APLaC/Introduction of Volunteer Activities in Australia
APLaC/Introduction of Volunteer Activities in Australia

オーストラリアの

ボランティア活動の紹介


〜日豪比較と、オーストラリアでのボランティア体験のススメ〜




    なぜ「ボランティア活動」なのか??


    日本でも阪神大震災を契機にボランティア活動に興味を持つ人々が増えているようです。が、日本の場合、ボランティア活動に対して身構えてしまうところがあり、一般市民が日常生活の一環として気軽に参加できるほどに普及しているとは言えないでしょう。

    オーストラリアは欧米と並んでボランティア活動が普及した「ボランティア先進国」ですので、この国のボランティア活動のあり方から学べるものは沢山あるものと思います。

    そこで、オーストラリアのボランティア活動の実態とともに、日豪におけるボランティア活動に対する考え方の違いを検討してみたいと思います。また、実際に現地で参加可能なボランティア活動も紹介いたします。





    オーストラリアのボランティア活動


    ●多彩なボランティア活動内容

    オーストラリアにはボランティアと一言では括りきれないほど様々な種類のボランティア活動があります。
    大きく分けると、
    • 福祉(高齢者、障害者、貧困者・ホームレス、子供、女性など支援が必要な社会的弱者を対象とした活動)
    • 保健医療(ドラッグ・アルコール中毒者支援)
    • 教育(スポーツ等のコーチ、児童館の当番−近所の大人たちが持ち回りで共働きの両親を持つ子供たちの世話をする)
    • 環境保護(植林活動、動植物の保護)
    • 地域コミュニティの補助(図書館や公民館等の事務、フリーマーケットの運営、ビーチでの人命救助)
    • 移民支援(英語指導)
    などがあります。


    ●ボランティア活動の代表:MEALS ON WHEELS

    このうち、高齢者や身体障害者のために食事を届けるMEALS ON WHEELSは、ボランティア参加者数も最も多いと言われる代表的な活動です。
    公民館などに付設された公共のキッチンで、集中して食事を作ります(料理人は政府の補助金により給料を支給される)。できあがった食事を地元の人々で手分けして、車で身体の不自由な方やお年寄りの自宅に届けるわけです。

    オーストラリアでは「老いたら子供に見てもらうもの」という考え方は一般的ではありません。ほとんどのお年寄りは、たとえ身体不自由になっても子供とは別に独立して生活しています。ですから、高齢者向けの施設(リタイアメント村)も発達しているわけですが、この高齢者向け施設ですら「入らないで済むうちは自力で独立生活する方がよい」という社会的コンセンサスがあり、医者も介護士も本人や家族と相談の上、できるだけお年寄りが自立した生活ができるよう、支援方法を提案します。

    そうはいっても、身体の不自由なお年寄りの一人暮らしは大変です。そこで、多くの自立生活をいとなむお年寄りが、この食事サービスMeals on Wheelsに支えられているというわけです。このサービスは単に食事を運ぶだけではなく、届ける都度お年寄りの様子をも伺うことができます。

    余談ですが、年々高齢者問題が深刻化する日本では、なんでもかんでも面倒を見なければ!というベクトルで考えがちではないでしょうか? その結果、世話される方もする方も経済的、時間的、精神的にパンクしてしまいがちです。一方、オーストラリアの高齢者福祉を見ていると、「いかにお年寄りの自立生活を助けるか」に力点をおく、つまり「余計な面倒は見ない」という方向性もありうるのだ、ということに気付かされます。


    ●オーストラリア人のボランティア参加頻度

    では、オーストラリア人は一般にどのくらいの頻度でボランティア活動に参加しているのでしょう。

    ボランティアセンターによれば、ほとんどの人が週1回〜月1回程度しか参加しないのだそうです。つまり、自分の空いた時間を利用して、地域のお手伝いに充てるという程度。よって日本のように、いわゆる「ボランティア活動家」という人はまず存在しません。もちろん大きなボランティア活動組織には常駐スタッフがいて働いていますが、彼らはボランティア組織から給料を支払われている「雇用者」です。いわゆる「奉仕の精神」で自らを犠牲にしてまでボランティア活動に貢献している「熱い人」はここにはいないのです。


    ●オーストラリア人のボランティア参加意識

    では、なぜオーストラリアの人はボランティア活動に参加するのでしょうか? また、どういう意識で参加しているのでしょうか?

    バサーストという地方都市(シドニーから西に3時間)のコミュニティサービスで、こんな問いかけをしてみました。ボランティア・コーディネーターの答えは、「自分も地域の一メンバーであることを実感したいからでしょう。実際には、空いてる時間ヒマだからとか、他メンバーと会って世間話をするのを楽しみにしているということもあります。」

    そう、オーストラリアのボランティア参加者は、明らかに自分にとってのメリットを自覚して参加しています。自己犠牲の精神とか「貢献している」という自己満足的な目的意識は、まず見当たりません。BR>
    より分かりやすい例として、ライフセーバー(人命救助)のボランティアから聞いた話をご紹介しましょう。
    オーストラリアには海水浴シーズンになると、ビーチを監視し、鮫が出たり、溺れた人がいたら救助する仕事をする人がいます。多少プロのライフセーバーも雇われていますが、ほとんどが地域の若者によるボランティアでまかなわれており、当番制で活動します。このライフセーバーはボランティアとはいえ、人命を預かる重要な役割なので、厳しい試験をパスしないと資格が与えられません。そんなに大変な思いをして資格を取得しながら、本業ではなくボランティア止まり、それでも若者には人気の仕事なのだそうです。

