1. Home
  2. 語学学校研究
  3. ワーホリの部屋
  4. 体験談
  5. 宮崎さんのワーホリ体験談
2011年06月03日


宮崎さんの体験記




滞在期間:2011年1月11日〜5月22日
Sat, 21 May 2011記

シェア探し

シェア探しは本当にいい経験でした。
このときは、まだオーストラリアに来たばかりで、自分の英語力がどれだけやばいのかもよく分かっていなくて 笑、でもだからこそできたのかもしれません。それに、到着したばかりでなによりも勢いがありました。

初めての家に行ったときのことは本当に鮮明に覚えています。
無事に家を見つけたものの、約束の時間まで1時間もあって、近くの公園で田村さんの作ってくれたサンドイッチを食べ、ひたすら電話をかけるときに言うフレーズを音読練習。

シェア探し中、いつも中途半端に時間が空いては公園に行っていました。
シドニーには本当にたくさんの公園があって、広いし、音読練習にもアポ取りの電話をかけるにも、最適の場所でした。

初めての家に行く時には、ものすごい緊張していて、心の中で
「これはファミコン。私はゲームのキャラクター。
相手もゲームのキャラクター。失敗してもゲームオーバーになるだけで、またリセットできちゃう!!」
と意味の分からないことを真剣に考えていました 笑。
今考えたら笑えるけど、当時の私はそれを真剣に想定してインターホンを鳴らしました。
出てきてくれた人が何を言ってるのかは、ただでさえ分からないのに緊張してさらに分からず。
でも、そんな私にも嫌な顔せず家を見せてくれました。

数件目に行ったところは、びっくりするような狭くて汚い薄暗いところ。
しかも出てきたインド人が、家に入る前に「何でここに来たのか?」みたいなことを聞いてきて、内心「なんでって家探してるって電話でも言ってるから分かってるはずなのになんで?!?!」と思うものの英語でなんて言えばいいか分からず。そのままなんとか家に入れてもらったものの、出てきたオーナーはすごい迫力の人で、その人にもよく分からない質問をされて、とにかく怖かった 笑。
家もさすがに住めないな・・・と思うようなところで、逃げるように帰ったこともありました。でも、田村さんのところに帰って必死に話したら、田村さんに「怖がりすぎ」と笑われました。

いろんな家があったけれど、
本当にみんな優しかったです。
どのバスに乗ればいいか分からなくて、運転手さんに聞きまわってるうちに、約束の時間が迫ってきて、困ってシェア先に電話。
電話したはいいものの、道に迷ったことを伝えたはいいものの、
相手が言ってることが分からず、聞き取れず30回(←決してオーバーに言ってないです 笑)くらい「Sorry??」と聞き返しても、根気良く説明してくれ、約束の時間をとうに過ぎても、家について「遅くなってごめんなさい」と言うと、笑顔で「気にしないで!!無事に着いてよかったわ」と言ってくれる人もいました。
そして、みんな帰るときには「どこに行くの?行き方分かる?」と聞いてくれ、行き先を言うと、丁寧に教えてくれました。

サバーブによって雰囲気が違って、いろんな地域を歩けたのも良かったと思います。
学校に通うようになってから、友達とどこに住んでるのかっていう話になったときとかも、すぐに自分の頭でイメージできるから話がしやすかったです。

Lindfieldのシェア先の前で。「毎日が林間学校シェア」
最終的にはLindfieldの家に決めたけれど、ここは完全に家の雰囲気でした。
私が日本にいた頃想像していた「外国の家」のイメージにピッタリ!!!
行った瞬間、決めてましたね。
すごく静かで、colesもあって便利だったし、ルールも厳しくなかったし、シェアメイトは入れ替わりがけっこうあって、よくよく聞いてみたらオーナーがちょっと癖ありの人だったらしいけど、私は英語が堪能ではないためそんなややこしいことに気づくまでもない感じで、快適でした 笑

