日本から脱出ギリホリ編
日本では大手不動産会社で秘書業務に従事し、趣味も充実、年に一度の海外旅行が生き甲斐!という特に何の不自由もないOL生活の毎日を送っていました。
ただ、30歳の誕生日を目前に「このままでいいのだろうか」という思いがふつふつと沸き上がり、ついにワーホリについて調べ始めました。もともと海外一人旅が好きで、もっと英語が話せたらいいのにと思っていたのもあり、調べるにつれワーホリへの思いは募るばかりでした。
そんななかたどり着いたのがAplacです。何の飾り気もなく(田村さんごめんなさい!笑)、やたら難しいエッセイばかり、でもものすごーく詳しいレストラン情報やら料理についての知識やら、なんだか心惹かれるものがあり、ほぼ毎日のようにAplacのホームページを訪れていました。何よりも心動かされたのはAplac生の体験談。当時の私は「ラウンド?なんじゃそりゃ?」状態でしたので、みなさんのドボン体験やありえない素敵な出会いのお話はなんだか夢のようでした。そしてついに田村さんにコンタクトをとり、シドニー行きに決まりかけていました。
まさかの路線変更、ブリスベンへ -2014.5
しかしそんななか、友人の紹介で他のエージェントにお世話になることが急遽決まりました。こちらはゴールドコーストとブリスベン中心のエージェントで、Aplacと同じく最初からホームステイではなくシェア探しをするというモットー。暖かいところがいいなぁというしょーもない理由と、割と【手厚い】フォローが売りだったこちらのエージェントを通じてとうとうオーストラリア入りしました。
悶々ブリスベン生活
そんなこんなで期待に胸をふくらませたブリスベン生活。
しかしこちらのシェア探しは田村さん方式とは異なり、エージェントが数件ピックアップし、一緒に見学に行き、はい、その場で決定ー!というもの。私の場合なんと1件目で「こんないい物件他にはない!」とゴリ押しされ、半ば無理やり決定ー。
学校は渡豪前から決めていたのですが、聞いていたより全然日本人が多いことにびっくり&がっかり。最初の数週間はみんなが通る道【何喋ってるのか全然わからん、なんでこんなに喋れるんだこの人たち】に苦しみましたが、これはもう慣れの問題ですね。はい、慣れました。かなり厳しいEnglish only policyが売りの学校だったのは良かったなぁと思います。
ただ、毎日学校と家の往復のみ、たまーに学校のイベントで少し遠出することはあっても、ダウンタウンから出ることもなく、なんてつまらん毎日だろうと思うばかり。
日本人ばかりで固まるクラスメイトに馴染めず(というか意図的に避けていたかも)。クイーンズランドにいるからにはコアラには触っておこうとひとりで動物園に足を伸ばすのが休日の楽しみでした。
何かしたいけど、どうしていいかわからない。そんな時に、学校の分校がシドニーに出来るというニュースを耳にしました。そこでAplacのことがふとよぎり、こんなチャンスは他にはない!と田村さんにコンタクトをとりました。
数少ないブリスベン学校時代の写真。笑顔なのに目が死んでる。
学校に慣れてきた頃。でもやっぱり目が死んでる笑
いざシドニーへ!-2014.8
たった2回のやりとりだったにも関わらず、私のことを覚えていてくださった田村さん。
自分のヘタレっぷりを鍛え直してもらいたいと頼み込み(笑)、変形一括パックを組んでいただきました。
学校のオープニングまでは少し時間があったのですが、とにかく早くなんとかしたいという一心でさっさとシドニーへ!
ブリスベン空港からシドニー行きの飛行機に乗った時は、ものすごい開放感に包まれたのを覚えています。
ブリスベンからのフライト時間の関係で、空港から田村さん宅までは自力で向かいました。
シドニーダウンタウンについた時のなんとも言えぬ興奮、バスへ乗る時のドキドキ、バス停からの静かで穏やかな道の美しさはいまでも鮮明に覚えています。また迎えてくださった田村さんが想像よりずっと優しそうだったことも!
学校2つ
私の場合はブリスベンからの転校という形で学校はすでに決まっていたのですが、その学校のオープンまでの一ヶ月だけELSISに通うことにしました。この学校がまた本当に濃くて、かなり面白い体験でした。ブラジル人のクラスメイトはとにかく遅刻する、ロシア人の子は喋り出すと止まらない、コロンビアのカップルは授業中もラブラブ状態、、隣の教室は全員インド人!それでもUpper Intermediateということもありみんなスピーキングはお手の物。相変わらず劣等感はありましたが、ブリスベン時代からの慣れもあり、割とどっしり構えてたように思います。
そして9月に新しい学校がオープン(Langports)。なんと生徒数は私を含め3人!生徒より先生が多いという状況に。でもこれはある意味ラッキーでした。ほぼマンツーマンレッスンだし、スタッフも先生も全員仲良し!学校のシステム的にはボロボロでしたが、私はそこそこ楽しんでいました。この学校も今ではかなりの生徒数、時期によっては人数制限がかかり入学待ちにもなるそうです。シドニーでは学校の友達と飲みに行ったりワイナリー巡りをしたり、恋バナに花を咲かせたり、と青春時代を取り戻したかのように遊んでました。ただどこかで「このままじゃダメだ、早くラウンド行かなきゃ」と何かに駆られるような思いが常に付きまとっていたように思います。
学校の仲間とシドニークラブデビュー。
生徒3人、スタッフ2人。学校創立メンバー!
