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今週の1枚(10.03.29)





Essay 456 : 「海外」という選択(その5)

「自然が豊か」ということの意味
 〜オーストラリアにきて「いいなあ」と思うこと





 写真は、Cremorne(クレモーン)。不動産探しのインスペクションで撮ったもの。場所はココ
 ここで都心から大体3〜4キロくらい。写真左、遠くに見えるのが、最近新興著しいChatswoodのビル&マンション群。今やNorth Sydneyを抜いて、North Shore(シドニー北部)第一の街になりましたね。しかし、そんなビル系エリアは非常に限られた一角に過ぎないことがよく分かると思います。真ん中あたりに屋根の連なる一角がCammeray(キャムレイ)。実は見えないのだけど、すぐ近くまで入り江が切れ込んでいて、マリーナになってます。



 コンスタントに続いているこのシリーズですが、これは書いてて楽ですね〜。世界史シリーズのように必死に調べなくてもいいし。あのシリーズは「エッセイ」というよりも、夏休みの宿題レポートに近くて、毎回泣きながら書いてます。そろそろあちらも続きも書かねばならんのだが。ただ、もうちょっと形になるまでこの海外シリーズを続けさせてください。


 前回の最後に、あなたの海外移住が成功するかどうかは、理屈云々よりも、生理的な快感があるかどうかが大きいと書きましたが、今回はそこをもう少し敷衍して書きます。

主観的な好き嫌い

 オーストラリアに移住して良かったかどうかと聞かれれば、「良かった」と答えます。良いからこそ住み続けているので当然なのですが、その度合い、どのくらい良かったか?といえば、かなり圧倒的に良かったです。移住組の中でも、こんなにハマってる奴は珍しいのかもしれませんが、相性はとても合うような気がします。

 ここで、そんなこと言っても、たまには「あのまま日本にいた方が良かったかな」とか「やっぱり日本に帰ろうかな」とか思ったりしないか?というツッコミも出てくるのですけど、うーん、そういう感情も多分ゼロではないんでしょうけど、でも1%もないんじゃないかなあ。仮に今、何かの理由で日本に帰らなくてはならなくなったとしたら、かなり「え〜〜!?」って感じですね。鬱になりそう。今日本に帰るくらいなら死んだ方がマシくらいに思うかもしれない。まあ、実際にそうなってみないと分からないですし、多分そうなれば、自分の性格からして、意地でもその状況になんらかのプラスポイントを見つけようとはするでしょう。でも、自発的に帰ろうとはまず思わないです。今のところは。

 ただし、これは僕個人の主観的な好き嫌いや相性の問題であって、客観的な良し悪しではないです。日本にも良いところは沢山あるし、誰でも言うけど、それは海外に出た方がよく分かる。しかし、これは通信簿をつけているのではなく、あくまで主観。良し悪しと好き嫌いはある程度パラレルになるけど一致はしない。「出来の悪い子の方が可愛い」とか言うように、主観とはエコヒイキの世界です。

 では、オーストラリアの何がそんなに「好き」なのか?
 これまで、この種の個人的な好き嫌いの話は比較的避けようとしていました。そんなもの書いて意味あんのか?と。赤の他人の「私はこれが好き」なんて話を延々読まされても面白くないだろうと。でも、そうすると何となく書いてる文章の湿度が下がって、パサパサになっていくような気がして、そこまで抑制しなくてもいいかなという気にもなりました。ということで、今回は主観的な好き嫌いを意識的に書きます。

「自然が豊か」なオーストラリア

 僕にとってのオーストラリアの何が好きかと言えば、@人間的要素、A自然的要素の双方が心地よいからです。つまりは全部なんだけど。

 話が簡単なA自然的要素の方を先に書きます。
 オーストラリアは自然が豊かです。

 でも、オーストラリアに限らず、地球はもともと自然が豊富です。というより地球=自然そのものなので、とりたてて「豊富」とかいう問題ではない筈です。でも、僕らはそう考えてしまう。もうその時点で何かがおかしい。あって当たり前のものを「豊か」とかいってありがたがること自体が不自然なのだ。

