はじめに
自分がワーホリに行きたいと思った理由は、単純に「面白そうだったから」です。
それまで、なんとなく大学生活に閉塞感を感じていました。数学と物理が得意だから、というだけの理由で機械工学科を選んだものの、いざ機械を専攻してみるとなんだか違和感がありました。これは自分の道ではないような気がする。でも自分が何をやりたいのかはよくわからない。それを見つけたいけど、とにかく持ち球が少ないことには始まらない。
大学の最初の2年間の閉塞感は、単に「専攻学部のチョイスを誤った(と思う)ことによる閉塞感」です。そんなに深刻に思いつめていたわけではありませんが、自分が一生機械に携わっていく姿が全く想像つかなかったです。でも、もう大学入っちゃったしなー。まあこのまま続けるかって気持ちでした。
この間、大学の1ヶ月の短期留学でメルボルンに行きました。しかし、「1ヶ月じゃ短すぎる」「インフラも整ってるし、日本と全然違うってほどでもない」くらいしか思う所がなく、大きな発見はありませんでした。
しかし、2年生の終わりころになると「今まで俺は何をやってたんだ!」「もっと早くから自分の幅を広げておくべきだったのに!」とひたすら後悔する2週間がありました。「海外に行けば視野が広がるはず!」という単純な発想のもと、海外経験者のブログなどを読んでいるうちにワーホリという制度を知りました。自由に行動できて仕事もできるワーホリは、視野を広げるのにピッタリだと思いました。こんな便利な制度があるなら、使わない手はない。まるで今の自分のために用意された制度みたい!と感動したのを覚えています。
この時に周りのいろんな人に相談をしまくりました。その中の一人が田村さんで、これがファーストコンタクトです。また、APLaCの体験談から実際に行った人のとても楽しそうな雰囲気が伝わってきたので「面白そう!自分もやりたい!」と思い、ワーホリに行くことを即決意。すぐに休学の準備に取り掛かりました。
しかし、休学の手続きが4月ギリギリでは間に合わないため、やむなく1年待つことにしました。
この一年間、あれこれと動きました。相談した中の多くの人が「視野を広げた方がいい」とアドバイスをくれ、その中でも「普段会わないような人と会った方がいい」と言われたのがピンと来たからです。
3年生になってからボランティア、インド、外国人と英会話などをしたのですが、ここで初めて「楽しい!」と感じました。「工学部で勉強してるより、こっちの方が全然楽しいじゃん。工学部は自分の居場所じゃないんだよ」と分かってからは、実はもう閉塞感を感じていません。なので、僕の中では「3年生のときにいろいろやったこと」と「オーストラリアでワーホリ」は結構つながってます。
正確には、「つながってる」というより、意識的につなげました。APLaCが人間力に焦点を当てていることが分かり、自分もそういう力こそを上げたかったから、それ以外の部分(主に英語力向上と初対面の外国人と気さくに話すための慣れ)は大学3年生の時点で済ませて、ワーホリでは人間力アップに集中できるようにしたかったです。その過程で、今までなんとなく悩んでいたことがいつの間にか吹き飛んでしまったのは、本当にラッキーだったと思います。
3年生のときも「工学部が自分の居場所じゃないとして、代わりにどうするの?」という部分は全く見えていませんでしたが、「そんなことはワーホリ行けば多分見えるようになるでしょ」と思っていたので、全く思い詰めるようなことはなくなっていました。
シドニー(2014年02月〜06月)
シェア探し
シェア探し中、初めてArncliffeへ行った時の写真。駅に着いた瞬間に静岡(故郷)的な空気を感じ、「あ、ここいいかも」と思ったのを覚えています。
「みんなもできてるんだから、自分にできないわけがないっしょ。田村さんもいるんだし」と余裕綽々で挑んで一括パックですが、天狗の鼻は着いて2日でへし折られました。それどころか、自分のダメなところを嫌というほど見せつけられる結果になりました。2つの大きな壁にぶつかったからです。
一つ目の壁は、事務処理能力の低さ。複数のことを同時に処理するということが、自分でもびっくりするくらいできなかったのです。
オーナーに電話をかけながら、すでに取ったアポの時間と場所を考慮して、いつ見学できるか相談する。
移動中にシェアのオーナーから折り返しの電話がかかってきた場合に備えて、瞬時にスケジュールと地図を取り出せるように準備しておく。
不備があった場合は、時間を変更できないか電話で相談する。
これらすべてのことを、移動中のバスや電車の中で、地図や路線図と格闘しながらやる。
こういったことを同時進行で処理できなかったため、すぐに頭のCPUが限界を超えてフリーズしていました(比喩ではなく、本当に固まっていました)。
結果として、スケジュールが無謀になったり、逆に無駄が多くなったり。「すいません。やっぱり見学に行けません」と何件電話したことか…。4日目(日曜日)くらいからコツをつかんで、ある程度テキパキとこなせるようになりましたが、初見のことを要領よくこなせない、つまり瞬時に全体構造を把握して抑えるべきツボを見つけることができない、という弱点が浮き彫りになりました。
もう一つは、同期のゆうこさんとうまくいかなかったことです。というか、自分が生意気すぎました。自分がゆうこさんにブーブー文句を言って一方的に嫌いになり、同じバスに乗っても自分から離れて座ったこともありました。今思うと、それまでの自分は大学だけの中で生活してきて、それが全ての世界かのように思っていたフシがあったため、「俺は何でも知っている」的な偉そうな態度が原因だったのだと思います。
シェア暮らし
なんだかんだありましたが、最終的に Arncliffe のミャンマー人の夫婦(Cho と Banya)のところに決めました。週160ドル。Arncliffe の雰囲気が地元静岡に似ていたことや、駅前のケバブがおいしかったのもありますが、一番の理由はこの夫婦ととても気が合ったことです。初めて話した時から、まるで何年も昔からお互いのことを知っているかのような感覚がありました。
一緒に住みたいと電話をした時も「あなた以外は全員断っていた」「本当は女性限定だったけど、あなたなら大丈夫」と言われたのは本当にうれしかったです。
Cho と Banya は僕にくっつきすぎず離れすぎず、何かを強要することもなく、ちょうどいい距離で接してくれたため、快適に4ヶ月暮らすことができました。
シェアのオーナー(ミャンマー人夫婦)と一緒に、僕の働いていたジャパレスへ食べに行ったとき。
二人はいちゃいちゃするわけではないのですがとても仲が良く、夫婦というより幼なじみのように見えました。「このような夫婦の形もあるんだ」というのがとても新鮮でした。
奥さんの Cho はおしゃべりだったので、土日のお互いに暇な日は1-2時間話しました。といっても自分はほとんど聞いてるだけで、時々質問をはさむ程度。9割は Cho がしゃべっていました。
トピックは「Facebook の変遷とこれからについて」「ミャンマーの神話について」「第三次世界大戦について」など。英語うんぬん以前に、Cho の知的レベルの高さについていけませんでした。日本にいるとき、田村さんに「世界のことについて少しでも勉強しておくといいよ」と言われたものの面倒くさくてサボっていたのですが、世界レベルの「当たり前」を目にして、今はその必要性を痛いくらい感じています。
語学学校(SCE)
ラウンド出発の前日に、SCEで一緒にご飯を食べていた友達と撮った写真です。
学校では、毎日友達と楽しくおしゃべりしていた記憶しか残っていません笑。
渡豪前に大学の留学生の友達と英語で話をしたことはありましたが、ヨーロピアンと話す機会はそれほど多くなかったので、この時はまだヨーロピアン恐怖症がありました。彼らは見た目に威圧感があるし、アジア人ほど訛りが強くないから、一緒に話していると「僕の英語が下手で迷惑に思っていないか」と考えてしまったりするからです。
なんとかヨーロピアン恐怖症を克服したかったので、最初はフレンドリーな人を選んで話しかけました。クラスメイトのビクターはとてもきれいな英語をしゃべるだけでなく、ジョークがとても面白かったので全く壁を感じず、すぐに仲良くなりました。さらにビクターがいつも昼食を一緒に食べているヨーロピアンのグループ4人の仲間に入れてもらいました。最初にCan I join you? と言うのには勇気がいりましたが、笑顔でSure! と言うのを見たら、恐怖心は一瞬で吹っ飛んでしまいました。あのときの笑顔は今でも覚えています。
彼らともすぐに仲良くなり、毎日お昼ご飯を食べながらおしゃべりしてゲラゲラ笑いあっていたら、あれよあれよという間にそのグループはどんどん大きくなり、たくさんの人とおしゃべりしているうちに、ヨーロピアンに対する恐怖心はいつの間にかなくなっていました。渡豪前にあれだけ心配していたことが、こんなあっさり解決してしまうなんて。
主にお世話になったMitchellとLukeという先生は、真面目にやるときと遊びの時のメリハリがはっきりしていたので、とても楽しく授業を受けることができました。
バイト
一括パックが終わってシェア先が決まり、2週間分のレントとデポジットを払った時点で、現金は430ドルでした(クレカには500ドルほどありましたが現金化できない。新生銀行で口座を作っておくべきだった!)
