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英語雑記帳





英語という情報処理システム体系






 言語というのは人間の知的作業全てに関わってきますので、おっそろしく膨大な領域です。こちらに来て英語やり始めて1〜2ヶ月してから薄々「こりゃあとんでもないモノやりはじめてしまった」と分かってきました。

 自分の頭脳をパソコンだとすると、それまでは「英語が出来るようになる」というのは、何か新しいソフトをインストールすればいいんだ位に思ってました。これが実はとんでもない間違いで、ソフト一つどころではなく、もうウィンドウズのパソコンを破棄してマックに乗り換えるくらいの差があります。要するに脳味噌総取っかえをやるくらいの大事業だと思います。

 何を大袈裟なと思う人もいるでしょうが、「英語が出来る」ということは、頭の中でいちいち日本語に変換して理解するという作業をしないということです。英語のまま入ってきて、英語で考えて、英語でアウトプットするということです。これが出来なければ、実際の現場のスピードについていけませんし、これが出来て(というか実感としてわかって)ようやく入門くらいだと思います。柔道でいえば帯に色がついた程度(それも黒帯じゃなくて茶帯とか緑帯)。

 例えば、「英語で暗算をする」というのがあります。35+40=75を「さんじゅうご たす よんじゅう は ななじゅうご」と頭の中で鳴ってるのではなく、「サーティファイブ アンド フォーティ イズ セブンティファイブ」と鳴ってるということです。「週250ドルで10週間、それに20%割引だから、えっと」というのも全部英語。" er....two-fifty per week by ten weeks and twenty percent off....which means, er...two thousand and five hundred dollers minus twenty....it's five hundred, so oh it's just two thousand dollers isn't it?"なんて具合にブツブツ呟くことを意味します。

 これは単に「30を英語でサーティという」という知識だけでは無理です。頭の中の「計算ソフト」が日本語だけでなく英語でも動くように、いわば英語ヴァージョンを新たに作ってやる必要があります。今までの僕らの計算(暗算)ソフトは日本語版しかありませんから。

 一事が万事でありまして、単に言葉を知ってるだけでは駄目で、その言葉を基本言語にして動くソフト(それは暗算のみならず、およそ人間の活動全て)について全部英語ヴァージョンを作ってやることを意味します。いかに大変か、気が遠くなります。



 より根本的なDOS部分には、基本文法の様々なアルゴリズムがあります。別の項でも述べたいのですが、語学文法をパソコン的(というか大脳生理的)にいえば、情報処理における演算法則・アルゴリズムだと思います。「*というマークがくっ付いてるものは加算する」みたいな処理法則です。

 例えば英語は語順が違うといいます。語順が違うということは、情報処理の順番が違うということです。「私は・学校に・行く」というS(主語)O(目的語)V(述語)の日本語版の情報処理システムと、「私は・行く・学校に」というSVOシステムとの違いです。「英語で考える」ということは、この馴染みのない情報の順番をそのまま受け入れ、そして次のステップに考えて進めていくことを意味します。これはもうそういう順番に情報が入ってきても処理できるような頭のシステムも構築しなければ出来ません。

 さもないと、「私、行く、学校」と順番に入ってくる情報のうち、「行く」部分については入ってきても一旦クリップボードかどこかにコピーして仮保存しておいて、次の学校(目的語)がやってきてから仮保存していた「行く」を取り出してきて、全体として整え直して理解するという、非常にややこしい作業をしなければなりません。こんな面倒臭いこと現場でやってる暇なんかないです。「私は学校に行く」程度だったらまだしも、英語というのは、関係代名詞や関係副詞など、非常に便利な情報追加方法がありますから、メチャクチャ入り組んできて、仮保存してある情報も沢山増えてきて何がなんだか分からなくなります。

 これを現場のスピードでやれというのは、まあ知能指数が300くらいあったら可能かもしれませんが、普通は無理でしょ。



 これは単にスピードの問題だけではなく、仮に無限に時間を掛けられたとしても、長い入り組んだ英文を日本語に訳そうとすると複雑すぎてもう日本語として成立しなくなったりします。例えば