ハンターバレーのワイナリー。飲みすぎて記憶が、、、
シェア探し
さて、Aplac名物シェア探しです。まずは最難関の電話。田村さんの特訓を受けたものの、最初の数件はもう手が震えました。そしてやっぱり何言ってるかわからない!そんなときはとにかく「テキスト送ってください」で乗り切りました。あーなんて便利!
しかしまぁびっくりするような物件がありますねー。どうやったらこんなとこに住めるんじゃい!と突っ込みたくなるような部屋から、キラキラゴージャス系、サーファーのたまり場みたいな部屋、ライス無料(笑)の部屋、、、人様の生活の1部を覗けるというシェア探しが楽しくて、またなかなか最良物件が決められなくて、2週間半も田村家にお世話になりました。
忙しいのに毎日ご飯を作って下さり、新しい物件情報を発掘してくださる田村さんには、ほんっとうに感謝の言葉しかありません。田村さんお手製サンドイッチを頬張りながら、絶対いい物件見つけてやるー!と燃えたものです。
そういえばクージービーチの目の前、ものすごいいい物件があったのですが、ルームシェアに抵抗があり、ウジウジしてるうちにtakenとなってしまったのがいまだに心残りです笑。
このシェア惜敗がきっかけでクージービーチ大ファンになりました。
フェリー通学のクレモーンのシェア移動時
そしてとうとう決めました、最初のシェア!ひとつはスーパー高級住宅地クレモンにあるひと部屋。
なんと夢のフェリー通学!1週間の期間限定でしたが、セレブ気分を満喫しました。寒かったけれど、朝の爽やかな風を浴びながらハーバーブリッジをくぐり通学する快感は格別!みなさんにもぜひぜひ味わってほしい!!
2件目はイタリア人街ライカートでタイ人の女の子とシェア。
この子の彼氏と3人で鍋パーティーをすることもしばしばでなかなか楽しい生活でした。またこの街の雰囲気がお気に入りで、可愛いイタリアンレストランを眺めてふらふらするのが日課でした。田村さんおすすめのジェラートも何度食べたことか、、
しかし色々あって、このあとNorth Sydneyでフィリピン人男性とのシェアも経験。この人がまた本当にいい人で、しょっちゅ
うご飯やら飲みに連れていってもらってました。ラウンド時には荷物も預かってくれ、いまでも連絡を取り合うほどです。
シェアメイトのJesとノースの焼肉柏にて。優しいお兄ちゃんみたいな存在でした。
余談ですが、3週間近いシェア探し中、足の甲を骨折しました。原因は足が固定されないムートンブーツで長時間歩き回ったこと。レントゲン、MRI、治療、リハビリと、相当な金額になったと思います。私は保険に入っていたのでカバーされましたが、、、皆さんも保険は必ず入りましょう。何が起こるかわかりません。
プチストーカー事件
方向音痴の私は、シェア探し中よく道に迷っては人に聞きまくるというパターンを繰り返していました。
ストラスフィールドの駅がわからなくなり迷っているときに道を尋ねた大学生の男の子がとっても親切にしてくれ、ひょんなことから連絡先を交換することに、、、、その後何度かシティでばったり会ってお茶をしたり、メールをしたりしていたのですが、一回りも年の離れた(!)若者とどうこうなる気も起きず、フェードアウトを試みました。
が、彼のメール攻撃&待ち伏せ行為がエスカレートするように。かなり怖くなった私は引っ越し&すべての連絡先ブロックでなんとか彼との接点を断つように努めました。幸いにもラウンドに出るタイミングだったので、事なきをえたのですが、結構本気で身の危険を覚えました。まぁこの件は私に落ち度があるので大反省です。みなさんも色恋沙汰にはどうぞお気を付けください。。。。。
ラウンド編 タスマニア短期滞在 - 2014.10
ワーホリも半ばを過ぎ、また「このままではいかん、ラウンドしなくては!」と焦りMax、
いよいよラウンドに!
漠然とWWOOFに憧れていたのと、チェリー・ピッキングしてみたいなぁという思いから、まずはタスマニアへ。
タスマニアからさらにフェリーで数十分のBruny Islandのベリーファーム&カフェでwwoof生活。
この島でしか見られないというホワイトワラビーがそこらをうろうろしているという自然しかない(スーパーとかもない)生活。ベリーファームの仕事とカフェの仕事は楽しかったのですか、オーナーがかなり難ありでした。70歳のブルーニー出身のオーナーと日本人の奥さん2人との生活だったのですが、オーナーからのセクハラまがいと、カフェの仕事後の掃除洗濯料理というまるで休み時間なしという生活サイクルに逃げ出す人多数。
セカンドが欲しい子達は我慢して働いていましたが、私はセカンド狙っていなかったのでさっさと逃げました。さよならー!