家にネットがなく、みんな個人でUSBタイプのネットを使っていたのですが、これも今となってはいい経験になりました。

それを自分で買って、契約(プリペイドです)しないといけないので、Kマートに買いに行き、とりあえずどれを買ったら使えるのか分からないので、店員さんをつかまえて、かなり意味不明な英語で必死に質問。
教えてくれてることが分からなくて、自分が知ってる単語で使えるのか使えないのかを何度も確認。
ようやく買ってきて、家に帰って、英語の説明書と格闘。
しかし、ネットでチャージできるはずができず。
後日、vodafoneショップにかけこみ、そこで「日本語表示じゃ分からないから英語表示に変えて」と店員さんに言われるも、PCをどうやって英語表示にするか分からずテンパる・・。
するとそこに現れた別の店員さん!!!
彼は日本語は読めないけど、PCの日本語表示は理解できると言って、サクサクとインストールしなおしてくれました。
で、ネット上からチャージするにはオーストラリア発行のクレジットカードでしかできないということ。
結局、現金でもお店でならチャージできるということで、無事に使えるようになりました。
このときは、辞書片手に言われること全て、辞書で引いて話をする感じでした。
でも、必死になればなんとかなるということをこのときも感じました。


語学学校

学校はELSISに17週間。
日本人が少なくて、私は17週のうち、半分以上の期間はクラスに日本人が自分だけという環境でした。
国籍も様々でよかったです。

スタートはレベル3から。
入ったばかりのときは、本当に何も分からなかったです。
授業に出てくる文法用語も全く知らないし、とにかく辞書で引ききれないくらいほとんどの単語を知らなかった感じでした。

授業中、ペアになってやるのとかも、私が先生の言ってることを理解できないから、いつもペアになった子が改めて説明してくれていました。ゲームのときなんて、私が理解してないから私と組んでる子はちっともゲームに勝てません。でも、誰も嫌な顔をしないで私に教えてくれました。
「授業難しい?」と聞かれたことがあって「難しい」と答えたら、
「最初はみんなそうだよ!!でも、毎日来てるうちにすぐ慣れるから大丈夫!!」と励ましてくれたり、
テストが近くなってきたとき、テキストの後ろのほうについている文法のまとめられたページの存在を教えてくれて、「これを良く読むと分かりやすいよ」と教えてくれたり、クラスメイトもみんな優しかったです。
半月レベル3、2ヶ月レベル4、1ヶ月半レベル5というかんじで、クラスが変化していきましたが、
いつもクラスのレベルに慣れてきたころに次のレベルに上がるので、常についていくのに必死でした。
常に誰よりも英語力がなく、みんなに助けてもらってばかりでしたが、勉強するには必死にならないとついていけない環境くらいで良かったと思っています。
学校では授業の中でいろんなことを話したりして、本当に楽しかったです。
それぞれの国によって、全く違う価値観があったり、そうかと思えば日本と同じようなことが別の国でも問題になっていたり。
そういうのを、他国の人たちの口から直接聞くというのは私にとって、一番楽しい時間でした。

学校でできた友達で、私はイタリア人で特に仲良くなった子がいて、よく一緒に遊んだし、彼女の方が先に卒業してしまったけど、私が卒業した後、一緒にメルボルンに旅行に行きました。
日本人以外の人と旅行に行くなんて初めての経験だったけど、すごく楽しかったです。
その子の彼氏と3人で行き、メルボルンで別のイタリア人と合流して4人でレンタカーを借りて、グレートオーシャンロードへ行ったのは最高でした。
道中、道に迷ってカップルがケンカになって、私以外みんなイタリア語になって、話してることが全くわかんなくなったり 笑。
でも、みんな本当に楽しい人たちで、何も不自由のない旅行ができました。

バイト

バイトは学校が始まった週にすぐ探し始めて、翌週から働き始めました。
家がLindfieldだったから、シティではなくてChatswoodのジャパレスで働きました。
時給9ドル。
働きながら、ローカルにレジュメ配りを開始。
バイトのない日はレジュメを持って、シティを歩き、飛び込みでレジュメを配り歩きました。
レジュメは学校で「job search」のワークショップに出ていて、そこで先生が添削してくれたり、学校の友達で私よりも英語のできる友達が一緒に作ってくれたり助けてくれました。

しかし、ジャパレスのバイトが、面接のときは週4〜5日入れてくれるという話だったのに、トレーニング期間の2週間を過ぎても、週3日しか入れてもらえてなかったため、「これじゃあ生活できない!」と思い、ローカルと並行して別のジャパレスのバイトも探す。

