ワーキングホリデーの目的
日本にいるときは、図書館で働きながら、法律系の資格試験の勉強をしていました。六年近く勉強していたのですがなかなか合格できず、苦しんでいました。
気がつけば30歳になっていて31歳になるとビザが取れなくなり長期で海外に滞在する機会がなくなってしまうので渡豪を決意しました。その目的は、長い間一点を見つめていたこともあり、視野を広げるために多くの人に会ってなるべくたくさんの考え方に触れるということもありますが、主目的は日本とオーストラリアを比較することにより、日本及び日本人を理解することにありました。
学生の頃に、授業の中で財務省や厚生労働省の役人の財政状況についての説明を聞きました。その再建方法の具体的プランの中で経済成長率3%を前提に財政状況を論じていて、この人はどこか架空の国について論じているのではなかろうか、と思った記憶があります。財務省にはこの問題を解決する能力はありません。
マクロ的な視点で言えば今現在、一般会計1100兆円の赤字を抱えている日本の財政や社会保障の破綻は確実です。この危機が誰の目にもわかるように可視化されたときに個々人が対策をとろうとしてももうその時には遅い、だとすれば自分はどうすべきか、ということの答えを探すということが、20代前半からのテーマでもあります。学生の頃に年金の系譜をたどっていって驚いたのですが、5年ごとに負担率をあげ給付率を下げるというような変更を行っていました、5年に一度「百年安心プラン」の変更をしているのです。要するにこれが為政者の意思であり、5年たてば国民は忘れているだろうと高をくくっているのだと思います。
ただ、この崩壊のメカニズムは、政治家や役人が悪いといった類の話では、おそらく、ないのだろうということだけはわかります。それは対米開戦を軍部独走といって軍部のせいにするのと同じで、それが嘘であることと根を一つにすると思います。市井のそのへんにいる普通の人達が、教育勅語をとなえ、時に他人を非国民よばわりし、精神主義を唱え戦争礼賛していたのと同じように、現代でもあらゆる業界の人々がこの利権構造のなかで利権を手放せないがために生じている現象だと思うからです。その利権構造は、悪い顔をしていない、一見利権とわからない顔をしているもので、むしろ深く文化に根ざしているので避けられないのではないかと思いました。それは、例えば、「社会人」という英語では定義できない言葉とも関係があるのだと思います。日本語を離れる必要があると思いました。
この崩壊がどういうメカニズムで生じるのか、そのヒントが海外にあるのではないだろうか、と考えたことも渡豪の理由です。
そうして、その時代のなかで自分はどう生きたらいいのか、日本帰国後もずっと考え続けているテーマです。
2011年08月〜12月 シェア探し、職探し、語学学校
シェア探し
シェア先
ここで学んだことは、「考える前に行動しろ」っていうことです。
人にはそれぞれの思考や行動の癖のようなものがあると思うのですが、僕の場合、行動する前にあれこれ考えてしまって、行動ができなくなることがそれまでの人生で多々ありました。動きながら、時々立ち止まり考える、必要があれば方向転換する、また動く。常に先に行動することの大切さがよくわかりました。これは、この先の職探しにもつながって行きます。
ネットからはシェア先の住人の性格や雰囲気は決して伝わってこない、考えてみればあたりまえですよね。
田村さんに教えてもらったとおり実行し30件位見てまわり、Dulwich Hill にあるシェアハウスに決めました。
個室で160ドルと格安だったこともありますが、シェアメイトを見て決めました。イラン出身の彼は自分と年齢が近くて落ち着いた雰囲気、会計士という専門職に従事していることがなんとなく自分と合いそうだなと思ったからです。
滞在中、彼とは一度だけお金のことで話し合いました。入居する際には、電気料金一日一ドルという取り決めだったのですが、途中から電気料金折半と主張しはじめたからです。話し合いを通じ電気料金の約三分の一を払うということで合意しました。そのシェアハウスにはシドニーを出るまで四ヶ月滞在しました。
