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2015年12月13日


糸数美香さんのワーホリ体験記

2013年08月渡豪
2015年12月から2ndワーホリ滞在中


ワーホリ前、ワーホリに行こうと思ったきっかけ

周りの影響ってのもあるんですが、一番は祖父の他界かな、と思います。
「人はいつか必ず死ぬ。明日命が終るかもしれないって本当なんだ。」身内の他界で「死」を強く意識した時、それならば後悔のない生き方をしたい。と今までに無い感情を抱いた事を覚えています。やってみたい事の一つが海外へ行く事。単純ですが後悔を減らす生き方に考えがかわりました。

あとはその時の生活環境かな。
祖父が他界した時、私は二十歳で仕事のため地元の沖縄をでて三重県に移したばかり。
生活環境の違いは意識の違いにも繋がりました。元々は安定志向でして、細々でも地に足つけ地元で生きてゆきたいと考えてたのですが、その職場と寮で色々な人に出会い(この時にワーホリ制度を教えてもらいました)、視野が広がり、またある程度の貯蓄もできといった具合でやりたい事をできる精神的にも資金的余裕ができたのも大きなきっかけです。

とはいってもそこからすぐに行動を移したのではなく、その後三重で3年間働き、沖縄へもどって約2年近く職業訓練へいったりダラダラ過ごしたり、そんでまた三重に出て2年間働いたり、その間に三重を拠点に全国47都道府県バイクツーリングで制覇なんてことを目標に掲げてやってみたり、その後沖縄へ帰ってまた半年ダラダラして28歳の誕生日の日にようやくオーストラリアへ旅立つという。

このダラダラ期間も含めワーキングホリデーに行くというのに必要だったのかなと今では思います。
その8年間で色々と経験し、お金は大事だけど心は満たされないといいますか、なんかぽっかり心の間をうめられない寂しさを抱えているという事に気づいたし、その事も含め海外へでてみたら何か変わるかもと期待が行動へとうつさせました。

なぜオーストラリア?なのですが、正直海外で英語圏ならどこでもよかったのです。
ビザとるの簡単そうだし、ワーキングホリデーっていってたらオーストラリアって聞くしなぁといった感じで決めました。なので、オーストラリアが好き!というわけでもなく、現地のことも何もしらず、英語も全然駄目。

勢いと海外で揉まれたいという思いのみ。そこへ行くから得られるであろう経験それに思いを馳せ行動しました。でも初めての海外は未知の世界、不安もたくさんある、それが本音でした。なので田村さんの存在は大きかったです。出国前からのメールでの細やかな対応やお気遣い、このおかげで勢いよくオーストラリアへと飛び立つ事ができました。

シドニー編

一括パック前

2013年8月26日にシドニーへ到着。
一括パック受付日より前のりでオーストラリアへ入国しました。オーストラリアという初めての外国の地を、自分一人全身で感じてみたかったからということと、少し冒険がしてみたいというのが理由です。というのも日本でのバイク旅も基本一人だったという事もあるのですが、誰かと一緒になると私の悪い意味での気を使う性格がでてしましい、なかなか思うように行動がとれなくなるからです。

そんな訳で初日は自力で行動、田村さんのいるレインコーブへ緊張しながら空港をでたのですが、前もって教えて頂いた購入すべきマイマルチ、電車、バス等の細かなルート情報のおかげでなにごともなく?無事に辿り着く事ができました。マイマルチ購入時、英語が通じない(そもそもできない)ので困りましたが、駅員も慣れてるらしくすんなり購入、その後もすんなり行けるくらいルート情報は細やかなものでした。また合間合間にはいってる小情報、それにより電車の中でくるぞくるぞと待つことのできたCircular Quayから見えるハーバーブリッジの景色。それがパッひらける景色を楽しみしてたのに、子供達の頭に邪魔されて見えなくて残念でした。

レインコーブ、いよいよ田村さんと初対面となるのですが、田村さん想像していたよりもやわらなか感じで意外でした。ですが、やはり見られている感じがしまして(これは私の思い込みかもしれませんが)ああ、この人には虚勢とかそうゆうの通じないんだろうなと。見透かされる、ほんの少しおそろしや〜という感情を抱いた事を今だから白状します笑

さて前のりできたのはいいけど、特にその後の予定は決まっていない、Manlyあたりへ行って適当にバッパーへ泊まって、明日フェリーへ乗ろうと思ってると田村さんにつげると、それよりはと色々案をだしてくれ、そしてあれよあれよと言う間に行き先までのバスルート、フェリールートまでだしてくれ、そしてノソノソしてる私に「ルート確認はバスの中でできる!」と急き立て、見送ってくれ私はオーストラリア最初の旅へとでてゆきました。正直、展開の早さに驚きましたが同時にありがたかったです。怖じけ着く前に行動することで迷いがなくなり、目的地にむかって淡々と進むことだけに意識を集中することができました。途中バスの乗り換えやフェリーの乗り方でとまどうも、人に聞けば教えてくれまた私が英語ができないことも運転手に伝えてくれたりと人の優しさで順調に目的地へ着く事ができました。