最初のバイト先は場所柄、ほとんどのお客さんがアジア人だったので、オージーが多い店に絞って探しました。
アジア人ばっかりのお店がダメなのではなく、せっかくだから違った雰囲気の店で働きたかったのです。
で、次に働くこととなったのがCammerayにあるジャパレス。
ここはお酒をたくさん取り揃えてることが売りのお店だったのでRSAが必須。
RSAは1日で簡単に取れました。
そして、お客さんの9割はオージー。
しかし、やはりネイティブばっかりのお店では、本当に何を言ってるのか分からなくて、最初は泣きそうになりました。
スタッフは日本人が多いですが、オーナーはアメリカ人。他にも、オージー、フランス人、ベトナム人、韓国人など、いろんな国の人がいました。
私のあまりの英語のできなさに「なんで英語話せないのにオージー相手の店に来たの?」と言われたこともありました・・・。
さらには、働き始めて3週間くらいしたとき、マネージャーに呼び出されて「あまりにも仕事できないから、
来週1週間様子見て、変化がなかったらクビ」と・・・!!!!
このときは焦りましたね 笑。
だってもう前のバイトも辞めちゃってるし。

でも、切り替えはもうすでに早くなっていた気がします。
「精一杯頑張ってダメなら仕方ない。」と思って、
そのとき自分のダメなところを全部言ってもらって、徹底的に気をつけました。
ワインや日本酒などのメニューも毎日メニューを持ち歩いて、時間さえあれば暗記、暗記、暗記!!!
でもその甲斐あって、クビを免れました〜

マネージャーに「意外と打たれ強かったな〜」って笑われたから、もしかしたら本当にクビにする気じゃなかったのかなって思ったけど、後々になって、本当にクビになった人もいるって聞いて、このシビアさが海外!!と思いました 笑。
ここのバイトはとっても待遇が良かったです。
たまに、理不尽なことを言われたりしてイラっとすることもあるけど、ホールスタッフはみんな優しいしいい人達でした。
時給が手取り12ドル。オーストラリアの銀行口座があれば、TAXリターンするようにもらうこともできるし、手渡しでもいいし、選べました。
給料とは別にチップがもらえます。1回のディナーで10〜20ドルくらいもらえます。
なので週5働いたらチップだけで100ドルもらったこともありました。

さらに、お店で出してるワインの味を覚えるようにと、仕事後にみんなでワインをよく飲んでました。
もちろん賄いつき。Cammerayは行きにくい場所だけど、車で来てる人がいるから、方向が同じだと送ってもらえます。

私は、日本にいた頃、ワインは全く詳しくなく、赤ワインなんて飲めなかったのに、ここでバイトをして、よく飲んでいたら、今ではすっかり赤ワイン好きになりました。しかもワインの味の違いがこんなにもあるんだってことを知って、すっかりはまってしまいました 笑。
お客さんもいいお客さんが多かったです。
本当に何言ってるのか全く分からなくて、他のスタッフに助けてもらうこともあったけど、ほとんどのお客さんが、下手な英語を一生懸命聞いて、ゆっくり話してくれました。
常に、言葉の壁があることで、本当に気が抜けなかったけど、学校では使わないような言い回しも覚えられたりして、すごくいい経験になりました。

予定変更帰国〜ラウンドに行かなかったことについて

当初の予定から、私は半年間という期間限定のワーホリでした。
今年の10月に結婚することが決まっていて、その準備期間に最低3ヶ月は必要なため、7月中旬には帰国する予定でした。
このタイミングに来たことに関しては、私が今の彼と付き合う前からワーホリに行きたかったというのがありました。今の彼とは付き合って4年になります。