シェア移動の直前、田村さんに宿代を払ったら現金が100ドルを切りました。田村さんには「困ったら貸してあげるよ」や「柴山君の親が僕の口座に振り込めば、その分の豪ドルを渡すよ」と言ってもらいましたが、窮地に立ったおかげで自分でなんとかする決心がつきました。
こうして「2週間以内に現金320ドル稼ぐ」というミッションが生まれました。
しかし次の日。いざジャパレスに電話しようとするとなかなか勇気が出ません。シェア探しより簡単なのは知ってるのに…。そこで、APLaCつながりの友達に手伝ってもらうことにしました。授業が終わった後、学校の空いてる教室で、向かい合って座ります。
「じゃあ、ここからここまで全部電話してください〜」
「えー!今すぐに?」
「ビビってる暇あったら、とっとと電話して〜」
「うぅ…。分かりました…」
・・・
「はい、アポ1件取れました」
「じゃあ、今日であと2件アポ取りましょう〜」
「あと2件も!分かりました…」
と、田村さん流でしごいてもらいました。あとはタバコさえあれば完コピだったのに(笑)
3〜4件電話したらすぐにコツをつかんだので、あとは一人で電話をかけられるようになりました。
運よく2件の面接のアポがすぐにとることができ、その次の日から Hurstvilleのまんまるやというジャパレスで働き始めました。マネージャー(日本人)に「お金がないんですよ〜(TT)」と言ったら、思惑通りその週から週5で働けることに(^^)v
もう1つのジャパレスでも働きました。まんまるやで十分だったのですぐに辞めたのですが、その分の給料はちゃんともらえたので助かりました。最初の2週間はほぼ毎日働き、疲れて授業中にうたた寝。それをよく先生のジョークのネタにされていました。
というわけでなんとかミッションクリア。
その後はそこまで詰め込んで働く必要もなかったので、週5で働いておよそ週270ドルの収入。支出(レント+交通費+食費)と同じくらいは稼げていました。
まんまるやは楽しい職場でした。自分はウェイターで、他のバイトは日本人と香港人が半分ずつ。香港人の英語は訛りが強いので理解できないことも多々ありましたが、そんなことが気にならないくらい気の合うメンバーに囲まれたのはラッキーだったと思います。
ボス(日本人)が最初は好きになれませんでしたが、だんだんいい人だとわかってきました。シェフになる前は自動車会社で働いていたらしく、大学時代は自分と同じく機械を専攻していたようなので、今と昔の製図やCADの違いなどについて話ができました。また、なぜ自動車会社を辞めて料理の修業を始めたのか、という貴重な話を聞くこともできました。
そのボスが会社を辞めた理由は「楽しくなくなったから」でした。自分は当たり前のようにこれから機械関係の仕事で生計を立てていくと思っていたので、そんなあっさりした理由で今までと全く違う仕事に移るというのが新鮮だったと同時に、自分も仕事に飽きたらあっさりと辞められるのだろうか、などと漠然と考えるようになりました。
ローカルでも働きたいと思い、最初の2か月でレジュメを60枚配りました。
最初の頃は店に入るのが怖かったですが、すぐに慣れました。途中からは「こんな機会でもないと入らない店に入ってみよう」と思い、客としては絶対に行かないような店だけに顔を出していました。アート用品店、宝石店、ペットの鳥を売ってる店など。当然このような店はレストランと違ってスタッフの回転が悪いため、一件も返事は来ませんでした。
「レジュメ配り」という理由をつけて、普段行かないような街に出掛けたのは面白かったです。
まんまるやが楽しくなり始めてから、レジュメ配りはやめました。もし時給20ドルのローカルの仕事が見つかっても、時給12ドルのまんまるやを続けるだろうと思ったからです。
その他
学校とバイト以外にも、シドニー生活の軸になるようなことが何かしたかったので、将棋を教えることにしました。「チェスならともかく、将棋を教わりたい人なんてシドニーにいるんだろうか」と不安だったものの、Gumtreeという地元民用の掲示板に広告を投稿したところ、合計7人も返事をもらいました。将棋を教わりたいというよりは、日本に旅行に行く前に現地の情報を仕入れたい、という人が多かったものの、普段会わない人と何時間も話をできたのは貴重な機会でした。
それと、一度、家に入れなくなったこともありました。
イースターの4連休にオーナーが親戚に会うためキャンベラに行っていたのですが、僕はカギを持たずにバイトに行ってしまいました。帰宅してそのことに気づいた時には顔面蒼白。そういうときに限ってスマホの充電は10%しかないし、トイレにも行きたいし、完全にパニックです。窓が開いているのを発見して「あそこから入れる!」と壁に手を掛けた瞬間に、田村さんに言われた「死ぬな!」の教え
(一括パック初日のレクチャーで、唯一守るべきオキテ=「絶対死なない!」(万が一の死のリスクを勢いで犯さない))を思いだして落ち着きを取り戻しました。
オーナーが返ってくるまでの3日間はバッパーに泊まりました。無駄に宿代を払う羽目にはなりましたが、毎晩バッパーの人たちとワインを飲んで楽しくおしゃべりできたのはいい思い出です。ラウンドに行く前に、バッパーの雰囲気を知ることができたのも怪我の功名だったと思います。
ラウンド
WA州(7月1日〜9月16日):ファーム探し
Merredin
まずはパースへ飛びました。
シティで一泊した後、250km東の所にあるMerredinという街へ。
ここを選んだのに深い理由はありません。普通はパースから北へ行くか南へ行くかという選択があるのですが、天の邪鬼が発動して、普通とは違う方角へ行きたくなってしまっただけです。
しかしパースからMerredinへ向かう電車の中、窓の外を見てもファームらしきものは全く見当たらず、嫌な予感がしました。
町について、宿の受付のおばちゃんに「ファームの仕事ありますか?」と聞いても「いやー、このあたりにファームの仕事はないと思うけど…」という返事が。嫌な予感的中。宿ならどこでも仕事を紹介してもらえると思っていたのは大きな勘違いだったようです。
何もないMerredin
宿代は1泊40ドル。所持金800ドルの自分には大きな出費なので、とにかく仕事を探さないといけません。
とりあえず、その日のうちに街の中心にある飲食店すべて(といっても10件くらいしかありませんが)にレジュメを持って突撃。しかし、どこも人は足りているとのこと。
次に、農業用のトラクターを売っている店2軒に行きました。もしかしたらファームの連絡先を知っているかもしれないと思ったからです。運よく2軒の農家の電話番号をゲット。しかし、祈るような思いで何回も電話をしたものの、出てくれませんでした。
仕事って本当に見つかるのだろうか。このまま貯金が尽きて、日本に戻らなくいけなくなるんじゃないか。そんな不安と絶望の中、宿へ戻りました。
この日の夜、初めて米を炊飯器ではなく鍋で炊いたのですが、意外とうまく炊けたのが嬉しかったです。
シャワーを浴び終わってふと空を見上げると、今まで見たことのない大きさの星たちが広がっていました。今まで星や星座なんて興味なかったし、そもそも近眼だったから見えなかったのですが、冬の田舎の澄んだ空気のもと、今にも落ちてくるんじゃないかと錯覚するほどの星空の迫力に圧倒されました。
リアル・スタンド・バイ・ミーです
次の日の朝、街に唯一の仕事紹介所へ行き、そこにいたおじさんに「仕事を探してます」と言いました。早い英語で長々と説明され、よく言ってることが分からなかったのですが、どうやら仕事を紹介できるのは地元民だけで、僕のような旅をしている人には紹介できないと言っているようです。
