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2014年05月06日


ワーホリ体験記 R.Oさん

 2011年08月渡豪〜2013年07月帰国


ワーキングホリデーの目的


 日本にいるときは、図書館で働きながら、法律系の資格試験の勉強をしていました。六年近く勉強していたのですがなかなか合格できず、苦しんでいました。

 気がつけば30歳になっていて31歳になるとビザが取れなくなり長期で海外に滞在する機会がなくなってしまうので渡豪を決意しました。その目的は、長い間一点を見つめていたこともあり、視野を広げるために多くの人に会ってなるべくたくさんの考え方に触れるということもありますが、主目的は日本とオーストラリアを比較することにより、日本及び日本人を理解することにありました。

 学生の頃に、授業の中で財務省や厚生労働省の役人の財政状況についての説明を聞きました。その再建方法の具体的プランの中で経済成長率3%を前提に財政状況を論じていて、この人はどこか架空の国について論じているのではなかろうか、と思った記憶があります。財務省にはこの問題を解決する能力はありません。

 マクロ的な視点で言えば今現在、一般会計1100兆円の赤字を抱えている日本の財政や社会保障の破綻は確実です。この危機が誰の目にもわかるように可視化されたときに個々人が対策をとろうとしてももうその時には遅い、だとすれば自分はどうすべきか、ということの答えを探すということが、20代前半からのテーマでもあります。学生の頃に年金の系譜をたどっていって驚いたのですが、5年ごとに負担率をあげ給付率を下げるというような変更を行っていました、5年に一度「百年安心プラン」の変更をしているのです。要するにこれが為政者の意思であり、5年たてば国民は忘れているだろうと高をくくっているのだと思います。

 ただ、この崩壊のメカニズムは、政治家や役人が悪いといった類の話では、おそらく、ないのだろうということだけはわかります。それは対米開戦を軍部独走といって軍部のせいにするのと同じで、それが嘘であることと根を一つにすると思います。市井のそのへんにいる普通の人達が、教育勅語をとなえ、時に他人を非国民よばわりし、精神主義を唱え戦争礼賛していたのと同じように、現代でもあらゆる業界の人々がこの利権構造のなかで利権を手放せないがために生じている現象だと思うからです。その利権構造は、悪い顔をしていない、一見利権とわからない顔をしているもので、むしろ深く文化に根ざしているので避けられないのではないかと思いました。それは、例えば、「社会人」という英語では定義できない言葉とも関係があるのだと思います。日本語を離れる必要があると思いました。

 この崩壊がどういうメカニズムで生じるのか、そのヒントが海外にあるのではないだろうか、と考えたことも渡豪の理由です。

 そうして、その時代のなかで自分はどう生きたらいいのか、日本帰国後もずっと考え続けているテーマです。

2011年08月〜12月 シェア探し、職探し、語学学校

シェア探し

シェア先

 ここで学んだことは、「考える前に行動しろ」っていうことです。

 人にはそれぞれの思考や行動の癖のようなものがあると思うのですが、僕の場合、行動する前にあれこれ考えてしまって、行動ができなくなることがそれまでの人生で多々ありました。動きながら、時々立ち止まり考える、必要があれば方向転換する、また動く。常に先に行動することの大切さがよくわかりました。これは、この先の職探しにもつながって行きます。

 ネットからはシェア先の住人の性格や雰囲気は決して伝わってこない、考えてみればあたりまえですよね。

 田村さんに教えてもらったとおり実行し30件位見てまわり、Dulwich Hill にあるシェアハウスに決めました。

 個室で160ドルと格安だったこともありますが、シェアメイトを見て決めました。イラン出身の彼は自分と年齢が近くて落ち着いた雰囲気、会計士という専門職に従事していることがなんとなく自分と合いそうだなと思ったからです。

 滞在中、彼とは一度だけお金のことで話し合いました。入居する際には、電気料金一日一ドルという取り決めだったのですが、途中から電気料金折半と主張しはじめたからです。話し合いを通じ電気料金の約三分の一を払うということで合意しました。そのシェアハウスにはシドニーを出るまで四ヶ月滞在しました。

職探し

シェアハウスに住み始めたときに、所持金は1000ドルくらいだったので、すぐに仕事を見つける必要がありました。ローカルで働きたかったのですが、仕事を選んでいられる状況ではなかったので、すぐにレジュメを配り始めニュータウンの日本食レストランで働き始めました。時給は10ドルでした。しかし、皿洗いをはじめ仕事が遅いという理由によりそこは一週間でクビになりました。この時点でクビになってもたいしたことがないってことがわかってよかったです。

クビになった次の日に、ニュータウンにある別の二つの日本食レストランで働き始めました。しかし、ボンダイビーチにあるローカルレストランから声がかかったので、日本食レストランは二つとも一週間でやめてローカルレストランで働き始めました。そのローカルレストランのトップシェフは日本人だったので、たまたま履歴書をみたシェフから声がかかったのでした。かなり大きなレストランでしたが、だめもとでレジュメ配っといて正解でした。時給は平日16ドル土日24ドル。

そこでは深夜まで働き、バスで自宅に帰ると2amをすぎていました。学校との両立は無理だとわかったのでそこも二日で辞めました。ローカルレストランを辞めた後、一週間か二週間くらい何もせずぼーとしていたら、所持金が400ドルをきってしまいました。仕事を探し始めましたが、そのときはローカルでも日本食レストランでもどちらでもよくなっていましたので、Randwick にある日本食レストランで働き始めました。給料日前レントを払ったら全財産90ドルくらいまで減っていましたがなんとかなりました。時給は12ドルでしたがチップは毎回もらえました。9月の下旬から12月の上旬までそこで働きました。

シドニー滞在中ローカルで仕事をするためにレジュメを50枚以上は配ったと思います。
ライカートのイタリア人街のレストランでは、スターター(前菜)の意味がわからず、Get out!!と怒鳴られ追い返されたりしましたが、罵倒されてなんぼだと思います。下手な鉄砲数うちゃ当たる方式といいますか、数をこなせばあたる確率は高まるのでシェア探しと同じように仕事探しにおいても「考えるまえに行動する」姿勢が大切だと思います。


語学学校

Pre intermediate から始まって、最終的にUpper intermediate で終わりました。正直、当初はPre intermediate から始まったことに不満を持っていましたが、簡単な会話の意味を正確に理解できていなかった部分もあったと思うのでむしろpreから始まってよかったと思います。金欠により、毎日のように働いておりましたので、疲れが残った状態で毎回授業に出ていました。今度は、精神と時の部屋に入ったように勉強だけしてみたいです。


12月〜4月 Tasmania(ウーフ)

学校が終わってその二日後にSydneyからTasmaniaに移動しました。最初のウーフ先はLAUNCESTON郊外にある一軒家でした。ホストはリタイアした夫婦で二人とも元学校の教師。夫の方はたまに今でも臨時で地元の高校で教えているようでした。

