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今週の1枚(10.04.05)





Essay 457 : 「海外」という選択(その6)

赤の他人のあたたかさ  〜オーストラリアにきて「いいなあ」と思うこと




 写真は、Newtownの隣のEnmore。前にも特集しましたが、この界隈のグラフィーティは落書きの域を超えてアートになってます。
 写真をクリックして大きくすると分りますが、実はこの建物、お医者さんなんですよね。
 で、絵をよーく見ると、分る人には分るのですが、これはNewotown駅前広場ですね。今はCafe Newtownになっちゃったけど、昔ここのはPorcciniというカフェだった。


 前回に続いてオーストラリアに住んでて生理的に気持ちいい部分。前回は自然、今回は「人」です。

 オーストラリアに来て人間が好きになったという人は多いです。「人間っていいな」みたいな。
 日本にいるときは対人恐怖症、あるいはそこまでいかなくても苦手感を抱いていた人が、がらっと変わったりするのもオーストラリアです。

 ただし、なんでそうなるのか、それってオーストラリアだけの話なのかというと、複雑微妙です。


赤の他人のあたたかさ


 最初にオーストラリアにやってきて感じたことは、人の笑顔が違うということです。なんか、こう、ダイレクトに染みるんですね。春の日だまりのように、明るさという光度だけではなく、あたたかい温度をも感じるというか。

 着いたばかりだから親しい友人がいるわけでもなく、人との接触する機会というのはホテルのフロントであったり、町の店先であったり、行き交う人であったり、まあ基本的には赤の他人、行きずりの人達です。その行きずりの人達から温かい笑顔をもらう。例えば、お店でなにか物を買うときに、お店の人が「はいっ、一個オマケね!」とウィンクするような感じ。これもスーパーとか銀行のような大規模組織でかしこまった感じのところはダメで、零細個人商店などがいいですね。エリアではシティが最悪に感じが悪くて、うらびれたサバーブにいくほどいい感じですね。年齢性別でいうと、なんかしらんけど、中年男性、つまり「おっちゃん」がいい味出している場合が多いように思います。

 そして、これは今でもそう思うのですが、「行きずりの赤の他人が温かいからオーストラリアに住んでいる」って部分は大きいです。そのせいなのか、頑張って友達作ろうとか知り合いを増やそうとか、そういう気分はだいぶ薄らいでいます。

 これも色々な要素が絡み合っていて、どこから説明したら良いのか途方に暮れ、ウンウン唸って書きあぐねているのですが、まあ、手当たり次第に書いてみます。

 まず、「温かい」と書きましたが、特にその個人がハートフルで優しい人だというのではなく(そうなのだろうけど)、個々人の特性ではなく、おしなべて人間だったらもともと持ってる自然の温かさです。ナチュラルで、より地に近い。

 「地」って何よ?というと、もう忘れかけている幼なじみに最初に出会ったときのような感じ。まだ3歳とか5歳の頃、公園や原っぱで知らない子供を見かけ、なんとなく目が合ったときに、お互いにニコッと笑う感じ。

 思うにこの「感じ」が、人間と人間の関係の原点なのでしょう。
 利害打算とか、義理人情とか、世間体や体裁とか、、そういったものを一切切り離して、それでも他の人間に対して感じるほのかな好意のようなもの。自然状態における人と人の友好的な雰囲気。あるインディアンが知らない部族のインディアンに会ったときに、片手を挙げて「ハウッ」とかやる感じ(本当にそんなことやってたのか分からんけど)。

 人間のハートというのは地下のマグマみたいなもので、その距離が近いと地下水が温泉になるように、より「地」に近くなればなるほど自然に暖かく感じる。逆に人工的なもの(世間体とか営業用スマイルとか)が中間的に入ってくると、どんどん地下マグマが遮断されるから、温度が冷えてくる。

 オーストラリアには温かい人が多いというよりも、オーストラリアは、何故かは分らないけど、地下マグマとの距離が短い。人が本来持っている温かさをより引き出すような環境にある、と言った方が正確のような気がします。


性敵説と性友説


 ここでちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。オーストラリアというテーマからはちょっと外れて、妙に深淵なテーマになっちゃいそうですが、おつきあいください。

