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2019年05月13日


A.谷口さんのワーホリ体験記

出国まで

私は、小さい頃から、胸の奥に得体の知れない不安を抱えていた。
人に認められねばと思い、世間的によしとされるスペックを追い求め生きていた。
人から見た自分はどうだろう?ということを軸にしていたので、心からやりたいことと、見栄を張るためにやりたいことの区別がついていなかった。

その自覚もなかったので、近くの人に影響されコロコロと気持ちが変わる(ように思えた。本当は本心がわかっていなかっただけ)感情の起伏が激しい自分が信じられず、怖かった。

世間で「メンヘラ」と呼ばれる枠にはめられることに恐怖し、胸に抱える不安感を人に悟られまいとしていた。今振り返ってみても、しんどかったな、と思う。

そんな歪みを無視できなくなり爆発したのが、新卒で都心の有名企業に就職し、ちょうど1年経った頃だった。主に職場環境に起因する数種類のストレスを同時に感じていた私は、四六時中、気づけば涙が溢れてくる有様。ある日、耐えきれず、急に会社を休職した。休職したては、同期たちに、せいせいした!と明るい顔で強がっていた。しかし、数日後、仲の良い同期の部屋で、自分は社会不適合者だ!お世話になった人たちにも迷惑をかけてしまった。生きるのが辛い!思えば小さい頃から辛かった。と、号泣した。(その子は本当にびっくりしただろうな、よく付き合ってくれたな。)

同期の女の子は、「今、色んな条件を無視できるとして、本当にやりたいことはなに?」と問いかけてきた。私は、「とにかく逃げたい。全てから逃げ、最果ての地で、たった一人の野生児と出会い、たくさん子供を産む。」などと、わけわからないことを言った。

するとその子は、「じゃあやれば?今ならできるじゃん。死んでもいいくらいなら何でもできるでしょ。私は死にたくないから無茶できない。あなたが羨ましいよ。」と笑った
単純な私は、そっか、やっちゃえばいいのか!じゃあやるわ!と、次の日から単身、憧れの地・沖縄へ飛んだ。到着時こそウキウしたが。すぐに、会社から来た電話、上司から来たメールに気が滅入り、号泣しながら夜の海岸を彷徨った。

そして、心配した地元民に、お母さんとお父さんのところへ帰れ。と、ホテルまで送ってもらい、翌日、実家へ帰った。(この辺り振り返ると、カッコ悪すぎて面白い!)

しかし、逃げたいという思いを持ち続けた私は、4ヶ月間悩みに悩んだ末、ま、後悔するかもしれないけど、それでもいいから行こう。と、ある日吹っ切れ、ワーホリを決めた。この時、何をするにしても億劫であったので、エージェントはろくに調べず、一番メジャーなところに頼んだ。国も、英語圏であったかくてビザ簡単なオーストラリアでええわ!と投げやりに決め、語学学校を決めてもらいビザを取ってもらい、日本を脱出。

ブリスベンにて


ブリスベンで最初の2ヶ月を過ごした。
同じホームステイにいたタイ人女子・ナムと仲良くなった。日本では辛くて会社を辞めてきたんだと話すと、心配してくれた彼女は、「これからはあるがままのあなたで、したいようにしてね。そのままのあなたを好きになる人は必ずいる、例えば私みたいに」と書いた手紙をくれ、ひどく感動したことを覚えている。

語学学校でたくさん友達ができ、コロンビア人のイケメンな年下彼氏的存在と毎日のようにデートし、英語も思ったよりすんなり話せるじゃん!と、調子に乗っていた。

やっぱ日本が悪かったんだ、ここでなら私は幸せに生きていける、と単純にもそう思った。

しかし、胸の底にある不安感は消えたわけではない。ある時、彼氏っぽいコロンビアンの帰国が決まり、落ち込む中、シェアハウスオーナーの韓国人男性が勝手に部屋に入ってくるようになる。ルームメイトとテキストメッセージで苦言を呈すると、突然鍵をかけられ、家に入れず、警察沙汰になった。
友達の家に泊めてもらいながら、ブリスベンでの暮らしに早くも行き詰まりを感じた私は、「こうなったら、海があって開放的なゴールドコーストへ引っ越してみよう。海の近くで生活してみれば何か変わるかも?」
と思い、ゴールドコースト校への転校をきめた。


ゴールドコーストにて


ここは、観光地特有の、お祭り感漂う街であった。住人たちのノリは、全体的にチャラ軽い。

オーストラリアでは、色々と綺麗な海を見たが、私は王道・サーファーズパラダイスが一番好きだ。初めて見た時、ウワーッ!と興奮した気持ちは今も忘れない。

永遠に続くかのように思われるどデカイ海岸に、荒々しく輝く白い波。砂浜から、広大な海の向こうを眺めると、この海の中に生きる、たくさんの生物たちの息吹が感じられるようで、ワクワクした。その日の夜、私は海のことで頭がいっぱいになり、深海魚の画像や海底都市について検索し興奮していた。

ドラッグ

ドラッグの抗えなさ、恐ろしさを実感したのはこの街でのこと。

一年に一回ある、長期のホリデーを満喫するため、オーストラリア中の学生達(スクーリーズ)がサーファーズパラダイスへとやってきた。バイクで騒音を鳴らし、叫びながら、我が物顔で街を闊歩するスクーリーズ達。
それだけならまだ良いのだが、この時期、毎年1〜2人、羽目を外しすぎた者が死んでいる。私のいた年も、ドラッグをキめた2人が、高層ビルからの飛び降りで亡くなった。

サーフィン

ここでは、サーフィンに初挑戦した。下手くそで、サーフボードに立つことすらできなかったけど、動きが予測できない波に投げ出されながら、必死でしがみついていると、私、この地球の一部なんだな!となぜか感じた。

そして、サーフィン後は、びっくりするくらい腹が減る。たくさん食べた後、欲望のままに爆睡するのは、とても気持ちよかった。地球と戯れ、食らい、寝る。動物としての営みを本能のままに行ったその日だけは、不思議と得体の知れない不安感から解放された。

耳の奥に残る波の音を聞きながら眠っている間、何だか地球に包まれて守られているようで、安心した。

後日、バイロンベイで2回めのサーフィンをした。海に入っていく時、本来の場所に戻るような気分がして、人間は海から生まれたというのは本当かもしれない…!と思った。

サーフィンという概念にハマり、サーファーの名言「例え、陸にいても山にいてもあなたが望むのなら、そこに波はある」「試しているんだ・・・。変化と挑戦を続けることで本当に素晴らしい人生が送れるかを」「今日も、自然が私と遊んでくれたことに感謝」等を読んで、かかかかっこいいいい…と痺れた。

スペック

私をサーフィンに連れて行ってくれたのは、学校で仲良くなった日本人サーファー男子だった。

彼は、もう日本に帰りたい、オーストラリアでできる仕事なんて所詮飲食くらいしかない、そんな経験日本ではなんの役にもたちはしない、自分の考えが甘かった、と言っていた。

その考えは嫌だなと思ったが、影響をされ、はやく日本へ帰って再就職したほうがいいかな?と考えたりした。

とにかく何か、目に見えて日本へ持ち帰れるものを得ようと思い、後にゴールドコーストを発つ直前にIELTSを受けた。後で結果を見るとoverall6.5だったので、わかりやすいスペックを求める自分がひとまず安心したことを覚えている。

シェア

シェアハウスは、日本人女性と、そのひとり娘の家に入った。ブリスベンから移ってくる時、バッパーに一旦泊まりインスペをし、気に入ったらシェアハウスへ移動。という、めんどくさいことをしたくなかった私は、ゴールドコーストへ着くなり直行した一発目のシェアハウスに即入居した。

そこに入った瞬間、なんとなく合わない予感がしたのに、移動の煩わしさが勝って、入居してしまった。後に、楽になりたいという理由で決めたら地獄を見ると田村さんに指摘されることになるが、全くもってその通りで、そのオーナーとの相性は悪かった。

私の行いや言動を振り返ってみても、相手をイライラさせる部分は大いにあったと思う。要するに私とは合わない人だった。

ワーホリで渡豪した後、オーストラリア人と結婚して永住した人で、自分が今苦しんでいることを武器に、こちらを上から目線で脅し、承認欲求を満たしているように見えた。
「クズ旦那と結婚して、離婚して、わたしには娘以外何にも残っていない、日本にも帰れる場所なんてない、娘がいるからここで安月給で頑張り続けるしかない。あなたももういい年なんだから、なにか資格を身につけないと今のままじゃお先真っ暗よ、私も、若い頃になにか役にたつ資格を取得していたら今がどんなに幸せだっただろう」と嘆く。

今からでも学校通えばいいんじゃないですか?まだ遅くないのでは?
と言ってみると、そんな時間はない・お金もない・娘を養わなきゃいけないんだから・今更遅いに決まっている、と返ってきた。その人の苦労をわたしが理解することはできないけど、ひたすら不安になるようなことばかり言う人だな、私がこの人の娘だったら嫌だろうな、と思っていた。

私はここでも案の定影響され、この人の言うようになったらどうしよう!?そうだ、ワーホリ中にお金をなんとしてでも貯め、オーストラリアの大学に行き、会計士資格を取得しようかな!?等とトンチンカンなことを考えていた。(特に会計士に興味はなかったのに)


しかし、シェアハウス付近の環境は好きだった。バンドールというそのサバーブは、静かな高級住宅街。家の近くには、公園と綺麗な湾があった。
私はよく、ここに落ちる夕陽をみながら黄昏れていた。こんな美しい場所なのに、人がいることはほぼなく、景色を独り占めしてしまえた。


この地では、イギリス人のストーカー的な男友達ができ、怯えた夜もあった。その男の子には、最初は好感をもっていた。が、だんだんと遊びの誘いや連絡がしつこくなり、返事を数時間返さないだけで電話が来たり、共通の知り合いづてに催促してきた。告白を断っても連絡は止まず、ぶっちゃけあんた怖いからもう連絡しないで欲しいと送っても、まだメッセージが来た。連絡先をブロックしたかったが、無視したら、元アーミーの屈強な体を持つ彼が職場に会いに来るのでは?と怯えた。このことも、後にゴールドコーストを離れた原因の一つと言えよう。

お金と不安

ゴールドコーストにきた段階で、私の所持金は半分ほどになっていた。語学学校でできた友達に、お金がナイナイ嘆いていた。
今思うと、まだかなりあったのに。ほんと、不安って、無知から来るものなんだなと思う。
毎日レジュメを配り回っていたある日、サーファーズパラダイスのベトナム人経営カフェに雇われ、働き始めた。オーナーは、頻繁に、もっと仕事ができるようにならないとクビにするぞとプレッシャーをかけてきた。クビは流石にやばい!と思い込んでいたので、必死になって働いた。実際は、脅されるたびに冷静さを失い、ミスが増えていった…。働くのに夢中すぎて、勉強はおろそかになった。午後の授業は遊びみたいにぬるいから!働いたほうが生きた英語の勉強になるから!と自分に言い訳しつつ、時に授業をフけて働いていた。

それでもオーナーの態度は変わらず、とうとう、違う仕事を探せ。と言われた。ここでまたもや行き詰まりを感じた私は、悩んだ末、ファーム行きを決め、オーナーに辞めると報告。すると、なんとオーナーは打って変わって私を引き止めてきたので、この人はこういうやり方の人だったってことかな。と思った。

トラブルと自信

今考えると、ゴールドコーストで嫌だと思っていた人たちの態度の原因には、私の自信のなさがあったと思う。
当時の私のものごとの受け取り方は、全てにおいて、圧倒的に被害者的だったと感じる。こういう、苦い記憶が多く残っていることは、なにをおいてもまず自分自身を受け入れられていなかった、その結果に思えてならない。

ゴールドコーストからのファーム行きは、すんなり決めたわけではない。セカンドビザが欲しいのか欲しくないのか自分でもわからないだの、日焼けしたくないけど自然にまみれて働いたら自分の何かが変わるかもしれないから行ってみたいかもだの、ああでもないこうでもないと散々悩んだ。そんな私の様子を察知してお茶に誘ってくれた、同じクラスの女子に、気の迷いを愚痴った。

その子は、「お前はいちいち考えすぎだ!もう何も考えるな、とりあえずリラックスして日々をエンジョイしろ。お金はどうにかなるから気にするな!ファームに行ってみたいなら学校を卒業したらとりあえず行ってみて、嫌になったら戻って来ればいいジャン?今決められないなら決められるまで考えずに毎日楽しめば?」などなど、私にスッキリハッキリ言ってくれた。

そんな彼女と海を眺めていると、モヤモヤした心が洗い流される気がした。ナヨナヨしている自分が馬鹿に思えたが、それは真面目ってことだから悪くないんじゃない?と彼女がいってくれたので、そっか?と気が抜けた。とりあえず焦らずに今できることを楽しめばイイか、と思えた。彼女といると心が軽くなる。こういう子、いいな。と思った。その子は、オーストラリアに移住すると心に決めており、難しいとか関係なく、その目的に向かって突き進む、カッコいい女の子だった。そんな潔い自分の生き方が、彼女自身も好きそうに見えた。

APLaCの発見

つきまとう不安感からどうしたら逃れられるのかわからなくて、環境をかえれば何か得られるか、それとも今の場所で頑張ったほうがいいのか…どれも正解であり、不正解な気がした。そんな私が、ひょんなことからAplacに出会ったのはこの頃だ。

ネットサーフィンしていたら、Aplacのサイトをたまたま見つけた。
そこで体験談を読み始めると、体にバシャーンと電撃が落ちた。
そこには、今まで自分の中にあったワーホリの枠をバキバキと破っていくほど、生命力溢れる先輩方の体験談が、ずらりと並んでいた。なんというか、ワーホリを本気でやりすぎた結果、ワーホリの域を遥か超え、その後の人生を劇的に変えて行った猛者たち、という感じがした。体験を通してそれぞれの精神世界がこちらへ伝わってきて、もはや神聖さを覚えた。何なんだコレは?スケールのでかさ、濃さが、一般的なワーホリライフとは余りにも違うのではないか?!え、ワーホリってここまで出来るもんなの?