口をポカンとあけたまま頭だけフル回転でおじさんの英語を理解しようとしていると、どうやらそれが今にも泣きそうな顔に見えたらしく、「仕事探しを手伝ってあげられるかもしれない」と言ってパソコンの電源をつけてくれました。
おじさんが開いたのは Gumtree。「Merredin Job」などと検索してくれましたが、ヒットせず。
悪いけどゴメンね、と言われてその場を去りましたが、ネットでもファーム探しのヒントが得られることが分かったのは大きな収穫でした。
というわけで早速図書館のパソコンを使わせてもらい(20分で3ドル。高い)、情報を収集。やはりファームは見つかりませんでしたが、農作業具を売っているところがあるらしい。もしかしたらファームの情報があるかもしれないので、その住所のところ向かいました。しかしたどり着いてみると、そこは普通の家。ノックをしても返事がないし、人気もないし、とても店には見えません。しかし他にファームにつながる道がないので、もしかしたら電話がかかってくるかもしれないというわずかな可能性に期待して「ファーム探してます」という旨の手紙をポストに入れました。
そのとき「同じ手紙を他の家のポストにも入れれば返事が来るかもしれない」と思いつきました。田舎の小さな町なので、誰がファームの情報を持っていたとしても不思議ではありません。
その日のうちに「ファーム探しています」という手紙を50枚ほど作り、近くの家のポストに入れまくりました。しかし次の日になっても、結局返事は来ませんでした。
もうファームにつながる手がかりがないので、この町はあきらめて移動することに決めました。
最終日の電車は夜6時発。朝から6時まで、公園でずっとアヒルの行列が行進するのを眺めていました。案外飽きないものです。
さらに東へ行くのは次の町まで遠すぎるため、一旦パースへ戻り、定跡通り北か南へ行くことにしました。
Pinjarra
電車でパースに戻って一泊した後、南のPinjarraという街へ行きました。WWOOF本を読んでいたら、この町にたくさんWWOOFホストがいることが分かったので、恐らくファームもあるだろうという推測です。しかし、その予想は大きく外れました。この町にはファームどころか、そもそも宿がありませんでした。唯一のMotelも一泊110ドル。そんな大金払えません。
夜に到着したので、インフォメーションセンターも閉まっています。
泊まるところもない、仕事も見つかりそうもない、お金はどんどん減っていく、雨は降りだす。宿さえも見つけられない自分が情けなくなり、意味もなく地面に30分くらいうずくまっていました。また、そんなことしてもどうにもならないと分かっていながらも、ワラにもすがる思いで友達に電話をかけました。「今は大変だけど、ここを乗り越えたらその後絶対いいことがあるから!」という優しい言葉をかけてもらっても「だけど、今がツラいんだよ!」と言い返す始末。自分から電話をかけておきながら、意味不明です。
とりあえず寝るところを探そうということで街を歩いていると、雨をしのげるベンチを発見したので、朝までやり過ごすつもりでベンチに座りながらコートの中で丸まっていました。
助けてくれたポールさん
30分くらい経ったとき、「大丈夫?」と声をかけられました。顔を上げると、ポールと名乗る優しい顔をしたおじさんが。
「こんなところで寝るのは寒いでしょ?うちにおいで。奥さんと子供がいるから家の中は無理だけど、ガレージの中にキャラバンがあるから、そこで寝るといいよ」と助けてくれました。困っているときには必ず誰かが助けてくれるとよく言うけど、本当にそんな優しい人がいるんだ、と驚きました。
ポールさんの家につくと、コーヒーをごちそうしてくれました。「悪いからいいですよ」と言ったものの「でも、コーヒー飲むと温まるよ」と純粋な目で言われたので、好意に甘えていただくことにしました。
さらにポールさんがキャラバンに積んである荷物を全て下ろしてマットレスを敷こうとしてくれたので、遠慮して「雨風がしのげればいいから、ガレージの床に寝袋で寝ますよ」と言ったものの、「でも、マットレス敷いた方が気持ちよく寝れるよ」とまた純粋な目で言われてしまいました。
恐らくポールさんは、好意のつもりでやっていたわけですらないのだと思います。「○○した方がいいからする」という純粋な気持ちだけなのだと思います。きっと僕が遠慮したのも「なんで断るんだろう」と思っていたのでしょう。このことに気づいてから、彼の全ての好意に甘えることに決めました。遠慮するのは逆に失礼にあたると思ったからです。
翌朝、ポールさんが食べていた Porridge を興味津々で見ていたら「これ食べな」と一袋もらったり、さらに朝食のトーストを出してもらったり、電車が来るまで町の観光案内をしてもらったりと、最後まで甘えっぱなしでした。
ポールさんと出会えたのは本当に大きかったです。もしかしたら1年間で一番デカいかもしれません。
ラウンド初期だったので何が起こるか全く予想がつかなかった中、あのときは想定外のいいことと悪いことが両方とも同時に起きて、カタルシスでした。
日本にいると、人の善意に対して穿った見方をしがちですよね。「大学生がボランティアをするのは履歴書に書くための就活対策」とか「電車で席をゆずるのはカッコつけたいから」とか。でも、ポールさんと少しの間一緒にいただけで、そういった余計なフィルターがびっくりするくらいきれいに取れました。人の善意を純粋に見ることができるようになりました。
なので「あの状況で助けてくれて、なんて優しい人なんだ。ウルウル」という感動よりは、雲一つない空を見た時のような晴れ晴れとした気持ちになった、といったところでしょうか。
Bunbury
WA州で2番目に大きい町Bunburyですが、シティから5分も歩けばこのような自然が広がっています。この時は所持金が減り続けていた上に、仕事ゲットの見通しが全く立たず、精神的にかなり堪えていたのですが、今思うとあの壮大な自然に救われていたようにも思います。
Bunbury のバッパーについて、受付で「ファームの仕事探してます」というと、近くのファームのリストをもらいました。30件ほどあったので1件くらいはヒットするはず!ついに仕事がゲットできる!と期待に胸を膨らませながら電話したものの、あっさり全滅。
近くに精肉工場もあったのですが、バッパーの人の話によるとそこの仕事をゲットするのはかなり難しい模様。一応アプライはしたものの、返事は来ませんでした。
この頃、減り続ける残高を見て精神的にかなりキていたので、気持ちを落ち着かせることを目的に、一旦WWOOF を探すことにしました。
電話を30件ほどかけまくった結果、「できるだけ早く!できれば明日!」という無茶な要求に快く応じてくれたホストが近くに見つかりました(シェア探しの難しさに比べたら、WWOOFのホストを1件見つけるなんて朝飯前です)。
WWOOF 1軒目(Donnybrook)
ここのWWOOFには7日間しか滞在しませんでした。一番の原因は、他のWWOOFer 2人の英語が全然分からなかったことです。リスニングはもともと得意ではありませんが、あそこまで聞き取れないのは初めてでした。単語1個すら聞こえない。Can you speak more slowly? とお願いしても、早くしゃべるのをぶつ切りにするだけなので相変わらず理解できず。
勝手な推測ですが、英語に不慣れなアジア人がいるってことを知らないんじゃないかと思います。英語圏出身だし、「ネイティブの言うことが分からないときがある」と言ったら Really? と驚いてましたから。
