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今週の1枚(04.12.06)





ESSAY 185/英語の学習方法(2)


−浮世離れの本質論と波長同調


写真は、夕闇のBoronia Park(Gladesville)。夏至も近づくこの時期、サマータイムということもあって8時半くらいでもこのくらい明るいです。



 前回に引き続き、英語の学習方法について思うところを書きます。前回は、まず英語に限らず、すべての技芸習得の本質である「量の獲得」について書きました。その続きです。

 しかし、じっくり考えれば考えるほど、語学に関していえば「量」さえやってればそれでいいんじゃないかって気もします。初期の頃は何がなんだか分からない時期が続きますから、ひたすらやるしかないですが、徐々に分かってくると漫然とやるのではなく意識的に深めていく必要があります。その「意識的に深める」という部分をとらえて「質」ともいえますが、それでも尚も本質的には「量」ということになるんでしょうね、と。

 まあ、このあたり「量」というか「質」というか、言葉の遊びみたいな部分もありますが、なぜ僕が「結局、量なんだよな」という印象をもつかというと、母国語である日本語習得がまさに「量」だったからです。これは僕だけではなく、皆さんもそうだと思います。国文法の詳細や、日本語の母音子音の発音原理や技術など、あらたまって学ぶ機会は少ないですし(学校で多少やるけど)、別にそれが出来たから今日本語ができるようになってるわけでもないでしょう?

 例えば、日本語の文法ですけど、これってメチャクチャ複雑ですよ。例えば日本語の動詞の活用形、国文法的には「用言の活用」といいますが、覚えてますか?五段活用、上一段、下一段、カ行、サ行変格活用と分類できます。あなた、日本語のどの動詞がどの活用形なのか、今、瞬時に分別できますか?「来る」は何活用で、「食べる」は何活用でしょうか?さらに活用形の中身である基本的な語尾の六変化=未然・連用・終止・連体・仮定・命令、さらに派生として可能/丁寧、これらについて的確に説明できますか。日本語をちゃんと喋ろうとしたら、日本語のあらゆる動詞が正確にどの活用形に属するかを記憶し、文章の流れに応じて的確に変化させねばなりません。これに比べたら英語の語尾変化なんか全然楽チンですよ。規則動詞と不規則動詞、変化も現在・過去・過去分詞、それに現在分詞(ing形)があるくらいですもんね。

 こんな気が遠くなるような膨大な暗記のカタマリみたいな日本語という言語技術を、僕らは苦もやり遂げられるわけです。今書いた「遂げる」だって、遂げナイ・遂げマス・遂げル・遂げル(時)・遂げレバ・遂げヨと言えるでしょ?そんなのどこで覚えたのですか?どうやって覚えたのですか?それより何より大事なのは、僕らはそういった技術情報、文法知識というものを殆ど意識してないということです。今こうして指摘されても「ああ、昔、中学の国語でやったかな、、」という程度のものでしょう。日頃意識なんかしてないでしょうし、覚えるにあたってその技術論から入ったわけじゃないでしょう。「これはサ変だから」なんて単語の覚え方はしなかったでしょう?

 国文法は何も活用形だけではないです。もっとも基本的な「です・ます」だって、どういうときに「です」になって、どういうときに「ます」になるか外人さんに説明できますか?「言いマス」とはいうけど、「言いデス」とは言わないでしょう?「いい(良い)です」とは言うのに、なんで「言いです」って言わないのですか?「来ました」とは言うけど、「来ますた」とは言わないですよね、訛らない限り。「ですます」なんだから「来ますた」でいいじゃないですか。なんでダメなの?「来でした」って言ったっていいじゃないですか。なんで言わないの?その分類の原理はなんですか?説明できますか。これ、こっちにきてエクスチェンジなどでオーストラリア人に日本語教えるときに頭抱えますよ。さらに僕らネィティブでもよく間違える「てにをは」になったら、もっと地獄的に複雑ですよねー。それと、発音。日本語の発音、例えば「あ」とか「す」はどうやって発音するのですか?英語のthが舌を挟んで、、とかいう具合に意識して喋ってますか、そしてそれを的確に説明できますか?出来ないですよねー。





