オーストラリアの良さについて、前回は「行きずりの赤の他人がやさしい」という、人と人との原始的な無償の厚意について触れました。
それが人間本来の普遍的な感情であり、人間というのは元来そういう風に出来ているのだとすれば、こういった話は別にオーストラリアに局限されるべくもなく、古今東西、人間社会のどこにいっても同じような状況になっている筈です。まずはそのあたりから書いていきます。
旅の宿
日本昔話や、世界の昔話には、旅人が見知らぬ里の見知らぬ家に一夜の宿を乞うシーンが頻繁に出てきます。ちょっと前に書いた「蟲師」でも、山の一軒家の戸をトントンと叩き、「旅の者だが、この雪に難儀しています。納屋の隅でも泊めていただけたらありがたいのですが、、、」という場面がよく出てきます。よくある光景ですよね。
でもよく考えてみると、そんなことって本当に「よくある」ことだったのだろうか?
昔は今よりもはるかに警察力や弱く、また治安が悪く、電話もないから110番通報も出来ない。山賊や野盗、野武士などというよからぬ人種が徘徊していたのですから、見知らぬ人間を家に招き入れるような真似は自殺行為に近いとも言えます。それで押し込み強盗を働かれて一家惨殺なんてことも珍しくもないでしょう。逆に泊る方も大変です。安達ヶ原の鬼婆の話も、一夜の宿を求めた旅人が殺されてしまう話です。そう思えば泊める方も、泊めてもらう方もかなり命がけのことをしているわけです。勿論常に泊めてもらえたわけでもなく、邪険に断られたり、石もて追われることだってあったでしょう。にも関わらず、この種のシーンは洋の東西を問わずよく出てきます。ということは、やっぱりこういうシーンというのは普通にあったのでしょう。現代の日本の感覚では、およそありえないようなことを昔の人々はわりと普通にやっていたことになります。
交通機関といえば徒歩か馬、ラクダくらいしかもなかった頃、地図もろくすっぽなかった昔から、人類は東へ西へ旅を続けています。シルクロードでは、はるかギリシャ文化のふくらみのある円柱(エンタシス)が日本の東大寺まで伝わってますし、キリストの死後は弟子達が荒野を放浪しています。ジプシーはいるし、ボヘミアンはいるし、日本でも白拍子はいるし、旅芸人の一座がいたり、旅の行商人がいたり、尺八吹いてる虚無僧がいたり、「もし、旅のお方」なんて呼びかけられたりしています。宗教系の人達は宗門によるネットワークで宿があったでしょうし、商業宿というシステムも徐々に整備されてはいきます。しかし、全体からすればそんなものは一部であって、多くの場合は山野に寝泊まりし、また一夜の宿を乞うたでしょう。「一宿一飯の恩義」なんて言葉が残ってるくらいですからね。
「昔は牧歌的だったんだ」で片付けてしまうのは簡単ですが、それは半分正しく半分嘘でしょう。上に述べたように、昔の方が治安が悪かったケースも多々あるからです。ヨーロッパでも中国でも城塞都市があり、都市そのものが高い壁で囲われているということは、それだけ他から侵略を受ける危険が大きかったということです。とても「牧歌的」なんて言葉で片付けられるような世界ではありません。でも、本当に一人で山野を往けば絶対に殺されるというのであれば、誰もそんなことしなかったでしょうし、そもそも「旅」という概念そのものが人類に定着していないでしょう。だから「街道」などという存在もなかったでしょう。あるのは強力な軍事集団の進軍のみとなっていても不思議ではない。しかし、人類発祥の昔からは人々は連綿として旅をしています。「故郷」「故国」なんて言葉も、遠く離れた所にいるからこそ出てくる概念でしょう。ということは、やれば必ず死ぬというものでもなかったのでしょうし、十分に実行可能な事柄だったのでしょう。その意味では牧歌的といえます。
そして、これは昔話でもありません。モンゴルでは草原の一軒家に見知らぬ旅人が訪れると一家を挙げて歓待しまくるそうです、それがかの平原の騎馬民族の末裔の伝統らしいです。そこまでエスニックにならなくても、今でも普通に世界各地でヒッチハイクは行われています。危ないっちゃあんな危ないことはないです。オーストラリアでは一応禁止されていますが、皆さん普通にやってますよね。かつてバックパッカー連続殺人事件というのがオーストラリアにあって今でも語りぐさになってますが、しかし1992年という今から20年近く前のことが未だに語りぐさになってるということは、いかにそれがレアかということです。交通事故のように普通にあったら話題にすらならんでしょう。ちなみに、これは