それだけならよくある話なので慣れっこなのですが、その WWOOFer 2人が仲良しで、二人だけでずっとおしゃべりしてるのには困りました。仕事は三人で一緒にするのですが、完全に仲間はずれでした。最初は自分も仲間に入ろうとしましたが、少しでも自分との会話が途切れるとすぐにまた二人の世界に戻ってしまうので、2日目にはもう仲良くなるのは諦めました。英語でしゃべってるとは思えない会話を横で聞き流しながら、黙々と2時間もりんごの仕分けをしているうちに気が狂いそうになりました。「これはもう英語ができないせいではなく、この二人とは根本的に馬が合わないんだ」と自分に言い聞かせて無理矢理納得させました。
一番つらかったのは夕飯の時間です。
オーナー夫婦も入れて5人で食べるのですが、食事中の会話も全く理解できませんでした。ここでも会話に入ろうとしてみましたが、単語が聞き取れず、聞き取れたとしてもスピードと内容についていけないため(文章の意味が分かっても、バックグラウンドが違うので理解不能)、すぐに玉砕。参加するのは諦め、外界をシャットアウトして一人で黙々と食べているうちに、色んな感情が込み上げてきました。
昼も夜も殻にこもっている自分のみじめさ。
昼間は殻にこもっているのを「俺は仕事に集中してるんだ」と言い訳できたものの、夕飯では言い訳すらできない自分の無力さ。
この中であと数週間暮らすのかという絶望。
英語の練習にはもってこいの環境だと分かりつつも、参加する気力が全くないという葛藤。
みんなと一緒にいるのがイヤになり、食べ終わった皿をみつめながら、早く会話が終わらないかとひたすら待つだけの時間でした。
そんな時、僕の様子がおかしいことに気付いたダイアナ(オーナー)が、ときどき話を振ってくれました。
ダイアナは本当に優しくて器が広い人です。まるで仏様のような風貌もあいまって、全てを包み込むオーラがありました。
ウーフ探しで初めてダイアナと電話で話したときに「あなたのことを簡単に説明して」と言われ、そんな質問されると思わなかったので混乱。慌てて「今は日本の大学に在学中で、機械が専門だけど車の運転はできなくて、特にスキルもなくて、ファームの経験もないんですけど…」と答えてしまいました。自分のことをアピールしなきゃダメだったなと後悔しているとダイアナが「But you have basic knowledge, don't you?」と言ってくれました。それを聞いた瞬間に絶対にこのウーフに行こうと決め、思わず大声で「Yes, I do!!」と答えてしまいました。
仕事のときもダイアナは積極的に僕に役割を与えてくれました。家族としての自覚を持たせようとしてくれたのだと思います。
そんなダイアナが救いの手を差し伸べてくれたのに、自己嫌悪に陥っていた僕は、それを払い除けてしまいました。
また、ダイアナが他の人に
「たけしがわかるようにゆっくり話してあげて」と言ったときも、思わず
「いや、ゆっくり話さなくていいよ。僕なんかのことは気にしないで」
と言ってしまいました。
ダイアナの優しさが身に染みて余計に自分が情けなくなると同時に、期待に全く答えられなくて申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
今思うと本当にバカなことを言ってしまったと思います。でもその時は、そんなことを言ってしまうくらい精神的に追い詰められていました。
4日目に、ダイアナにここを出たい旨とその理由を伝えました。失望させてしまうのが怖かったですが、ダイアナは僕の気持ちを理解し、要望を快く受け入れてくれました。
最終日は12時に出ることになっていたので、直前までガーリックの周りの雑草取りをしていました。それがダイアナのためにできるせめてものことだと思ったからです。
Donnybrook の町の中心まで送ってもらう車の中でダイアナとした会話が印象に残っています。
「せっかくよくしてもらったのに、裏切るようなことをしてごめんなさい」と謝ると
「気にしないで。たけしにとっていい経験だったでしょ。それに、あのガーリックたちも今ごろ喜んでるわよ。“He was a good guy.“って。」
これを聞いた瞬間に、全てを許してもらった気がしました。
その後、街で下ろしてもらい、近くのバッパーへ足を運びました。
Donnybrook
バッパーのミニマムステイが2週間だったので仕方なく2週間分のレントを払い、宿の中を案内されましたが、着いて30分で「ここはよくない」という雰囲気を感じました。
このバッパーにいる9割は台湾人または香港人で残りが日本人。別にアジア人は嫌いではありませんが、ここにいる人たちの、周りを寄せ付けないオーラに嫌気がさしてしまいました。自分らのノートパソコンを無線LANでつないで毎日シューティングゲーム。そのグループの中で会話も食事も遊びも全てが完結していて、英語も話さないので周りを寄せ付けない空気がありました。日本人は日本語で毎晩ポーカー。さらにお酒は持ち込むことができないルールで、バッパーの中のパブでしか買うことができない。このような閉鎖的な雰囲気が好きになれませんでした。
しかし2週間は待つことにしました。このときはお金がなかったので、雰囲気のことで文句を言っている余裕はなかったからです。オーナーも「2週間以内に仕事が来るはずだ」と言っていたので、それを信じて待ちました
ここに着いた頃は「少しでもお金が手に入ったら、こんなところすぐに出てやる」と思っていましたが、時間が経つにつれて炎はどんどん小さくなり、1週間たったころにはバッパーのヌクヌクした空気に完全に染まってしまいました。「仕事さえ始まればお金も貯まるみたいだし、しばらくここにいるのもいいかも」と思うようにまでなりました。
2回だけ単発の仕事があったものの、1週間半待っても仕事はもらえず、毎日ベッドの上で時間が過ぎるのをただただ待つだけの日々でした。スーパーへ行くたびに財布の中身はどんどん減っていきます。
このままでは食費が出ていってジリ貧になる。食費だけでもなんとかしないと。
さすがに今の状況がヤバいことに気づいたので、以前使った手紙作戦を再び決行することに。「犬の散歩でも掃除でも何でもするから、タダでご飯を食べさせてください」という旨の手紙を50枚作り、近所に配りました。また、シドニー時代にGumtreeに将棋の広告を出したらたくさん返事が来たことを思い出したので、並行して同じ旨の広告を投稿しました。
手紙の方は一つも返事は来ませんでしたが、Gumtreeの方は投稿から2時間後に電話がかかってきました。内容は10月からNSW州のDubboという町でWWOOFをしながらカフェの手伝い(給料有)をしないかというもの。3ヶ月先の話ではありますが、それまで仕事とは無縁の生活が続いていたため急に気持ちが軽くなったのと、その人が間違いなくいい人だと確信したので、即Yesの返事をしました。
その後も、SA州のWWOOF、隣り町のネイリストの仕事、クリーニングの仕事のオファーをもらいました。いずれも遠かったり、車が必要だったりして働くことは出来ませんでしたが、今まで遠い存在だと思っていた仕事が急に現実のものになってきました。
あまりに嬉しくて日本人友達に電話。ついでに自分の近況を話したところ「ファームの仕事はいろいろと理由を付けられて、結局仕事をゲットできないってことがよくあるから、絶対にそこを移動した方がいい!」と言われて完全に目が覚めたので、払い過ぎたレントが返ってこないのは覚悟でここを出る覚悟ができました。
その2日後に、バッパーを出ました。
ほかの日本人には「本当にもうすぐ仕事来るっていうから、あと1週間いればいいのに」などと引き留められましたが、心は決まっていたのでテキトーに返事をして受け流しました。バッパーのオーナーと交渉しても払い過ぎたレントは返ってきませんでしたが「そんなものくれてやる!」と全く悔しくなかったです。
Pemberton
