によって強制されるのではなく、「周囲の人達」によって強制される。「言えるような雰囲気じゃない」といいますが、「雰囲気の力」ですね。でもって、「空気を読む」ことが当然の礼節技術とされ、空気の読めない奴はシステムから弾き出され、村八分になる。集団内部の淘汰圧がキツいのですね。
日本の暗黙のコード、システムはとびきり強力で、仕事もしないで昼間からビール飲んでると、もうそれだけで人生終ってるような気分にさせてくれます。オーストラリアだったら、「いや〜、サイコー!」っていう楽しい行為が、なぜか日本でやると最低に落ち込む。「仕事をしてない人間は人間にアラズ」というコードがあるからです。こういったインフォーマル(非公式)なキマリゴトの力は、日本人を勤勉な労働者にしたてあげ(なんせ仕事してなかったら人間扱いされないんだから)、しかも仕事においては盲目的な献身を求め、労働法上の諸権利の行使を押しとどめさせるのですから、社会の生産性という意味では最強になります。奇跡の経済復興も無理のないところです。
そういう意味では日本は非常に「進んで」います。
日本から見たら、(特に仕事面で)万事いい加減なオーストラリアは、いかにも「遅れている」社会でしょう。しかし、その「遅れている」部分、システム整備をしてない部分が、のびやかな人間性を残存させており、前回までに述べた人間的な温かい部分やナチュラルさを感じさせてくれるということになるのでしょう。
ちなみに日本の場合、生産第一主義で労働法もまるっぽ無視するような職場環境ですから、 こういうシステムにおいて「成功=最小の努力で最大の果実」しようと思ったら、「エラくなる!」というシンプルで骨太の戦略が出てきます。なんせ、下にいたら給料以上にコキ使われ、人間性は日々疎外されていくわけですが、そういう部下達をもった上司は楽です。逆にオーストラリアのように仕事はいい加減だわ、権利意識は強いわという部下を持った上司は大変です。発狂しそうなくらい大変じゃないかな。部下の尻ぬぐいのために毎日残業残業だろうし。大事な時期に部下がラマダン(イスラム教の絶食の風習)で欠勤するなんてことまで考えなくてはならない。電卓の使い方を知らないとか、パーセントの概念を知らないとか、入社初日ですでに行方不明になってしまうとかそんな話も聞きますから、そういった部下達を抱えたオーストラリアの上司の苦悩はさぞかし深いことでしょう。もっとも、その代わりペイも抜群にいいですけど。
日本の場合、下が優秀だから、上は比較的楽です。「なんとかしたまえ」「頑張れ」ってハッパかけてればいいんだからさ。それでも中間管理職は板挟みの苦悩に打ちひしがれるわけで、やっぱりもっと上に行かねばならない。上にいけば行くほど楽になり、仕事に対する報酬割合は上がります。つまり、日本の場合、上にいかないとモトが取れないゲームシステムになっており、下のままだと苦労だけして一生報われないことになります。勿論、かなり極端な言い方してますけど。で、そういうゲームだということになれば、やる以上は全力でシステムに没入し、上に行くべし!ですよ。途中で止めたら損益分岐点以前で終るから大損だしね。それを本能的に嗅ぎ取った人達が、ニートになったりするのも、ある意味では動物的嗅覚と言えなくもない。ともあれ、一旦会社ゲームをやり始めた以上は、ゴールに上がらないとならない。だから、上司の娘だろうがなんだろうが結婚してまで上を目指すという行動様式になるのでしょう。
しかし、まあ、よくある議論ですけど、そーゆーシステムって「進んで」るの?という疑問はあります。人々をより豊かに幸せにするために集団を組んでるわけで、あらゆるシステムの最終目的は人々の幸福でしょう。なのに、システムのためのシステムみたいに、システムが一人歩きを始めていくと、人々は幸福を犠牲にしてまでシステムを維持しようという滑稽な本末転倒が生じる。それは「進んで」いないんじゃないかという。ま、こんな議論は過去に数百万回色々な人が言ってるでしょうから、これ以上は書きません。
アンチテーゼ
「そうか「遅れている」システムの方が人間性が豊かなんだ、妙に進んでない方がいいんだ」って思ったりするのですが、必ずしもそうとも言い切れないところがトリッキーなところです。
何を言ってるかというと、経済的に豊かな社会ほど、ひねくれずにおっとりしているという真逆のベクトルもあるということです。いわゆる「育ちがいい」というやつです。