 でも、これって変じゃないですか?どんな技芸でも、自分がマスターした領域については原理も技術も知ってるし、説明できますよ。車の右折方法も、スキーのパラレルターンも、ギターのアルペジオも、料理だったら「こーやって、あーやって」って言えますし、説明もできます。知らないうちに身体が動いていて、気がついたら湯を沸かしていましたとか、恐山のイタコじゃあるまいし、そんな憑依現象や狐つきみたいなことってないですわ。つまり、原理も技術も知らないのになぜか出来てしまうなんてことは普通あえりえないです。しかし、その不思議なことが語学には起きているのですね。なんで、説明も出来ないことが出来るのか?

 だから「量」なんだろうな、と。理屈も技術もへったくれもなく、とにかく圧倒的に膨大な量をやってきたから(聞いて、読んできたから)なんとなく覚えちゃったってことでしょう。勿論、日本語でも「質」はありますよ。より的確で、より品格のある表現技法というのはありますが、それは普通の日本語がひととおり出来るようになってから、さらに専門的にスキルアップする段階での話だと思います。「格調高い表現」などです。いつも「ムカつく」だけだったら馬鹿の一つ覚えみたいだから、「腹が立つ」と言い換えよう、これでもまだスラング気味だから、皇室の方が喋っても違和感ない程度に格調高く「腹に据えかねるものを感じた」とか、「いささか感情を害した」とか言い直しましょう。「キレる」というのも品格のない表現だから、「激昂した」に言い換えましょうとか、こういうレベルはありますが、これってかなり上級です。少なくとも活用形や「ですます」が間違ってるとかいうのとはレベルが違う。ましてや小説や文学レベル、あるいはコピーライティング、法律文書、公用文書になれば独特の配慮が必要であり、これは質的なものと言えますが、こんなの上々級でしょう。ネィティブの中でも一部でしょう。

 英語でも同じなのでしょう。「シェークスピア風の言い回しにしよう」「いかにもワシントンポスト風に」とか、「アイルランド系でアメリカ中西部出身の1980年代の大統領(例えばレーガンとか)が使いそうな言い回し」とか、そのくらいのレベルの英語表現をあーでもないと推敲できるくらいの英語力になったら、「質」を言ってもいいんだろうなーとか思うわけです。

 だから、殆どが「量」なんだろうなと思ったりするわけです。






 もちろん、「量」とかいいつも、文法はやりますし、発音技術も意識的に訓練します。しかし、その究極の目的とするところは、「そんなのいちいち意識しなくても正解(正用法)が出てくる」「(というよりも)正解しか思いつけない、間違えられない」というくらい徹底的に身体に馴染ませることです。また、そのくらい身体に馴染ませないと実戦では使えない。

 だってそうでしょう?あなたが日常日本語を使ってるときに、「これは上一段活用の連用形だから」とか「”は”の発音のコツは」なんかイチイチ考えてないでしょう?というか、そんなこと考えながら普通に喋ることなんか不可能ですよ。頭のCPUがパンクします。英語も同じです。実際に現場で使ってるときに、無意識に出てくるようでないと意味がないです。

 「三人称単数現在だと動詞にSをつける」という文法知識がありますが、これは結構誰でも知ってると思います。しかし、いついかなるときでもSを付けられるか?というと、これが出来る人はきわめて少ない。僕でもよく忘れます。「いかなるときでも」というのは、寝言で喋るときでも、夢にオーストラリア人が出てきて英語を喋るときでも、ということです。ここまで徹底して完全にいつでもSがついているという状態になってはじめて「マスターした」といえるのだと思います。

 思うに、文法知識というのは、知識として知っていても何の役にも立たないってことなのでしょう。それが使えない限り意味がない。「知っている」のと「使える/出来る」のとは天地の隔たりがあります。もっと言えば、文法知識というのは、スポーツで言えば「腕立て伏せ100回やって」「もっと正確にドリブルして」「ラケットは水平に振って」などという命令文のようなものなのでしょう。その命令文を知識として知っているだけだったらしょうがないんです。「腕立て100回」も「三単現にS」も同じ事であり、大事なのはそれをやるかどうか、出来るかどうかです。出来るようにするためにはどうしたらいいか?練習ですわ。だから結局「量」しかないでしょうってことです。