 「彼女が、そのことを、海辺の町に住んでいた少女時代からの幼なじみで今は銀行に勤めている恋人でもあり親友でもある−この二人の関係を二人の共通の友人であるベッキーの言を借りて表現すれば「煮え切らない」ということになるのだが−ピーターに告げようと思っていた丁度そのとき、彼女の座っていた椅子の傍らにまるで従者のようにうずくまっていた電話器が突如として鳴り始めた」


 という具合に、日本語にすると「だー、もー、何が言いたいんじゃ」というか、後の方になると最初の部分なんか忘れてしまうという。

 この種の「翻訳調」の日本語は翻訳文をお読みになっていれば必ず出てくるでしょう。もう情報処理体系が違うから、完全翻訳なんてハッキリいって無理な部分もあると思います。これを頑張って一文を一文として訳そうとすれば、鬼のような日本語にならざるを得ない。だから、ほんと翻訳家の方も大変だと思いますわ。同時通訳の人なんか神業ですわ。

 このホームページでも下手な翻訳をいくつか載せてますが、僕の場合は、各箇所で注意書きしてますように、もうかなり意訳してます。1つの文章を3つに分けたり。ある部分を完全抹消して、他のパラグラフのところにもっていったりという、変換作業をしてます。スラスラ読める日本語にしようと思ったらそのくらいパッチワークが必要だと僕は思うのです。先程の文章でしたら

 「彼女は海辺の町で少女時代を過ごし、ピーターとはその頃からの幼友達であった。長じていまは銀行に勤めているピーターと彼女の仲は、恋人なのか親友なのか時として微妙であった。二人の共通の友人であるベッキーは「二人とも、ほんとに煮え切らないわね」とよく言っていた。彼女がピーターにそのことを告げようとした丁度そのとき、座っていた椅子の側に従者のようにうずくまっていた電話器が突然鳴り出した」

 という具合に、ブツブツ切っていった方が日本語の情報処理システムとしては自然だったりすると思います。

 なお「英語の超長文を日本語に訳すると鬼になる」現象がなぜ起きるのか?ですが、例えば関係詞という英語では非常によく発達している情報アタッチ機能が日本語ではそれほど発達してないからではないか?とも思われるわけです。だから、学校で習っても関係代名詞ってイマイチぴんと来ないのでしょうね。でも、逆に、関係代名詞/副詞を使いこなせるようになったら、すごく英語喋るのが楽になると思います。特に”カンマ+which”の「関係代名詞の非制限的用法」といわれるやつは、「こんなんズルいわ」と思うくらい、楽チンな方法だと思います。これはまた機会があれば別の所で述べたいと思いますが。


 余談ですが、どうして英語など欧州言語はSV型で日本語はSO型なのか?を考えるのはメチャクチャ興味深いです。解明しようとすれば、おそらくは言語学はおろか、歴史学、民族学、大脳生理学、心理学、社会学様々な知識の応援を必要とするのではないでしょうか。

 素人の気楽さで、無責任にちょっと考えてみました。V(述語)というのはその情報の最も重要な結論部分です。「あそこにA君が待っている/いない」という結論部分。これを文の最初の方に持ってきたがる人間的性質というのは、大雑把にいえば、イラチ(せっかち)、ドライ、実務家肌、行動的、自己中心的、理性的な傾向があるような気がします。その逆に結論を後に持ってきたがる人間というのは、ウェットで感情を大切にし、全体を見渡す調和型、受容型の傾向があるのではないか。

 「今度の日曜日ドライブしない?」と誘われて、「あ、俺、行かない」と二つ返事で答える人と、「やあ、いいね。いければ行きたいんだけど、今ちょっとバイトやっててそれがちょっと日曜までかかりそうで、、」と答える人とでは、やっぱりちょっと性格が違うような気がするでしょ。「あー、もー要するに行くのか行かないのかどっちやねん」とイライラする前者のタイプとか。よく、述語が先にくる欧米タイプはドライな個人主義でどうしたこうしたという比較文化論が良くありますよね。で、僕は思うに、もっと続きがあるんじゃないかと。