ブルー二ーにしか生息しないというホワイトワラビー。
西へ西へ - 2014.11
さて、当時の目的だったチェリーシーズンまではかなり時間があったので、タスマニアはさっさと諦め向かうは西!
Aplac生も多くは西へ向かうと聞き、迷いなく西へ向かいました。
いつか見たDunsboroughという街がなぜか記憶にあったので、Perthの空港から直接バスに乗りDunsboroughへ。
今思えば少しPerthでゆっくりすればよかったかなぁなんて。
バスで4時間南へ下ったそこは、インド洋が広がるビーチの街。この海を見た時の衝撃は一生忘れられません。
遠浅でどこまでも広がる透き通った海。
人っ子一人いない、自分だけの海。
しばらくバス停でぼーっとしてしまいました。
それくらい、この海は私の心を虜にしました。
拠点をバッパーに置き仕事探しを開始したのですが、狙っていたアボカドファームは既に時期が終わってしまい見込みなし。
街が小さいので、レストランなども限られていて仕事探しは難航。
それでもバッパーの庭にあるハンモックに揺られて海を眺めているだけで、なんて幸せなんだろうと感じるばかり。
そうそう、これが私にとっての初バッパー!
【Dunsborough Beach House】リビングにいてもどうしたらいいのかわからず、ぽっつーん。
ヨーロピアンたちのノリにあ然として、田村さんに泣きのメールをしたことも笑。
女子部屋のはずなのに朝起きたら下のベッドに男の子が寝てたなんてことも多発。
部屋の床にはアボカドと泥だらけ。三十路にしてなかなかの衝撃体験。
そしてさらにschool leaversのグループ予約のため、一時的に全員がバッパーから追い出されることに。
街中のバッパーが満員なので、仕方なく街を変えることになりました。
失意のBunbury
Dunsboroughから1時間弱北に戻ったところにBunburyというイルカで有名な街があります。
こちはらDunsboroughと比較しても割と大きな街なので、仕事探しには苦労しないだろうと思っていました。
しかしそれが大誤算。
とにかく街中すべての飲食店にレジュメを2回ずつ配りましたが、かすりもせず。
とあるカフェでは「うちはアジア人は雇わないから!」とレジュメを突き返される始末。
このエリアで人気だったのが精肉工場の仕事だったのですが、waiting listは常に満員状態。
車を持っていなかった私は、同じバッパー【Wander Inn Backpackers】の台湾人男子と自転車で直談判へ!
片道1時間のチャリレースもむなしく、門前払いでしたが。
またAlbanyからやってきたという日本人の女の子と意気投合し、彼女の車で隣町の肉工場にアプライもしました。
彼女は精肉の経験者だったので、その恩恵に預かり私も面接してもらえることに。厚かましくも経験者です!と嘘をつきなんとか雇ってもらえることになったのですが、その場で連れていってもらった工場見学で血と肉の臭いにやられ、かつ自力で通える手段がないことに不安を覚え、結局お断りしてしまいました。
またここも海の街ではあるのですが、なんだか自分にはしっくりこず、海を見る機会も減ってしまいました。
そんなときDunsboroughの違うバッパーに空きがあるというニュースが。もしこれで仕事がなかったとしても、私はあの街に戻りたい!そう思い、即バッパーに連絡を取り、Bunburyを後にしました。
仕事探し中、束の間の息抜き。名もなきビーチ。
運命のDunsborough - 2014.12
帰ってきた!やっぱりここだ!
再び舞い降りたこの街、これが私の求めている癒しなんだなぁと改めて感じました。自分の身体が喜んでいるのがわかる!
またこのバッパー【Dunsborough Beach Lodge】が仕事の斡旋もしていて、その日のうちにリゾートホテルのハウスキーピングの仕事をGET!今までの苦労は一体、というほどあっさり決定。
このバッパーにいる人の9割は同じリゾートホテルで働いているので、みんなすぐに顔見知りに。
真夏のハイシーズンだったので、ほぼ休み無しで毎日働いていましたが、辞めたいと思ったことはありませんでした。
また、スーパーバイザーが日本人びいきだったのも助かりました。
仕事前ビーチでヨガ、仕事が終わったら即ビーチで泳ぎまくり。
夜はみんなで料理して、映画見て、飲んで。
クリスマスやニューイヤーパーティはもちろんバッパー仲間とバカ騒ぎ!こんな贅沢他にはないです。
全員集合!
クリスマスパーティ。ここには載せられないような写真ばかりで、、、
そしてこの生活に欠かせなかったのが、親友のYen。
台湾からのワーホリで同じアラサー女子です。
モデルのような美しさで、独特のオーラを持ち、猫と黒をこよなく愛する彼女。その美しさから女子からも男子からもモテまくりでしたが、そこに流されることなく常に自分の姿勢を崩さない彼女の傍はとても居心地が良かったです。言葉や国籍関係なく人として惹かれるという経験は初めてだったので、とても新鮮でした。色々あって彼女とは突然の別れを強いられたのですが、その後シドニーで再会、今でも連絡を密に取り合う仲です。
親友、Yen
Dunsboroughから更に南へ下ると、ワインの街Margaret River, Augusta, Albany, Esperanceと繋がります。
Margaret Riverのワイナリー巡りや美味しいレストラン巡りは、疲れた心と体の癒しでした!
