1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の1枚(03.10.13)



ESSAY 184/英語の学習方法−前提段階
  ”量の砂漠”を越える「確信力」

 写真は、Cabramatta。先日ひさしぶりにぶらっと行って、PHO食べてきました。シドニー有数のエスニックタウン。犯罪都市とか「行ったら死ぬ」とか言う人いるけど、行ったことあるのかしら?普通に行く分には別にどってことないです。アジア的雑然とした感じが妙に居心地いいです。



 仕事柄、英語の勉強方法などについてよく聞かれる機会があります。そんなもんがスパッと分かるくらいだったら、僕の方こそ教えて欲しいくらいですが、僕はこう考えてます/こうやってきましたというのはありますので、それはお伝えできます。あまりにも頻繁に聞かれるので、一回まとめて書いておこうかと思った次第です。ただし、僕が言うことですからね、あんまり信頼しないでください。僕はこれがいいんじゃないかと思ってますけど、もしかしたらこんなことをやってたから未だにこんなレベルで苦労しているのかもしれず、もしかしたらやらなかった方が上達が早かったかもしれませんからねー。そのあたりは、批判的に読んでください。

一芸に秀でる

 英語の勉強以前に、そもそも勉強はどうやってやるのか、勉強に限らずなんらかのスキルや技芸を「身につける」ということはどういうことなのか?まず、ここを徹底的×2くらい、しつこく考えるといいと思います。どうも伸び悩んだり、何から手をつけていいか分からんというパターンの多くは、英語がどうとかいう以前に、勉強とかスキルそれ自体があんまり分かってないんじゃないかって気がしますから。このレベルでコケてたら、あと幾らやってもダメ、、とまではいいませんが、かなり効率悪いと思います。出来ないのは、出来ないなりの論理があり、科学があるんだってことですね。

 まず、「〜が出来る」ということ、何らかの技能を身につけている状態ってのは、どういうことなんでしょうね?
 これは、何か一芸に秀でている人だったら良く知ってると思います。一芸に秀でる者は多芸にも秀でるって言いますが、ある意味真理だと思います。それは、一芸に秀でていく過程で、物事を習得するために物凄く大事なエッセンスをゲットしてるからでしょう。一つ分かってしまえば、あとは全部応用ですからね。

 というわけで、まず、英語を勉強するにあたって、あなたは何がに秀でていますか?なにか素人とは一線を画するような技術をお持ちですか?持ってる人は話が早いと思います。不幸にして持ってない人は、ちょっと大変かもしれない。勿論、誰だって初めはあるのですから、英語習得をもって一芸の最初とすることも可能です。

 でもなあ、出来れば最初は語学でない方がいいかもしれないです。なぜなら語学って上達するのにすっごく時間がかかるのですね。草花が成長するのは毎日見ていても分かりますが、樹木の場合は伸びてるんだから伸びてないんだかわからないでしょう?語学って樹木系で、ほんと桃栗三年柿八年の世界なのですね。だから最初にこれから始めてしまうと伸びてるんだか伸びてないんだか中々分からんというツライ時期が延々続きますのでしんどいです。だもんで途中で挫折するかもしれない。また根性でやり遂げたとしても、あんまり時間がかかるもんだから、何をどうやって上達したのか自分でもよく分からんって部分もあると思うのですね。あなただって、どうやって日本語マスターしたのか覚えてないでしょ。

 語学に比べたら、ギターなんか楽ですよ。柔道なんかもそうです。いや、本気で極めようと思ったら道は果てしなく遠いですよ、そりゃ。ただ、一応、まあ、ここまで来れば素人と一線を画したかなって、登山の途中で一段落するポイントが比較的近いんですね。ギターだったら、とりあえず素人バンドでステージにあがってそつなくこなす程度、柔道だったら黒帯取れる程度ですが、数ヶ月から2年くらいあったら大体イケます。実際には数ヶ月レベルで、全然素人とは違ってきますから、「やった甲斐があった」という気がします。