Backpacker Murdersといって、犯人とされるIvan Milatはオーストラリア犯罪史上で一躍有名になりました。この事件をもとにしてWolf Creekというホラー映画まで出来ています。もう一つちなみに、オーストラリアでヒッチハイクが禁止されているのは、正確に言えばQLD州とVIC州+全国の幹線自動車道(moterway)の話であり、その理由は道路交通法上のことです。つまり路上にチラチラ出てこられたら交通の邪魔でもあり危険だからということです。ヒッチハイクの最大のリスクは実は交通事故らしいです。
「まっとー」さ=リスクと厚情
こうしてつらつら考えると、二つのことに気づきます。
@.「知らない人の家に泊る/泊める」というくらい赤の他人との交流濃度が高かった
A.かなりリスキーなことでもやっていた
ということです。
@の点ですが、このような旅のイトナミが普遍的に行われるということは、それを裏打ちするだけの赤の他人同士の無償の厚意というものがふんだんに存在していたということでもあります。そうでなきゃやらないって。そしてまた、@とAは表裏一体の関係にあるのでしょう。他者の厚情をある程度期待できる社会では、「渡る世間に鬼はなし」的な世界観になりますから、僕らから見てリスキーなことでも、実際にはそれほどリスキーに感じられていなかったのでしょうし、また客観的にもそれほど危険なことでもなかったのでしょう。
だとしたら、こんなことは夕食のテーブルでニュースになるようなことでもないし、僕がここで紙幅を費やして書き連ねるようなことでもない。どの国に行っても同じようなことはあるでしょう。そういえばインドネシアの津波被害で無一文になった日本人旅行者がいて、彼を助けてくれたのは同じように被害にあった、言葉もろくに通じないインドネシアの漁民達だったそうです。やれゴハンをくれたり、乾いた衣類をくれたり。この種の助け合いや思いやりは、世界の何処にでもある。
人間というのは普通にしてたら、普通にそうなるということでしょう。逆に言えば普通にしてなかったら、そうならないということでもあります。非常に敵対的な環境に置かれ続けたら、人は誰しも他者に対しても攻撃的になるでしょう。ちょっとでも油断をしたら足をすくわれる社会にいたら、人の好意に対しても裏を考えるようになって当然。それはその人が善意とか悪意とかいう問題ではなく、単に環境に適応しているだけの話です。
そして、この種の「見知らぬ他人とのほのぼのとした交歓」というのは、勿論日本にだってあります。人間本来の普遍的なことなんだから、日本にだって無ければならない。それは例えば「日本にだって酸素はある」というようなクソ当たり前のレベルでの話です。だから日本にもある、、、筈なんだけど、おっかしーな、どこいっちゃったのかな?って現状もまたある。まあ、実際のところはリアルタイムに日本にいないのでよう分らんのだけど、でも17年前の時点ですら、こっちにきて「わあ!」と僕が思ったくらいなんだから、やっぱりどこかしら違うのでしょう。そして、この間、日本における人の温かさが上昇していったかというと、どっちかというと冷却していってるような話をよく聞きます。うむむ。
これ、何なんでしょうね。日本には酸素がないんか?普通にしていられないような環境になってるのか?みたいな話ですよね。
今、僕は、人間というのは普通&自然にしていると気持ち良いよという話をしています。周囲が普通&自然だと、こっちも普通に自然になるから気持ちがいい。オージーというのは、いい加減なところは破滅的にいい加減で、特に店員さんとか自信ありげに嘘を断言するのだけど(本人も嘘だと思ってないのだが)、こういう人間の根っこの部分はあんまりいい加減ではない。むしろ「ちゃんと」してる。日本人も世界的にみればかなり「ちゃんとしてる」民族なのだけど、そのちゃんとしている部分がかなり違いますよね。