ぶっ飛んだ体験談の一つ一つが面白くてしようがなくて、夢中で読みふけった。そして、田村さん著、栄養がギッシリ詰まった珠玉のエッセイ達を読み、これまたドガーン!と感銘を受けた。こんな凄い人たちがかつてオーストラリアにいてワーホリしていたなんて!私が求めていたのはこれだ!この人達のように、頭でこねくり回さずに、自分の足で何かを変えたい。人生への疑問に思いっきり立ち向かって、打ち勝ってみたい!こんな、こんな人たちがいたなんて。

みなさんが勇者に見えて仕方がなかった。
体験談を見ていると、みなさん、かなりの確率で、ラウンドで覚醒している印象を受けたので、これは行くしかねえ!と、きっぱりとファーム行きを決めた。カフェのオーナーから引き止められても、爽やかに拒否できた。今度こそ私、なんか変われるかも!と思っていた。

ファーム


そうは言ってもビビリな私は、語学学校時代の信頼できる友達に連絡を取り、その子のいる安心安全優良ファームに向かう。

野生の屈強そうなカンガルー達が、野良犬のように海岸ら辺をウロウロしていて、仰天した。ブリスベンでは、わざわざ動物園にまで見に行ったのに(笑)。


そこは、住まいや車や友達まで、最初から用意されている生ぬるい環境。その期間のおかげで、語学学校時代の友達との絆がかなり深まったから、本当に行って良かったのだが、正直、ファームでは私は何にも変わらなかった。こんなことしてていいの?まだカフェで働いていたほうが英語使うし勉強になるじゃないの。日焼けするし、暑いし疲れるし、単純労働きつい…と邪念まみれであった。あまりにもギラギラと降り注ぐ太陽に根を上げて、途中で抜け出して車で寝たこともあった。

せめてピッキングからパッキングに移りたいと考えながら、一人で町を彷徨っていた日、いかにも優しそうなおじいさんが話しかけてきた。しばらく立ち話していると、私がレジュメを配れるよう、近くのパッキング会社へ送り迎えしてあげると言いだした。小さいお孫さんも乗っていたので、ただの親切なじいさんなのだろうと、警戒せず車に乗った。
クリスチャンだからこうやって人を助ける機会を得ると嬉しいのさ!と話すおじいさんは、帰りにマックに寄って、色々な話をしながら奢ってくれた。なんて優しいんだ!田舎のAussyの人情に触れた!と喜んだが、帰りの車で、私の様子をうかがいながら、相づちのふりをしてチョンチョンっと生足をタッチしてきた。
気持ち悪かったのでその後ずっと手で足をガードしていたが、降りる瞬間の隙を狙って素早くまたタッチしてきたので、大変不快な気分になった。


…ここまで振り返っていて思うが、この頃は、どこへ行っても何かしらですぐに落胆して、ネガティブループに入って、全然楽しめてなかったんだなー、私。

オーストラリアってこんなに美しい国なのに。見上げるだけで、涙が出るほど綺麗な空があるのにね!

改めて考えると、こんなことをされて嫌な気分だった、という、被害者視点の記憶が実に多いことに驚く。そんなに嫌だったなら、一回くらい、面と向かって暴れてみれば良かったのにね?

結局、すぐにブルーベリーシーズンが終わったのをいいことに、私は田村さんに連絡していた。そして、たったの三週間でファームを後にし、シドニーへと向かった。このときは、田村さんに会うと言う、何が何でもやってみたいと思えることに向かっていたので、希望に満ち溢れていた。


シドニー


曇りの日、バスでシドニーへ着いた。ハーバーブリッジを通ってやってきて、オペラハウスとだだっ広いノースシドニーが見えた時は、今までの都市と比べて格段に規模がでかい!と興奮した。

Glebe point YHAに荷物を降ろし、田村さんを待った。
私の魂に響いた言葉たちの生みの親、むさぼり読んだ文章の著者がもうすぐ目の前に現れる。期待で心臓が高鳴った。現れた田村さんは、ユーモアと知性に溢れ、生きた言葉のシャワーが魔法のように流れ出てくる、そんなお方だった。

憧れの芸能人に初めて会ったファンのように緊張していた私は、口数が少なくなっていた。君は何が好きなの?日本で何してたの?と言う問いに、いちいち口ごもる私。今思うと、田村さんから見た私を意識しすぎて、良く見られたくて、無い頭で作った薄っぺらい返事をしていたような。
しかも、ここに来た理由から何まで、ネガティブなことばかり出てくる自分が嫌になった。男性不信の話題になって思わず涙ぐんだのも、嫌だった。田村さんにメンヘラと思われた!と恥ずかしかったことを覚えている。なんという自意識過剰なのか!なんという中二病なのか。

今となってはそんな自分が、何だか愛おしく思い出される。なんだかんだで、幸せになるために、ちゃんと行動していたじゃないか。ずっと、自分のことをどうにか愛したくて、もがいてたんだなあ。色々あって田村さんに会いに行った自分にGood job!と言いたい。

あの頃、私は、田村さんに何のお礼もせず、それどころか、お金がない〜な〜い〜と泣き言をのたまっていた。何かにつけて、お金がないから〜お金さえあれば〜と嘆く私に、大事なところをケチると逆に損するよ?とおどけた笑顔で言った田村さんを、昨日のことのように思い出す。

ここから、田村さんの愛に溢れるスパルタ教育が幕を開ける。

ただ一方的に会いたがり、一回食事しただけの私に、一括パックの技をまるっとレクチャーしてくださった。資料も全部メールでくださり、シェア探しと仕事探しの泣き言をメッセで飛ばし続ける私に、根気よく、すばやく返事をくださった。

私は、自分のことを行動派だと思っていたが、田村さんのレクチャーは、それまでの自分がのろまな亀に思えてくるほどスピード感のあるもので、度肝を抜かれた。

私は、自分を信じられなかったが、田村さんの文章を読んだ時に受けた感銘だけは信じられたので、とにかくこの人の言う通りやってみよう。と、ひたすらに動き回った。

まず、田村さんが、あるレストランでのお仕事を紹介してくれたので、すぐさま連絡を取った。
すると、オーナー兼シェフがレジュメを見てくださり、2日後に面接して頂けることになった。
喜び勇んで田村さんにメッセンジャーで報告すると、帰ってきた返事は「水曜までまだ時間あるなー それまでに仕事の面接アポを4つか5つは入れたいところだなー」だったので目を疑った。

これまでの私の常識では考えられないようなスケジュール感だ。そ、それに、既に面接を組んでくれているレストランに失礼にならないのだろうか…?
しかし田村さんは、とにかくお金の心配をしてるのが最悪なので、何がどう転んでも絶対稼げるって態勢にしておくこと。職場はクソだけどとりあえず金は入るという『すべりどめ』みたいなところから、お金よりも内容が良いという上物まで、たくさんたくさん開拓しておくといい。と仰るので、なるほどそういうものか!と仕事探しを継続することに。

来たばかりで、シドニーがまるで巨大な迷路かのように見えていた私は、どの地域からレジュメを配り始めたらいいのやら?いや、まだまともな拠点すらも私にはないのだから、シェア探しか先?でも、仕事決まってからでないと、職場と家が遠くなってしまうぞ?と、ぐだぐだ考え出した。

しかし田村さんは、どっからでも通えるし、気にするな、とのこと。
半径30キロくらいの範囲で自由に動けないと、オージーに近い動きはできない、らしい。
「イケてない奴ほどシティにこもる。日本でも新大久保〜歌舞伎町どまりになる。」という言葉には、確かに!と納得した。「とりあえず20サバーブくらいは見て回るといいです」と言う田村さん。私には、20サバーブを「とりあえず」と表現する発想は無かったけど、東京に例えて、神田、五反田、品川、六本木…と数えていくと、そこまで大それた数ではないように感じた。今までの自分は外国人バイアスにかかっていたけど、地元民からすると凄く狭い行動範囲にいたんだな、と感じた。

頂いた各サバーブ情報のファイルを参考にシェア探しを始めてみると、シドニーにはいろんな顔があると知る。ベトナム人街マリックビル、下北沢のような気だるいお洒落さのニュータウン、中華街バーウッド、高級感ただようノースシドニー、海の街マンリー、知的な文化街グリーブ…新しい場所に降り立つたび、こんな所もあるんだ!と感動した。

毎日、開拓してます!感があって刺激的だった。「表面ちょろっと撫でて、諦めるのが一番勿体無いです 果物と一緒で、表面は硬くて渋い皮なのだ 中までがぶって噛むと、甘くてとろける果実があるのよ」という田村さんの言葉が印象深かった。

シェア探しを始めてすぐ、ここに住んでもいいなと思えるお家はいくつか見つかった。そこである疑問が浮かぶ。Aplacの諸先輩方は、かなり物件を見られてたようだけど、ここはいい!と思ったらすぐに入ると言わないと、他の人が入ってしまわないか?私は今までは、その不安から、割とすぐに決めてしまっていた部分があるが…。

田村さんに聞いてみると、帰ってきた答えは…そこは絶対に決めないこと。楽になりたいとか不安だからで決めたことはまず間違いなく失敗するの法則。いいところなんか無限に出てくる、回転寿司のようにいくらでも出てくる。それがこの世の原理なんだから、まずそれを知れ。でないと、将来の就職でも、結婚でも、なんでも、焦って変な掴み方をする。なんぼでもあるわーってとことん理解すること、その過程で、いいところが取られてしまっても気にしないこと。…だった。

ここまで、愛のムチで、相手に人生における重大な学びをもたらそうとし、その学びの構造も丁寧に解説してくださる留学エージェントは、全世界でも田村さんくらいなのではないか。いや、それどころか、今時こんな大人は絶滅危惧種なのではないか?田村さん、日本の宝だ…(日本にいないけど)。なお、楽したい思いに負けた私は、後にこのアドバイスを無視し、案の定、痛い目に合うことになる(アホだ)。

シェア探しを始めて間もない時は、この大きな土地で何も持たない自分に焦り、常に胸騒ぎがしていた。しかし、数日経つと、ハイになり何か楽しくなってきていることに気がつく。

田村さん曰く、一定以上忙しくしたほうがいい、ローギアでいるとなにをやるのも億劫だし、メンタルやばくなるし、ドタバタ走り回ってるほうがメンタルは楽。たいていのことは数をこなすことでクリアできる。この世の99%は質ではなく、量の問題に還元できるんだから、数を増やしたら当たりが出てくる。運の問題は数の問題なんだから、数を増やせば絶対勝てる。とのこと。

これまで嫌だった出来事・境遇、それに伴っていた不快な気分は、もし今のように落ち込む暇もなく動きまくれば、全然違ったものになっていたのかもしれない…そんなことを思った。

このあたりの田村さんとの会話をあらためて読み直すと、金言が宝石箱のように詰まっていた。これらを田村さんと私のメッセンジャーアプリの中のみに埋もれさせるのは惜しいので、田村さんとの会話から厳選した部分をここに残しておきたい。

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☆シェア探しを始めた頃の会話☆


田村さん
「現実しかないんだから、まず現実を見て、触れて、感じて、その集積でだんだん作られていく
現実に触れもしないで作った基準なんか、独りよがりのものだから、役にもたたないです

慣れてくるので、最後になるほど良い所がでてきます
なぜなら余裕が出てきて、深く味わえるようになるし、シェア先の人ともゆっくり人間的な交流ができるようになるからです
だから、見るだけ見て決めなくてもいいのよね。見るのが本題、見ることで土地勘をつけ、世界観をひろげ、自分の立ち位置が見え、自分が何を求めているかがだんだん見えてくる、そのためにやるので
最後に決めたり、住んだりするのは、まあ「答え合わせ」みたいなものですよ

いいところが一つあるのではなく、いいと思われる系統は、最低でも3−4系統、多ければ10系統をこえます。
静かで安らげるとか、わいわい楽しいとか、地元の年長者の人との話が意味深くておもしろいとか、犬や猫が可愛いとか、周囲の森がとにかくいいとか、アーティストが多いのでそこがいいとか、、、、
良いと思うツボは無限にあるのよね
出会ってみて初めてそれに気づくから
それが今日いった「取材」ですよね
いいもの、に沢山触れること、出会うこと 感性のストックを豊かにしていくこと

