7月 シドニー
オーストラリアに渡ってきた。
渡るまでの経緯を少し説明すると、日本で勤めていた会社はその中で未来の自分の行きつく先が見えてしまったような気がしたのが辞める決心をした主な理由だった。会社を辞めた後は行ったことない海外を暫く旅するというのは就職したときに決めていたので迷いはなかった。英語圏にしたのは再就職の際に役立つかもしれん、という保険の意味合いが大きかったので正直どこでもよかった。
たまたまAPLaCを見つけ、趣味でやっているような田村さんの商売っ気の無さに惹かれてお願いすることにした。自分は変わった人が好きだ。
その日の天気は雨時々曇りだった。自転車抱えてきたのにも関わらず、電車に乗って自力で家まで行くという挑戦をする。重かった… でも何とかなったよ。オーストラリアは凄く寒かった。同期のMさんと湯たんぽ抱きながら話を聞いた。
二日目のお昼は田村さんに連れられてMarrickvilleのヴェトナム料理屋でランチ。料理の美味しさに夢中になる。
シェア移動の当日、メーガンさんと
家探しインスペクション1日目にして当然のようにトラブルを貰う。
住所が聞き取れなくて駅の反対側を30分近く彷徨ったと思う。もう諦めよう、英語の出来ん自分が悪いんだ… と思ったが、大家さんが諦めなかった。何度も電話をかけてきて、最後には車で迎えに来てくれた。
怯えの入った自分の前に現れたクレイジーなハイテンションの女性、この人がシドニー時代にお世話になるメーガンだった。少し話が脱線するけれども、彼女の父はパプアニューギニアで日本軍と闘っていた。自分は第二次大戦の頃の敵の家系にお世話になっていたわけで、それを隠さずに自分に語って聞かせてくれた事を一番感謝しています。後、初日ということで同期のMさんと一緒に回っていたので自分のパニックに全て付き合わせてすみませんでした。
シェアハウスのベランダにはクッカブラが時折姿を見せる。
大家さん家族に誕生日のお祝いをしてもらったMarrickvilleのヴェトナミーズレストランで。自分より年下に全く見えない息子に囲まれた借りてきた猫のような自分。
翌日からの家探しは観光も兼ねて自分の行ってみたいサバーブの家を訪問していた。自分はメーガンの家にすぐにでも移る気だったけれども、田村さんに報告したときにこう言われたのは忘れられない。「そんなの普通だよ!それよりもっと良い家いっぱい出てくるからもっと見て回らなあかん!」結局その後、優良物件を2件見つけたけれど、最初の家を越える事はなかったんだけれども、言葉が出来ないからこそ人間がダイレクトに分かるという経験は十分に出来た。
大家さんの長男とLeichhardtのジェラート屋での一枚はお気に入り。
NSW Conjola Beachは大家さん一押しだったんですが、確かにここより素晴らしいビーチはなかった。その後で自慢の親戚コールドチズルのドンウォーカーの娘と合わせてくれたのでした
語学学校はELSISを選んだ。文法わからないのにPre-intermediateに入れられて、わからないのを耐えてしまって大失敗した。素直に、わから〜ん!、って言ってクラス落してもらえばよかった。7月の学校は辛かった…
仕事はジャパレスを50件当たって面接3件、1時間でクビ1件、採用1件。時給は13ドルだったが週4しか入れなかったので週の収支はマイナスだった。自分はキッチンハンドで採用だったし、レストランは料理が趣味の自分には合うかもしれんと思っていたが、決められた通りに料理を盛り付けたりするのは実につまらなかった。でも結局シドニーを出るまでここで働いていた。
8月〜10月シドニー
大家さんの親戚とBBQをしたり、ブルーマウンテンに連れていってもらったり、語学学校の仲間でPUBやCLUBに行った、というイベントはあれど、基本的に単調な毎日に飽きて早くシドニーを出たかった。
11月 ダーウィン、キャサリン、ブルーム、カラナラ、ダーウィン
語学学校をPre-intermediateで卒業し、ラウンドに出た。
目的地はノーザンテリトリーのキャサリン。バスから降りると酔っ払ったアボリジニの集団にからかわれて怖くてそっちを見れんかった。泊まったバッパーには大きなマンゴーの木があってたわわに実がなり、雨期なので毎日スコールがきて、凄く暑くて、と、味わったことのない環境を満喫していたけれども、仕事は見つからず。バッパーに長期滞在している奴等はサンダルウッドの農場で時給23ドルで働いていたが空きはなく、結局引越しを1回やっただけでブルームに移動することにした。ブルームに移動した日にGUMTREEから反応があって、ああ運が無いな… と思う。