目的地でもあり、宿泊場所でもあったPittwater YHA、場所、環境も最高でした。
着いたのも暗くなってから、朝出るのも早かったのでゆっくりはできなかったけど、森の中にあって翌日早朝には野生のカンガルーを見る事ができました。まさかオーストラリアへきた翌日にカンガルーを見れるなんて!とハッピーな気分でYHAを後にし、フェリーとバスでManlyにもどり、そこからフェリーへのってCircular Quayへ。時間的に田村さんが空港へ一括パックを受ける方々のお迎えに行ってる時間だからうまくいけば合流できると考え電車に乗るも、乗り間違えMarrikvilleへ。そこから空港行こうにも時間もなく、諦めてレインコーブへ戻る事に、、、。結局は無駄なお金と時間の浪費だけに終わりどっと疲れましたが、それさえも楽しい経験として私のオーストラリア最初の旅は終わりました。

シェア探し

一括パック本番。同期の二人と一緒に学校見学、携帯契約、置き去り、そして恐怖のシェアハウス探しです。

シェアハウス探しですが、初めての電話は本当に緊張しました。
できない英語があせって早口になり、余計に聞き取ってもらえなくなるし、相手はもう何いってるか全然わかんない。やばいな、ともの凄く不安になりました。だけど田村さんの『相手もそーゆの慣れてるし、通じなかったらメールになるから大丈夫。』の一言で少し落ち着き。まぁそれでもはじめのうちは電話をかけるのに抵抗があるのは変わらず。でも途中からは電話のやりとりからいかに早くメールへしてもらうかに切り替えた事でその抵抗が段々となくなっていきました。

実際のシェアハウス探しですが、田村さんの用意してくれている交通機関の情報、地図、シェアハウス探しのマニュアル、そしてピックアップされたシェアハウス情報から気になる物件をチョイス、あとは数うちゃあたるてな感じで、私達は用意された物を利用しシェアハウス探しだけに集中できる状態でした。その時はいっぱいいっぱいで気づかなかったのですが、今ではこの準備されている状態が私達にある程度の余裕を持たせてくれたというのが改めてわかります。

はじめての現場は、同期二人と一緒だったというのが心強かったです。

メグはさっぱりとしてグイグイいきながらも、共に行動する相手の体調を気遣う事も出来るタイプ。
カツラさんは海外慣れしてる感じで海外初心者の私は英語面でもその他の場面でも二人に助けてもらう事も多く、ありがたいやら申し訳ないやら。一緒に行動する事で、心強くもありましたが私の勝手な劣等感に悩まされて空回りすることも多く、自分の弱さを改めて感じるのでした。

それでもシェアハウス探し中頃からは、探検感覚で楽しかった記憶がありますアポをとった先がかなりボロかったり、こんな狭い部屋で相部屋とか考えられないと思ったり、異常なまでに綺麗なところはやはりルールも厳しかったり、住人が面白いけどクセありそうだなとか。私の英語力では必要最低限の事をどうにか理解するのがやっとで、さらっと感じるくらいしかできなかったのですが、それでも色々な所を実際に目にしてみるのは面白く、そんでもって大事なんだと実感しました。

そうそうシェアハウス探しは結構体力を使いまして、帰った後の田村さんのご飯を楽しみにしてました。ピーマンの肉詰めがめっちゃ美味しかった!あの疲れた後の食事、談笑は心休まるものでした。あっ、それとせっかく契約した携帯を2日目くらいで電車で置き忘れて無くしました。あれにはあせったあせった。でもその後自分のやらかし具合に笑えてくるという。田村さん、ほんとにご迷惑おかけしました。

十件くらいまわった後、Arncli.eのピザ屋の二階の部屋にシェアハウス先をきめました。
シェアハウスといっても、アパート?寮?みたいな感じのとこでリビングとかはなく、オーナーは陽気で良い感じだし家は別邸、シェアメイトとも関わりはうすくなりそうだけどそのぶんバイトとかで遅くなっても気にしなくてすみそう、駅ちかい、スーパーも近い、と今までみた他の所よりも住みやすそう!ってので決めました。

シェアメイトはオージのおじさんに日本人のおじさんで、二人ともよくしてくれましたが、お互い仕事やバイト、学校等がありたまにあって少し会話をする程度。私自身も英語の自信のなさからピザ屋のオーナ家族とも積極的に話すことができず、自分の情けなさにがっかりしつつも、学校やバイト等慣れない環境での生活に疲れたあとに一人ゆっくり過ごせる部屋は快適でした。でもその快適さは自分が英語でのコミニュケーションから逃げている事でもある、ということにも気づいてはいたんだけど行動に移すことはせず、モヤモヤの気持ちのまま生活を送り続けました。

学校

学校はSECに決定。理由はELSISに通っている自分のイメージがわかなかったからです。小心者でして、ELSISの雰囲気が怖いというか、ノリがあわなそうということでSECへ行くことに決めました。4ヶ月通いました。

クラスはもちろんエレメンタリー。卒業するときはプレインター。でも英語力はエレメンタリーから変わりなかったです。無理矢理あげて貰い一つ上えのクラスに。

最初は頑張るぞ!と意気込みだけはあったのですが、現実は甘くなく。先生のいってる事はわからない、クラスメイトと話そうにもお互いの英語力で会話にならず思わず笑ってしまうこともしばしば。でもそのぶん通じあった時の喜びはひとしおで、無邪気に喜び合いました。前半は楽しかったです。

後半は自分の英語のできなさに学校へ行くのも英語を聞くのも嫌になり、午後から授業をさぼってManlyいってブラブラすることもありました。認識が甘かったです。英語にたいしての考えもそうですが、自分の中途半端で投げ出す性質を、、、。 そんな下のクラスでもやっぱ、ヨーロピアンやブラジル人は臆する事なく積極的な姿はさすがというか。またクラスに韓国人の男の子達がいたのですが、この2人がびっくりするくらい日本語がうまくて。

