はじめに
自分は2012年11月からオーストラリアでのワーホリ生活を開始しました。
ワーホリをしたいと思った理由は日本での生活でなんとなく閉塞感があったからです。
30に近くになるにつれてなんかやっばいなーと。。。このまま年取って死んじゃうのかなーと。
あかんわー、こりゃいけんわーと思いながらもだらだらと仕事と家の往復を繰り返してました。
テレビの前でソファに寝っ転がっていました。
ちょうどテーブルの上にパソコンを開いてて、Googleのトップページになってて
なんとなしに「海外 生活」みたいな感じで入力したら今まで見たことも聞いたこともなかった「ワーホリ」という言葉がどばーっと目の前に現れ。。。
じゃあ行くかと。
今まで海外で生活する人、留学する人というのは特別な人が出来ることであると思ってました。
バリバリのビジネスマン。頭がよくて海外の大学で勉強、研究なんかをする人。スポーツ、音楽や芸術面で特殊能力の持ってる人。
超超お金持ちの人。英語がペラッペラの人。国際結婚をした人。等々。
なので、自分みたいなんでもチケット代なんかの最低限のお金があれば1年とか住めちゃうのね!というわけで
それからは理由とか滞在の目的とか今後の人生設計とか特になんも考えずにオーストラリアに行くことを決めました。
オーストラリアにした理由はどうせ外国語おぼえるなら英語にしたいしカナダとか寒いの嫌だからっていう平凡な理由です。
会社に仕事辞めると言ってから辞めるのに1年掛りましたが、仕事の合間に英語の勉強をしながら準備を進めていき晴れてオーストラリアに出発。
■シェアハウス
田村さん宅へは自力で行きました。送迎無しだと一泊無料サービスでしたので
(注:自力オプションですが常にではないです、条件が重なった時のみ。で、「迎」は自力だけどシェア先への「送」はやるよん)。
シドニーに降り立った時の心境なんかは特に覚えていません。
空港からタウンホールへ行く間のサーキュラーキーから見える景色が奇麗だったのと、駅のホームとかで人が並んでてタンクトップの人もいれば長袖身につけている人もおるので、外は暑いのか寒いのかがわからん。ってことを覚えています。
シェア移動時
シェアハウスはカンタベリーでブラジル人、ポルトガル人の人ら計8人とラウンドに行くまでの4カ月間住みました。
ここに決めたのはオーナーの女性が下手な英語の電話でも丁寧に住所、道順を教えてくれたのと、見学の際にちょうど2,3人が料理しててその雰囲気が良かったから決めました。
普段聞こえてくる会話はポルトガル語になるのですがブラジル料理を分けてもらったり、学生の子とはゲームや日本のマンガアニメを語ったり。
学校に行ってると英語が喋れず落ち込むことが多かったのですが、シェアメイトの中の2人のブラジル人の英語力は中学1年生の1学期位のレベルだったので、俺なんて結構ましな方だな、、と勝手に考えるようになりました。そして当たり前の事ですが英語しゃべれない人って日本人以外にもいるんだなと。
それまでは日本人以外の外人は英語しゃべれると勝手に思ってました。シドニー住んでる外人でもしゃべれない人いるんだ!って知ってうれしくなりました。
シェア探しは楽しく出来ましたが。とにかく足が疲れました。
英語で電話は不思議とそんなにビビらず出来ました。もちろん会話はめちゃくちゃでしたけど。
一日のシェア探しを終えると足を引きずって歩いていました。これから来る人は英語もですが体力もつけときましょう。
シェア探し中に地図を広げてると必ず誰かが大丈夫かと寄ってきます。道端でもバスの中でも。そんなんがとっても楽しかったです。
オーストラリア、シドニーに来た理由なんて適当でしたが、このシェア探しのたった1週間で「あ、ここ正解。来てよかった」と心底感じました。
■学校
学校はSCEで4カ月。入学テストの結果インターでしたが、初日から毎日授業中青ざめていたら先生がプレインターに下げる事を提案してくれたので一週間でプレに落っこちる事にしました。。