 性善説と性悪説のように、自然状態における人間は他の人間に友好的なのかそれとも敵対的なのか。性敵説か性友説か。なんかちょっと前に書いていた性賢説性愚説とか、こんなことばっかり書いてますけど。

 世界シリーズを100回近く書いてて思ったのですが、人類というのは飽きもせずに戦争ばっかりやってます。それもかなりの頻度と執拗さで相争っています。異民族に対する征服、虐殺、奴隷化、差別、同民族内における権力闘争、派閥抗争、搾取、差別。家族や親子・夫婦・兄弟間においてすらその種のギラギラした争いはあります。

 だから人類というのは非常に好戦的で、本質的に他の人間を憎んでおり、隙あらば攻め滅ぼしたり征服したいと思っている。それをしないのは、迂闊に攻撃を仕掛けるとより強大な相手から報復を受けるというパワーバランス、法や秩序というサンクション(制裁)、あるいは友好的で平和的なフリをするという世間体や偽善からである。渡る世間は鬼ばかり。人を見たら泥棒と思え。その殺伐とした大原則のなかで、ほんの一握りの例外が、愛するパートナーであり、家族であり、そして友であるという。これが性敵説。なるほどと思う部分もありますね。

 これに対して、いやそうじゃないよ、人は本来的に友好的な生き物なのだ。貧困、飢餓、無知、恐怖、強欲、嫉妬、虚栄、プライドなどの「7つの大罪」のような悪しき感情が生来的に友好的な態度を歪めてしまっているだけだ、という性友説もあるでしょう。

 ばっと見には性敵説に分がありそうにも思えます。
 古代から連綿と続いてきた戦争、豊かな現代になっても尚もさまざまな形で行われている争い。人間が他の人間に対して勝った負けたの勝負事をやりたくなるのは一種の本能なのかもしれません。例えば、スポーツというのは本質的に身体を動かすことの生理的快感から始まっているのだから、本来勝った負けたという要素は不要の筈です。なのに、どんなスポーツにも大体この種の勝敗はつきまとってます。ご機嫌に走ってりゃいいものを、わざわざタイムを計測し、順位をつける。なんでそんなことすんの?でも他者と相争うことについつい燃えてしまう我々って、なんなんだ。

 いくら豊かな国になろうとも、国内における差別や貧困、不平等という問題は無くならない。世界一豊かな国であるはずのアメリカでさえ、黒人が大統領になったという事自体が大ニュースになるという救いがたい後進性を持ち、同一民族で和を重んじる日本でさえ国内問題は山積みであり、年間3万人もの自殺者をうみ、女性総理すら未だに生みだしていない。なぜ僕らは平和で幸せになれないのだ?地球資源を食いつぶし、豊富な生産力を誇り、不況だなんだいわれている日本ですら、どんな人でもカロリーベースで言えば腹一杯食べることができる。もう人類史上唯一といって良いくらいの恵まれた時代にありながら、しかし尚もどんより曇り空だという。

 したがって、これはもう飢餓とかそういった環境的な要因ではなく、人間に内在する要素によってそうなっているとしか思えないではないか。ホッブスが「リヴァイアサン」で述べたように、人間はその本性において闘争的であり、自然状態に放置すると「万人の万人に対する闘い」というバトルロイヤルになる。ゆえに国家や法律という非オーガニックで不自然な存在が許されるのだと。

 早い話が、人間というのは喧嘩好きのアホだから、ルールを作って、言うこときかない奴にはお仕置きしてやらないとダメだよということですね。現在の人類の到達点とされる憲法原理、社会のもっとも核心部分にあるOSの原点は、ルソーやロックスなどの近代人権思想にあると言われます。そこでは「人は生まれながらに自由である」という天賦人権説と同時に、「放置しておいたら無茶苦茶になる」という人間に対する苦い絶望があります。だから「社会契約説」のように、自然的には無制限の人権の一部を等しくカンパしあって(「人を殺す権利」は放棄するなど)、統一的なルールを作り、それを司る国家を作る。国家はその限度においてのみ存在を許される必要悪のようなものだと。