 いくら欧米人だって「感情」というものがありますので、ペシャッとNOを投げつけられてそれで終わりだったらムカつきます。ムカつかないように集団生活をやろうとすれば、その感情エネルギーを巧いこと処理してやらねばならないでしょう。具体的には、「自分と意見は違うけどそれはそれで尊重する」というカルチャーを作る必要があると思います。で、これも単に尊重しようと言うだけでは掛け声倒れに終わりますから、もっと自然に感情的に「なるほどねえ、そういう考え方もあるか」と思えるように仕向ける必要があるだろう。そこで重視されるのが「理由」だと思うのです。「どうしてそう思うのか」です。

 西欧文化圏に住んでいて、よく感じるのが「理由の大事さ」です。セールス電話で勧誘を断わったときでさえWHY?と聞かれますし、不動産探しで断わるときもどうして駄目なのか説明する義務を何となく感じます。つまり、こちらでは、NOは自由に言えるし言っても怒られないけど、それはNOがビコーズとワンセットになってるからじゃないかな?と思ったりもします。これ慣れないと問い詰められたり怒られたりしてるような気がするのですが、別にそうじゃないんですね。これはクセみたいなものなんだと思います。

 西欧人の情報処理システムというのは、まず第一段階にYES/NOの仕分けをし、第二段階に理由と理解のステップに入り、理解の過程で情緒的満足を得るという感じに、人間の知的生理の水路づけがなされているんじゃないか。日本の場合は、ゼロから情況を描写していって、徐々に感情と理性を構築していって最後に自然な結論に落していくというプロセスを取る。これはナニワ節とも呼ばれますね。欧米型が言わば「論文タイプ」だとすれば、日本型は「小説タイプ」だと思います。

 この二つのタイプ、実は日本に居てもよく使いました。弁護士時代、和解の席で、忙しい裁判官にこちらの要求を伝え説得する場合は欧米型でないとマズいです。「結論から申しますと500万円だったら手を打ちます。その理由と500万の計算根拠ですが、、」とバリバリ進めた方がいい。でも依頼者等を説得する場合にはその逆の方がいい。「知ってのとおり今は不況でどこもシンドイんや。そんな右から左にキャッシュが湧いて出てくるご時世やないちゅうんは判りますやろ?」みたいに、背景から徐々に描いていくという方法を取ります。

 で、欧米型というのは、情報の分析整理、議論には向いてる。理由その1、その2とか各パーツごとにバラせますからね。それと大事なのは民主主義に向いてると思います。自分の意見に反対する人がいても、結論だけなら感情が波立たない、「とりあえず理由を聞こうやないけ」という姿勢に自然となってるから意見も言いやすいし、議論もしやすいし、議論も見えやすい。これが日本型だと皆でストーリーを作ってるようなもので、「Aさんが可哀相だ」「いや、Bさんはもっと可哀相だ」みたいな理由部分から先にはいって、最終的に一つの情緒的結論を全員で作っていこうとしたがる傾向があります。だからディベート的技能よりも、「雰囲気づくり」みたいなスキルの方が有用だったりします。

 でも、民主主義って「自分と違う考え方をする人々と一緒に楽しくやっていく」ということなので、結論一つでないと気持悪い人はあんまり愉快な社会じゃないです。でも多民族国家というのは、そこが気持悪かったらもう社会として成り立たないんですよね。で、旧ユーゴスラビアの悲惨の状況を見ても判るように欧米人だって、できれば同じ連中に囲まれて暮したいし、イヤなものはイヤなんでしょう。イヤなんだけど、やれバイキングが北からやってきたり、ゲルマン民族が大移動しちゃったりしてるから、民族ゴチャ混ぜになってしまって、イヤなんて言ってられない環境にあって、だから「そこで上手くやっていく方法」−それはすなわち「文化」ですけど−を育っていったのかな?とか思います。