これから西へ行かれる方はぜひお気に入りの1件を見つけてください。
そうそう、私はAugustaまでしか行けなかったのですが、Esperanceはこの世のものとは思えぬ美しさだそうで。私のbucket listに追加です!
Augustaまでプチ旅行。
交通事故で命の大切さを思い知る
バッパーからリゾートホテルまでは車で20分ほど。
毎日交代で誰かが運転して通勤いました。ある日たまたま早番だったドイツ人の18歳Robertがひとりでバンを運転していたところ、カーブを曲がりきれず交通事故を起こしたという知らせが。意識不明の重体で、救急ヘリでパースまで搬送されました。奇しくもこの日が彼の最終出勤日。これから相棒とラウンドに出るんだとキラキラした目で話していた矢先の出来事でした。私達もショックで言葉が出ず、無事を祈るばかり。情報ではかなり危ない状態で、少なからず後遺症が残るだろうということでした。この日たまたま彼が一人きりだったけれど、いつもなら私もその車に乗っていた。もし乗っていたら間違いなく死んでいた。そう考えると、本当にいつどこで何が起こるかわからないです、人生は。
また、田村さんの言葉「死ぬな」が頭の中で何度も駆け巡りました。
結局彼はドイツに搬送され、本国で治療を受けることになりました。それから数週間、無事に意識回復し、奇跡的に後遺症もなく生活できるという知らせを受けました。
ドキドキデートからの人生初の食中毒
先にも少し述べたように、私の日課はビーチで朝ヨガをすることでした。
毎日同じ時間に同じ場所にいるので、地元の人と顔見知りになりました。
そのうちのひとり、ニュージーランド人の男性と仲良くなり、食事でもしようということに。
そこで気取らないフードワゴンでタコス(だったかな?)を買い、ロマンティックな夕暮れの浜辺でデート、、、のはずでした。しかし!タコスを食べた数時間後から急激に具合が悪くなり、這うようにバッパーに帰りつきました。
そこからが悪夢の始まり、、、吐き気と熱、腹痛に襲われ、起き上がることも出来ない状態に。3日間は地獄でした。病院にも行けず、何も口にできず、眠ることも出来ず。5日目にしてようやく薬局まで歩けるようになり、脱水症状用の薬を購入。これで劇的に回復しました。要は極度の脱水症状だったようで。
いやぁ、本当に死ぬかと思いました。例の男性も翌日同じ症状に見舞われたそうで、あのタコスか!ということになりました。その後同じフードワゴンを見かけることはありませんでした。ちなみに彼とはそれっきりです笑
旅に出よう!-2015.4
そしてワーホリも残すところ一ヶ月ちょいというところでこの街を後にすることに。
同じバッパー仲間だった香港人のKeissonと一緒に、コーラルベイまで北上しました。
ジンベイザメと泳ぐのが夢だったのですが、あいにくの悪天候で中止に、、、
それでも人生初のシュノーケリングでマンタと追いかけっこしたり、一面に広がる珊瑚とウミガメに囲まれる経験は一生モノです!
White heaven beachとCairns
さらにそこからケアンズに飛び、念願のホワイトヘブンビーチからグレートバリアリーフ!
もうこれは筆舌に尽くし難いので、写真でどうぞ!笑
もちろんホワイトヘブンビーチは最高です、が、それ以上に良かったのがケアンズでした。
全く期待していなかったのですが、バッパー【Northern Greenhouse】の居心地が良すぎて、予定より大分長く滞在することになってしまいました。
ここで出会う人達がみんな本当にいい人ばかりで、最高!フリーのアクティビティも充実していたので遊び放題。割と入れ替わりが激しいツーリスト向け(ファームやりたい人向けのアコモではない)というのが自分には新鮮で、毎日遊んで色んな人と喋って、飲んではしゃいで、そりゃもう天国です。バッパーがこんなに楽しくなるなんて、日本にいた頃の自分からは考えられなかったなぁ。そんなこんなで、三週間近く滞在したケアンズをあとに、シドニーへ里帰りです。
寿司パーティー!
フリーアクティビティではしゃぐ!
誰かの誕生日パーティの帰り。訳もわからずイエーイ!
ラスト、シドニーへ帰る
ワーホリの締めくくりはやはりシドニーでしょ!ということで、帰ってきましたシドニーへ。
おー、都会だ!ビルがたくさん!車も人も!あ、電車だー!と謎の興奮を抑えきれない怪しいオーラ全快で再びタウンホールの駅にたどり着きました。
半年ぶりにお会いした田村さん、ほぼ同期だったしょうくんとの再会、親友Yenとのシドニー巡り、母親の渡豪、などなど盛りだくさんで、あっという間に帰国の日を迎えました。
振り返り
私のワーホリ、人生を変える感動的な出会いや衝撃の事件があったかというと、答えはNoです。
でも、日常の些細なことひとつひとつが私にとっては全て「特別」であり、その積み重ねが自分の中の何かを変えたのだと思います。
その何か、をはっきりと述べる事はできないのですが、、、今ここ(カナダ)で踏ん張ってもがいている自分を支えているのは、間違いなくオーストラリアでの経験です。
あの1年がなかったら、今私はここにいないし、本当に全く別の人生を送っているでしょう。
思い切って日本を出てよかった!
