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2015年12月17日


ワーホリ体験記 渡辺絢也さん(Part02)

 2014年01月渡豪〜現在NZワーホリ中


2014年3月下旬〜4月頭 Red Hill ガラス細工職人ショートステイ

このタスマニアWWOOF時代には、その後メルボルンで大変お世話になった、ある素晴らしいオーストラリア人ご夫婦との出会いがありました。それは、メルボルン郊外は Red Hill にお住まいのグラント&アイリーンご夫妻のことです。
グラントご夫妻 結婚記念日に浜辺で
彼らとの初めての出会いは、土曜のサラマンカ・マーケット。
たまたまタスマニア旅行中だったこのご夫婦が僕たちの出店の真後ろにあるパブで飲んでおり(昼間から)、僕が休憩から店に戻ってきたときにグロリアとマディがすでにご夫妻と会話を弾ませていたのが始まりでした。

僕もその会話に加わっていろいろと話を聞いたところ、どうもご夫妻は豪で名高いガラス細工職人であるとのこと。 自分もいろいろと自己紹介をしたところ、ドラムの話題にグラントさんが食いついてきて「自宅にドラムが置いてあるから、もしドラムを教えてくれるなら皆でいつでも泊まりに来てくれていいよ」と。

グロリアとマディが基本的に会話をリードしていたので僕はあまりたくさん会話できていなかったのですが、話のペースがゆっくりな性格のため僕と同じくなかなか会話に割り込んでいけず聞き役モードになっていた優しい笑顔のグラントさんがナゼか僕に親しい視線をずっと向けてきてくれているように感じまして、「ドラムの話も思った以上に食いついてくれたし、もしかしたら表面上の約束じゃなくて、本当にお邪魔したら歓迎してくれるのかも知れない」という印象を受けました。

マディもグロリアもこの意外な招待オファーに「やったぁ、今度絶対みんなで行こうね」と大盛り上がりで、この日は皆でご夫妻の名刺だけをいただき、タスマニアでの出会いは終了。


ひと月後、僕も2ndビザが無事に認定されお世話になったWWOOF先を離れることになり、次のタスマニアでの予定まで2週間ほど空白の期間ができてしまったため、そうだグラント夫妻に会いに行こう!ということで、メルボルンへ単身小旅行をすることにしました。

かりにご夫妻のご予定が合わなかったとしてもメルボルン観光をしようと思っていたのでアポも取らずにとりあえずメルボルンへ行き、すこしメルボルンで散策。そしていざアイリーンさんに電話をしてみると彼女もタスマニアでの出会いをしっかりと覚えてくれていて、幸運なことにちょうどそのときご夫妻の息子さんの1人がスノーボードの世界選手権でアメリカへ遠征にいっているということで、すぐにでもその息子さんの部屋を使ったらいいよと快くオファーをいただきました。

その家は Red Hill というメルボルンから車で1時間ほどの山の中にあり、近隣の家からも離れた広大な庭つきの家で、想像以上に居心地の良い素晴らしい家でした。(職場のガラス工房も、同敷地内)

グラント一家 ガラス工房
グラント一家 ガラス細工ギャラリー

初日から大量のビールやら自家製の野菜&卵をふんだんに使った手料理やらと大盤振る舞いでおもてなしをしてくれるので、これは何もしないわけにはいかない!ということで、翌日からガラス細工づくりのお手伝いをさせていただいたりWWOOF仕込みの庭仕事をしたりと、積極的に役立てることを率先してやりました。(微細な砂を使った底ミガキ「Grinding」と、モーターで回転する毛糸のような生地で全体を磨く「Polishing」を主に担当)

人に言われてやる仕事は「つまらない」と思いがちですが、自ら進んでやる仕事というのは苦にもならないし、「もっと良くしたい」というモチベーションも自然と湧き起こるし感謝もされて嬉しいしと、やってる内容は同じなのに負担の感じ方や取り組む姿勢にここまで差が出るんだなぁと、そのときは気づきませんでしたがこれを書きながら改めてそう思いました。のちの起業奮闘編でもそうですが、自分がやりたくてやっている仕事だと1日14時間働いていても平気などころかむしろ「寝る間が惜しい。もっと働いていたい」とさえ思えてくるので、自分の生きる時間のうち大きな部分を占める「仕事」については、その選び方・つくり方を念入りに考える必要があると強くそう思います。

夕方になるといつもバルコニーへ出て、グラント一家と息子のヘイミッシュ君の彼女エイミーちゃんと僕で大きなテーブルを囲み夕食をとる。彼らがスキー(ニセコ)やガラス細工関係(新島etc)で日本へよく来ること、アイリーンさんの家系がスコットランドのガラス職人でオーストラリアへ移住してきたことなど、いろんな話を聞かせてくれた。

ここではひたすらお世話になりっぱなしでしたが滞在中は一切嫌な素振りをされたこともなく、グラント一家での一瞬一瞬のすべてが100% welcome オーラで包まれていたおかげで、「もっと自分のことを話したい」、「もっと話してもいいんだ」というポジティブな気分でずっといられ、ここでの10日だけでスピーキング力とリスニング力がすごく伸びたように思います。シドニーのシェアメイトだったスロバキア人イヴァン君のときもそうでしたが、英語の習得には「環境」がものすごく大事だなぁと改めて強く感じたひとときでした。

毎週水曜夜にガラス工房内の恒例イベントとなっている海軍あがりの「オヤジバンド」にドラマーとして飛び入り参加したり、滞在中の土日にちょうど開催された会員制の野外音楽フェスに連れて行っていただいたりと、楽しそうなことは何でもさせてもらえたし、彼らもそんな僕との時間を楽しんでくれました。

たった10日間ほどの滞在でしたが、もしここでの宿泊費から食費から全ての費用を換算すると優に2,000ドル以上は払わないと同程度の経験はできないだろうと思います。しかし、その土日の音楽フェスを含めここの滞在中にかかったそれら一切の費用を、彼らは決して僕から受け取ろうとはしませんでした。

もてなすとは何か。相手を心からリラックスさせ喜ばせる本当の立ち居振る舞いとは何か。
このグラントご夫妻とのご縁を通じて、こんな人になりたいと思えるような、一生の財産になるほどのレベルのことを学ばせていただいたと思います。自分でもこういった心からのおもてなしをこれから実践しつつ、こうしていただいたこれらのご恩についても生涯を通じて返していきたいと思えるような、そんな素晴らしい出会いでした。

グラント一家との会員制野外音楽フェス
グラント一家 おやじバンド



2014年4月〜5月 タスマニア Part 3 Dover アップルピッキング

Dover 台湾人ケビン

さて、そんな夢のようなグラント家ショートステイも終わり、再びタスマニアへ。

もともとあった予定が急きょ変更になったので資金稼ぎのため仕事を探そうと Huonville の屋外マーケットへ行くと、ワーホリのアジア人を発見。彼はケビンという台湾人で、一年後のシドニーでもたくさん助けていただいた命の恩人なのですが、そのときも僕はほとんどスッカラカンだったので彼にこれまでの事情を説明すると、「ちょうど今日オランダ人が1人うちのアップルファームから抜けたから、交代で即雇ってもらえるかも」という情報をくれました。

そしてその日のうちに彼の車に乗り、タスマニア最南部の Dover へ。

そこのファームでは合計8〜10人ほどのワーホリたちがファーム隣接のプレハブ小屋で生活していましたが、白人も含めみんな大人しく優しい感じで、アジア人と白人間の境界・偏見みたいなのも特になく皆とても和気あいあいとしていました。(後のライムファームも「少人数の隣接プレハブでみんな仲良し」という環境だったので、大きいところよりも少人数ファームの方が仲間意識というか、ちょっとした家族意識みたいな親近感を持ちやすくなるのか?)