まあ、だからといって、今のオーストラリアで、「トントン、、、今宵一晩の宿を、、、」みたいなイトナミが普通に行われているかといえば、行われてないですよ。でも、それに近いことはある。例えば、僕がお世話している留学生さんやワーホリさんがシェア探しやラウンドをするにあたって、トントン宿に類する体験をすることがあります。例えば、すごくよいシェアに恵まれた(って自分で根性で探し当てるのだけど)場合、一旦シドニーを離れてまた帰ってきたときも喜んで泊めてくれたりもします。お代は無料。もう好意だけで一週間も二週間も泊めてくれる。あるいはラウンドを終えシドニーに帰ってきたとある女性が、バスで横に乗り合わせたオージーの女性と話をして、着いたばかりでこれから宿を探すと言ったら、「じゃ、ウチに泊れば?」と軽く招かれて泊めてくれたり。はたまたラウンド先で知り合った老夫婦にディナーに招かれ、さんざん飲み食いした後、「もう遅いから泊っていきなさい」と一泊。翌朝、「これから釣にいかないかい?」と誘われ、また晩ゴハンをご馳走になり、引き留められ二泊目、、それを続けて2週間。さすがに申し訳なくなってせめて宿代くらい払います、払わせてくださいと言ったんだけど頑として受け取ってくれない。これに類するような話はよく聞きます。だからトントン宿まんまの事態はないかもしれないけど、それに近いことは結構普通にあります。
もちろん全ての人がそうだというわけでもないし、中にはこすっからいのもいるし、冷淡な人もいる。でもそんなのは当たり前であって、ポイントは、ありえなさそうな話が意外と普通にあるということです。人類のトントン宿的な伝統が今もわりと息づいている。そういうところは、オーストラリアは「ちゃんと」してるし、普通に自然です。
オーストラリアに来ると見知らぬ人が温かいと前回書きましたけど、それを一歩進めていうと、人間的に「まっとー」だということでしょう。こちらに着いたばかりの頃、町をぶらぶら歩きながら、行き交う人々を見ていたとき、最初に感じた印象もそれで、「なんかまっとーな人が多いな」と。何が「まっとー」とかというと、およそ人間だったらこういう場合こういう反応をするだろうという一般原則みたいなものがあるとしたら、わりとその原則が当てはまるということです。困ってる人がいたら助けたくなったり、自分のことは自分で決めたり、納得いかないことがあったらちゃんと戦う。見て見ぬふりはあんまりしないし、自分で決めきれずに他人の後ばかり追いかけたりもしないし、戦うべきときに戦わずあとで愚痴ばっかり言うということもしない。「まっとー」というのはそういうことです。「温かい」とか、厚情とか、トントン宿とかいうのも、そういったまっとーさの一環として出てくることだと思います。同時に、マイナス面としては、面倒臭い仕事はついついサボるという点でも、まっとー(?)です。つまり、何かつけて人間らしいというか、人間臭いんですね。
日本における冒険心と保守性
さて、@他者の厚情とAリスクを冒すことは表裏一体であり、突き詰めていけば人間が本来もっているナチュラルでまっとーな状態から派生してくるのだという話ですが、その点をもう少し書かせてください。
まず、Aのリスクについてですが、どうも人類というのは本来かなりリスクを冒す生き物であり、その度合は、今の日本人のリスク感覚からは信じられないくらいのレベルだったという話をしました。そこで思うのは、日本社会の場合、こういったリスク管理能力というか、リスクを冒す能力(精神)というのは年々衰弱していってるのではないかと。
例えば、今の若いお母さんでも常に子供が目の届く範囲にいるようにするのを好むといいます。僕らの頃みたいに、「行ってきまーす!」でダッシュで家を飛び出して、暗くなってから泥だらけ、時々血だらけになって帰宅するという情景は少なくなったとも伝え聞きます。「20世紀少年」に出てくる、近くの原っぱで子供達だけの秘密の基地を作るなんて、今はもうやってないんじゃなかろか?公園でもどこでも子供を目の届く範囲に置き、しまいには子供も外に出ないで家でゲームばっかりやってるという。そういえば僕らの頃は、子供の誘拐殺人事件がよくあって(ヨシノブちゃん事件とか)、よく「知らないオジサンについていったらいけません」とか言われてましたが(随行禁止)、今はそれが”進化”して「知らない人とは話をしてはいけません(接触禁止)」になってるのではないか。