職探し
シェアハウスに住み始めたときに、所持金は1000ドルくらいだったので、すぐに仕事を見つける必要がありました。ローカルで働きたかったのですが、仕事を選んでいられる状況ではなかったので、すぐにレジュメを配り始めニュータウンの日本食レストランで働き始めました。時給は10ドルでした。しかし、皿洗いをはじめ仕事が遅いという理由によりそこは一週間でクビになりました。この時点でクビになってもたいしたことがないってことがわかってよかったです。
クビになった次の日に、ニュータウンにある別の二つの日本食レストランで働き始めました。しかし、ボンダイビーチにあるローカルレストランから声がかかったので、日本食レストランは二つとも一週間でやめてローカルレストランで働き始めました。そのローカルレストランのトップシェフは日本人だったので、たまたま履歴書をみたシェフから声がかかったのでした。かなり大きなレストランでしたが、だめもとでレジュメ配っといて正解でした。時給は平日16ドル土日24ドル。
そこでは深夜まで働き、バスで自宅に帰ると2amをすぎていました。学校との両立は無理だとわかったのでそこも二日で辞めました。ローカルレストランを辞めた後、一週間か二週間くらい何もせずぼーとしていたら、所持金が400ドルをきってしまいました。仕事を探し始めましたが、そのときはローカルでも日本食レストランでもどちらでもよくなっていましたので、Randwick にある日本食レストランで働き始めました。給料日前レントを払ったら全財産90ドルくらいまで減っていましたがなんとかなりました。時給は12ドルでしたがチップは毎回もらえました。9月の下旬から12月の上旬までそこで働きました。
シドニー滞在中ローカルで仕事をするためにレジュメを50枚以上は配ったと思います。
ライカートのイタリア人街のレストランでは、スターター(前菜)の意味がわからず、Get out!!と怒鳴られ追い返されたりしましたが、罵倒されてなんぼだと思います。下手な鉄砲数うちゃ当たる方式といいますか、数をこなせばあたる確率は高まるのでシェア探しと同じように仕事探しにおいても「考えるまえに行動する」姿勢が大切だと思います。
語学学校
Pre intermediate から始まって、最終的にUpper intermediate で終わりました。正直、当初はPre intermediate から始まったことに不満を持っていましたが、簡単な会話の意味を正確に理解できていなかった部分もあったと思うのでむしろpreから始まってよかったと思います。金欠により、毎日のように働いておりましたので、疲れが残った状態で毎回授業に出ていました。今度は、精神と時の部屋に入ったように勉強だけしてみたいです。
12月〜4月 Tasmania(ウーフ)
学校が終わってその二日後にSydneyからTasmaniaに移動しました。最初のウーフ先はLAUNCESTON郊外にある一軒家でした。ホストはリタイアした夫婦で二人とも元学校の教師。夫の方はたまに今でも臨時で地元の高校で教えているようでした。
そこでは、一軒家の地下室をつくる大工のお手伝いをしました。 肉体労働で結構きつかったです。再利用するために古い板を電動のやすりにかけていたのですが、来る日も来る日も電動やすりにかけ続けていたらある日、右手の薬指がバネ指になってしまいました。
クリスマスに夫婦の友達を呼んで一緒にご飯を食べたのですが、この友人がアジア人に対してよい感情を持ってないないらしく、私に対して差別的な発言を結構していたみたいですが、ホストがそれに対して「He is racist!!」と怒り、場の空気が変わった、というような一場面があったのが印象に残っています。
その次のウーフ先は、Derolaineから車で30分くらい行った山奥にある家で周りには誰も住んでいないようなところにありました。
このウーフ先はいろんな意味で印象的でした。