 で、結論を最初にいって、あとはゆっくり理由(附帯情報)を聞こうという情報処理体系をもっている人間の使う言語は、それなりに改良特化していくでしょう。もしかした、そこらへんの事情があって、英語というのは、関係代名詞/副詞という「情報の後づけ」機能が豊かに発達してるのではないかな?という気もします。まあ、全然違うかもしれませんが、そんなことも思います。

 なおこれらは一般論であって、欧米でもYES/NOを言わないときは全然言いません。少なくとも僕の知ってるオーストラリアではそうです。痛いところを聞かれた政治家や当局なんか典型的ですけど、「政府としては認めるんですか認めないんですか」と突っ込まれても、はぐらかしてますもん。「我々はこの問題を最重要課題に位置づけて取り組んできました。予算的にも○億円投入し、優れた人材も多く投入し、慎重に検討してきたわけで、その成果を十分に吟味しながら、国民の皆様の、、、」なんて言い方してますから。これねー、最初はこっちのリスニング能力がないから何言ってるのか分からんのだと思ってたけど、そもそも判りにくいように喋ってたのねという。というわけで、民族文化の差も、情報処理システムも大事ですが、結局のところ、その個人が置かれた現実のスチュエーション(矢面に立たされたけど誤魔化したいとか)というのが一番決定的なんかなって気もします。余談でした。




 というわけで、語順等の根幹文法の違いは、単に言葉の順番だけの問題ではなく、システム全体の問題に関わってきます。それはもう、ある物事を理解するという人間の脳ミソの手順の問題であります。DOSが違う。

 だから語順をはじめとして文法構造がよく似ているヨーロッパ系言語の人は、英語を習得するのも早い筈です。そりゃあアルゴリズムが同じなんだもん、楽ですよね。頭の構造、情報処理システムを変えなくてもいいのだから、「映画見てるうちに何となく喋れるようになった」と言っても別に驚きません。

 それは丁度、東京の人が関西弁を覚えるようなもんでしょう。関西弁は、イントネーションだけでなく様々な言い回しや単語が違いますが、情報処理システムは同じ日本語ですから、部分的に変更していけば足りる。だから「映画やTVを見てるうちに、何となく関西弁も覚えてしまった」となっても別段不思議はないです。

 もう一つ例を挙げます。アルゴリズムが同じということは、日本語版Windowsを知っていれば、英語版のWindowsでもある程度は動かせるというのと似てます。確かに全部英語で表示されていますけど、アイコンは一緒だし、エクスプローラからドラッグするとか、コントロールパネルで設定を変えるとかいうのは皆同じですから、大体見当がつくのですね。これが全然違うDOSシステムだったら、一体何から始めたらいいのか途方に暮れてしまうでしょう。



 このように「英語が出来る」ということは、英語で全部の情報処理が出来るということであり、英語で情報処理が出来るということは、英語独特のDOSを頭に全面インストールするということだと思います。

 そんな抽象的な能書き垂れててもあまり実戦的ではないじゃないかと言われるかもしれませんが、そうじゃないです。このことを念頭において勉強するのとしないのとでは、かなりの違いが出てくると思います。いちいち日本語に置換えて日本語のアルゴリズムに転換して理解するというフォーマットで勉強してれば、そりゃ長い時間の習練によって変換スピードが速くなるでしょうけど、本質的には非効率なことやってることに変りはありません。

 やるんだったら、英語→日本語→理解ではなく、ダイレクトに英語→理解できるように(逆方向だったら頭にあるモヤモヤした概念からダイレクトに英語で表現できるように)、頭の中のシステムを構築した方が本質的に有用ですし、結局習得は早いだろうと思います。

 子供の頃、自転車を買ってもらって最初は補助輪をつけて走ってました。補助輪がついていると確かにバランスを取る必要はなく楽なんですが、いつまで経ってもぶっ飛ばせない。で、補助輪をつけた自転車と、補助輪なしの自転車とでは、その乗り方は全く違います。補助輪なしの場合は、常に常に「バランスを取る」ということをしなくてはなりません。それを身体で覚えてはじめて自転車に乗れるようになるわけです。英語も同じで、日本語という補助輪を使わないでどうやって使いこなすかだと思います。







初出99年05月14日:田村


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