ブルームはバスから降りた瞬間に、ああこの町嫌いだ、と思ったので1日で移動する事に決めた。何故かはわからない。カラナラへ戻るバスを待っているとアボリジニのおっちゃんにしつこく絡まれ、独りにしてよ、と言ったら自分のバックを枕にされて寝てしまった。実に訳がわからない。
WA Kununurraの湖は周りが砂漠の中で美しい景色。
カラナラは目の前に湖がある小さな町で好きだったんだけど仕事がなかった。
ホリデーヴィレッジ、キャラバンパーク、建設現場、全て回ったけど暇な時期だった。
しかし、そんな中でも仕事を見つける奴もいて、運の良し悪しを強く感じた場所でもあった。
同じ宿のイタリア人がクロコダイルを釣りに行くというので付いて行ったら本当にクロコダイルがいた。そしてルアーに喰いついた!結局バラしたんだけど、あの湖はクロコダイルはいるわテッポウウオはいるわ大きなナマズはいるわで仕事さえあったら釣三昧できたはずなので悔しい。
バッパーにステイしている奴等の噂で南が良いらしいということで、ダーウィンからメルボルンに飛ぶことにしてグレイハウンドのチケットを買ったら金がなくなったので預けておいた30万円を送金してもらう。ダーウィンには3日泊まってメルボルンに飛んだ。
12月 メルボルン、ミルドラ
メルボルンはやたらと寒かった。真夏の格好だった自分は場違いであった。
ろくに市内も観光せず、毎日電車とバスを乗り継いでモーニントンペニンシュラの農場を当たるも全く手応えはなかった。
道に迷ったときに一度ヒッチハイクもした。彼は駅へ向かう途中に景色のいい場所にわざわざ寄ってくれて素晴らしい海岸線を見せてくれた。
VIC Milduraで農作業後の一枚。真中のバングラデッシュ人は自分のイスラム教徒への見方を変えさせてくれた一人。リーダー格は真中後ろでニヒルに笑うスペイン系フランス人。
ここで公共交通機関と徒歩の組合せでは機動力に不満を感じた自分は自転車とテントを購入する。お金が尽きても野宿で何とか… という甘い考えもあった。
この頃は農場の仕事をとにかくやってみたくて、お金がなくてもレストランで働くという選択はなかったな。
ある日、ガバメントに電話をかけてみるとミルドラで仕事があるという。教えてもらったバッパーに連絡を取ると、明日から仕事が始まるという。結果からいうと、これは嘘だったんだけど、信じた俺はその日のうちにミルドラへ移動を開始した。
ミルドラの初めの一週間は仕事なし。次の週からは葡萄関係の仕事が出てきたけれど、これがまぁ悪い仕事だらけだったのと、全体的にスレた印象しかなかったので年明けに移動を決意した。
1月〜5月ロクストン
ミルドラからロクストンへは自分の自転車で出かけて行ったんですが、その日の最高気温がなんと43℃、アスファルトの上は47℃で道路が溶けていた。熱されたグリップで手を火傷し、水も無くなり熱中症になって、半分の距離で倒れました。
あ〜あかんわ死ぬわとりあえず水だけ誰かに分けてもらおうと道端にだらしなく座り込んで手を挙げていたら、車が2台止まってくれた。片方の夫婦に水を貰い、もう片方の家族にヒッチハイクさせて貰い、ロクストンに辿り着けました。助けてくれて本当にありがとう。ほとんどのオージーは優しかったです。もうあんな暑い日に自転車は乗りません。
ロクストンのバッパーはオーストラリアで10件泊まった中で二度と行くもんかの最低の宿でしたが、何故か自分ともう一人の日本人だけ良い仕事があったので長期逗留して旅行代を捻出した。宿は最低だったが、農場主でヴェトナム難民のサムは本当に良い方で、迷惑をかけたときもあったが彼は笑顔を絶やさず、折に触れヴェトナムのハムやらお菓子やらをつまみにビールをご馳走してくれた。やがてその仕事も終わり、他の仕事も少しやるうちに季節は秋になり、自転車旅行へ出発する。
5月〜6月ロクストンからパースへ地道な自転車の旅
ナラボー横断中に、東側から一番目のLook outに休憩で立ち寄った時のもの
Great Australian BiteのLookoutから見た景色はよかったなー。ここに着くまでに向かい風と雨で70kmを6時間半もかかったんですけど、だから車で行った人より感動も6倍って感じでしょうか。