人間が開発だのなんだの余計なことをして、人工物を作りまくらなかったら、自然はもともとそこにあります。自分らの作った人工物に取り囲まれるという不自然極まる環境にいるから、あって当然の自然に触れて感動しているだけなんでしょう。ずっと地下牢に閉じこめられている囚人が、たまに外に出ると太陽の光をありがたがるように。「空が青い」とかいうクソ当たり前のことを、今さらながら感動するという。

 ヒマラヤ山麓に住んでいる部族、アマゾン川の上流に住んでいる部族、、、そこまで極端ではなくても、日本でも都会を離れた深山の村に生まれ育てば、いちいち「自然が豊富」とか思わないでしょう。それが本来の姿なのでしょう。

 いきなり妙なことを口走っていますが、そういう気分にさせてくれるくらいオーストラリアは自然が豊かです。ここでいう「豊か」というのは、何となく自然に満ちあふれているということではなく、「人工物で埋め尽くされていない」という意味であり、一歩進んで「埋め尽くさないようにセーブしている」という意思の力であり、ひいてはそれを実現している政治的システムに帰着します。開発規制にせよ、美観風致にせよ、開発すること、便利にすることのデメリットを日本よりもよく知ってて、かなり意識的にブレーキをかけている。やたらめったら開発しない。幹線道路がどんなに大渋滞していても、抜け道を潰す。わざわざ行き止まりを作ったり、交通規制をしてまで裏道の存在を許さない。そして、住宅街の閑静さを守る。


 今この瞬間、僕は夜明け前に書いています。未明から空が白みはじめる時間帯で、僕の住んでいるLane Coveという森の中の住宅街では、ほぼ無音。全く何の音も聞こえません。平日は近くの高速道路の音が遠くに聞こえるのだけど(矛盾してるようだけど、斜面と樹木で音が吸収される)、日曜の朝だとほんとに無音。それがあるときを境に鳥が鳴き始めます。鳥の声しか聞こえない。ときどきクッカブラ(ワライカワセミ)のけたたましい笑い声が響きますが、歌うようにリズムを付けて長々としたリフレインを刻む鳥の声がメインです。朝風が庭の木々を通り抜けます。僕はこの時間帯が好きで、よく起きているのですが、とても気持ちがいいです。

 →右に、実際にその情景をデジカメの動画機能を使って撮ってみました。音もしょぼくて、ノイズも多いのですが、まあ、雰囲気ってことで。


 そして思うのは、多分百万年前からこうだったんだろうなってことです。僕が思う自然というのは、人間という小賢しい存在がまだのさばっていなかった頃の地球、何万年何億年という単位でどっしり存在している太古の自然であり、それを感じられるかどうかです。「地球があり、大地があり、そして自分がいる」というシンプル極まりない真実、「ほんとうのこと」を思い出させてくれるかどうかです。単なる街路樹、整理された公園、部屋の観葉植物は、僕のいう「自然」ではない。そんなものが幾らあっても自然があるとは思えない。太古レベルの自然でないと、本当の解毒作用、浄化作用みたいなものが期待できない。

 そして、そんな太古の自然が、都心から直線距離でわずか7キロ程度の僕の自宅、東京駅からたかだか渋谷程度の距離にあります。ウチよりももっと都心に近くてもこの種の場所はふんだんに存在し、言うならば東京駅から築地くらいまで歩けばもうド自然という感じ。これがオーストラリアの中で最も人口密集地域であり、その人工度と不自然さから「オーストラリアじゃない」とすら嘲笑されているシドニー中心地での話です。言うまでもなく離れれば離れるほどこの自然度は高まります。犬猫のペットレベルから野性の虎や象レベルになっていきますから、そこまで獰猛な自然になっちゃうと、とてもじゃないけどヒヨワな僕の手に負えなくなります。