そこでは、一軒家の地下室をつくる大工のお手伝いをしました。 肉体労働で結構きつかったです。再利用するために古い板を電動のやすりにかけていたのですが、来る日も来る日も電動やすりにかけ続けていたらある日、右手の薬指がバネ指になってしまいました。

クリスマスに夫婦の友達を呼んで一緒にご飯を食べたのですが、この友人がアジア人に対してよい感情を持ってないないらしく、私に対して差別的な発言を結構していたみたいですが、ホストがそれに対して「He is racist!!」と怒り、場の空気が変わった、というような一場面があったのが印象に残っています。

 その次のウーフ先は、Derolaineから車で30分くらい行った山奥にある家で周りには誰も住んでいないようなところにありました。

 このウーフ先はいろんな意味で印象的でした。
 まず、水洗トイレがないのでバケツに用を足すこと、ストーブがないので薪をくべて火をおこし暖房とし、お風呂の湯もそのようにして温め供給すること。
 家は手作り、水は山からホースで家まで引っ張ってきているし、電力は近くの小川を利用して水力発電。

 なによりもホストのジョンが面白くて個性的でした。
 「お金が大嫌い、家は自分で作った、タスマニアの自然を壊す外来種植物は許さない」などなどその発言からもおもしろさがわかると思います。

 そこでは、ヨーロッパからの外来種植物を刈り取り、川から砂利をとってきてセメントを作り新しく作る倉庫の土台を作ったりして過ごしました。


そして三件目が日本好きのティムの家です。
 前述のジョンとティムは知り合いでジョンに取り次いでもらってティムの家に移動してきました。ここもDerolaineから車で20分ぐらいのところにあります。

 ここには、ブルーベリー、ラズベリー、にんじん等、野菜や果物があり、牛などの家畜がいました。

 野菜、鶏肉、牛乳を自分の畑、牧場でまかない、パンやチーズ、ビールは手作りという具合に、自給自足に近い生活を営んでいました。三件目にしてようやくちゃんとしたファームに到着したと思いました。

 ここでの生活は、平日はブルーベリーなどのフルーツのピッキングをし、週末は市場でパッキングしたフルーツを販売して過ごしました。

 朝起きて、自然食品を食べ、ブルーベリーをつまみ食いしながらピッキングして、仕事が終わったらシャワーのお湯を薪でわかし手作りのビールを飲んでご飯を食べて、おしゃべりして疲れたら眠る。この毎日の繰り返しがものすごく気持ちがよかったです。

 ジョン、ティムが好きなことをやれているのは政府からの支援があるというのも一側面としてあるのかもしれませんが、やはりその意思によるところが大きいのではないかと思います。自分で家を立てたり、オーガニック野菜や果物で生計を立てるのは強い意思なしにはできないと思います。

 ここに、約二ヶ月滞在しその後ジョンの家に戻り一週間ぐらい滞在しセカンドビザ取得通知メールを移民局から受け取ったのを確認してDarwinに飛びました。


2013年5月〜6月
 Darwin


 Sydneyを出るときにあったお金はDarwinについた頃には、500ドル近くまで減っていました。
 デポジットと一週間分のレント130ドルを払うと、300ドルきってしまいました。

 尻に火がついた状態だったので、レジュメを50枚以上印刷し、着いた翌日から2、3日かけて宿から歩いていける距離のところはすべてレジュメを配りました。

 万が一、仕事を見つけることができなかった場合のことを考えて、Darwin近郊のwwoofを検討しましたが、運よくベトナムレストランから仕事をもらうことができました。

 「やるだけのことはやった。ああ、ホームレスか、いよいよ」と寝床を探しながら浜辺をうろついている時に一本の電話が鳴り、それがベトナムレストランからでした。

 仕事を探しているときに、日本食レストランからただでお寿司をもらいそれが美味しかったことが記憶に残っています。

 その後、ベトナムレスランのホールで二ヶ月働きました。

 そのベトナムレストランは家族経営で、もともと難民として、オーストラリアにやってきた人たちでした。マネージャーの「誰も私たち家族を助けてくれなかった」「勉強をしようと思ったときにはもう遅かった」という言葉が印象に残っています。オーナーと話をしたときに、今まで日本で法律の勉強をしてきたことを伝えたところ、「一点だけを見つめていてはだめだ、もっと視野を広げなさい」といわれたことも印象に残っています。 


 その後、3000ドル貯めてから、Karrathaに向かって出発しました。元々Tasmaniaにいた頃に、永住権取得のためにオーストラリアの大学院に進学したいと漠然と考えていました。その頃、Karrathaには鉱山があるから稼げるという情報を聞いていたので、学費を稼ぐためにKarrathaに行く計画を立てていました。

 しかし、Darwinにいる頃に大学院進学の気持ちもだいぶ薄らいでいました。大学院を出たからといって昔のように永住権取得にはつながらないということがわかってきたからです。

 しかし、とりあえず当初の計画通りKarrathaに向かい途中で気に入ったところがあったらそこに滞在すればよいという気持ちで西に向かいました。

6月〜12月 Broome



 一定期間中乗り放題のバスのパスをグレイハウンドで買っていたので、途中下車のつもりでブルームに寄ったのですが、着いた翌日レジュメを配ってみたところタイレストランの仕事を、二日目にIGA supermarket の仕事をゲットすることができたので、そのままそこに滞在することにしました。

 ダーウィンにいるときは、レジュメを60枚近く配って一件からしか仕事をもらえなかったのに不思議なものです。

 かけもちで働いてもよかったのですが、レストランの方は断ってIGAで仕事を始めました。
 マネージャーからは採用通知のときにフルタイムのポジションをあげるといわれていたので期待していたのですが、パートタイム契約でした。時給は19ドル。その二週間後、Colesからも誘いがあったのですが、馬鹿正直にIGAで働いていると伝えたところ、ライバル企業の社員を雇うことはできないといわれてしまいました。



 仕事を通じて感じたことは、自分の英語力が全然足りていないってことです。
 簡単なレジの仕事さえできない(英語が聞き取れない)ことがよくわかりました。例えば、具体的に言うとタバコの銘柄が聞き取れませんでした。

 でもあまりレジに立つことはなく裏方の仕事が多かったのでなんとか六ヶ月続けられました。自分の気がつかないところで周りの人たちがフォローしてくれていた面もあったと思います。

 残った理由は仕事だけではなく、Broomeは熱帯の自然と町が調和していて非常に気持ちよく感じられたことと、他の地域に比べて人々もアジア、コケージアン、アボリジニとほどよく混じりあって共生しているように見えたからです。(あくまで、他の地域と比べて、ですが。居住地が分かれているといえば分かれていますから。)