だもんで、シェアも「早く決めよう」とかいうドグマはきれいさっぱり消して下さいねー
決めることに意味があるんじゃないので、過程を味わって下さい 
道に迷ったり、バス乗り間違えたり
誰かに教えてもらったり、
買い食いしたり
それらの全てが意味ありますから

出張や仕事で来てるんじゃないんだよー
バス乗り間違えて、なんでこんな海岸に自分がいるんだ?とか思ったら笑えてきたり
そこで犬連れて散歩してるおじいちゃんと出会ったり
話がはずんで家まで招待されて、ビール飲んで歓談したり
そうやってドラマが始まるのよね
計画通りいったらドラマは生まれないです
ラウンドなんかはその宝庫なのよね
田舎の人はヒマだからね、人もすくないし
「なんで私はこんなところで、こんなことしてんだろ?」と不思議な気持になってください
笑えてくるから

「人生の偶然性を楽しむ」ためにワーホリはあるんだろーってよく言うけど
大体好きな曲もバンドも、漫画も映画も小説も、だいたいが偶然出会ってるでしょ たまたまですよね
引き出しの多い人、好きなものが多い人は、そういう偶然が発生しやすいような生き方をしてるよ
わざわざ意味なく遠回りしたり
路地裏があったらいってみたり
レストランにはいると、見当もつかないものを注文してみたり
下校時はかならず寄り道をするとか
まっすぐ家に帰ってたら楽しい小学校時代はなかったでしょうに
意地でも毎日違う道で帰ってみたり
定期的にノルマのように、全然関係ない分野の雑誌や本をパラパラめくってみたり
本屋とか面白いんだよね そういう世界があるのかーって
月刊「住職」とかさ、月刊「石」とかいう雑誌があったと思う」



「今日、一緒に食事しただけでも、田村さんは私よりもきっと感動ポイントがたくさんあるお方なんだなって思って、そういう人になりたいんだなって思いました
同じ経験をしても、きっと私が素敵だなって思う人たちは、私よりも何倍もその経験の楽しい部分に気がついて、また世の中を好きになるんだろうなって
そういう人になれれば、日本に帰っても、どこにいても素敵な毎日にしていけると思うんです、将来の不安やお金の不安でついつい目が曇るけど、私の真の望みはそれです」

田村さん
「世の中知らないことだらけで、まだまだ楽しむ余地はある、てか千年生きても全然足りないでしょうねー
シドニーなんか260民族来てる(てか、言語数だけでいえば300を超える) だからいくらでも奥行きはあります

無理に楽しがる必要はないけど、
小さなことを大きく喜ぶって感じでやるといいよ
「よく考えたら、これってすごくない?」とかさ、当たり前に思ってたけど、視点を変えてみると、不思議に思えたり、面白く感じたりします」


「ないものにばかり常に目を向けてしまうというか、昔の自分が欲しがっていたものを手に入れても幸せにはならなくて、すぐまた別のものがないと不安になっているんですね」

田村さん
「ああ、それはありますねー
幸福になるのがヘタクソなんだよな
それは向上心でもあるからいいんだけど、でも、それって欲しいCDを買ったら、買っただけで満足してろくに聞きもしないのと似てる

その意味でも金がないのはいいのよね
擦り切れるくらい同じCDを聞くから(笑)
そして発見するという
金がないときは、時間と自由があるので、かなり恵まれているんだよな
年収1000万超えて、プライベートなんかまるでなくなってみたら、それを痛切に感じると思うから、その意味でも一回きちんと働くといいです。ガシガシ稼ぐ時期は要る それが「つまらん」ということを知るためにね」


「とにかく、就職してからなのかな?いつからなのかな?わからないのですが、常に不安で怯えているような状況なのですが、田村さんの文章を読むと和らぐんです。明日からも不安になったらこのやりとりを読み返して、ああ、焦ってたなー、とりあえず景色が綺麗だなーと思ったりすることを大切にしていきたいです。」

田村さん
「それがいいです〜
とりあえず、空がきれいだったら、それでいいのだって
そのうち、財布を落としても、携帯が壊れても、「ま、夕焼けがきれいだったから、いいか」って思ってください」


「そういう軽やかな人に憧れるし、一緒にいたいです。未来の旦那さんもそういう人がいいです!笑
まずは自分がそうなるところからですね〜」

田村さん
「あはは、そうだよね
そうなると、類友でよって来るよ」


「大学に行ったりする予定もないのにIeltsを受けたのも、ワーホリに来て実績を残さなければっていう焦りからですし(受けて良かったですけど)、ラウンドをする予定を取りやめてシティに帰ってきたのも、ファームジョブしながら、こういう生活していて本当に大丈夫か…何も残らないのではないか…とどんどん焦ってきてしまったんですよね」

田村さん
「その結果主義はやめたらいいよ
過程主義になってね
だって人生の結果、最後の最後の結果は死ぬことだもん。何をどうやって最後には死ぬ、それが「結果」でしょ?
だから意味あるのは全部過程ですよね

それに、「実績」らしきもの、なんとなくもっともらしいサブスンタシャルなもの、ってどういう基準で出てくるのか?です
それって世間的な評価であったりするでしょ?

だから「結果を考える」ということは、「世間体を考える」ことにかなりNEARLYになってしまうのですよね
そしてまた、自分に対する言い訳とか、大義名分を立たせるとか、そういう政治的、戦略的な意味も出てくる
でも、それもバカバカしいじゃん
結果なんか知らないよ、興味ないねってくらいになってね

ただ、毎日毎日、今この瞬間を自分なりに納得しようとして
その集積としてなにか結果らしきものがあるなら、それは受け入れようと

でも、それすら結果と言っても、しょせんは通過点だからなー
だって、幸福だった子供の頃、遊んで夢中になってた夏休みとか、「結果」とか何も考えてなかったでしょ」


「私は、白黒思考で完璧主義なところがあり、日本社会に帰る日が近づいていることを考えると、今後景気が下がっていく日本社会で生き残るためには…そのために必要なスキルが…とかどうしても、考えてしまっています
世間体のようなものから逃れるために来たけど、日本に帰るならそうも言ってられないかなとか、ぐるぐると
そういう邪念をとっぱらいたいのです」

田村さん
「あー、多分、マジな話、これからのスキルは、
楽天的なメンタルと融通無碍な精神と技術
そういうのが一番のスキルになると思いますよ

勉強して、専門職についてもいつ仕事とられるかわからんし
これといった方法論がない宇宙空間みたいなところにいくなら
自分で宇宙を作れる能力
どっちが天で、どっちが地面であるか、自分で決められること
そういう力が一番必要だと思います

金がないなら、無いという「利点」を最大に生かして、よい時間を過ごし、充実させ、
金があるなら、金に溺れず、それをいかに生かして、よりよいものにするか
融通無碍にやっていける力」


「例えば、今日話してた残金2ドルで生き延びた方なんかは(注:卒業生界隈では有名な石渡航平君の「着いて翌週には全財産2ドルになってしまった」という2ドル伝説。彼の体験談参照)、自分の宇宙を作る力を得た方なのかなと思いました」

田村さん
「彼が帰るときに、まだ若いんだから思いっきり突っ走ってごらんって言った
若いときに走った広さが、それがそのままあなたの領土になるから
できそうなことやるとか、小さな成功とかどうでもいいから、知らないことどんどんにチャレンジして、自分の領土を広げてごらんよって

彼の体験談の解説にも書いたけど、「ラウンド先がたまたま日本だった」って感じなのよね
だから、まだラウンドやってるって感じよね、彼の場合は

オーストラリアのワーホリビザの制度は1年だけど、ワーホリ的な本質は1年じゃないのよね、もしかして一生そうかもしれない
だから1年たってとか刻限を決める必要もないよね
刻限決めるなら毎日単位でやるといいです
今日中にアポを3つとるぞーとか(仕事の)

大体、そんな外国のビザ制度なんかに律儀にとらわれる必要ないでしょ?

定量的なことをやるなら時間は大事ですよね
明日の納期までに千個つくるとか
だけど、定性的なこと、質本位のものは時間で考えてはいけないです
質というのは、一瞬でできるときもあれば、30年くらいかかるかもしれないし、偶然も大きい

成熟するまでどれくらい時間がかかるかわからんし、時間をかけなきゃいけないことは、時間をかけるべきだし
それを試験時間みたいに刻限切ったって、何をやってるのかわからないのに、意味ないでしょ
そうなると、時間で図りやすい、わかりやすい基準やメルクマールを探すようになり、そうなると世間的な試験の点やら、採用面接で自慢げに語れそうなエピソードやらって、
ウケ狙いに走るじゃん
どんどん外れていくよね
キミを受け狙いをするために生まれてきたのか?ですよ

実際のメッセンジャーの画面はこんな感じ
だから結果も刻限も考えず
そのかわり、今この時間をもっと楽しくできないか

どっかに工夫の余地はないか
もっと違った見方はできないか
もっと掘り下げてみたら面白いんじゃないかとか
そこが主戦場だと思うのですよね

だもんでシェア探しも仕事探しも楽しんでください
げーっていう家を見たら見たで、いやーすごかったわーって笑い転げてください

(子供の頃は)
なんてことないことが楽しかったからねー
消しゴムのカスとか集めてたもんな、
すごい創造力だよね、あれを楽しいと感じるんだから
だったら、今も出来るはずですよ 同じ人間なんだから
錆びついたり、忘れてるだけですよ」

☆シェア探し初日を終えて☆


田村さん
「幸福は足で稼げ、お金も足で稼げ」というから。今日は5件かな?5件でも見たら、24時間前とは見え方が変わってくるでしょう?全然よく見えるようになってると思うし、見え方が変われば考え方も変わるし

多くの不安は、「見えない」「わからない」ところから来ますので、見えてきたら、自然と解消しますよ

今度日本に帰ったら、全然分野の違う仕事を5つも6つもやってみるといいよー
田舎で土まみれになるとか、現場に出てみるとか、編集とか、教育とか、工場とか、スーパーとか、観光とか、いくらでもあるから
そしたら、「なんだ、いくらでも居場所なんかあるじゃん」って思えるでしょう」


「確かに、今日出撃するまえの自分とはかなり違う気がします
西のほうの土地勘が少しはつきましたし、お金は減っているのに前向きです
なんとかなる気がしてきました
とにかく動けば気持ちは自然と明るくなるものなんですね
少しはシドニーが見えたから自信がついたのかもしれませんね」

☆ちゃんと、お金が尽きる前に仕事が決まるのか、不安になっていた頃☆


田村さん
「お金っつってもあと1000ドル以上あんでしょ?なら、一ヶ月以上持つよね。だもんで2週間後までに働き始めれば間に合うわけで、ジャパレスやるなら2−3日で決まるわけで問題ないでしょ。
ジャパレスは、GoogleMapなどで検索して、エリアごとに片っ端から電話するといいです。いちいち訪ねていったら時間がいくらあっても足りないし。また求人広告なんか関係なくとにかく全件かけるくらいに。1時間あったら20−30件電話できるし、1日みっちりやったら200件くらいかけられる。それだけかけたらアポなんかいくらでもとれる

要は、「そりゃ、それだけやれば出来て当然」ってくらいやればだけです。やるかやらないかで。
渡辺くんのときもあと一週間でビザが切れるというときでも、ダメ元で攻撃しろと電話させたら、一週間だけの方がよいというところが見つかったのよね。そんなもんです

とまれ、AがダメになってからBに行くとかいう悠長なことやってたら後手後手に回るダメパターンで、先に先に手を打っておくこと

自分のやりたいように生きていくなら、道なき道を自分で切り開かないとダメですよ。今までのやり方でやってたら、結局は世間と同じように、前の職場で行き止まりって感じになっちゃうから。
逆にそれが出来るようになればなるほど、自分の好きなように生きていける。

頑張って!」

☆ジャパレス(結局辞退したが)に採用されて喜んでいた頃☆


田村さん
吉田さんの体験記の最後のセリフに、「やってから物言えや」ってのがあるのだけど、まさに。

いい成功体験になったと思うし、人生のコツを学んだと思います。

あとは繰り返しだよね。
最小構成単位=原子や分子みたいなものの一つか2つは体得したでしょう。あとはどこにいっても同じことです

仮にダメでも、また探せばいい、とにかく探す、見つかるまで探す、絶対ある、、、というのも初期の体験談で誰か書いてたけど2001年に来た人の体験談。)

頑張って〜」

☆仕事探しとシェア探しに慣れてきた頃☆


田村さん
「おー、弾みがついてきたみたいですね
すごいぞ!

