オーストラリア・ワーホリ体験談
まさか自分が体験談を書く日がこんなに早く来るとは想像できませんでした。
今ワーホリ1年目の滞在11か月目で、先日セカンドビザ獲得の要件を満たしてシドニーに戻ってきました。この11カ月の体験を1.シドニー時代、2.過疎地域での季節労働、3.再びシドニー滞在、4.最後にの4つの区分に分けて書いてみます。
1.シドニー時代
1-1 到着後すぐ・シェア探し
私はオーストラリアにこれまで来たことがなかったし、特に訪れてみたいと思ったこともありませんでした。
ところが2011年3月に起こった福島第一原発事故により、海外避難をしようと行き先を考えたところ、英語圏で南半球にあり、2年目ワーホリ制度があるオーストラリアが最適なように思われました。
私は関西出身ですが、風向きにより福島からの風は関西にも吹き付けるし、流通が発展した今では汚染地域の野菜や工業製品が関西でも普通に出回っています。さらに2012年1月の段階で岩手県の汚染瓦礫を焼却するという話が出ていたので、「もう国外に逃げるしかない。二度と日本の土を踏まない」と覚悟を決めました。
また、日本では大学院生をしていました。2012年3月で博士課程を満期退学だったこと、就職先がなかったこととタイミングが揃ったので渡豪することにしました。その時点では研究職にも未練があったので、こちらの大学院に入学するつもりでいました。もう今は未練がありませんが、こちらで二年目ぎりぎりまで永住権獲得を頑張ってみて、だめならまだ年齢的にNZでのワーホリが可能なので3年目はNZで迎えるかもしれません。
前置きが長くなりましたが、私のワーホリはこうして始まりました。
最初の難関はシェア探しでした。
英語は日本で大学院生だったこともあって読み書きとリスニングはまあまあできましたが、とにかく実践の絶対量が足りなくて話すのが苦手で、シェア探しの電話が少し辛かったです。私を入れて同期は三人ですが、私が最後の一人になりなかなか決まらず、焦りました。
シェア探しの時期にしかも風邪をひいて一日寝込んでしまったりも。Marrickvilleで夜遅くまでシェアを見た後、しかもその日見たシェアも全部いまいちで、暗い中一人で地図を片手に歩きながら「本当にいい所が見つかるのかな。未来の自分は『必ず見つかるし、待って良かったと思う物件に巡り合うんだからもう少し』って絶対に言ってるのに。でも今が辛い」と泣きべそをかいたことは多分一生の思い出です。その日は星空がきれいでした(笑)
同期やほぼ同じ時期に来た人が偶然にもみんなMarrickvilleにシェア先を決めていて、自分もその街が好きなので絶対にそこで見つけよう!と力んでいましたが、決めたのは結局Balmain Eastにあるおうちでした。60歳の研究者のおばあさんとのシェアです。田村さんに教えてもらって、そのサバーブではそこ一件だけふらっと見にいったら当たりでした。このおばあさんの出してきたハウスルールがこの後書く私のド貧困時代の一因となります。とにかく9日でようやく田村さんのお宅を出て、そのシェア先に移動。学校に行きながらシェア探しをして睡眠不足だったので一安心しました。
1-2. SCEとアルバイトなど
語学学校は、その時に学費が25%(だったと思います)OFFの特典があったSCEにしました。最初はGeneral Englishを受けていました。クラスはUpper Intermediateでした。ところが、受講中に日本で受けたIELTSの結果が出て、大学院に志願するための最低ラインであるOverall6.5に足りていなかったことがわかり、急遽IELTSのクラスに変えました。IELTSのクラスは先生がとてもよく、沢山質問しても的確に答えてくれ満足でした。学校で友達をたくさん作ることは出来ませんでした。放課後遊びに行く機会などあればできたと思うのですが、次に書く経済的な事情からそれができなかったからです。
前述した、シェア先のおばあさんのハウスルールと言うのが
・夜は9pmまでに帰宅すること。
・9pm以降〜7:30amまでシャワー禁止、トイレを流すのも禁止(水音がうるさいから)。
・・・というものでした。これを守るとバイトが出来ません。
レントは週150、ネットはなしでした。
バイトは引っ越し翌日に近所のジャパレスが決まりました。
