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今週の1枚(2011/06/13)



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Essay 519 :放射能→海外というトコロテン式思考について

-- Lesser of two evils principle

 写真は、Balmain。
 撮ったのは数日前ですが、昼下がりの3時頃だというのに、既に西日になりつつあります。もう一週間もしたら冬至(日本では夏至)、1年で一番日の短い時期です。半年後になれば、夜の8時頃でもこんな感じでしょう。サマータイムもあるし。シドニーの夏冬の気温差は日本ほど激しくないのですが、日照時間は日本以上に違う感じがします。冬至を過ぎれば、日が長くなっていくのが日々体感的に分かるので何となくうれしいです。
 



次善の策というよりは次悪の策

 日本の放射能懸念が一向に収束しないまま、「このまま日本にいてもダメだ、海外移住だ」という話もチラホラききます。でも、海外に十数年も住んでる身としていえば、「そうなんかな?」「どれだけ真剣に言ってるのかな?」とふと疑問になったりもします。放射能や原発不安に限らず、日本の将来や個人的な経済環境(就職難など)から海外を志す場合、日本における不都合な状態に押し出されるようにして海外に出ていくわけですが、その「押し出される」感じが、なんとなくトコロテンをイメージさせて、それがちょっと引っかかるのです。

 まあ、海外移住に限らず、どんな場合においてもトコロテン的な構造はありますよ。従来のAを新たにBに変更するときは、良かれと思ってやるわけだから、常に「悪しきAからの脱却」という形になりトコロテン的に見える。要するに、改善・向上を目指す行動は全てトコロテン式になってしまう。

 でもここで言っているのは、メイン構造がトコロテンだということです。例えば今東京に住んでいて放射能が心配だ、この際関西に移住しようか、いやいや日本全国どこにいっても似たようなものだというから、いっそのこと海外に行ってしまおうか、という思考過程の中核にあるのは「放射能が恐い=東京に住みたくない」という部分です。それは災害からの避難行動であり、「避ける」部分に本質がある。行き先は(それは選ぶのでしょうが)「放射能が安全だったら良い」「とにかくココでなければいい」という感じで、プライオリティとしては劣後します。

 それって次善の策ですよね。第一志望の学校に落ちたから、第二志望校に入学するみたいに、「仕方がないからそうする」という。本来なら、東京で安心して住めるのがベストだけど、それが叶いそうもないから避難すると。いや、それが悪いと言っているのではないですよ。次善の策を取ることは良くある話ですし、次善どころか次々善、次々々善策すらも考えて不測の事態に備えておくべきでしょう。責めてるわけでも、批判しているわけでもない。それに海外在住組としては、もっともっと日本人同胞には外に出て貰いたいし、オーストラリアにも住んで貰いたいから、何にも言わずに”Welcome!”と言っておればいいのかもしれない。実際ウェルカム!ですし。

 でも、なーんかひっかかるのは、これって「次善の策」ですらないのではないか?という点です。次善ではなく「次悪の策」なのではないか。「トコロテン」とか卑近な言葉で言ってるので却って分かりにくいかもしれないので、ちょっとカッコつけていうと、英語でいう、 ”Lesser of two evils principle” ってやつです。冷戦時代などに良く言われていた言葉ですが、「より良いものを選ぶ」のではなく、「より悪くない(より邪悪度の低い)ものを選ぶ」という意味です。海外もたいがい邪悪なんだけど、それでも放射能の邪悪度に比べればまだマシだという選択原理です。「背に腹は替えられない」みたいな。

 でも、そんな方針決定でいいんだろうか。海外というのはレッサー・イーヴィル式思考で来るものなのだろうか、それで実際にやっていけるのだろうか、という部分に疑問があるからです。今回はそのことをちょっと書きます。

 僕自身東京生まれの東京育ちですが、地震が怖いということもあって大学以降は関西に住んでます。また海外に出て暮しはじめたのも17年前(1994年)のことです。要するに今回言われているようなことを遙か昔にやってるわけで、皆が同じようなことをしてくれると、多少はうれしく思う気持ちもあります。他人のことなどカンケーないわというB型でも、やっぱりちょっとはうれしい(^_^)。