自転車といっしょで、最初の漕ぎ始めがしんどいんだけど、動き始めるとスイスイいきますよー

それがコツです。
落ち込むとつい動きが鈍くなって、それで速度が落ちて、最初の大変な状態に逆戻りするので、常に一定の速度感はキープしててください

しんどいときって、ホント自分の可能性を広げる絶好の機会なのですよねー
安定してるときって、意外となにも広がらない、伸びない、ただ忙しいだけ、疲れるだけって、日本の場合はわりとそうですよね

だから、今、すごい広がってると思います
とても素敵な時間を過ごしているんだ、意味がすごくある時間なんだって思って下さい」

☆念願のローカルカフェから採用通知が来た時☆


田村さん
「これでだいぶ蓄積されてきましたねー
一週間前とは全然気分が違うと思います
幸せは足で稼げってことで、もう世の中そんなに怖くなくなったでしょう

ということで、「もう(日本に)帰っていいよ」です

よく一括パック終わった直後の人に言うんですけど、ワーホリで得るべき「人生上の大事なこと」はもう得たでしょう?だからもう目的達成で帰国していいですよーって、半分冗談、半分マジな。

ま、帰る気はないでしょうけど(当然)、あとはこのワザを自分なりに磨いて、応用範囲を広げていってください」

☆紹介してくださったレストランで働く自信がなくなってきたこと を報告した時☆


田村さん
「こんなところに私がいていいのか?」感は、わかるんだけど、そこはふてぶてしくなってください(笑)
てかね、居ていいか悪いかを決めるのはあなたではなく、彼らですからね。それは彼らの権限であって、あなたの権限ではない。そこを慮るのは「越権行為」であり、僭越ですよん。
逆に、自分の権限で思うのは、「私ほどの人間が、こんなクソみたいなところに居るべきではない」って思う場合です。
他人を慮るのは大事なことで美徳なんだけど、場合によっては僭越だし、ビジネスにおいてはなおのことです。

当面の対処としては、自己肯定感の弱さを、向上心の強さに「すり替えて」ください。貪欲に上に行きたいと思っているからこそ、激しく自分にダメ出しをしているのだと。事実、そういう側面もあると思いますしね。「もっとこう出来たはずだ」と思いつけるからこそ、そう出来なかった自分がダメに思えるんだけど、まずそこで思いつけない人もたくさんいるわけですよ。ボケな仕事をしておきながら、最高の仕事をしたんだと固く疑わない人も結構いたりして(笑)。
「もっとこうすれば」って思いつけること、そのこと自体が才能だし、能力だし、それは向上心がある以上絶対にでてくるし、絶対に満たされることは無いとも言えます。

でも、そこで自分にこだわるのは周囲にとって却って迷惑だったりもするのですよ(笑)

例えるなら、自分で料理をして皆を招くでしょう?自分の頭の中には、素晴らしい料理の完成図があるんだけど、実際にやってみたら時間も足りない・アレも足りないで、理想からはかけ離れた出来栄えで、もうクソみたいなものしか作れんかったと、それはそれは落ち込むわけですよ。
でも、招かれたみなはハッピーで、うわー、美味しい〜とか喜んでるのですよね。
しかし、そんな華やいだ席で、当の本人だけは仏頂面で、「こんなもん、美味しくない!」と吐き捨てるように言ったりして、却って場がしらけるとか、、、、
わかります?ありがちでしょう?

向上心も結構、自分ダメ出しも大いによろしいんだけど、時と場合によるよねー、却って迷惑だったりもするんだよねーってことです。だから、その評価は周りに任せておいて、自分はベストをつくすだけしかないって思ってたらいいです」


カフェへの猛アタック

田村さんに紹介して頂いたレストランで、ありがたいことにすぐ雇って頂けた。しかし、直後にお店のホリデーが来て、2週間無職になってしまった。

こうなったら、2つめの仕事を探そう!と、シェアを一日10件弱見て回りつつ、移動のバスの中ではウェブからカフェのバリスタ職に応募し続け、歩く途中にカフェがあれば飛び込んでレジュメを配った。コーヒー作りは、ゴールドコーストのカフェで、自分用にほぼ自己流で作っていた経験しかなく、バリスタの技術は無きに等しかったが、I can make good coffee!!と大ボラを吹き、何店かトレーニングに入れてもらった。コーヒー全然作れねーじゃねぇか!と追い返されたりつつ、めげずに体当たりし続けた。

そんな中、一つのローカルカフェで、ウェイトレスとして採用すると言われ、天にも昇る心地がした。このカフェでのトレーニング前日、何としても仕事をゲットしたかった私は、急遽コーヒースクールを予約、コーヒー作りを必死に体に叩き込んだ。

結局トレーニング中、コーヒーを作ることはなく、ウエイトレス業務のみを見られたが、思いが報われた気がして嬉しかった。出勤日を心待ちにしていたところ、オーナーから連絡があり、辞める予定だった人が辞めなくなったかもしれない、あと2週間連絡を待ってくれ、と言われた。結局不採用かぁ、やっぱりローカルは難しい、と一瞬思ったが、落ち込む暇もなく、翌日からまたカフェへの突撃を続けた。(ちなみにこのカフェからは、2週間後、本当に連絡が来た。)

この頃、仕事探しの方のみに熱が入りすぎてしまい、バッパー暮らしにも疲れてきていたので、シェアを妥協で、日本人のおじさんオーナーのところへ決めてしまう。何となく嫌な予感がしたにもかかわらず、だ…。

そんな中、ダンディなイタリアンカフェオーナー・ジョセフに運良く気に入られ、トレーニングに呼んでもらった。その際作ったコーヒーは、まぐれだが、自分でもびっくりするほどミルキーで完璧な泡となり、ジョセフは感嘆の声を上げた。こうして私は無事ローカルのバリスタ職をゲットし、初めてオーストラリアの法に則った給料を受け取ることになった。


トラブル

シェアでは、しょっぱなから、オーナーおじさんの発言行動にセクハラ上司の匂いを察知、戦々恐々としていた。毎日家に帰るのが苦痛で、おじさんと会わないように会わないようにと気をつけて暮らしていた。


また、このころ、体に謎のかゆみを感じ始めた。ある日、同室の女の子と話していると、その子はおじさんから、私の上をいくセクハラ行為(急に足揉まれたり、頭撫でられたり)を受けていた上、同じかゆみが体にあることが発覚。議論の末、ミニマムステイ3ヶ月に到底満たないものの、かゆみを理由に出て行かせてもらおうということになった。次のシェアの目処を立て、勇気を出しておじさんに伝えると、心配するそぶりを見せつつも、「マットレスは半年前に買い換えたから清潔なはず、かゆみは部屋の環境が原因とは限らない、病院に行って原因を調べてきてくれ、君たちがファームから何か菌を拾ってきたのかもしれないし」と言われた。そのとき初めて、布団をめくってマットレスを見てみると、汚い黒い点々が、二人のマットレスに、ちょうど体のかゆみを感じた足の部分に特に集中して存在しており、驚きのあまりワッと叫んだ。


このころ、働き始めて2週間ほど経ったイタリアンカフェでも、嫌な思いをしたばかりだった。ある日、ネパール人シェフに、地下室の場所を教えるから一緒に来い。と言われついて行くと、地下室のドアが閉まった途端、彼氏いるのと聞かれた。今思うとバカだが咄嗟にいないと答えてしまうと、”I like Japanese. Can I touch you ?”と言われた。ゾッとして、密室の地下室から素早く脱出、戻ってこい!という声を無視して歩き始めると、シェフも後を付いてきた。

セクハラだ、オーナーに報告する、と彼に言った時、ちょっと冗談混じりのようにひきつり笑顔で言ってしまったため、彼も、だから聞いたんじゃないかーwとすっとぼけて冗談っぽく返してきた。それが屈辱だわ、怖かったやらで、またこんなことで仕事辞めなきゃいけないのか、私の人生いつもこうだ、嫌だこんなことで辞めたくない…と悩んだ私は、仕事終わりに、ジョセフに泣きながらこのことを報告。

ジョセフは、そんなバカな、奴は既婚者だぜ、今まで女の子がたくさん働いていたけどそんな話聞いたことないぞ!?と驚いた。何か俺にできることは?と聞いてくれたが、とりあえず大丈夫です、また何かあったら報告します、と伝え、帰路についた。次の日は酷い気分で、カフェを休み、家で辞めるかどうか考えていた。そんな中、たまたま連絡をくれたファーム時代の友達が、気分転換にと私を街に連れ出し、ただただ話を聞いてくれた。マーケットで美味しいスイーツを半分こしながら、世の中こんなにいい男の子もいるんだから、捨てたもんじゃないさ!と、ずいぶん救われたのを覚えている。

転機と発見

そんなこんなでストレスフルな時期にいた私は、流石に、これまでこんなに運が悪いのはおかしくないか?自分が変わるしかないんじゃないか?と薄々感じ始めていた。

どう変われば良いかはわからないが、とにかく何かを試すしかないと感じた私は、シェアハウスオーナーのおじさんに向かって思いっきりブチ切れていた。「マットレスを半年前に買いかえたというのは嘘ですよね、これはダニですよね、すごく痒いです、どうしてくれるんですか、こんなところでこれ以上寝られません、マットレスを買い替えてください今すぐ」とまくし立てた。

どうしてもマットレスを買い替えたくないらしいおじさんは、駄々をこね、「除菌スプレーをマットレスに刺して中から注入する」とか、「黒い点はダニかどうかわからないしかゆみの原因とは限らない 」とか、「マットレスは本当に半年前に新しく買い換えた、嘘じゃない」だとか、言い訳をしてきた。しかし、「こっちには健康被害が出てるんだ、いいからすぐにマットレスを買い換えろ」と折れずに主張しつづけた。すると、「それならもう出てっていいよ。」と言われたので、ボンドを返してもらい、次のシェアへ、同室の子と一緒に移動した。おじさんにあまり強く言わなかった同室の子には、「実は半年前に買ったマットレスは中古だ」だとか、「マットレスカバーを買いに行くけど一人じゃどれがいいかわからないので一緒についてきてほしい」などと、こっそりと言っていたらしい。私には、このような舐めたことを言ってこなかったということは、私はあのとき紛れもなくおじさんに立ち向かえていたんだ と、少し誇りに思った。


もう一つ、一見したらマイナスの出来事からプラスが生じたことがある。
ある日、ブリスベン時代のコロンビアン似非彼氏から、クソなvoice messageが来ていた。もともと、彼のインスタグラムで、コロンビア美女と彼のツーショットがたくさん上がっていたので、あー彼女できたんだなーふーん程度に思っていた。(そのころ、彼のことは忘れてしまっていた。ブリスベンにいた時には浮かれていたが、所詮その程度の薄っぺらい仲だったのだ…)その、新・彼女と一緒に、イチャイチャしながら、それを見せつけるかのように私に問いかけてくる、という内容のボイスメッセージだった。

こんなものを送りつけられるとは…と惨めな気持ちになったが、黙々と仕事をしているうち、『自分で自分を大事にできていれば大丈夫だ』という感覚が突然に芽生えた。

本当の意味での自尊心

どうしてこの出来事からこの感覚を得たのか、その因果関係がよくわからないが、「究極、他人が自分にどのような行いをしたとしても、自分が自分を好きなら問題はない」という感覚を体得したのだと思う。

そして、このようなしょうもない行いをした彼は、心の奥底でひとつ自分のことを嫌いになるんじゃないだろうか、それともなんにも気にならないのだろうか?などと考えていると、少なくとも自分は今までの人生でこんなダサいことはしてこなかったし、今後もきっとしないだろう、そう思うと私って結構上出来だな、と、なんとなく胸のすくような思いがした。


このころの私は、自分を大事にするということを強く意識し始めた。毎日の体の状態に敏感になり、食べ物や睡眠に気をつけ、栄養学の本を読み始めた。ある日、健康のため☆と参加したヨガ教室で、不思議な感覚を得た。ヨガをしている自分を、ひとりの人間としてみている別の自分がいた。

そして、今この瞬間、一生懸命ヨガに参加しているこの自分は、ただただ愛しいひとつの生命だ、他人と同じく尊重されるべきひとりの人間だ!いままで気づかなくてごめん、これからは大事にするから、なんてことを思った。同時に、近くにいる、ヨガをしている他人たちや、ヨガの先生も、みんな同じで一生懸命生きてるんだな、と、美しく愛しく思えた。その日はずっと胸があたたかく、幸せな気持ちだった。


カフェでは、例のネパール人シェフとシフトが被ると、「こいつを許さなくてもいい。働きづらくなったって知らん」と、一貫して冷たい態度をとり、仕事内容以外の雑談は完全無視しつつ、淡々と働いていた。それをしばらく続けていると、あるときから、彼のことが何にも気にならなくなり、不快感なく一緒に働け、会話もできるようになった。シェフもまた、他の人に対するのと同じように、ごく普通に私に接するようになっていた。シェフに対する恐れ憎しみは消えていた。

カフェオーナーのジョセフは、私にとって、今までで一番いい上司だった。厳しいことを言っていても、どこか愛のある人だった。カフェでの私は、オージーに一人日本人が混じって接客している状態で、英語は下手だわ、指示は間違えるわ、何度も聞き直すわ、コーヒー作りもよく失敗するわで、毎日怒られていた。

しかし、このころ、私は開き直っており、ダメな私をとくと見よ!というくらいの勢いで堂々と仕事した。それができたのは、オーナーから、人間そのものへの愛のようなものを感じ、この人は私を裏切らない、と直感していたからだと思う。

ゴールドコースト時代のカフェオーナーに対する感情とは、確実に違っていた。あの頃は、私が変わらなければこの人に切り捨てられると怯えていた。今回は、ジョセフは私自身を選んでくれたんだから誠実にやっていれば大丈夫だ、という気が(幻想かもしれないが)していた。そういえば、私を雇う時、like your style!と言ってくれた。一緒にいると、存在がまるごと受け入れられるような気がする、父性あふれるいい男だった。今思えば、ゴールドコースト時代、カフェで怯えて縮こまっているくらいなら、辞めて次を探して良かったのだ。もしくは、辞めさせると脅されても、やれるもんならやってみな!と、堂々としていてよかったんだと思う。その結果クビになったなら、その時はその時…