英語は駄目駄目だったけど、そこで出会えた友達と学校おわりに飲みにいったり、ビーチでバーベキューしたのはいい思い出です。私の付き合いはほぼ日本人でしたが、その中でも同期ではないけどAPLaC卒業生というだけで通じるものがありました。また最後の1ヶ月間だけ学校生活がかぶった日本人の友達がいたのですが、その友達とは人生相談までできる仲になり、学校へ行く意義は英語のためはもちろんだけど、人との出会いもかねてるとはこの事だったのかと実感しました。

バイト

学校がはじまって1週間後くらいからBurwoodのジャパレスでキッチンハンドとして働きだしました。すんなり決まったのは、面接が働く事前提、私がラーメン屋でのバイト経験があること。キッチンハンドとして働いたので、全然英語が必要ではなく拍子ぬけしたのと同時に安堵しました。でも仕事に慣れたくらいからずっとこれでいいのか?と思いつつ、学校が終わるまで同じところで働き続けました。時給もすぐにあげてくれたし、まかないは美味しい、週4、5日はいれる刺激はないけどシェフは優しい、悪くない環境だったのでやめずにズルズルと、、、。結果貯蓄はできませんでしたが、日々の生活はまかなえ、生活的には助かりました。

ぶらぶらと心のお掃除 そしてラウンドへ

ぶらぶらと知らない土地を歩くと言うのが好きな私は、マイマルチをよく活用して色んなところへ行きました。北はNewcastle、南はBomaderry,東はWatsonsBay,西はKatoomba。ParramattaからCircular Quayまでフェリーに乗ったり。行き先でおりて観光がてらゆっくりと歩き街の様子を流し見たり、ただ電車へ乗ってそこまで行き、そのまま帰ってくるという事もありました。

その他シティ近辺の駅に適当におりて歩いてバスのってということもよくしました。特になにするわけでもなく、ただ歩く。疲れたら公園で休む。こうゆう時間が大好きでした。ジャカランタに心うばわれたり、ただただ青くて広い空を見上げたり、探さなくても見つかる巨木、色鮮やかな鳥。遠くからシティを眺めぼーっとする。シドニーから早くラウンドにでたくてたまりませんでした。都会は便利な反面、苦手でした。

シドニーでの生活が始まって数ヶ月。私の心はずっとモヤモヤしたままでした。それはここでの生活への自分の対応もあるのですが、それ以上に日本から持ち越してるもので、結構長い付き合いのもの。環境が変わればこれもどうにかなるかなと思ってたんですけど、やはりこの内面の問題どうにもならんなと気づきまして。ラウンド出るまでには少しすっきりさせたいなと考えていました。

幸い田村さんの奥様、優季さんがカウンセリングをしていることは日本にいる時から知っており、興味もあったので思いきって受けてみる事にしました。カウンセリングは初めてでしたが、興味深い経験でした。長年ためてた物に向き合うことはしんどくて、でも固まってたものがほぐされていくようで、そんでもって自分の方向性を見つめるという。私はどうやらタメにタメまくってたみたいで、このカウンセリングが心のお掃除となり、心がかるくクリアな方へと向かってゆくきっかけになったと思います。カウンセリングなんて、と構えずささっと受けておけばよかった、でもこのタイミングだったんだろうなとなんとも不思議でさわやかな気分でなりました。

私も含めですが、カウンセリングを受けるという事に抵抗がある方もおおいと思います。自分でどうにかできるし、そもそも受けるほどのこともないと。だけど、自分の状態のチェック、持ち直しをしたいくらいの気持ちで受けるのもいいんじゃないかと。自己分析のお手伝いを受けたいかたにおすすめです。

ラウンド編

Tasmania 〜 到着

1日目 タスマニアホバート到着。タスマニアを選んだ理由はまわりの人が行きたい所にあげていて、学校の先生にもすごく良い所だからとおすすめされ興味が湧いたからです。タスマニアにきたものの、バッパーは1日だけの予約のみ。現地に行かないとわかんないしなと後はは何も決めておらず、到着当日は二日酔いでもあったためバッパーで寝て過ごす。

2日目、さすがにこれはまずいと思いインフォメーションにいったり、コリアンのエージェントを訪ねてみるもしまっていて連絡とれず。近くのバッパーも周りなにか仕事の情報ないか?と聞いてまわるも情報えられず。歩き疲れてバッパーに戻り、ボードにある貼り紙を再度確認。日本人女性がWWOOFみたいな感じで募集しており、最初はここにきてまでも日本人ってのはななんだかなと朝は流し見たんだけど、よくよく見てみるとアドレスにokinawakaという文字が。これはと思いメールで自分のいきさつと、履歴書を細かに書いて送信。

3日目、Huon villyのバッパーへバスで行って直接仕事の話を聞くも、仕事はブルーベリーストロベリーが入る予定。がしかし部屋の空きはなくキャンプのみといわて撃沈。バッパーに帰りメールをチェックすると昨日の返信があり受け入れokとの事。救われる。翌日ホバートに迎えに来てもらえる事に。その夜、同じ部屋のオージファミリーに誘われとちょっとしたホバート観光をし、食事もわけてもらい、タスマニアにきて緊張続きだった心がほぐれました。