 しかし、国家やシステムを作ったら作ったで、今度は国家間で争いが始まり、帝国主義が勃興し、植民地だなんだでドンパチ戦争が起きる。そのへんの横町で取っ組み合いの喧嘩をしてるだけだったものが、何百万人という犠牲者を生むようになり、要するに害悪がスケールアップしてるだけじゃん、というという気もする。わずかな食糧をめぐって闘争が起きるのだとすれば、生産を増やして平等に分配すればいい、あるいは高度に流通させる経済システムを構築すればいいという共産主義、資本主義が起きたけど、前者においてはソビエトのノーメンクラトゥーラのような党内貴族を生じさせ、分配の不平等は是正されず、単に生産がお役所仕事の非効率になっただけであり、後者(資本主義)においては富の二極分化を促進し、労働者という新しい奴隷階級を生み出しただけではないか。要するに、人間というのはハナから出来損ないなんだから、何をやってもダメ、ダメ、ダメって考え方もあります。

 しかし、これも世界史シリーズ100回やって思うのですが、どうしてこれだけ戦争ばっかりやっていながら人類は絶滅していないのか?

 あれだけ飽きもせずに殺し合いばかりやってたら、いい加減絶滅していても良さそうなものです。でも絶滅どころか世界人類は60億をこえ70億に達しようとしています。ある意味では凄まじいばかりの繁殖力です。少子化云々なんて大局的にみれば例外中の例外であって、本流はネズミのように増えている。第二次世界大戦で3000万人という途方もない犠牲者を出しながら、しかし全体としてみれば殆どなんの影響もない。

 それに人間の本性が修羅だとしたら、時代が進むにつれて修羅の文化が積層され、先鋭化されていっても不思議ではないけど、実際はその逆です。何を言ってるかといえば、相争うことが本性だとしたら、闘争的な文化ばかりが残り、どんどん過激な喧嘩社会になっていっても不思議ではないでしょうということです。「北斗の拳」に出てきた「修羅の国」のように、男子は生まれてから100回の殺し合いを義務づけられ、生き残った1%だけが生存を許されるという無茶苦茶な国になっていってもおかしくないけど、そうならない。ならないどころか、人類は着実に「良い」方向に向っています。どんなシニカルな奴でもこれは認めざるを得ないでしょう。戦争や差別の愚劣さを何度も何度も問い掛け、議論して、「そんなこと幾ら唱えても無駄」と嘲笑する人も大量にいながら、しかしそれでも進んでいる。泣きたくなるほど遅々たる歩みではありながら、少しずつ進化はしている。

 今となれば北朝鮮のように将軍様の独裁体制、全ての国民は将軍様の臣民として喜んで命を差し出さねばならないという体制は、「ありえない」体制として世界から批判されています。だけどこれってちょっと前までは世界にありふれていた最も普遍的なシステムでしょう?絶対王政や封建社会というのは殿様や身分絶対体制なんだし、人類史なんかこればっかりですよ。99%そうだったといってもいい。日本だって半世紀前までは、天皇陛下の臣民として忠誠を尽して死んでいくのは当然の義務だとされていた。その前は江戸時代の文字どおり将軍様時代、その前は鎌倉から続く武家政権と戦国時代、その前は藤原独裁下における荘園・国内植民地収奪時代、その前はヤマト朝廷の租庸調の人民搾取。ずっとこればっかじゃん。それが今になって、北朝鮮を指さして「あんな国には住みたくない」と非難しているだけで、もうとんでもなく飛躍的な進歩と言えなくもない。

 奴隷は解放され、植民地も解放され、あらゆる差別にスポットが当てられ、かつて足手まといとして邪魔者扱いされてきた老人と子供は大切にされるようになった。環境破壊は指弾され、世界の最高権力者達が雁首揃えて話し合う時代になった。時代は、そして人類は、確実に進歩してますよ。もともとが大馬鹿者だから、多少進歩しても半馬鹿くらいにしかならず、至らぬ点は10トントラック10台分くらいまだあるにせよ、それでも良くはなっている。本質的には何も変わらないという人もいるけど、確かにそうかもしれないけど、現象的には変わってる。なんで?なぜそうなる?なぜ修羅の国にならない?これって偽善?たかが偽善にここまでする?