Dover co-workerたち
Dover アップル1箱30ドル

初バスキング

ファーム自体は1箱30ドルの出来高制で、天候も不安定のため全然稼げず。家賃すら払えなくなったので、急きょデイオフとなった日にイチかバチか先月のWWOOF中に買ったアコースティックギターを担いで、 Huonville のスーパーWoolWorths へバスキング(路上弾き語り)をすることにしました。

初バスキングは2時間で30ドル。その後も休日はバスキングを続け、収入面では合計$500ほど稼いだのですが、個人的には金銭のプラスよりも人前でリラックスして演奏できる度胸がついたことの方が大きな成果のように感じました。

最初は照れや不安で自分の演奏がうまくできるかどうかばかり気にして周りを見る余裕なんて全くなかったのですが、だんだん慣れてきます。余裕が出てくると、同じ曲達の繰り返しで退屈になってきたりもするので、演奏しながら行き交う人々を観察するようになってきて、「お金を払ってくれるタイプの人」「客の多い時間帯」「客のタイプ別による好みの曲のジャンル」などいろいろマーケティングリサーチみたいなこともするようになります。そうやって試行錯誤をしていると最初は時給にすると15ドル程度だったのが、最後は時給換算で30ドルくらいまで稼げるようになりました。どんなことからでも学びはあるんだなぁと、そんな貴重で面白いバスキング体験でした。



天気の不安定さのため休日も多く全く稼げないファームでしたが、働けない時間も有意義に使おうということで、キャンプ慣れしているユーロピアン勢とブルーニー・アイランド等へ Road trip観光をしたりチェスを覚えたりと新しい経験ができたので、来たばかりの頃は稼げなくて不満ばかりでしたが、いざ過ごしてみると思った以上に楽しい思い出がたくさんできました。
仲間たちとRoad Trip


そんなそこでのファーム生活でしたが、あるときから co-worker の日本人T君(元シェフ)に、日本料理の基礎について教わるようになりました。彼は僕の1つ年下にもかかわらず既に料理の道10年という大きなキャリアを持っていて、その彼の料理に対する姿勢は素人の僕から見ても明らかに普通の人のそれとは違って見えました。

料理中の佇まい一つをとってみても、彼の謙虚な発言から垣間見える強い信念やこだわりの一つをとってみても、彼に対し何とも表現しがたい深い尊敬の念が自然と湧きおこってくるような、そんな素晴らしい何かを持ったT君。

僕は料理に対して少し敬遠しているというかヘッピリ腰なところがあり、「もしかたまった時間があって根詰めて学びさえできれば、そもそも料理は得意なジャンルのハズだ」という強がりな自信を持つ反面、「中途半端な知識・経験のせいで苦手意識を持ってしまうことは避けたい」という弱さから、簡単な料理以外に手をつけるのを避けていました。が、このT君の謙虚でとても encouraging な指導をいただくうちに、「へ〜こんなにやさしく料理を教えてくれるとすごく面白い世界だなぁ。料理ができるとそれこそ世界中で職に困らないだろうし、本格的に学んでみるのもアリかも」という思いが沸々とわいてきて、ちょうどアップルピッキングも終了に差しかかっていたこともあって、「よし!次はT君が以前働いていたというメルボルンの日本料理屋で、働きながら料理を学ぼう!」と目標を設定することにしました。


2014年5月中旬〜7月中旬 メルボルン 日本料理屋

アップルピッキングが5月中旬に終了し、T君の計らいで彼とともにメルボルンはセントキルダの日本料理屋へ。※渡豪後10回以上飛行機に乗っていますが誰かと一緒に乗ったのは後にも先にもこのときだけだったので、ただの余談ですが何だかすごく不思議な感じでなぜか強く印象に残っています。一人でも全く淋しくはないけど、一人だと事務作業のような時間だったのが二人だと写真を撮ったり喋ったりできたので、それが何かとても新鮮で楽しかったんだと思います。

料理屋に着いたものの残りのお金が無さすぎてどこかに住むことすらままならなかったので、「家賃分は皿洗いをするので、住み込みで働かせてください。さらに、ここで料理を覚えながら永住権も狙いたいです」と料理長に伝えたところ、初めはこの突然かつ強引な申し出に思いきり当惑されましたが、何とかご理解をいただきまして承諾を得ることができ、その日からこの料理屋に住み込みで働くことになりました。

しかし、いざ料理人生活を始めたところT君の優しい指導とは大きく異なり、またシドニー時代のジャパレスのような日本人らしく縦社会な指導環境に。

たしかにT君からも「学べることのレベルでいうと、ここの店は料理人を目指すには申し分のない環境」と聞いていた通り、料理長の料理に対する信念や知識については尊敬できるものがあったのですが、西欧社会に来てまで日本のときみたく高圧的な指導姿勢に従わなければいけないこの縦社会の雰囲気がとても息苦しく感じるようになってしまい、結局2か月ほどでここの生活を断念してしまいました。

カウンセリングと転機の萌芽

シドニー以来9ヶ月ぶりの日本人職場かつ僕の嫌いな縦社会環境だったため一人勝手に強いプレッシャーを感じながら過ごしていたのですが、そんな状態で精神が参ったまま1ヶ月ほど経った頃、ちょうど「田村さんの奥さんが、カウンセリングのリサーチプロジェクト参加者を募集中」という情報が。何とかしてこの抑うつ状態を打開しなければマズいぞと悩んでいたところだったので もう飛びつくような勢いで参加の申し込みをしました。そしてこのカウンセリングが、次章の「起業奮闘編」へと繋がるキッカケに。

カウンセリング自体は受けるだけでなく職業としてもとても興味ある分野だったので、料理長やオーナーにも「今回は特別な機会なので、将来の勉強も兼ねてぜひ受けに行きたい」と事前に伝え彼らから許可もいただいてはいたのですが、「料理人を目指さないのなら早く金貯めて出ていけ」と言われている中で「仕事を休み、かつナケナシの収入をはたいてシドニーへ行く」という、彼らからしたら傍若無人も甚だしい行動を取っていることもまた事実。