 しかし、多くの人はここを勘違いして、「三単現S」という知識を覚えたら、それでもうやった気になってる。それって「腕立て百回」というコーチの命令を理解したというだけの話で実際にやってもいないし、出来もしないのと同じです。「腕立て百回」って復唱するだけでやったことになるんだったら苦労いらんですよ。そこを勘違いしている限り、永遠に英語はできません。あったり前ですよね。よく、日本人は、「文法はさんざん学校でやったから、会話を中心に」とか「文法いくらやっても喋れるようにならない」とかいいますが、それって「やってない」んでしょう。


 思うに文法というのは、僕らの国文法のように。完璧に覚えて、完璧に忘れるのが最高なんでしょうね。「三単現のS」も死ぬほど反復練習を繰り返すうちに、「Sをつけるなと言われてもついつけてしまう」「もう自然に口がそうなってしまう」というレベルにいくのでしょう。そこまでいけば、もう「三単現のS」なんて文法知識は要らないです。忘れてしまっていい。むしろ忘れてしまった方がいいくらいでしょう。車の運転でも、「進めはアクセル、止まれはブレーキ」なんてこといちいち意識して運転してませんよね。というよりも、そんなことイチイチ考えながら運転してる方が前方不注意になりそうで恐いです。考えなくても身体がそう動くように徹底的に仕込む、仕込んだらもう考えない、というのが理想です。





 なんか、話はどこまでいっても「沢山やれ」という「量」の話にしかなりませんねー。これじゃ、面白くないというか、ある意味、絶望的ですらありますよね。しかし、まあ、考えれば考えるほど、そうとしか言えないんじゃないかって思うのですよ。 

 じゃあ、「量、量」って言うけど、具体的に何をやればいいのよ?ってことになりますが、別に何も目新しいことはないですよ。文法的には中学高校の復習をしてればいいです。大学入試の特に難問奇問なんかやらなくてもいいけど、「こーゆー法則性がある」ということは、中学高校レベルで十分。あとはボキャブラリ。新聞でも小説でもありとあらゆるジャンルの読み物を読んで(聞いて覚えるってテもあるけど、聞き取れないから効率悪い)、片端から辞書を引く。覚えるまで何度でもひく、と。それだけやってればかなり出来るようになるはずです。

 まあ、このやり方、インプット→アウトプットの関係とか、いろいろ細かなコツとか思うところはあります。それらはまたあとで書きます。ここではとにかく量を強調して、強調して、強調しまくっておきます。だって絶対量が足りなさ過ぎるんだもん。「読む」とかいっても、1日100ページとかそのくらいのボリュームでやんなきゃダメですよ。コツは、「これだけやれば、そりゃできるわ、出来なきゃ嘘だわ」って思えるくらいです。

 これって厳しすぎるのかもしれないし、お愛想みたいに喋るだけだったら、それなりにやり方もあるんですけど、、、、、でもねー、本格的に出来ないとしょうがないでしょ、これからの時代。今までだったら、まあ、日本だけで完結してたかもしれないけど、これからの日本、国際化するというか、日本では食えないから外に出稼ぎに行きましょうとかいうケースも、特別に選ばれた人達だけの話ではなく、誰にでも普通にある話だと思うのですね。それに、今、日本の中に猛烈な勢いで外資が入り込んでるでしょ?マツダのフォード、日産のルノーだけでなく、新生銀行もそうだし、有料道路なんかも結構外資が買ってるようです。だから、やる以上は本格的に使えるレベルにまで高めておいた方がいいと思います。どうせ金とヒマを使ってやるんだったら、将来的に活用範囲が広い方がいいでしょうしね。