 ということは、冷静にクールに考えてみれば、人類の本性はむしろ友好的な部分にあるのではないか。もちろんそればっかりじゃなくて、邪悪な部分もやたら多いのだけど、トータルで見れば過半数を超えている。それは7:3なんかよりももっと微妙で、それこそ51%と49%、あるいはこの歩みのトロさから考えると50.01%と49.99%なのかもしれないけど、とりあえず善的なモノの方が微かに上回っている。でなければ、この大きな流れを説明できないでしょう?

 それに平和な社会を築こうという呼びかけが「偽善」だと嘲笑する人もいるけど、「偽り」であるかどうかはともかく、少なくともそれが「善」であることは認めているわけですよね。人々が争わず、ニコニコ平和に暮していくことが「良いこと」であるという価値判断は同じです。幻想だとか、甘ちゃんだとか、偽りだとか言うんだけど、大本の何が善で何が悪かという価値判断は同じ。じゃあ、その価値判断はどこから来るのさ?なんでそう思うの?そう思っちゃった時点で、もうどうしようもなく、生来的には善であり友好的なんだと言えるんじゃないか。価値判断の問題ではなく、その実行能力を信じるか、疑問に思うかの違いに過ぎないのではないか。



無償の善意の最強性


 さて、長い回想シーンのように横道に逸れましたが、人が本来的に持っている他者に対する友好的な気分、「ぬくもり」みたいなものが、オーストラリアの場合、しばしばよく経験される、という話でした。

 まどろっこしい説明をしているようだけど、ここはすっごいキーポイントになる部分なので、しつこく書かないとならないと思うのです。
 なんで重要かといえば、それがメッチャクチャ気持ち良いからです。もうこれがあったら人生他に何もいらん、ってくらい大事なことに思えたりもするのですよ。こっちに来てそれが分かったのですが。

 オーストラリアに来たばかりの頃は、もう何もかもわからん尽くしで、ヘレンケラー状態で迷路を歩いているようなものです。それにヘタってくると、ヘタクソな英語で買物したりすると、店先で嘲笑されてるような気分になったり(別にしてないんだろうけど、気分が卑屈になってるからそう感じる)、「いい加減なオージー」の言うことに惑わされ、さんざん頑張ったことがまるっきりの徒労だったということもあります。心配事も沢山あるし、時にはそれが募ってくるときもある。要するに、イヤ〜な思いになることもあります。そんなとき、公園をトボトボ歩いていて、向こうから歩いてくるオージーのお兄さんとかオバサンが、すれ違いざま、ニコッと笑って「ハロー」とか言ってくれるだけで、たったそれだけのことで、もうその一日はハッピーになるんですよ。嘘みたいだけど。なんて俺は単純なんだ、阿呆か?と自分でも思うのだけど、でも自然と顔がゆるんで、上手なマッサージを受けたあとのように身体中がリラックスする。その効果たるや絶大で、もう抗精神薬、抗うつ剤100日分処方ってくらい。

 なんでそんなに嬉しいのかな?と思うと、僕らが生きて頑張って生活してるのは、結局コレを求めているからだと思うのです。

 人間は一人でも全然幸福になれるけど、より十全と満ち足りた幸福に至るには、他者の存在が必要なのでしょう。かなり絶対的に必要なんだろう。それはチヤホヤされたいとか、賞賛されたいという比較的次元の低いレベルでもそうだし、単純に「認められたい」という欲求だってすごく強い。それらがモチベーションになって僕らは日々頑張るわけです。究極的にはそれじゃないか。

 なんで徹夜でギターの練習をするかといえば、文化祭のステージでキャーキャー言われたいからです。逆にブーイングを食らうとガックリする。使い切れないくらい富を蓄えた人間がなおも求めるのがステイタスであり、ありとあらゆる手を使っても文化勲章を欲しがり、天皇陛下の園遊会にお呼ばれしたいと切望する。これだって、文化祭キャーキャーと本質的には一緒ですよ。仕事で頑張ったことを認められたい、「あいつは出来る」と言われたい、カッコいいって言われたい、可愛いって言われたい、、、からこそ、サービス残業してでも頑張っちゃうわけだし、そうやって汗水垂らしてゲットしたお金をファッションや化粧品に費やす。キャーキャー願望です。これは絶対ある。あるのが悪いと言ってるのではなく、それこそが僕らの「元気の素」だと思う。