 ここで何ヶ月か過ごすうちに大学院進学はもうどうでも良くなっていました。

 なので、お金を必死に貯める必要も感じなかったので、朝方から昼過ぎまで仕事をして、その後はジョギングをしたりスポーツジムで水泳をしたりして毎日を過ごしていました。

 台湾人や韓国人のシェアメイトは週1000ドル以上稼いでいました。
 そのうち、お金がたまったのでスクーターを買い、最終的には車を同僚から買いました。

 さすがに6ヶ月滞在していると飽きてきたので12月に車でブルームをたち西へ向かいました。目的はありません。西へ行くのみです。

2012年12月〜2013年2月下旬
Broom - Port Headland - Karijini 〜Exmouth〜Coral Bay〜Carnarvon


 12月22日にBroomeを出発しました。当初は2週間くらいの旅を想定していましたが、途中車の故障などがありBroomeからPerthまで結局二ヶ月以上かかってしまいました。



 Port Headlandに向かう途中右前輪のタイヤがバーストしました。
 砂漠の中、呆然としていると一台の車が止まり、フランス人カップルが交換を手伝ってくれました。

 旅を始めてまだ五時間たらずでタイヤがパンクしたのでなんて自分は不運なのだろうと軽く考えていました。
 この時にはタイヤに問題があるのではなくアライメントに問題があるということには全く気がついていませんでした。

 その後、何とかPort Headlandまで到着し、長期労働者用のキャラバンパークに行き事情を説明したところ、その日一日は無料で車をとめさせてもらえる事になりました。

 翌日そこで知り合ったおじさんに昼間からバーでビールを奢ってもらい、町を案内してもらいました。

 その日は別のキャラバンに宿泊し、翌々日前輪のタイヤ二つを交換して、Port Headlandを後にしました。

草原プチ遭難事件

 Port Headlandから、Karijini国立公園に向かったのですが、あまりに広大でどこからどこまでが国立公園かよくわからなかったので、その日はひとまず給油に寄ったTom priceという小さな町の近くのキャラバンパークに泊まりました。ここは格安で一人一泊10ドルでした。

Tom priceのキャラバンパーク

 翌日受付で地図をもらい、周辺地理のレクチャーを受けて、Karijini国立公園へ向かいました。
 その後、数日Tom priceに滞在していたので数回行ったのですが、一度遭難しかかりました。

 見渡す限り草原で、人が一人もいないところで、どこから来てどこに行けばよいのかわからなくなるというのは本当におそろしかったです。運よく道路を発見することができましたが、助かったと思いました。

 後でBPの店員に聞いたところによると、毎年遭難したり、崖から落ちたりして数十人亡くなっているそうです。

年末年始の踏んだり蹴ったりタイヤ事件

 遭難しかけて、なんとか戻ってくると今度は後輪のタイヤがパンクしているのを発見しました。

 翌日、Tom priceでたまたま知り合ったスイス人のカップルもタイヤがパンクしたらしく、年末で閉まっている車の修理屋に電話して臨時で店を開けてもらいパンクを直しに行くと言っていたので、彼らに付いていって一緒に直してもらいました。

 修理が終わったあとスイス人のカップルと一緒に町を出たのですが、今度は前輪の調子が悪いということに気がつき、途中彼らと別れ、またTom priceに引き返し、再び修理屋に行きタイヤを修理してもらいました。それから、二日後、ようやくTom priceを出発し、Coral bayに向かいました。


 Coral Bayで一泊し、Tom priceで知り合ったドイツ人の女の子からExmouthにいるという連絡を受け、Exmouthに向かいます。その途中、また前輪の片方のタイヤがパンクしました。スペアのタイヤに替え何とかExmouthに到着しました。それが12月30日です。

 着いてすぐにタイヤパワーに行きこれまでの事情を説明したところ、ホイールアライメントが必要で、それをしないと根本的に何回タイヤを替えてもだめだということがわかりました。日本で車に乗っていなかったことが災いしました。アライメントのことなんか全然思いもよりませんでした。ちゃんとインスペクションしてから車は買うべきだったと猛烈に後悔しました。そして、Exmouthでアライメントができる場所は一つしかなくて年末は休みで1月2日まで待たなくてはならないということがわかりました。

 仕方がなく、1月2日までキャラバンに泊まり、アライメントができると聞いていた修理屋にいってみたところ、「ここにはアライメントができる設備はない、Carnarvonに行かないとだめだ。」と言われてしまったので、仕方がなくExmouthを後にして、Carnarvonに向かいました。

 しかし、Exmouthを出発して一時間しないうちに警察にとめられて、車の横ぶれを指摘されExmouthまでレッカー移動を余儀なくされました。警察にはこれまでの事情、Exmouthではアライメントの修理ができないこと、新品のスペアのタイヤと前輪を取り替えれば車の横ぶれは抑えることができるし、カナーボンまでは安全に運転できることを説明したのですが、聞く耳を持ちませんでした。自分はパトカーに乗りExmouthまで引き戻され、車はレッカー移動でExmouthまで戻ってきました。おまけに200ドル近く払わされました。踏んだり蹴ったりとはこのことです。

 パトカーに乗っている間、警察に「車を誰か引き取ってくれないか、捨ててしまいたい」というような泣き言を言っていた記憶があるので相当追い詰められた精神状態だったとおもいます。出発したときに、4000ドル近くあった資金もあっという間に減っていって資金的に旅を続けられるか自分の中で迷いが生じてきていました。

 結局、新品のスペアのタイヤと取り替えて警察からゴーサインが出ました。「だから言ったでしょうが」と心の中で毒づきながら出発しました。

 1月3日、Exmouthから再びCoral Bay に向かい、Coral Bay で一泊しBroomeで知り合ったポーランド人のルーカスを乗せCarnarvonに向かいました。Exmouthに滞在しているときにルーカスから連絡が来てお互い偶然近いところにいることがわかったのでCoral Bay で合流することになっていたからです。

 Coral Bay とExmouthの写真を載せたいのですが、その頃の写真は残っていませんでした。相当必死だったのだと思います。
Coral Bay で拾ったルーカスにとってもらった写真で、カナーボンに向かっている途中

2013年1月〜2013年3月
 Carnarvon

 ようやくCarnarvonに到着し、ホイールアライメントをしてもらいにタイヤパワーにいったのですが、設備があいにく壊れていて、修理できない、設備が直るのは早くて一週間後だと告げられてしまいました。

 その瞬間、旅をここで一度中止することを決断しました。

 そのタイヤパワーの店員に知り合いのファームで雇ってくれそうなところをおしえてもらい、ルーカスと行ってみましたが、仕事はないということでした。

 手当たり次第ウーフ先に連絡をとり、そのうちの一件から承諾が取れたので、私はその週の日曜日からウーフをすることにしました。キャラバンで一泊し、次の日の朝、ルーカスをバス停まで送っていって別れました。ウーフまで中一日あいていたので目に着いたお店、ファームにかたっぱしからレジュメを配り歩き、ウーフ期間中にどこかから連絡が来るのを待ちました。