そのため、「カウンセリング後はきっと料理屋の全員から総スカンを食らうだろうな」ということも容易に想像はできたのですが、どうせカウンセリングに行かなかったとしてもしばらくは料理屋を出ていけない財政状態だったし どっちにしても辛い環境はしばらく続くハズだと思ったので、どのみち辛い状況なのであれば一発逆転を狙ってメンタル改善を図った方が良策だろうと判断したわけですが、実際の結果としても個人的にはこのカウンセリングの方を選択して大正解だったと思います。

カウンセリングを通して「人生をもっとよくしたい!」というモチベーションが高まりました。その直後に「A僑の部屋」(ネット上の、A僑内起業塾みたいなもの)をスタートさせ集中的に起業の勉強をすることができたのと、それが嵩じて3D制作ビジネスをスタートさせることもできました。あのタイミングでカウンセリングを受けたことは、「災いを転じて福となす」ことができたような、僕にとっては起死回生の選択だったと思います。もっとも、根本的なメンタル改善ができたわけではないので、これは改めて解決させないとなぁと思いますが。今後同じような苦手な場面が来たときに、やはりまた同じ拒否反応をしてしまいそうなので。

ローカルジョブ

ちなみに前述のとおり、料理人の道を断念したためこの例外的な住み込み制度も早く終わらせなければならなくなったので、住み込み先の皿洗いとは別の掛け持ちバイトを探すことに。 Chapel Street というメルボルン屈指の高級ブティック、洒落たレストラン&カフェが並ぶエリアにて、APLaC生としては遅めのレジュメ100枚絨毯爆撃をしまして、何とかその日にイタリアンカフェ&レストランの Dish washer 仕事をゲットしました。

ワガワガのウーフを除けばアジア人が一人もいないところで働いたことがなかったので初の白人オンリー職場だったのですが、注文が多くて忙しいときでも必要以上に慌てず落ち着いて自分のペースで仕事を進めるシェフや、これまた忙しい状況でも必ず決まった間隔でカフェを差し入れてくれるバリスタ、オーナーや上司もフレンドリーにスタッフに話しかけスタッフもそんなボス達に媚びることなくリラックスした様子で雑談やジョークや、ときには文句まで平気で言っている。「仕事って、こんなにリラックスしてノビノビと働いていいんだ!」という嬉しい驚きももちろんありましたが、それ以上に職場での西洋のノリみたいなものを学べたのがとても大きかったなぁと。

典型的なジャパレスだと仕事中に自分から雑談を始めるのはあまり良い風には見られないし、下っ端なのに自分の意見をあんまり主張するのも良くない雰囲気ですが、逆にここのレストランでは黙々と作業したり自分の意見なく指示に従っているだけでいる方がかえって雰囲気を壊すみたいな感じでした。皿洗いをしながらシェフやスタッフに故郷のことや趣味のことを聞いたり自分のことを話したりすると喜ばれたし、上司にも進んで皮肉やジョークを言って小ばかにするくらいの気持ちで話しかけた方が人間関係がうまくいったりして、日本の縦社会とはかけ離れたそんな明るい西欧の労働環境を体験できてとてもありがたかったです。現在のNZでも、海外企業の面接に合格したのは間違いなくこの経験のおかげだと思います。

さて、そのレストランでの収入と、バスキングでもチマチマと貯金をしつつ次の住居を探していると、CBD内にあるクイーンビクトリアマーケット(南半球最大規模の屋外市場)のお向かいにあるバッパーでフリーアコモデーションの交渉が成立し、2週間後にそのバッパーへと移動が決まりました。結局貯金をする必要もなく住居をゲットできたので、仕事にせよ住居にせよ、もちろん最善を尽くして探してはいるけれど決まるときはホントにあっさり決まるんだなぁと少し拍子抜けな感覚でしたが、思えばこの移動日がメンタルにせよ運気にせよ完全に底打ちでした。

これまでの軽いウツ状態は何だったんだというくらい、この時点からかなり精神的・時間的な自由が手に入り、何でも精力的にできるような気に。メンタルを鍛えればどんな環境でも精力的に活動できるのでしょうが、少なくともまだこのときの僕は他人が自分を精神的に拘束しようとするとそのストレスをモロにくらって疲弊してしまい、結果行動力を奪われていたので、限りなく他人からの束縛がない環境に身を置くことは当時の僕にとって自由かつ精力的に活動するために非常に重要なことだったのだと思います。

料理屋については、料理人の道を断念してからそこを出ていく日までものすごく肩身の狭い毎日でした。が、そうは言ってもやはり大変お世話になったことに変わりはないので、せめてもの恩返しに移動後も数週間は無給で皿洗いをしに行ったり、パーティー用の料理の飾りつけや出前の配達を手伝ったりと自分なりに出来ることはやりました。とは言うものの、「料理人になりたいです、お金が無いので皿洗いで住み込みさせてください」と言って転がり込んできて「やっぱり断念します」という不義理を重ねては、どのような埋め合わせも効かないと思っています。それだけに、料理長から移動日に「実はメチャクチャありがたかったので、できればこのまま住み続けてほしい」という引き止めのオファーいただいたり、移動後しばらく通ったお手伝いの最終日もオーナーともども「また泊まるところが無くなったら、いつでも連絡してね」と言っていただけたときは有り難かったです。



2014年7月中旬〜10月上旬 メルボルン 起業奮闘編

起業のめざめ

料理屋の住み込み生活が終了し、バッパーのフリーアコモデーション生活がスタート(※正確には、手取り時給15ドルでした)。

バッパーの掃除自体は朝8時から2時間だけで終わるため、朝10時以降は完全に自由。
「なんて素晴らしいんだ!毎日朝から自由に行動できるのにお金が全然減らない!」といった感じで、今までのオーストラリア生活でダントツに自由な生活スタイルを最初はしばらく謳歌していたのですが、さすがに1週間も経つと満喫しきってしまい、むしろせっかくの料理人への道を断念してしまって次の目標も見えないまま無駄に時間が過ぎていくことに対し焦りの気持ちが出てくるようになりました。

そこで、「何かしら面白い展開を起こさないと!」と思い、メルボルン大学のサークル活動に参加して友達をつくったり、バッパー内でもできるだけたくさんの人に話しかけて面白い出会いがないかを探ったりしていました。

そんな中、たまたまフリンダース駅の近くの図書館で、起業に関する面白い本を発見。
「せっかく自由な時間がたくさんあるんだから、オーストラリアにいる間に何か小さくてもいいから起業を成功させたいなぁ」と思うようになり、善は急げということでいくつか真剣に考えてみたビジネスアイディアを田村さんに送ってみたところ、田村さんのアイディアで早速「A僑の部屋」(ネット上の、A僑内起業塾みたいなもの)を設けていただきました。