 日本にもこういう自然はあります。あるどころか、もともと国土の大部分が居住不可能な山間部である日本、過疎化が深刻な問題として叫ばれている現代日本では、自然があるどころから自然だらけといってもいいです。ただし、問題は、そこに住めるか、そこで生計が立てられるかということです。適度に住めること、すなわち就職機会や最低限の利便性を兼ね備えつつ、どれだけ開発を押しとどめて「手つかずの自然」を残すかでしょう。オーストラリアの「自然が豊か」というのはそういうことです。

人工から自然への嗜好変化

 こういった太古自然をどの程度評価するかという個々人の価値観によって激しく違います。そんなものに一文の値打ちも感じない人もいるでしょうし、全てを投げ打ってでも欲しがる人もいるでしょう。僕の場合はかなり後者。東京生まれの東京育ちで、京都、大阪、1年ちょいだけど岐阜にも住みつつ、それでも基本的に都会っ子である僕の、世間知らずの都会人ならではの自然幻想なんだとは思います。最初から自然に満ちあふれた環境に暮せば、都会に憧れてもいたでしょう。でも、僕はそうじゃない。30年以上日本の都会で暮してたら、その都会毒の浄化分解=自然幻想が醒めるのに30年はかかると思ってます。

 都会毒Detoxが完了していない段階では、やはり自然というのはスゴイです。単純に美しい風景とか自然というのは、なんとなく思っている以上にパワフルです。よくラウンド行ってきたワーホリさんが、単に海がキレイなだけなんけど、それを「思いっきりブン殴られるくらい」「人生観が変わるくらい」と表現する気持ちはわかります。本当に、ただ単に木が生えてたり、海があるだけなんですけどね。それが人間精神に対して強烈な影響力を持っている。

 それにこれは嗜好の変化もあるでしょう。一般に子供から20代の頃までは、人工的でチャカチャカしたものが好きです。まだ世間知らずですから。見慣れぬ人間社会のディープな諸相に興味を持つ。それはヘンテコなサブカル世界であったり、普通でない状況であったり、人工物がもつエッジの効いた刺激を面白く感じ、海とか山などのなだらかさを退屈に思う。僕もまさにそうで、小学校の頃から漫画やら小説やらロックやらにどっぷり浸かり、社会に出れば弁護士という仕事柄、日本社会のいろいろな断片を、タテヨコナナメに見る機会がありました。それは倒産現場を仕切るヤクザの風景であり、殺人事件であり、離婚事件であり、教育問題であり、差別問題であり、公害であり、医療過誤であり、金融ビジネスであり、宗教団体であり、広告業界であり、、、、。仕事では飽きたらず、自分が中核メンバーになり活発に異業種交流をやり、およそ殆どの業界の人とディープな話をしたと思う。人間社会が珍しいから。

 でも、それってだんだん飽きてくるのですね。30歳過ぎてから、「もういいか」みたいな気分になってました。「わかった」といっては傲慢な言い草だし、おそらくはまだ何も分かってはいないのでしょうが、自然と昔ほどの興味を持てなくなってくる。年を取ると味覚が変わるといいますが、変わるのは味覚だけではなく、全てが変わるのでしょう。それは別に「年を取る」ことによって変化をするのではなく、「同一内容の刺激も一定限度を超えると感銘力が薄くなる」という、ごく普通の人間の生理なのでしょう。ともあれ、だんだんと人工的なものがお子様仕様に感じられ、場合によっては馬鹿馬鹿しくなる。ドリンクでも、甘ったるいジュースなんか飲めるか、シングルモルトの30年モノがどーのとかいう感じです。日本のバブル時代を体験した身としては、金を糸目をつけないゴージャス空間も存分に堪能しました。しかし、ゴージャス感や贅沢度を上げていくと、あるところを境に逆にドンドン削ぎ落とされ、スカスカになっていくのですね。自然回帰というか、日本の本物の金持ちが古くからの日本家屋に住み、ヨーロッパの貴族が中世みたいな森と古城に住んでいるのも、なるほどそういうことかと思えてくる。