 でも、たまたま一足お先にその種のことを体験した感じでいうと、

 @、リスク管理は事が起きてからでは遅く、何よりも将来予測が大事、
 A、生活実感でいえば海外移住が放射能よりもイージーであるとは必ずしも言えない
 B、それゆえ「より悪くない方」という消極的なトコロテン方式ではなく、「より良いもの」という積極的な理由がないと続きにくい、
 C、その積極的理由は、やる前よりもやり始めてから気づいたり、発見したりすることが多い、

 等の点を挙げておきたいと思います。

リスク管理は将来予測

 まず、@リスク管理ですが、対策というのは事前にやるから意味があるのであって、コトが起きてしまってからでは遅い場合が多い。全てが後手後手に回り、ろくに有効策を打てないばかりか、焦ってさらに二次災害を招く場合すらあります。地震も原発も数十年前から予想されていたのですから、逃げるんだったら起きる前に逃げるべきでした。これは結果論で言っているのではなく、だから今後も先々を予想して動かないとならない、ということです。カーンと上がった打球がどこに落ちてくるか、それを考えてから落下点に走るのがリスク管理でしょう。

 これはA以降とからむのですが、トコロテン的に「日本が危ないから」という理由がメインで行動されるならば、つまり積極的に「海外に住みたい」な意欲があるわけでもないなら、より強い理由で真剣に将来予測をすべきでしょう。今から。

 今後5年、10年、30年と時が経過するにつれて、状況が変わります。場合によっては劇的に変わったりもする。もともと東京に居続けるのがベストという前提なのですから、これから数年後に放射能が改善され、厳密に検証しても大丈夫!ってことになったら、その時点で帰国すべしってことになります。いわゆる「一時避難」ですが、その「一時」というのをどのくらいのスパンで見積もるのか?5年?10年?その頃の日本経済はどうなっているのか、また再就職できるのか?小さなお子さんの健康をお考えの場合、長く滞在すればするほど「現地の子」になりますから、逆に日本文化や日本語に疎くなり、帰国子女的になりますが、そのデメリットをどのくらいに見積もるか。期間に応じてフレキシブルな対処方法を考えておくべきでしょう。

 さらに言えば、そもそも今回の放射能騒ぎが取り越し苦労の過剰反応であって、過ぎてみれば笑い話になってる可能性だってなくはない。そうだとしたら移住それ自体が「次善の策」どころか、全く意味のない失敗になる可能性もあります。逆に、日本の状況が劇的に悪化し、50年後には見る影もなく崩壊している可能性もないではない。その場合、二度と祖国の土は踏めないくらいの覚悟もいるでしょう。

 他方、移住した先々の国での問題があります。災害は別に原発に限りません。内戦、治安、経済、気候変化、あらゆるリスクがそこにはあります。今や原発は世界中にあるのだから、行った先でまた原発事故が起きないとも限らない。移住先が、今よりも現実的に良くなる保障がどれだけあるか。それもその国の状況が今から10年後、30年後にどうなっているかです。

 もう無限にバリエーションが出てくるのであり、それら全てについて精査するのは不可能にせよ、ある程度は想定しておく必要があるでしょう。およそ考え得る場合を想定して、それらを総合的に判断して「OK、GO!」ならいいのですが、今現在の状況だけ=東京・放射能アリ、海外・放射能ナシだけの要素で判断してたらリスク管理としてはちょっと弱い気がします。「避難」というのは即刻やらないと意味がないのですが、これだけ複雑なことを今から泥縄式に調べていたら大変すぎるし、詰めが甘いまま見切り発車になってしまう恐れもなきにしもあらず。


 とはいうものの、実際に会社を辞めて移住するとなれば、そのあたりは超真剣にお考えになっていると思います。考えないで「海外移住だ」みたいに言ってる人は、要するに「言ってるだけ」で、本気で行く気なんかないのでしょう。まあ、誰が何を言おうが勝手なのですが、余計なお世話ながら、本気でやる気のないことをあんまり言わない方がいいよって気もします。なぜなら、言ってるだけで何となくやった気になって、妙に安心してしまうのですね。よく居るでしょ、飲みにいくと必ず「よし、もう脱サラして独立だあ!」と怪気炎を上げている人。確かに気持ちいいんですよね、「〜だあ!」って言うのは。でも結局は何もやらないのだから、事態は何も変わらない。そういう場合は安心しちゃダメでしょう。結局何にもやらずに人生タイムアップになっちゃうし、周囲からも「言うだけの人」と軽く思われちゃうし。