私は日本でネイリストとして働いていました。
大学生になるまで、英語どころか海外にも全く興味がありませんでした。
「日本人に生まれたんだから日本語だけで十分!」と、今となってはあの頃の自分が信じられませんが、本気でそう思っていました。
しかし、大学時代、たまたま友達と行ったHawaii旅行。日本人の定番と言われていますが、私にはその旅行が本当に衝撃的でした。海外は日本とこんなにも違うのかと。
その感動が忘れられず、一気に海外に興味が湧き、大学4年のときはバイトをしてお金が貯まっては海外旅行へ行きました。
ハワイ、イタリア、グアム、ギリシャ、NYと行き、その頃にはすっかりはまってしまいました。
大学を卒業して、すぐにネイリストとして働き始めましたが、海外で働きたい、海外に住んでみたいと思い、いろいろ調べた結果、ワーホリという制度を知りました。
2年間、日本で働いて一人前のネイリストになって、お金も貯めて、ワーホリに行こうと決めました。

それからも、年に1回は何かと理由をつけて休みを取り、海外旅行へ行きました。
しかし、2年が経ち、そろそろ行こうかと考え始めた頃、日本のネイリスト協会の制度が変わり、それまで私には受験資格の足りなかった「認定講師」という資格が私にも受験できるようになりました。
この試験は合格率20%以下の難関試験で、そう簡単に受かるものではなかったし、ネイルの技術は世界でもトップレベルの日本。
このタイミングで海外に出るのは、ネイリストとして中途半端になってしまう気がしました。
認定講師になるのは、私がネイリストになったときに掲げた目標でもあり、どうしても取りたい資格でした。
私は、悩んだ結果、この資格を先に取得することにしました。
しかし、この頃今の彼と付き合い始めて、同棲を始めました。同棲するにあたって、両方の親に相当反対されたこともあり、結婚の意志があるのかどうかもいろいろと言われました。結果的には、両方の親が納得してくれて同棲することになり、その年に講師試験に挑戦し、無事合格。
しかし、同棲しながら、自分だけ海外へというのはもうこのときには諦めていました。
そして、ネイリストとしての経験をより向上させるため、講師も始めました。私の教えていた学校は担任制なので、一度受け持つと生徒が卒業するまでの2年間、拘束されることになります。

そして、彼女達が卒業することになる半年ほど前、これからの自分の人生を考えていて、私はやっぱり英語を勉強したいと思いました。
英語の勉強は日本にいてもできると思ったからです。
それを彼に話したところ、大学時代2年半アメリカに留学していたこともあり、英語の難しさもおもしろさも大切さも知っていた彼は、ある日突然、
「しばらく1人で海外に行ってみる?」と提案してくれました。

理由としては、彼も自分がアメリカに留学したことによって、視野が広がったこと。
将来は海外に出て仕事をしたいと考えていること。
そのとき、私が全く海外で生活したことがない状態で行くよりも、海外を経験して行くのとでは大きく違うこと。
本気で英語を勉強したいなら、何よりも現地に飛び込むのが早いこと。
1人で海外に行くということ自体が、私の人生においてとても貴重な経験になるであろうこと。

その話をされてから、私はすぐに行くことを決めました。
日本では、いろんな意見をもらいました。その時点で結婚がきまっていたし、こんなタイミングで行くなんて、
自分の置かれた立場をもっと考えるべきと言われたこともありました。
でも、ありがたいことに、私の家族はもちろん、彼の家族も応援してくれました。
そして、私はここに来ることができました。

本来は、学校を卒業後、ラウンドに行く予定でした。2ヶ月という短いラウンドになりますが、ファームにも行くつもりでした。

しかし、3月11日に起きた東日本大震災により、状況は変わりました。
彼は大阪へ転勤になり、それによって私達の住んでいた家を解約することとなり、引越しは私の親と彼の親に任せきり。日本に残った私の大切な人たちがとても大変なときに、私だけが自分の予定を変えないのはとても違和感がありました。
誰も日本に帰ってこいとは言わなかった。その優しさが、余計に後ろめたい気持ちになりました。
震災のとき、とにかく彼や家族の命が大切だと思った。一番大切なのは、私がここで当初の予定を続けることではないと思いました。

オーストラリアに来て、思ったこと。
私は本当に今まで1人で生きてきたんじゃないということ。
たくさんの人たちに支えられて生きてきたということ。
私のホームは日本でしかないこと。

だから私は日本へ帰ることを決めました。
ラウンドに行くという経験も、もう一生できないかもしれない。
でも一度は諦めたワーホリもこうしてチャンスをもらうことができました。だから、きっと願い続けていたら、いつかまた、別の形でチャンスがくると信じています。