カフェやレストランでの日々


カフェでは、常連客のオージー達にかなり癒された。カフェがある地区はモスマンという所で、高級老人ホームがたくさんあるおかげか、心にゆとりのある、優しいご老人のお客様が多かった。アヤキーアヤキーと、一生懸命名前を覚えて呼んでくれるのが可愛いかった。(英語圏の人にとって、アヤコは発音しづらいのだろうか?大昔イギリスにいた頃も、アヤクーとかアヤキーと呼ばれていた。)本当に可愛がって頂いたし、彼らとお話しするのが楽しみで、仕事に行くのが苦にならなかった。

働き始めたばかりのある日、あるお婆さんにコーヒーを出すと、あなたのコーヒーはまずいわ、前のバリスタが恋しいわ、と言い、コーヒーを半分残して去っていった。それからしばらく彼女はお店に来なかったが、次の来店時、精一杯丁寧にいれたコーヒーを恐る恐る出したら、あなた、上達したわね!と褒めてくれ、翌日もコーヒーを飲みにきた。
それ以来、会うたびにニコッとしてくれるようになり、心底嬉しかった。

働いていたカフェ

逆に、あんたのコーヒーはまずいからもういらない!と睨み、それ以来、かたくなに私以外にコーヒーをオーダーするお婆さんや、はなから私の存在を無視してオーナーかもう一人のバリスタにしか話しかけない常連さんもいたが、嫌ではなかった。
まあ実際下手だしな、私がバリスタやらせてもらえてること自体不思議だしな、と思っていた。

たまに、コーヒーを出すのが怖くなるときもあったが、それは嫌な怖さではなかった。私にできることは、黙々とコーヒー作りの精度を上げることだけだ、と、腹をくくって作り続けられていた。


もう一つの職場のレストランでは、とことん自信が持てずにいた。宝石みたいに綺麗で繊細なお料理を出す、こじんまりとしたレストラン。上品で熱心な固定客が多く、価格帯も安くないので、細やかなプロの接客を必要とされた。私は、大学時代接客のバイトをずっとしていたが、それだけにかかなり苦手意識があった。
集中するとすぐ周りが見えなくなるので、気配りがとても下手なのだ。かつ、愛想もない。自分に無いものを学べる絶好の職場だったと思うが、こんな場所に私のような者がいて大丈夫か?持ち味、壊れてしまわないか?という思いがぬぐいきれず、楽しいとか、もっと頑張りたいとか思えなくて、ずっとできないままで、働いた後はただ疲れて…と負のループに入っていた。それが伝わったのだろう、シフトは徐々に減り、直前にキャンセルになったりした。その時は、自分を棚に上げ、何で!と悔しく思っていた。

そんなある時、Aplacの真理子さんと一緒にシフトに入る機会があり、彼女の仕事ぶりに衝撃を受けた。完璧な英語、素早い身のこなし、お客さんへの気の利いた言葉、凛とした態度、軽やかに交わされるセンスのある会話。すべてがただかっこよく、こんな人がいるんだ、と圧倒される。レストランを辞めようか悩んでいた私は、少しでもあんな風に仕事ができたら気持ちいいだろうな。やっぱり頑張って続けてみようか。と思った。しかし、レストランへ向かう足取りは日に日に重くなっていた。


そんなある日、カフェのオーナー・ジョセフから衝撃の事実を告げられる。お店が2週間後に急遽閉店する、と言うではないか。そのカフェは30年以上続く老舗だったし、お客さんだって少なくなかったけれど、父親と相談した結果、不動産を売り払うことになったという。ジョセフは、次の仕事の見通しはない、本当に急に決まった、とりあえずウーバーでもやって食いつなぐさ、と言っていた。私たちスタッフは当然困惑したが、閉店を知った時の常連客たちの狼狽振り、これからどこでbreakfastを取ればいいのさ!と悲しむ様子に、本当にこんなに愛されている場所がなくなってしまうのかと、切なくなった。

ある女性客が、ジョセフに、「昨今、コミュニティは消滅していると言われているけれど、あなたは紛れもなくそれを作っていたわ。あなたが今後どこでなにをするにしても、私たちはついていくわ。」と話し、ジョセフは感動で少し涙ぐんでいた。それを聞いた私も、ああ、良い言葉だな、と感じた。

後日、カフェの送別会へ、感謝の気持ちをしたためたカードと、お洒落なダークチョコを持っていき、ジョセフに渡した。ジョセフは、うっすら涙ぐんだ目を隠そうとするような、精悍な表情で(閉店間際のジョセフはいつもこんな表情をしていた。思い出深い店が無くなる寂しさを抱えながらも、平静どおりに振る舞おうとする男の顔は、渋カッコよかった!)「お前はいつも一生懸命だったな、good girlだったよ、俺は知ってる」と、ハグしてくれた。(仕事はできないけどな、という心の声が聞こえた気がしないでもなかったが…。)
送別会には、なんと、元オーストラリア首相のアンソニー(トニー)・アボットが現れ、なんだか凄い場所で働かせてもらっていたのだなと驚いた。その後、ラウンドに出てしばらくして、「スクールランチを作る手伝いを頼みたいので、一緒に働かないか」と、ジョセフから連絡が入った。お断りこそしたが、自分が心から尊敬した人から、また一緒に働こうと言ってもらえた喜びをかみしめた。


カフェの閉店が決まった頃、私は、次の仕事探しには不安を抱いておらず、以前のようにめちゃくちゃにアプライすれば何処かしらに決まるだろうと思い、カフェに応募を始めた。案の定何件かから返事が来たが、どうもワクワクしない。また同じことを繰り返すのか、もう充分やったよ、という燃え尽き感を感じていた。ビザはあと4ヶ月あるが、もう日本へ帰ってもいいんじゃ無いが?オーストラリアでは十分がんばった。一応、IELTSも取ったし、ローカルカフェでも立派に働いたじゃないか。

帰国かラウンドか

日本に早めに帰って、憧れの外資系目指して就活しはじめようかな。でも、本当にそれでいいのか…。そんな迷いを田村さんに連絡したところ、すぐに返事が帰ってきた。

ここから始まるんじゃないの?やっと立てたところでしょ、まだあと一皮も二皮も剥けるはずだ、と。その時は、えっ、そうなのかな?私結構もう剥けてない?と少し思った(なんと図々しい)。しかし、ここで田村さんに数々の金言を貰ってしまう。

え、まだ始まったばっかでしょ
初期の躓きというか、調子に乗れなかったのを矯正したくらいのところでしょうに
これからあれこれ始まるんでしょ

いずれにせよ、なんであれ、安定的に物事が固まってきたら、自分から叩き壊して、先に進まなければならないし、そうやって前に進むことを学ぶんじゃないの?
ま、そこは個人の好き好きだけど

僕からしたら、もう一皮もふた皮もむけると思いますけどねー

谷口さんがやってきたのは、シドニー時代の補修というか、最初の数ヶ月で得るべき自信を、あとから得ているようなものだと思います。まあ、やれば出来るんだ、という、とりあえず立てたというくらい

今度は歩く、になり、歩きながら考え、探し、出会い、発展させ、挫折し、でも救われ、思ってもない展開になり、そしてもとに戻り、、というドラマがあるんでしょ
なにかのパターンに執着しないこと、明日やることは明日見つけられるというか、いくらでも創造していけるという
でないと、なんかのパターンが壊れたりすると途方に暮れてしまうので

人生の殻を叩き割って、え、こんなに世界って広かったの?自分って無限の可能性があったのねってマジに実感できたらいいんですけどね

叩き割れるかどうかはわからんけど、トライはしてみてもいいじゃないか
憧れの外資もねー、入ってみたらわかるけど、同じことになるのだよね
結局、なにがどうなっても、いかに変化させていくかであり、矛盾するようだけど、それが自由自在にできるようになったときに、変化させなくても足りるようになる

なんつっても弁護士やってても閉塞感ってきたもんね。なにかをすればいいってもんじゃないのよね、そこに正解があるのではない

生き方というか、過程というか、作り出していける力というか、そういう目に見えないものが大事なんだと思います
出来合いの正解を探すとかじゃなくて、私がやれば何でも面白くなるって感じね
そのくらい面白い自分になるというか

あと4ヶ月やるなら、これまでの自分の人生からしたら「ありえなような」感じでやるといいかもよ
何をするかではなく、幅を広げるというか、むちゃくちゃやるというか、
意味があるとかないとか、役に立つとかどうでもよくてさ
どんだけ自分って面白いことができるのか、創れるのか、発見できるのか
そんな浮世離れしたことなんか、帰国したらまず絶対できないでしょう 
周囲もあるしね

頑張って
形にしないことよ、記号に頼らないことよ
人に説明できそうもないことをしなさいな
自由とはそういうものだから
あはは、でも感じはなんとなくわかったでしょ
あとは突っ走りなさいな
前にも言ったとおもうけど、若い頃突っ走った分がその人の一生の「領土」になるから
カッコいい大人になりたかったら、若い頃にむちゃくちゃやってるという
遊んどいで



 そんな田村さんとのやりとりを続けるうち、Aplacブログを初めて見たときのように興奮している自分がいた。田村さんの言葉はやっぱり凄い!読むだけで力がみなぎってくる。どうしてこんなにカッコいいことが言えるのだろう…?

私もまだまだ殻を破れるかな?本当に無限の可能性があるの?と、熱い想いが溢れ出てきたとき、「カッコいい大人になりたかったら、若い頃にむちゃくちゃやってるという」「遊んどいで」という言葉で火がついた。ああ、めちゃくちゃやってやろうじゃないか!と。 それから1〜2日、ドキドキしながら、どうするか考えた末、以前から漠然と憧れていたアリススプリングスにノープランで飛んでみようと決め、2週間後の飛行機のチケットを確保した。


次の日、カフェの常連さんたちに、閉店後はアリスススプリングスへ行くことを告げると、凄い勢いで反対された。なぜそこを選ぶ、危険なところだ、アボリジニは法律を守る気がない、砂漠の中で暑くて過酷だ、夜6時以降は家を出るな、シドニーで仕事を探せばいいじゃないか…。反対の嵐にビビった私は、チケットを取ったことを後悔しはじめた。この時の自分はとても頭が固く、アリススプリングスに行ったらしばらく住んで仕事をするものだと、なぜか決めつけていた。不安をそのまま田村さんに伝えたところ、こんな返事が返ってきた。

(アリスがどうかという点については)どこかに定住するよりは、旅烏のようになってください。
「この街にきた日本人は君が初めてだよ」って言われた人もいるし、そこですごいいい経験できたって人もいるし、いわゆるワーホリはこれから始まるくらいに思ってたらイイです

ちなみにアリスって別に怖くないよ。
アボリジニが多くて、中にはタカってくるのもいるけど、その程度で、それは北の方に行けばどこもそうだし、逆にアボリジニの集落で寝泊まりして(すごい辺鄙なところにある)、それがサイコーだったって人もいるし。

かくして偏見は作られるってことだけどね、
それがどうかは自分で見て判断すればいいんだけど、ネガテイブなものを見据えて、その危険性をしっかり把握する部分はまだ弱いと思うで、そんなもんにビビってたら東京の歌舞伎町とか歩けないじゃん
それにアリスにいたって面白くないよ ウルルー見るための拠点くらいの意味しかないし、超小さい町だし、どんどん移動していくべき そこで誰と出会い、何を感じって、シェアライドとかやってみたらいいやん

また書くけどね、リスクをさばきたかったら、固定観念や先入観をとらわれず、そのものを素直にみることです そのためには場数もいるけどね。ヤクザ相手にすると素人はそれだけでビビるけど、警察とか記者とか弁護士はビビらないのは、状況判断ができるからですよ この局面だったらこういう行動はしないというのを知ってるから。メカニズムがわかってる。

ボリジニ問題も同じです。
アル中が多いんだけど、もともと遺伝子的にアルコール分解酵素もってないのよ、彼らは。そしてアルコールを教えたのはイギリス人なのよ。でもってアルコールを買うお金を与えているのもそうなのよ

真面目なアボリジニが殆どで、一つは部族でつつましくやってる、日本のアイヌと同じ。もうひとつは、国会議員にもなってるアボリジニがいるように、ちゃんと社会に出ていい仕事をしてる人もたくさんいる。 そのどっちつかずの落ちこぼれがいて、それが観光地に出没しては、ビールくれーとか、おごってくれーとか声をかけたりするから、怖がれて、偏見のもとになるという。
まあ、それだけの話なんだよね

背景事情やメカニズム、あとは個別経験があれば、これが大丈夫、これはやばいの判別がつくようになります。ダーウィンとかケアンズとかにもいっぱいいるんだけど、地元民はもう慣れてるよね ああいるよねーって。日本にだってそういう連中いるもんさ