 ウーフ先はバナナ・マンゴー農家でイタリア系移民のマイクとフィリピン人のニッキー夫婦(?)の営んでいる農場でした。バナナのピッキングは初めてだったのですがかなり重くて、きつかったのを覚えています。ここには2週間滞在しました。

 私以外に台湾人のウーファーが四人いたのですが、そのうちの一人が既に二ヶ月以上滞在していて他の台湾人が英語をほとんど話せないのに乗じて、自分のやりたくないきついポジションを他の台湾人に押し付けているようにみえました。

 マイクとニッキーがバナナを売りにPerthへ行き一週間家を不在にするとき、ニッキーに各人に仕事の割振り等をするよう自分が頼まれていたので、なるべくフェアーな形で割り振ったと思うのですが、新参者の自分が色々決めていくのはその一人にはおもしろくなかったようで、結果、台湾人達は仲間割れ、その一人を孤立させてしまいました。

 もう少し上手くやれたのかもしれないと悔やまれます。こちらが正義である、と顔に出ているようなやつの言うことは聞きたくないのが人情だと思います。感情は論理に勝るということかもしれません。

 ウーフをはじめて一週間が経過したころに、Carnarvonに着いた頃にレジュメを配った中華料理屋から仕事のオファーがあったので、ウーフを2週間で切り上げました。

 Gum Treeで見つけたシェアハウスに連絡をとりましたが、部屋は埋まっているということだったのですが、ならば駐車場とシャワー、トイレを週50ドルで貸してくれよう交渉して、そちらに移り中華料理屋で働き始めました。

 Carnarvonの暑さと蚊に悩まされ、車の中では熟睡できずかなりきつかったのを覚えています。

 中華料理屋では、コーヒーを作っていたのですが、あまりに仕事が遅いのとオーナーがマネージャーに人を減らすよう圧力をかけるので、週末だけ仕事することになってしまいました。

 中国人マネージャーのケビンには最初の研修一週間終了時点でこの仕事は向いていない、今週働いた分は無給でいいから辞めさせてくれるよう頼んだのですが、「仕事はできないけど、お前は正直でいいやつだから、雇い続けたい、土日だけきてくれ」と頼まれてしまい、仕方なく土日だけ続けることにしました。

 土日なので時給は25ドル。平日仕事をする必要があったので最初の頃にタイヤパワーに紹介された、農家に再度行ってみたところ仕事をくれることになったので、平日は農作業、週末は中華料理屋で働いていました。農家ではマンゴーのシーズンはほぼ終わっていたのでシーズン外でしたが、探せば仕事はあるもので、収穫が終わり畑に不要になったホースやビニールの撤去をしました。

スティーブの家のアコモデーション
 またシェア先(といっても駐車場を間借りしているだけですが)の台湾人を家まで送ってきた農家のスティーブと知り合いになり彼の持っているアコモデーションに格安で住めることになりました。エアコンつきで週60ドルだったと思います。1月、2月のカナーボンは滅茶苦茶暑いので本当に助かりました。

 その後、スィートバナナというバナナ工場から仕事をもらったので、平日の農作業の仕事はやめて工場で働くことにしましたが工場の閉鎖的な空間に嫌気が差し一週間で辞めて、Carnarvonを出発することに決めました。

 この時、車のインスペクションと修理代で一時500ドルをきっていた所持金は2000ドルまで回復していました。
 カナーボンには当初、二ヶ月もとどまることになるとは思っていませんでしたが、出会う人みんなが助けてくれて良い思い出になりました。

 今振り返ると車が故障していてよかったと思いますね、故障していなければそれらの出会いはなかったわけですから。当時は必死だったのですが不思議なものです。

 中華料理屋のマネージャーのケビンは、永住権取得のために奥さんと中国からオーストラリアに来ていて毎日休みなく朝から晩まで働かなくてはいけない立場でした。「俺がもし日本人だったらオーストラリアに永住権を取りに来る必要はなかっただろうなあ」という言葉が印象に残っています。

 Carnarvonを出発し途中立ち寄ったGeraldtonは町の雰囲気、人々の雰囲気が非常によく、町を少し散策すると求人募集を出しているお店がいくつかあり、またSeafood工場も近くにあり簡単に仕事を見つけられそうだったので、ここにとどまるか一瞬迷ったのですが、バッパーにいる人間の雰囲気があまりよくなかったので次の日そこを後にしました。
Geraldton

  Broomeで知り合った韓国人の友人からDonnybrookには仕事がある旨をきいていたので、Donnybrookに向かいました。
途中立ち寄ったFremantle


2013年3月〜2013年7月
 Donnybrook


 ドニーブルックにつき、友人の韓国人に会い、その日は彼の居候先に一泊し、翌日Brooklodgeというバックパッカーに移りました。

 ここに到着した時点で、残りのビザは約五ヶ月しか残っていませんでした。

 着いて早々、ピアーのピッキングの仕事をもらえたのでしばらくここに滞在することにしました。
 僕は運よく部屋が空いていて、泊まることができたのですが、部屋に入らずに空き地にテントを張って泊まっている人達がいっぱいいました。

 ここはワークホステルで仕事を斡旋してくれるのですが、ここに来る前は自分で仕事を見つけなくては意味がないと気負っていた部分があったと思うのですが、それはもうどうでも良くなっていました。

 また、日本人を避けていた部分があったと思うのですが、それももうそれほど気にしなくなっていました。

 この先、日本へ帰って、どうしようか。
 このことばかり考えるようになっていました。
 また、資格試験に挑むか、別の方向に進もうか、どういう状況だったら幸せになれるのかなどなど。帰国後の今も考え続けていることです。


 ピアーの収穫が終わり、別のファームに移り、そこで三ヶ月働くことになりました。
 ニールとリンダの営む農場でした。リンダは最初無愛想にみえたのですが、実はすごく良い人で、ニールも温厚な人でした。

 他に日本人と台湾人がいて三人でやっていた仕事も終わり、最終的には一人でこのファームで働いていました。
 りんごのピッキングが終わり、一人で電動の機械でプルーニングをしていましたが、下手すると指が吹っ飛ぶので気をつけて作業していました。

 写真にあるように晴天の中、朝から農場で仕事するのはものすごく気持ちよかったです。ああ、こういう快楽もあるのだなと、改めて思いました。


休日はマーガレットリバーへ 。




2013年7月 〜そして帰国

帰国二日前の夕日
Donnybrookを発つ前日に丘に登って撮った写真です


 ビザを残り一ヶ月強残したところで急遽日本へ帰ることを決断しました。
 海外就職支援プログラムの面接を受けるためです。日本到着後、すぐに準備をして面接には間に合ったのですが、あいにく面接を通過することはできませんでした。






 その後、富士山の山小屋で一ヶ月ほど働き、
 台湾を一ヶ月かけて一周し、
 白馬のホテルで冬季シーズン中働き、
 今に至ります。


 この豪滞在中の1年10ヶ月という期間と日本帰国後の期間を通じて、自分が何をしているときが一番幸福であるのかということの、一つのヒントがあるとしたら、それは「自然」だと思います。