 海外移住くらい重大なことを本気で考えているときって、逆に言わなくなると思います。僕もこちらに来るときは、誰にも言わなかったですもんね。全ての準備完了になってから、はじめて事務的に告げるという。

 なお来てる人はとっくの昔に来ているでしょう。海外に別荘があるとか、現地に親族や知人がいるとか。こういう方々は、それなりに蓄えもあろうし、準備も出来ているのでしょう。その意味で初動は楽なんだろうけど、今度は「このまま居続けるの?」「いつ帰るの?」という次のステップが出てきます。

リスク査定

 なんか意地悪なことばっか書いているようですけど、でも実際「危ない」って本当にどれだけ危ないの?という疑問はあります。そして本気でそう思ってるの?という疑問はもっとあります。もし本気で皆がそう思ってたら、もう東京は民族大移動になってます。いっときの外人さん達みたいに、関東はもぬけの空になっていてもおかしくない。でも、全然そうなってない。移住するにもお金がないとか、ダンドリが立たないとかあるでしょうけど、でも真剣に生死に関することであれば(例えば今この瞬間火事になったら)、とにもかくにも動くでしょう。

 放射能の危険性を敢えて低く見積もるつもりはないけど、放射能汚染の広がりと日本国そのものの行く末とはあんまりリンクしないような気もするのですよ。なぜならチェルノブリ事故とソ連社会のその後の展開とはあまり関係がないし(ゴルバチョフ政権の情報公開とかそういう政治テーマは出てきたけど)、アメリカのスリーマイルでも各地で反核運動は広がったり社会世相は変わったけどアメリカの存在そのものは変わらない。歴史に対する因果関係という視点からすれば、正直いって「微動だにしなかった」と言ってもいいと思う。

 国家というのは「事故」ではコケない。それがどんなに悲惨な、どんな重大な事故であったとしても、だからといって本体がコケるのはよほどのことです。スマトラ地震でも23万人という今回の地震の10倍以上の被害者をだしているけど、だからインドネシアという国が消えてなくなったわけでもない。ソドムとゴモラや、ノアの箱船のように天変地異で全てが失われたなんてことは、そう滅多にないです。国家が真剣にヤバくなるのは、第一に戦争、第二に経済、第三にそれらによる社会秩序と次世代教育の劣化などの要因によるもので、一過性、局所性の事故は、それがいかに分かりやすく悲惨なものであったとしても、意外とトータルでの影響力は少ない。スケールのレベルが違うのでしょう。これが一点。

 第二に、日本で語られる「もうダメだ」の終末論ですが、昔から同じようなことばっか言ってます。確かに一つ一つは身の毛がよだつくらい恐ろしい事態が進行し、それを科学的な明瞭さで語られるとその気になります。でも実際にはそうなっていない。ちょっと前のインフルエンザやパンデミックで誰も彼もがマスクをしていたときもそう。遡れば、70年代の公害ブーム(?)のときの恐怖感は、今の放射能よりもヒドかったと思います。工場廃液の垂れ流しや大気汚染。イタイタイ病や四日市ぜんそくの被害状況は、TVで何度も放映され、その悲惨さやグロテスクさ(猫が狂って踊ってる映像とか、頭が二つあるウナギの写真とか)、すごいものでした。そして、それらが福島のように場所が特定されず、光化学スモッグとして日本全国津々浦々で同時進行で起っており、また海洋汚染も進んでいたので近海で取れた魚には含まれており、今更食べるのを止めても既に手遅れだとも言われていました。ね、恐いでしょう?これから10年、20年後には、日本の新生児のほとんどが死産か奇形児になるとすら言う人もいた。

 でも、別にそうはならなかった。全国各地で公害裁判が起き、政府も遅まきながらも公害規制立法をし、企業も環境問題を多少は真剣に考えるようになった。当時、都会の河川は、ほとんど毒液が流れているくらいに思われていたのに、それも大分きれいにはなりました。かといって、当時意見をいっておられた学者さんや専門家が間違っていたわけではないと思うのですよ。科学的には正しいことを言っておられたのでしょう。ただ受け取り方が違う。例えば、発ガン性物質なんかでも、科学的な因果関係の実証というのはコンマ幾つという微細な数字のレベルです。○○を食べるとガンになるというのも、その数値からすれば、「毎日10キロ、30年間食べ続けたら」というおよそあり得ないような話なのだけど、「ガンになる」という部分が一人歩きする。同じようにヤバい事態が進行しているのは事実だとしても、正味の危険性の数倍くらいの尾ヒレがつく。