「これは起業の勉強ができる素晴らしいチャンスだなぁ!ここで頑張らなかったら、もう二度とこんなチャンスはないかも」と思いまして、この「A僑の部屋」ができてからはもうこれでもかというほど積極的にアイディアを出し続けました。8月のまるまる一ヶ月は、本当に起きてる時間はずっと起業のアイデアを、それこそ大学受験時代のような集中力でひたすら考え続けていたように思います。自由なクセにむしろ週100時間(14~15時間/日)働いてるかような忙しい毎日でした。もちろんメチャクチャ楽しかったから自ら進んで忙しくしていたのですが、受験以来ひさびさの長期間かつ全力で知的労働をしている感覚で、フラフラながらすごく充実した日々でした。

Shapswayと3D受注製作

そんな8月の半ば、絶妙なタイミングで田村さんのエッセイに「Sharing Economy」の話が登場。ソーシャルメディアの発達により可能になったモノ、お金、サービス等の交換・共有によって成り立つ経済のしくみについての話でしたが(代表的な例は、Airbnb)、その中の一つとして紹介されていた「Shapeways」という3D制作サイトに特に強く心が魅かれました。

この 「Shapeways」というのは、 自分で作った3Dデザインをそこに送ると原価が表示され、それに自分の好きな値段をつけて販売できるというもの。「3Dデザインをするだけで、資金が無くても自分の作った製品を売ることができるのなら、これはすぐにビジネスにできるかも」と思いまして、さっそく自分の店をサイト内にオープン。(http://www.shapeways.com/designer/Junya1)

そして「自分の店をつくりました」と APLaC専用ネット掲示板で報告すると、一括パック仲間の ユウキが「ちょうど部品製作のできる人を探しているところだった」と、さっそく制作のオファーをもちかけてくれました。

「最初は料理人を目指してメルボルンへ行き、居心地が悪かったから自由を求めてフリアコをし、ムダに時間が過ぎていくのが怖くなって起業案を考え始め、面白い3Dビジネスが見つかったから店をオープンさせたら依頼をもらえた」という、料理人を目指してメルボルンに来たときは予想もしない展開となりましたが、この時点の僕の心境を振り返ると、これまでにないほどの充実感で力がみなぎっていたように思います。

一般的に見れば忍耐のない支離滅裂な行動ばかりしているように思われるかも知れませんが、正直に言うとオーストラリアに来てまで悪い意味での妥協やガマンはしたくないという思いが自分の心のどこかにずっとあったため、3D制作の依頼がいただけたときは、個人的には「他でもない自分の心の声にちゃんと従って動き続けた結果、ようやく最初のチャンスが掴めた、「これまでの努力がようやく実を結びそうだ!」というような割と晴れやかな達成感みたいな感覚が強くあったように思います。

フラフラ無駄に時間を過ごしてしまうと僕も当然不安になるのですが、このとき自分が不安や背徳感なくこの二転三転行動を続けられたのは恐らく「自分の心に忠実」という点においては一貫性があるというか、この点が一切ブレていなかったかなぁと。実際は3D制作なんてやったことないド素人だったのですが、このときの僕は「やれば何でもできる」と思えるような気持ちになっていたので、特に及び腰になることもなくとても積極的な気持ちでオファーを受けることができました。気分的にはメルボルンに着いてから路線を変更するごとにドンドン運気や活力が上がっていっているような局面にいたように思います。

さて、ユウキからいただいた3D制作オファーですが、内容はTattooマシンを軽量化するため開発されたオリジナルの部品の製作でした。全長5〜6cm程度という非常に緻密で複雑な形状の部品製作でしたが、日本での商社時代に金属加工会社との取引で図面を見たことがあったり、辞職後にもPhotoShopやillastratorといったwebデザイン講習を受講したりしていたこともあって、3D制作ソフトの操作方法も独学にしては割とスムーズに上達させることができました。また依頼者からの図面や独特の記号等についても大きく困惑することなくスムーズに作業することができたので、始めたばかりの3D制作でいきなりの本格的な仕事ではありましたが、アプラックメンバー達からの助力も最大限にいただきまして何とか依頼品の販売に成功するところまで無事に仕事を完遂させることができました。

今回はたまたま自分がこれまでに得てきた一見まったく脈絡のなさそうな諸経験が見事にうまくつながったおかげで何とか使命をクリアすることができましたが、もし鉄鋼業界なら鉄鋼業界だけで必要なことしか身に付けなかったとしたら今回のようなエリア外の挑戦は成功しなかったかも知れません。たとえ自分の好きなことや得意なことや会得したい能力がそれぞれあまり繋がってないように見えたとしても、逆にそれが今回のように新しい可能性を切り開くキッカケにもなりうるし、たとえ脈絡がなくても自分自身が好きで身に付けた諸々の知識・経験・技能はそれぞれが自分にとって楽しんで取り組める内容なので、それに関わる仕事は成功まで持っていける可能性が高いのではないか、といったことを自分の身をもって知ることができ、非常に貴重でありがたい経験をさせていただきました。

バーバラ

ところで、この起業奮闘期のステージであったメルボルン市内のバッパーでは一人の老女との出会いもあり、そのことも大切な思い出の一つです。

彼女はバーバラという、70歳ほどのパース出身の女性で、片足を悪くしていたためいつも杖をついて歩いていましたが髪をいつも真っ赤に染めており、心は決して若さを失わない、そんな気丈でカッコイイ女性でした。

メルボルン バーバラとヴィクトリア国立美術館にて
"デート"と称してよくシティへ連れまわしていただきましたが(笑)、「信号無視」は”Jaywalk”、「2週間後」は”In 2 weeks time”など、日本では習わなかった Conversational な英語の言い方をいろいろ教えていただいたり、メルボルン中華街にある彼女の行きつけの中華料理屋で点心を楽しんだ後、僕が支払おうとしたら「こういうのは、誘った側が払うのよ」とマナーを教えてくれながら結局彼女が全部支払ってくれたり、フリンダース駅交差点の北西側にある建物内の肖像画を僕に見せて「この絵はクロエといって、とても歴史的に趣深い作品なのよ。こういうものこそ観光者にとって有名になるべきだわ」といった居住者側としての意見をいろいろ聞かせてくれたりと、彼女は聞けば聞くほど面白い話をしてくれるそんな知的な女性でした。

彼女が足を悪くしているのは昔の料理人時代のアクシデントのせいであるとか、彼女の祖父はノース・メルボルン一帯を所有していた大地主かつ移民であったため、頭だけの彫像が移住博物館にあるとか、その祖父が女中の誘惑ウンヌンで財産を奪われ没落してしまったなど面白い話はまだまだたくさんありましたが、僕のリスニング力の無さから「分かったフリをするんじゃない!」とよく杖でつつかれたりしたので(笑)もう少し英語力を上げてまた彼女と再会したいです。彼女は英語教師の経験もあり、分かっていないのに分かったフリをする人のことがよく分かるそうで、ユウキやグロリアを見て自分も比較的「Sorry?」と聞き直せる方だと思っていましたが、彼女のおかげでさらに念入りに確認するクセをつけることができたと思います。