     −どうしてライフセービングのボランティアは人気があるの?
    「そりゃ男は女のコにモテたいからさ。女はボーイフレンドを作りたいから。要するに男女交流の場ってわけさ。しかも、ボランティアになると、サーフボードとか自分で買うにはちょっと高価なモノを無料で借りられるのさ。それが主なメリットかな。」

    はあ?と気の抜けるような回答ですが、彼らにとってはボランティアといっても「ひとつの社交の場」にすぎないわけですね。これはちょっと極端な例かもしれませんが、どのボランティア活動においても、「各参加者が自己完結したメリットを受けている」と認識しているという意味では共通しているようです。
    ここには高尚な「ボランティア精神」などヒトカケラもありません。自分が参加した活動の結果(相手からの感謝や世間からの賞賛など)を期待するのではなく、活動している過程で参加者は十分メリットを得られているのです。

    個人的には、これが本来のボランティア活動のあり方ではないか?と思います。ボランティアする側はボランティアされる側に「ボランティアしすぎてはいけない」と思います。お互いがギブ&テイクであるというバランスを崩して、「かわいそうなあなたのために、私がしてあげるわ」という押し付け的行為になってしまうと、ボランティアされた側には精神的なしわ寄せが来ます。
    ボランティアはボランティアされる人のためにやるのではなく、基本的には「自分のために」やる活動であるべきだと思うのです。




    実は私(福島)は阪神大震災後の被災地で半年間ボランティア活動に参加しました。その時の経験でいうと、ボランティア慣れしていない日本の場合、ボランティアする側がボランティアされる側に精神的に依存してしまう、というケースが多く見られました。ボランティアが無意識のうちに自己欺まんでやっている。なかには、不安定な自己のアイデンティティを確立させる道具としてボランティア活動を利用している、つまり他人から必要とされることで初めて自己を確認するといったケースも見られました(本人は無意識でも、参加の動機を聞くとかなり明確にそれをもらす人が多い)。

    あの震災をきっかけにボランティアが身近なものになり、特に若い人々の間でボランティア活動が流行るのは歓迎すべきことですが、自己満足のためのボランティアならやらない方がマシだとすら思います。よく「ボランティアしてる人って好きじゃない」というようなことを言う人がいますが、この人にとっては「ボランティア活動家」というと、なにやら不自然に肩に力の入った人を想像してしまうのでしょう。「好きじゃない」のもあながち理解できないことじゃないですね。

    ところで、オーストラリアにもこういうタイプの人もいないことはないんです。実際、環境保護活動している「熱血ボランティア」に会ったことがあります。まあ、環境保護活動の場合、ボランティアされる側が人間じゃないので、妙に力が入っても直接の精神的被害を受ける人はいないからよいのでしょうが。


    ●福祉ボランティアへの参加理由−「かわいそうだから」と「困っているから」

    もう1点、ボランティア活動における日豪差で指摘させていただきます。
    特に福祉関連のボランティア活動で日豪差がはっきり出るのですが、日本ではボランティアされる側への気持ちの中に「かわいそう」という感情があるのではないでしょうか?
    「かわいそう」というのは、冷静に分析すると、自分のいる位置より相手が下にいる、とみなしているから出てくる言葉です。かわいそうと思えば思うほど、「キミはボクより下だからね」と相手を抑圧するようなもので、かわいそうと思われた方としてはたまったもんじゃないわけです。物理的に手助けしてもらえるのは有り難いとしても、その「かわいそう抑圧」は心に蓄積していき、いずれ爆発するでしょう。

    一方、オーストラリアの場合はどうか?というと、「かわいそう」なんじゃなくて単純に「困っている状態にあるから」助ける、といった感じがします。「根本的には同じ位置にいる人が何かの事情で今ちょっと困っているので、自分と同じ位置に戻れるように(戻れるまでの間)サポートするのだ」と認識しているようです。その違いは何かというと、「相手と自分が対等だという意識があるかどうか」です。だから、ボランティアされる側もさほど精神的に負担にならずに「今は困った状態だからしかたない。お互いさまだ」と受け取れるんじゃないでしょうか。

    なんというか、うまくいえないのですが、オーストラリアの社会全体のコンセンサスとして、「皆、対等であるべき」という強い命題があって、その命題は当然現実的には簡単に崩れてしまいがちだけど、それをどうにか命題どおりに維持しようと努力しているような、そんな雰囲気があるように感じます。ここらへんが、対等という人間関係があまり存在しないタテ社会日本とは根本的に違うのではないでしょうか?


    ●オーストラリアでボランティア活動に参加してみませんか?

    日本でもボランティア活動への参加希望者が増えているようですが、ボランティアをやる人の肩にヤケに力が入ってしまったり、人々がボランティアを胡散臭がったりしているうちは、日本にはまだまだボランティアが根付いていないと言えるでしょう。日本でももっと気軽に、もっと自然に、日常生活にヒトコマとして誰もが取り入れられるようになって欲しいものです。

    上記のようなことは、日本社会では感覚的に理解されないことが多いかと思います。が、是非とも諸外国のボランティア活動がどういう意識に支えられて、どういう具合に浸透しているのかを見てほしいです。できれば、活動に一緒に参加して、ボランティアたちを観察し、意見交換し、目に見えないものを掴んで帰国してほしいと思います。


    シドニーでボランティア活動に参加されたい方のために、リストを作成しました。

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    日本語教師アシスタント・ボランティア(インターン)」のコーナーを新設しました。(99/12/20)
      ひとつのボランティア、長期海外滞在の方法として、興味のある方はご参照ください。



    文責:福島麻紀子


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