4ヶ月半という期間はとても短く聞こえますが、私自身にとっては本当に長い期間でした。
いろんなことを考えさせられました。

楽しいことより、辛いこと、苦しいこと、淋しいことのほうが多かった。
でも、何よりも感動の多い日々でした。

下手な英語はたいして成長しなかったけど、果てしなく難しいなってことも痛感したけど、それでも、自分の言葉で海外の人たちと話したこと、自分の耳で彼らの言葉を聞いたこと。
それが私にとって、何よりも楽しいことでした。何よりも、感動したことでした。

今まで、私の中には、日本人と外人の間に大きな壁があったと思います。
それは、無意識のうちに自分で作ってしまっていたんでしょう。
オーストラリアに来て、いろんな人と話していくうちに、その壁が、私の中で音を立てて崩れていきました。
その感動といったらありません。みんな同じ人間なんだ。

そんな当たり前のことを当たり前だと感じられることが、こんなにも感動的なことだなんて想像しきれなかった。

日本に帰っても、私は英語の勉強を続けます。
いつか彼と一緒にどこかの国に住むときには、きっとまた、新しい発見も感動も待っていると思います。

私の母国は日本。
私の一番好きな国も日本。
でも、私はやっぱり海外っておもしろいって思います。
地球って果てしなくおもしろい。
オーストラリアに来て本当に良かった。

田村さん、本当にありがとうございました。
田村さんのくれた数々の言葉が、私を支えてくれました。
出会えて本当に良かったです。
これからもお元気で。
またお会いできる日を楽しみにしています。


補充:リアルタイムの経過報告メールから

2ヶ月経過時点でのメール/Fri, 4 Mar 2011


ご無沙汰しています。お元気ですか??
私は、オーストラリアに来て、もうすぐ2ヶ月が経とうとしています。
この2ヶ月、いろんなことがありました。

リンドフィールドのシェア先は、オージーとイギリス人とオーストラリア育ちの日本人の3人で、みんなとっても優しくていい人です。にぎやかにワイワイ楽しくって感じじゃないけど、この静かな感じが、私にはとっても居心地がいいです。

バイトも、学校が始まった翌週から行っていたのですが、面接時には週4〜5は入れてくれるという話だったのに、週3しか入っていなくて、時給も9ドルで安かったので、新しいバイトを探して、今のバイトは今月20日に辞めることにしました。

新しいバイト先は、ジャパニーズダイニングバーで、お客さんの9割はオージー。働いてる人は日本人が多いけど、オージーやフランス人や韓国人など、日本語が使えない人もいて、とっても勉強になります。時給も12ドルだし、週300ドル稼ぎたいと面接時に伝えたら、それは稼げるようにシフトに入れてくれると言ってくれました。st Leonards駅から徒歩20分くらいのところにあって、ちょっと遠いけど、静かないいところです。帰りはマネージャーが、リンドフィールドより北に住んでるからと、リンドフィールドまで車で送ってくれて助かっています。

今は、両方掛け持ちしてるので、毎日バイトに行ってるけど、もうひとつ学校に行ってるみたいで、すっごく勉強になるし、楽しいです。でも、1ヶ月経つくらいのときは辛かったです 笑
日本に帰りたいって思うことなんて、私にはあり得ないと思っていましたが、日本に帰りたくなりました。
新しいバイトを探すために、レジュメを配り歩いても、全く連絡はこず。「あなたのコミュニケーション力じゃ、とても仕事なんてできないから、もっと英語を話せるようになったらまた来て」とはっきり言われたり。
歩きつかれて、休憩しようと入ったカフェで、注文が聞き取ってもらえず、ものすごい嫌な顔をされたり・・・。

これまで、たくさんの人に助けてももらったけど、そういうこともたくさんあって、英語の壁をすごく感じて。毎日、学校とバイトまでの間の時間に学校の予習復習をしていても、当たり前だけど自分の英語がそんな劇的に伸びるわけもなく 笑