 これをさらに要約すれば、「僕らの幸福は、他者の存在や態度によって規定される」という法則です。この他人の影響力は強力で、だからこそ他人とうまくいかないと悩む。人間関係に疲れ果てて鬱になったり、あるいは人間関係がこじれまくって場合によっては殺人すら起きる。恐るべき影響力です。
 しかし、このキャーキャーを超える破壊力を有する他者の態度があります。
 その他人が本当に幸福になってくれて、心から感謝してくれることです。

 これは嬉しいですよ。誰かにプレゼントを買うにしても、出来るだけ喜んでもらえそうなものを探しますよね。包装紙を解いたときの「わあ!」という瞳の輝きが欲しいでしょ?それは別に褒めてもらいたいんじゃない。賞賛して欲しいわけでもない。ただただ純粋に喜んで欲しいという気分は、誰にでもあると思うし、それはキャーキャーよりも切実で、純度が高い。

 仕事の充実感なんてのも、究極的にはコレでしょ。「金が貰える」という「だけ」で働いているわけではない。やっぱりお客さんなり取引先に喜んでもらえたというご褒美がデカい。他者の幸福創造に参加する喜びです。だいたいこれがなかったら、命がけの消防士なんかなり手がいないし、警察官だって利害打算でやってたら赤字でしょう。しんどいばっかりで、天下りもきかないし。これらの喜びは、あなたがスゴイから、カッコいいから、エラいからキャーキャー賞賛してくれるという種類のものではなく、また力で征服してひれ伏させているのでもなく、本当にその他者が幸福を感じてくれるから、うれしいのでしょう。

 これをさらにダイヤの原石を研磨するように、どんどん削ぎ落としていって、一つの結晶みたいな形になったものが「開けっぴろげな無償の善意」だと思います。そこにはなーんの見返りも、力関係も、根拠もない。相手がエラいからでも、強いからでも、媚びへつらってるわけでも、偽善を施しているわけでもない。そういった関係性は何もない。どうかしたら「喜んでもらいたい」という結果に対する期待すらもない。

 ただ単純に、「そこに人がいるから」という、ただそれだけの理由で何らかの友好的な関係が芽生える。この段階になってくると、もう、「誰が誰に」というGIVE・TAKEの主客関係すら問題にならなくなっていきます。人間の存在そのものを好意的に認め、認めてくれる。これは温まります。

 ちょっと話がズレるけど、親子の情愛というのがありますよ。我が子に対して抱く気持ち。もうその子の存在そのものがプレシャスで、愛しい。大事故で九死に一生を得た我が子を抱きしめて大の大人が号泣するのは、あるいは不幸な結末において地に伏して慟哭するのは、いかにその存在が大切か、いかにその存在がその人の幸福の中核であり源泉であるかを示すものでしょう。だけど、そこには何をしてくれるからとか、ここで育てて恩を売っておけば老後の面倒を見てくれるなんて打算はない。損得関係でもないし、もう”なんちゃら関係”とかいう関係性を論じること自体がうざったいくらいです。

 上の例は親子や肉親の情という関係性がありますけど、実際問題、親が子を愛するのは、「親だから」とかイチイチ思ってるわけでもないでしょう。ベーシックにはあるとしても、目の前に微笑んでいる、このかよわく、はかなく、愛しい存在。その存在そのものが問答無用にパワフルだからでしょう。つまり、理屈じゃない。理由はない。この世で何が最強かといえば、「理由はないけどそうなる」ということくらい強力なものはない。

 そして、この関係性すら一切ない「行きずりの赤の他人」。しかも、外観も言語もあからさまに違う異邦人。およそ全ての関係性から最も疎遠な辺境地にいる人間に対してなされる無償の善意というものは、強力です。好意を寄せる、善意を施す理由が何にもないんだもん。だからこれは最高純度です。

 それだけにこんなことはレアです。そうそう滅多やたらとあるものではない。だけど、オーストラリアに来ると、それが結構滅多やたらとあるのですね。道を歩いていると、1−2日に一回の割合でダイヤモンドを拾うような感じ。