初めてのwwoof

ホスト先はHuon villyの近くでしたが、そこはは洗剤、シャンプーはオーガニックな物しか使ってはいけないエリアでした。ホストはナチュラリストでベジタリアン。旦那さん(オージ)、奥さんはウチナーンチュ(日本人)、そして1歳半の男の子の三人家族。電化製品は一通りあり、トイレ、シャワーもあり。だけどシャワーはお湯がでないし、夏はいつも川(すぐ横にあり)ですまし、寒いときは外で五右衛門風呂とのこと。このホストがwwoof制度を利用してるのでく、近所のオーガニックファームが利用してており、そのファームオーナの承諾を得て、午前中はファームの手伝い、午後は奥さんの手伝いをする事で食事や宿泊はホスト先、セカンドビザのサインはファームオーナから貰えるという事でした。 オーガニックファームにはヨーロピアンとカナダ人数名がwwoofををしていて、仕事は.草むしり .サラダの収穫 .ブルーベリーピッキング、パッキングを彼らと一緒にしました。

タスマニアの朝は夏でも結構冷え込みます。その冷たい澄んだ空気の中での草むしりは無心になれ、なんだか座禅や瞑想みたいな効果をもたらしてるのではないか?と思うほど作業後は心地よくなりました。またブルーベリーの美味しいこと!もくもくと実をつみ、その行き先は私の口というルートを数えきれない程辿った事か。食べ過ぎでお腹がたぷんたぷんになるほどでした。

とまぁ仕事自体は好きだったのですが、問題は他ウーファーとのファームオーナとのコミュニケーション。彼らは英語を上手に話せ、私はポカーン状態で全然ついてゆけず。気さくに色々話かけてはくれるのですが、私の状態に苦笑い。私の勘違いで仕事を早くひきあげてしまい、オーナファームとホストにご迷惑をおかけしてしまった事もありました。ですが、彼らは穏やかで優しく、仕事はやりやすかったです。

ホスト先での仕事は奥さんのお手伝いということだったのですが、主に子供の面倒を見ていました。といってもひたすら子供の後をおいかけていくだけ。後は一緒に遊んだり。子供は家の中外関係なく裸足でかけまわり、大自然の中でのびのびと育ってきてるのでとても逞しく、ちょっとした事では泣きません。転んでもすぐ立ち上がる、トゲトゲの雑草を踏んでも泣かず、その草をとってくれと合図をする。散歩に行くとおちた小枝を持ち帰り、川の冷たさなんてもものともせず。自然と一体になって育つ彼から私はたくさんのエネルギーを貰うと同時に、自然をただ純粋に楽しむことを学んだような気がします。

旦那さんとの作業中にも同様な事がありました。五右衛門風呂を湧かす火をおこす作業を二人でしていた時の旦那さんの言葉です。「樹を切らなくても、自然に落ちた枝を拾って使えばいいんだよ。枝も水も空気も樹からのプレゼントだよ。だからわざわざ切る必要はないんだ。樹はよき友達だ。」ああこういう事なのかと、燃え漂うユーカリの香りにつつまれた私に「自然と共存」ということ言葉の意味がスッと腑に落ちました。説明は上手くできないけど、青空のした周りは大自然。その中ではいる五右衛門風呂は感慨深く最高でした。

数日後の昼下がりの散歩中、奥さんがタスマニアの森林伐採の現状について話してくれ、伐採された木のチップの大多数のいき先が日本である事、トイレにあるペットボトルの水は用を足した後に使用する水であり、その後はタオルでふく、トイレットペーパーを置いてるのはお客さんのため、使うなとは無理強いはしないけど使う際に考えてくれたら嬉しいと。「でも私も20代途中まではなにも考えずバンバン使ってたけどね」と笑いながら教えてくれました。

何となく知ってはいる気がしていたけど何も考えずにバンバン使う、その環境で当たり前に生きてきて、私はその事になんの疑問にすら抱いたことはありません。腑に落ちたはずの「自然と共存」が、落ちた先で居心地悪くガタガタと動きだしたのを覚えています。その後の滞在中ですが、私がトイレットペーパーを使う頻度は少しだけ減るに留まりました。刷り込まれた慣れと意識の低さはそう簡単には改革できなかったです。

とまぁ考えることもありましたが、ここでの生活は奥さんの作るベジタリアンご飯おいしー!!初体験真っ裸での川入水気持ちいい、空気うまい、星空綺麗、自然最高!寝る場所もあり、ご飯も食べれて、人にも恵まれて。無計画で出て来たタスマニア、不安の中でこうゆう機会をつかむ事ができてラッキーだし、有難い事だなって。

だけど、私のほうはもらってばかりで役にたってないなと感じるところもあり、さらに来週から2、3人受け入れる予定とのことだったので、約1週間の滞在でこのホスト先を去る事を決めました。

Tasmania 〜 振り出しに、不安定な2週間

Hobartではバッパーに滞在。またいちから出直しです。ただ来た時の何も情報が無い状態ではなく、ホスト繋がりでコントラクターのナイジェルの電話番号を知り連絡をとり面接することに。結果、今すぐの仕事はないとの事。3月頃からならある。また仕事が見つかり次第連絡するとのこと。またバッパーの日本人から得た情報でティムというリンゴ関係の仕事の人に連絡するも断られる。再びコリアンのエージェントに行くも、時期が遅すぎると断られ。う〜ん、これは有給の仕事にこだわってる訳にもいかないなと思い始め、自分の自己紹介、いきさつ、履歴書等の文書をメールにまとめHobart近辺でセカンドのサインがもらえるwwoofホスト中心にメールを送りはじめました。