昼間学校に行っていると必然的にレストランの夕方からのシフトとなり、それはほぼ全てが22〜23時まで。交渉の結果、帰宅の時間を22時までにしてもらいましたが、それでもその条件が足かせになりました。実はこのハウスルールはインスペクションの時に出されていたのですが、英語がその当時よく分からず、自分が理解できるまで何度でも聞き返す度胸がなかった私は、引っ越ししてからそれを初めて知ったという体たらくでした。完全に自分のミスです。
近所のそのレストランでのバイトは21:15に上がらせてくれましたが、バイトの開始時間が18時で時給も$10、最初は研修中(笑)ということで$8(面接時に説明なし)という踏んだり蹴ったりな状態になりなかなか稼げませんでした。そこで他のもう少し早い時間帯から入れるジャパレスを掛け持ちで探しましたが、やはりどこも23時まで入ってほしいということで、中々バイトを見つけることが出来ませんでした。
ようやく見つかっても短時間だから全然稼げなかったり、ほとんどシフトに入れてもらえなくて週1とか2とかだったりで。さらに前述の通りIELTSクラスに変更したため学費が週当たり$30の差額が発生して払わなければならず、またそれまで実家暮らしの経験しかなく大変なやりくり下手な上所持金に余裕がない状態で来たので、最終的に田村さんから$700も貸していただき(12月末に完済)、さらにそれでも足りず親に頭を下げてお金を助けてもらいました。
この時の貧乏ぶりのおかげで食べ物の底値を知り、節約ややりくりの仕方など、今に活きる生活知識が色々学べました。それでもものすごく自分が情けなくて惨めだったので、この時のことは基本的に思い出したくないです。学校でお昼を外で買っている友達や、朝コーヒーを買える友達が妬ましかったです。辛くてよく泣いていました。
シェアがBalmain Eastの中でも本当にすぐ海が近くにある場所だったので、景色がキレイだったのがせめてもの慰めでした。あと、フェリーに乗れたのは楽しかったです。一生分乗りました。
また、日本にいたころに商業誌への論文寄稿を頼まれており、その締切がシェアに引っ越しして一か月後ほどだったので修羅場でした。フルタイムで学校に行き、終わったらバイトの始業時間までその日の宿題を終えてバイト先へ、バイトが終わったら論文を少しずつ書いて就寝という状態でした。家にネットがなかったし、締め切り翌日の午前6時頃に徹夜明けでFree Wifi目当てでノーパソを持ち込みフェリーに乗って論文データを無事送信。朝日がキレイで、ぼんやりとした意識の中で「次は絶対にネットのある所に引っ越そう・・」と決意しました。
1−3.再度の引っ越し
結局このシェアは二か月いて、とうとう持ち金が尽きたので、田村さんに教えていただいた、このシェアの近所にあるBalmain Bacpackersというバッパーに移りました。
このことから得た教訓は、
「あ、ここはだめだ」と思えば、住居でも仕事でも外国にきたばかりでしがらみとか何もないんだしパッと変えればいいということでした。
当時そのバッパーはWotifというサイトのキャンペーンのおかげで、初めての宿泊客には一泊$10という破格の値段だったのと、日本から持参したクレジットカードでレントを払えたので助かりました。もう手持ちの豪ドルがなかったためです。日本の自分の口座に親に入金してもらい、それをこちらで自分がカードを切り、ジャパレスのお給料を懐に置くようにする必要がありました。その当時は一週間で$100くらいしか稼げていませんでしたので。
バッパーは自分のイメージよりもかなりキレイでした。これが私のバッパー初体験でした。
設備はそこそこですが、ここはとにかく人が良かったです。人の良さが一番だと思います。ヨーロピアンばかりですが、みんな気さくに話しかけてくれました。キャンペーンじゃなくても元々の価格も安めだしお勧めです。このバッパー引っ越し後、箱入り娘だった私は人生で初めて門限がない状態になりました。とても自由で、夜に外にいる時にそれまでは常に時間を気にしながら過ごしていたストレスがなくなり、「普通、みんなこんなに自由なんだ!」と感動しました。
そして、そのバッパーに移動した初日に、今も一緒に暮らしているアイルランド人の彼氏と出会います。
彼も私も永住権獲得を目指しているので、どちらかがスポンサードされ次第De Factoする予定です。