初めに自転車旅行の総括を言えば”大自然は素晴らしかった”に尽きる。
宿は主にキャラバンパークかロードハウス、時折ブッシュキャンプ。
何もない平原、360度の地平線、空はどこまでも高く青く、夜空の星は今まで見たことがない多さでそこに只存在し、南十字星から始まる天の川はぶっとく長く、時にはカンガルーやエミューと走り、一度森に入れば巨大なユーカリがそびえ立ち、ビーチの側で波の音を聴きながら眠る。
雨や風に困らされたり、満足に食べれない辛い日もあったがそれもまた良し。
壮大な体験だった。
手付かずの自然を残している(残さざるを得ない)オーストラリアはでかかった。
WA キャラバンパークの夕方。
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旅行の間は喋る機会が減るだろうと思っていたけれど、キャラバンで旅をしている爺さん婆さんは暇を持て余していてお喋り好き。
そして俺は彼らの格好のネタだった様で色んな人に会った。
ワインを飲まないかと誘ってもらったりお金や食べ物を頂く事すらあった。
あ〜本当に楽しかったな。
WA Margaret River付近でユーカリは大きいんだぞという一枚。
7月パース
パース到着!
パースはこじんまりとして新しい綺麗な都市だった。
少し観光して日本に帰国した。
心残りではあったけれどシドニーには結局戻らなかった。
総括
自分はどこだって行けてその気になればどこでも生きていける。少し英語を覚えただけで世界は凄く広くなる。
追伸:今週の一枚の写真、ジャカランダを見てシドニー懐かしいって思いました。シェアハウス探しの時にインコが舞う公園でお昼を食べながら夢の中のようだって思ったのを思い出してしまいました。
補足質問
自転車旅行について
★ロクストンからパースまでってことですが、地獄のナラボーも自転車で行ったのですか?
そうです。二週間ほどかけて抜けました。今でも、オージーにナラボーというと反応が変わるので重宝してます。
★自転車旅行をする人へのアドバイスとか、ありましたらお教え下さい。
できるだけ簡潔に。
1.夏は走れません。オーストラリアの自然はとても厳しいです。秋から冬ならナラボー平原でさえも水の心配はいりませんでした。
2.パーキングスペースでのブッシュキャンプはお爺ちゃんお婆ちゃんがキャラバンで泊まっているので余り怖くなかった。
3.秋から冬にかけて、ナラボー平原は西から東に風が吹きます。お土産でHeadding Againstと書いたステッカーが売っているくらい、日によっては強い風です。
4.風向きにもよるが、前方に綺麗な虹が見えたらじきに雨。
5.場所によっては電波が届かない携帯電話会社があります。Telstraならカバー率が良さそうです。自分はOptusで時々電波がなかったが気にしませんでした。
6.オーストラリアは平坦かと思いきや、意外とアップダウンがあった。
気分が乗るか乗らないか
ばっと読んで思ったのは、物事の好悪の反応が激しいってことです。ちょっと齧ってそれで止めてる部分も多いですが、逆に興味を持った領域に関しては人の数倍の耐久&攻撃(賞味)能力があります。自転車の旅も、熱中症になって死にかけていたら普通そこでもう懲りて止めたりするんだけど、全然やめてない。自然系についての感動も大きく、「雨や風に困らされたり、満足に食べれない辛い日もあったがそれもまた良し」。食べられなくても「良し」だと(笑)。
そうです。昔からよく両極端な性格だと言われます。気分で動いているとそうなってしまう。
自転車旅行は初めから計画してたわけでもなく、せっかく人生最大の休暇を取ったんだから一生一度しかできないような事をやらなきゃいかんという思いに駆られ気が向いたら最後、やり終えるまで満足できないといういつものパターンでした。
砂漠の真中で食べ物のことしか考えられなくなった時は野生に目覚めていたと思う(笑) 飽食の日本では無理な体験なのでいい経験でした。
ようは気分が乗るか乗らないかというだけで、端からみていると両極端に見えるだろうと自分でも思います。
N.中嶋さんの「おもしろセンサー」に反応する内容は何か?ですが、テイストというかしっかりした「味わい」があること、達成するのが結構難しいという「歯ごたえ」があることなんじゃないかなと。パターンが見えたら攻略完了みたいな浅いものだと白けてしまう。