 以下、その量の砂漠を超えるときの心構えというか、メンタル管理のコツというか、その単調な時期を何を考えて過ごせばいいのか?ってことを書きます。

 あなたが本格的にその技能を修得したいと思えば思うほど、「○○とは何か?」という本質論を考えるといいです。
 英語だったら、「英語とはなにか」とか「言語とはなにか」、さらにさかのぼって「人間のコミュニケーションとはなにか」です。別に勉強時間に必死こいて考える必要はないですけど、常日頃、バスにぼけーっと揺られているときとか、お風呂はいってるときとか、薄ぼんやりと考える癖をつけておくといいですよ。

 結論なんか出なくていいですし、出す必要もないです。ただ、「なんなんだろうなあ」って考えること。これがですね、あとでメチャクチャ役に立つと、僕は思ってます。逆にいえば、あんまり実用性ばかり追い求めない方がいいよってことです。「すぐに使える英語表現」とかね、それはそれで大事だと思いますよ。だけど、あんまりそればっかりってのもなー、良くないよなあって思うのですよ。

 なぜか?センスが悪くなるからです。
 自分のやってきた領域にひきつけて語らせてもらうと、司法試験を早く通るコツみたいなものがあるとしたらですね、ヒマな時間に、こういった本質論を考えるといいです。試験に出る/出ないでいえば、絶対に出ないようなもの、全然実用性なんか無さそうな、浮世離れしたようなこと。例えば、「なぜ人を殺すのは悪いことだとされるのだろう?」とか、「なぜ人間は自由を欲しがるのだろう」、「なぜ人は争うのか」とかそんなことです。

 こんな哲学青年が考えそうな浮世離れしたテーマやってるよりも、「違法性阻却事由の錯誤に関する判例の立場」なんてのを要領よく整理してた方がとりあえず試験対策としては有意義に見えますよね。でも、そんな実用性一点張りでやってると、「器」が小さくなってしまうのですよ。

 なんて言えばいいのかなあ、、、あのですね、大きな山を積み上げるとします。出来るだけ頂上を高くしたかったら、富士山みたいに物すごく広い裾野を作っていかなくてはならないでしょ。頂上を高くしようとして、頂上部分に盛り土をしても、それで上がる高さなんか知れてるし、すぐに崩れてしまうのですね。もう、土台から一回り大きくしていかないとならない。これはどんなことでも同じだと思いますけど。そして、この一見愚にもつかない浮世離れした本質論が、この土台になるのだと思うのです。

 法律でいえば、「法律屋」と「法律家」があると言われます。僕も、「”家”になれ、”屋”になるな」とは上の人から言われました。法律屋ってのは、現在の法規制を良く知ってて、ここにこういう抜け道があるとか、そのあたりは詳しいのですね。ヤクザなんか良く知ってますもんね。だから実践性はバリバリある。でも、「新しい法律を作ってみろ」って言われると彼らには出来ない。基礎がないから、そういうことは出来ないのですね。法律家というのは、人類にとってなぜ法律は必要なのか、どういう法律が求められているのかから入りますから、個々の細かい実戦知識は劣るかもしれないけど、法律を読めば、なんでこういう規制にする必要があるのかは手にとるように分かる。だから、自分たちで無人島かなんかで新国家を作ったとして、憲法をはじめすべての法律を一人で作り上げろといわれても出来る。そりゃ上手とかヘタとか、時間がかかるとかいうのはあるでしょうけど、基本的に、法律家の看板掲げているんだったら、そこまで出来なきゃ嘘でしょう。

 パソコンでもそうでしょう?バリバリ使いこなしている人がいても、じゃあゼロから新しいソフトをプラグミングしてごらんといわれたら全然出来ないとか、ゼロから組み立ててごらん、マザーボードの回路設計をやってごらんといわれたらお手上げだという。やっぱり、これが出来る奴は強いんですよね。「Windowsの裏技」などに詳しい方がとりあえずの実用性や実践性はあるけど、即効ゆえに短命でもあり、効果の及ぶ範囲は狭い。Windowsのヴァージョンが変わったらおしまいだったりします。そこへいくと、土台が出来てる奴は強いんですね。ちょっちょと触って、「は、はー、なるほどね」ってたちまちにして理解してしまえるから。