語学学習の達成感の乏しさの理由

 しかし、語学は、3年くらいやってもなんだか出来たような気がしません。他人は「すごーい!」って誉めてくれるかもしれないけど、本人的にはあんまりいい気になれません。何故か?理由はハッキリとあります。理由その1は、語学はとにかく量が膨大にあるということ、そして奥行きよりも間口が広いこと。例えばボキャブラリでも、ある程度辞書なしで新聞が読めるくらいの量(分からない単語は沢山出てくるけど、それでも何となく意味がわかるくらい)を覚えようと思ったら、必死にガリ勉しても3年くらいはかかるんじゃないでしょうか。3−4万単語くらい?柔道の技なんか3万もないです。せいぜい数十でしょうし、基本は十前後でしょう。ギターのテクニックやフレーズでも、基本的なものは数十レベルです。コードだって原理を知ってしまえば10パターンも知ってれば十分。曲だって別に万単位で覚える必要はないです。だから、そこそこ弾けるとか、そこそこ素人が投げ飛ばせるくらいにまではすぐに行けます。ただし、そこからが長いんですよね。だから間口は狭いけど奥行きは深い。チョーキングビブラートは練習すればズブ素人でも1ヶ月もあれば出来ます。でもクラプトンばりの「泣き」を出そうと思ったら30年かかるみたいな世界です。でもとりあえずは1ヶ月でも「やった!」って気になれます。でも、英語は中々そんな気分にさせてもらえない。これが理由のその1。

 理由のその2は、語学の場合、「ネィティブ」という超プロがうじゃうじゃいるということです。いっくらプロレベルに語学の研鑚を重ねてもネィティブレベルには中々いけません。ネィティブというのは、生まれて物心つくかつかないかという段階からそればっかりやってきてるわけです。いわば超超超英才教育を受けてるんですね。巨人の星も、ピアニストも、歌舞伎役者の跡取り息子も、ネィティブの母国語習得くらい徹底した24時間教育を受けてないです。だから母国語に関してはネィティブはプロ以上のレベルにあったりするわけです。考えてみれば当たり前ですよね。そして、技芸におけるアマとプロの差はとんでもなく巨大です。僕も多少はギター弾けますけど、プロが来たら裸足で逃げ出しますわ。全然レベルが違います。でも、幸いなことに周囲にそんなにプロなんかゴロゴロいるわけないから、適当にヘボでも素人集団の中ではいい顔ができるし、いい気になれる。これがプロに囲まれてたら、もうゴミ同然のミジメな心境になるでしょう。でもって、語学は、そう、そのプロを上回るネィティブがうじゃうじゃいるわけです。特にその国にいったら、周囲は全員プロ以上。何千万人、ヘタをしたら何億人という単位でいます。こんな連中に囲まれていたら、ちょっとやそっと勉強したくらいでは「出来た」という気になれるわけがないです。おそらく一生なれないと思います。ただ、英語素人集団の中にいたら、つまりは日本に住んでたら、周りはもっと出来ないから多少なりともいい顔が出来そうなものなんですが、今度は別に英語を喋る必要性なんかないですからね、いい気分になれる機会が少ない。だから励みにならない。

 というわけで、語学というのは、他の技芸に比べて、非常に達成感の乏しい技術だったりしますから、一芸に秀でるにせよ、語学から入るとしんどいだろうなあって思うわけです。まあ、英語でも、達成感の目安としてTOEICなり、ILETSなりの試験がありますし、学校に入ればクラスが上級になるとかそういう物差しは用意されているわけで、その意味では救いはあります。しかし、TOEICで900点取ろうが、いざネィティブの中に入っていったら全く何も分からずボコボコにされることには変わらず、なんだか最初の状態から全然進歩してないようにすら感じるでしょう。だから達成感もぬか喜びに終わったり、砂上楼閣だったりします。キビシーですよね。

一芸→多芸への「類推適用」

 というわけで語学をやるなら一芸に秀でましょう、一芸に秀でてなかったら、とりあえず語学以外のなんかをやって一芸に秀でましょうということです。しかし、そんな一芸に秀でているヒマなんか無いわいって人もいるでしょうから、いわゆる「類推適用」ってやつをやりましょう。そのものズバリではないけど、類似してるから、それを当てはめてわかった気になろうということです。