 そして、どこまでが正味でどこからが尾ヒレなのか、よく分からないのです。公害裁判においては、「○○工場によってこういう健康被害が起きた」という立証をする必要があるけど、これが鬼のように難しい。疫学的証明といいますが、人体そのものがミステリアスに複雑なうえ、生活環境というのは数百の要素によって成り立っており、かつそれが数十年スパンで続くから、真実は結局わからない。めっちゃくちゃグレーゾーンが多いというか、グレーゾーンだけで成り立ってるようなものです。ある人がガンになったとしても、それは遺伝かもしれないし、生活習慣かもしれないし、単に老化したからかもしれないし。

 今回の放射能汚染も、大気、水、食物などによって放射性物質を体内に取り込んで内部被曝したら、放射線によって体内の細胞のDNAが壊され、それが恒常的な遺伝子異常を惹起し、ガン細胞に転化し、増殖していってガンになるというリスクはあります。それは確かにあるでしょう。だけど、実際問題それがどの程度なのか、どこまでが正味で、どっからが尾ひれになるのかが、リアルタイムには分からない。特に放射能が微量づつ蓄積するパターンなんか、結果が出るまで数十年スパンかかるから、公害よりも厄介です。

 僕は何も愚かしくも楽天的になれと言ってるつもりはないです。分からないのであれば、「分からない」ということを前提にして考えなければならないということです。シロかクロかデジタル思考ではなく、グレーであることを受け入れることであり、やたらと「安心」を求めないということです。パニックになる必要はないが警戒はする。”Be alert but not alarmed"ってやつです。それも一過性に終らず一生レベルで考え続けるということです。インフルエンザだって、今この瞬間でも空気中をウィルスが漂っているんだから、今でも注意をすべきだということです。リスクというのは流行ではない。流行ってるときだけ騒いでたって意味がない。流行ってないときにいかに忘れないかでしょう。でも、日本で年柄年中語られている終末論は、あれは一種の流行だと思います。

 第三に、リスク管理というのはトータルでやってなんぼだということです。東京で、政府のいうことだけを盲信し、何の気も使わないで生きていたときの健康被害のリスク値を仮に1とします。しかし、人生のリスクはそれだけではないし、健康だけが被害でもない。勤務先の会社が倒産したりリストラを受けるリスク値はいくつか、再就職が決まらず生活が困窮し、ひいては家庭が崩壊するリスク値はいくつか、ハウスダストその他環境により体質が変わり、それによって慢性疾患に陥るリスク値、交通事故に遭遇するリス値は?詐欺商法に騙される、金融機関が倒産して投資や貯金がパーになるリスク、火事に出くわす確率、通り魔に襲われるリスク、そして何よりあれこれ思い悩んで精神健康を害するリスク、さらにストレスが慢性化し、それがストレス性ガンに転化していく確率。レアなところでは犬に噛まれて狂犬病に罹患するとか、釣にいって高波にのまれるとか、落雷にあうとか、、、、幾らでもあります。

 今回、放射能の流出が続いており、健康被害のリスク値(てか実害)は少なくともゼロではありません。もう既に被っているでしょう。その上で、この先何処まで蓄積していくのか?も分からない。というわけで放射能リスクは顕在化しています。しかし、だからといって他の諸リスクがゼロになったわけでもない。相変わらず今日もどこかで交通事故は起きているでしょうし、犯罪被害はあるし、失業やリストラは起きています。ストレス性疾患も進行しているでしょう。だからトータルでそのリスクをどうみるか、問題です。

 そして、今回の場合、僕が思うに最大の被害は精神的なストレスだと思います。前述のように数十年スパンでみないと本当のところは分からず、百家争鳴で色々なことを言う人がいるから、結局全然わからない。全てはグレー。だから、体感的に生じている「被害」は、全てがグレーなのでよく分からないという精神的負担、グレー・ストレスとでも言うべきものだと思います。それが一番デカいのではなかろうか。

A、海外移住のリスク

 一方、海外移住のリスクですが、これもゼロではないです。というかリスクだらけです。
 そもそも海外に移住できるのか?というリスク以前の問題があります。単に観光で行くならともかく、現地で適法に仕事を出来るようなビザを取得するのが一大事です。それに日本の生活水準から極端に落ちない程度の、先進国、準先進国では永住ビザや労働ビザが取りにくい。取りやすいところは、その分生活が大変だし、仮に現地で稼げたって日本円に換算したら微々たるものだし。