学校では、周りのヨーロピアンが、なぜ同じクラスなのか分からないくらい、英語をベラベラ話していて・・・
私のあまりにも文章にならない英語を「え??なにが言いたいのか分からない」といわれたり。もちろん、こんなことを言う人はまれで、基本みんなとっても優しいです。

泣きそうな日々でした。
でも、そういう現実がよく分かって、今はそれを受け止められるようになってきたと思います。
学校でも、運のいいことに初日にイタリア人の友達ができて、その子と休みの日もけっこう遊んだりしてました。

で、とにかく思いつく限り、いいと思ったことは試してみて、自分にできることをやっていたら、最近少しずつ変わってきた感じがします。
学校の授業のディスカッションも楽しめるようになったし。
と言っても、全然ちゃんと話せていないけど、笑われたり、顔をしかめられることに、恐怖感を感じなくなったというか 笑
もう、そういうことがありすぎて、気にしなくなりました。
それでも、話してれば、相手の言葉で言い直して「こういうことでしょ??」と聞いてくれたり、先生が正しい言い方を教えてくれたり。
ゲームとかも、最初は全くついていけなくて、何もいえないまま時間が過ぎてたけど、最近は、グループの中で、誰よりも燃えてるときとかあって楽しいです。

今はまだ、毎日一喜一憂していて、今日何が起こるかわからない日々が続いています。
日本にいた環境が、どれだけ恵まれていたのかを痛感しています。
生活環境は、オーストラリアにはオーストラリアのよさがあると思うけど、家族や友達の存在の大きさは、離れてみて分かったことがたくさんありました。

でも、今、私はここにいられて本当によかったと思っています。
毎日いろんなことを考えて、感じて、それは私にいろんなことを気づかせてくれます。

そういえば、エクスチェンジも一度やったんですが、その人とは波長が合わず、一度きりで止めてしまいました。
来週、バイトの休みがもしあったら、別の人と会うことになっています。
最初に会った人は、私が学校で習ったことを「それは先生が絶対に間違ってる!!」とか断言してきたり・・。
学校で聞いたことと逆のことを、言い切ったり・・。でも、最初からそんなんで判断するのはどうかと思ったけど、
その人の友達でカメラマンの人が日本人のモデルを探してて、そういうのに興味はないかと聞かれて
なんか違うな。と思って、それ以来会っていません。
でも、これにめげずにいいパートナーを見つけられるといいなと思います。

学校が5月中旬に終わるので、そうしたらラウンドに行きます。
その前に田村さん家に遊びに行かせてくださいね♪
また田村さんの興味深い話を聞けるのを楽しみにしています。

東日本大震災直後のメール/Wed, 16 Mar 2011



こんにちは。この前はメールありがとうございました。

今、田村さんのエッセイを読んだんです。
私は、今日28歳の誕生日を迎えました。でも、今1人で家でこれを書いています。
今日は学校の後、PCを持って1人でマックに行き、ずっと日本の震災ニュースを読んでいました。
誰かと、一緒にパーティーをする気にはとてもなれなかったのです。

私の家族は横浜近辺に住んでおり、みんな無事です。父は単身赴任で新潟の長岡に住んでいますが無事。
祖父母が福島と栃木の県境に住んでおり、11日の地震では震度6だった場所に住んでいます。幸い、お彼岸のためにもともとの家がある甲府に11日朝、出発したらしく、震災には巻き込まれずにすんだそうです。
近所には家がなく、また、25年以上経つ家なので、どうなっているかは分からないそうですが、しばらく祖父母は甲府にいるとのことで安心しました。