 そうなってくると、おしなべて人工的なモノの多くが、なんというか、これも傲慢な言い草なんですけど、レベル的に耐えられないというか、ジャンクに見えてくるというか、本当に素晴らしいものなんか一握りしかないなって感じになります。ロックを聴き始めの中坊の頃はラウドで過激だったらそれで良しみたいなアバウトな基準だったのが、何十年も聞いてれば誰でも耳が肥えてくる。そうなると、「ただのパクリ」「よくあるパターン」でバッサバッサ切り捨てるようになる。さらにそれが嵩じると、ちょっと前に書いたように、音楽そのものがうざったくなる。特にこちらにきてから、未明の無音と鳥の声にやられてしまうと、それを越える音だけが存在を許されるというか、CDやiPOD的な音がもう嘘臭くて耐えられなくなる。音楽で許せるのは、完全無音・完全静寂を破っても良いだけのレベル、だからごく限られたライブだけみたいになっていく。どんどんクソ贅沢なことを抜かすようになるわけです。

 ただし、周囲のノイズがひどいときや、ヒマで仕方の無いとき、つまり車を運転するときは、ガンガンに音楽かけてます。あくまで比較の問題ですから。臭いがひどいときはトイレ芳香剤も必要。しかし、最初から自然の花が咲き乱れているときに、トイレ芳香剤を撒く人はいないでしょう。それだけのことです。ということで、家では滅多に音楽を聴かない。あ、ただし、周囲無音に近いだけに、家で聴きだしたらメチャクチャ集中できるので、とめどもなくその音楽にのめりこんでしまい、気がついたら5時間くらいぶっとーしで聴いてしまったりもします。本気でスゴイ音楽に向かい合ったら、魂持ってかれちゃいます。だから音楽は好きなんだけど、芳香剤的な利用の仕方をする必要が極端に減ったということでしょう。

 ともあれ、人工的なモノが珍しく、凝り倒す時期が過ぎると、その趣味も洗練(?)されるのか、やはりごく限られた上級機種にだけ興味は向います。料理でもなんでもそうですが、芸術レベルの日本料理の粋を尽していくと、「最高の技巧は無技巧」というか、できるだけいじくらないで自然本来の味を引き出す方向になり、しまいには海に船を浮かべて釣りたてをそのまま刺身したのが最高に美味いという話になっていくでしょう。絵画だって、音楽だって、自然(人間存在も含む)の何かにガビーンとなって、それをいかに忠実に再現するかというのがモチーフになるわけで、出発点からして模倣なんだから、オリジナルに勝てるわけがない。いかに自然に存在しないものを作るかというモチーフもあるけど、大抵の作品はあんまり感銘力ないですよね。自然界に絶対存在しないとなると、合成プラスチックとかがそうだけど、どうしてもその種の質感になってしまってググッとこない。


自然の効用

 なんでそんなに自然がいいの?どうして極めていくと自然に行き着くの?というと、それは分かる。人間という存在そのものが、つまり自分自身が、自然の一部だから。ひらたく言えば僕やあなたはロボットではないから。数十億年前の太古の海のコアセルベートから、なにかの偶然で分子間結合が起き、生命反応が生じ、アメーバーから単細胞生物に、という進化の果てに自分がいるから。素材はぜーんぶ地球産の自然原子。100%オーガニックな自然の結晶が自分だから。まあ、薬害公害その他でだいぶ汚染されたとはいえ、オリジナルはそれ。自分の存在そのものが自然なんだから、自分の組成成分や組成論理が似通っているものに共鳴するのは当然の話でしょう。どんなに強がりを言おうが、理屈をこねくり回そうが、腹が減るときは腹が減る。自然現象ってそういうものです。もう圧倒的だよ。勝てないよ。