 一芸とまではいかなくても皆さんは絶対何かスキルを持ってるはずです。例えば、今このHPを読んでるとしたら、パソコンの使い方やインターネットの操作方法くらいは知ってるわけです。あるいは、自動車の免許でもいいですし、自転車に乗れるというのでもいいです。料理でもいいですし、ほかの趣味の領域でもいいです。全くやったことない人、全然出来ない人に比べたら、何事かが「出来る」といっていい領域です。一つや二つはあるでしょう。それを念頭におき、強引に当てはめて考えて見てください。


 さて、どうやったら一芸に秀でられるかですが、既に秀でている人はご存知でしょう。どういう訓練過程を経て今のレベルにまで到達できたか。これはもう簡単で、圧倒的な「量」です。既に何度もいろんな個所で書いてますのように、量を積み上げないと話にならないです。

 「量」というのは、基礎体力、基礎技術ということもあるし、基礎知識でもあります。
 ギターだったら指の筋力がなかったら思うように指が動かないからまずその絶対筋力の練成、柔道でも100キロくらいある奴を瞬時に背中に乗っけて投げ飛ばすわけですから、一瞬とはいえ100キロ背負ってスクワットしても崩れないだけの足腰の丈夫さが問われます。そして、それらの基礎体力を養うのは、もうお分かりかと思いますが、「気が遠くなるような反復練習」ですね。これしかないです。

 部活やった人は覚えているでしょう。練習時間のほぼ8割くらいは単純な反復練習だけだったということを。僕も柔道部だったときも、練習時間が2時間あったら、乱取りやらせてもらえるのは最後の10-20分くらいで、あとはランニングから始まって、延々続く筋トレと柔軟運動、受身、30本づつ交代で打ち込み練習。もう来る日も来る日も反復ばっかり。でも、これをやらない限り絶対に強くなれないんですよね。日頃使わない筋肉、日頃絶対にやらないだろう無理な体勢を徹底して繰り返すことにより、目にも止まらぬ速さで相手の内懐に入り込み、一瞬にして相手を投げるという芸当が出来るようになります。一本背負いの態勢でも、素人だったら一挙動するのに3秒くらいかかるのを、練習を重ねた猛者になると2秒間に3回とかいう神業的な速さで出来るようになり、ここまで出来てはじめて他人は投げられてくれるのですね。コンマ数秒油断した瞬間にもう身体が浮いてるのですから。そうでなきゃ、みすみす他人は投げられてくれません。



 もっぱら頭を使う勉強においてもこの法則は当てはまります。この場合のベースとなる量は基礎知識の量といえます。
 「最低限これだけは知っておけ」という「主な登場人物」みたいな基礎知識がないと話が始まらないです。推理小説を楽しむにしても、○○は被害者で、誰それは被害者の娘で、彼は私立探偵で、その助手で、、、という部分はしっかり記憶してないと、何がなんだかわからんでしょう?ホームズとワトソンがゴッチャになってたらどうしようもない。「金田一耕助って、誰だっけ?」とか言ってたらストーリーの展開についていけないでしょ。

 法学なんてのもそうですが、頭の中で法律理論をこねくり回せるようになるまで、この「主たる登場人物」を覚えこむ作業が必要になります。これがまた何百人もいるわけですね。僕の場合は、朝から晩まで図書館にこもって1年間くらいは、来る日も来る日も「知らない言葉で知らない言葉を説明される」「その概念の意味を調べてもまた知らない言葉で説明されている」という砂を噛むようなムナしい日々が続きました。大体やね、金融実務の現場も知らんハタチそこそこの若造が”担保物権”とか言われてもよう分からんわけです。それなのに、”先取特権者が物上代位を行使するためには、自ら差し押さえる必要があるか?判例はこれを肯定し、一般債権者が差押命令を得たに留まる場合はなおも物上代位できるが、転付命令の場合は出来ないとするが、我妻説は差押・転付命令を受けた後でも良いとし、ただし弁済を受ける前に差し押さえる必要がある”とかいう文章が延々続くわけです。わかります?わからないですよねえ。でも、これ、「だー、分からん!」で投げ出してしまったらダメなんですよね。毎日12時間これを延々と読みつづけ×365日、そのくらいは最低限でしょう。それを超えると段々わかってきます。