悲惨な事件が報道される度に、「この世にはコワイ人が沢山いる」という世界観のリスク値が上がる。「渡る世間に鬼はなし」が「鬼だらけ」にアップデートされる。見知らぬ他者との厚情も信じられなくなる。したがって@が低下すればAも低下していく。かくして恐怖と不安にかられ、全てをコントロール下におこうとする。そうすれば確かに安心ではあるのでしょうが、その代わり失うものもあります。それは未知の状況に置かれつつ、そのリスクを正確に推し量る本能的な皮膚感覚であり、そしてなによりも冒険心や好奇心の衰退です。
冒険というのは、リスクというのは冒すこと自体に意味があるのではなく、リスクを上回る価値(好奇心や射幸心)に意味があるわけですよね。人間が本来的に持っている飽きなき好奇心。これがあるから、行けば難破&溺死の可能性がメチャクチャ高いにもかかわらず、遣隋使や遣唐使は大陸を目指したわけですし、「狭い日本にゃ住み飽きた」とうそぶいて満州に渡っていったわけですし、西欧人は大航海時代に世界中に出て行った。かつて田舎の少年少女が上野駅に一人ぼっちで立っていたのは何故かといえば、リスク以上の価値に魅せられていたからでしょう。
思うに、全体としてこの冒険心が強い民族は栄えます。リスクを屁とも思わずガンガン未知の領域に進んでいく連中が相対的に多いからこそ、多くのビジネスチャンスをつかみ、あるいは画期的な発見や発明にも至る。もちろん成功するのはごく一握りで、多くは路傍に骸を晒すような無惨な最後を遂げるかもしれないけど、それでもやる。やり続ける。後から後から陸続としてチャレンジャーが続くから、いずれは誰かが成功する。成功してルートが出来るからまたどんどん後に続くという。民族的な人海戦術です。インド(印僑)がまさにそうですよね。今やアメリカの名だたる企業のほとんどの取締役会にはインド系の重役が一人はいるといいます。個人としてどんどん切り込んでいって成功し、後進にノウハウを教えていくという。
過去のエッセイで何度か書いているように僕は日本の将来はバラ色だと思ってますが、それは日本というプロパティ(立地価値、システムの良さ、識字率の高さ、インフラの良さなど)を考えれば、どう考えても成功しないわけがないからです。半分氷漬けになってるようなフィンランドや、半島の先っぽだけのシンガポールがあれだけ成功できるのだから、日本が出来ない道理はない。これだけちゃらんぽらんに仕事をしているオーストラリアでさえ、今では日本よりもはるかに金持ちになってるだもんね。ただし、今の日本人にこの日本プロパティを仕切る能力があるかというと、正直言って疑問なしとしません。もう日本人全員に30年ほどちょっと外に出ててもらって、その間にイキのいい外人部隊に日本を仕切らせた方がずっと上手くいくような気すらします。何が足りないかというと、冒険心です。リスク管理能力というか、リスクを気にしない能力というか、見る前に飛ぶ精神傾向です。もっと下世話に言えば、「一発当てたろ」という射幸心、功名心、野心です。
人が行動する/生きていく原理的なモチベーションには二つのベクトルがあると思います。一つは背後から押される場合です。不安と恐怖にかられ、何とか最悪の事態に至らないように防衛的に行動する方向です。もう一つは前から引っ張られる場合です。この先に面白そうなことがあるから行ってみたいということで、引っ張られるように前へ前へと進んでいく方向です。どちらか一つということはなく、それぞれがミックスされているのでしょうが、前者が強いと気分も退嬰的になり、ひきこもりがちになります。ひきもこりの人の心象世界においては、さぞかし世界が鬼だらけに見えていることでしょう。うかつに外に出ていったらあっという間に爪で引き裂かれ血だらけになる。だから出たくても出れない。しかし、こういう傾向が強くなってしまうと、冒険心などは出てこないし、それが社会の総和として積算されれば、イノベーションもベンチャーも相対的に乏しくなっていき、その集団は衰退の一途を辿る。
オーストラリアを見ててつくづく思うのは、なんであんなにいい加減に仕事してるのにこんなに景気がいいんだろう?なんで日本人はあんなに一生懸命に仕事をしてるのに景気が悪いのだろう?ということです。正義に反するじゃないですか。なぜか?