 都会ではなく、田舎の自然の中で働いているときが気持ち良かったからです。
 今すぐではないですが、将来的には自然のなかで生活したいと思っています。


まとめ


 日本とオーストラリアの違いはなんだろうか。

 国土の大きさが違う、町並みが違う、社会保障が充実している、資源国だ、サラリーが高い、色々違いはあると思いますが、一番大きな違いは人だと思います。

 ウーフで出会ったジョンにしろ、ティムにしろ、彼らは自分の好きなように自由に生きている。言い換えるとわがままに生きている。

 個々の日本人を観察していると、わがままということに非寛容であると思う。
 一人一人が他人に迷惑をかけないように、まずは全体の利益を考える、それから自分の行動を決めるというような行動様式になってしまっている。そうして俺が我慢しているのだからお前が我慢しないのはおかしいと、空気を読むことを強制し、みんなで押し付けあっている。しかし、例えばIGAで出会ったオージーはフルタイムで働き始めたけれども、奥さんが妊娠していてPerthに移りたいと言っている、という理由で採用から一週間で仕事を辞めていた。この場面で誰かに迷惑がかかるなんてことは考えないし、周囲も気にしない。日本はどうだろうか。

 ダーウィンで出会った世界一周中の日本人はフィンランド在住で建築関連の仕事をしていたそうですが、日本で働いているときは周囲の空気を読んで遅くまで残業しなくてならなかったがフィンランドでは定時の16時で仕事を終えていたそうです。日本は先進国だとずっと思っていたけれども、実は貧しい国なのではないか。低い生産性を労働者の犠牲で補い見かけだけ高いGDPを維持しているだけの砂上の楼閣なのではないのか。


 確かに社会の側に立って、物事をみるということは、3/11の震災のときに人々が騒ぎ立てず秩序だって行動していたように良い面がある。しかし、それは同時に、精神の自由な発露を失わせ、自由な思考を奪いロボットのような人間を作り出すのではないか。自由にあるがまま生きるということがなぜこんなに困難な社会になってしまったのか。

 それは、大多数が自由を求めていないから、だと思います。
 言い換えると、民度の高さが仇になってしまっているというか。平たく言うと、個々人がまじめで、仕事を辞めないからブラック企業がなくならないのと同じ原理が社会を覆ってしまっているから、だと思います。

 まずは自分が、社会の側に立って物事を見るのをやめにしないとだめだと思います。少なくとも自分は自分の視点から物を見つめるようにしたい。日本がどうなろうと構わない、自分がよければそれでいいのだ、という態度が、逆説的ではあるが、社会を良くすることにつながるのだと思います。

 自分が住みたいところに住み、付き合いたい人と付き合い、食べたい物を食べ、働きたいときに働く、眠たくなったら寝る、わがままに生きていく、それが大事なのだと、改めてそう思います。日本で生きるならば、少なくともそういう精神を隠れキリシタンのようにスーツのなかに隠し持っておくことが大事なのだと思います。

 さて、どこへ行きましょう。

最後に

 自分の体験記がどれほど、他の人の役に立つかどうかはわからないですが、読んでみてもらえばわかるとおり、突き進んでいく中で、困難にぶち当たったときは数をこなすことで大体解決しています。

 それは、最初の一週間で決行したシェア探しの焼き直しなのです。

 ということは最初のシェア探しでちゃんと数をこなせていれば後は何とでもなります。
 ですから、そこは田村さんの言うことを聞いて、数をとにかくこなしてください。
 そうすればシドニーを出てどこかでやばい状態になってもなんとでもなります。

 自分を変えることはできないけれども、自分をコントロールすることはできます。
 田村さんには行動することの大切さを教えてもらいました。
 ありがとうございました。


参考資料〜リアルタイムのメールより

Mon, 23 Jul 2012 22:42:15 +0800

田村さん、ご無沙汰しております。

その節はお世話になりました。田村さんのおかげで大分ものの見方がかわりました。狭い視野が開けてきたというか。盲目が直ったというか

ワーホリでこちらにきてから、早いものでもう一年がたとうとしており、ちょうど良い機会だと思い、これまでの経緯をお伝えします。いや、君の上司じゃないんだから報告はいらない、との突っ込みは横に置いといてください。

SCEを卒業したのが確か12月9日で、12月11日にタスマニアに渡りました。3月27日が誕生日で31歳まで、残り約110日だったので普通のファームはあきらめて、wwoofを選びました。結果、三つのウーフ先を得て3月13日にセカンドの申請をして、4月16日にセカンドビザをゲットしました。書類をなくしただの、証拠をおくれだの、移民局にはやきもきさせられました。
それにギリギリだったので、かなりあせりました。が、結果オーライです。これで、2013年の8月までいられる権利を獲得しました。一安心。

wwoof 先で、出会った人たちは、良い人が多かったですね。フランス人カップルが喧嘩して女性の方が男性をあやうく車でひきそうになったり、クリスマスだったかな確か、ホストの呼んだ友達が若干、僕に対して攻撃的な人種差別的な発言をしたり、それなりに色々ありましたけど、良い経験になりました。日本では人種差別にあわないですからね、日本ではできないオーストラリアならではの経験です。

一番長くいたwwoof先のホストは大の日本好きで味噌汁が本格的だったりで料理はよかったですね、食材はほとんど畑でとれたものでしたし、でも若干クレージーな面もありました。豚が逃げたときの切れ方は本当に半端じゃなったです笑。結構罵倒されましたね。まぁでも、セカンドのために全部我慢しました。

それから、4月の下旬にダーウィンに渡ったんですが、一週間のバッパーの宿代を払った段階で、所持金が250ドルになってしまったので、必死にCVを60件以上配ってやっとこさ、ヴェトナム料理店のウェイターの職をゲットしました。お金は良くなかったですけど、選んでる余裕がなかったので働き始めました。一日10時間働いてキャッシュ130ドルしかもらえなかったので、一週間600ドルから700ドルにしかなりませんでした。これは、良くないなと思い、3000ドルたまった段階で仕事をやめてBroomeに移り、今はIGAsupermarketで働いています。主に飲み物の発注、検品、補充をやってます。

そうそう、ダーウィンのバッパーでは寝ているときに寝ぼけたベルギー人のルームメイトから小便をひっかけられ起こされるという事件も起こりましたが、その後彼とはすごく仲良くなりました。バックが小便まみれでした。まぁでもいい思い出です。笑い話です。

ここが、今の自分が到達してるポイントです。

もうとにかく、やりたいことが多すぎます。

正直、色々ありますけど、大学卒業してからの六年間、日本で世間に背を向けて孤独に勉強していた期間の方がはるかにきつかったです。それに比べたら、全て楽に感じられます。大学も二浪して、やっと入れましたし、資格試験も六年勉強してそれなりに忍耐力はついてますね。