ここメルボルンでは結局この市内のバッパーへ移ってからもずっと貧乏生活だったのですが、ちょうど僕がこのバッパーでのフリアコを始めた頃、以前のタスマニア Apple ファームで co-worker だったH君(日本人)も車を購入してメルボルンでの生活を始めたので、僕の Shapeways 制作の合間によく彼とカジノの無料イベントに参加しては、その賞金を使ってラクサの有名店や世界一のバリスタがいる珈琲店や地元中国人だけが行く穴場の北京ダック店で食事をしたりして、気分的には「ホリデー」の部分も謳歌できた非常に幸せな日々でした。(H君とは後に、灼熱のオーストラリア縦断ドライブ→夢の月1万ドルファームで働くことに)。


2014年10月上旬〜11月下旬 カンガルー島 WWOOF

前章の起業云々が一段落つき、気づけばメルボルン生活も半年近く経っていた。3D制作がうまくいき、シティ生活で得られることを全うしたように感じたことで、無性にまたタスマニアのような田舎暮らしへと戻りたくなりました。

実は以前タスマニアでのチェリーピッキングが終わり2ndビザのためのWWOOFを探していた際、カンガルー島という場所のホストファミリーからオファーがあり、そのときに初めてカンガルー島の存在を知って以来ずっと気になっていた場所ではあったので、「一度でも気になった場所に、結局行かずじまいで終わるのは勿体ない」と思い、WWOOF生活の候補地に。 ダントツで第一候補だったアロマオイル製造所はすでに他のWWOOFerがいて入れなかったため、唯一反応のあったJ氏のお宅へ。

J氏はベトナム戦争に参加経験のある退役軍人で、自称PTSD持ちのバイセクシャルという方でした。
個人的な経験による感想ですが、オーストラリアで生活をして以来 LGBT の人やTattoo のある人というのはそうじゃない人に比べ圧倒的に優しい人が多かったため、彼の素性に対しても特に抵抗はありませんでした。彼は仕事中に彼の英語が聞き取れないと癇癪を起こすのがやや難であった以外は後述の通りおろんなことを学ばせてくれたので、トータルではここでいろいろと有意義な時間を過ごせたと思います。

カンガルー島 土台から車庫DIY
約5週間滞在したJ氏宅でのメインの仕事は車庫用のプレハブを一から完全に自分たちだけで作り上げることでしたが、J氏の深い友人達との付き合いの中で仲良くなった人たちと、休日に個人ボートの Sailing に連れて行ってもらったり、ツアーでは行けないようなプライベートの塩湖(海の4倍の塩分濃度)で浮遊体験をしたり、カンガルー島の地元新聞に載せていただいたり(個人ボートの持ち主が新聞社のお偉いさんと知り合いだったので、この Sailing 体験を記事にしてもらいました)、ちょうどセカンドビザで再渡豪したばかりのアプラック水貝タクマ君と2人でカンガルー島の観光ドライブもしたりして、楽しい思い出がたくさんできました。

また、J氏の家では彼の好きな聖書の内容を教えてもらったり、オーストラリア版「ハチ公物語」である”Red dog”他、いろいろなオーストラリアの映画をJ氏の解説つきで一緒に鑑賞したり、僕が「マッサージに興味がある」と言うと喜んで実験台になってくれたので、マッサージクリームを使って毎日彼の背中でマッサージを練習させてもらったりと、気難しい彼の良いところを最大限に活かし、いろいろ学ぶことのできた5週間でした。マッサージについては、現在のNZでマッサージのアルバイトをしたときに中国人マッサージ師の先輩から「背中のマッサージに関しては言うことがないくらい上手いね」と高評価をいただいたので、カンガルー島で毎日たくさん練習できてよかったです。

ここでも雄大な自然や野生動物の素晴らしい姿をたくさん見ることはできましたが(レジャーで)、今回の住居自体はワガワガやタスマニアのWWOOF時と違って普通に住宅地だったため、感覚的には「都会での大きな仕事を済ませた後、ちょっとした休暇を楽しむために来ている」みたいな感じで、WWOOFならではの自給自足だったり自然と調和した暮らしみたいな感じはありませんでした。

ネイティブだらけの集まりで全く話題についていけなかったり、J氏の指示を聞き取り間違って怒られたりもしょっちゅうでしたが、その頃には全然それが苦にならなくなってました。相変わらず自分のペースで皆に自分の知識やしょーもない冗談を言い続けていたら、J氏からも「お前は日本人なのにこんなに extrovert なんだから、オーストラリア人の彼女をつくるべきだな」と言われたりしまた。ワガワガのときとは違って、こんな環境でも存分にリラックスして毎日を楽しめている自分になれたのかなと思います。これまでのオーストラリア各地で経験してきたようなトラブルや悩みがなかったため激しく成長するような修行機会こそありませんでしたが、これまでの経験がなければここでの生活はきっと苦痛だったハズなので、頑張ってクリアしたからこそ享受できた安らぎのひとときだったと思います。

2014年12月上旬〜年末 QLD州 ファーム仕事再び

カンガルー島生活の終盤、タスマニアやメルボルンでよく遊んでいたH君から「月1万ドル稼げるファームがあるみたいなので、一緒に行かない?」と急に連絡が入りました。

その時点でのWWOOF生活は基本的にはお金のかからない生活でしたが、全く出費ゼロというわけでもなかったため貯金もほとんど底を尽きかけており、さらに日本にいる予備校時代の友人からも「1ヶ月後の年末にオーストラリア観光をするので、案内してほしい」という依頼が入ったので、「月1万ドル」というのはかなり怪しい情報ではありましたが、「とにかく貯金のため、ファームジョブ生活を再開させよう」という気分になりました。

2000km弾丸ドライブ

J氏との生活を終えカンガルー島からH君のいるメルボルンまで移動した後、オーストラリア大陸最南部のメルボルンからオーストラリア北部のケアンズ近辺まで、3日間かけて一気に2,000km超の弾丸オーストラリア縦断ドライブをしました。 満天の星の下でテントを張った、涼しい夜の荒野。夕立ちの前、巨大な何本もの稲光が遠くに見えた、蒸し暑い夕方の田舎道。道中で立ち寄ったりした町々の、それぞれに個性を持った町並み。

途中の夜道で突然車のライトが点かなくなったり、日中にエンジンがオーバーヒート寸前となり炎天下なのに暖房全開で走ったりと、日本ではおよそ経験できないようなハラハラドキドキの Road trip でしたが、これぞオーストラリアと思えるほどの広大な大自然をこの目にしっかりと焼き付けることのできた、とても良い経験でした。安心のツアーパックなどではなかなか得られないような

「オーストラリアの大自然の中を、旅している!」

といった浪漫のようなものを強く感じることのできた、とても印象に残る貴重な3日間でした。

途中で見かけた奇岩
変わった植物





さて、目的地のエメラルドという町にどうにか辿り着きましたが、そこにあった5大グレープファームではすでに収穫も終盤に差しかかっていることが判明。訪れたタイミングは、かなり悪い感じでした。