ここのバッパーでは「いつ仕事が始まるかわからないよ」と言われたもののとりあえず一週間滞在することにしました。これが最後のチャンスだと思い、この一週間で仕事が見つからなかったら、Perthかどこかに戻ってジャパレスを探すことにしました。
着いた日の夜、隣の部屋の2人に「新しく来た人だね?」と声をかけられてそのまま1時間くらい話し込みました。冗談をはさみながら、このあたりの仕事の状況を教えてくれて、とても親切な人です。さらに、キッチンにいる他の人たちに僕のことを紹介してくれました。
キッチンは今までのバッパーの中でダントツに汚いし、みなの英語が早くてよく言っていることが分からないことも多かったですが、前のバッパーとは違ったオープンな雰囲気があり、非常に居心地がよかったです。さらに「3日後に剪定の仕事が始まるよ」と教えてもらいました。
この時は「ファーム仕事なんて幻だ」くらいに思っていたので、本当に仕事が始まるとは信じていませんでしたが、「ここでの暮らしは楽しくなりそうだぞ」という確かな予感がありました。
バッパーの友達と
バッパーの友達と
剪定の仕事は本当に3日後に始まり、それから4週間働き続きました。労働時間は週40時とちょうどよく、仕事もただはさみで枝を切るだけなのでとても簡単でした。最初の3日間は筋肉痛に苦しめられましたが、慣れてきたらほぼ無意識に切る続けることができたので、頭の中でいろいろなことに思いを巡らせることができました。
いつもは暇な時間があると音楽を聴きながらパズルゲームをして時間をつぶしてしまう自分ですが、それができないため、嫌でも普段は考えないような深いところまで思考を届かせることができたのはとても貴重な時間だったと思います。
アボカドピッキングの仕事
プルーニングの仕事
途中から皿洗いの仕事も始まったので、剪定の仕事と掛け持ちでした。
朝6時に起きて剪定の仕事へ行き、考え事をしながら枝をチョキチョキ。
終わったらレストランへ行き、他のキッチンハンドの人たちと話しながら皿洗い。
帰ったらバッパーの友達とおしゃべりしながらご飯を食べて、12時前には寝る。
体力的にはかなりきつかったですが、一日の中で局面がコロコロと変わるので全く飽きなかったです。
ここに来たとき約20ドルだった所持金は2週間で1200ドルに。この時は嬉しかったですが、1ヶ月半で3000ドルまで増えたときは、嬉しさよりもなんだか冷めた気持ちになってしまいました。
今までは全然お金が無くても楽しくやっていた。だったら、こんなにお金を持っている意味って何だろう?という疑問です。
ここで参考までに、APLAC卒業生掲示板のラウンドスレで作成した当時の所持金のリアルな増減表を掲示します。
特別付録:実録〜:リアル家計簿!
(以下、卒業生用掲示板からの転載)
お仕事スレ(3)で僕の残高ドンドン減ってくエピソードに田村さんが触れてくださったので、詳しく書かせて頂きます。ラウンド開始〜仕事を辞めるまでの2ヶ月半の家計簿です。これからラウンドに行かれる方のケーススタディになれば幸いです。
体験談にとっておこうと思っていたネタがどんどん出荷されていくので悲しいのですが、もう諦めました(泣)ここまで来たら開き直って、「掲示板の投稿をつなぎ合わせたら十分すぎるほど立派な体験談になった」と田村さんに言わしめるくらいまで書いちゃいます。
→MORE
主な支出は
・宿泊費(以下"宿") ・交通費(以下"交")
です。食費はこの2つに比べて額が小さいので、話をわかりやすくするために記載を省略します。
それと、以下の数字は大雑把です。ちゃんとメモっていたわけではないし、雑費とかあるので。
それよりも、いかに早くお金がなくなるかという感覚が伝われば嬉しいです。
第一部:墜落下降編
7月2日 パース空港到着
【所持金 880ドル】
YHAに1泊
★宿 40ドル
【所持金 840ドル】
7月3日 Merredin へ移動 & 3泊
★宿 40ドル×3
★交 50ドル
【所持金 640ドル】
備考: 「えっウソ?たった4日でもうこんなに減ってる!?」というのがラウンド当初の感想。タイムリミットは予想以上に近いことを実感する。
7月6日 パースへ戻る & 1泊
★宿 40ドル
★交 50ドル
【所持金 540ドル】
7月7日 Pinjarra へ移動 & 1泊
★宿 0ドル
★交 30ドル
【所持金 510ドル】
備考: 宿代ゼロの理由は、バッパーが見つからず野宿しようとしているところを、優しいオージーのポールさんが泊めてくれたため(^^)
7月8日 Bunbary へ移動 & 2泊
★宿 30ドル×2
★交 30ドル
【所持金 410ドル】
備考: 減り続ける残高を見るのが精神的によろしくなかったため、田村さんに相談。「WWOOFって手もあるよ」とアドバイスを頂く。残高に目をつむって精神を安定させることを目的に、仕事探しからWWOOF 探しへ一旦切り替える。
その日のうちにWWOOF 40件に電話し、2時間半でWWOOF先が決定。シェア探しの効果恐るべし。
7月11日 Donnybrook へ移動 & 1週間WWOOF
★交 30ドル
【所持金 370ドル】
備考: 詳しくはこのスレに以前投稿した「Donnybrook での WWOOF 体験記」を参照。
7月17日 WWOOF 終了 & 近くのバッパーへ移動
★宿 410ドル (レント2週間分310ドル + デポジット100ドル)
【所持金 マイナス40ドル】
備考: バッパー代を一泊ずつ払えないという想定外の自体が発生し、計算が狂う。さらに残高を勘違いしていた(←Bunbury のバッパー代が口座に反映されるのが遅かった)ため、念願のドボン達成。
その後、僕がドボン洗礼を受けて覚醒した経緯は、 2014/07/25に田村さんがこのスレに投稿した「柴山くんのDonneybrook」を参照。
7月18日
残高がマイナスになっているのに気付き、Aplac仲間のウッチーに200ドル借りる。
【所持金 160ドル】
7月27日 Donnybrook から移動
★デポジット100ドル返却
【所持金 220ドル】
同日 Pemberton へ移動
★宿 180ドル(1週間分)
★交 20ドル
【所持金 $20】
備考: ここで遂に仕事ゲット。3日後から早速働き始める。
初給料までの食費は、秘伝の最終奥義「バッグの底にしまった最後の100ドル札」を発動して難をしのぐ(笑)
第二部:反転上昇編
8月19日
☆プルーニング給料 1530ドル
☆皿洗い給料 270ドル
★宿 390ドル(2週滞納分を含む)
★借金返済 200ドル
【所持金 1220ドル】
備考: いきなり所持金1000ドル超え。給料が2週払いだったので、この日までが大変だった。2週目からバッパーの紹介で皿洗いの仕事も始まる。
8月25日
☆皿洗い給料 220ドル
★宿 130ドル
【所持金 1300ドル】
備考: プルーニング8時間の後に皿洗い5時間という日もあり、バッパーの友達には「ゾンビみたいな顔してる〜!」と笑われ、Aplac 仲間の多恵ちゃんには「たけし、来月あたり死ぬんだろうな」と言われる。
9月1日
☆プルーニング給料 1140ドル
☆皿洗い給料 210ドル
★宿 130ドル
【所持金 2450ドル】
9月8日
☆アボカドピッキング給料 430ドル
☆皿洗い給料 240ドル
★宿 130ドル
【所持金 3050ドル】
備考: この頃の様子は、すぐ下にある柴山通信(改)を参照。
9月15日
☆皿洗い給料 420ドル
★宿 130ドル
【所持金 3200ドル】
この後、
★パースへ移動して3日観光
★トランペット購入(^^)v
★メルボルンへ移動
などがあり、【今の所持金 2410ドル】