まず、水洗トイレがないのでバケツに用を足すこと、ストーブがないので薪をくべて火をおこし暖房とし、お風呂の湯もそのようにして温め供給すること。
家は手作り、水は山からホースで家まで引っ張ってきているし、電力は近くの小川を利用して水力発電。
なによりもホストのジョンが面白くて個性的でした。
「お金が大嫌い、家は自分で作った、タスマニアの自然を壊す外来種植物は許さない」などなどその発言からもおもしろさがわかると思います。
そこでは、ヨーロッパからの外来種植物を刈り取り、川から砂利をとってきてセメントを作り新しく作る倉庫の土台を作ったりして過ごしました。
そして三件目が日本好きのティムの家です。
前述のジョンとティムは知り合いでジョンに取り次いでもらってティムの家に移動してきました。ここもDerolaineから車で20分ぐらいのところにあります。
ここには、ブルーベリー、ラズベリー、にんじん等、野菜や果物があり、牛などの家畜がいました。
野菜、鶏肉、牛乳を自分の畑、牧場でまかない、パンやチーズ、ビールは手作りという具合に、自給自足に近い生活を営んでいました。三件目にしてようやくちゃんとしたファームに到着したと思いました。
ここでの生活は、平日はブルーベリーなどのフルーツのピッキングをし、週末は市場でパッキングしたフルーツを販売して過ごしました。
朝起きて、自然食品を食べ、ブルーベリーをつまみ食いしながらピッキングして、仕事が終わったらシャワーのお湯を薪でわかし手作りのビールを飲んでご飯を食べて、おしゃべりして疲れたら眠る。この毎日の繰り返しがものすごく気持ちがよかったです。
ジョン、ティムが好きなことをやれているのは政府からの支援があるというのも一側面としてあるのかもしれませんが、やはりその意思によるところが大きいのではないかと思います。自分で家を立てたり、オーガニック野菜や果物で生計を立てるのは強い意思なしにはできないと思います。
ここに、約二ヶ月滞在しその後ジョンの家に戻り一週間ぐらい滞在しセカンドビザ取得通知メールを移民局から受け取ったのを確認してDarwinに飛びました。
Sydneyを出るときにあったお金はDarwinについた頃には、500ドル近くまで減っていました。
デポジットと一週間分のレント130ドルを払うと、300ドルきってしまいました。
尻に火がついた状態だったので、レジュメを50枚以上印刷し、着いた翌日から2、3日かけて宿から歩いていける距離のところはすべてレジュメを配りました。
万が一、仕事を見つけることができなかった場合のことを考えて、Darwin近郊のwwoofを検討しましたが、運よくベトナムレストランから仕事をもらうことができました。
「やるだけのことはやった。ああ、ホームレスか、いよいよ」と寝床を探しながら浜辺をうろついている時に一本の電話が鳴り、それがベトナムレストランからでした。
仕事を探しているときに、日本食レストランからただでお寿司をもらいそれが美味しかったことが記憶に残っています。
その後、ベトナムレスランのホールで二ヶ月働きました。
そのベトナムレストランは家族経営で、もともと難民として、オーストラリアにやってきた人たちでした。マネージャーの「誰も私たち家族を助けてくれなかった」「勉強をしようと思ったときにはもう遅かった」という言葉が印象に残っています。オーナーと話をしたときに、今まで日本で法律の勉強をしてきたことを伝えたところ、
「一点だけを見つめていてはだめだ、もっと視野を広げなさい」といわれたことも印象に残っています。
その後、3000ドル貯めてから、Karrathaに向かって出発しました。元々Tasmaniaにいた頃に、永住権取得のためにオーストラリアの大学院に進学したいと漠然と考えていました。その頃、Karrathaには鉱山があるから稼げるという情報を聞いていたので、学費を稼ぐためにKarrathaに行く計画を立てていました。
しかし、Darwinにいる頃に大学院進学の気持ちもだいぶ薄らいでいました。大学院を出たからといって昔のように永住権取得にはつながらないということがわかってきたからです。