結局その後一度もインターに復帰することが出来ませんでした。しかも毎月のテストの総合点は下がる一方で卒業直前は半分の50点位で、先生にも怒られました。
もちろんこれは勉強しなかったからです。最後の方は授業もさぼったりしてました。
いくらオーストラリアにいても勉強しなけりゃ上達はしません。っていう当たり前の話でした。
ただ、学校生活はとても楽しかったです。クラスメイト達とビーチでBBQ、パブでお酒。
毎週誰かが去って行くけど新しい子が入ってきて。日本では何年もおんなじ仕事、人間関係だったので自分にとってはこれだけでも新鮮で刺激的でした。
エクスチェンジしたり外国の友達と放課後飲みにいったりしてましたが、基本的には日本人とつるんで日本語を喋っていました。
newtownにある本屋さん。2階に行くと雑誌ばかり置いてあって買わなくても座って読めるため時間つぶしとか休憩に使ってました。
でも、帰国前に行ってみたら潰れていたのか閉まっていました。
学校以外ではキャムシーのジャパレスで働いていました。厨房は韓国人のおばちゃん達で多かったのですが、おばちゃんはどこいってもおばちゃんで良かったです。
シドニーでの生活を心配してくれたり、まかない多めに作ってくれたり。仕事はきつくて何度も辞めようかと思いました。
でもこのおばちゃん達やホールのタイ人、ベトナム人達の女の子達から笑顔で「ガンバッテ」とか言われると頑張れるみたいで結局ラウンド行くまで働きました。
たとえジャパレスでも日本じゃなくオーストラリアで英語もよう喋れないのに働いているの自分が不思議でおもしろかったです。
■ラウンド
カナナラ
学校を卒業して1週間くらいぼーっとしてから西オーストラリアのカナナラへ飛行機で行きました。
場所はどこでもよかったのです。ロンリープラネットを買ってカナナラが最後のページに紹介されている町だったので。そんな理由で決めました。
4月でシドニーは寒くなってましたし、出来るだけシドニーから離れたいと思っていたので西の一番北に位置するこの町でちょうど良かったです。
飛行場についたら他の乗客たちは直ぐに空港を出てしまい残ってるのは数人の職員と自分だけな状況になりました。
シドニーのような都会とは違って空港の周りになーんもなく無風であたりは無音。
景色も当初日本を離れる前に想像していたオーストラリアに近いものになり、わくわくとぞわぞわっと恐れもありましたが改めてオーストラリア来たなーと感じ、わくわく。
とりあえず宿に泊まらなきゃと思い移動をすることに。
町の中心地の行き方も知らなかったのでとりあえずロンリープラネットに載ってるバッパーに電話して迎えに来てもらいました。
ものすっごい小さな事ですが、英語なんて無縁の生活を送っていた自分なのでこういった事を英語で話してきちんと伝わり、空港まで本当に迎えが来たってことがオーストラリア既に四カ月でも感動で仕方がなかったです。
バッパーに着いてからは直ぐにセカンドの為にファームジョブ欲しかったので泊まっていた外人達に仕事情報を探る。
そしたらカナナラは割とファームで有名らしくバッパー連中もほとんど仕事の為に滞在している人たちでした。
この感じだと直ぐに仕事みつかるラッキーと思いました。が、なかなか仕事は見つかりませんでした。毎日ファームに電話掛けたり、早朝の送迎車のドライバーに頼んだりしましたが見つからない。
そしてさっそくお金がゼロになりました。
一日イベントの皿洗いとかして少しお金を稼いだりしましたが、友達にお金を借りました。
こんなことになる前にさっさと見切りをつけ別の場所に移動することも出来たのですが、住んでたバッパーの日本人連中、ヨーロピアン連中との生活が居心地良かったのと、なによりラウンドの一番最初の町でなにも出来ず去るのがその時は嫌だったので、なんとかカナナラで仕事をゲットしたく離れませんでした。
この時のカナナラは仕事を求めて沢山のヨーロピアン、日本人が大挙してました。みんな友人のコネでなんとか仕事を得ようとしたり、コールズの前に立って段ボールに「Give me a job!!」書いたり。