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ペンキ塗りの出会い
剪定の仕事も皿洗いの仕事もなかったある休日。
バッパーのオーナーに「近所の家で人手が欲しいって言うんだけど、来る?」と言われたのでその家に向かうと、部屋のペンキ塗りを手伝ってほしいとのことでした。今までペンキ塗りなんてしたことがなかったので、その家の主人に教えてもらい、すぐにコツをつかんだのでスイスイと進められるようになりました。ペンキ塗りに限りませんが、なんでも初めてのことというのは新しい発見がたくさんあるので楽しいものです。
お昼ご飯は手作りのサンドウィッチをいただきました。
今まで食べたものとはケタ違いのおいしさだったので聞いてみると、野菜はすべて庭で取ったものを使い、自家製のチャツネで味付けしているとのこと。オーストラリアの1年間の中で、一番おいしかったサンドウィッチです。
肉がものすごくジューシーでした。多分ハムなんですけど、味が凝縮されてて、サラミみたいに脂がのってて、でもその脂が全然しつこくない。その「肉のうまみ100%」感が野菜とよく合うんですよね。そこにりんごのチャツネがアクセントとしてとてもよく効いていました。
「このチャツネ、今度買いたいから商品名教えてくれますか?」って聞いたら「これはスーパーじゃ買えないわ。毎週末にあそこの広場でおじさんが屋台構えてるでしょ。そこでしか買えないわよ」と教えてくれました。その町の特産だから、おいしいわけですよね。
昼食を食べながら4人で話をしていたとき、ふと本当のオーストラリアを垣間見たような感覚がしました。
楽しい時間が終わり、「ペンキ塗りがまだ終わってないから、明日も来たいです」と言うと「あとは私たちでやるから大丈夫だよ」と言われ、100ドルを渡されました。「お金なんかいらないです。それよりも楽しかったので、明日も呼んでください」と言ったものの、「遠慮しなくていいから」と言われて、100ドルを無理矢理渡されました。
結局、次に日は呼ばれませんでした。
この家の人たちが優しさでそう言ってくれたのは分かりますが、この時お金というものがものすごくくだらないもの、それどころか、ただの毒にしか思えなくなってしまいました。
「こんなことになるんだったら、仕事なんかするか」という気持ちが芽生え、そろそろ次に移ろうと思いました。
途中で質問:ここでお金についてネガティブな感情が生まれてますが、その内容をもう少し詳しく
ペンキ塗りした家の家族はたちは本当にいい人で、ごはんもおいしくて、それだけで十分すぎるほどの対価はもらっていました。だから、次の日も会いたかったです。
もし、次の日は呼ばれなかった理由が「お金がかかるから」だとしたら、お金が僕とあの家族の関係を引き裂いたように感じてしまいます。僕とあの家族がそういう関係でなければ、もっと深く付き合えたのに!という気持ちです。(もちろん、僕のペンキ塗りが下手だったからクビになった可能性もあるので、断言はできないです)
でも、帰国前にメール相談したように、今はお金はすごく大事だと思っています。ワーホリをトータルで見たら赤字で終わってしまったのは悔しいですし、お金が全てではないからこそ、そんなことで苦労しないようにやりくり上手になったり、稼げるときにちゃんと稼いでおくことも必要だと思うようになりました。
この頃はバッパーのメンバーも変わってきてつまらなくなっていました。元々のメンバーは、遊ぶときと働くときのメリハリがはっきりした大人な人たちだったのですが、新しく来た人たちはいつもチャラチャラしていてとても子供っぽかったです。一緒に暮らしていて疲れました。
途中で質問:「子供っぽい」って、若さでは負けない柴山くんにそう言われるんだから、相当なもんだと思うのですけど、何がそんなにアカンかったのでしょうか?悪口言うみたいで気がひけるのはわかるけど、もうちょい目に見えるような感じで、具体的に書けたらお願いします。
なんというのか、新しく来た人たちには、全然品がなかったです。
例えば、彼らが僕にイタリア語を無理矢理ひとつ覚えさせて、バッパー内ですれ違ったら「たけし、あれ言ってよ!」とお願いされていました。で、それを言うとアホみたいにゲラゲラ笑う、ということの繰り返しが毎日毎日。「もー何が面白いんだよ」とあきれつつも、バッパー内にあえて敵を作る必要はないので言われるがままにしていたのですが、一週間もしないうちに、そんな人たちと一緒にいるのがいい加減うんざりしてきました。
その時はもうオリジナルメンバーはあまり残っていなかったし、仕事と仕事の境目でちょうどいいタイミングだったので移動を決意した、という経緯です。
ちょうどこの時はファームの仕事もなく、次の仕事を待っていたときだったので、いいタイミングだと思い、皿洗いの仕事を辞めて次の場所へ移動することにしました。
バッパーの友達やレストランの人たちと別れるのは本当につらかったですが、みんな僕のことを気持ちよく送り出してくれました。
最後の一瞬まで笑顔でいられる仲間と出会えた自分は本当にラッキーだと思います。
それと同時に、人と別れる悲しみというのは、恐らく死ぬまで慣れることはないだろうとも思いました。
パースへ戻り、次は飛行機でメルボルンへ向かいました。
メルボルン(9月17日〜10月6日):ホリデー
ホストファミリーと
今回のワーホリのどこかのタイミングで必ずメルボルンに行きたいと思っていました。
ワーホリに来る2年前に1ヶ月だけメルボルンでホームステイをしたのですが、そのホストファミリーにまた会いたかったからです。
当時の英語力は今とは比較にならないくらいダメダメ。そんな僕を少しも馬鹿にせず、家族の一員としてリスペクトして受け入れてくれました。
その時の体験が涙が出るほど嬉しかったので、「英語ができるようになってまた再会することで恩返ししたい」という思いを常に頭の片隅に置きつつ、ワーホリに来るまでの2年間英語を勉強してきました。
いよいよ自分の英語を見せつける時です。意気込んで臨みました。
Clayton駅でお父さんのマイケルと再会。
以前と全く変わらず、大きな体を短い足でチョコチョコと動かす姿を見た瞬間に、思わず笑ってしまいました。くだらない冗談ばっかり言うのも昔のまんま。
マイケルは仕事を辞めて今は大学に通っていること、お母さんのスザンヌは脳卒中で倒れたが、リハビリのおかげで元通りとは言わないまでも、ちゃんと話せるようにまで回復していることを車の中で聞かされました。
家に帰ってスザンヌとも再会してから2時間ほど、お互いにこの2年間の出来事について話しました。僕が少しだけインドに行った時の話や西オーストラリアの田舎の中で暮らしたことについて、本当に喜んで聞いてくれました。
しかし、肝心の「たけし、英語力伸びたね」という一言はなかなかもらえません。
僕はそのことにガッカリしていたのですが、彼らの目を見て話をしているうちに、自分がほんとうにちっちゃい人間だということに気づかされました。彼らが「たけし、英語伸びたね」と言わないのは「たけしがまたここに来てくれている。それだけで嬉しいよ」というメッセージだということが分かったからです。
そのことが分かった時、「俺の英語の上達っぷり、見たか!」という気持ちで臨んだ自分が恥ずかしくなりました。ああ、この家族には一生敵わないわ、と。
その後、娘のジェシーにも再会。9歳に成長して大きくなっていましたが、元気でわんぱくなのはそのまんま。後日、親戚の子供が集まったときに、最年長としてお姉さん的な振る舞いができていたのはさすがでした。
表面的なことは色々と変わりましたが、以前と変わらない愛に満ちた家庭がそこにはありました。