私は、地震が起きたとき、ちょうどバイト前で家にいて、ネットで地震を知りました。
まさかそんな大きな地震とは知らず、日本の家族と彼に一応のつもりでメールしてバイトに行きました。
バイトが終わるころ、同僚が日本の家族に電話をしていて、その子の実家は屋根が落ちたといっていました。
横浜も道路に皹が入ったと聞き、都内も全ての電車が止まっていると。 仙台は津波で海岸沿いの町がねこぞぎ持って行かれたと。
私の彼は、出張に行くことが多く、地域は北海道から九州までさまざまで、仙台にもよく行っていました。オーストラリアに来てからは、いつどこに出張に行っているのかまで、詳しく聞いていません。
バイトが終わって、ケータイを見ても誰からも着信はなく、こっちからかけてもつながらず。急いで家に帰ってPCをつけると、両親からメールの返信があり「無事だから安心しなさい」と言われました。
でも、彼からは何の返信もなく、会社のアドレスに送ったので、パソコンからもケータイからも確認できるはずなのに、
こんなに何時間も返信がないなんておかしいと思い、血の気が引きました。
そのときは、電話回線もパニック状態だったと思いますが、そうは分かっていても、思いつく限りのところに電話をかけました。でも、どこにもつながらなかった。
メールは使えてるみたいなので、母にメールして彼の実家(同級生なので実家同士徒歩5分の距離なんです)に行って、彼の両親に連絡が来てないか聞いてもらおうと思って、母にメールを作っていましたが、あまりにも心配で手が震えて、指先がしびれて思うように打てず、1人で混乱していました。
そこに、彼から電話があり、出張で名古屋に来てるから大丈夫と言われ、仕事が忙しくて全然メールを見れなかったと言われ、安心して涙が溢れました。

でも、今もまだ、家族や恋人や友達の安否が分からずに、連絡を待つことしかできない人たちがたくさんいると思うと、
私は胸が締め付けられる思いでした。

私の父親は東京電力に勤めています。数年前、新潟に単身赴任した数日後に、新潟の地震に遭いました。その数年後、また起きた新潟の地震では、家が傾き、古い家だったそうで、そのままでは危険だから壊したほうがいいと言われ、
家を建て替えたそうです。
あの地震から、柏崎発電所では発電機が止まったまま、修理に何年も費やしていました。父は、新潟の地震で、すぐに会社に呼び出されて、何日も徹夜して家には帰れなかったと言っていました。 でも、それでもみんなが電気を待っているからと。
そして、やっと柏崎の発電機が全て?動くようになるだろうという頃に、今回の原発です。

私は父から、小さい頃から「電気の無駄遣いはするな」と、厳しく言われて育ちました。みんな、原子力発電を嫌がるけど、実際に柏崎で作った電気を使ってるのは関東なんだよという話を聞きました。そうしなければ、東京にあれだけの電気を送ることができない。そういう話を聞いたことがあります。
今回、父の無事のメールは来ていましたが、その後、私が送ったメールに返信はありませんでした。きっと、そんな暇もないのだろうと思います。
最初のメールで「新潟がやっと、持ち直してきたと思ったら、今度は福島。またこれから忙しくなりそうだよ。」と言っていました。
でも、今日、誕生日おめでとうとメールをくれました。あまり休めていなくて、大変そうだけど、いろんな人たちからいろんなことを言われて、それでもとにかく一日でも早く、みんなに電気を送ろうと必死なんだなって思いました。

私は、スカイプで彼の顔を見て話がしたかったけど、家族の顔も見たいし、友達の顔も見たいけど、日本で使う少しの電気も節約するために我慢することにしました。 私1人そんなことしても、たいしたことにはならないけど、でも、それをみんなが気をつけたらものすごい効果があるんだってことを、新潟の地震のとき、父が言っていました。
私は、家族や彼の無事を知れたし、それだけでも十分幸せなんだと思うようにしました。

月曜日、学校に行ったら、私が今まで教わったことのない先生が、わざわざ声をかけてくれました。
私の家族の心配をしてくれました。そして、わたしの心配をしてくれました。
私は、被災地の人のことを考えたらものすごく幸せだって、十分分かっているけど、大切な人たちとこんなに離れたのも初めてだし、ここでは100%心を裸にできる人もいなくて、毎日楽しみながら、それでも気が抜けない環境にいて、
そんな自分のことも心配してくれて、涙が溢れました。 クラスメイトも、みんな心配してくれます。バイト先でも、お客さんの中に、私の家族を心配してくれる人がいます。
でも、毎日の新聞で報道される写真や、自分で見るネットの情報に、ただただ驚くばかりです。
彼は、今日から出勤停止になり自宅待機だそうです。社員の中には、実家がもろに被災地で、家族と連絡がとれない人もいるそうです。