 だからその種の自然、開発抑制をして残してくれている「豊かな」自然が身近に、っていうか1ミリも動かなくて自分のベッドから感じられるというのは、これはかなり贅沢なことだと思ってます。

 ここで無茶苦茶な例をあげれば、日本で年収1000万円の生活とシドニーでホームレスやってるのとどっちがいいかといわれたら、後者でしょう。だってさ、日本で幾ら金稼いでも、金稼ぐことそれ自体は快感よりも不快感が高いことは僕もあなたも知っている。だからお金を稼いだら、その不快感を消して、気持よく浄化させなきゃいけない。でないと自家中毒起こして死んじゃうか、人格変わっちゃうよ。つまり遊んだり、旅行行ったり、お金を使う。使いたいから稼ぐんだし。で、どうやって遣うの?といえば、人工チャカチャカが好きな若い頃はチャカチャカやってりゃいいけど、そういうモノには満足できなくなると、結局は自然系かそのレベルのモノになる。でも日本でそれを得ようと思うと、死ぬほど高いです。いくらデフレJAPANでも年収1000万ぽっちでそれが得られるとは思いがたいのですね。だったら、自然の豊かなシドニーでホームレスしてる方が、絶対幸福度、快感の総合量では勝ると思うもん。まあ、こっちにホームレスなんかあんまりいないし(シェルターが多いし)、やったところで日本みたいに公園で寝てるところをクソガキ連中に襲われたりって心配もないし。

 まあ、これは極端な例えだけど、言わんとする意味は分かると思います。既に懸命な読者諸氏には釈迦に説法だとは思うけど(そんなこと言えばこのエッセイそのものが存在価値を失うわけだけど)、お金というのは稼ぐよりも使う方が本当は何倍も難しいです。下らない使い方は簡単にできちゃうけど、本当に上手に使うのは難しい。それに、100万稼ぐためにイヤな思いをし、理不尽な目にあい、良心を押し殺し、魂が汚れ、人格がひん曲がってしまったとしてですね、それを矯正しモトに戻すために100万円以上かかるんだったら、その労働行為は赤字だってことになります。働かない方がトータルでは良いということになり、ニートやってる人の気分も満更分からんでもない。ニートといえば、彼らを無理に働かせなくてもいいとは思いますし、そうしたかったらお説教をするよりは、皆が働いてて楽しくて仕方がないようになればいいんでしょうね。働いてると、楽しくて楽しくてもう顔が笑っちゃう!って人達ばっかりだったら、彼らも「なんだか面白そうなことやってるな」って思うでしょう。北風と太陽、天の岩戸のアメノウズメノミコトみたいな。だって、僕もあなたも、子供の頃、親や先生にさんざん勉強しろって説教食らってたでしょう。でもやらなかったでしょう?やってました?もうガンとしてやらなかったような記憶があるぞ。

 話が逸れましたが、「オーストラリアは自然が豊富」という話でした。

 この点に関しては、オーストラリアは本当に素晴らしいと思います。別にオーストラリアが地球のどの地域よりも素晴らしい等とアロガント(傲慢)なことは言いません。オーストラリア以上に素晴らしいところは山ほどあるとは思います。が、オーストラリアも結構いいセンいってます。

 もし、上に書いたこと(自然による浄化作用)の価値観を、半分以上共有できる方には、オーストラリア移住をオススメします。もう、うだうだ言ってないで「とっとと来んしゃい」って感じ(笑)。生計がどうとか、就職がどうとか、そんなことは後で考えたらよろし。まずは解毒しなさい。風呂に入ってサッパリしなさい、話はそれからだ、みたいな感じ。

 それに浄化解毒が進んでくると、だんだんモトに戻りますから、腹が据わってくると思いますよ。「金なら無い!それがどうした?」みたいな。極端な言い方なのは分かってますし、そうは言いつつもお金にはいつも悩んでますけど、日本にいるときみたいな、頭を両手で抱えて、「ああああああ」みたいな感じは薄くなります。まあ、あなたがそうなるかどうかは保証の限りではないけど、僕はそうだったし、その種の類例は多いです。最悪、破産して、無一文になってもいいやと(いや良くはないけど、全然)。