 といわけで、だから僕はここに永住してるわけです、、、っていうと嘘臭く響くんだろうなあ(笑)。

 僕が毎週お世話しているワーホリや学生さんも、最初の一週間でこの洗礼を受けます。シェア探しで道に迷っては、周囲の人達に助けてもらいますから。深刻な顔をして地図を見てるだけで近寄ってきて「どうしたんだ、迷ったのか?」「どこに行きたいんだ?」と聞かれ、バスの乗り場が分からなかったらわざわざ乗り場まで案内してくれたり。バスの中で乗り過ごしたのに気づいたら、一緒に次のバス停で降りて、通りを渡って反対側のバス停でバスが来るまで待ってくれたうえ、運転手に「○○でおろしてやってくれ」と告げてくれたり。バス停で降りたはいいけど道が分からないで途方に暮れていたら、一緒に探してくれて、わざわざ近くのヌードルショップにいって客の皆に呼びかけてくれたり。疲れた顔で電車に乗ってたら、「大変だね」といって家に招いてゴハンをご馳走してくれたり、車で乗せて行ってくれたり。人のよっては、「なんで皆こんな優しいしんですか?」と涙ぐんだりします。まあ全員が全員そういう体験をするわけでもないけど、程度の差こそあれ、似たような経験はします。

 この善意は、土地不案内な外国人に対してだけ発揮されるものではなく、当然のことながらオージー同士でも活発に行われます。乳母車を押している人が階段にさしかかったら、どこからともかく誰かが手を貸してくれる。重い荷物を運んでいるときもそう。車がエンコしたり、どっかに脱輪したりして四苦八苦してると、たちまち人が集まって押してくれる。

 その延長線上に、国民の5人に一人という高いボランティア参加率があり、寄付金なども大量に集まる。数年前のインドネシアの津波被害の時でも、TVで見て、"Oh my God!"と思ったオージーが、「こうしちゃいられない」とさっさと会社を辞めて、自腹を切って現地にヘルプに飛ぶという現象も、そんなに珍しくない。どっかの悪徳企業が工事代金を下請けに払わなかったら、同業者の連中が会社の前でデモをやり、座り込み、ビラを配り、通りすがりの同調した人がまた参加する。それも眉間に皺を寄せてやってるのではなく、ヘンな帽子かぶってギターをかき鳴らして皆で踊ってたりする。

 ただ、ここで言いたいのは、やってることの物量の多さではなく、動機の純粋性です。ピュア度です。
 「だって気の毒じゃん」という、ポッと心に浮かんだことだけが動機になっている。それ以上突っ込んで考えないで、もう身体が動いている。すっごい原始的、原点的なところで人間が動いているということに感動するんです。「そんなんでええんか?」とドギマギしてしまうくらい。

 別にそう大したことしてくれなくてもいいんですよ。すれ違いざまニコッと笑いかけてくれるだけでいい。一個の人間として好意的に認めてくれるだけでいいです。人間なんかアホだから、そんなことで簡単に幸せになれる。もちろん無料だし、1秒で十分。産地直送のマグマパワーなんだから、それくらいで十分効果あります。

 僕らは人間社会に生きているわけです。人間というのが「人の間」と書くように、押し合いへしあいして生活している。周囲は全部、人間だらけ。だからこの人間が悪意に満ちているか、善意の存在かというのは、もう世界観そのものといってもいい。エイリアンに囲まれているか、愛すべき仲間に囲まれているか。もう天国か地獄かくらい、それが全てといってもいいくらい。そして、こんなことは客観的に結論が出るものではなく、また出そうと思えば上で見たように人類史をひもといて、あーでもないこーでもないという大議論になる。そーゆーことじゃなくて、自分はどう思うかという主観が大事。自分の生きているこの社会をどう思うかという主観、それが全てです。

 人間には破壊本能も、競争本能も、営巣本能も、協調本能も全部あるのだから、何かが絶対的に支配しているというものではない。ただ、自分が生きているこの環境が、少しでも自分にとって心地よいものであれば、それだけ人はハッピーになれる。ほっとする。ヘタクソな英語をせせら笑われたような気がしてズーンと沈み込むのも、通りすがりのニコリで救われるのも、「世の中こんなもんだ」という現状認識の証拠物件だからでしょう。イヤなことがあれば、「世間なんてこんなもんさ」と思い心が荒れてくるし、そこで生きていくのがイヤになる。でも、優しくされれば「捨てたもんじゃないな」とまた元気になる。そーゆーことだと思うのですね。