おそらくは頑張る方向が違うのでしょう。
人間、守りに回ったら終わりだといいます。守るのは攻めるよりもずっと難しい。企業寿命30年説がありますが、時代の進展についていけず、組織の新陳代謝が追いつかなくなり衰弱し、やがては獰猛な新興勢力に食われてしまう。自然界のオキテみたいなもんです。従前の体制を守りつつ、新陳代謝を図っていくというのはかなり難しいです。個々の現場では数十年来の親友を敢えて切り捨てるような人情に反するようなことをしないと、残酷なまでの時代の変化についていけない。ついつい慣れ親しんだことばかりやろうとする。
「死守」という言葉がありますけど、「死んでも構わん」くらいの気合で守るのは人間精神のあり方としては難しいと思います。出来れば波風たてず現状維持を望む人間にそこまで決死の覚悟が出来るとは思いにくい。「平穏でいたい」「死んでも構わん」というのは人間の心理として矛盾しますからね。
でも、本当に大切なものを守るためには、常に変わり続け、チャレンジし続けなければならず、それこそが真の保守というものでしょう。だけど、それは非常に難しい。そして、難しいことをやってたら、いつかはやりきれなくなって破綻するということです。難しいことというのは瞬発的には出来るけど、持続的には出来ない。
片や攻める方は楽です。もともと失うものなど何もない連中が、ダメもとで攻めてくるわけですからね。現状維持・平穏無事軍団と、駄目モト軍団が衝突すれば、最初は圧倒的な地の利(既得権益システム)で守る側が有利でしょうけど、そんなこと未来永劫続かない。だから保守的に頑張ってても限界があるし、効率が悪いということでしょう。
今の日本は、既得権益システムが有利な序盤戦から中盤戦にさしかかったくらいでしょう。その昔は新興勢力であったリクルートを叩き落とし、佐川急便やMKを潰そうとしてましたが倒産までには追いやってません。しかし、段々やり方がエグく、ハードになってきて、ホリエモンや村上ファンドはぶっ潰され、佐藤優氏のように官界の異端は起訴される。それも検察が権力の走狗のようになってやっている。戦後GHQによる内務省解体、財閥解体が無くて、ソニーやトヨタが旧財閥にぶっ潰されていたら今の日本は無かったでしょうが、今は多くの新興勢力の力を削いでしまった。さすがに去年政権交代が起きたけど、また既得権益集団がインフルエンザウィルスのように音もなく侵襲し、取り込もうとしているというのが2010年の日本の状況でしょう。また高齢化してるから保守勢力の方が数でも経済力でも勝るから新陳代謝が進まない。JALの企業年金なんか未だに守ろうとしてるもんね。
でも、これって良くないですよね。若い人からみたら「何をやってもしょせん駄目」という悪しき実例を延々上映されているようなものですから。冒険心やチャレンジ魂に水をかけ続けてはや数十年。衰退したって不思議じゃないです。だから未だに公務員が「安定しているから」ということで就職人気になるという。かつての全共闘においても、リアルタイムの世界各地の学生運動でもそうですが、20代前半というのは、世間の大人どもが馬鹿に見えて見えてしょうがないという、本来メチャクチャ傲慢で生意気で、鼻柱の強さでは人生の絶頂期といってもいいです。それが安定第一の選択をするということは、いかにその社会で守りがメインテーマになってるか、モチベーションでいえば@の恐怖と不安によって人生が動いているか、です。
ちなみに、僕は公務員なんか止めておいた方がいいとは思いますけど。「俺が日本を変える!」という野望を持って公務員になるならそれは大歓迎ですが、安定という戦略からすれば賢いとは思いにくいです。なぜなら、火の車どころか炎上崩壊している国家財政で、公務員が今後何十年も安泰なわけはないです。鹿児島かどっかで公務員の給料が高すぎることを訴えた若い市長が当選し(阿久根市の竹原市長)、議会から弾き出され、しかしまた市民の支持によって再選されているように、国民の公務員の見る目は年々厳しくなっています。公務員の職と給与の保証もあと10年くらいは持つかもしれんけど、その先どうなるかは全く見えない。