 なぜかというと、自分を救ってくれる、気持よくしてくれる自然がふんだんにあり、無料で常にゲットできるからです。もちろん社会保障の厚さ(かけてなくても失業保険や基礎年金が支給されるとか、ある程度の年収以下だったら健康保険料も無料になるとか)いうのもあるけど、絶えず絶えず自然に癒されているから、マイナス感情が積み重なっていかないのでしょう。ズンズン奈落の底に落ちるのではなく、強烈な陽射し、エメラルド色の海、大きな白い野性のオウム、きれいな夕焼けなんかを常に触れていくと、落ち込むそばから救われる(後でも述べるけど、自然と同じくらいの強烈さで人によっても救われます)。

 シドニーだったら結構周辺にいかないとダメだけど、それでもテリーヒルズという日本人学校に昔いったら、普通に野性の孔雀がポコポコ歩いていて、校庭にはカンガルーがタムロしてました。パース近郊の住宅街を車で走ってたら、カンガルーの親子がピョンピョン横切っていきました。ちょっと田舎になったら、牛さん達が道を渡り終えるまでぼけーっと車の中で待ってないとなりません。なんかこういうのに出くわすと、癒されるのを通り越して笑っちゃいますよね。だから、シドニーに来ても、間違ってもシティなんかに住んじゃダメだよって思います。自然が豊かな分、オーストラリアの都会度は貧しいし。

 別に孔雀やカンガルーがいなくてもいいから、普通に住宅街を歩いていたり、普通に公園で寝転がってたり、海辺に行ったりしてるだけで気持ちいいです。単に家の中にいるだけでも気持ちいいです。この「普通にしていて気持ちいい」というのは、これはいずれ独立して書くべきことだと思うくらい重要ポイントです。だって、自然状態で気持ち良かったら、お金使わないもん。芳香剤的に音楽聴かなくなるのと同じように、芳香剤的なお金の使い方をしなくなる。物欲も自然になくなるし、何かを買わねばならない必要性も低下します。この精神的、経済的効用は強調してもし過ぎることはないと思います。

オススメスポット

 さて、普通のこの種の話をすると、シティにはハイドパークやボタニックガーデンがあるとか、ボンダイビーチの美しさとかが常連で登場するのですが、それはそれで正しいです。ですが、同じようなことを書いてもしょうがないので、もっと身近な、普通に住んでて普通に感じられる、嘘くさくない自然の威力、その効能効果みたいなものを書いてみました。

 なお、オーストラリア移住を考えている方、あるいはぜーんぜん考えてないけど、今度シドニーに旅行に行く予定のある人には、以下の行程がオススメです。と、多少はもっともらしい情報を書いてみる。


フェリーに乗ってWatsons Bayまでいき、「通勤風景」を堪能する

 普通マンリーだったり、タロンガズーだったりしますが、それはそれでイイですよ。
 このルートをオススメするのは、マンリー行き等と違って各駅停車だからです(フェリーでも各停っていうのかな)。ダブルベイとかローズベイとか途中に住宅地至近の小さな波止場に停まるので、このフェリーが基本的には通勤用の存在であり、海と生活の身近な感じが分かると思います。また、Watsons Bayまでいってしまえば、観光名所のSouth Headという断崖絶壁・絶景スポットだから、観光にもナイスです。


 GoogleViewでリンクしたのは、ワトソンズベイのフェリー乗り場。遠くにシティの摩天楼が見えます。

 フェリー本家のページです。片道20分程度、料金5.88ドル程度ですから(2017年11月現在。日曜はいくら何を乗っても2.6ドル)、お財布も時間もそんなに痛みません。