さらに情報によると、この5大ファーム間ですら賃金に大きな格差があるということだったので、とにかくどこかしら雇ってくれることを祈りつつ、賃金上位ファームから順に就労交渉。(記憶は曖昧ですが、1位: $4,5/箱、2位: $3,8/箱、3位: $3,2/箱、4位: $2,8/箱、5位: $2,5/箱、くらい賃金の差があるイメージでした)

1位の1万ドルファームでは受付へ交渉に行ったとき「仕事も終わりかけだし、人数も足りているので募集はしていない」とアッサリそう言われたのですが、「OK. Thank you !」で引き下がったところで運は掴めないので、「モチロン他のファームもあたってみますが、万が一ここで働けるなら他で得た仕事を途中で捨ててでもここで働くので、もし空きが出たら必ず連絡して」とか他にも思いつく限りの交渉・雑談などをしてやる気を見せたり印象を与えたりしつつ、最後に連絡先を残して出ていきました。結局、翌日から働けたのは第4位のファームだけだったのでそこで働き始めたのですが、2日ほどして1位のファームから連絡が入り、たまたま欠員が生じたということでそのまま補充してもらえることになり、ほとんどラッキーですが何とか噂の月1万ドルファームで働けることになりました。

運の要素も非常に大きいのですが、一括パックを皮切りにこれまで鍛えられた交渉度胸のおかげで、普通ならすぐ諦めるような難しい交渉事でも「チャンスが0%でないかぎり、粘り強くチャレンジして運を掴む」という経験がいろいろできるようになりました。海外生活最初の勢いがあるうちにこういった力を叩き込んでくれたAPLaCでの経験は僕にとっては文字通り「値千金」の経験だったなぁと、今もたびたびそう思います。

思い起こせば、このように粘り強く交渉したからこそという事柄は、前述のガトンで2ndビザ用サインの獲得、メンバーもれしたアップル thinning 仕事の獲得、今回の月1万ドルファーム仕事の獲得、そして後述のパースのフリアコ仕事とスポーツショップ仕事の獲得、現在のNZでホワイトカラー職の獲得などに生きています。おそらく日本に居た頃の感覚のままだったら、どれ一つとしてうまくいかず諦めていただろうし、その後の展開も全く違っていたと思います。

アンフェアだった1万ドルファーム

さて、念願の月1万ドルファームですが、いざフタをあけてみると、1本のグレープの木を2人で片側ずつシェアしながらピッキングしていくというスタイルの仕事でした。

暑さに強く体力もある黒い肌のトンガ人たちがどんどん先へと進んでいき、僕から見えなくなったところでコッソリ僕の側の大きなグレープもピックしていくため、彼らが大きいグレープをどんどん取って箱数を増やしていく反面、僕は残った小さくて取りにくいグレープをピッキングさせられてさらに進みが遅れ箱数も稼げなくなるという、至極 unfair な環境に徐々にイライラが溜まり始めました。トンガ人たちが1日400ドル稼ぐ中、僕たちは100〜150ドルが精いっぱいでした。1日100ドル超という面だけ見れば特別悪いファームでもないのでしょうが。

スーパーバイザーに不正を訴えても根本的には何も解決されなかったので、腹が立って彼らより速く進もうと無理してグレープを急いでカットしていたら案の定 小指をハサミで深くカットしてしまい、一気にやる気ゼロに落ち込んでしまいました。

前述の通り仕事をゲットする交渉力に関してはだいぶ自信もついていたので、ここのファームも決して悪い給料ではなかったのですが「ストレスや身体の危険に耐えてまでここにしがみつく必要は、全くない」と別のファームを探すことにしました。

マリーバでの奮闘記録

このとき、タスマニアでラウンド中だったAPLaC奥村君とたまたま連絡をとっており、お互い金欠でしたがファームジョブ経験のなかった彼を誘い、一緒にファーム探しをしようということになり、かつこれまたAPLaC水貝君の情報を頼りに、彼が昨年の同時期に働いていたマンゴーファームのある、ケアンズ方面はマリーバ(Mareeba)へ行きます。

マリーバに着いた時点でお互いにほぼスッカラカンだったので、さっそく怒涛の職探しをしまして、3日ほどして運よく時給約22ドルのライムファームを無事ゲットできました。このファームではノンビリ働きながらも1日220ドル近く稼げまして、収入も労働環境も前回のグレープファームを優に超える、超優良ファームの一つだったと思います。

ちなみに、僕はラウンド中いつも一人で移動していたので宿探しや仕事探しも大体一人で奮闘していたのですが、ここマリーバでは奥村君が仕事探しに同行してくれて、その詳細についてのレポートまでつくってくれたので(奥村君のファームジョブ探し奮闘記録その1その2その3その4その5その6)、なかなか意識しにくい自分自身の行動を客観的に知ることができました。

ラウンドでの諸交渉については特に周りの人と比べたりもしてこなかったのでただただ自分なりにベストと思う行動をとっていたのですが、その行動量について奥村君に「記録する価値がある」とまで言ってもらえたのは正直とても嬉しかったです。もちろん僕とは比べものにならないくらいもっとレベルの高い人も沢山いるハズですが、この僕の行動&交渉を含め、これまでのラウンドの中で得てきた英語フレーズ、各国の文化、諸失敗談・成功談など、微々たるものですがラウンドの「先輩」として彼にいろいろと伝えられたことは率直にうれしかったです。それ以上に、僕自身がこれまでのラウンドを通じて自分が何を得てきたのか、これまでの苦労は無駄ではなかったのだということを再認識できたという点で、非常に意味のあることでもありました。

※ここのファームはCo-worker達も仲よく非常に素晴らしい環境でしたが、きっと奥村君の方がここで大きなものを得られたのではないかと思うので、ここでのファーム生活について僕からは記録動画の紹介程度にしておいて(寿司パーティ)、いずれ彼の体験談で改めて語られることを楽しみにしたいと思います。

2015年1月上旬〜2月中旬 パース

ライムピッキングの仕事は10日程度でしたがおかげで何とか少し貯金ができたため、日本から観光に来た友人の案内(エアーズロック&メルボルン)もどうにか実現することができました。ワーホリ期限もいよいよ3ヶ月となり、あとはWA州を回れれば満足だと思ったので、メルボルンで年越しをした後、すぐにパースへ飛びました。

年末のハイシーズンに移動が多かったこともありアッという間に貯金も底を尽きてしまったので、今回も早速フリアコ交渉。1件目のバッパーで「3ヶ月以上働ける」「フリアコ経験者」「マジメな日本人」という3大アピールポイントをシッカリ主張したのが功を奏したのか、翌日に運良く働けることが決まる。後日、受付のポーランド人から「ここはCBDかつ駅前の好立地だけあって毎日フリアコ希望者がやって来ては断られるんだけど、君はストレートで採用されて本当にラッキーだね!」と言われたので、たまたま欠員が出たのか、非常に良いタイミングだったと思います。