 勉強できない奴がよく陥る誤解に、「理解して覚えよう」という方法論があります。確かにそれは重要なんだけど、それってかなりの高等テクニックだと思いますよ。だって、ニワトリタマゴで、理解するためには最低限の知識の量が前提として必要だからです。その最低限を覚えるためには、「理解」というメソッドは使えないです。だって、理解できないんだもん。だったら、どうやって最低限の知識を覚えるのか?これはもうベタ覚えしかないです。記憶能力=頭の良さではないですが、記憶力がなかったら理解力も生まれない。記憶力は、出来るようになるための十分条件ではないけど、必要条件ではあるのですね。

 じゃあ、ベタ覚えってどうすんのよ?というと、もう紙に書いて、部屋の壁やトイレに貼りまくるとかそういったことですわ。法学なんかまだしもマシですよ。どんな概念も法律=ルールという人工に作ったものだし、人工で作る以上それなりの理屈がそこにはあるから。でも、これが医学とかになったら、もう理屈抜きですよね。伝染病の病原体なんかもう実在しちゃうんだから、「なんでこんなにあるんだ?」とか怒ってもしょうがないです。もうひたすらベタ覚えの世界でしょう。

 しかし、ベタ覚えにも限度があります。あとで記憶の個所でも書くと思いますが、一気に記憶したものは一気に失われるから意味ないって部分もあります。記憶を強化する唯一の方法は反復。反復を、実際の日常生活的な感覚でいうと、「顔なじみになる」ってことだと思います。わかろうがわかるまいが、とにかくやりつづけていけば、段々「あ、また、これ出てきた」ってことで、段々と顔なじみになっていくのですね。そうやっていけば、重要なものから頻度順に顔なじみになってくるし、頭に自然に定着するようになる。こうやって登場人物を少しづつ増やしていくことになります。そして、一定レベル知識がたまってきたら、これまで理解できなかったことも理解できるようになり、そこから先は量から質に勉強の方向性が変わっていくのでしょう。

 しかし、英語もそうですし、なんでもそうですけど、殆どの挫折者はこの量の段階をクリアできなくて挫折しているのだと思います。ギターだったらFが押さえられないとかいう段階で一回戦敗退していく。でも、無理ないですよ。だって詰まらんもん。でも、この詰まらなさに負けないように。

無味乾燥な砂漠を突き抜けること

 ここでスキル習得の大事な法則が出てきます。何でもそうですが、登竜門を過ぎると、いきなり無味乾燥な砂漠が広がってるということです。対策はひとつ、この砂漠地帯を一気に駆け抜けることです。もう馬鹿パワーと根性で、疾駆するブルドーザーのようにドドドドド!と砂塵をかきあげて突破することです。ここを通り抜けたら、面白い世界が広がってます。それこそ「理解」とか「技」の世界です。

 一芸に秀でている人は、何らかの形で過去にこの砂漠を通過しているはずです。だからお馴染みだと思うし、単調で詰まらん反復練習が延々続いても、他に近道はないってことを身体で知ってる。だから、ドドドと、あるいは淡々と、この段階をクリアしていける。結局それが一番早いし、一番有効なんですね。その詰まらなさに耐えかねて、もっといい方法はあるかとかウロウロやってるのが典型的なダメパターンで、結局そんなのあるわけないから、時間を無駄にするだけではなく、これまでせっかくやった部分も忘れてしまう。記憶というのは反復が大事ですが、反復にも”賞味期限”があるといいます。一回覚えたことを十数時間以内にもう一回復習して思い出しておくと、その記憶の保存率は飛躍的に高まるそうです。一定の短時間以内に反復することによって、頭の中の短時間記憶領域(RAMみたいなもの)から長時間記憶領域(ROMみたいなもの)にデーター移管をするのでしょう。これがコツですよね。でも、あちこち浮気と寄り道をしているうちに、反復動作をしなくなるから、これまでやったデーターも全部流れてしまう。だから伸びない。出来ないのは出来ないなりの科学と論理があるということです。