ホスト先から返信がくるかもわからない、来てもそれがいつになるかわからないので、同時進行でナイジェルやコリアンのエージェントにも仕事はないか?とメールしたり、タスマニアの北にあるバッパーに電話して状況を聞いたり、またタスマニアだけでは駄目かと思いメインランドのSAやVictoriaのバッパーにも電話で聞いたりしていました。

ここまでで1週間。英語でのやり取りは時間がかかるうえ電話口で理解できない事もおおく、また良い返事がもらえることもなくただ過ぎてゆく時間に、減ってゆく銀行残高。

バッパーも雰囲気、人は悪くはないのですがどこかなじめず。というかぶっちゃけヨーロピアンとかにビビってるのはわかってたんだけども、それだけではなくすでに仲ができあがっているバッパー滞在日数が長い日本人達にもびびってしまい、どこかはいっていけず。当然仕事情報は効率よく集められない。自分の計画性の無さに呆れ、情けなさを嘆きました。またこのうまく事が運べないことに、ちょっとまいってしまいホームシックで気持ちが不安定に。日本が恋しい気持ちでいっぱいでした。 だけど自分でも不思議なことに、どこかこの状況をニヤニヤ楽しんでいる自分がいました。これこそ私が求めいてた状況だ!って。大げさだけど、生きなきゃ!って必死になれる毎日がちょっと楽しかったです。

残高は減ってくけど、考えようによってはまだあるほうの額(アプラック体験談と比べ)。またその体験談や田村さん、バッパーの人達がいっていたタイミングというものまでにガチガチになっても疲れるだけだけだし、すぐ気ぃはっちゃうのは自分の悪いクセで空回りの原因。よんなぁよんなぁなんくるさいなー(ゆっくりゆっくり、なんとかなるさぁ)精神でいこう、このいつくるかわからないタイミングというものを待つ間楽しむ余裕をもとうと決めました。

開き直ってHobart周辺の観光をはじめた直後、wwoofホストから受け入れOKとのメールを受信。タイミングきたー!!と興奮しました。受け入れOKだけでも嬉しかったのですが、そこが私の第一候補だったからです。受け入れ可能日は1週間程先。ほんとタイミングってくるんだと実感。そこから1週間は本当に楽しく観光に集中する事ができました。

このwwoof先が決まるまで含めた2週間は、感情のバランスをとるのが大変だった記憶が今でも強く残っています。
気にかけてメールをくれる友達や姉、バッパーやタスマニアで知り合った人に要所で救われました。それ以外でも落としたペンを拾い上げ笑顔で渡してくれる地元の人に癒されたり、たまたま話しかけられた旅行者のおじさんは英語の先生で1時間程コーヒー飲みながらレクチャーを受け得した気分になったり。あとは単純に空の青さ。簡単にいえば気持ちの持ちようなんだけど、なぜかこの意識を向ける方向で変化する自分を新鮮に感じました。

Tasmania  〜 2回目 wwoof

ホスト先はHobartから100キロ離れたNubeena。そこはモーテルとカフェ、エコヴィレッジがあり、エコヴィレッジにはオージーの住人が数組、ウーファーとヘルパーがあわせて10人程おり、ウーファーが畑や地形作り、ヘルパーは英語レベルの高い順と持ち合わせいているスキルで仕事が異なります。先のメールのやりとりの時点で私はハウスキーピングと決まっていて、もう一人の日本人ヘルパーと仕事を組むことになりました。

このホスト先はバイトと寮生活みたいなもので、ボスが組んだシフトどおりに出勤、1日六時間労働でそれ以外は自由時間。施設内のプールやジャグジー、サウナにビリヤード等は自由に使ってよし、食事は朝食は各自の部屋で、昼食、夕食はウファーや住人も同じ所でとるといった風に仕事以外はモーテルのお客さんとそんな変わらない時間を過ごしました。 ハウスキーピングの仕事は初めてということもあり、新鮮で楽しかったです。日によっては忙しく時間に追われる事もあたっけど、パートナーやボスのヘルプもあり全然苦ではなかったです。

このボスのスーザンですが、この人がホントに陽気でいい人でした。たくさんいるウファーやヘルパーの面倒をみてくれ、それぞれの仕事量に偏りがないように気を配り、必要なときはヘルプも嫌な顔一つせず。特に私達日本人は真面目に働く傾向があるため、逆に働き過ぎていないかチェックをうけたり、やむを得ずオーバしたらその時間分休みをくれる等の対応をとってくれました。「何かあったらスーザン」ってのがみんなの合い言葉のようなものになっており、ボスだけど親しみのあるかっこよさをもつオージーのおばちゃんへの信頼は絶大でした。実際、私の受け入れのメール電話のやりとりも全て彼女が対応してくれ、その対応の丁寧さもここが第一候補だった理由の一つです。

他のウーファーやヘルパーも気さくな人がおおかったんだけど、やはり人数がいる分それなりにウーファー間での問題もあります。まぁそこはみんな大人だから良かったんですが、問題だったのはある一定のメンバーはお酒飲みながらドラッグをするというのが毎日でして。私達日本人に強くすすめるというのはなかったけど、そうゆうのが苦手だったので深入りはせず、一人で過ごす時間を多くとっていました。

約束である1ヶ月の滞在期間をおえ、Tasmaniaはまた仕事があるシーズンにはいってたけどなんだかもういいかなと思い、HobartからLauncestonへ行き観光してSAのRenmarkへと向かいました。