僕はメルボルン滞在中2週間タダで泊まらせてもらいましたが、その間、今自分がオーストラリアを旅しているということは頭から消えていました。それまではシドニーで語学学校に通って勉強したり、西オーストラリアで減り続ける残金と戦いながら仕事を探したりと、常に心のどこかで気を張り続けていましたが、このときオーストラリアに来てから初めてリラックスができたように思います。
絢也さんがメルボルンを出発するときのお別れパーティー。 左から絢也さん、絢也さんの友達2人、自分、そしてパブで出会った知らないおじさん(笑)
同じ時期にAPLaCの渡辺絢也さんがメルボルンにいたので、時々ご一緒させていただきました。一度田村さんの家でお会いしているので、およそ3か月ぶりです。
特に一緒に何かしていたわけではないのですが、絢也さんがそのときShapewaysを使って起業の準備をしたのを、真横の特等席で見学させてもらっていました。
図書館が閉まった後には、毎回メルボルンの新しい楽しみ方を教えてくれました。ショートムービーのコンクールやカジノに連れて行ってもらったり、絢也さんの友達に会わせてもらって一緒にパブへ飲みに行ったり。合計10回近く会いましたが、1回も嫌な顔をせずに面倒を見てくれました。
絢也さんがメルボルンを出発する日、感謝の気持ちも込めてお昼ご飯をおごったら、「ありがとう」と言って素直に受け取ってくれたのは、本当にうれしかったです。将来会社に入った時は、あんな先輩が欲しいと思います。
おいしいものもたくさん食べたし、メルボルンでのホリデーも十分満喫したので、次に移動することにしました。
十分な貯金があったのですが、セカンドビザ獲得のために50日はファームで働く必要があったので、WWOOFをすることしました。
以前Gumtreeに投稿したときに、NSW州のDubboという町でWWOOF&有給のカフェの仕事のオファーをもらっていたので、久しぶりに電話をしました。
しかし、以前は明るくて朗らかな声だったのに、この時はまるで魂でも抜けたかのように暗く、淡々とした声。さらに、以前は近くの街まで迎えに来てくれると言っていたのに、今回は「バスでここまで来て。バスは昼の2時にしかないから、それ以降に来るなら近くの街で一泊するしかないわ」と言われました。明らかに様子がおかしい。嫌な予感がしたので、嘘の理由で断りの電話を入れました。
同じく、Gumtreeで広告を出した時にオファーくれたもう一軒に連絡を取ったところ、こちらはOKの返事。急遽バスの行き先をシドニーからアデレードに変更しました。
SA州(10月7日〜12月12日):WWOOF3軒
WWOOF 2軒目
近所のオーガニック農家が集まるマーケットにオーナーも出店するので、お手伝いも兼ねて連れて行ってもらいました。どの店もとてもおいしかったので、2時間で30ドルも使ってしまいました
アデレードのSunny’s Backpackrs という宿で2泊した後、WWOOFへ。電車で一時間。
しかしここに着いて4日間、オーナーと会うことができませんでした。僕が到着する直前に息子(1歳)が入院したらしく、つきっきりで付き添いをしていたからです。事情が事情なので文句は言えませんが、他のWWOOFerに言われた通りに淡々とニワトリの水を交換し、黙々と落ち葉集めをするのはあまりに退屈すぎました。
オーナーは悪い人ではないと思うのですが、疲れがたまっているようで、あまりいい印象を受けなかったです。ここに来るタイミングが悪かったです。さらにオーナーは、別れた元旦那と子供のことについて揉めているらしく、息子が退院してすぐに家を出ることに決めたので、自分も10日でここを去ることになりました。
アデレードのSunny’s Backpackersに戻ったところ、たまたま渡辺絢也さんもKangaroo Islandに向かう途中にアデレードで一泊されるというので、再び一日だけご一緒しました。この日は絢也さんが商社時代に身につけた知識や技術の話を、実例を使いながら教わることができてとてもいい勉強になりました。普段大学生活をしていると、大人の方々と話をする機会がほとんどないので、社会経験をお持ちの方々からお話を聞くことができたのは本当にいい経験でした。それだけでもオーストラリアに来てよかったと思います。
絢也さんと話している途中に、メールを送ったWWOOFホストの一人から電話がかかってきました。今までどんな農作業をしてきたか、なんでWWOOFを探しているのかなどを聞かれましたが、僕が英語で詰まったり、質問が難しくて考えていると優しい口調で助けてくれるのを聞いて、この人は間違いなくいい人だ!と確信しました。その後、子供4人の世話も手伝ってもらうけど大丈夫か、ベジタリアン生活でもいいか、シャワーは3日に1回だけど問題ないか、トイレは穴とビニールの屋根があるだけだけど平気か、などの注意事項に返事をしながら、これは間違いなく楽しい生活になると期待に胸を膨らませました。
WWOOF3軒目
オーナー家族と
ホストのBenとTamはそれぞれ子供を2人ずつ連れているカップル。子供がいるのは週に3〜4日だったので、騒がしい生活と落ち着いた生活を交互に繰り返すという、不思議な暮らしでした。
着いてまず驚いたのが、彼らの完全に自然と調和した生活です。
電気はソーラーパネルで全て自家発電。水は雨水をためて使う。
食事はすべてオーガニック野菜。自分の庭からも取りますが、足りない分は近所で似たような生活をしている人たちと交換したり買ったりしていました。
そういった生活をしながらも、Benはネットを使って自営業をしており、必要最低限の収入は得ているという状況。
自然の中で暮らしながらも、都会のよさを取り入れた生活がそこにはありました。
自然に囲まれた生活でした。近くには川も流れていて、子供たちの遊び場+避暑地になっています。
抜いた雑草は、鶏のエサになります
なぜベジタリアンなのかを聞くと、
「私たちは肉を食べることもあるが、屠殺された動物の肉は食べるべきではないと思っている。
そういう動物は外来種だから、オーストラリアで外来種を食べるのはナチュラルじゃないし、家畜はメタンを吐くから環境にも悪い。それに屠殺の方法も残酷だ。それなのに、なんで君はそんな肉を食べるんだ?地球の環境によくないし、倫理的にもよくないじゃないか」
と、言われ、何も言い返せませんでした。言われてみれば納得です。こういう理由なので、カンガルーの肉は食べていました(僕もカンガルーシチューをいただきました。美味です)。
このような生活を続けていくうちに、「これが人間の本来の姿なんだな」と思うようになりました。
僕たちの祖先はもともとこのような環境の中で何百万年も生活していたわけで、これこそが人間のあるべき姿。都会の中で働いてスーパーで食べ物を買う生活の方が異常だという考えが自然と湧き上がってきました。
ここに3週間滞在した後、次のWWOOFを探すために一旦アデレードのシティへ戻りました。
いつものSunny’s Backpackersに帰って受付に顔を出すと「おー!また戻ってきたかー!はい、前と同じRoom10のカギね。前よりちょっとだけ英語うまくなってるよ。今回のWWOOFはどうだった?」と僕のことを覚えていてくれました。知り合いのいないアデレードで唯一の心の拠り所でした。
約3週間ぶりにColesへ行ったときは鳥肌が立ちました。野菜が山のように積まれているのを見て気持ち悪くなってしまったからです。自分はあれだけ苦労してやっと1個のレタスを収穫できたのに、なんでこんなに安いんだ。パッキングされた肉が所狭しと並べられているのも異常にしか感じませんでした。卵は味が薄くて水っぽいので全然おいしくありません。
しかし3日もしないうちにそういった光景も見慣れてしまいました。結局、一番安いのを買ってしまうのです。オーガニック野菜は倍以上の値段がするので、とても買う気がしません。