 その意味では、若い時に習ったものはよく身に着くのでしょう。なんせ馬力と新鮮な記憶力があるから、とても効率が良い。それ以上に、若いうちにはまだ自我が肥大していないから素直に物事が出来るってのが大きいですよね。「やれ」といわれたら素直に出来る。これが年をとってくるとですね、身体能力にガタが来て効率が悪いうえに、自我が肥大化してるから子供のような素直さで物事に取り組めないのですね。ちょっと詰まらないとすぐイヤになる。もっといい方法がある筈だとか、「なんで俺がこんなことを」とか思うのですね。だから伸びない。あったりまえですよね。

 よくいう例えですが、中学高校の部活でテニスやってた人は、たった1年だけ在籍してただけでも上手でしょう?ところが社会人テニススクールにいってる人は、大体10年通ってもそんなに上手じゃないでしょう。なぜか?ですよね。部活は、鬼のような先輩に脅されて、退屈だけど重要な反復練習を徹底的にやらされるわけです。もともと身体能力も高い若い時期に、これだけ固めて基礎反復をすれば、そりゃあ上手になりますよ。基礎を叩き込まれているわけです。でも、大人になってテニススクールとかいっても、週イチとかいうスカスカな頻度で、それも身体も出来てないのにいきなりラケット握ったりするから、うまくなるわけないです。





 基礎力が出来てないのに、背伸びして難しいこと=面白いこと、をすることは可能です。でも止めた方がいいです。結局有害である場合が多いから。なぜかというと、バランスが悪いからですし、そのバランスの悪さを固着させてしまう危険があるからです。

 例えば、ある身体動作をするために必要な筋力というものがあるのですが、それがまだ作られてない段階でそれをやろうとすると、物理的にその筋肉だけの動作では不可能だから、周辺の別の筋肉の力を借りたり、あるいは楽な態勢にしてやろうとします。それでも一応出来ますよ。でも、人間工学的に言ってもっともパワーが出てもっとも自然なフォームじゃないから、どうしたって限界はあります。さらに恐いのは、その間違ったフォームのまま固まってしまうことです。

 反復継続は人間の接着剤みたいなもので、続けていけばそのまま固まっていく。だからこの性質を利用して、反復練習という作業をするのですが、この性質が、この場合逆に作用して、間違った、効率の悪いパターンのまま固まってしまうのですね。杭をナナメに差し込んだままコンクリ流しこんでるようなものです。だから、あとでまずフォームを叩き壊す作業からはじめないといけない。これが中々難しかったりします。トータルで言えば、かなりの時間をロスします。

 英語でもこれがありまして、一応現地の学校に行き、毎日なんらかの形で英語に囲まれる生活をしてれば、ある程度喋れるようにはなります。簡単な意思疎通は出来るようになります。でも、ここが一番危ないところで、ヘタをしたら「とりあえず通じる」という段階で止まってしまうのですね。「ワタシ、がっこ、昨日、行ったねー」とかいうレベル。これでもとりあえず意味は通じますからね。最初はそれでも喋ることが大事です。英語を身体に馴染ませるという作業が必要だから、間違っててもいいから積極的にどんどん使ってみるという作業が必要です。が、とりあえず使えるようになった時点で、ほっと一息つくのではなく、スピードを落とさず、そのまま次のステップに駆け抜けないとならない。そうでないと、なまじそれで通じてしまうもんだから、「これでいいや」とか思っちゃうんですね。でもって、あとは5年住んでも、10年住んでもそのまんま。今の僕がまさにそうですわ。これではイカンと重々承知しているのですが、自然に口をついて出てくる英語フレーズを一回押し殺して、検証して、さらにヴァージョンアップした英語を模索するという作業は、かなり難しいですよ。時間がたてばたつほど難しくなってきます。これはもう、「呼吸の仕方」「歩き方」を変えるようなもので、そればっかりやってるともうガチガチに固まってしまう。