いずれにしろ、視界が開けてきました。田村さんのおかげです。ありがとうございました。

Sun, 4 Nov 2012 21:19:14 +0800

田村さん、お久しぶりです。

もう早いものでブルームにきてから、四ヶ月たとうとしております。

今は平日の午前中はスーパーで働いて午後は、プールに泳ぎに行ったり、本を読んだり、英語を勉強したり(kindle audio book)、の日々を送っております。

来た当初は、ばりばり稼ぐ予定だったのですが、すっかりレイジーな毎日を送っております。まぁでも、スクーターや車を買ったり、ジョギングしたり、今までできなかった平泳ぎの練習をしたり、小さな変化を起こすようには心がけています。
ですが、日本の過去のこと、現在のこと、将来のこと、を考える時間が多くなり、精神的に若干引きこもり傾向があったのも事実です、この四ヶ月。マクロな動向と僕個人の人生がどこまでリンクするのかはわからないのですが、このまま海外で生活するか(インドネシア、ベトナムの日系企業へ行くか)、日本へもどって司法書士になるか就職するか、を考える際に日本の動向は切っても切り離せないものですから。

タスマニアにいるときに、こちらの大学院に進学することを考えたのですが、それもメリットがほとんどないことに気がつき取りやめました。それにしても考えても仕方のないことを延々と考える癖はなかなか直らないですね。

英語に関しては、アジアで使える英語、英語圏以外のヨーロピアンと意思疎通できる英語力があればいいのかなと、当面の目標としてはですが。ネイティブの英語は正直、二割、三割しかわからないときもあります、一割のときもあると思います。My whole lifeを、マィルァってほとんど聞こえない声で発音するじゃないですか、オーストラリアネイティブは。ちょっと聞き取れないですね、僕には。まぁ、話の流れでMy whole lifeって言ってるのはわかるんですけど、でも十秒くらい時間差ありますからね理解するまで。

ブルームは台湾人をはじめとしてアジア人が多くて、ローカルの仕事をゲットするのも他の地域に比べて、すごく簡単のような気がします。
英語ができなくても、スーパー、ハウスキーピング、キッチンハンドで働いているアジア人がいっぱいいます。それにしても、台湾人や韓国人のお金への執着心はすごいですね。
仕事を二つ、三つ掛け持ちして週1200ドル以上稼ぐ人(中には2000ドル近くの人も)を数人知っています。まぁ、ブルームっていう土地柄もありますし、私の知ってるサンプルが偏ってるせいもあると思いますけど。ただ僕個人はいささかお金のことを考えるのはうんざりしてきました。ウーフのときはお金なくても楽しかったし。それもあって先月は6000ドル近く使ってスクーターと車を買ってしまいました。貯めてもしょうがないですし。

残りのワーホリ期間は九ヶ月あります。今は車でオーストラリアをあっちらこっちら気の赴くまま移動し続けるのもいいかなと思っています。未来のことは考えずにその日、一日を生きることだけ考えたいです。

前にご指摘いただいた、潤い、良い思いはその延長線上にあるのかなと思います。

ただ、オーストラリアの後アジアに行きたいのでその分のお金はどこかの時点で稼いでおかないといけないのですけど。

Sat, 2 Feb 2013 22:38:35 +0800

田村さん、お久しぶりです。今、なぜかカナーボンの中華料理屋で毎日コーヒーを入れております。

時間がたっぷりあるのでこれまでを振り返ってみたいと思います。
年があけてすぐの1月2日にエクスマウスからコーラルベイに向かう途中で運転中に警察に呼び止められてレッカー代350 ドル支払うはめに陥るなどなかなか散々なめにあってます。全然あけましておめでたくないわって毒づいておりました、今年の新年は。


去年の12月21日にブルームを出発しました。当初は二週間でマーガレットリバーに到着する予定でしたが、一ヶ月以上経過した今カナーボンで働いています。ブルームを出るときは4000ドル近くもっていた資金も一時は500にまで減ってしまいました。
ブルームからカナーボンまで六回以上タイヤ替えてると思います。何回タイヤを替えたか覚えてません。

エクスマウスでわかったんですが、ブルームを出るときにはすでにホィールアライメントが必要だったらしいです僕の車。タイヤが傾いていたのですぐにパンクしてしまっていたらしいんですね。僕は日本で車に乗ってなかったのでその辺の事情に疎かったのが禍しました。

極めつけは、エクスマウスからコーラルベイに向かう途中に警察に止められて、エクスマウスまでレッカー移動を余儀なくされたことでした。スペアのタイヤが良くなくて横ぶれしてたんですね、僕の車。それを指摘されました。ただ新しいタイヤつんでいたので取り替えれば安定して運転できる旨を説明したんですが、その警察は聞く耳もちませんでしたね。
結局エクスマウスに戻った後、自分の持っていた新しいタイヤに変えてゴーサインがでました。なんじゃそらって感じです。レッカー移動必要なかったじゃないかって。それにエクスマウスではホィールアライメントできる場所がないからカナーボンにむかっていたんですけどね。まぁ、生まれて初めてパトカーに乗れたので良しとします。


その後、なんとかカナーボンに到着して二週間だけウーフをして、その間に車を修理し、イエローステッカーをとるのにインスペクションをして、CVを配りまくって仕事をゲットして何とか今一息ついているところです。修理とインスペクションで700ドルかかり、資金が500まで減ったところでいったん旅を中止することを決断しました。

一緒に旅をする仲間がいると楽しいかなとは思ったのですけど、資金も十分あるし一人の方が自分らしい気がして結局リフトは募集しませんでした。コーラルベイからカナーボンまでは、ブルームで出会ったポーランド人のルーカスと一緒でしたが。

ブルームからポートヘッドランドへ向かう途中に、まず前輪のタイヤがパンクしました。
砂漠のど真ん中でパンクするとかなりあせりますね笑。

しかも、生まれて初めての体験です。すぐに手を振って助けを求めましたよ笑。

なんとかポートヘッドランドまでたどり着いて、なぜかキャラバンパークに一日だけ無料でとまらせてもらいました。
そこで知り合ったおっちゃんとなぜか次の日にパブでビールを飲んでました。
ポートヘッドランドでの仕事の見つけ方とかレクチャーを受けてました。
数人から聞いた話だと鉱山関係の仕事だとトラックの運転で時給38ドルとかみたいですね。


その後、カリジニナショナルパークにいったんですが、そこで遭難しかかりました、というか一時的に遭難しました。

本当に誰一人いないところで、迷うとパニックになりますね。
見渡す限り、草原です。人がいないんです、見渡す限り。正直泣きそうになりました。
思い出しただけでぞっとしますね。

草原に何か黒い人工物を見つけて、「ああ助かったあ」と思って走って近寄って見たら、ただの黒い物質だったりして、絶望的な気持ちになったり、そうこうしてるうちにどっちからきたのかよくわからなくなってくるんですよね。