余談(カナダワーホリビザ取得&永住権トライ)
私がオーストラリア入りしたのは、30歳の5月でした。
そして渡豪直後、「こりゃ1年じゃ到底話にならん!」と直感。
そしてシドニーに来てすぐにカナダワーホリにアプライ。
31歳の誕生日は12月だったので、これぞ真のギリホリです笑
セカンドを取るには時間がなさすぎたので、別の手段としてカナダを選択しました。
これが正解だったー!そして今、縁あってカナダの永住権申請中です。(プロビンシャルノミニープログラムという、州単位の永住権取得制度です) こちらについてはまた別にFB等で報告させていただいておりますので、割愛します。個別のご相談はいつでも大歓迎です!
荒井潔子
参考リンク(FBページより)
2016年01月04日:荒井潔子さんのカナダ通信
01月24日:荒井さんのカナダ・ユーコン奮戦記
02月16日:荒井さん、カナダ・ホワイトホースでブレイクスルー
05月31日:荒井さんのアラスカ国境通信
補充質問
一点だけ補充質問したいです。趣旨は簡単。
これだけあれこれ出来る人が、なんで当初ブリスベンで沈没していたのか?
これは誰にとっても重大なキーポイントになるような気がして。つまり、イケる(自分の力をフルに発揮して、本来欲しかったものにまっすぐ進んでいくこと)と、イケてない(なぜかそれが出来ない)の分水嶺は、実際問題なんなのか?論です。
最初は僕のところにコンタクト取ってやる気満々で、結果的にもできているのだから、そのまま真っすぐ来ればよかったのにそうならなかったのはなぜか?ですが、僕が思うに2つの原因があると思います。
(1)いよいよ近づくとビビる心理
いよいよオーストラリアに行く直前になって、一括パックじゃなくてもうちょっとマイルドな方がいいなーと日和ってしまう(笑)わけですが、やっぱそこらへん、恐怖的な心理みたいなものはあったのでしょうか?当時をリアルに思い出して欲しいのですが、どうだったですか?
(2)目の前にある現実によって視界を遮られる心理
あかんわー、もろ引きこもりだわーと思いつつも、日々の暮らしがそうなってしまっている以上、それを打破する方法がわからない、糸口がつかめない、それで悶々とするということだと思うのですが、そこらへんはどうでしょう。
いよいよシドニーに移って僕のところに来てから弾けるのですが、実際読んでみると、来る前から弾けてますよね。自力でウチまでやってきて、バス停降りて歩いた道が綺麗で、解放感があって、、という。つまり上の2点が解消されたら、自動的に弾けていったようなものかもしれません。
だから学びとしては、こうすると弾けられるというのではなし、こうすると弾けられなくなるという阻害要因が大事で、それを除去すればいいんじゃないか?って気もしました。
そのあたりどうでしょうか?率直な感じで幾らでもいいので、書いてください。
荒井返信
返信遅くなってしまいすみません。早速ですが、ご質問の件お答えいたします。
(1)いよいよ近づくとビビると心理
シドニー入りを決めたにも関わらずブリスベンに心変わりした大きな心理的要因は、思い返してみるとまさにこの恐怖心につきます。
オーストラリアにいくからには何かモノにしたい、ただの遊び、息抜きの「ワーホリ」で終わらせたくないという自分への追い込みとは裏腹に、初めての長期海外生活、特に初期段階の生活基盤を築くというプロセスに少なからず不安を感じていました。Aplacの体験談を隅々まで読み込んでは、イメージトレーニングをしていたのですが、割とスパルタ(に見えた)Aplac方式についていける自信がどんどんなくなり、「これはやばいかも」と突然不安に襲われた記憶があります。
また当初は,最初の数か月は学校での勉強に専念すると決めていたので、そのためにもできる限り早く生活を落ち着けたいと思っていました。そこで降ってきたブリスベン話に食いついてしまったわけです。。今考えると情けないですね。
ただ当時の私は、日本ですら冒険的な選択肢はなるべく避けて通りたいと思っていたので、このブリスベンのエージェントは、まさにいいとこどりに見えたわけです。また前にも少し触れた「暖かくて晴れが多い天気」に惹かれたのは事実です。笑 私、結構天気に左右されやすい(雨だと頭痛がひどくなる、とか。)ので、360日晴れ!と言われて「イェーイ!ブリスベン素敵!」に流れました。うーん、なんて軽率な。。。。
(2)目の前にある現実によって視界を遮られる心理
上記で触れたとおり、ブリスベンは学校メインで考えていたにも関わらず、学校でうまいこと自分の居場所や目的を見つけられなかったことが最初の障害だったと思います。
渡豪前の荒井的イメージトレーニングでは、陽気でよくしゃべる南米人やヨーロピアンと友達になって、英語喋りまくるというスクールライフだったのですが、実際はすでにグループが出来上がっている彼らに突撃「友達になりませんか?」とは到底いかず。
一方で、そこそこ楽しそうな日本人グループに混じるかというと、「私は彼らとはちがう!」という変なプライドが邪魔をして、それもできず。結局どこにも属せず、割とぽつんとなる時間が増え、「ああ、こんなもんなのか」という諦めに変わっていきました。そこからは学校と家の往復、図書館と自分の部屋で引きこもって勉強。当時、よく日本の友人や家族に「日本にいるのと何も変わらない」とグチっていました。笑
今思えば、プライドを捨てて日本人グループに参加していれば、そこから海外で生活することの楽しさを見つけるきっかけができたのかもしれません。彼らは彼らなりに友達の輪を広げていたので。シドニーで一旦ハジけてからは、日本人に助けられることもたくさんあり、そんなに毛嫌いする必要はなかったんですよね。
ブリスベンではダウンタウンからサバーブにでることすら怖くて、とにかく行動範囲が狭い。
そして「あーやっちゃった」という失敗体験もなければ、「あ、できちゃった、こんなに簡単だったんだ」という成功体験もない。道に迷ったら誰かに聞けばいいという超初歩的な一歩でさえ踏み出せない。学校の友人に聞いても、みんな同じようなレベルでわからないから、「これを試してみても大丈夫!」という確証が取れない。
書いていて気づきましたが、やっぱり恐怖心が大きかったのかな。
Aplacの場合、田村さんに後押ししてもらえる。そして先輩方がみんな乗り越えてきた実績がある。だから、安心して新しいことにトライできました。
答えになっていますかね?