彼もワーホリですが、当時週$1000以上も稼げる仕事についており、当時は彼にずいぶん助けてもらいました。食材費も彼持ち、さらに夕食も毎日作ってもらい、毎週末デート、デート代も全部彼持ちという扱いでした。出会って二週間で彼と付き合うことになり、その二週間後に彼とCampsieに引っ越しました。お互いに人生初の同棲生活のスタートでした。バッパーにはそれまでの一か月いました。
Campsieではゲストハウスに滞在していました。ダブルルームの個室で、バストイレキッチン共同で、一人あたり週$125(ネットは無料)でした。
ここのオーナーさんは2歳(当時)の息子さんを持つシングルマザーの方で、本当に色々と良くしてもらいました。息子さんが私にとてもなついてくれたのと、また滞在していた時に偶然彼の誕生日だったので、パーティのお手伝いをしたらその週のレントはただでよかったりとか、彼を夕方から翌朝まで一晩ベイビーシッティングして預かったらレントがタダとか、あとは毎週一回ゲストハウスの共有スペースの掃除をしたらレントが$50オフになったり、本当に助かりました。
このゲストハウスにはラウンドからシドニーに戻ってきた今も滞在しています。最近まで部屋の空きが出たらそこを私が掃除してベッドメイキングをして、一部屋あたりで$30オフにしてもらっていました。最近は掃除が少し荒くなってしまったことが二度ほどあって、たまにしか$30オフが貰えなくなってしまいましたが・・・。自業自得ですので、当初ショックでしたがあまり気にしてません。彼氏には部屋の壁の塗装の仕事をくれて、彼のレントがただになることもあります。オーストラリアで職探しするには最初の経験が必要ということで、オーナーさんに頼んでレファレンスも書いてもらえました。
Campsieに引っ越した後、引っ越し前に私が働いていたジャパレス(ジャパレス二件目)はNeutral Bayにあり遠く通えないので辞めました。
いっぽう彼は引き続き、ワーホリビザの雇用期限の半年が終わる一か月後までその仕事を続け、その仕事が終わった三週間後に、ワーホリ二年目獲得条件の季節労働のために、彼の知り合いを頼ってQLD州北部にあるInnisfailという町に発ちました。同棲当初の二週間ほど私はひたすら家でゴロゴロし、三週間目から歩いて5分ほどの距離にある近所のジャパレスでバイトを始めました。時給は$12というジャパレスおなじみの違法低賃金でやる気が出なくて、一ヶ月で人生初のクビになりました。
1−4.仕事について
ジャパレスはここを入れて5件くらいでバイトしましたが、未だにやはり$10程度の違法賃金に釈然としません。「現地語がろくに分からないのに雇ってやるんだから」ではなく、雇う以上雇用者はやはり法定最低賃金を支払うべきというのが私の考えです。永住権者による非永住権者の搾取だと考え、これが不満でFairwork Australiaに訴えましたが何の音沙汰もなく、所詮外国人が低賃金で働かされていたところで、自国民が困る訳でなし、むしろ安くおいしい食べ物を自国民に提供してくれるんだからそれでいいんだろうな、と悟りました。国民国家はやはりその外側の存在である外国人には冷たいし、資本主義自体がこのような搾取の上に成り立っているのだなと、大学院で学んでいたことを肌で感じることが出来たので、これはこれで貴重な体験でした。
移民じゃない生粋のオージーはジャパレスの賃金が$10とか全然知らなくて、「そんなまさか、そこの店だけでしょ」と信じてくれず、その能天気さを腹ただしく思ったこともありました。でも、日本にいた時の自分も、日本で<研修期間>という名目のもと無給でこき使われている東南アジアからの人達(まだ日本にいた時にニュースになっていました)から同じように実情を言われてもにわかには信じなかっただろうなあと。自分の母国にいる人はその社会の主流というか内側にいる訳で、外側から自分の国を見れないのだと悟りました。日本でも、新大久保や鶴橋で働いている韓国の人達、また横浜や神戸の中華街で働いている中国の人達はきちんとした賃金を受け取っていたのだろうか、もし受け取っていないなら、私は何も知らなくて申し訳なかったなと胸を痛めました。
ジャパレスをクビになった時点で彼が発って3週間が経過していて、ある程度手元に豪ドルも貯まっていたし、シドニーにももう4カ月ほどいてだいぶ飽きていたので、彼を追いかけてInnisfailに行くことにしました。