Renmark 〜 低賃金ファームジョブ.骨折

3月11日 Renmark到着。
SA.Renmarkはシトラスファームが有名で、私はレンマークインターナショナルバックパッカーでオレンジのピッキング、パッキングの仕事を待つ事にしました。このバッパーはチアキさん(アプラック卒業生で同じジャパレスで働いてた)から紹介してもらい、彼女とは入れ違いでの滞在となりました。

仕事は今すぐにはないとのバッパーオーナー(マット)に言われていたので、来て数日は散策がてら周辺のグレープファームやモーテルに仕事はないか?聞いて回りましたが、どれも空振り。仕方なしにバッパーへもどると、明日から仕事!といわれ4日目くらいで仕事にありつけました。

有給初めての仕事はグレープのピッキンッグ。歩合制のイリーガルジョブでセカンドのサインももらえない、けっしていい仕事ではなかったんだけど私にとってはラウンド初の有給の仕事でして、収入が少しでもはいる!ってのは精神的に大きな物でした。

週のレントが$135+ガソリン代で、給料からそれをひくと微々たる残り、もしくはマイナスとなる時もありました。それでも4月後半からスタートするであろうオレンジのピッキングを待ち仕事をしながらバッパー生活をおくっていました。

そんなバッパー生活や仕事にも慣れた4月6日、右足首骨折。しかも仕事ではなくスケボーで転んで。笑

仕事に必要な手袋をウールワースに買いに行った帰りの歩道で、一人盛大にこけやらかしてしまいました。
バキッっと聞こえた音。マズい!!と思い、その場で少し座り込み様子を見てとりあえず歩いてバッパーへ帰ることに。帰って様子をみるも、痛みはひかず足首は腫れるばかり。この痛みと腫れはねん挫ではないなと思いつつ、バッパーの台湾人の元ナースの女の子にお願いして応急処置をしてもらい、どうにか月曜までの二日間乗り切りました。

松葉杖とほほの図
その後、医者(すぐ近く)→レントゲン(30キロ離れた街)→医者を経て骨折が確定。安静に4週間のギブス生活。ギブスが外れた後も走ったりジャンプ、その他無理はしない様にとの事。全治は私の回復次第。

覚悟はしていたけど、どこか頭の片隅にねん挫であったらというのもあってショックは大きかったです。4週間は確実に動けない、その後も厳しい、、、オーストラリアに来てなにやってんだろう、、、って。

でもクヨクヨしててもしょうがない。考えました。選択は二つ。日本へ帰るか、バッパーへ残るか。
バッパーへ残る!とりあえず!これが私の出した決断でした。理由として、
.日本へ帰るにも荷物をもってバス、飛行機の移動は厳しい。
.資金の現金は厳しいが、クレジットがある。
.幸いバッパーはバリアフリーな作り、そしてベットも下段。 シャワー室兼トイレも車いす用のところあり。
.順調に回復すればセカンドも狙える。
.バッパーの唯一の日本人の女の子、彼女が一緒に頑張ろう!!といってくれた

以上からバッパーの生活を継続する事を決定。特に最後の日本人女の子からかけられた言葉はとても心強いものでした。(後にこの女の子がちょっとしたストレスの原因にもなるのですが、、、。)こうやって私のバッパーでの松葉生活が始まるのでした。

Renmark 〜 松葉生活 

松葉生活の4週間はほぼ同じリズムで過ごしてました。 
起床、朝食、みんなの見送り
      ↓
裏庭で上半身、左足のストレッチ
      ↓
節約のため手洗いで洗濯
      ↓
昼食兼、夕食作り
      ↓
読書、DVD鑑賞、たまに英語の勉強
      ↓
早めのシャワー
      ↓
皆の帰宅、夕食

この期間は治す事に集中、そしていかにバッパーのみんなに迷惑、負担がいかないようにするか考えて生活していました。骨折自体の事でくる自身のメンタルの持ちようよりも、はるかにみんなに迷惑、特にもう一人の日本人の女の子へ負担がかかるのが嫌で。

実際、日本人が二人ということもあり彼女には本当に色々と助けてもらいました。がしかし私をカバーする事での彼女への負担、それ意外でのバッパー生活での問題、はっきり自分の意見を主張する彼女と、なぁなぁの私で少々ぶつかることもあ り、世話をしてもらってる負い目から我慢をしなきゃ!という思いがありました。

何が一番嫌だったかというと、愚痴がおおい、これにつきます。これが最大のストレスでした。なぁなぁの私ですが、これだけは主張(やめた方がいいんじゃない?くらいですが)し、必要と感じれば距離をおきました。でも彼女からの私への指摘、バッパーの問題への指摘は的をえてることもあり、それをしっかり主張できるのは私に足りない物。学ぶところも多かったです。

圧倒的だったのは、セカンドのサインの事で会社やバッパーオーナーにはぐらかれされたのもモノともせず、直接問題のあったボスと対峙ししっかりとセカンドのサインをもぎ取った事です。ここのバッパーは台湾人、香港人、そして私達とアジア人のみで主張するということには弱く、その中で彼女だけが問題あるボスのオージーと堂々と渡り合っていました。

主張するのをさけてきた部分がある私に、彼女の行動はよいお手本でした。そしてなんだかんだいいながらも、結局は私の面倒をみてくれた彼女に今は感謝の気持ちしかありません。