再返信
ご回答ありがとうございます。さらに突っ込ませてください。
さきの二点(1)ビビリ、(2)現状視界遮り要素ですが、それ以外の要素はありましたでしょうか?それが一点、特に思いつかなかったらいいです。
でもって個別にいくと(1)ですけど、
>割とスパルタ(に見えた)Aplac方式についていける自信がどんどんなくなり、「これはやばいかも」と突然不安に襲われた記憶があります。
これ、どの部分で「自信がなくなった」のでしょうか?
これは荒井さんだけではなく、皆にも共通すると思うのですが、自信があるかないかで結果は180度違うじゃないですか?じゃあ、自信をつければいいんだし、ワーホリなんかそのために「だけ」来ていると言っても過言でもないくらい。
でも、その「自信」の実体ってなんだろう?と。
「心が折れるかも?」という不安だとしたら、ストレス耐性かもしれない。でも、どのストレス耐性なのだろうか?
つまり、英語がわからずガチャ切りされたり、他人から拒否られることへのストレスがきついのか、あるいは、中々結果が出ないまま悶々と続けなければならない宙ぶらりん状態のストレス耐性が不安だとか?
でも結果的には全然余裕で出来ているわけで、だとしたら、ストレス耐性に不安があったのは間違いだったということですよね、客観的に。
逆に、自分の不安ではなく、客観状況への不安。すごい厳しいスチュじゃないか?と思って、それに直面することから逃げてしまうという心理です。これは、客観認識の精確性に問題があったということでもあります。
このように、客観的に出来るのに主観的に自信がないというのは、結果的には言えば間違っていたわけなんだけど、どこを間違っていたのか?です。ご自身の分析ではどうでしょうか?
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次に(2)の点ですが、
>結局どこにも属せず、割とぽつんとなる時間が増え、「ああ、こんなもんなのか」という諦めに変わっていきました。そこからは学校と家の往復、図書館と自分の部屋で引きこもって勉強。当時、よく日本の友人や家族に「日本にいるのと何も変わらない」とグチっていました。笑
ここの箇所、さらにお聞きしたい点があります。
学校で居場所がみつからなくて、日本に居るのと変わらないとしても、その前に、「最初の数か月は学校での勉強に専念すると決めていた」と書かれてますよね?学校の勉強に専念すればいいんだったら、別に居場所なんか無くたっていいじゃないですか?勉強さえできたらいいんだから。
でも実際にはそれでは不満があった。
そこで逆算して、「最初が学校で勉強に専念」という方針の意味です。これ、本気でそう思っていたのか?です。
例えば、最初のビビリでいえば、早く心が折れそうなシェア探しを終わらせて(回避して)って逃げるための言い訳として「学校で勉強に専念」という格好のお題目を発見したというようにも見えます。
また、シドニー以降はじけまくっていますし、またカナダで英語に苦労しながらもかなりのレベルまでは英語できるようになってるはずですが、「学校で」とか「英語の勉強に専念」とかいう感じではないですよね。
英語の勉強は常に真剣にやらねばらないし、機会があればどんどんモノにすべきである、その意味で学校があればそれは真剣に通学すべきであるんだけど、それで終わりではないよってことでしょう?ずーっと英語の勉強はしなきゃいけなくて、仮に永住権が取れたとしても、そんなの地獄の一丁目にすぎず、これからまた死ぬまで英語苦労は続くわけです。だもんで、最初が学校で英語に専念する「だけ」というのは、現実にこちらで生活するにあたっては、いかにも現実離れしたら、理屈倒れの戦略であるかのように思えるわけですな。
だからこそ、学校での居場所が、勉強云々以上に意味を持ってきたということだと思うのです。
そのあたり、英語論、学校論としてはどうお考えですか?