ちなみにローカルジョブ探しはずっとしてて、レジュメを80件以上に手渡したものの一件も電話すらありませんでした。当初は配り始めて一か月もすればローカルの仕事が見つかるだろうと甘く見積もっていました。配り始めて3週間目くらいにCircular Queyのフェリー乗り場にある売店にレジュメを配りに行ったところ、そこのマネージャーと話すことが出来て、「来週空きが出るから、そしたら君に連絡する」と言われたのでそれを鵜呑みにして、ローカルジョブが見つかった!とレジュメ配りをしばらくやめてしまいました。ところが一週間たっても二週間たっても連絡がなく、不安になってきて、もう一度足を運ぶもそのマネージャーには会えず、他のスタッフにレジュメを預けるも何の連絡も来ず。こっちの人達は本当に適当で忘れやすいんだと痛感しました。
また、ローカルの仕事がゲットできないのは自分の努力が足りないからだと思って頑張っていたのですが、いくら努力しても報われなくて、かたや何の努力もしてない(ように見えた)人がすぐに仕事をゲットしているのを見て、仕事が見つかるかどうかは本当に運なのだと悟りました。運のめぐり合わせに過ぎないものを努力で埋めようとして、報われなくて苦しかったです。
オーストラリアに来るまでの自分は母国でたまたまうまくいっていて、世の中をうまく渡っていけるかは努力の量次第と思っていました。もしこちらでもうまく行っていたら、その世界観がもっと先鋭化していって、「全ては努力次第で何とかなる、何とかなっていない人間は努力が足らない、自己責任だ」と新自由主義そのもののような世界観になっていたのかもしれないと思うとぞっとします。
これは自分の人生観を、いい意味でがらりと変える出来事でした。今までのように(たまたま)努力によって全てがうまくいっていた自分は、自己責任論を振りかざし、自分で息苦しい世界を作り上げてその中で常に追われるようにして生き、それを他人にも押しつけていたのだと思いました。
エクスチェンジの広告もシドニー大に張りにいって一人連絡をくれましたが、日程と時間が合わず結局一回も会いませんでした。
大学院の博士課程はそういえば七月くらいに落ち、修士課程のオファーをもらったので入学を2014年2月に設定してみましたが、永住権獲得優先なのでNZにいくことになる気がしますし、研究も本当にしたいことか今はよく分からなくなったので多分行きません。学費も高いですし。
2.過疎地域での季節労働
私は彼を追いかけてInnisfailへ行きました。
InnisfailはCairnsからGreyhound busで一時間半ほどの所にある田舎町です。田舎と言っても、全部徒歩圏内にWoolworth、Coles、IGA、K-Martがあるので大変便利な町でした。
私がしていた仕事はWadda Plantationという巨大バナナファームのシェッドで、最初はソーティング、その次には左から流れてくるバナナが詰まった箱にふたをかぶせて右に流すというものでした。時給は税込みで$19.80でした。この町ではバッパーがファームジョブの職安でしたので、バッパーに行き宿泊したい旨と仕事が欲しい旨を伝えて仕事の斡旋を待ちます。
私は三週間待ちました。一週間待った時点でもう出たかったのですが、もうファームを変える時間の余裕がないほど13週間ストレートでサインオフしないとビザ切れ間近の彼氏(遠距離イヤ派)がそこで働いていたので待ちました。彼氏も三週間待っていました。
でも本当は待ちが長ければそこでじっと待っていてはだめです。稼ぎがいい仕事につけても、結局待った期間のマイナスを取り返す時間が必要になるからです。待つのもその間のレントや食費、雑費が発生するのでタダじゃないです。
ソーティングというのは、汚いバナナやいたんだバナナ、小さすぎるバナナを千切って捨てる仕事です。
他の小さいファームは一人でいろんな仕事をするそうなのですが、私のいた所は巨大ファームだったのでシェッドも大きく仕事が完全分業制で、カッティングの人はずっとカッティング、ソーティングの人はずっとソーティングといった感じでした。ソーティングは上流から流れてくるバナナの房を水の中に片手を入れて捕まえて持ち上げて目視して、いらないバナナをもう片方の手でちぎります。
私はこれにかなり向いていたみたいで現場監督の覚えもめでたかったのですが、ソーティングの水に入っている洗剤、ネズミとゴキブリの糞、ゴキブリ本体、バナナから溶け出した農薬などのせいで手の甲の皮膚が信じられないほど荒れてはれあがり、皮膚が割れ謎の汁が止まらない状態になり、できなくなってしまいました。