山の手や富裕階級には、気だてもよく、善良でセコセコしておらず、困ってる人をみたら「まあ、大変!」と甲斐甲斐しくお世話をしたりする人達がいます。同じエリア、同じ階級にいたとしても、「なんちゃって金持ち」やカッコつけるために金持ちやってるようなツンケン人種もいるし、経済的富裕さがその人の本来の悪性格を助長する(バカ殿、ドラ息子系)もあるので、一概には言えません。もちろん。しかし、経済的に豊かであるが故に、その人が本来持っている精神的な美点や豊かさを損なせないという点もまた否定できません。一方、貧困地帯にいるがゆえに、「貧しさに負けた」「貧すれば鈍する」的に、食っていくためには何でもやらないとならない、セコく立ち回らないと生きていけないということで、その人が本来もっている美点を失わしめる場合もあります。
さきほどの例でいえば「遅れて」いるエリア、例えば発展途上国などにおいては、観光客はカモ以外の何者でもなく、ぼったくってナンボという世界が展開され、その被害に遭った日本人をはじめ自称「先進国」の観光客は、「これだから後進国はイヤなのよ」「こんなことやってるからこいつらは遅れているんだ」とブーブー言ったりします。貧困であること、生存がハードであるがゆえに激しい生存競争が行われ、人々は否応なく、こすっからく、ひねくれ、隙あらば人を蹴落とそうしていく、、ということも、大いにあるでしょう。
これだけ見ていたら、やっぱり進んでいる地域の方が人間的に優しく、遅れているエリアの方がダメだという、真逆な結論にもなりそうです。これまでさんざん書いておいて、ドンデン返しを食わせるようで悪いのですけど、まったく正反対なことも言えるのです。
ジンテーゼ
そうなってくるとですね、ことは単に進んでる/遅れてる、経済的に富裕である/貧困であるという問題ではないのではないか?と思えてきます。「お金に汚い」「他人に優しくない」という連中は、金持ちにも、庶民階層にも等しくいます。逆に、優しい人達も、春の太陽のようなおっとりした富裕層の優しさと、素朴な人情味という庶民層の優しさとで微妙にタイプは違うけど、でも等しく存在します。
じゃあ何なの?といえば、久しぶりに高校の倫社で習った(僕の時代は)懐かしい弁証法を使ってみましょう。たしか、正→反→合のパターンでしたよね。@テーゼ(システムが進化すると人間性はむしろ失われる)、Aアンチテーゼ(システムが進化した方が人間のこすっ辛さを抑えるのでむしろ人間性は高まる)という@とAを止揚(アウフヘーベン)して第三の命題・ジンテーゼを引き出すということでした。真っ向から矛盾する二つの命題を同時に満たす、ワンランク上の命題を導き出すってやつです。
僕なりに解を出すと、B生きていくことにアップアップしてるかどうか、ではないかと思います。
まず、食糧や生活物資が絶対的に不足しているときは、これをめぐって人々は相争うようになり、皆の精神は殺伐とします。「衣食足りて礼節を知る」ってやつですね。貧困や生活苦のために、人間精神の豊かさがスポイルされるということです。これをシステムとしていえば、システムが十分に作られていないから(外貨獲得などベーシックな経済力や金融物流機構、福祉システムの未整備)、人々は修羅の世界でのたうち廻るという。これがAを表わしています。しかし、そのために高度なシステムを作り上げると、前段で述べたようにシステムそれ自体が不愉快なものであるから、物材的には恵まれていても、今度はシステムに精神が侵食されてしまい、またギスギスした人間関係になってしまう。これが@です。
@Aの共通点は、いずれも生きていくためのハードルが高すぎることです。Aは物質的な面、@はシステム的な面です。Aの食糧不足なんかは分りやすいですけど、@のシステムは、例えば今月ピンチのときでも結婚式に呼ばれたら、なけなしのピン札を揃えて熨斗袋に包み、朝から美容院にいって髪を整えなければならないという冠婚葬祭であったり、あとで職場でイヤな思いをしたくないので、セクハラされまくりの社員旅行でもイヤイヤ参加せざるを得ないという、システム維持ストレスです。ボロボロになるまで職場で心身すり減らし、たまの休みは儀礼だの親族関係で費やされ、夜中に洗濯機を廻すと苦情をくらい、出張前にゴミを出しておくと回収日以外はダメと言われて仕方なく冷凍庫でゴミを凍らせる、、なんて日々の生活です。その精神的飢餓感でいえば、「イモが食いたい」とかやってる生活とそんなに変わらないのではないかと。