でも、彼に
「せっかくオーストラリアにいるんだから、そっちでの生活を大事にしなきゃだめだよ。こっちは、俺たちにもできることなんてほとんどないんだよ。被災地の映像を見ると、かなりきついけど、でも、みんなで行ったからって邪魔になるだけだし、起きてしまった地震と津波をなかったことにはできないからね。だから、生き残った被災を免れた俺らには、今の自分のやるべきことを、今こそ全うする必要があると思う。
会社も、節電のために今日の日中は電気とか一切つけなかったんだけど、やっぱり海外でもまれた女の子は強いよ。多少の不便なんて、なんとも思ってないかのようにケロッとしてるよ。何でもそろってる日本に育ってきた俺たちは、きっとこういうとき弱いと思うんだ。でも、1人でオーストラリアを回ったりしたらきっと、今は想像できないいろんなことがあると思う。それを乗り越えたときに見えるものは、きっとこれからの人生の宝になると俺は思うんだよ。
今こそ、みんなが心を強く持つときだと、俺は思うから、日本の心配はほどほどに、オーストラリアでの生活を満喫すること!!」
と言われました。
そう言われて、確かに言うとおりだなって思って、でも今日もいろんなニュースを見ては怖くなっていました。
そんな中、田村さんのエッセイを読んで、彼が言いたかったこともこういうことなのかと思って、そろそろ私も気持ちを切り替えないとなって思いました。

今週いっぱいで古いほうのバイトが終わるので、来週からは休みもちょっとあると思うし、少しシドニーを歩いてみようと思います。
そうだ。
新しいバイトはcammerayにあるsake sake izakayaってところなんですけど知ってますか??ここはいいと思います 笑。
私は長くても5月下旬に辞めると思うので、私が辞めたらきっと募集かけるんじゃないですかね?そしたらそのときバイト探してる子がいたらオススメです。
時給は手取り10ドルスタートだけど、1ヶ月もしないうちに12ドルくらいまで上がるそうです。RSAが必要です。
で、チップはカード会計分もみんなで平等に割ってくれます。トレーニング期間はチップは半額。でも普通にもらえるようになると、チップだけで一回のディナーで10ドルは入ると思います。もちろん賄いつき。食べて帰る人が多いけど、私はコンテナ持ってって、いつも持って帰ってます。帰りがノース方面ならマネージャーがいる日は車で送ってくれます。結構な頻度で仕事の後、タダワインが飲めます。しかもお客さんにボトル100ドルとかで出してるやつが飲めることもあります!!そして、マネージャーがたまに隣のカフェでラテやカプチーノを買ってきてくれます。

スタッフは、日本人が多いけど、オージー、フランス、韓国、中国、ベトナム?など日本人以外もいます。
そしてみんな優しいです。お客さんは9割がオージーなので英語の勉強になります。
なので、5月ころaplacに来る子がいたらもしかしたら募集があるかもです。
ものすごく長くなりすみません。。報告というよりも、聞いて欲しかっただけかもしれません。

読んでくれてありがとうございました。
28歳になったというのに、この心の幼稚さに、困ったもんだなと思っています。
でも、それに今気づいたから、今日から少しずつ変えていきたいなと思います。
この点はここに来て、強くなったかも 笑
自分のダメダメなとこがありすぎて(特に英語 笑)、いちいち落ち込んでる場合じゃないので。
ダメに気づいたら、そのときから少しずつ変われるように頑張るのみです!!

心の中で、日本を応援しながら、
私は残り2ヶ月シドニーで頑張ります。




★→宮崎さんのワーホリ体験談
★→留学・ワーホリ体験談の目次に戻る
★→語学学校研究へ行く
★→ワーホリの部屋に行く
★→一括パック現地サポートを見てみる
★→APLaCのトップに戻る


APLaC/Sydney(シドニー多元生活文化研究会)


4/180 Bridge Rd, Glebe, NSW 2037 Australia
TEL : +61-466-980-743

APLaC(アプラック)は、オーストラリア現地(シドニー)に拠点を構えて、移住・留学・ワーキングホリデー等についての現地情報・無料相談・学校紹介を行っているエージェントです。
tamura@aplac.net




禁無断転載/(但しリンクはフリーにどうぞ!)
Copyright 1996- APLAC.
No reproduction or republication unless Copyright law allows.