 司法試験でも、若くして(22-3歳くらいで)通ってきた奴と話してると、1年生の時から真面目に受験科目以外の科目、つまりは法哲学とか、法思想史とか、近代思想とかそのあたりをやってきてるのですね。それが強いんですよね。僕らみたいに、最初の頃に遊び呆けて、後になってから「そろそろやるべ」でやってきた連中は、ともすれば実用性を追い求めてしまう。過去問をやろうとか、定番の基本書を使おうとか、技術に走る。でもって失敗する。

 まあ、十数年前の話ですからね、今はどうか知りませんよ。今年は1500人も合格してますから、随分と楽な試験になったもんだと思います。僕らのときは500名も合格しませんでしたし、受験生2万強人中、上位1500番に入れればいいんだったら僕だって22かそこらで合格してます。それが25歳までかかったのは、そこから先が地獄だからです。特に上位1000番の中でさらに上位半分に食い込む戦いが極めてシビアなんですね。ただ、その苦しい日々のなかで「発酵」するものはあります。膨大な量をこなすのは当然としても、その量を土台にして「発酵」させていいお酒を造れるかどうかが大事なんです。そして、その酒精分こそが、実務についたときモノをいうのだと思います。だから、僕は合格者を増やすのは基本的に疑問視してます。発酵しなければ良い法律家になれないと思うし。

 で、その「発酵」に、法哲学などの周辺知識が強烈な威力を発揮するのですね。受験時代よく言われる言葉で、「スジがいい」という概念があります。若くして、それほど知識ももってないのに合格してくる連中というのは、飛びぬけてスジがいいんです。数学でいえば公式を沢山暗記してるのではなく、そんな公式知識はないのだけど、その場で自分の頭で考えてその公式を導き出してしまえる奴というのがいますが、それが「スジがいい」ってことです。法律でも、「よく知らないけど、多分こうなるはずだ」という推測力が的確で、ストレートなんです。ブレない。だから、長距離の推測をしても、ゴルゴ13の射撃のように、的確に射抜くのですね。これは司法試験において必殺の特技になりえますし、また実務においても役に立ちます。

 こういうスジの良さ、センスの良さというのは、何によって生じるかというと、土台だと思うわけです。土台がバランスよく築かれているから、その上に高い建物を作っても安定している。英語もしかり、ということで、ヒマなときに浮世離れした本質論を考えるといいですよ。あるいは英語に関する周辺本でもいいです。「英語のなりたち」とかね。英語はいろんな言語のミックスジュースですから、元ネタを知ってると強いってのはあります。



 一例をあげましょう。さっき「三単現のS」が出てきたから、これを取り上げましょう。浮世離れした方向性で本質論を考えるというのは、例えば、「なぜ、三単現だと動詞にSをつけるのか?」ということを、あーでもないとウダウダ考えることでもあります。

 「そーなってるから仕方がない」「それは、そーゆーもんだ」というのも一つの回答ですし、おそらくは正しいのでしょう。でもね、なんでそんな面倒くさいことをするんでしょう?あいつらは。誰が考えたって面倒くさいじゃないですか。面倒くさいことをわざわざやって楽しむ趣味なのか?そんな筈はないだろう。

 人間というのは、生物である以上、快楽原則に支配されているはずで、だから出来るだけ楽をしたいと思うはずで、言語だって意味が通じるギリギリのところまで省略しよう、手を抜こうとする傾向が常にある。日本語だって、すぐに省略するでしょ。木村拓也だってキムタクだし、ドリカムだし、イタ電だし。英語だってそうですよ。長くて面倒くさい単語はすぐ省略します。ベジタブル(ズ)なんか面倒だからベジーズだし、ユニバーシティもユニだし、ヴェテリナリー(獣医)はヴェットだし。

 これだけコンスタントに手を抜こう、楽をしようと思う人々が、なぜ三単現にだけSをつけるという面倒極まりないことをするのか?それはそれなりの理由があるのではないか?