 また、見事労働ビザや永住権が取れたところで、今度は言葉の問題、生活習慣の問題があります。なんせ現地の実情が分からないだけに、何をするにもリスク値倍増です。地元民だったら絶対行かないエリアに不用意に入り込んで襲われたり、騙されたり、人種差別を食らったり、虐められたりってこともあるでしょう。政権がコロコロ変わったりするところでは、昨日まで積上げたものを一夜にして壊されてしまう(ビザのキャンセルとか資産没収とか)こともあるでしょう。およそ日本では考えられない理不尽なことも、海外では何でもアリです。

 こうしてあらゆるリスクを並べて概観すれば、放射能というのは確かに大きなリスクの一つではあるが、他の全てを押しのけて優先させねばならないほどのものなのか?そこは考える余地があると思います。

 正直言って、レッサー・イービル方式=「国がダメだから海外脱出」というのがドンピシャとはまるのは、いわゆる難民パターンだと思います。このまま国に残っていても、展望がないどころか迫害される、ヘタをすれば殺される、、くらいのリスクがあってはじめて、人は故国を後にする。それが世界の通性だと思うのです。

B、リスク管理は難しい

 そんなリスキーな海外なのですが、それでも僕は海外にいます。なぜならリスク計算で来ているわけではないからです。行きたいから行った、来たいから来たからです。要するに「好きだから」という理由がある。

 リスク管理は難しいです。リスク値といっても、どれをとっても大体がコンマ数パーセントの確率でしょうから、生活実感としては「運が悪かったらそうなる」以上の域を出ず、非常にわかりにくいです。これから一生スパンで落雷死と蜂に刺されて死ぬ確率とどっちが高いか?なんか分からんですよ。グレーゾーンありすぎるし。それに、考えれば考えるほど恐くなったり、気分が憂鬱になっていきます。

 ちなみにあなたが20-39歳だった場合、一番の死亡リスクは何かというと「自殺」です。厚生労働省、死因順位別死亡数・死亡率,性・年齢(5歳階級)別(別窓) 参照。自殺というのは、要するに精神的危機です。明るく幸せな状態で自殺する人はいません。また同じ客観状況でも誰もが自殺するわけでもない。ひとえに本人の主観が問題であり、言葉を換えれば精神/ストレスだということです。20代30代の皆さんの場合、どのリスクを最大に考えるかと言えば、あなたの精神健康です。

 しかし、これは単なる確率、相対比率ですよ。絶対数でいえば、20代の自殺者が1000人台なのに対し、40代で2000人台、50代で3000人台です。でも40代以上はそれ以上にガンで死んでるから1位になってないだけです。つまり死ぬリスクが年を取れば取るほどすごい勢いで増えているということです。20代死亡率一位の自殺者の絶対数は1300人だけど、50代一位のガン死亡者は1万3000人でなんと10倍です。だから最大の死のリスクは何かと言えば、「年をとること」とも言えるわけです。まあ、当たり前っちゃ当たり前ですけど。

 このあたりは数字と言葉の遊びであり、同時に確率計算やリスクの考え方がいかに難しいか、それだけに恣意的になりがち(好き勝手に解釈し放題)かということでもあります。同じ表を見ながらでも何とでも言えるんですよね。単純に死の絶対数だけでいえば、いま30歳のあなたが死ぬリスクは、自動車事故でも火災でも地震でも放射能でもなく、単純に「あと10歳年をとること」でしょう。ガンの死亡者数が約3倍になりますからね。

 このように「なんとでもいえる」ってところがリスク管理の難しさです。放射能が流行れば放射能にひきつけて考えることも可能だし、自動車事故が近所で起ればそれを基軸に考え、飛行機事故やテロが起きれば、、、ということです。非常に主観的要素が強くなりがち。主観に引っ張られるということは、主観的に思いつかない/興味のないリスクは無視するから、思わぬところで足をすくわれます。先日のユッケ食中毒で亡くなった方も、まさか自分が来週ユッケで死ぬとは夢にも思わなかったでしょう。