彼女以外もバッパーの皆がなにかと気にかけてくれ助けてくれました。
はじめはその事にとても申し訳なく思っていたのですが、すぐに考えを切り替え、助けを素直に受け取りありがとうと伝える事にしました。どうあがいても助けが必要な状態、開き直って前向きに切り替える事は私にもバッパーの雰囲気にも良い事だと思い直したからです。それ以降、メンタル面での波は比較的穏やでズーンと暗くなることはなくむしろ陽気になり、まわりのとのコミュニケーションも以前よりとれるようになっていきました。こうやってバッパーの皆に支えられて、ギブスがとれるまで無事過ごすことができました。

Renmark 〜 リハビリ生活 

〜ギブスを外した後、私の右足の筋力は衰え、足首にいたっては動かす事もできず松葉なしでは歩くのもままならない状態でした。なのでネットから得た情報や整形外科に勤めている友人に連絡し、リハビリを開始しました。

根気よく続けいくと、除々にではあるものの足首の稼働域はひろがっていき相変わらずのビッコでゆっくりだけど松葉なしでも歩ける様になるくらいに。だけども仕事はできる状態ではない。その時の主な仕事はオレンジのピッキングで、カンガルーバックをしょって二階に届くようなハシゴに上り下り移動しながらするという作業で、普通でも重労働なのに今の私には到底無理、、、。ただただ過ぎてゆく時間に、滞納額だけが増えてゆくレント。

このままただ回復を待つよりも動こう!そう決めRenmark周辺のwwoof先に現在の自分の体の状態もありできる仕事が限られている事、セカンドのサインが欲しい事、でもオレンジのパッキングの仕事が入り次第バッパーへ戻ること、それが翌日になるかもしれない事という状況をを正直に全て伝え、返信が来る事を願いました。

二日後、wwoof先が決定。これまた私が第一候補にしていたホスト先からで本当にラッキーでした。その日にオーナーのマットに「wwoofにいかせてほしい。絶対戻って来てレントも払うから、お願い!!」と必死に伝えるとあっさりOKとの答えが。その上いい選択だと思うよと言い、更にはベットキープもok、荷物もそのままでいい、行くのいつ?バス停までおくってくよとトントン拍子に事が運ぶので、その展開の早さに何度thank you!!とマットへ言ったことか。彼は骨折の際も医者、病院への送り迎えを全てやってくれました。

松葉を借りて来てくれたのも彼でした。私のレント滞納額は約$1000、それでもこちらの状況をくんで快く送り出してくれたことは本当にありがたかったです。

Waikerie 〜 3回目 wwoof 

ウーフ先のおっちゃん
Renmarkから100キロ程はなれた小さな街、そこからさらに車で五分ほどいった場所に今度のホスト先はありました。ホストオーナは陽気なおじちゃんブルース、奥さんのスーザン、犬のジェンマ子供達は自立しており、スーザンも仕事のため隔週で昼勤務、夜勤と生活がまばら。ブルースの道楽にちかい作業のお手伝いが私の主な仕事です。ブルースは十年以上のホスト経験がありも、なんといいますか仕事をして欲しい!というよりも興味があればなんでも教えるから楽しんでねというスタンスのホスト。なので田舎のおじいちゃん家に遊びに来た感覚でした。

実際にブルースは私に色々な事を体験させてくれました。ナイトサファリで土を掘り起こしサソリを手に取ってみせたり、真っ暗ななか車をすごいテクニックで走らせカンガルーを追いかけて見せたり。川にカヤックをしに行ったり、ウサギのハンティングへも行きました。

ウサギのハンティングは少し衝撃をうけましたが、それなりの理由あってのこと。私は田舎育ちでして、食するために生物を殺す現場というものにそれほど抵抗がなかったのもあるかと思います。ただTasmaniaでベジタリアン生活を過ごした事もあり、このことに関しては思うこともあったのですが、それぞれの生き方の選択の一つでありバランスが大事なのではないかと思うだけにとどまりました。掘り下げるには知識がうすいのと、単純に両極端な生活は望まないであろうという自分の性格からです。

トラクター
ここでの仕事で一番楽しませてもらったのは、トラクターを使った作業です。小1時間程運転の仕方、土のならし方を教えてもらい、後は自由にやっていいよといわれ本当に好きなだけやらしてもらいました。これが本当に楽しくて。もう子供の砂遊び状態。何やってもOK、時間は気にせずにトラクターという大きなおもちゃを使って遊んでいるという感じでして、私の中で仕事の感覚は全くなかったです。このトラクター仕事で、高い視線から周りの景色をみわたすだけでもハッピーになったり、土の香りが好きだった事をい出したりと童心にかえってゆくのがわかりそれが本当に気持ちかったです。長時間作業をトラクターと共にしたので愛着が湧き、何枚も写真をとりました。トラクターの虜になった私をブルースは笑いながら見守ってくれていました。この頃が自然へたいして私の感受性が最も高まってた時期で、草が土から芽吹くことに神秘を感じ、「人は自然の一部だ、ただそれだけなんだ」と理解したような瞬間がありました。あの時の不思議な感覚は今でも覚えています。

ウーフ先でいつも見ていた朝日
とまぁこんな感じで楽しく過ごさせてもらってたのですが、ホストとのコミュニケーションにおいては反省の日々。特にスーザンとは会う時間が少ないというのもあり、ようやく慣れて来た頃はッバパーへ戻る時。そんなチキンな私を見送るため、わざわざバス停までかけつけてくれた彼女に思わず目がうるみました。

出来る事ならここにもっといたいというのが本音でしたが、私の足の回復と仕事のめどがついたので、約一ヶ月の滞在を経て私はRenmarkのバッパーへ戻ることになりました。