しかし、とりあえず当初の計画通りKarrathaに向かい途中で気に入ったところがあったらそこに滞在すればよいという気持ちで西に向かいました。
一定期間中乗り放題のバスのパスをグレイハウンドで買っていたので、途中下車のつもりでブルームに寄ったのですが、着いた翌日レジュメを配ってみたところタイレストランの仕事を、二日目にIGA supermarket の仕事をゲットすることができたので、そのままそこに滞在することにしました。
ダーウィンにいるときは、レジュメを60枚近く配って一件からしか仕事をもらえなかったのに不思議なものです。
かけもちで働いてもよかったのですが、レストランの方は断ってIGAで仕事を始めました。
マネージャーからは採用通知のときにフルタイムのポジションをあげるといわれていたので期待していたのですが、パートタイム契約でした。時給は19ドル。その二週間後、Colesからも誘いがあったのですが、馬鹿正直にIGAで働いていると伝えたところ、ライバル企業の社員を雇うことはできないといわれてしまいました。
仕事を通じて感じたことは、自分の英語力が全然足りていないってことです。
簡単なレジの仕事さえできない(英語が聞き取れない)ことがよくわかりました。例えば、具体的に言うとタバコの銘柄が聞き取れませんでした。
でもあまりレジに立つことはなく裏方の仕事が多かったのでなんとか六ヶ月続けられました。自分の気がつかないところで周りの人たちがフォローしてくれていた面もあったと思います。
残った理由は仕事だけではなく、Broomeは熱帯の自然と町が調和していて非常に気持ちよく感じられたことと、他の地域に比べて人々もアジア、コケージアン、アボリジニとほどよく混じりあって共生しているように見えたからです。(あくまで、他の地域と比べて、ですが。居住地が分かれているといえば分かれていますから。)
ここで何ヶ月か過ごすうちに大学院進学はもうどうでも良くなっていました。
なので、お金を必死に貯める必要も感じなかったので、朝方から昼過ぎまで仕事をして、その後はジョギングをしたりスポーツジムで水泳をしたりして毎日を過ごしていました。
台湾人や韓国人のシェアメイトは週1000ドル以上稼いでいました。
そのうち、
お金がたまったのでスクーターを買い、最終的には車を同僚から買いました。
さすがに6ヶ月滞在していると飽きてきたので12月に車でブルームをたち西へ向かいました。目的はありません。西へ行くのみです。
2012年12月〜2013年2月下旬
Broom - Port Headland - Karijini 〜Exmouth〜Coral Bay〜Carnarvon
12月22日にBroomeを出発しました。当初は2週間くらいの旅を想定していましたが、途中車の故障などがありBroomeからPerthまで結局二ヶ月以上かかってしまいました。
Port Headlandに向かう途中右前輪のタイヤがバーストしました。
砂漠の中、呆然としていると一台の車が止まり、フランス人カップルが交換を手伝ってくれました。
旅を始めてまだ五時間たらずでタイヤがパンクしたのでなんて自分は不運なのだろうと軽く考えていました。
この時にはタイヤに問題があるのではなくアライメントに問題があるということには全く気がついていませんでした。
その後、何とかPort Headlandまで到着し、長期労働者用のキャラバンパークに行き事情を説明したところ、その日一日は無料で車をとめさせてもらえる事になりました。
翌日そこで知り合ったおじさんに昼間からバーでビールを奢ってもらい、町を案内してもらいました。
その日は別のキャラバンに宿泊し、翌々日前輪のタイヤ二つを交換して、Port Headlandを後にしました。
草原プチ遭難事件
Port Headlandから、Karijini国立公園に向かったのですが、あまりに広大でどこからどこまでが国立公園かよくわからなかったので、その日はひとまず給油に寄ったTom priceという小さな町の近くのキャラバンパークに泊まりました。ここは格安で一人一泊10ドルでした。