> 今思えば、プライドを捨てて日本人グループに参加していれば、そこから海外で生活することの楽しさを見つけるきっかけができたのかもしれません。彼らは彼らなりに友達の輪を広げていたので。シドニーで一旦ハジけてからは、日本人に助けられることもたくさんあり、そんなに毛嫌いする必要はなかったんですよね。
この点でもお聞きしたいのですが、もしそれで変なプライドを捨てて日本人グループに参加してたらどうだったか?です。それで現在の地点までこれたのか?です。
つまりラウンドで弾けて、てかラウンド以前に学校行きつつも既に単発のローカルバイトをゲットして(市役所の調査もやってたよね)、ガンガンやれてたわけですし、アラスカ国境まで一人で突撃して、牢屋みたいなシェア先でメゲずにそれでも弾を打ち続けられたわけです。孤立無援で。そういう自分になれたのか?です。
もし、あそこで日本人グループに馴染んで、そこそこ居場所ができちゃって、楽しーみたいになってた場合、それはそれで精神的には救われるだろうけど、もともとの本来の渡豪目的(ただの遊び、息抜きの「ワーホリ」で終わらせたくないという自分への追い込みと書かれてますが)からしたら、居場所があればいいってもんでもないんじゃないかと。
現に「学校の友人に聞いても、みんな同じようなレベルでわからないから、「これを試してみても大丈夫!」という確証が取れない。」と書かれているわけで、そこそこ楽しいけど、楽しいだけだと。
もちろん日本人を毛嫌いする必要は毛頭ないんだけど、だからといって、そこで馴染めたらそれでいいんだって問題でもないよね、という。
そのあたりはどうでしょうか?
以上、しつこくて悪いのですが、「人はなぜ願望を実現できないのか」「なんかの拍子にコロットできるようになるんだけど、その「なんかの拍子」のメカニズムはなにか?」という人生の奥義に関するような、めちゃくちゃ大事な部分だと思うのですよ。
これは荒井さんにとっても人生の宝になる成功体験になるでしょうし、誰にとっても真剣に考えるべき部分だと思うのですね。ですので、しつこく聞いているわけです。別に正解があるわけではないので、その実体験者として、素朴なところを言っていただければ〜。
荒井返信
さて、早速ですが、、、
>さきの二点(1)ビビリ、(2)現状視界遮り要素ですが、それ以外の要素はありましたでしょうか?それが一点、特に思いつかなかったらいいです。
こちらについてはパッと思いつくものがなく、パスさせていただきます。
「自信」の実体について。
私の場合、
>英語がわからずガチャ切りされたり、他人から拒否られることへのストレスがきついのか
これですね。
自分の性格的に「人から嫌われる」ことへの恐怖感みたいなものが人一倍強く、日本ではどんな苦手な人とでもある程度うまくやってきたし、何とかする方法をすでに身に着つけている。なので、他人から拒否されるという体験自体がなかったんですよね。
でもこれが英語になったら?言語が通じない相手にこてんぱんにやられるって考えただけでおそろしい!そんな恐怖体験は、少し海外生活に慣れてからやる、クレッシェンド方式でいいんじゃない?てな調子で回避に至りました。
また、Aplac生の体験談を読み漁っていたとき、「すごい!こんなことができるんだ!」という期待の半面、「私もこういうスペシャルな体験をしなくてはならない」みたいな強迫観念を抱いていました。もしその期待に応えられなかったら?それにそれほどの体験をするということはそれだけ厳しい状況になるということ。その厳しさに直面したくなかったというのが本音です。でもこれってすごい自意識過剰ですよね。誰も私のやることなんか気にしてないし、期待もしてない。それに気づいていたら、初めからシドニーに向かっていたかも。
学校論、英語論
>例えば、最初のビビリでいえば、早く心が折れそうなシェア探しを終わらせて(回避して)って逃げるための言い訳として「学校で勉強に専念」という格好のお題目を発見したというようにも見えます。
学校で勉強する、といえば一つの立派な目的のように見える、自分自身を納得させる手段としては最適ですよね。そして、何よりも安全・安泰。学校というシステムの中でカリキュラムをこなし、レベルアップやテストの点数という目に見える目標ができる。当時の私にとっては、何かひとつ目に見える結果や手ごたえみたいなものがとても重要だったように思います。
特にアラサー女ひとり、会社を辞めてオーストラリアに渡った直後だったので、周囲への言い訳としても学校というのは一番手っ取り早い言い訳材料でした。(当時はまだ世間体をバリバリ気にしてました)
ただ、学校で勉強に専念するといっても、私が期待していたのは、友人をつくり、その子たちと英語でコミュニケーションをとること。それが勉強の一環というか、最重要事項だと思っていました。でもうまいこと周囲になじめない。期待していたようなアウトプットの場が作れない。当初の予定通り学校での勉強ではそこそこ点数をとり、順調にクラスもレベルアップしていたのですが、いつまでたっても「使える」ようにならない。バリバリ勉強しても、手ごたえがない。自分よりも下のクラスにいる子たちは、楽しそうに英語で会話して、生活している。結局自分に足りない何かを見つけられない焦りと不安で悶々としてました。
自分自身で少し英語力伸びたかな?と思えるようになったのは、やはりローカルの仕事についてから。とにかく毎日「使う」、これしかない。最初は不可能に思えたことも、いつの間にかこなせるようになる。地道に毎日向き合うしかないというのがこれまでに学んだ英語論です。実は今(カナダで永住権申請中)、職場のプログラムの一環で週に一回英語のマンツーマンクラスを受けているのですが、先生曰く日を追うごとに自信が増しているのが見えると。こちらに来たばかりのころ田村さんにメールしたときは自分のダメさ加減でつぶされそうでしたが、今となっては一人でシフトをこなすことにも抵抗なくなったので、自信がついたといえばそうかもしれません。そうそう、特に勉強せず受けたTOEICは960超え、CELPIPという移民用のテストでも予想以上の高得点でした。
>この点でもお聞きしたいのですが、もしそれで変なプライドを捨てて日本人グループに参加してたらどうだったか?です。それで現在の地点までこれたのか?です。
これは、即答NOです!