 



 というわけで、ここでの結論は、いきなり広がる無味乾燥な反復継続砂漠を知ること、それと戦うこと、です。方法的には、戦うのも簡単だし、勝つのも簡単です。ただ淡々とやってりゃいいんですから。そのうち覚えますわ。

 ここで、ハッキリさせておかねばならないのは、知的技術にせよ身体技術にせよ、技術の向上というのは、徹底的に物質的なものだということです。詳しい医学原理は僕も知りませんが、特定の筋肉をつけるのは、適切な時間的なタイミングと強度でその筋肉に負荷をかけ、動かし、疲労させ、細胞再生の際に”前年度予算を超える”栄養分を求めさせ増築させていくというメカニズムで生じるのでしょう。それはミクロに分解していけば、アミノ酸がどうしたとかいう生化学反応でしょう。技の連携とか、一連の身体の動きも、運動神経、視神経、大脳視床下部と筋肉との連動という一定のパッケージがあるわけです。それが徹底的に合理的な連携を持った状態を「正しいフォーム」と呼ぶのでしょう。それを強化して無意識的に身体がそう動くように刻み付けていく。知的技能、記憶なんてのも、大脳神経節とかニューロンというものをよりぶっ太く構築していく作業です。要するに全てが生化学反応であり、ある望ましい生化学反応を引き起こし身体に定着させるためには、徹底した反復しかないってことですよね。

 だから、根性もクソもなく、リトマス試験紙に酸性物質を垂らすと色が変わるのと同じく、あるいは金属疲労でポッキリ折れるのと同じく、カラッカラに乾いたドライな物理・化学現象でしかないってことだと思います。いっくら希望しようが、いっくらナニをアレしようが、科学法則における定量定質変化でしかない。万有引力によってリンゴが落ちるのと一緒です。希望したからリンゴが落ちるんじゃないです。引力があるから落ちるんです。だから、スキルの向上なんて、簡単といえばこんな簡単な話はないです。一定の物理化学現象を生じさせればいいだけなんですから。鉄壁の法則性に基づいてるものは、簡単です。恋人のご機嫌を取る方が、法則性があるようでないから百倍難しいです。


 こんな簡単なことなんですから、どんな人でも(正しく)やればやっただけ技能というのは伸びます。リンゴは誰が落としても下に落ちるのと一緒です。

最大の敵=感情

 ただ、なんでもそうですが、僕らがせっかく正しいことをやってるのに、必ずそれを妨害するために登場してくる悪魔のような存在があります。それは自分の「感情」です。とりあえずは、「詰まらない」「退屈だ」という感情ですね。「詰まらないから、もうやめようよ」と、悪魔がやってきてあなたの左肩に止まってささやくわけですね(右肩でもいいけど、なんとなく左肩に止まりそうな気がするな)。これは、ダイエットなんかでもそうですね。

 次に、「もっと効率的な方法があるんじゃないか」という疑問ですね。これも悪魔があの手この手で説得しようとしますね。あなたも積極的にそれに納得しようとしますね。なんせ、この無味乾燥地獄から逃れられるんだったら何でもいいわいって気にもなってるでしょうしね。で、かくして、「手っ取り早く英語を習得するメソッド」が乱開発されるわけです。これはちょっと考えたら分かるように、未だに新商品が開発・発売されつづけているということは、過去の商品のどれもが決定的ではなかったということを意味しますよね。だって、決定版が出てたら、もうそれが定番になって売れつづけているでしょうから。

 しかし、思うのですが、神様の視点で僕らおろかな人間のイトナミを見てたらさぞ笑えると思いますよ。砂漠の一本道をテクテク歩いているわけですが、上から見てたらそのまま進むのが一番近いのに、わざわざ横道に逸れて迷子になったり、息絶えたりしてるんですからね。「アホか、こいつら」って思うのでしょうねー。でも、それが僕らなんですね。ああ、愛すべき人類。