いつかは「背に腹は替えられん」とかいって大胆な公務員リストラが行われるかもしれないし、その頃はIMFとか国際機関の強権によってなされているかもしれない。そうなったら、40代くらいの経済的にも肉体的にも一番シンドイ時期に路頭に迷いそうじゃん。個人的な経験では公務員の人達は良い人が多いですし、仕事もけっこう真面目にやってますよ。窓口で平気で嘘ばっかり言うオーストラリアの役人に比べたら遙かにマシだし、日本の民間でも質の悪いのはいくらでもある。なのにこれから先叩かれ続けの人生を送るとしたら、貧乏くじとしか言いようがないのではないかと。それを百も承知で、そして「それでも日本は変わらない」に一票入れるならば、なってもいいですけど。
努力の方向性の話でしたが、元来が難しい守りの方向に幾ら頑張っても効率が悪いよということです。数年後に倒産する会社にむけて、必死に就活をするその努力は、それがいかにハードで真摯なものであったとしても、トータルでは殆ど無駄になるのと同じように、努力も頑張りも自ずと方向性というものがあるでしょうってことです。不安だけが原動力だったら、いきおい守りを主軸とした難しい展開になるから、遅かれ早かれ破綻すると。
で、なんでこんな話をしてるかといえば、人間が本来持っている冒険心がだいぶスポイルされてるなって話であり、なんで冒険心がスポイルされるかと言えば、総じて保守的になってるからだということです。さらに、なんでそんなに守りに廻るの?というと、これはニワトリ卵なのですが、人間本来の感覚、ナチュラルな好奇心や人と人との交歓など、リスクを冒しても良いだけの価値がこの世界にはあるということ、その方が楽しいということを忘れているからでしょう。
人間のナチュラルな状況というのは、今の日本の感覚からすれば、もうちょいメチャクチャで、もうちょい冒険好きで、もう少し人間好きなんだと思います。もうちょっと世界というものに親近感を感じ、もうちょっと世界が好きで、もうちょっと世界と人生を舐めている。
カミさんがヨガ教室だったか、どっかで知り合ったオーストラリア人の女性は、数ヶ月後にアジアに行き、2年くらいかけてアジアの奥地を廻って写真を撮りため出版するんだと嬉しそうに語ってたそうです。20台後半か30台くらいですが、で、資金はあるのかというと無い、中国語とか出来るのかというと出来ない、出版社に話は通してあるのかというと全然、という。そんなんで行っちゃうんだから暴挙なんだけど、そんなことをヘラヘラやってる。「人生舐めてんのか」と言いたくなるくらいです。似たような話は山ほどあって、エリート銀行員をやってたのが「飽きた」というだけで転職し、イタリア料理のシェフになり、さらに40代になって「俺は今日からカメラマンになる」とかいって、機材はこれから買うという。
そんなんで人生が成り立っちゃうところがスゴイところなんだけど、その代わり毎日数百件という単位で営業売り込みに足を運ぶそうです。それも悲惨になってなくて、鼻歌まじりに知らないオフィスに突撃していく。もうパワーの絶対量が凄いのですね。戦車みたいに、キャタピラがあるから道なんか無くても構わんって感じ。のんびりしてるオージーなんだけど、やるときはやる。大体、高校や大学を卒業したら、一人ぼっちで世界一周旅行にでるのがわりと普通だし、バースデーパーティには自宅に100人くるとか300人来たとかそんな育ち方をしてきた連中ですから、やるにしてもその感覚が違う。
日本人的な感覚ではちょっとついて行けないんだけど、でも、「豊かになる」ということはそういうことなのではなかろうか?豊かになればなるほど、背中の不安と恐怖が薄らぎ、好奇心本意で動いていく。そしてココが大事なんだけど、彼らが攻めるときのエネルギーと努力の量というのは途方もないものがあります。僕がお世話してる教え子さん達には、職探しは100件単位、履歴書100枚単位で配りまくれと言ってますが、無茶苦茶な精神主義をいってるのではなく、そのくらいやらないと、あいつらのパワーに太刀打ちできないからです。土台、大航海時代で知らない大海原を押し渡り、難破したり、原住民に惨殺された人も数え切れないくらいいるのに、それでも次々に行き続ける。オーストラリアだって、当時の感覚でいえば船で1年とか2年、ヘタすれば死亡率50%とかいってたんだから、今で言えば火星に行くくらいの根性が必要だったんだけど、そんなところに国を作ってしまうんだから、考えてみたら凄い奴らです。