なので、現場監督に数回ほど直訴し、上述の簡単すぎる仕事を回してもらえることになりました。最初の何回かは直訴しても気休め程度にパッキングを一時間ほどさせられてからまたソーティングに戻されるという鬼畜のような職場でしたが、こちらもめげずに何度も直訴しました。薬局でもらった飲み薬と塗り薬を併用しながら手の皮膚を休めていたら、すぐに完治しました。
そうこうしているうちに13週が終わり、その時点で2月下旬になっていたので、私は田村さんに預けていた秋冬服を取りに、また彼氏はすぐにできる仕事のコネがあるので、シドニーにいったん戻ることにしました。
本当は13週終了後も三月末までファーム生活をして貯金に励む予定でしたがその町のバナナが今年は不作だったようで、最後の方は仕事が週4、週3、週2と減っていき、また私はクソファームを掴んでしまった彼氏を養っていたので週3ですと貯金が全くできないので急きょ予定を変更し、戻ったのでした。
ファームでの仕事自体は単純作業なのでそんなにもう覚えていないのですが(笑)、彼氏と毎日罵り合って一週間に一回は別れる別れないの喧嘩をしていた思い出の方が強いです。
シドニー時代は彼のお金周りがよかったので前景化しなかっただけの、お金に関する価値観の相違が出てきてよく揉めていました。何度も喧嘩しながらガチガチにぶつかりあって、徐々に譲歩のしどころを掴んだように思います。バッパーのダブルルームを二人で取っていたし、小さい街だから喧嘩しても行き場がなく向き合うしかなかったというのも大きいです。また、彼が日本語を一切喋れないので、どんなに辛くてもこちらが必ず英語を喋らなければいけなかったため、この時期に英語力が飛躍的に向上しました。日本語は、ファームで休憩中に、そこでできた日本人の友達と平日1時間ほど喋るだけでした(ネットは完全に日本語でしていましたが)。
3.再びシドニー滞在
シドニーには三月の上旬に戻ってきました。
彼は即座に仕事を始め、かたや私は何だか疲れていたので2〜3週間ぼーっとしていました。
そこから仕事を探し出すのですが、やはり前回同様苦戦しています。レジュメを配ってもなかなか受け取ってもらえなかったり、受け取ってもらってもマネージャー不在でマネージャーに渡せなかったりと。それに当初シドニーには今回は長くても三か月しかいない予定だったので、短期の仕事を探していました。レジュメ配りと並行して(今回はあんまり配っていませんが)Gumtreeに自分で広告を出し、いくつか短期の仕事をしました。
一つ目は翻訳の仕事。日本の料理人を取材したビデオを私が日本語から英語に訳し、それを文字起こししていくというものでした。時給は$15にしました。オーストラリアのTV局のビデオですが、スタッフが誰も日本語が分からなくて編集のしようがないからお願い、とのことでした。これは一週間の短期でした。また仕事があれば、紹介すると言ってもらえました。今度は英語のビデオを見て英語の文字起こしをして字幕を作成する仕事になりそう、ということです。でもいつになるかわからないので期待はしていません(笑)
二つ目はベビーシッターの仕事。一日5時間で週2だけですが、$150なのでレントが払えます。交通費が出るのもありがたいです。NZ出身の旦那さんと日本人の奥様の1歳のお子さんを見ています。将来バイリンガルにしたいので、日本語で話しかけてくれる人が欲しかったということでした
あともう一つ仕事しないと、エージェントに登録するか、でも登録するお金がないしさてどうしよう、と思っているところに、彼氏がまさかの出社拒否を起こすという事態が発生しました。
彼はシドニーについてすぐ仕事を再開しましたが、それは彼が大嫌いな仕事でした。
彼の友達がビジネスを起こしているのでそれで雇ってもらっていました。でも、向いていないのに完全出来高制の仕事で彼のお給料は低く、しかも仕事内容も大嫌いでストレスフル、でも辞めたら彼女(私)は仕事してないからホームレスになってしまう、辞められない、でももう嫌だ、でも辞められない・・・と葛藤している内に、とある月曜の朝「仕事、行きたくない」と座り込んでしまいました。頭では行かなければと分かっているのに足が動かない状態でした。
これは結局、彼が前シドニーにいた時にしていた仕事(前述の、金回りがよかった時代の仕事)のボスから電話があり、シドニー郊外のEastern Creekという町で今空きがあるから来ないか、という誘いの電話を欠勤3日目の朝にもらったことであっさり回復して事なきを得ました。「これでお金の心配がなくなる!お金の心配なくこの仕事を辞められるんだ!」と気持ちが切り替わったようです。