Renmark 〜 オレンジピッキング 

6月25日。バッパーへ到着。この一ヶ月で人の入れ替わりが多少あったみたいだけど、それ以外の変わりはなく。戻って来た私の回復状態をみてよかったねと声をかけてくれる子がおおく、そのおかげですんなりなじむ事ができました。

翌日からはさっそくオレンジピッキングの仕事がはじまりました。初めてのオレンジピッキング、話には聞いてたけど思ってたより大きいハシゴに回復はしたけどまだまだ完璧とは言えない私の足。それに結構の重さをしょっての昇り降り。だけどやるしかない!そう言う気持ちで望んだものの、初日からハシゴから落ちるというアクシデントにみまわれ、ケガなくすんだのですが下手したら再骨折という恐怖と戦いながらの初日になりました。

オレンジピッキング

オレンジピッッキングの仕事は歩合制でしたが、雇い先ちゃんとしたファームでセカンドのサインや給料の面ではなんの心配もせずにすみました。ピッキングの遅い私にはそこまで稼げる仕事ではなかったのですが、それでも着実に滞納額を減らしていけたのでかなりキツい作業ではあったけど、仕事にありつけたのはよかったです。またこの仕事の時にも、私の足を気にかけてくれるくれる子達がいてそのおかげでビッコしながらではあったけど最後まで頑張るができました。

バッパーでの生活も変化というか、台湾人の女の子と仲良くなりその子とジムへいったり、散歩へ行ったりと過ごす時間が多くなりました。彼女と私は少しとにてるとこがあって(一人行動が多い)気が合い、くだらないことでふざけ合うのがとても楽しかったです。バッパー全体として、誰かの誕生日があればそれぞれが一品もちよってパーティをしたり、元パン屋にパン作り方をおそわったり。Renmarkは何もない所だったけど、いい思い出がたくさんできました。オレンジのピッキングはじめ1ヶ月とちょい、滞納していレントも給料と保険でどうにか払い終え、セカンドの日数もクリアした頃には8月を過ぎており、ワーホリ一年目の終了期日がせまっていました。

帰国直前、荷物を取りに来たときのスナップ。これからラウンドに出かける大井さんと。
私は資金面の問題と一度しきりなおしをしたいと日本へ帰ることを決めていたので、その後メルボルン観光、シドニーを経て日本へ帰国しました。


ワーホリを終えて

「ワーホリどうだった?」と聞かれ「いやぁ骨折が色んな意味で痛かったよ笑」って毎回同じ答えになるくらい私のワーホリ生活のハイライトは「骨折」でした。その話を語る時に大半は私のドジをやらかした笑い話になるのですが、それと同時に色んな人に助けられてきたんだと改めて自分の中で実感します。骨折の時はもちろんですが、学校時代の友人やラウンド中で出会った人達、困っていると手を差し出してくれる人が必ずいました。それとただそこにある壮大な自然。これを全身で感じるのは本当に気持ちがよく、いい意味で「人間は自然の一部にすぎない」と感じ、良い時もあれば悪い時もあるし、精神的に苦しいとき追い詰めてるのは意外に自分自身だったりするって事に気づき、そうゆう時に自然をながめ感じる事で癒され気持ちを持ちなおすようになりました。

またシドニーでの多民族国家を目の当たりにして、それぞれのバックグランドにある文化の違いは、なにが当たり前でまたそうでないのかという今までの私の価値観を混乱させ、柔軟にさせました。これは勝手に感じた事なので、実際にどうかはわかりませんが人種、文化、宗教の違いでこれほど入り交じってる国でそれぞれがやっていけてるというのは、互いが違うということを知っていて、強く干渉することもなく流すこともできるからなのかなぁと。

なんだか呼吸をするのが楽になっていました。どこにいようが私は私で良くも悪くも変わらないし、また変化もする。どっちでもいいんだって。一年間のワーホリ生活で、私は勝手に背負っていたなにかをおろし生きやすくなりました。あっお金的には大赤字でしたが笑 英語も謙遜なしに駄目なままです。.帰国後、そしてセカンドワーホリ帰国して10日くらいして台湾人の友達のところへ遊びに行きました。怖いですね笑 勢いというものは。遊びにきなよーっていわれRenmarkにいた時にチケットはすでにとってあって、1週間くらいかな友達のところへ泊まって台北を観光しました。色々と案内してくれて楽しませてもらいました。

その後2ヶ月以内くらいで、またオーストラリアへ戻る予定だったのですが、なんだか自分の中でモヤモヤとしたものがありまして。私は一体何がしたいんだろう?って。ウダウダ考えのばしのばしにしてました。そんな時に私の信頼をおいてる方から「一緒に仕事してみない?」というお誘いを受けまして。経験も知識もない、ってかどっちかっていうと要領も悪いのに、人間性だけをかっていただいた有難すぎるお誘いだったのでかなり心揺らいだのですが、でもやっぱりまだ自由でいたいという気持ちからお断りすることに。

んでそうこうしている内に身内の不幸があったり、自分の心境の変化があったり、その変化からかなんだか地元の生活にも新鮮さもあり以前よりも楽しめているのもあって、沖縄での生活も悪くないなーなんて。

そうやってまた得意のダラダラを続けてたのですが、それでも心の中で海外へ出たいという気持ちは消えなかったので、やっぱりもう一度行こう!と決心し今現在シドニーいりしてます。計画性もない、なにが自分をそうさせてるのかもよくわからないうえ、私自身も上手く言えない現状ですが、こういうケースもあるよという体験談として残したいと思います。

糸数 美香

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