 弁護士というのはリスク管理が商売のようなもので、契約書の作成を頼まれたときも、ありとあらゆる「縁起でもない」事態を想定します。よくある天変地異条項なんかもそうですし、地震、洪水に加えて「戦争、内乱」まで掲げておきます。でも、思ったのは、ある程度以下の確率の事態になると、運とか事故とかしか言いようがなく、計算しきれないということです。「それは運!」と、もう割り切らないとしょうがない。

 その代わり、そんな微細な確率に一喜一憂するくらいなら、目の前のことをキチンとやる方が遙かにリスク回避になります。平均的な日本人が不測の事態でトラブルに遭う確率はダントツに交通事故ですから、まず何を置いても安全確認。これをやってるだけで生涯リスク値は10倍安全になると思います。事故というのは焦って変なことをするから遭遇する場合が多い。きちんと前もって準備してないから、慌ててやって、時間に遅れて、車道を突っ切ろうと横着かましてドカン!ってパターンです。身近な当たり前のことを当たり前にやる、目の前のことを一つ一つちゃんとやることが最大のリスク管理になるのでしょう。「雨降りそうなら傘持ってけ」です。先ほどの統計でも、年を取ることが最大のリスクだとするなら、結局のところ「早寝早起き、腹八分目」が一番効果的だということです。

リスクではなく、好き嫌いで決める

 それはそれとして、リスクだけでは物事は決めきれないと思います。というか、リスクだけで物事を決めてはイケナイ!とすら思います。「やってみなけりゃ分からない」というと無責任に聞こえるかもしれませんが、世の中そんなことばっかりです。もし「やらなくても分かること」ばかりやってたら、人生つまらないですよ。将来何が起るか正確に予測できるようなことだけの生活、それは例えば刑務所に入るとか、入院するとかで、○○時になったら看護士さんの検温があって、○時になったら薬を飲んで、、って、明日起きることが全てスケジューリングされ、またその状況も手に取るように予想でき、且つキッチリそのとおり物事が進んでいく生活です。あんまり楽しそうじゃないよね。

 これはちょっと極論なのかもしれないけど、面白いこと、ひいては生き甲斐を感じるようなことって、大体においてリスキーなことです。リスク部分がダシになるから、物事が面白くなり、それをやることに快感を感じるという。したがって人の行動指針&エネルギーというのは、リスク管理ではない。危ないか危なくないか、ではなく、面白そうかどうかだと思うのです。

 海外に出るのはリスキーですし、リスク管理という視点からしたらあんまりオススメは出来ません。成功率低いし、とりあえず大変だもんね。しかし、僕は、成功率が低くて大変だからこそやってきたようなものです。「甲子園で優勝する」なんてことも、成功率が低くて大変なことの最たるものでしょう。でも目指す人は目指すでしょ。

 それにリスク管理だけで動いていると、しんどい状況になること自体が「失敗」のように受け取りがちでしょう?しんどさから逃れてきたのに、また新たなしんどさ、どうかしたら前以上にしんどい状況に見舞われたら、なんのこっちゃ?でしょう。で、実際海外はしんどいですよ。ほーんと、言葉がままならないという事がこれほどシンドイことかと思いしらされます。もっとも学習時間の長い英語にしてそうなんだから、他の言語だったら尚更でしょう。風邪引いて病院いくだけでも、病状を英語で言わなきゃいけないし、また医者の説明が理解できない。自動車の修理の説明から、納税、行政手続、何からなにまで暗中模索です。もう笑っちゃうくらい物事が進まない。日本に郵便を送るということでも丸一日かけても結局出来なかったとか。僕も最初に電話を接続するときは、海外通話が別契約になっているわ、また公衆電話で電話して接続を頼むのだけど何言ってるのかサッパリ分からないわ、電話局まで出向いてようやくカウンターで四苦八苦して通じたと思ったら、ほったらかしにされて一ヶ月以上開通を待たされたり。もう泣きそう。

 だけど、こういったしんどいリスクを、あっさり解毒してしまう魔法があります。それは「好きでやってる」ということです。最初から好きで海外に出ているんだから、ちょっとやそっとのしんどさは織り込み済みです。むしろそうやってあちこちでボコられ、凹まされるために来ているようなものです。「わはは、全然わかんね」みたいな感じで、大変なんだけど、楽しいんですよね。

 海が好きな人は、1時間海で泳がされてもハッピーですが、キライな人が強制的に(戸塚ヨットスクールみたい)に泳がされたら一分一秒が苦痛であり、地獄のようでしょう。つまり好きでやってるか、仕方なしにやってるかというのは、同じ客観状況を天国にも地獄にも変えます。