自分は経済のことは全然知りませんが、「あーこれが資本主義かー」とむなしくなりました。
WWOOF4軒目
家と庭はこんな感じです。
オーナーと
ここのオーナーはクリスチャンの夫婦。小さな庭で野菜や果物を育てているのですが、2人は歳のせいで手入れが満足にできず、子供たちはみな家を出ているので、WWOOFer や Helpex を受け入れている、という状況でした。
40歳くらいのときにキリスト教を信じ始めて聖書を勉強し、60歳を超えた今でも週に1回、仲間と聖書の勉強会を開いていました。
しかし、自分は正直、ここに来て数日でやる気が削がれてしまっていました。
3軒目のWWOOFでは自然の中での生活していたのに対し、ここでは小奇麗な家で暮らし、街までは車でたったの7-8分。高速道路が家の前を走り、冷蔵庫の中はIGA(スーパー)の安いブランドばっかり。何不自由のない生活に、全くやりがいを感じなくなっていました。
同時にシドニー時代の友達からは「いつ帰ってくるの?」という連絡がたくさん来ていて、早く帰りたくてじれったい日々。
セカンドの日数を稼ぐためだけにここにいるような生活でした。ここに着いて2日目には「あと11日…」とカウントダウンを始めていました。
これはよくないと思いつつも、どうにもできない、どうしたらいいかも分からない状態だったので田村さんに相談したところ、「なんでも自分の経験した既成パターンに当てはめて処理しようとしてない?それだと既成であるがゆえに当然のことながら同じことの繰り返しにしか感じなくなって飽きたりする。でも、だからといって新しい喜びを発見・創造しようとしていないのでは?」と指摘されました。
問題点は分かったものの、その時はどうしたらいいか全く分かりませんでした。とりあえず、できるだけ先入観を入れずに目の前にある現実をありのままに受け入れるよう心掛けたものの、最後まで大きな結果は得られず。
結局ここのWWOOFは最後まで心の底から楽しめませんでした。その気持ちは多分オーナーにも伝わってしまったと思います。
その家に3週間ほど滞在した後は、あえてシドニーに行きました。
興味の焦点が変わってきたからです。それまではオーストラリアのワーホリ・ラウンドということで外部的なものが対象だったのですが、このあたりから自分自身の限界や発展可能性という自省的なものに取り組みたくなってきたからです。そして、そのためには、一番勝手の分かっている場所で、どれだけ新しいことに挑戦できるか試してみようということでシドニーを選びました。又それは、日本に帰ってから元の生活に飲み込まれないための予行練習も兼ねています。
アデレードからシドニーまでの2夜連続の夜行バスはツラかったですが、意外となんとかなりました。
再びシドニー(12月14日〜2月1日)
帰国直前、田村さんのお手伝いをさせてもらいました。三浦ロナウドさんとStrathfieldの韓国料理を食べた時の写真。
シェア探しに付き添っていったのですが、どこまで手助けするか、どこからはご自身でやっていただくか、という見極めがとても難しかったです。
自分の発想の限界性やその向上などについては、田村さんとの間で掲示板スレやメールなどでかなり活発にやりとりしたのですが、あまりにも大部になるので、ここでは割愛します。自分にとっては大きな問題であるし、今もそうなので、そのあたりは自分自身のHPやブログで引き続き考えていこうと思っています。
シドニーではそれまでとは違い、何かを達成することによる充実”以外”の道を探していました。既成パターンでは説明がつかないようなものを手に入れたかったです。
色々考えましたが、自分は人と一緒にいる時が一番楽しんでいることに気付きました。語学学校の友達、将棋を教えていた人、Arncliffeで一緒に住んでいた Cho と Banyaなどのたくさんの人と再会し、みな僕が帰ってきたことを心の底から喜んでくれました。また、シドニー大学の学生と新しく出会ってその後クリスマスパーティーに呼ばれるなど、友達の輪がどんどん広がっていきました。
自分がそこにいるだけで認めてもらえる、誰かのためになれる。ここが自分のホームだという感覚が湧き起こってきました。
その他に、レストランとカフェめぐりもしていました。働きもせずに毎日毎日新しい店を探しに行った結果、貯金はすぐになくなってしまったので親に借りました。出世払いすることになりますが、おいしいものをたくさん食べることができたので満足してます。
しかし、人と会っておしゃべりをするのは週にたった数回。レストランやカフェめぐりも、当然ながら何時間もかかるわけではありません。2ヵ月のうちのほとんどの時間は、何もしていませんでした。
でも、それでよかったと思っています。
日本にいる時は、常に生産的なことをしていないと罪悪感が襲ってきました。でもオーストラリアでは、何もしないことを許してもらえる気がします。そんな空気に身をゆだねていただけの2ヵ月間でした。
日本
帰国後、吉田さんの「かいんだフリスク案件」(仮称:詳しくは
ココ参照)に参加させてもらっています。
みなが持っている漠然とした将来への不安を、具体的な行動に起こして解決しようというものです。
僕としては、あれだけ強烈なメンバーと一緒に話をしているだけでも貴重な経験になっているのですが、その中でも特に、具体的な案を出して構想の骨格が完成していく様子を目撃したときは息を飲みました。
伊勢での会議では、今まで僕のやってきた 具体→抽象 とは逆に、抽象的なぼややんとした感情が具体的な形を持っていく過程を生まれて初めて見たような気がします。言葉を変えると、物事が”創造”される瞬間を初めて目の当たりにしたような気がします。
何に対しても上っ面だけ舐めて分かった気になっている自分とは違い、吉田さんを始めとした他のメンバーは、心の中にあるぼややんとした捉えどころのないものと真正面からとことん向き合っているのを感じました。
伊勢会議が終わった今でも、ネット上での話し合いが続いています。いよいよ今度の10月には、みなでカンボジアへ行く予定です。この案件で僕たちは、既存の路線に乗るつもりはありません。自分たちにしか作れないものを作りたいと思っています。だから、お互いに妥協せず、自分のすべてをぶつけ、それでいて楽しく、リスペクトし合いながら取り組んでいます。その思いが伝わったのでしょうか、APLaC卒業生以外の人も興味を示してくれ、会議に参加してくれるようになりました。嬉しい限りです。
形になるのはまだまだ先の話になりそうですが、自分は「かいんだフリスク案件」に非常にやりがいを感じています。
帰国してしばらくは日本での生活にアウェイ感を感じていましたが、やっと自分の居場所を見つけることができました。
「自分の本当にやりたいことがよく分からない」という葛藤からスタートした旅ですが、そのような思いは今、全く心の中にありません。その代わり、どうすれば「思い」を「形」にできるかという、もっと大きな問題に直面している最中です。
帰国してからも、自分の未熟さを思い知らされています。
これからもずっと、そう思える環境に身を置き続けたいと思います。
おわりに
この一年間で、自分では「分かった」と思っていたことが、実際は全然分かっていないということをとことん思い知らされました。
自分の思い上がっていた部分を徹底的に叩き壊してもらうことができ、オーストラリアにきて本当によかったです。
ワーホリでの1年間を終えて、やっとスタートラインに立つことができたように思います。
お世話になったみなさん、本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。