 こっから先は推測ですよ。僕がテキトーに考えただけの話で、うかつに信じない方がいいですよ(^_^)。
 思うに、三単現にSをつけるというのは、その方が彼らにとっては都合がいいから、その方が彼らにとっては自然だからなのでしょう。自然だというのは、最初から、彼らには三単現状況が他と違って見えている、他と違う脳内思考領域で処理してる、最初から違ってるのだから、違ったように取り扱った方が楽なんじゃないか?ってことです。

 まず、三人称(he, she, it)と一人称(I)/二人称(you)の違いですが、なんで三人称だけ区別して扱うかですよね。「私」と「あなた」と「彼ら」、確かに違うような気がします。「私」というのは、他ならぬ自分自身なので周囲の外界から峻別されるのは分かります。と同時に、その私が直に対面している「あなた」もまた特別な存在なのでしょう。三人称というのは、いわば外界、外部環境であり、舞台の背景の書き割りのような存在であり、私とあなたというメイン&準メインキャラからしたら、あきらかに区別されるべき存在なのでしょう。

 こういう物の見かた(見え方)というのは、西欧的な個人主義、まず「私」があって「世界」があるという、一人一人の人間のキャラがクッキリ立ってる世界観とつながっているんじゃないかと思います。これに対して、日本的世界観は、個と全の境界が曖昧で、「全体のなかのワンピースとしての自分」という感じで認識している。これはこれまで他の個所で色々書いてきたことでもあります。あんまり個人を個人としてクッキリ立たせるようには考えないのが日本風なのでしょう。こういったモノの考え方が言語に反映され、三人称だと微妙に言い回しが違ってくると。その「違うんだぜ」というシルシとして動詞にSをつけるんじゃないか。

 しかし、同じ三人称でも複数の場合はSをつけないですよね。三人称が外部キャラだったら、別に複数でもSをつけたらいいじゃないかってことになりそうです。ここは確かに矛盾してるのですが、「三人称単数」ってのは、純然たる外部環境でもないのでしょう。外界なんだけど、まったくの背景ではなく、背景からピョコッと飛び出て、それなりにキャラが立っているのでしょう。外界なんだけど、「その他大勢」的な雑魚キャラじゃないくて、それなりに存在感のあるサブキャラなんでしょうねー。その証拠に、三人称って、単数だったら he とか she とか性別で分けるけど、複数になったとたん男女関係なく theyになっちゃうでしょう?「彼ら」と「彼女ら」の区別は英語では出来ない。それだけもうどっちでもいい、あまり意識もしてない、そんなに重要だと思ってないのでしょう。しかし、一人で行動してるときは、個人主義的な発想が出てくるから、なんとなく注目してしまうのでしょう。だからSをつける。

 じゃあ、なんで、もっとも大事な一人称や二人称と、もっともどうでもいい三人称複数が同じ表現なんだよ(Sがつかない)というと、よう分かりません(^_^)。このくらいかけ離れているといちいち表現でシルシをつける必要がないからかもしれません。

 次になんで現在形だけSがつくのだ?という問題があります。これは英語の場合(西欧系の言語一般の特徴でもあるけど)、なんでそんなに時制をやかましく言うのだ?という疑問に重なります。これもよう分からんのだけど、彼らの方が時間感覚が日本人よりも鋭敏なのでしょう。これ「時間に正確」という意味じゃなくて(それだったら日本人の方がはるかに正確)、時間的先後関係、相対的な関係に敏感だということです。なんでそうなったのかというと、適当な仮説で言えば狩猟民族だからかもしれません。狩猟というのは、チャッチャと場面が変わる。「たった今、そこの木立から鹿が西に走っていった」とかね、数秒レベルでも正確に表現しないと狩猟が出来ない。でも、農耕民族は1年サイクルですから、数秒間隔で何がどう変化するものでもないから、自然、ゆったりとした時間表現になる、、、と。まあ、西欧人って狩猟民族なのかどうか怪しいですけど(農耕民族じゃないかって気もしますが)。