それに、差別はあって、アボリジニだというだけで、捕まった時に刑罰が厳しくなるという変な状況があって、アメリカの黒人と同じよ。だから、滅多なことでは捕まるようなことはしない。犯罪と呼べるレベルになるようなことまではしない。損だから、彼らに。ビールが飲めたらいいんだよ、彼らは
それに、周囲に人通りがあれば、絶対にそこまではしない。じゃあ対策はわかるじゃん、人通りが途絶えたようなところ、時間帯は避けると。

本当に悪いやつはあんなに「わかりやすく」ないです



自分が未知への決めつけと恐怖に支配されていることを知った。アリススプリングスにとりあえず行ってみて、実際はどんなところなのかこの目で見てこよう。そして、その後は、先入観なしに、そのときの気分次第で行動しよう。気に入ったら住んで仕事を探せばいいし、ピンと来ないならすぐ次の都市へ移動してもいい、とにかく可能な限り思うがままに行動してみよう、と、決意を新たにした。

田村捕注:アボリジニという言い方は、やや蔑称ニュアンスもあるので、オフィシャルには、インディジュナス、"Indigenous Australian"という(これに”Torres Strait Islander(トレス諸島住民)”がくっつくのが一番オフィシャル。

Indigenousの政治家のリストはWikiにあります。オーストラリアの政治体制は、連邦政府〜州政府〜ローカル政府の三層構造になってるのだけど、このリストの7名は上の二層でローカルは含まれてません(含めたらもっと膨大な数になる)。

Indigenousに対する司法その他の差別問題については数多くの活動や学術論文があります。あまり知られてないGoogle検索で、Google Scholarという学術論文の検索があり、Australian indigenous criminal discriminationで検索するとこのように沢山でてきます。

再度旅立ちへ

突発的に、2週間後のチケットを取ってしまったので、レストランへはその後、辞めると報告した。直近のシフトで報告しようと思っていたが、そのシフトがキャンセルになったため、メッセージで、2週間後にシドニーを出るから辞めたいと伝えた。

もし辞めるなら、最低1ヶ月前には報告してねと前に言われていたので、気まずさで心臓がぎゅっとなった。そのメッセージにはすぐに短い返事が来て、連絡が途絶えた。もう居たたまれなさを胸に働かなくて良いことにどこか安堵しつつ、このまま去っていこう、また会うなんて気まずいし向こうも会いたくないだろう、と思っていた。このレストランは、田村さんに紹介していただいたところで、オーナーのご夫婦は時に悩み相談に乗ってくれたり、本当にお世話になった所なので、余計に息苦しかった。

正直な思いを田村さんに報告したところ、気まずいとか言ってないで、そういう時は会えというのが鉄則だよ、それも嫌なら手紙とプレゼントとかさ、と、至極真っ当なアドバイスを受けた。
ご夫婦に会いにいく自分を想像すると、冷や汗が出てきたが、同時に、そんな自分ってカッコイイな、潔いな、という気がしてきた。これ、その時は怖くても、終わった時の達成感が凄いだろうな、と思ったので、素直に実行することにした。

奥さんの好きだったメーカーのチョコを3袋買い、デコレーションカードに正直な思いとお礼を書いて、キラキラの袋に入れ、決死の思いで店のドアを開けると、オーナーご夫婦は想像していたよりずっと暖かく迎えてくれ、すぐさま最後の給料を持ってきて渡してくださった。そこには、普段はめったにいるはずのない真理子さんも居て、働いていた。まさか、私が急に穴を開けたから?本当にすみません。ありがとうございます。そんな思いが溢れてきて、必死に頭を下げ、事情を説明し、「ここで働く自信がどんどんなくなり、辛くなってしまった」ということまで大人げもなくぶちまけた。ご夫婦はとても慈愛に満ちた目で私を見て、励まし送り出してくださった。そのあと、「今時手書きのメッセージなんてくれる子はそうそういないから感動した。自信を持って頑張って。今から本気で目指せば何にでもなれるよ。時間は刻一刻と過ぎるから、たくさんのことを吸収してね。」という内容のメッセージが奥さんから送られてきた。その日は何だかとっても嬉しくて、何度もメッセージを読み返した。


シドニーではもう1組、素敵なご夫婦に出会っていた。大学時代のゼミの教授が連絡先を繋いでくださった、母校の元講師のご夫婦だ。お二人とも知的なウィットに富んでおり、一緒にいると笑いが絶えなかった。私を何かと気にかけ、ちょくちょく遊びに誘ってくださった。そんなご夫婦に、アリススプリングスへ発つことを伝えると、親切にも私の荷物をお家に置かせてくださった上、ラウンドから帰ってきたら、日本に帰るまでの間泊まって良い、と、家の合鍵まで渡してくださった。帰国前、Camperdownのその家にありがたくお邪魔し、二日間お世話になった。毎朝ヨーグルトとフルーツの朝食は出てくるわ、座っているだけでコーヒー紅茶ワインチョコなど振舞われるわ、マーケットや公園やカフェなどに連れてってくれるわ、美味しいイタリアンレストランでご馳走になるわ、竜宮城にいる気分だった。本当にありがとうございました。いやはや、どうやってこの恩を返そうか…。

ラウンドに出る直前の数日間、もう仕事も何もなく、開放感と、未知へのドキドキ感に包まれていた。こういう時、外を歩き回りたくなる私は、シティから、家のあるニュートラルベイまで、ハーバーブリッジを渡って何度も歩いたりした。ある夜、ニュートラルベイから、ずっと下に見える湾あたりまで、坂を下れるだけ下ってみようと思い、フラフラと歩いていくと、坂の終わりに湾へと続くbushを見つけた。足元は暗く、危険な匂いがしたが、好奇心に勝てず分け入ってみると、その日のくっきりときれいな月を反射する、静かな水面が、目の前に現れた。1組のオージー夫婦が釣りをしており、あなたそんな遠くから徒歩で来たの?と驚かれた。素晴らしい月夜とともに、二人が釣りをする姿をノンビリ見ながらおしゃべりする時間は、至福だった。二人に、もうすぐ一人旅に出ることを話すと、旅先では、夜中に一人bush入りなんていう真似は頼むからやめてくれよ、と笑っていた。



余談だが、シドニーでは、ヘイマーケットの魅力に取り憑かれ、アジア料理ばかり食べていた。同室の子とはよく、コリアンBBQで腹一杯食べた。台湾料理の色んなメニューを試しては、自分の味覚に合う!と喜んだ。タピオカミルクティーは何杯飲んだかわからないし、このせいで何kg太ったのかは知りたくない。
一番気に入ったお店は、中華スープ屋さんだ。ビュッフェ状に並んでいる野菜、肉、豆腐などから、好きな具材をお椀に入れていき、カウンターへ持っていくと、豚骨スープにして出してくれる。そこにニンニクをタップリ入れて食べるととても美味しく、次の日の肌の調子は好調だった。
一番気に入ったメニューは、台湾料理の鴨血(ヤーシュエ)。アヒルの血をプリン状に固めたものである。レストランで見つけた時、貧血になりやすい私は、コレこそが鉄分を摂取する最適の食べ物だろうと、迷わずオーダーした。レバーのような癖のある味を想像していたが、口に入れると、サッパリして食べやすかった。

マリックビルで食べた、ベトナム料理のグラスヌードルも美味しかった。文字通り、ガラスのように透き通った麺だ。アッサリした透明スープ、鶏のささみ、パクチーに、麺が入っただけのシンプルなものだった。つるんとした食感、優しい味は、うどんを思い起こさせた。食べ物はやっぱりアジアのものが一番好き。いつかアジア諸国をラウンドしようと決意した。(何kg太って帰ってくるのだろう…)

たくさんの素敵な大人に出会えたシドニーは、暖かい思い出でいっぱい。自分のことを好きになる一歩を踏み出せた場所で、オーストラリアで一番思い入れのある都市となった。そんな場所に別れを告げ、私は、数日後の自分が何をしているかどうかさえわからない、人生初の放浪の旅へと向かっていった。

Sydney 近所の公園、空が綺麗で撮ったもの

アリススプリングス

アリススプリングスに着いた瞬間、とにかく空の青さにビックリした。
シドニーも十分、抜けるような空の青さだと思っていたが、ここは別格だった。
町じゅう、乾いたオレンジ色の山でいっぱいで、信じられないくらい日差しが強い。


今思い返しても、まるで異世界のようだった。初見の衝撃度がシティとは段違いだ。乾いた空気が気持ち良い、本当に美しい町だった。

アリススプリングスにいるアボリジニ達は、拍子抜けなほどリラックスして、優しそうな顔で散歩していた。その辺のオージーとなんら変わりないじゃん!
夜道は人通りが少ないので歩かないようにはしたものの、カフェで聞かされたような酷いことは起こらなかった。アボリジニの中にも悪い人はいるだろう。しかし、それは日本人もオージーも同じだ。思い込み、情報だけで判断してしまうほどもったいないことはない、実際に動いて見てみないとわからない、と痛感した。

アリススプリングス2日目、ウルルツアーを予約し、早朝からバスに乗ってウルルへと向かった。日帰りのツアーで、ウルルの遺跡を回れるだけ回り、最後はBBQしながらエアーズロックのサンセットを見て帰るというもの。遺跡はもちろん素晴らしかったが、実はツアー中一番感動したのは、バスの中から見た、ひたすら続く西部劇のような乾いた赤茶色の風景、広大な砂漠に横たわる夕陽、休憩ポイントでバスを降りた時に見た星空に天の川だった。


あの日はあまり実感がなかったが、今思い出すと、あの日の自分は夢空間にいたのかな?と本気で思うくらい、何もかもが絶景だった。この地球に今この瞬間もあんな場所が存在するというだけで、心の中の何かが救われる。

ウルルに行くのはお金も労力もかかるが、ぜひ、行くことをおすすめする。何が、と具体的に言えるわけではないが、ウルルに行った自分と行かなかった自分では、ちょこっとでも確実に、なにかが変わっていると思う。(それを言い出すと、人生のどんな事柄だってそうなんだけれど。)



次の目的地はダーウィンに決め、アリススプリングスでのラスト1日は、イスラエル人のルームメイトと過ごした。彼女はイスラエルでの兵役2年間を終え、リラックスしに南半球へ来ていた。クレバーで、しっかりしている彼女は、兵役中、一つのチームを任され、軍のコマンダーとして働いていたそうだ。兵役中の仕事を通して、かなり自分は変わった、精神が成熟した、と話していた。確かに、3歳年下の彼女の貫禄は凄く、何気なく発する言葉にも深みがあった。体格面、精神面、知識面共に、彼女の方が私よりずっと年上に見える。

私は、イスラエルでは女性にも兵役があるということを知らなかった。両国はあまりいい関係ではないということをよく知らず、イスラエルをイランと言い間違え、彼女に変な顔をさせるという失態すらかました。本当、年齢ってただの枠でしかない。その人が、これまで何を経験し、何を(頭ではなく)全身で知ったかの方が、よほど重要だ。彼女の兄は、単身世界一周の真っ只中だそうで、オーストラリア内のラウンドでわーわー言っている自分とはスケールがちがうな、と思った。


ダーウィン


バスで丸一日かけ、ダーウィンに到着した。道中、同じウルルツアーに参加していたドイツ人の女の子と再会したため、一日その子と行動を共にした。

その日はちょうど日曜だったので、朝からナイトクリフマーケットへ出かけた。
何処までも続く、手付かずのジャングルのような緑、とんでもない蒸し暑さ、マーケットで売られているゴロゴロのフルーツや、金ピカの箱に入った香辛料を見て、まるでアジアに来たようだ!と大喜びした。

アジアを恋しく思っていた私はダーウィンが大好きになり、ここに暫く留まってもいいかもしれないと考えていた。可愛い亀モチーフのチョーカーを買い、露天のフレッシュジュースと共にラクサを食べた後、Museum and art gallery of north territoryへ向かった。巨大ワニの模型、アボリジニアート、恐竜の化石、1974年にダーウィンを直撃したサイクロンに関する特別展示など、見所たくさんな上、無料で、大満足だった。

その後、軽く海を見た後、ドイツ人の女の子のリクエストでピザとフライドポテトの夕食をとり、バッパーへ戻る。この夜、旅疲れと油ギッシュな夕食のせいか、突然の強烈な吐き気に襲われた私は、数時間トイレにこもり、吐き続けた。胃の中のほぼ全てを出し切りながら、翌日の予定をどうしようかということで頭がいっぱいになっていた。

木暮さんのあたたかさ

実はダーウィンに来る前、田村さんブログで、木暮香織さんという元Aplacの方が住んでいることを知った私は、田村さんに連絡先を繋いでもらい、翌日にお会いすることになっていたのだ。あまりの体調の悪さに、予定をキャンセルしてもらった方がいいかなと思ったが、翌日起きてみると、動けないことはなかったので、木暮さんとの待ち合わせ場所に向かった。

対面した木暮さんは、とても暖かく大人な女性だった。
私を楽しませようと色々考えてくださっていたようで、車で周辺の見所を回ってくださり、記念にと写真を撮ってくださった。その後、知る人ぞ知るおいしいカフェに連れて行って下さった。