Tom priceのキャラバンパーク
翌日受付で地図をもらい、周辺地理のレクチャーを受けて、Karijini国立公園へ向かいました。
その後、数日Tom priceに滞在していたので数回行ったのですが、一度遭難しかかりました。
見渡す限り草原で、人が一人もいないところで、どこから来てどこに行けばよいのかわからなくなるというのは本当におそろしかったです。運よく道路を発見することができましたが、助かったと思いました。
後でBPの店員に聞いたところによると、毎年遭難したり、崖から落ちたりして数十人亡くなっているそうです。
年末年始の踏んだり蹴ったりタイヤ事件
遭難しかけて、なんとか戻ってくると今度は後輪のタイヤがパンクしているのを発見しました。
翌日、Tom priceでたまたま知り合ったスイス人のカップルもタイヤがパンクしたらしく、年末で閉まっている車の修理屋に電話して臨時で店を開けてもらいパンクを直しに行くと言っていたので、彼らに付いていって一緒に直してもらいました。
修理が終わったあとスイス人のカップルと一緒に町を出たのですが、今度は前輪の調子が悪いということに気がつき、途中彼らと別れ、またTom priceに引き返し、再び修理屋に行きタイヤを修理してもらいました。それから、二日後、ようやくTom priceを出発し、Coral bayに向かいました。
Coral Bayで一泊し、Tom priceで知り合ったドイツ人の女の子からExmouthにいるという連絡を受け、Exmouthに向かいます。その途中、また前輪の片方のタイヤがパンクしました。スペアのタイヤに替え何とかExmouthに到着しました。それが12月30日です。
着いてすぐにタイヤパワーに行きこれまでの事情を説明したところ、ホイールアライメントが必要で、それをしないと根本的に何回タイヤを替えてもだめだということがわかりました。日本で車に乗っていなかったことが災いしました。アライメントのことなんか全然思いもよりませんでした。ちゃんとインスペクションしてから車は買うべきだったと猛烈に後悔しました。そして、Exmouthでアライメントができる場所は一つしかなくて年末は休みで1月2日まで待たなくてはならないということがわかりました。
仕方がなく、1月2日までキャラバンに泊まり、アライメントができると聞いていた修理屋にいってみたところ、「ここにはアライメントができる設備はない、Carnarvonに行かないとだめだ。」と言われてしまったので、仕方がなくExmouthを後にして、Carnarvonに向かいました。
しかし、Exmouthを出発して一時間しないうちに警察にとめられて、車の横ぶれを指摘されExmouthまでレッカー移動を余儀なくされました。警察にはこれまでの事情、Exmouthではアライメントの修理ができないこと、新品のスペアのタイヤと前輪を取り替えれば車の横ぶれは抑えることができるし、カナーボンまでは安全に運転できることを説明したのですが、聞く耳を持ちませんでした。自分はパトカーに乗りExmouthまで引き戻され、車はレッカー移動でExmouthまで戻ってきました。おまけに200ドル近く払わされました。踏んだり蹴ったりとはこのことです。
パトカーに乗っている間、警察に「車を誰か引き取ってくれないか、捨ててしまいたい」というような泣き言を言っていた記憶があるので相当追い詰められた精神状態だったとおもいます。出発したときに、4000ドル近くあった資金もあっという間に減っていって資金的に旅を続けられるか自分の中で迷いが生じてきていました。
結局、新品のスペアのタイヤと取り替えて警察からゴーサインが出ました。「だから言ったでしょうが」と心の中で毒づきながら出発しました。
1月3日、Exmouthから再びCoral Bay に向かい、Coral Bay で一泊しBroomeで知り合ったポーランド人のルーカスを乗せCarnarvonに向かいました。Exmouthに滞在しているときにルーカスから連絡が来てお互い偶然近いところにいることがわかったのでCoral Bay で合流することになっていたからです。