自然についても、奥が深くて味わいが濃くて難しいからじゃないでしょうか。いわゆる癒やし的なものだけじゃなくて。
ここの部分は勘の赴くままなので、何がスイッチを入れるか自分でもわからないんですよ。
でも、パターンが見えたら白けるというのは当たっていると思います。
確かに自然は絶えず変化するから奥が深いですよね。
逆に「気分が乗らない」領域について、体験談でも「おもろない」って切り捨てるのが、ややもすると辛辣ですよね。「実につまらなかった」「単調な毎日に飽きて」「ああこの町嫌いだ」「悪い仕事だらけだったのと、全体的にスレた印象しかなかった」「二度と行くもんかの最低の宿」、、、沢山ある。「いまいちピンとこなかった」程度にさらりと流しても良さそうなんだけど、そこでなんか「ムキになってる感」が行間から立ち上がってるんですよね。「こんなんダメだ!」みたいな。
ここの部分、他人からはそう見えてるのかなというのが感想です。
体験談に書いた、田村さん曰く「ムキになってる感」の部分も、学校があったり、まとまったお金がなかったりで移動したくてもできなかった時期(ほとんど)なんですけど、これは実に自分の子供っぽいところなんだけど、「興味が他に移っているのにそこに止まらなくてはいけない」のが凄く苦痛でしょうがない反動の記憶ですね。
対象がなんであれ、一度気が向けばやらずにはいられないんだろうなと思うんですけど。ときとしてネガティブに向きやすい自分ではありますが、興味が向いたことは楽しいという思い一筋でやっていこうと思っていて、つまらないことを無理して頑張ろうとは思ってないです。そして、興味の向かないことは気が乗らないので攻めあぐね、結果もよろしくないのかな。
バイトでもなんでも生活するのに足りれば死にかけるまで拘ることはないでしょうね。でも、本気の仕事は趣味的な要素が入っていないと続かないとわかったのでまた別です。
そのあたりの性格は変わらないよねって思ってますし、またそう悪いことばかりでもないです。一旦人間関係を構築したら駄目になることは少ないし、興味を持ってくれる人もいる。大体そういう人は味方になってくれる場合が多い。これも個性の内かなと思います。
近況〜ベトナム
(以下、近況について尋ねた返信における補足)
今はベトナムで暮らしています。仕事も見つけた【自分の興味が持てそうな分野(つまり自然系)で見つけれたのはラッキーだった】ので移住ができます。
では、なぜベトナムなのか?
現実的な条件として日系企業が多そうなので現地採用の枠があるというのがあったけれども、他のアジア諸国やあるいはハードル高そうだけど欧米もある(ここの部分は自分は英語満足に使えないしで諦めてる部分もある一方で、本当に興味があるなら駒はどうとでも転がるはずという思いもある)。
でも、自分はオーストラリアでベトナム人と会ったんですよ。ELSISにいたし、ファームにいた。いい人も悪い人もいた。彼等は何故か自分に興味を持たせてくれた。直感で行かなきゃいけないと思ったので、カナダワーホリの準備をしていたのに止めてベトナムに来てしまいました。出会った人数は両手以下で圧倒的に白人より少ないのに不思議なものです。
さて、自分は何に対して興味を持ったんでしょうか。人か国か?人の集合体が国なら人間ということになるんでしょうか。オーストラリアで出会った彼らと深い話をしたわけでもなく、一緒に共同生活したわけでもなく、大体こっちにきた当初の知識は食べ物が美味いらしいということとベトナム戦争があったくらいしか知らなかったのに、いきなり移住してやろうと思わせたのは何なのかも謎で、いつもの直感としか言いようがない。現実的な条件その2として、最近の日本がどうも嫌な方向に向かいつつあるのでそれならいっそ... ということもあるのですが、それだって自分の興味と比べれば大した問題ではないと思います。
まとめて頂いた後ではありますが、上記の内容はどちらかといえば現在感じている内容が大きいので体験談及び回答に噛み砕いて入れることができなかった内容ではありますが、必要でしたら含めてください。
(ありがとうございました。噛み砕くまでもなく、ほぼ原文のまますっぽりフィットします。僕の感想については紹介文に多少述べます。)
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