ということで、仕事をキチンとやるという意味では日本の方が勝ってるけど、見知らぬ他人に好意的=リスクをあまり恐れず冒険心が豊か=人間本来のナチュラルな状態に近いという意味ではオーストラリアの方がまっとーだと思います。どっちが好きかは個々人の好みの問題だけど、僕は後者の方を高く評価します。「評価」なんて理性的な判断ではなく、「あ、いいな」と感覚的生理的に感じるということです。そこにいるだけで元気が出るということでもあります。なんせ移民の国ですから、ある意味では国民全員が冒険野郎であり、冒険野郎の末裔ですからね。冒険してなんぼの国です。
でもね、日本ももともとそうだったんですよね。リスクを恐れぬ無鉄砲さにせよ、大風呂敷広げる構想力にせよ、見知らぬものを恐がるのではなく面白がる好奇心にせよ、日本人というのは西欧人に勝るとも劣らないものを持ってます。遣隋使や遣唐使は既に述べましたが、それで持ってきた見慣れぬ大陸様式、おそらく当時の感覚としては違和感バリバリだったと思うけど、積極的にガンガン取り入れる。それまで角髪(みずら)というツインテールみたいな髪型だったのも(日本神話の髪型)、中国風に変えて冠をつける。南蛮人が漂着して鉄砲が伝わるとさっそく改良して自家製造してしまうし、「あいつらが来れるなら」ということで日本人もどんどん東南アジアに出かけてフィリピン貿易をやるわ、山田長政なんてタイまでいって政権の中枢まで上ってる。太平洋戦争では大東亜共栄圏とかすごい大風呂敷を広げて、インドまでの広範囲を仕切ろうとしたし。戦艦大和にせよ奈良の大仏にせよ仁徳天皇陵にせよ、小さな国の小さな民族なくせに、世界一デカいものを作ってしまう。なんなの、この気宇壮大な馬鹿パワーは?
あとですね、リスクでいえば、意外と日本人ってリスクに無頓着ですよ。例えば、東京で地下鉄サリン事件があったとき、その翌日にも同じ地下鉄にのって大量のサラリーマンが通勤しているシーンを見て、世界の人達は「日本人はなんと命知らずの連中なんだ」と驚いたと言われてます。それに、あれだけ地震の多い国で、首都直下地震が来るぞ来るぞと言われつつ、頑として住み続けているというのは、もう命知らず以外のナニモノでもないですよ。僕の家では恐かったから関西に引っ越しましたけど(で、阪神大震災にあってるんだから世話ないけど)、いまこの瞬間にもドカンときたら死ぬかもしれない、1分後には死んでるかもしれない、でもって防ぐ方法は本質的には無いわけでしょ?この世にこれ以上のリスクがあるかという。それでも住んでる。もう住んでるだけで大冒険ですよ。
だから、リスクというのは実は相対的なもので、遠くで見ているほど危なく思え、いざ自分が直接やる分にはあんまりそうは思わないのかもしれません。リスクというのは気にしだしたら際限なく気になるのだけど、チャンネル切り替えるように、一旦気にしないことにしたら、これまた際限なく気にしなくなるものなのでしょう。どちらも極端なのは良くないのですけど。
以上、前回も含めてまとめをいえば、オーストラリアで見知らぬ他人が温かいというのは、要は人間が本来もっている自然の状態に近いということであり、より「まっとー」であるということでもあります。だから、こちらに来て気持ちいいなと思えるのは、突き詰めていえば、自分の本来の姿に戻れる快感でしょう。「そうそう、もともと俺ってこういう奴だったよな」という原点回帰、原状回復の気持ちよさです。オーストラリア人化してるのではなく、自分化している。そして、さらに半歩突っ込めば、そういう人間本来が持ってるあたたかさも、冒険精神を通り超えてクレージーな無鉄砲さも、日本人はもともとふんだんにもっているのだから、自分化すると同時に、より「日本人化」したとも言えます。先祖返りみたいなものです。
文責:田村