運よく何とか道路を見つけて自分の車に戻ることができたんですが、体中擦り傷だらけでした。

その後トムプライスのBPの店員と話したんですけど、去年だけでカリジニナショナルパークで20人近く亡くなってるみたいですね。僕みたいに遭難したり、崖から落っこちたりとかで。
そのBPの女性の旦那さんがレスキューをやってる関係でその女性は詳しかったです、その辺について。その女性に「あなたは本当に運がよかったわよ」って言われたときは本当にぞっとしました。


色々トラブル続きではありますが、その度に誰かしらに出会って助けられて何とか生きてるって感じですね。

ローカルで働くこと、英語力をあげること、この二点はすごく大事なようでいて、それほど大事ではないのではないかと今は思います。僕自身は最初のころはそれを最重要視していましたけど。人と良い関係を築くことが本当に大事なんだろうと今は思いますね。


資金がある程度貯まったら旅を再開し、マーガレットリバーへ向かいます。

ではまた

Fri, 7 Jun 2013 11:24:23 +0800

こんにちは。ご無沙汰しております。


カナーボンの後、ドニーブルックに滞在して早3ヶ月がたちました。そして、オーストラリアにきてから、20ヶ月たちました。本当に月日がたつのはあっというまですね。今はブルックロッジというバッパーにいて、プルーニングの仕事をしています。電動のハサミでパッパッパッって枝を切っていくんですけど、集中してやらないと指が飛ぶのでちょっと恐ろしいです、が楽しいです。

フランス人の女の子と二人で海に遊びにいったり、結構積極的に動いてみたりしたんですが恋愛の方面ではあまり修行できなかったですね。積極的に動くってことが過去になかったんで、そういう意味では進歩してると思うんですけど。

カナーボンで500ドルまで減った所持金も、車の売却とファームでの仕事で9000ドルまで復活しました。最近はもっぱら今後の進路のことをメインに考えています。

一昨年の資格試験、択一は通過してたんですが、総合で5点から10点たりてなかったみたいです。知識はあるので、落ちた原因は精神的な弱さだと思います。このまま続ければ試験には通ると思いますが、専門職になること自体はそれほど大事ではないということが僕の今の考えです。

なぜ法律の勉強を始めたのか、それはおもしろいから、知的好奇心をみたすことができるからでした、そういう意味では十分報酬をうけとってるんですよね、勉強を通じて。色んな経験(仕事や遊び)を重ねたあと、最終的にプロになれればいいかなっていうのが今の自分の考えです。なぜ法が必要なのかとかそういう根本的な部分の勉強に興味があります。


今考えているのは、

1、宅建と管理事務主任者を取得して不動産管理会社に就職して、法律の勉強を続け司法書士合格を目指す。
2、アジアなどの新興国で営業の仕事をする。海外での起業を視野に入れて仕事をする。その際にはこういった海外就職支援を利用するhttp://www.pasona.co.jp/pr/osaka/inter-asia/
です。

1はなぜかというと、今まで勉強した法律の知識を生かすことができる、不動産業界の実務を学ぶことができるからです。知識を吸収していくことに喜びを感じるタイプなんですね。

なぜ、2という選択肢が出てくるかというと、マクロ的に見て今後日本の経済は韓国経済に近づいていくと予想しているからです。あそこまでひどくなるにはまだ10年以上の猶予があると思いますが、厳しくなる。学生のとき、JALの自己資本比率が1%でほとんど負債だらけなのに、なんで一株100円以上で取引されてるのか不思議だったんですね、そしたら5年後くらいに会社更生法申請って言う事態になった。そのとき思ったのが、日本人(もちろん全員ではない)ってのは、先を見通す知性みたいなものが何かの原理で曇ってるんじゃないかと思ったんですよね。国債が爆発するのは、福島の水素爆発よりもはるかに高い確率なんじゃないかと思うんですけどね。まぁ、ただ国債が爆発しても、平然とそれを乗り越えるのが日本人だと思うんですけど。戦後の闇市を潜り抜けたわけてきたわけですから、余裕だと思います。

ただ、人々が貧しくなっていく、ということは派生需要である、法律業界もやっぱり貧しくなっていくということだと思います。一つお尋ねしたいことがあるのですが、マスコミがよく報道するような新人弁護士の窮状、あれは事実に基づいているのでしょうか?それとも誇張でしょうか?

アジアで現地の言葉を学び更なる経験を積み変化する自分を楽しむか、日本に帰り不動産のプロを目指すか。その二つに限定せずどの業界でもよいから営業経験を積むか。1の後、2をいってもいいし、2の後1にいってもいいわけで、どちらかに限定する趣旨ではないです。

ただ、なんというか、日本のために働きたいんですね。日本をもっとよい国にしたい、というか。雇用を生み出せるようになりたい、というか。このまま、落ちぶれていくのを看過してるだけってのはいやなんです。それにポスト財政破綻、日本をどう立て直していくのか。

それとダーウィンのべトナム料理店で働いているときに出会った、ヴェトナム人の実業家に言われた言葉が頭に残ってるんです。「りょう、一点だけを見てたらだめだ、もっと視野を広くしないとだめだ、自分のビジネスをもたないとだめだ、そして利益を仲間で、家族でシェアするんだ」。

田村さんの忌憚のないご意見をいただけたら幸いです。

では、失礼します。

-------------

返信

田村です。

いやあ、おかピーもメールをくれるたびに大人になっちゃって、質問や相談のレベルがどんどん変わっていきますよね。
着いた当初はジャパレスの探し方とか、そんなんだったんですけど(^^)、今は、日本を憂いて立つところまでいきました。

いや、皮肉ではなく、外国というゼロ環境から始まって、叩き上げて×叩き上げて=上昇して、ついには本来の知性水準まで戻ってきたということの凄さです。

さてさて、


> 今考えているのは、
>1、宅建と管理事務主任者を取得して不動産管理会社に就職して、法律の勉強を続け資格試験の合格を目指す。
>2、アジアなどの新興国で営業の仕事をする。海外での起業を視野に入れて仕事をする。その際にはこういった海外就職支援を利用する http://www.pasona.co.jp/pr/osaka/inter-asia/ です。

パソナは、以前の体験談の錦織さんも利用されました。
今はインドで働いてます。

どっちがいいかですけど、
断然2だと思います。

というのは、

> 1はなぜかというと、今まで勉強した法律の知識を生かすことができる、不動産業界の実務を学ぶことができるからです。知識を吸収していくことに喜びを感じるタイプなんですね。

不動産取引はKKD(カンと経験と度胸)と言われているくらい、現場営業第一なので、入る会社にも寄りますが、知識がそれほど求められるものでもないです。

もし知的に何かを求めるなら法律系のプロの方が面白いかも。それか、いっそのこと弁護士やるかです。面白さでは桁違いですし、今ならもう合格すると思いますよ。

それにこれから面白い日本の不動産は、いかに外国資本が日本の不動産を買うか、買わせるか、その上で日本人の主権とをいかに犯さずにハーモナイズさせるかという部分だと思います。