Queens Park  予定調和を超越したムダ感覚を堪能する

 ここはボンダイ・ジャンクションの直南にある公園です。ジャンクションから歩いていけます。
 何にもない、だだっ広い芝生のグランドがあるだけです。なんでオススメかというと、ハイドパークやボタニックガーデンもいいんだけど、いかにも整備された公園って感じで、まあキレイなんだけど日本人の感覚ではまだ予定調和の範囲内にあります。しかし、クィーンズパークは住宅地のド真ん中にある公園で、この広さがハンパではない。もう笑っちゃうくらいデカい。



 Googel Mapのリンク場所です。

 サッカーコートが何面取れるのかな、頑張れば10面くらい取れるんじゃないかな。と思って、ちょっと調べてみました。今グーグルマップの面積ツールで適当に計ったら256998.2 sqmでした。一方サッカーコートの広さはW杯基準で105m×68m=7140平米らしく、これを単純に割ったら、35.994、、げ、サッカーコート36個分?!まあこれは、純粋にピッチの広さだけなので、周囲に適当な余白は必要でしょうから、仮に倍必要だとしても、18個分。大体の広さがお分かりになったと思います。

 そして、そのすぐ隣には広大なセンテニアルパークが控えています。面積220ヘクタール、2.2平方キロで、日本の皇居の大きさが1.42平方キロだそうだから、その大きさがわかるでしょう。クィーンズパークの約8.5倍ほど大きいです。しかし、センテニアルパークを紹介せず(ここも良いですけど)、クィーンズパークを紹介するのは、センテニアルパークが幾ら広大でも、日本の皇居と同じように予定調和だと思うのですよ。そういうエリアがあっても良いし、あるだけの理由もあると。

 しかし、そんな広大なセンテニアルパークがありながらも、わざわざその隣に尚もこんな公園を作ってしまう。しかも、周囲は高級住宅地。その名もQueens Parkというボンダイジャンクションとこの公園の間にあるサバーブの不動産価格、一軒家のMedian Price=中間値(平均値ではなく最も物件数が多い価格帯)は軽く1億円以上。正確には1.5ミリオンだから1億2000万円くらい?マンションで6000万円くらい。それが標準価格帯。詳しくはココ参照。そんな高級住宅地に、ムダの上塗りみたいな広大な公園を作って、且つこの公園を潰して住宅地にしようという話はついぞ聞きません。

 さっきから僕は何を言いたいかというと、この土地の無駄遣い感です。東京にも広大な緑はあります。明治神宮、代々木公園、青山墓地、、でも、いずれも何らかの理由があってそうなってる所が多い。名所旧跡とかオリンピック会場になったとか。でも、クィーンズパークは、市民がスポーツをするためだけ、それも単にだだっ広い芝生があるだけです。別にここじゃなくてもいいんだけど、でも、ある。このスカスカ感覚、ムダ感覚が、僕には好ましいのですね。これが予定調和からポーンと外れているユエンであり、「見るといいよ」とオススメしているユエンです。

 そして、この種のムダ空間的な公園は、実はシドニーの至るところにあります。上のGoogle Mapのリンクを開いて、右上のXボタンをクリックし地図に戻し、ズームアウトしていかれたら分かると思いますが(SateliteからMapに切り替えるともっとよく分かる)、クィーンズパークほどではないにせよ、緑の部分がやたら多いです。





文責:田村

「海外」という選択 過去回INDEX

ESSAY 452/「海外」という選択(1) 〜これまで日本に暮していたベタな日本人がいきなり海外移住なんかしちゃっていいの?
ESSAY 453/「海外」という選択(2) 〜日本離脱の理由、海外永住の理由
ESSAY 454/「海外」という選択(3) 〜「日本人」をやめて、「あなた」に戻れ
ESSAY 455/「海外」という選択(4) 〜参考文献/勇み足の早トチリ
ESSAY 456/「海外」という選択(5) 〜「自然が豊か」ということの本当の意味





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