Coral Bay とExmouthの写真を載せたいのですが、その頃の写真は残っていませんでした。相当必死だったのだと思います。
Coral Bay で拾ったルーカスにとってもらった写真で、カナーボンに向かっている途中
2013年1月〜2013年3月
Carnarvon
ようやくCarnarvonに到着し、ホイールアライメントをしてもらいにタイヤパワーにいったのですが、設備があいにく壊れていて、修理できない、設備が直るのは早くて一週間後だと告げられてしまいました。
その瞬間、旅をここで一度中止することを決断しました。
そのタイヤパワーの店員に知り合いのファームで雇ってくれそうなところをおしえてもらい、ルーカスと行ってみましたが、仕事はないということでした。
手当たり次第ウーフ先に連絡をとり、そのうちの一件から承諾が取れたので、私はその週の日曜日からウーフをすることにしました。キャラバンで一泊し、次の日の朝、ルーカスをバス停まで送っていって別れました。ウーフまで中一日あいていたので目に着いたお店、ファームにかたっぱしからレジュメを配り歩き、ウーフ期間中にどこかから連絡が来るのを待ちました。
ウーフ先はバナナ・マンゴー農家でイタリア系移民のマイクとフィリピン人のニッキー夫婦(?)の営んでいる農場でした。バナナのピッキングは初めてだったのですがかなり重くて、きつかったのを覚えています。ここには2週間滞在しました。
私以外に台湾人のウーファーが四人いたのですが、そのうちの一人が既に二ヶ月以上滞在していて他の台湾人が英語をほとんど話せないのに乗じて、自分のやりたくないきついポジションを他の台湾人に押し付けているようにみえました。
マイクとニッキーがバナナを売りにPerthへ行き一週間家を不在にするとき、ニッキーに各人に仕事の割振り等をするよう自分が頼まれていたので、なるべくフェアーな形で割り振ったと思うのですが、新参者の自分が色々決めていくのはその一人にはおもしろくなかったようで、結果、台湾人達は仲間割れ、その一人を孤立させてしまいました。
もう少し上手くやれたのかもしれないと悔やまれます。こちらが正義である、と顔に出ているようなやつの言うことは聞きたくないのが人情だと思います。感情は論理に勝るということかもしれません。
ウーフをはじめて一週間が経過したころに、Carnarvonに着いた頃にレジュメを配った中華料理屋から仕事のオファーがあったので、ウーフを2週間で切り上げました。
Gum Treeで見つけたシェアハウスに連絡をとりましたが、部屋は埋まっているということだったのですが、ならば駐車場とシャワー、トイレを週50ドルで貸してくれよう交渉して、そちらに移り中華料理屋で働き始めました。
Carnarvonの暑さと蚊に悩まされ、車の中では熟睡できずかなりきつかったのを覚えています。
中華料理屋では、コーヒーを作っていたのですが、あまりに仕事が遅いのとオーナーがマネージャーに人を減らすよう圧力をかけるので、週末だけ仕事することになってしまいました。
中国人マネージャーのケビンには最初の研修一週間終了時点でこの仕事は向いていない、今週働いた分は無給でいいから辞めさせてくれるよう頼んだのですが、「仕事はできないけど、お前は正直でいいやつだから、雇い続けたい、土日だけきてくれ」と頼まれてしまい、仕方なく土日だけ続けることにしました。
土日なので時給は25ドル。平日仕事をする必要があったので最初の頃にタイヤパワーに紹介された、農家に再度行ってみたところ仕事をくれることになったので、平日は農作業、週末は中華料理屋で働いていました。農家ではマンゴーのシーズンはほぼ終わっていたのでシーズン外でしたが、探せば仕事はあるもので、収穫が終わり畑に不要になったホースやビニールの撤去をしました。
スティーブの家のアコモデーション
またシェア先(といっても駐車場を間借りしているだけですが)の台湾人を家まで送ってきた農家のスティーブと知り合いになり彼の持っているアコモデーションに格安で住めることになりました。エアコンつきで週60ドルだったと思います。1月、2月のカナーボンは滅茶苦茶暑いので本当に助かりました。