 あと、以前に書いたような記憶がありますが、助動詞の過去形が"d"ないし"t"で終わること(could, should.would)、過去形も”d””t”をつけること、完了過去もhadで”d"であることから、I'd と省略したら I would なのか I had なのかわからんのだけど同じように省略すること、、、、彼らの世界観では、「いまここに現実にある話」と「過去ないし仮定など、今ここには現実にはない話」とが厳然と分けられているのでしょう。思うに、彼らの脳裏のスクリーンには、「いま目の前にある現実」とそうでないものとは、全然違って映ってるのでしょう。映画の回想シーンになると、縁取りがボヤけて、レンズにフォーカスがかかったりしますが、あんな感じに見え方が違うんだろうなーって気もします。

 もう一点。「なんでSなの?」ということですが、これは複数形の場合でもSを付けることから、好きなんでしょうね、そのサウンドが。これは日本の方言で「〜だべ」と最後に「べ」がつくとか、関西弁で「〜や」になるとか、九州弁で「〜たい」になるのと同じくで、「〜ず」と「ず」がつくと気持ちイイ人たちなんでしょうね。英語の人たちは、上記の過去形などのD/T、そして複数系などのSがサウンドとして好きだし、言いやすいのでしょう。






 これら適当に書いてきた説明は、完全に僕の思い付きですし、与太話といってもいいです。だから信じちゃダメですよ。でも、この仮説が正しいかどうかなんかどうでもいいんです。このようにあーでもない、こーでもないと考えることが重要だと言ってるだけです。ですから、なにか書物を読んで知識としてこの種の話を集めるよりも、自分の頭で考えることが大事なんですね。なぜ大事かというと、こうやって考えていく過程で、「三単現ってのは違うんだ」ことが、自分の脳味噌に深々と植え込まれていくからです。

 「三単現にS、三単現にS、、」と念仏を唱えてたって英語はうまくならんです。
 実戦的にいうならば、一番大事なことは「S」をつけることではなく、どういう状況が三単現なのか感覚的にピピッとくるようにすることだと思います。もう自分の頭の中のスクリーンに考えている内容が映し出されるわけですが、三単現になるとそこでスクリーンの色が変わるとか、効果音が流れるとか、なんでもいいですけど、明らかに三単現状況とそれ以外とを、普段ものを考えている段階から分ける癖をつけること、これが一番大事です。三単現にSを付け忘れて失敗するのは、Sを付け忘れたから失敗してるのではありません。それが三単現的状況だということを見過ごしたから失敗するのだと思います。認識出来てたらSをつけてますわ。

 ここまで考えたら、今度はその特訓をするわけですが、これって何も英文でなくても構いません。日本文でもいいです。新聞でも小説でも手紙でもなんでもいいですから、それを読みながら、三単現になったところをライナマーカーで塗っていくという作業をしてもいいでしょう。どういう場合が三単現なのか、自分の頭にキッチリ覚えこませて、第二の天性のように自然にそこだけ浮き上がって見えるようにする。

 と、同時に、その前提として、日本文にはあんまり主語が書かれてませんから、主語を自分で振っていくという作業が必要になります。まずそこから始めた方がいいかもしれませんね。日本語に主語が少ないのは、前述の比較でいえば、西欧的世界観に比べれば、個々のキャラをあんまり立たせたくない全体調和型世界観の中に僕らがいるからなのでしょう。





 以上、長々と書いていましたが、浮世離れした本質論をヒマなときにグデグデ考えていてセンスを良くしようという話でした。なんで、こういう作業でセンスが良くなるかは、もう繰り返さなくてもいいですよね?

 言語というのはその人の思考パターンや世界観から出てくるものですから、本気でその言語を習得したかったら、言語表現から窺われる彼らの世界観や発想のクセを掘り下げていって、盗むこと。そして、自分の頭にそのパターンを染み込ませていくことが大事だと思います。

 まあ、言うのは簡単ですけど、やるのは大変です。自分の思考パターンや世界観、世界の見え方そのものを変えていこうというのですから、生半可なことでは出来ません。すっごく時間が掛かると思いますが、だからこそヒマなときにボチボチとやっていけばいいと思うわけです。