 そして、「捨てたもんじゃないね」と思えるような出来事が、日常的にひんぱんにあるということは、それだけ救われたり、元気が出るということでもあります。これは最初の土地不案内のときだけではなく、今でもそう思いますね。もちろん日常的にムカつく出来事に遭遇したりしますが、そのへんの店先で陽気なやりとりをしただけで、それまでの不快感が拭われたように無くなっている。これがデカいです。

 前回書いた、太古を感じさせるピュアな自然が普通にあること、そして今回の原点的な人間の良さを感じさせてくれること、つまり特に改まったイベントがあるわけでもなく、ぼけーっと生きてるだけで普通にあること。アイドリング状態でそこそこ幸せな気分になれてしまうことが、もう底上げロンドンブーツのように(って知らんか)、精神状態を高くしてくれる。

 逆にこれらの要素がショボイと大変なんですね。 毎日毎日自然もなーい、笑顔もなーいという環境。能面のような人々に囲まれ、職場でイヤミを言われ、そんなことばっか続いてたらおかしくなります。精神健康を害するというか、害さないように「なにか」をしないとやっていけない。だから気のあった友達とつきあって、酒を飲み歩いたり、バカやったり、恋人探したり、あれやったり、これやったりする。でも、そこがナチュラルにそんなにヘコまなかったら、そういった補償行動みたいな欲求も減ります。当然のことですけど。そうなってくると趣味も友達もそんなに差し迫って「なくちゃ!」とは思わなくなる。ただ何となく生きてるだけで結構充足してしまう。

 エスカレーターを逆に進むか、その方向に進むかみたいなもので、逆行してたら必死になって生活の回転速度あげないと後退していっちゃうけど、同じ方向に進んでいるなら別に歩かなくてもいいじゃんという感じですね。日本にいる頃は、17連チャンとか飲み歩いてたし、月の飲み代だけでも家賃の3倍くらい飲んでたけど、こっちにきたら皆無に近い。革命的に違う。なんでそんなに違うのかな?と自分で考えていると、上のような話になるのでした。

 もっとも、僕がそうだからといってあなたがそうなるという保証はどこにもないですよ。
 オーストラリアに来てノイローゼになる日本人だって、けっこういると思います。環境が変わるんだから当然の話です。

 さて、こういった人間的要素の話ですが、実はまだまだ続きます。
 こんなの別に日本にいたって出来るじゃんということであり、オーストラリア特産品でもないということ。そしてオーストラリア、シドニー内部でもエリアによって違う、状況によって違うということ。なんでそうなるのかということ。
 さらに、敢えて今回は触れなかったけど、世界200民族が集っているマルチカルチャルな人間的な面白さとか。そういったことは次回に書きます。



文責:田村

「海外」という選択 INDEX

ESSAY 452/(1) 〜これまで日本に暮していたベタな日本人がいきなり海外移住なんかしちゃっていいの?
ESSAY 453/(2) 〜日本離脱の理由、海外永住の理由
ESSAY 454/(3) 〜「日本人」をやめて、「あなた」に戻れ
ESSAY 455/(4) 〜参考文献/勇み足の早トチリ
ESSAY 456/(5) 〜「自然が豊か」ということの本当の意味 
ESSAY 457/(6) 〜赤の他人のあたたかさ
ESSAY 458/(7) 〜ナチュラルな「まっとー」さ〜他者への厚情と冒険心
ESSAY 459/(8) 〜淘汰圧としてのシステム
ESSAY 460/(9) 〜オーストラリアの方が「世界」を近く感じるのはなぜか(1)
ESSAY 461/(10) 〜オーストラリアの方が「世界」を近く感じるのはなぜか(2)
ESSAY 462/(11) 〜日本にいると世界が遮断されるように感じるのはなぜか 〜ぬくぬく”COSY"なガラパゴス
ESSAY 463/(12) 〜経済的理由、精神的理由、そして本能的理由





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