その後、スィートバナナというバナナ工場から仕事をもらったので、平日の農作業の仕事はやめて工場で働くことにしましたが工場の閉鎖的な空間に嫌気が差し一週間で辞めて、Carnarvonを出発することに決めました。
この時、車のインスペクションと修理代で一時500ドルをきっていた所持金は2000ドルまで回復していました。
カナーボンには当初、二ヶ月もとどまることになるとは思っていませんでしたが、出会う人みんなが助けてくれて良い思い出になりました。
今振り返ると車が故障していてよかったと思いますね、故障していなければそれらの出会いはなかったわけですから。当時は必死だったのですが不思議なものです。
中華料理屋のマネージャーのケビンは、永住権取得のために奥さんと中国からオーストラリアに来ていて毎日休みなく朝から晩まで働かなくてはいけない立場でした。「俺がもし日本人だったらオーストラリアに永住権を取りに来る必要はなかっただろうなあ」という言葉が印象に残っています。
Carnarvonを出発し途中立ち寄ったGeraldtonは町の雰囲気、人々の雰囲気が非常によく、町を少し散策すると求人募集を出しているお店がいくつかあり、またSeafood工場も近くにあり簡単に仕事を見つけられそうだったので、ここにとどまるか一瞬迷ったのですが、バッパーにいる人間の雰囲気があまりよくなかったので次の日そこを後にしました。
Geraldton
Broomeで知り合った韓国人の友人からDonnybrookには仕事がある旨をきいていたので、Donnybrookに向かいました。
途中立ち寄ったFremantle
2013年3月〜2013年7月
Donnybrook
ドニーブルックにつき、友人の韓国人に会い、その日は彼の居候先に一泊し、翌日Brooklodgeというバックパッカーに移りました。
ここに到着した時点で、残りのビザは約五ヶ月しか残っていませんでした。
着いて早々、ピアーのピッキングの仕事をもらえたのでしばらくここに滞在することにしました。
僕は運よく部屋が空いていて、泊まることができたのですが、部屋に入らずに空き地にテントを張って泊まっている人達がいっぱいいました。
ここはワークホステルで仕事を斡旋してくれるのですが、
ここに来る前は自分で仕事を見つけなくては意味がないと気負っていた部分があったと思うのですが、それはもうどうでも良くなっていました。
また、
日本人を避けていた部分があったと思うのですが、それももうそれほど気にしなくなっていました。
この先、日本へ帰って、どうしようか。
このことばかり考えるようになっていました。
また、資格試験に挑むか、別の方向に進もうか、どういう状況だったら幸せになれるのかなどなど。帰国後の今も考え続けていることです。
ピアーの収穫が終わり、別のファームに移り、そこで三ヶ月働くことになりました。
ニールとリンダの営む農場でした。リンダは最初無愛想にみえたのですが、実はすごく良い人で、ニールも温厚な人でした。
他に日本人と台湾人がいて三人でやっていた仕事も終わり、最終的には一人でこのファームで働いていました。
りんごのピッキングが終わり、一人で電動の機械でプルーニングをしていましたが、下手すると指が吹っ飛ぶので気をつけて作業していました。
写真にあるように晴天の中、朝から農場で仕事するのはものすごく気持ちよかったです。ああ、こういう快楽もあるのだなと、改めて思いました。
休日はマーガレットリバーへ 。
帰国二日前の夕日
Donnybrookを発つ前日に丘に登って撮った写真です
ビザを残り一ヶ月強残したところで急遽日本へ帰ることを決断しました。
海外就職支援プログラムの面接を受けるためです。日本到着後、すぐに準備をして面接には間に合ったのですが、あいにく面接を通過することはできませんでした。
その後、富士山の山小屋で一ヶ月ほど働き、
台湾を一ヶ月かけて一周し、