この件で一番驚いたのは自分の気持ちの持ちようです。
彼が出社拒否を起こした時点での持ち金は二人合わせて$300でしたが、「まーなんとかなるでしょ」と思ってあまり動じていなかった自分がいました。結局出社拒否も治ったし、ちゃんとレントも払えてそれからお給料も入ってきて二人合わせて今$400くらいありますし何とかなりました。
来たばかりで田村さんのお宅を出る頃には「$600しかありません(涙目)」って感じでしたが、今では$600あれば何でもできると思います。一人なら、交通費込みでシドニーからパースにでも余裕で突撃できます。
そして彼の新しい仕事が先日始まり、当面半月程は片道二時間かけて仕事に行ってボンドを貯めて、彼の職場の近くに引っ越す予定です。新天地が楽しみです。私は今長期の仕事をしていないし、今いるCampsieもゲストハウスも大好きですが、飽きたので。オーナーの息子さんと会えなくなるのだけが悲しいです。本当に可愛いので・・・。
日本では29年間同じ町に住み続けていたしそこを出たくなかったのに、今や一つの町に三カ月以上いるのは長すぎて飽きるようになりました。早く引っ越しを終わらせて私もしばらく腰を据えた仕事を見つけたいですね。もう一年ですが、いつになったらバナナファーム以外でのローカルの仕事をゲットできるやら、です。コネがないくせに仕事探しが破滅的に下手なんだろうなぁと(笑)
4.最後に
オーストラリアに来てからだいぶ自分が変わった気がしています。
当初はこちらの大学院に進学予定でしたが、もう研究職自体につきたいかよく分からなくなり、博士課程に落ちた時に田村さんに人生相談に乗ってもらいました。その時にもらったお言葉で印象に残っているのが、「世の中のほとんどの人は自分が本当にやりたいかわからない状態で何となく生きているし、分かっていると思っている人でも狭い経験の中でそう思い込んでいるだけということも多い。今は『わからない』状態を学ぶ期間なのでは?」(お言葉通りでなく、私の言葉に変えてあります)というものです。
その時までは「人生で何かやり遂げたい。いやそうしなくては」と力んでいたのですが、その言葉を反芻している内に、ある日ストンと「ああ、人生においてしなくてはいけないことなど別に何もないんだ。どこに行って何をしてもいいし、何者にもなれるんだ」と悟り、肩の力が抜けました。それから何となく生きて、自分のやりたいことだけをしています。
これが話題の3万5000円×350円ファッション
日本にいた頃は洋服命だった私が服にもそんなにこだわらなくなったし、お嬢様っぽい恰好が好きだったのですが今ではそんなこともなくなりました。いちいち汚れるかどうか気にするのが億劫だし、動きやすいカジュアルな恰好で変じゃなかったらそれでいいというか。といっても、服を買うお金がないのでまだ前の趣味の服を結構着ていますが・・・。先日田村さんのお宅に預かっていただいていた荷物を取りにお邪魔した時に、「そのかっこいいジャケットなのに靴はビーサンなの!?」とつっこまれました(笑)日本で買った35000円のジャケットに、BIGWで買った$3.5のビーサンという出で立ちでした。
日本にいたころはお金が無かったら、それを人に言うのが恥ずかしいという見栄がありましたが、こっちに来てからは気軽に「お金ないんだよねー」って言えます。
別に見栄を張る必要もないし、お金がなくても空は大きくてきれいだし、夜は星がきれいで、簡単にオーストラリア産の安全な食べ物が手に入るし、マスクをしなくていいし、日本で頻発する地震の度に、日本にいた頃よりも原発の状況を心配しなくていいし(もちろん親がいますのでやはりチェックはしますし心配です)、とても幸せです。日本にいた記憶が前世の頃のような感覚です。
何だかあっという間に11か月も過ぎてしまって、でもまだシドニーとInnisfailとケアンズしか行ってないのが信じられません!!
シドニーで出来るだけお金を貯めてから、一カ月ほどかけて彼と各地をぐるりと旅行して、その後はWAで落ち着けたらいいなと思っています。でもどんなに計画を立てたところで、状況がくるくる変わって計画通りに行くのはまずありえない、というワーホリの法則を学んだので、あまりきっちりと考えずに、わりと成り行きに任せて暮らしていきます。最初は計画通りに全然いかないのがストレスでしたが、今ではそれもワーホリの醍醐味だなと思うようになりました。