 一芸に秀でている人というのは、この無味乾燥の砂漠を通り抜けた人たちですから、この砂漠はいつか終わるということを確信できるんですね。これって、一回自分でやってみないとこの確信は出てこないと思いますよ。そしてこの確信こそが、感情という悪魔に対抗しうる免疫抗体だったりするのだと思います。

 「確信」がいかに大事か。例えば、自転車乗れる人は、子供の頃に自転車を乗る練習をしたときのことを思い出してください。よほど運動神経のいい人でも1日で乗れるってことは珍しいでしょう。最低3日は掛かる。人によっては3ヶ月くらいかかるかもしれません。教えてもらうことは限られています。「ペダルを踏んで前に進め、倒れそうになる前にペダルを踏んで前に進めばいい。前に進む力が強くなればなるほど倒れないから」ってことくらいでしょう。しかし、乗れないときはこんなアドバイス役に立たないです。ペダルを踏もうと思った時点でもう既にコケはじめていたりしますよね。「こんなもんどうやって出来るんだ!!」って腹が立ちますよね。ボコボコにコケてるから、手足は擦り傷だらけです。足のくるぶしなんか何度もペダルにぶつけてるからジンジンして涙がでてきそうです。もう泣きそう。それでも皆さん頑張って練習して乗れるようになったでしょ?なにか乗れるようになるためにトリックがありましたか?なにか決定的なコツがありましたか?ないでしょ?今乗れない人にどうアドバイスしますか・「やってりゃそのうち身体がコツを覚えるよ」「とにかくやりなさい」でしょ。それしかないもん、実際。でも、あるとき「神の瞬間」が訪れます。「あ、できた!」って瞬間ですね。あんときはうれしかったですよ。まだ覚えてるもん。でもって、出来てしまえばなんdね出来なかったのか分からなくなるのですね。

 さてここで、シクシク泣きながら練習してたときを思い出してください。「こんなん絶対無理!無理無理無理、不可能!」って叫びだしたくなってたと思います。じゃあなんで練習を続けられたのですか?普通これだけイヤな思いしたらもう止めるでしょう。なんで続けられたのですか?それが「確信力」だと思うのですよ。同じクラスの連中は既に乗れている。スポーツ万能の谷沢君が乗れるのはいいとしても、あのドン臭い石川君まで乗れている。それどころか、もっとドン臭そうな近所のオバサンですら乗っている。皆、乗れているじゃないか。乗れてない奴なんかいないじゃないか。だったら、僕にも出来るはずだ、絶対いつか出来るはずだって、これが確信です。でも、あなたが練習しているときに、誰かやってきて、「坊や、人類史上、自転車に乗れた人間はわずか3人しか居ないんだよ。選ばれた特別の人しか乗れないんだよ」と言ったら、諦めてませんか?

 体操競技のムーンサルトがオリンピックで出てきたときは世界中が腰を抜かしたのですが、今では中学生でもやりますもんね。当時は「あんなもん人間業じゃない、絶対に出来るはずがない」と思われてたものが、実際にやってる奴が出てくると「あれ、なんだ、出来るのか?」という気になり、出来ると思うと出来ちゃったりするわけですね。ギターでも、ヴァンヘイレンが出てきてライトハンド奏法をはじめたときは、世界中のギターキッズが座り小便状態だったわけですが(僕もそう)、すぐに中学校の文化祭レベルでもやる奴が出てくるわけです。僕も、ちょっと練習したけど出来るわけなくて「あんなもん出来るわけねえよ」と思ってたところが、腕も似たり寄ったりの友達がやってるのを見て、「嘘!こいつに出来るんだったら、俺にも出来るはずだ」って猛練習したら、1日か2日でとりあえずカッコだけでも出来るようになりました。そんなもんなんですねー。

 というわけで、確信をもってやりつづけることが出来るかどうか、これが第一関門ですね。で、第一関門を通過する生存率は、さあ、何%くらいだと思います?1%いるかなあってくらいだと思いますよ。





 しかし、「傾向と対策」という観点でいえば、これだけでは不親切かもしれませんね。なるほど傾向は分かった、しかし対策が、「とにかく頑張る」だけだったらツライんじゃないかって。ごもっともです。