その意味でも、新興国の事情に精通しているのは大きなメリットになり、それが2につながっていきます。

一方2ですが、これが今日本で一番求められている知識経験だと思います。
オーストラリアもそうですが、経済的に伸びているところにリンクし、いかにパワーを吸い上げるかが先進国の方法論だと思います。

そして、

>マクロ的に見て今後日本の経済は韓国経済に近づいていくと予想しているからです。あそこまでひどくなるにはまだ10年以上の猶予があると思いますが、厳しくなる。

10年もかからないかもしれないです。
でもって韓国から学ぶのは、やっぱ製造業中心で輸出をするという方法論では、国が痩せてくるんじゃないかってことです。

いかに外国のパワーをこっちに呼び寄せて、しかも乗っ取られることなくやっていけるか論だと思うのです。
オーストラリアがそうしているように。

そうなった場合、アジア新興国のノウハウというのは、とても役に立つとおもいます。考え方、習慣、法律、ビジネス、、、、何をとっても全く未知といってもいいのですから、何をやっても勉強になるという。

ところが1の場合、ヘタしたら、学生マンションの斡旋紹介だけで終わってしまい、時代の先端にも行けないし、知識らしい知識も得られないってことも往々にしてあると思うのですよ。
だとしたら、濡れ手に粟的なものは、2ではないかと。

> ただ、なんというか、日本のために働きたいんですね。日本をもっとよい国にしたい、というか。
>雇用を生み出せるようになりたい、というか。このまま、落ちぶれていくのを看過してるだけってのはいやなんです。それにポスト財政破綻、日本をどう立て直していくのか。

それは素晴らしいです。
僕もそう思うし、こういう仕事もその一環だと思ってます。人的な側面から援助するという。
日本人って、いい素材に恵まれているし研鑽も積んでいるのだけど、単に自信がないというただその一点で大損をしている。国としてのどうとかじゃなくて、イチ個人としての自信です。もうそういうのは、いい加減やめたらいいと。
同じように、日本はまだまだ伸びしろがあるので、それをどう生かしていくかですよね。

>ダーウィンのべトナム料理店で働いているときに出会った、ヴェトナム人の実業家に言われた言葉が頭に残ってるんです。「りょう、一点だけを見てたらだめだ、もっと視野を広くしないとだめだ、自分のビジネスをもたないとだめだ、そして利益を仲間で、家族でシェアするんだ」。

これはいい言葉ですね〜。
何人とかいうことなしに、やっぱ一家を構えている親分はいうことが違う。

やっぱ「ボス」にならなあかんとおもいます。

ほいでは〜

Thu, 20 Jun 2013 12:54:41 +0900

こんにちは、田村さん。

今月の24日にパソナの面接があるので、急遽日本に帰国しました。ご挨拶できずにすいません。

田村さんから、教わったことでもっとも今の自分に生きていることは「考えない力」です。考えずに動く力がどれほど大事なのかってことをこの約二年間で学びました。というか、最初のシェア探しでそれを学び、後の期間はその復習だったような気がします。

ありがとうございました。

それでは

Thu, 4 Jul 2013 14:11:51 +0900

こんにちは、田村さん。

パソナの面接は残念ながら通りませんでした。今は、鎌倉のゲストハウスに経営の話を聞きに行ってみたり、考えずに行動してます。

で、今日から二ヶ月富士山で働くのでしばらく体験記書いて送ることができません、富士山ネット使えないみたいです。

このメールに返信いただいたとしてもしばらく閲覧できないと思います、すいません。

それでは


補充質問〜オーストラリアで培った自然の良さをライフスタイルに取り込んでいく方法論

恒例の質問とかですけど、うーん、これかなり完成度が高いし、内心の推移もきちんとかけているので、「ここが聞きたい」ってのはあんまりないです。てか、全部説明されているし、そのあたりはさすがです。

ただ、これは聞きたいな〜と思ったのは、ワーホリ体験談からは既にはみ出るのですが、オーストラリアで培った自然の良さをライフスタイルに取り込んでいく方法論や、自分の幸福を中核に据える「隠れキリシタン」的方法論ですが、これは、日本に帰った後の、富士山やら、白馬やらではどうでしたかね?

あ、案外オーストラリアと違わないぞ、結構いけるぞってポジな感じだったか、それとも、「いやあ、日本は手強いわ、隠れキリシタンは弾圧されるのでしんどいわ」ってネガよりなのか、そのあたりの感覚はいかがですか?


これはもう(国内)移住するしかないと思います。白馬にはその下見も兼ねていきました。

将来的に長野県や北海道への移住も選択肢の一つとして考えています。


ただ、今は、次のステージに進むために単純に住む場所を変えようと思っています。

札幌へいくか、大阪へ行くか。はたまた別の場所か。
大阪は日本の中の外国だと思っていますので、一度は住んでみたいからです。
それに「生きた日本語」って大阪弁しか思いつきません。それにたこ焼き大好きですし。


>自分の幸福を中核に据える「隠れキリシタン」的方法論ですが、これは、日本に帰った後の、富士山やら、白馬やらではどうでしたかね?


富士山で働いていた山小屋は高度3200mで場所も場所ですし、かなり非現実な空間です。働いている人もどちらかというといろんな意味で規格外な印象を受けました。正直、あまり馴染めなかったです。なんというか、心が擦り切れている人が多かった気がします。

白馬は、オーストラリアンタウンのようでした。ホテルのフロントデスクで働いていたのですが、オーナーはオーストラリア人でお客様も90%オーストラリア人を主とした外国人でした。

白馬は、全体的に日本人も含めゆっくりとしていて、オーストラリアに近かったです。自分の場合、都会よりも田舎に移住したほうが、気持ちがいいし、余計な雑音もなく幸福になりやすいと思いました。毎朝、雪がしんしんと降る森の中を歩くのはものすごく気持ちがよかったです。キリシタンは中央から離れた方が良いような気がします。田舎は競争率低いので意外に仕事が見つけやすいです。いつの世も人が行かないところに抜け道があるのかもしれません。白馬はリゾート地のBroomeに近いような気がします、気候は間逆ですが。
白馬の森の中の写真です。
毎朝ここを通って仕事に行っていました。


幸福の鍵があるとするならば、「自然」に加えて「対話」があげられるかもしれません。

自分でものを考えているかどうかは言葉に敏感かどうかで、すぐわかりますので、そういう人とは会話が時々成立しますが、そうでなければなかなか会話が成立することはないと思います。

人間の世界では、ずっと一緒にいるけど、相手のことを何もわかっていなかった、というようなことが起きてある日びっくりする、というのが当たり前におこるのがむしろ当然のような気がします。特に察する文化を内包する日本語世界においては、それが顕著のような気がしますね。

それでも、言葉を大事にして、じっくりと人と対話をすることでしか、自分は幸福になれないような気がします。





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