もし楽しくて居心地がよかったら、おそらくそこにとどまって終了していたと思います。
実際多くの同級生はブリスベンで一年過ごして日本へ帰国というパターンでした。
と、こうやって振り返ってみると、最初につまずいたことが、結果的にはよかったのですね。「なんとかしなくちゃ」という焦りがステップアップの原動力であり、自分を突き動かすエネルギー。ラウンドに出る前も焦りがあったし、カナダでも移動や転職のきっかけは焦りでした。
シドニーに来ることで、自分がハジけられることを知り、ハジけても大丈夫なんだということを学びました。
そしてひとつその焦りや壁を乗り越えるたび、「あの時できたんだから今回もできる」という確信につながっていきました。
でももし初めに田村さんに出会っていなかったら、シドニーに移動していなかったら、おそらく一年と持たず日本に帰国していたでしょう。私は本当にラッキーだったと思います、Aplacに出会えて。ちなみになぜこんなにAplacに絶対的な信頼を寄せたのかは、覚えていません笑 きっと直感!
と、こちらで答えになりますでしょうか??
再々返信
補充質問への解答、ありがとうございました。
もっとやってたいけど、長くなるのでこのへんにしましょう(笑)。また、いずれ一杯飲みながら続きを。
最後に、
>私は本当にラッキーだったと思います、Aplacに出会えて。ちなみになぜこんなにAplacに絶対的な信頼を寄せたのかは、覚えていません笑 きっと直感!
わはは、でも、最初はブリスベン行ってるんだから、「絶大な信頼」ではないじゃん(笑)。そんなことより、「出会えた」というよりも、幾つかのページは検索でひっかかると思うのだけど、そこで「通り過ぎなかった」「何か心にひっかかった」からだと思います。
そして思うに、荒井さんを惹きつけたのは、APLACなり僕なりの存在ではなく、APLACを通して見える「現実そのもの」だったんじゃないかなー?
APLACも含めてエージェントさんやネット情報って、窓みたいなものだと思うのですよ。小さな窓から外が見える。その窓のガラスが曇ってるか、カーテンで遮られているか、ステンドグラスみたいになってるかは様々なんだけど、僕のところが一番素通しのガラスに感じられたんじゃないですかね?露骨に見える、見たくないものまで見えてしまう(笑)。
それを選んだというのは、APLACに惹かれたというよりも、現実そのものに惹かれたんじゃないかと思います。
だからシドニー空港について自力で来るまでの間、まだ僕に会ってもいない段階で既にはじけているという。
ブリスベンに行ったのも、いよいよ近づいてくる現実にたじろいだって感じだろうし、ブリスベンからシドニーに来るときは、「いい加減、現実に対峙しなきゃねー」って腹が括れた、心の準備が出来たってことじゃないかと。
まとめとしてあってるかどうかわからんのだけど、脳内世界のダンドリで誤魔化すのは限界あるわとなって、現実に向かい合うようになってから、「今目が醒めた」みたいにスィッチが切り替わって、それからは、めくるめくような怒涛の現実ワールドの楽しさで、そして今ここ(カナダ)にいますって感じなのかなー?どうですかね?
荒井返信
>荒井さんを惹きつけたのは、APLACなり僕なりの存在ではなく、APLACを通して見える「現実そのもの」だったんじゃないかなー?
ああ、それですね!
仰るとおり、Aplacってほんとに知りたくないところまで見えますもんね。他のエージェントさんがいいことばかり並べる中、自分がオーストラリアでやりたいのはこれだ!ってピンと来たのは、なるほど現実だったのかと今ストーンと腑に落ちました!
ワーホリで海外に行くって、期間限定の夢物語みたいに思ってる人も多いと思うんです。それでは満足しない、したくないって考えていたところに、現実を見せてくれたAplacの窓の前で足を止めたと。うんうん、そうです!
いまカナダで生活を始めた頃、本当に逃げ出したくて仕方なかった、でも逃げなかったのは、これが今の現実だと冷静に向き合って対処する術をこの2年間でなんとか見つけたからなのかな。
あーなんかすごいすっきりしました。自己分析しても、何がキッカケになったのかとか、何でつまずいていたのかとか、うまく説明できなくてモヤモヤしてました。はぁ、ありがとうございます!