 そこでクローズアップされるのは「メンタル管理」だったりするわけです。それは精神論でもあるし、精神安定・高揚のメンタルメソッドでもあります。大体、技芸の初期の段階の勉強方法というのは、ほとんどこのメンタル管理方法だったりするのでしょう。

 よく「努力」とかいうでしょう?努力が好きな人もいれば、嫌いな人もいますけど、「努力」って言葉自体が既にメンタルな言葉なんですよね。金属が腐食したり、リトマス試験紙の色が変わるのは、努力してそうなってるわけじゃないです。単なる物理現象です。でもって、前述のとおり技術も練習もすべて物理現象を引き起こすための定量定質的刺激でしかないです。本来ならそこに「努力」とかいう要素の入る余地はない。「継続的刺激」でしかない。しかし、人間は感情の動物だから、継続的刺激を与えつづけるのを感情がイヤがるのですね。だもんで、このやんちゃ坊主みたいな「感情」をなだめたりスカしたりしないとならず、これがメンタル管理論であり、そのメンタル管理論の一環として「努力」という言い方がなされるだけだと思います。努力ってのは、言ってみれば「イヤなんだけど我慢してやりつづけること」ってことでしょう。だからこの「イヤ」とか「我慢」とかいうのが、感情系の反応なわけです。

 だから、努力という行為に尊さなり有意義さを感じ、その重みと励ましで、イヤという感情をねじ伏せられる精神的体質・性向を持ってる人には、「努力」というメンタル管理、メンタル・サプリメントはキクでしょう。でも、努力という言葉に反発を感じる人には、あまりきかない。「アレルギー体質の方は服用を中止してください」てなもんですね。だから、そういう体質の人には、体質にあったメンタル管理方法をしないといけない。

 じゃあ、どんなメンタル管理方法があるのよ?というと、これはもう沢山あります。人それぞれでしょう。徹底的に科学的な解説をしてくれると納得する人もいれば、「みのもんたがTVで言っていた」という事実だけで十分な人もいるでしょうよ。教祖様がそうおっしゃったでもいいし、なんでもいいんです。本人がそれで納得してれば。

 こうして考えると、人間というのはつくづくアホというか、いかに感情に振り回される生き物か、ですよね。僕は、これまでの経験から、「ほとんど全ての失敗は自滅である」と思ってますが、もっといえば殆どすべての失敗は感情管理のミスマネジメントによるものだともいえるでしょう。もっとも、だからこそ人間は愛らしくも美しいのだとは思いますけど。

 とりあえず第一段階としては、一定の無味乾燥(にのように思える)量の砂漠があり、その存在を覚悟して受け入れること、そしてそれを乗り越えていくかどうかは一重にメンタル管理にかかっており、確信力というのはそこで大きな威力を発揮するのだということを言っておきたいと思います。




文責:田村

英語の勉強方法 INDEX

(その1)−前提段階  ”量の砂漠”を越える「確信力」
(その2)−波長同調
(その3)−教授法・学校・教師/スピーキングの練習=搾り出し
(その4)−スピーキング(2) コミュニケーションと封印解除
(その5)−スピーキング(3) スピーキングを支える基礎力
(その6)−スピーキング(4) とにかくいっぺん現場で困ってみなはれ〜二つの果実
(その7)−スピーキング(5) ソリッドなサバイバル英語とグルーピング
(その8)−リーディング(その1) 新聞
(その9)−リーディング(その2) 新聞(2)
(その10)−リーディング(その3) 小説
(その11)−リーディング(その4) 精読と濫読
(その12)−リスニング(その1) リスニングが難しい理由/原音に忠実に
(その13)−リスニング(その2) パターン化しやすい口語表現/口癖のようなボカした慣用表現、長文リスニングのフレームワーク
(その14)−リスニング(その3) リエゾンとスピード
(その15)−リスニング(その4) 聴こえない音を聴くための精読的リスニングほか
(その16)−ライティング 文才と英作文能力の違い/定型性とサンプリング


★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る