もちろんオーストラリアは経験者が優遇される社会であるのは知っていましたが、それ以外にも西欧の人が喜ぶポイントや独特のノリといった西洋社会での会話の組み立て方についてもこれまでのラウンドを通じて少しずつ掴めるようになり、いい意味で「日本流の会話の組み立て方に固執しない」ほうが結局スムーズに会話を進められるんだなぁと、当たり前といえば当たり前ですがそれが分かるようになってきました。

たとえば日本だと上司やお客さんというのは自分より遙かに上の立場にいるという前提で対応するのが当然のようになっているかと思いますが、オーストラリアでは日本ほどこの立場の差が開いておらず、お客さんや上司に対しても友達のように接する人が普通にいるので、そのあたりの違いを知っているかどうかで会話の仕方も交渉の成果も大きく変わってくるように思います。日本では無礼に思える返事の仕方がむしろ好印象だったり、逆に日本では polite なのにこっちでは失礼にあたる対応もあるので、「日本では失礼だから」と無闇に拒絶せず現地の文化を積極的に理解し取り入れることは、現地で実際に成果を出していくつもりであれば非常に大事な考え方だなと、この頃辺りからそういった感覚がだんだん分かるようになってきたように思います。

さて、無事にフリアコが手に入ったので、最後にWA州の縦断ドライブ旅行ができればもう思い残すことはないと思い、資金を貯めるべく以前APLaC先輩のゆかりさんから情報提供のあったスポーツショップへダメもとで交渉に。無事にその週から仕事はいただけたのですが、神経質で高圧的なボスと性格が合わず非常に居心地が悪くなってしまいまして、2週間ほどでこの仕事は辞めてしまいました。当時のパースは40度近い気温で、日中は痛いくらいの直射日光が毎日降り注いでいたため次の仕事探しのモチベーションを上げることができず、その後2週間ほどフリアコと夕方のバスキングだけというユルい時間に浸る日々が続きました。

パースは他州の都市に比べビルも盛んに建設されており景気の良さそうな雰囲気ではありましたが、反面 早口で表情の硬い人が多く、笑顔や心の余裕といったものは他都市に比べて少ない印象でした。ケンカっ早そうなガラの悪い若者もチラホラいて、暑い季節&CBDど真ん中にいたせいかも知れませんが個人的にはオーストラリアらしい素朴さをあまりここで感じることはできませんでした。少ないながらラウンドでアチコチいろんなところへ行った経験上、田舎の方が良い思い出や人脈をつくれたので、僕は雰囲気的にもっと田舎のところの方が居心地良く感じるタイプなんだと思います。

Kimとの出会い

さて、そんなパースでしたが、ここでも Kim という良い出会いがありました。
彼女は見た目こそ全くの白人で日本語も全然しゃべれないのですがハーフ・ジャパニーズであり(日本人の父と、オーストラリア人の母)、僕の拙い英語もちゃんと聞いてくれる優しい女性でした。

そうはいっても、最初は、彼女が若者言葉で早口のため聞き取るのは非常に難しく、最初彼女は僕と仲よくなるタイプの人じゃないように思いました。が、初めこそ95%くらい何を言っているのかほとんど聞き取れずコミュニケーションがほとんど続かなかったものの、慣れとはスゴイもので2週間ほど一緒にフリアコの仕事をしていると次第に20%〜30%くらいは一回で聞き取れるようになりました。完璧には遠く及ばないのですが、実際それくらい聞き取れれば大体の会話の流れから内容を察することもできるようになります。そうなるとこちらも「彼女とならもっと仲良くなれそう、もっと楽しく英会話できるようになれそう」と思うようになりますし、、彼女の方も出会ったころは僕のリスニング力の悪さから半ばコミュニケーションを諦め気味だったものの、次第に打ち解けてきてくれました。

細い糸が少しづつ太くなるように、こっちから「いまキムが言ったのは、こういうこと?」と聞き直すなどしていくうちに、最後にはほとんど問題なく会話を楽しむことができるようになりました。とにかく彼女とペアでクリーニングをする日は、それこそタスマニア時代のグロリアばりにノンストップで会話を続けるようになっていきました。

「日本とオーストラリア」に関する映画のDVDをいくつか貸してくれたり、"Daggy"が何故「ダサい」という意味になるのかといったような、英語の意味・その語源などをいろいろ教えてくれたり、最後の方は彼女の辛い過去のことなども打ち明けてくれたりもして、僕が「エスペランスの海はみんなキレイだって言うから、いつか行ってみたいんだ」と話すと、「もうすぐ車の免許が取れるから、いつか私が大きな車を買ったらエスペランスや他のところに一緒に Road trip しよう!またパースに戻ったときは絶対連絡してね」と約束してくれたりと、まだまだ拙い英語しか喋れない僕なのに、とても仲よく接してくれました。

英語はまだまだ全然ですが、初めてシドニーに来たときからずっと「同年代や若いネイティブの友達ができるような自分になれるのだろうか」と、そういった友達をつくることに全く自信がなかったので、彼女とここまで仲良くなれたのは自分の中でもとても貴重な体験でした。

2015年2月中旬〜4月 ラウンド終了。シドニー再び

2月になり、いよいよワーキングホリデーの期限も残り2ヶ月ほどになった。

このまま旅行資金も作れずパースに留まったままでタイムアップしてしまうのも残念だと思っていると、田村さんから、機会のあるうちにタッチフォーヘルスを受けてみてはどうかと勧められました。

実をいうと僕は心理関係のことにとても関心があり、大学のころや商社時代も本屋でそういった関係の本を誰に薦められるでもなく購入したりしていたので、田村さんの奥様がされている3 in 1 やタッチフォーヘルスにももちろん興味はあり、機会があれば受講も考えてはいたのですが、ラウンド中はずっと貧乏旅行を楽しんでいたため「心理系の勉強資金作り」よりも「旅先でしか得られない経験・思い出・人脈づくり」を結局ずっと優先し続けていました。

ただ、ラウンド中の節目節目で僕が悩みを抱えているときに田村さんからいつも助言いただいていたのですが、僕の「滞っている部分」や「思考のクセ」といったものがどうも諸々の悩みを生み出しているようで、「遅かれ早かれそれを解明・調整しなければ」という思いもずっと持っていたので、このタイミングでこの話が出てきたということはきっとそういう流れなんだろうという直感もはたらき、思いきって残りの2ヶ月弱はシドニーでタッチフォーヘルスを学ぼうと決心しました。

しかし、シドニーに着いた時点でお金もほとんど尽きてしまって受講費すらままならず、4週連続の受講費を捻出するため週に500ドル以上稼ぎ出す必要が出てきました。

このとき、良くも悪くもラウンドを十分やってきた自信から、「シドニーは店だらけだし、これまでのラウンドで鍛えてきた交渉力で仕事もすぐに良いのが見つかるだろう」といった楽観的な見込みと勢いだけでシドニーに帰ってきたものの、「あと1ヶ月しかオーストラリアで働けない」という自分の条件が思っていた以上に足を引っ張り、仕事探しはこれまでで一番といえるほど困難を極めました。