 だとしたら、行動基準はイチにも二にも好きかどうか、やりたいかどうかにすべきだと僕は強く思うのです。
 なぜなら、どんなことにもしんどさはつきまとうし、そこから逃れるのは不可能だからです。そして、そのしんどさをプラス感情に持っていって楽しめるか、それともマイナス感情を引き起こしてひたすら不幸になっていくかというのは、致命的に大事なこと、まさに運命の分岐点といっても過言ではないからです。

 海外はシンドイです。でも、僕にとっては、シンドイ以上に楽しいです。えらい目にあってることを、「得難い体験ができた」「珍しいものに触れて面白い」という形に換えていく解毒酵素みたいなものを持っているからだと思いますし、その解毒酵素はどこから来るのかといえば、好きかどうかです。逆に言えば、こんなもん、好きじゃなかったらやってられませんよ。

 でないと、次善であれ次悪であれ、どこかの国に行ったら、出来るだけ日本の生活環境を再構築しようとするでしょう。「行きたい」わけではないのだから、出来るだけのこれまでとのギャップを最小にしたいと思うだろう。しかし、原理的にそんなの不可能です。ある程度日本食や日本語環境の整うところもあるでしょうが、それにしたって「本場」に比べれば全然です。最初から不可能な目標を設定して日々生きていくわけだから、そりゃあ楽しくないですわ。

 そして結局のところ、僕は何が「好き」だったのかといえば、別に海外でもオーストラリアでもなく、「自分が自分らしくあること」が好きだったのでしょう。ただのワガママなんだろうけど、とにかく生理的に気持ちがいい。社会的立場やら、見てくれやら、言動やらで、自分以外のなんかのロールモデルを持ってきて「○○らしく」ってやってるのが、なんとも性に合わなかったし、「自由に好き勝手やる」というのが好きだったのでしょう。それに、知らないところに行く、というのが取りあえず楽しい。ワクワクする。だから根っこにあるのは、非常に原始的な感情だと思います。だけど原始的なだけにとっても強い。

 そこが根っこにあるかどうかでしょうね。それさえあれば、どんなハードシップも納得できる。結果においても「野垂れ死んでも本望」とすら思える。カッコつけていえば「自分が自分であるための戦い」なんだから、当然負傷もするだろうし、戦死するかもしれない。でも、そんなものは誰だって同じ事で、大事なのは「戦場の設定」なんじゃないかな。

Lesser evilではなく、More wonderful

 長くなったのでもうシメますが、結局僕がひっかかったのは、「放射能」とか「避難」とかネガティブな部分、イーヴィルな部分から話がはじまることへの違和感です。

 違うでしょう!僕らが人生の選択をなすのは、「より悪いかどうか」ではなく、「より素晴らしいかどうか」でしょう?lesser evilではなく、more wonderfulでしょう。

 そうは言っても、この放射能騒ぎのなかで「ワンダフル〜」とかいってても現実感ないかもしれませんね(^_^)。それでいいです。キッカケは何でもいいんですよ。放射能でも、花粉症でも、水虫が治らないでも、職場が詰まらんでも。そこで最初は「緊急避難」的な、トコロテン的な思考回路で物事が始まる。それでいいです。

 でも、やってるうちに段々と考えが深まっていくはずです。人生の総組み替えみたいなプロジェクトをやる以上、何が一番大事なのか?という原点みたいなものが見えてくるでしょう。命の次に大事なのは何か、いや、「こんな生き方だったら死んだ方がマシ」って場合もあろうから、命以上に大事なものはなにか。この世に生まれてきて、何がしたいの?どうなりたいの?と。

 もちろん全てがクリアに見えてくることはないでしょう。多くの場合、移住した先についてから、「ああ、これが欲しかったんだ」と分かることもあるでしょうし、知らない間に身体に染みついてくるものもあるでしょう。でも、最初は極めて実務的、トコロテン的だったものが、やっている間に徐々に本質的なものになっていくと思う。

 何かに導かれるように。
 鮭が川を延々と遡っていって、やがて生れ故郷の小さな源流に帰るように。

 そう、だから、やっぱり「トコロテン」ではないのだわ。「押し出される」のではなく、何かを求めて自ら進むように、なにかに引っ張られるように。そういう気分になったらGO!です。どうぞ、おいでませ。



文責:田村




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