こんな具合に@でもAでもアップアップしてると、本来優しい人であっても、優しくなってる余裕がない。人間性がスポイルされちゃう。なぜか?アップアップしてるからであり、生きていくための要求水準が高すぎる社会では、人々の心はスサんでいくということです。なお、物質的に豊かで、システム的に汲々としなくても良いだけの立場に恵まれながら、それでも精神の貧しい人が居ますが、それは「そーゆー人」ということで、そーゆー出来損ないの人間は、どの時代どの階層にも一定割合生ずるのだということで、定性ノイズみたいなものですから、この際無視します。花咲爺さんやこぶとり爺さんの隣に住んでる強欲爺さんや、湖で「金の斧!」とか言ってる木こりは神様のバチが当って地獄にでも行ってください。ここでは、本来優しい人なのに、環境がそうさせないという部分に着目してます。
しかし、要求水準といっても、Aの物質的な面はともかく、@の面に関して言えば、単に自分でそう思いこんでいるだけ、という主観的なものだったりするケースが往々にしてあるように思います。皆が持ってるブランドもののバッグを持ってないと「恥ずかしい」という要求水準も、本当にそんなことで恥ずかしいのか、恥ずべきことなのか?という疑問もあります。子供に最高の教育をといって私立へのお受験をさせるのは良いとしても、その学費捻出や教育方針をめぐって夫婦間がギスギスし、結果として離婚するようなことになったら、子供に対して最低の家庭教育を施してることになりゃせんかという点もあります。Aのシステム維持というのは、かなり主観的な思いこみが左右するのではないか。別にそんなに要らないじゃんってのもあります。そこで無理して追いかけることをしなければ、ほっと落ち着いて、豊かな人生が蘇ってくる、、、これは、仕事仕事で追いまくられたビジネスマンが大病を患って長期入院してから何事かを悟るような場合によくあります。これを昔の人は「足るを知る」という警句で言ってますよね。「足りない」と思うからギスギスする。いくら食べてもまだひもじい、いくら食らっても尚も飢えているという状況を仏教では「餓鬼道」といいますが、「あれもこれも」と欲しがる心理はまさに餓鬼道に堕ちてるからだとも言えます。
ともあれシステムが過剰に発達してしまうのも困りものです。何が何でも職場はスーツとネクタイ、女性はハイヒールとストッキングとか、誰が決めたんだ?みたいルールがありますが、仕事に支障がない限り、不愉快だったらしなきゃ良いという考え方もあるでしょう。いい意味でシステムのダウングレードを図ることです。もっとも、それで全てが良くなるかどうかは慎重に考えるべきで、「ゆとり教育」の轍を踏む可能性もありますけど。
さて、長くなったのでシメますが、ことオーストラリアに関していえば、@とAのバランスが日本よりも良い、少なくとも選択の余地が多くて風通しが良いということは言えると思います。@の物質面で言えば、最近でこそ大分豊富になりましたけど、その昔はウォークマンタイプの携帯カセットを買おうと思ったら3機種しか売ってなかったというくらい(日本で買うと軽く50機種くらいあった)乏しいし、ビジネスリソースにおいても日本人からしたら「真面目に仕事をしない」という頭を抱えたくなるような欠点があるのですが、その代わりAのシステム要求は日本ほど強くないです。一言でいえば、良い感じで「いい加減」なんですよね。 どんなカッコして通勤してもいいし。遅刻されることはしょっちゅうだけど、その代わり自分が遅刻してもそんなにうるさく言われないという。システム的にキチキチしてない。シャツの一番上のボタンは常時外していられるような雰囲気があり、それが人々の心にゆとりと潤いを回復させるという。
人間が生きていく上においてシステムは必要なものだし、すごく重宝するけど、システムが一人歩きしてのさばり始めたらマズイということですね。だから、常に、そのシステムは意味があるかどうかチェックし、どーでもいいシステムだったらさっさと撤廃するような決断力が必要なのでしょう。ただし、言うは易しで、実際にやるとなったら難しいです。日本人の末端まで神経を使い、100%完璧にしなければ気が済まないという妙な体質からして、ついつい過剰になってしまう傾向があります。これがシステム過剰を招く。だから、緩めればいいのだけど、この緩め方が難しい。ああ、こんなこと書いてたらまだ長くなるからこのくらいにしておきます。
整理すれば、人が生きていくためには一定のシステムは必要、しかしシステムは本来的に淘汰圧の変形なので、不愉快な存在であり、システムが過剰に発達すると多大なストレスを招く。だからそのあたりのバランスが難しいよね、ということです。
こと海外移住でいえば、日本とオーストラリア(あるいはどっかの外国)では、このシステムバランスのレシピーがそれぞれに違うから、そのあたりに着目して、自分でチューニングしていくといいですよ、ということです。あまりにもキーが外れて歌いにくいチューニングだったら、自分にあったキーの国がいいと思います。これって結構大事なことだと思います。
文責:田村