白馬のホテルで冬季シーズン中働き、
今に至ります。
この豪滞在中の1年10ヶ月という期間と日本帰国後の期間を通じて、
自分が何をしているときが一番幸福であるのかということの、一つのヒントがあるとしたら、それは「自然」だと思います。
都会ではなく、田舎の自然の中で働いているときが気持ち良かったからです。
今すぐではないですが、将来的には自然のなかで生活したいと思っています。
まとめ
日本とオーストラリアの違いはなんだろうか。
国土の大きさが違う、町並みが違う、社会保障が充実している、資源国だ、サラリーが高い、色々違いはあると思いますが、
一番大きな違いは人だと思います。
ウーフで出会ったジョンにしろ、ティムにしろ、彼らは自分の好きなように自由に生きている。言い換えるとわがままに生きている。
個々の日本人を観察していると、わがままということに非寛容であると思う。
一人一人が他人に迷惑をかけないように、まずは全体の利益を考える、それから自分の行動を決めるというような行動様式になってしまっている。そうして俺が我慢しているのだからお前が我慢しないのはおかしいと、空気を読むことを強制し、みんなで押し付けあっている。しかし、例えばIGAで出会ったオージーはフルタイムで働き始めたけれども、奥さんが妊娠していてPerthに移りたいと言っている、という理由で採用から一週間で仕事を辞めていた。この場面で誰かに迷惑がかかるなんてことは考えないし、周囲も気にしない。日本はどうだろうか。
ダーウィンで出会った世界一周中の日本人はフィンランド在住で建築関連の仕事をしていたそうですが、日本で働いているときは周囲の空気を読んで遅くまで残業しなくてならなかったがフィンランドでは定時の16時で仕事を終えていたそうです。日本は先進国だとずっと思っていたけれども、実は貧しい国なのではないか。
低い生産性を労働者の犠牲で補い見かけだけ高いGDPを維持しているだけの砂上の楼閣なのではないのか。
確かに社会の側に立って、物事をみるということは、3/11の震災のときに人々が騒ぎ立てず秩序だって行動していたように良い面がある。しかし、それは同時に、精神の自由な発露を失わせ、自由な思考を奪いロボットのような人間を作り出すのではないか。自由にあるがまま生きるということがなぜこんなに困難な社会になってしまったのか。
それは、大多数が自由を求めていないから、だと思います。
言い換えると、民度の高さが仇になってしまっているというか。平たく言うと、個々人がまじめで、仕事を辞めないからブラック企業がなくならないのと同じ原理が社会を覆ってしまっているから、だと思います。
まずは自分が、社会の側に立って物事を見るのをやめにしないとだめだと思います。少なくとも自分は自分の視点から物を見つめるようにしたい。日本がどうなろうと構わない、自分がよければそれでいいのだ、という態度が、逆説的ではあるが、社会を良くすることにつながるのだと思います。
自分が住みたいところに住み、付き合いたい人と付き合い、食べたい物を食べ、働きたいときに働く、眠たくなったら寝る、わがままに生きていく、それが大事なのだと、改めてそう思います。日本で生きるならば、少なくとも
そういう精神を隠れキリシタンのようにスーツのなかに隠し持っておくことが大事なのだと思います。
さて、どこへ行きましょう。
最後に
自分の体験記がどれほど、他の人の役に立つかどうかはわからないですが、読んでみてもらえばわかるとおり、突き進んでいく中で、
困難にぶち当たったときは数をこなすことで大体解決しています。
それは、最初の一週間で決行したシェア探しの焼き直しなのです。
ということは最初のシェア探しでちゃんと数をこなせていれば後は何とでもなります。
ですから、そこは田村さんの言うことを聞いて、数をとにかくこなしてください。
そうすればシドニーを出てどこかでやばい状態になってもなんとでもなります。
自分を変えることはできないけれども、自分をコントロールすることはできます。
田村さんには行動することの大切さを教えてもらいました。
ありがとうございました。