 ただ、この作業は非常に有意義だと僕は思います。結局、そのスキルをモノにするということは、その領域世界の世界観なり論理なり感覚、いわば「波長」みたいなものに、自分の波長を同調させることだと思うのです。だけど、これ、日本人は得意だと思うのですけどね。「武道の精神」「茶の心」とかいって、技術と精神をきちんと分けて考える伝統がありますし、「〜とは何か」という哲学的な発想に向いている国民性だと思います。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とか言ってるじゃないですか。

 余談ですけど、「哲学的発想に向いている」と書きましたけど、日本人は根っからの哲学人間、思想人間ではなく、テクニカルな作業として技術や精神を取り外して扱える民族だと思います。これは神仏習合をやってしまった聖徳太子以来の「着脱自在のいいとこ取り」という世界でも珍しい日本人の特性ですよね。だから、日本人は、ある世界に没入して敬虔な信者になるとかいうことがあんまりないです。ある意味、日本人くらいドライでプラグマティックな民族はないとすら思えるくらいで、CDソフトを入れ替えるように、チャッチャとその世界観や哲学をインストールできるし、またアンインストールできる。明治維新や戦後などにガラッと考え方や世界観を変えましたけど、あんなこと普通の国では絶対出来ないと思われるのですが(バリバリのキリスト教やイスラム教国が一夜明けたら仏教徒になってるなんて考えられないでしょ)、僕らにとってはCD入れ替えるくらいのものなのでしょう。それがゆえに、世界的にみたら「薄気味悪い民族」に見えるのかもしれないけど、それだけ言語学習には向いてるかもしれません。言語学習のための哲学や世界観なんか別に底の浅いものですから、このくらいドライでプラグマティックである方がむしろ都合がいいですからね。


 いずれにせよ、英語世界の波長に同調することによって、いわゆる英語的なセンスやスジが磨かれるんじゃないかと思います。このセンスがダメだといつまでたっても上手くなりませんからねー。よく言うでしょう、日本人が書いた英文はすぐにわかるって。僕もわかりますよね、いかにも日本人が書きそうな英文だなーって。世界観が日本のままだからですね。日本の世界観で映ってる物事を、そのまま英語に直そうとしているからどっかしら不自然になるのですね。




補足:「三単現にS」をつけるのを面倒臭いと思うのは、実は英語スピーカーの中にもいるみたいで、「正しい」英語ではないけど、くだけた言い回しではSをつけない、doをいちいちdoesにしないって話し方は実際にあるようです。いい例が、ビートルズの「涙の乗車券/ticket to ride」の歌詞です。サビの部分、"She's got a ticket to ride"を3回繰り返したあと、 "but She don't care"って言うでしょう?この曲知ってる人多いと思うので頭の中で再生してみてください。「ば・しーどンけあ」って歌ってますよね。まあ、歌詞だから語呂がいいとかいう理由もあるのでしょうが、聞いた話でうろ覚えなのですが、どっかの地方では方言としてdoes がdoになるという。あと、アメリカ英語では、面倒くさいからひとまとめにして ain't(エイント)にしちゃったりしてますよね。





文責:田村

英語の勉強方法 INDEX

(その1)−前提段階  ”量の砂漠”を越える「確信力」
(その2)−波長同調
(その3)−教授法・学校・教師/スピーキングの練習=搾り出し
(その4)−スピーキング(2) コミュニケーションと封印解除
(その5)−スピーキング(3) スピーキングを支える基礎力
(その6)−スピーキング(4) とにかくいっぺん現場で困ってみなはれ〜二つの果実
(その7)−スピーキング(5) ソリッドなサバイバル英語とグルーピング
(その8)−リーディング(その1) 新聞
(その9)−リーディング(その2) 新聞(2)
(その10)−リーディング(その3) 小説
(その11)−リーディング(その4) 精読と濫読
(その12)−リスニング(その1) リスニングが難しい理由/原音に忠実に
(その13)−リスニング(その2) パターン化しやすい口語表現/口癖のようなボカした慣用表現、長文リスニングのフレームワーク
(その14)−リスニング(その3) リエゾンとスピード
(その15)−リスニング(その4) 聴こえない音を聴くための精読的リスニングほか
(その16)−ライティング 文才と英作文能力の違い/定型性とサンプリング


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