カフェでは、木暮さんがオーストラリアに来ることになった経緯にシンパシーを感じ、夢中になって話し込んだ。最近、妹が、私がタンクトップを着ている写真を見て、少し太ったのではないか、この格好はきついのではないかと嘲笑ってきたこと、こんなに些細なことなのに何故か意外なほどショックを受けた自分がいたこと、オーストラリアでは見た目のことなんて気にせず、太った人が紐ビキニを着たりするので忘れていた、せっかく伸びやかな心を手に入れたのに日本に帰ったらその心を失ってしまいそうだと、しょうもないような深刻なような悩みを木暮さんに打ち明けた。

木暮さんは、帰りたくないなら帰らなきゃいいのよ、自分のやりたいこと納得するまでやればいいよ、なんでもできるよ若いんだから。と、言って下さった。こちらで出会う素敵な大人たちは、若者に前へ向くパワーを与えてくれる人達が多い。私もいつか若者にそんな言葉をかけられる大人になりたい。


話に夢中になりつつも、青い顔で、何も食べずジュースを飲んでいると、木暮さんは、体調が落ち着くまで私の家に泊まっていいよと言ってくださった。
正直、バッパーのクーラーガンガンの環境が弱った体にこたえていた私は、お言葉に甘えることにした。その日から私は、二泊も木暮家のお世話になった。素晴らしく広いベッドに寝かせてもらい、体を存分に休めた。木暮さんは、少しわたしの胃が落ち着いてきたころに、うどんをご馳走してくださったり、翌朝カナリ遅れて起きてきた私に、作っておいてくれたおかゆを振るまって下さった。優しいダシの味が沁みてしょうがなかった。

コーヒーマシンや冷蔵庫の中のものを自由に使わせてくれ、体調がだいぶ回復した最終日は、美しい公園へ、元気な飼い犬(名前はスキッピー。背中の北海道みたいな柄がキュート)と、散歩に連れ出してくれた。旦那さんも暖か〜く優しいオージーで、私は、ただただ、どうお礼を言えばいいのかわからなくて、泣きそうな2日間だった。

一体どうしたら、私もいつか、このような、押し付けがましくなく、ただただ優しい、その上に強くてかっこいい大人になれるだろうか。そんな環境ですっかり元気になった私は、再びバスに1日ほど揺られ、ブルームへ向かった。

ブルームと内面の化学反応

ブルームは、一段と日差しが強く、ひときわ蒸し暑く、お店や観光地など何もかもが遠くにある土地だったので、私は何にもやる気が起きなかった。日中は引きこもり、夕方に食料を買い出しに行くという生活をした。

これでいいと思っていた。せっかくブルームにまで来たのに、とか、どうでもいい。
今は好き放題やるんだ、と。

やっていたことはというと、好きな音楽をひたすら聴いて、一人で興奮していただけだった。今は、何にも気にせずに、心の赴くままにだらだらしていい、という気にさせてくれる街だった。

夜、外に出ると、月だけがただひたすら明るくて、あとは遠くの空港の光が見えるだけ。
かえると虫の声が響く、ひなびた田舎道が広がっている。そんな道を一人でトボトボ歩いていると、子供の頃の自分が帰ってきたようだった。

ブルーム郊外の田舎道

そのまま、子供というワードが無性に気になりはじめた。私は、もともと哲学的な考えが好きだが、特にオーストラリアに来てからは、自分を変えたいという思いから、よく内省をした。渡豪したての頃から、日本にいる、気のおける数人の仲間だけに、ワーホリ日記を公開していたのだが、そこには、いかに自分がオーストラリアで成長したか、素晴らしい気づきを得たか、というばかり書いている、ということに、このとき気がついた。

私は変わった、一皮剥けた、そんなことばっかり日記に書いていたけれど、それは必死に自分に言い聞かせていただけなんじゃないか。だからか、文章から邪気が滲み出ている。なんだか何を書いても、自分を演出している感じがして、自分で読んでいて鼻に付く。

こんなに私の価値は上がっているよ、ね!ワーホリに来た甲斐があったでしょ、正解だったでしょ!と言う必死の叫びが聞こえるようだった。アピールしなければならない時点で、私にはまだまだ余分な力が入っている、と感じた。

これは私にとってかなり重大な気づきだった。今まで、自分が自分が!と考えすぎて、自分に飽きてきていたのだ。シドニーで、自分を一個人として尊重する感覚を掴み、無敵になった気でいたけれど、もうそれすらもどうでもいい。

今は、一回空っぽになりたい。空回りする自意識に気がついて、少し恥ずかしかったけど、ずっと憑いていることに気づかなかった憑き物をぽろっと落とせた気がして、なんだか気持ちが良かったから、このまま一旦自分から離れたい。

その行き着く先が、自我の芽生える前の子供だった。6歳の子供に、赤ちゃんのころの話を聞いたとき、「床の柄楽しい〜とか、お布団楽しい〜としか考えていなくて、自分に気づいていなかった。いまは、周りが見える。」という返事が返ってきた。という文を読み、これだ!と思った。この、自分にすら気づいていない時代に戻りいと思い、欲のままに好きな音楽を聴いたり、誰もいない夜道で歌ったりしてみた。


バッパーでガンガンに盛り上がるヨーロピアンたちを尻目に、引きこもっていたある日、韓国人の男の子が話しかけてきた。彼はブルームで仕事探しをしたが、見つからず、2日後に違う街に移動するとのこと。
私が、本当は、月への階段という絶景を見たいけど、暑すぎるのでまだ何もしていない。と彼に話すと、じゃあ明日僕の車で連れて行ってあげるよ!ついでに僕の行きたいワニ園にも行こう!と誘われた。えっ、車に二人きり?と一瞬身構えたが、どうも悪い人ではなさそうだったので、誘いに乗ることにした。

翌日、ワニツアーへ意気揚々と出かけたが、ここ数日ほぼベッドの上でだらけていた影響か、ワニツアーの途中まで、暑くてだるくて無感動で、男の子を心配させた。

しかし、おびただしい数のワニがチキンを欲望のままに食う様は物凄く、次第に、ワニでっけぇ!目がキラキラ、くるくるしてる!獲物食べるスピードはやっ!でも視界意外とせまっ!と、無邪気な自分が覚醒し、表情筋が軽くなるのが分かった。


時には無理矢理にでも外に出るというのは大事なんだなと思ったし、抗えない野生の力の神秘を感じた。その後見たケーブルビーチでのサンセットはシンプルに美しく、心に刻み込んだ。月への階段は、時期が違ったため見られなかったが、その日の観光にとても満足した。

ケーブルビーチ

なんとなく、ブルームでの滞在は1週間程度かなと決めていた私は、次なる地パースへのフライトチケットを予約していた。そして、ブルーム最終日を迎えた。この夜、私は旅立つ前の興奮のせいか、眠れなくて、ひたすら考え事をして、それを文章に纏めていた。そのときのメモ↓

・赤ん坊のように、快感に思うことだけを素直にやり、自意識から離れようとしていた。今は、完全に主観の世界だけになるのはやはり違うなーと思う。他人として見守ってくれている自分がいるからこそ、主観の自分が安心して感情のままに動ける。

・目の前のことに夢中になっている子供の自分と、それを見守る親の自分がいる。子供の自分は親の存在を意識しなくても、安心して遊んだり泣いたりできるくらい、親の自分を信頼している。これ多分理想。

・私がよく自分に、私はこんなに変わったよ!すごいでしょ!と言い聞かせたのは、子供の自分(主観)が親の自分(客観)に、「私は成長してるんだよ!」ってアピールして、認めてもらいたかった。アピールしないと親の自分に可愛がってもらえないと、子供の自分は思っている。無理しなくても、あなたは生きてるだけで可愛くて尊いよと、親の自分が思い、それが子供の自分に伝われば、自分に言い聞かせることもなく、ただのびのびと、自分のしたいようにできるんじゃないかな。口で言うのは簡単で道のりは遠いだろうけど、この説はすごく納得感がある!

こんなメモを残し、さすがにそろそろ寝よう、と瞼を閉じると、今までの人生における出来事が、次々に思い出された。辛かったことも、嬉しかったことも、好きだった人たち、嫌だと思ってた人たちのことも、全部。そして、はっ!まさか…となって、涙が出てきた。このときは、素晴らしい気持ちに包まれつつも、眠れなくてハイになっているだけかも知れないと思ってそのまま眠ったが、翌日パースに向かう道中でも、素晴らしい気持ちが消えず、この気持ちは本物かもしれないと思った。そして、なんとかしてこの気持ちを記録しようと、興奮ながら田村さんにメッセージを送った。



(田村さんとのメッセージ完コピ)
田村さん!お久しぶりです。

今、アリススプリングス〜ダーウィン〜ブルームときて、これからパースへ飛ぶ所なのですが、
今とってもブレイクスルーした気分というか、不思議な爽快感を味わっています

私は周りへの感謝の気持ちとかが湧いてくるタイプではなく、むしろ申し訳ないなとか居心地の悪さを感じるタイプだったのですが、昨日の夜、自然と今までのこと全てに感謝して涙がでてきたんです!
今の自分が良いとか悪いとか、どうでもよくて、今まで辛かったり怒ったり笑ったりしていた全てのことがあったから今の自分がある、何か一つでも違ったらこうなっていない。ということにただ感動しました。

前は色んなことを恨んでいた、何しても満足できなかったのに、自分にもこんな美しい感情が自然に湧いてきたことが本当に嬉しかったです!

そして、今までの自分にとってマイナスに思っていたことを恐れる気持ちがなくなりました。例えば、他人に批判されること、笑われることや、自分の無力さを実感すること、自意識過剰な自分を垣間見ること、など。全て、恐れることじゃない、正面からぶつかればいいんだ、むしろそれが楽しいんだ!って心から思いました。

また、失うことも怖くなくなりました。失わないとわからない価値があることに気づいたし、失った分だけ、今の自分が持っているものを幸せに思えることに気づいたからです。それは、今自分がオーストラリアにいて、色んな場所を転々としてみたから気づけました。私は日本で、恵まれていたんだ、そして今も恵まれているんだ、と。刻一刻と失っていくけどそれ含めて愛おしいのだと。この感覚は私の一生の宝物になると確信しています。

まだラウンドにでて1ヶ月もたっていないし、これからパースへ飛ぶ所ですが、もういつ日本へ帰ってもいいと思ってます。むしろ日本でどつき回されヒイヒイ言うのが楽しみなくらいです。

この感覚を得られたのは絶対に旅に出たお陰なので、あのとき日本に帰らなくて、良かった!!と思っています!あのとき私を焚きつけてくださりありがとうございました。

返信
長文ありがとうございます
いやあいい文章だなあ。

確かにブレイクしましたよね。一皮むけたというか、次の次元に行けたと言うか、これがあるからラウンドはいいのですよね(ラウンドに限らないけど)

全部意味があったんだ、、というか、全てについて自分で意味付けできる、全てのことを自分で抱きしめられる、あるがままに捉えるというのはそういうことだと
ねー「記号」じゃないでしょう?
交換価値でも使用価値でもない、存在価値、という。そこにあるというだけで、すでに尊いという。

それが多分、本当の自信だと思います。
背伸びしなくても、飾らなくても、虚勢を張らなくても、素のままの自分で十分なのだ、それでやっていけるのだ、世界と交感していけるって

いやあ、素晴らしいです
でも、もっともっと先があるので楽しみにしててねー

自分がそうなると、また周囲の見え方も変わってくるし、これまで気づかなかった美しさや素晴らしさにも気づくようになりますしね


ステキなお返事ありがとつございます!これを読んで、私はまた泣きました。笑


恨んでいた、つらかった過去ごと抱きしめられる自分になれると思ってなかったです。期待以上のものを得られました〜!それは色んな意味で深呼吸できたからで、ワーホリに来たこと、シドニーに行ったこと、ラウンドに行ったこと、全て無くてはならないことでした。

前に自己肯定感の低さについて少しだけ相談させていただいたと思いますが、その、多分最大の原因として、子供の頃に鬱やノイローゼの方に接したことがあり、それによる人生に対する恐れがあると思います。大人になるにつれ少しずつ、その恐怖感と向き合ってきましたが、今は、その経験含めての今の自分だ、この自分が好きだ、なれてよかった、と思います

昔、認知症かつ鬱病の方の日記をふとしたことから読んだことがありました。そこには、とにかく人に馬鹿にされたくない、人に馬鹿にされるのがくやしい、と言う意味の言葉が毎日のように書いてありました。おそらくその方が元気だった頃は、プライドを保つために、自分をだましだまし生きていたのかなと思いました。
それを読んだ当時はただただ気が滅入りましたけど、今は、私なら、人の目は確かに怖いけど、仮に指さされたとしてもそれはそれで…という覚悟で、怖さにブルブル震えながらでも泣きながらでも、自分の本当に求めていることをしていきたいと思います。人の目を気にしてがんじがらめで動けない人たち(そうである自分にすら気づいていない)、もはや感覚が壊れていて、何を言われてもガン無視で人生を踊り狂ってるような人たち、日本には色々な人たちがいると思います。でも、特殊で排他的だからこそ、刺激的で面白いステージでもあるんだろうなと外から見ている今は思えたり。和は大事だけど、何よりも、後から考えたときに、やりきったじゃないか自分…!って言える自分でありたいと思います!