結局「数日間だけ」とか「激安キャッシュジョブ」とかいった仕事しか手に入らず、かと言ってとにかく平日は何かしら働いていないと収支マイナスでゲームオーバーとなってしまうため、1週間おきに仕事がクビになってまた次の仕事を探すという作業はいつも気が気ではなかったですが、結果として7週間で仕事を5回変え、掛け持ちなどで一日14〜15時間働くことで何とか乗り切ることができました。(こんなときに限って住居面の方もトラブル続きで、計4回も引っ越しすることに)

勉強しながら仕事も家も目まぐるしく変わり続け、まったくと言っていいほど安息日のない忙殺の日々だったのでラウンド中もっともストレスフルな状況にいたハズなのですが、不思議なもので記憶としてはそこまでストレスフルではない思い出として残っています。もちろん嫌なボスのいる職場で働いていたときや住居トラブルその他モロモロとその場その場では強いストレスにずっと晒されてもいたのですが、忙しすぎて悩んでいる暇もなければ余力も残っていなかったといいますか(毎晩終電でウトウトしながらもタッチフォーの本を夢中で見ていたくらいなので)、『やりたいこと・目的(タッチフォーヘルスの勉強)がまずシッカリと決まっていて、仕事はあくまでその目的を実現・維持するための手段である』という考え方が無意識ながら自分の中でちゃんとできていたのが良かったのかなと思います。

また、一つの目的のため、自分なりにトコトンやれるだけやったという結果としての環境だったので、「もっと良い環境を得られたかも知れない」という類のストレスが全くなくて現状にわりと納得できていた点も大きいです。もし強い目的が無ければいつものごとく嫌な仕事環境にもすぐに音を上げていたかもしれません。しかし、今回に関しては辛いからといってタッチフォーヘルスを断念しようと考えたことは一切ありませんでした。あくまでこの目的が揺るぎのない大前提として自分の中にあったおかげで、「このストレス環境からどう逃げようか」と新しい環境探しをするのではなく、「この環境それ自体はもう変わらないものとして、そのストレスをいかに処理・排除しようか」という、よりタフな考えが自然とできるようになっていったのだと思います。

結局、この体験記の冒頭(渡豪前の人生)で言っていたことにも繋がってもいるのかもですが、僕の場合はやはりまず「やりたいこと」や「使命だと心から感じられること」をちゃんと優先するような生き方にする必要があるのかも知れません。それらがないままイヤな環境に入ってしまった場合、そこにしがみつく理由を見出せない分「何でこんな思いをしなければならないんだ」とストレスをより強く感じてしまい、それが自分の悪い「思考のクセ」と相まって無駄に強く悩みを膨らませてしまうのではないかと。オーストラリアワーホリ最後の場シドニーにしてようやく、「死ぬ気になれるほどやりたいこと・強い目的があれば、相当な精神的肉体的苦労があっても心折れることなく挑戦し続けることができる」ということを、この怒涛のサバイバル生活を通して知ることができました。


この2年間を振り返れば、毎回とくに具体的な目標も定めず、「面白そう」といった子どものようなモチベーションと、「思い立ったが吉日」的な勢いだけで見切り発車をしてはフラフラとした生活をただ繰り返しただけのような旅でしたが、楽しかったことも辛かったことも含め、2年前シドニーに降り立ったばかりのころ期待していた以上にたくさんの経験や思い出ができたなと、この体験談を書きながらあらためてそう思いました。

30歳前後になってここまで希望や不安でドキドキしたり、また出会いと別れで泣きそうなほど心を動かされたりと、小学校以来どんどん忘れていった感情が蘇るようなそんな経験を通して、目には見えないとても大切なものを、オーストラリアで出会った方々からたくさんいただきました。また、いろんな文化・習慣・国民性といったことを知れたことでより「違い」にも寛大になり不平不満ストレスが減った分、それが受け入れられなかった時代に比べ少しだけ幸せになったのかな、とも。

渡豪直前、お世話になった特許事務所でとくに僕に良くしてくださった工学(鉄鋼)方面に造詣の深い上司から「工学の領域でも、異質なものが接し合う界面において、また、定常状態よりも非定常状態において、色々な問題が生じたり、多くの情報が得られたりするものです。周りとは異質な特徴のある国での非定常状態の変動の中での独特の経験や各種の蓄積が、2年後のご帰国以降の展開に大きく役立てられることを祈念しております」というお言葉をいただいていたのですが、知らない場所へ行ってはそこで起こった問題に必死で取り組んで、その変動が落ち着いたらまた新たな触媒を求め次の場所へ行くという暮らしの中で、予想もしていなかった新しい才能や考え方を見出すことができたり、まったく新しいタイプの人ともたくさん出会えたので、自分の人生の可能性は、渡豪前に比べすごく大きく広がったように感じます。

まだまだ気持ち的には全然物足りないくらいで、もっと新しいことにドンドン挑戦していきたかったのですが、そんな風に思わせてくれるほど充実した、本当にアッという間のオーストラリア・ワーホリの2年間が、ここで遂に終了しました。


終章:2015年4月〜 エピローグ

長いようで短かった2年間のオーストラリアワーホリビザも遂に期限が切れ、今はニュージーランドにて最後のワーキングホリデーをしております。

ロンドン本社のIT系の一般企業でホワイトカラー職を体験したり、3D制作の新たなビジネスモデルを考えたりと、ここNZでも新しいことを求めていろいろ動いています。オーストラリアで得た経験や人脈が活かせる場面も多いので、どんどん良いスパイラルを起こしつつ、気持ちはいつでも大きな起業を始められるくらいの姿勢で、「寝食を忘れて考え続けてしまうくらいやりたいこと・使命を感じられることは何か?」を考える毎日です。

まだまだ悩んだり落ち込んだりすることもあるし、やっぱり2年のオーストラリア生活だけではさすがに「悩みがなくなりました!」「最高の仕事をゲットできました!」「素晴らしい人生になりました!」とまではいかなかったし、まだまだ道半ば感だらけですが、同じ道半ばでも渡豪前は目の前が完全に塞がってしまっているように感じ無力感に苛まれていたのに対し、今は目の前の道が無数に広がっているように見え、「いろんなチャンスもあるし、努力した分だけちゃんと前進できる」といった希望が持てるようになったというところが大きな違いであり、僕の旅の最大の果実だったように思います。

まだ目に見える形としては何を成し遂げたわけでもありませんが、この心の変化自体が僕にとってすごく大きな収穫だと思います。そんな希望を持たせてくれたオーストラリアでのワーホリは、袋小路に入ったと思っていた自分の人生に新しい活路を見出すことのできた、「人生のターニングポイント」であったと言えるくらい価値のあるものだったと思います。僕のワーホリ中に関わってくださったすべての方々。そこまで思えるような2年間にしてくれて、ありがとうございました。

いつか何かで返せる日に向かって、今日もまた少しだけ前に進んでいきたいと思います。


※注:大量の写真を提供して下さいましたが全てを掲載することは叶いませんでした。残余については渡辺さんのFBサイトを御覧ください。




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