これからも色々あると思いますが、今の気持ちを忘れずにいきたいです。
長文失礼しました^_^

パース

ブルームからパースまでの飛行機から撮ったもの

パースでは、ゴールドコースト時代の大好きな女友達と再会して遊んだり、気ままに街を歩いたりした。ブルームの夜以来、過去の出来事をすべて受け入れられた気がして、安心したおかげか、子供としての自分の感覚をさらに深めて行った。どうして好きな作曲家の作る曲はこんなに心地いいのだろうと疑問に思い、彼独特のリズム感について調べていくと、自分もまた、リズムを刻みたい、歌を歌いたいし、ドラムもやってみたい、ベースももう一度弾きたい、ダンスもしてみたい。という気持ちが湧いてきた。

ゴールドコーストで出会った女友達
振り返ってみると、自分の人生は、思ったより音楽と共にあったと気づいた。
ブルームでもひたすら音楽を聴いていたが、過去、剣道部だった時は一生懸命やりつつもどこかハマりきれず、新体操部だった時と軽音サークルにいた時は熱中した。元々、音楽やリズムに関わってるとイキイキする人間なのだろう。習い事も、小学生の頃ちらっとやっていたタップダンスが一番楽しかった。

もしかしたら、会社員の時は音楽に関わる活動をする暇がなかったのも、ストレスが溜まった原因の一つかもしれない。自分は何に幸せを感じるのか、未知に答えを求めていたけれど、灯台下暗しで、これまでの歩みに答えを見つけられた気がした。日本へ帰ったら、趣味で音楽をやろうと思い、音楽サークル時代の旧友に連絡をしたら、また一緒に演奏をしよう!と会話が盛り上がり、帰国後の楽しみが増えた。


パースのバッパーで、ある日、シャワーを浴びている間、何者かに布団と枕を盗まれた。探しても、誰が盗んだのかはわからなかったが…。その日、私はこんな日記を書いた。

『自分が遠慮すれば…自分さえ我慢すれば丸く収まる…という感じのことは、もう金輪際無くす。あんた、もういいじゃないの、やり返したりなんかして人に恨まれる方が損よ。と、誰かが言ってきたとする。そうしたら私は、例えば、天皇の布団が身近で盗まれていたら、あなたは天皇に我慢しとけなんて言わないよね?私は天皇と同じくらい自分を尊重してるんです!と今は言うだろう。もしも嫌なことをされた時はスッキリするまで徹底的に反撃したいと今は思う。自分をないがしろにしてしまったら、他人のこともないがしろにしてしまうではないか。そしてないがしろにされずに大事にされている人に嫉妬してしまうではないか。そんなダサい奴にはなりたくない。私に危害を加える奴とは戦う。』

こんな尖った中学生みたいな考え方は自由な身の今だからこそ成り立つのかもしれない。だが、私は、この日記を書けたことに満足していた。

多分私は、自分の中に、主観と客観を確立できてきていると思う。客観が見守っていてくれるから、主観のことを、いるだけで価値のあるただ一人の人間として捉えられ、守ってあげられる。そのおかげで、今私は、以前あんなに欲しかった自己肯定感を、持っているように思う。

パース初日に撮ったバンパイア城みたいでカッコ良かった建物

パースに来て数日、私は、次の自分の一手をどうするか、決めあぐねていた。そのときの自分の迷いを、日本にいる仲間に公開している日記にこのように書いた。

日本に帰りどきなのかなと、昨日の夜から強めに思っている。まだビザは3ヶ月残っているからもったいないけど、お金は無限ではなく、いるんだったらもう仕事を探して働き始めないと。ここでまた短期の仕事をする、ちゃんとした住まいに移動するなどのことを想像した時、それは貴重な時間になるだろうけど、今はなぜか乗り気にならない。昨日、あ、もう帰っても大丈夫だ、やるだけやったし得るものは得られたな、と感じた瞬間が確かにあった。(今日になってまた迷っているけど…)わたしは日本が好き。もちろんオーストラリアも大好きだし、オーストラリアで得た信じられないくらいの宝物を忘れてしまうことが不安でしかたない。だけど、オーストラリアにとどまったところで忘れない確証が得られるわけではない。それよりも、怖いけどやりたいことに突っ込んでいきたい気が、する。不安不安って言ってても、最終的に向かっていくしかないから。でも、やはり迷う…


すると仲間のうちの一人から、こんな言葉たちが送られてきた。

完全に私の偏見による理論なんですけど、 思い出や言葉は忘れたり抜けていったりすることがあるものかもしれないけれど、
経験は良くも悪くも忘れないものだと思っている。例え忘れたとしても覚えてるものだと思う。
一度乗れるようになった自転車は乗れなくならないっていうのもそうだし、
もし、自転車を無くしたり、乗り方を忘れてしまったりしたとしても、自転車に乗れたという経験は消えない。

それに、宝物の類は忘れて再び思い出すときにこそ、さらに美しく磨かれたりする。(きっと経験があれば思い出せる)
忘れることは、出会いの感動のおかわりでもあるので、まるっきり悪いものっていうわけでもない…といったことを思いました。

この仲間からの言葉たちには、確かにそうかも、素敵な考え方だ!言葉選びセンスあるなあ。と、かなり感動した。そして、自分でももう一度よく考えた末に、数日後に日本へ帰国することを決めた。そのときの田村さんとのメッセージやり取りは以下の通り。

(以下メッセージ。)
田村さんこんにちは!

28日をもって、日本に帰ることにしました。
ひととおり行ってみたい場所に行きおわり、
さあ、パースで短期間でできる仕事を探して働こうか、それともお金が完全に尽きるまでまた動いてみようか、など色々考えましたが、どうもワクワクせず
今の私にとっては、オーストラリアは自分に優しい国で、日本に帰るほうが未知であり恐怖で、そんな場所で自分がどうしていくのか、早く見たくなってしまいました

オーストラリアで得たものを、形を変えながらでも、日本でも持ち続けていられたら本物だし、そんな自分、かっこよすぎて想像するだけで興奮してくるので、目指したいです。後で、あと3ヶ月あったのになんで帰ったんだバカな私!って泣くかもしれないけど、今の私が今帰りたいって言ってるんだったらそれを叶えてあげたいです

帰った上で、やっぱりオーストラリアだっ!と思ったら、また学生ビザで戻ってきますし、違う国だ!となったならそれを目指します、シェア探しのように動きながら考えます

今は、日本にいる旧友と音楽をやるのを想像するとひたすらワクワクします。
ラウンド中に、自分の人生は思ったよりずっと音楽と共にあったし、リズムを刻んでさえいればイキイキする人間なんだということを自覚し、旧友に連絡を取ったところ、また一緒に演奏しようぜ!と盛り上がりました。子供が砂場で遊ぶように、ただこれがやりたい!って心の底から思えるものに向かっていきたいです

本当にaplacに出会えて良かったです。人生の宝です。ずっとずっとこれからも私の支えとなるでしょう。ありがとうございました。


返信
おー、帰りますか
それもまたアリですよね
航平君が帰った時に似てる感じがしますね。
「新しい自分をすぐに日本にぶつけてみたい」って感じで、「ラウンド先がたまたま日本だった」みたいな感じ。

多分ガラッとかわった人生になると思います
やってることは同じようなことであったとしても(それもかなり変わると思うけど)、物事の受け止め方、見え方、そして明日への考え方、進み方が全然違ってくるでしょう

まあ、違うというより、本来の自分に「戻る」んですけどね。もともと私はこういう人間だったんだってこと。「地に足がついた」というのはそういうことを言うのだと思います。
また、自分でない自分になろうとしててもしんどいだけですしねー。
頑張ってください〜

ところで、帰るまでの間に、これまでのことを簡単に体験談にして書いてみませんか。載せますよ。このメッセンジャーのコピペだけでもかなりいけるとは思うけど。
最初に会うまで、一通りやってきたけど、なんでイマイチだったのか、そしてそのあとシェア探しをやり始め、バイト探しをやっていくうちに一皮むけ、さらにラウンドをしているうちにふた皮むけ、、ってその心理の展開がすごく皆の参考になると思います

本当に田村さんのいう通りで、オーストラリアへ発つときはあんなに嫌気が差していたのに、次のラウンド先に選ぶくらい、私は日本を好きなんだ、と気づけたことも嬉しかった。


フリーマントルにて

パースを飛び立つ前日、私は一人ロットネスト島に居た。パースにいるうちに、クォッカを見ておきたかったのだ。クォッカは、食べ物をくれると思ってるのだろうが、芝生で休んでいるだけで、向こうから近づいてきてくれて可愛かった。
今まで見た中で一番透明な海の水を見ていると、私はこんなに美しい国をもうすぐ離れてしまうんだな、と思った。
もう来ることは無いかもなという自覚があるからこそ、余計に島はきらめいて見えた。
オーストラリアでの一番新鮮な思い出になる最後の観光に、水晶みたいなこの海を選べてラッキー。そう思った。

ロットネスト島



まとめ

オーストラリアで私が得たものは沢山ある。

すてきな友達、
強くて優しい大人の方々の生き様を見られたこと、
Aplacとの出会い、
礼を尽くすと誰よりも自分が気持ちいいという気づき、
能書きはいいからやる!という行動力、
いくばくかの英語力…。

でも一番の収穫は、「あなたはオーストラリアで、それっぽっちのことしか得られなかったの?たいして成長してないんじゃない?」と不安げに言ってくる過去の自分に対して、気の抜けた顔で「あ、そうでーす☆」と言える自分が、今はいてくれる事。

たとえ得たものが何もなくたって、私は最初から大丈夫で、愛すべき存在だったんだから。
そういう枠の中で視界を曇らせてないで、こんな自分。潔い!カッコいい!とニヤニヤしちゃう道を選びたい。
強がらなくていい。怖くても、怯えて腰が引けてても、泣きながらでも、目を塞がずに、そのまんまの自分で、現実に立ち向かっていけばいい。

子供の自分が、純粋に、ただこれをやりたい!って思うことを大切に、生きていきたい。そんな自分を、誰よりももう一人の自分が見守ってくれているから。

日本帰国直前、シドニー空港にて


肩に力が入りすぎている気がしないでもないが、今の私を一言で表すとしたらそれは「気合」。

あんなに伸び伸びしたオーストラリアで自由になれたのは、ある意味、当たり前。でも私はこれから、取り戻したフリーダム子供精神を保持する難易度は格段に難しいであろう日本というステージで、それにチャレンジしようとしてるのだ。

なんか、今の時点では、それがカッコイイことに思えてるのだ。あえて日本で、やってやろうぜ!という。

あぁ、あの檻みたいな島国の中でだって、自分らしくブチかましてってやろうじゃねぇか。軟弱な色には染まらねえぜ、見てろよな。と、オーストラリアでできた相棒・自分とともに、内緒の特攻作戦をくわだてている感覚だ(どんだけ力入ってんの?)。自分の中の漢が目を覚ました気分である。


日本帰国約2週間後、東京にて


オーストラリアにいたころは思いもよらなかった展開により、今新宿に住んでいます。

パースで、帰国後はドラムをやりたいと思い立って、ビジネスとして人にドラムを教えていた大学音楽サークル時代の友達に連絡してみると、私が大阪に着く日に、彼もちょうど大阪にいるとのことだったので、落ちあって昼間から飲みに行きました。

そこで会話が盛り上がり、ちょうどGW中で彼の仕事がしばらく休みなので、彼の実家のある石川でおいしいお寿司を食べようぜ!ということになり、二人で新幹線で向かいました。

もともと彼には好感を持っていましたが、深く話していくうちに、彼も長期の海外経験があったり、社会のレールから外れて一人暗闇でじっとしていたような時期があったりして、
価値観がかなり合うな〜、この人いいかも、、、と思っていたら、告白していただき、付き合うことになりました。


そこで、石川から一旦愛知の実家に帰り、数日前、荷物をまとめて東京の彼の部屋に移ってきました。
彼の新人研修が終わると大阪勤務になるので、東京生活もたったの2か月限定、その後自分がどこにいるかは未定です。
多分、私の就活の進行具合で決まると思います。
日本にいても、ラウンドのような未来不確定状態で生活できていて、現状楽しいです。

久々の日本の感想はというと、最高です。
お風呂、食べ物、繊細な自然、ほどよい湿気、、、私、住環境は圧倒的に日本派です。
でもやっぱり、電車に乗ってる人たちを眺めてると、みんな暗い顔してるよなー、なにが楽しいんだろうなーって思ったりします。

とりあえず、帰国してからまだ社会にもまれてない私は、あっけらかんと日本を楽しむ外国人のような状態。
久々の新宿にニヤニヤして一人で歩き回っています。
でも、明日から就活を本格開始しようと考えてるので、どうなることやら。
シェア探しのように、数打ちまくって、動きまくって、やってみたいと思います。

最後になりますが、私がオーストラリアワーホリに行ってよかった!100%よかった!
と晴れ晴れしていられるのは、完全にAplacのおかげです。
9か月のワーホリは楽じゃなかったけどとんでもなく楽しかったです。
田村さん、木暮さん。ありがとうございました。
この気持ちを忘れたくないので、日本でのオフ会などがあればぜひ私を呼んでいただけたら嬉しいです。
今後、たくさんのアプラッカーさんたちと会えますように!


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