バッパーの仲間連中は友達というか戦友でした。金はなく大変でしたがこの頃が一番楽しかったなとも思います。
で、自分はなかなか仕事が見つけれず、さすがにもう駄目だと思い、お金を借りたままですが気分変えようとパースに行くことにしました。
ですが運がいいのか悪いのか、町のチケットセンターでパース行きのチケットを買い、バッパーでだらだらしてたら同じバッパーから数人が働いているファームで働ける事になりました。
チケットの払い戻しはできませんでしたがようやくファームで働けることになりました。
カナナラとブルームの途中だったかブルームとコーラルベイの途中。
念願のファームで働けお金も溜まってきたのですが、同じ生活に飽きてきて出ること決意。セカンドの日数まであと5日でしたがさっさとカナナラを出たかったです。
あ、カナナラはファーム仕事関係なくいいところですよ。
今でも一番好きな町と言ってもいい。ですが、久々に海見たいと思ったのでブルームに行くことにしました。
カナナラ〜ブルームあたりをキンベリー地区と言いますがこのあたりの山々とか、なーんもない大地とかの景色最高ですよ。車とかバイクとか自転車で旅行するなら是非。
バイク、自転車でそれぞれオーストラリアを一周している人に出会いましたがKununurra〜Halls Creekが一番良かったって二人とも言っていましたし。
ブルーム〜パース周辺
ブルームのビーチ。
ブルームでは久々仕事を離れて海を眺めていたり、気の合う日本人と出会ったりでいい気分転換になりました。
その後の目的は特に無かったのでパースに行くまでにコーラルベイやモンキーミアとかに立ち寄ってひたすらインド洋の優雅さに感動していたと思います。
パースに到着後はブルーム以降に出会った日本人とかと再会して毎日毎晩飲んで遊んでいました。
でもお金がなくなってきたので仕事探し。
セカンド日数も欲しかったのでパース近郊の町でファーム見つければと思い、カナナラで出会った人にドニーブルック良いよと教えてもらったのでとりあえずドニーブルックへ。
ですが毎日天気も悪く、寒いしで仕事も無くて楽しくなく落ち込んでいました。
バッパーの人らはとてもいい人達でしたが、2日で離れることを決意。
次はマンジマップに行ってみる。
自分が泊まったバッパーは携帯電波もほとんどなく、コールスなんかがある町まで行くにも車が必要な場所でしたが、バッパーのヨーロピアンや台湾人がとてもいい人たちばかりでしたし、バッパーの庭もとんでもなく広くてとても居心地のいい場所でした。
仕事もほとんどなく暇でしたが、仕事がないもん同士でだらだら話してたり卓球なんかやって一日過ごしていました。
3か月近くぐらいいましたが、家賃も3週間滞納したりしてたので1000ドル程しか貯金出来ませんでした。
年明けまでいようかと思っていましたが12月の半ばにオーナーに「クリスマスパーティ参加するか?」と聞かれたのでなんとなくNOと答えたのでクリスマス直前にパースに戻る。
パースに戻ってきて一泊してからバスチケット売り場へ行きました。一月中旬にシドニーで友達と会う約束をしていたので、シドニーへ帰るまでの約一カ月どっかで過ごし、軽くバイトでも出来ればと思っていました。
行く場所は決めていなかったので売り場で並んでいるときに前のおばさんと会話してアルバニーがいい街だよと教えてくれたのでアルバニーへ。
アルバニー行きのバスの中ではアメリカ人の女の子と隣同士になり楽しく会話もしてアルバニーに期待を膨らましていましたが、泊まったバッパーの居心地が悪かったので一泊程してそのままアルバニーを離れまたパースへ戻りました。
お金も少なくなってきたのでパース戻ってからは仕事探し。
たまたまガムツリーでワルポールの宿でクリーナを募集していたので応募して仕事を得る。
働いていた宿泊施設は若者のバックパッカーがあまり泊まるような所ではなく35歳以上の夫婦や家族がホリデーでワルポールに来て泊まりにくる。という感じだったので老人の方やちっちゃい子供たちがきゃっきや走り回っていたので、いつも泊まってるバッパーとはまた雰囲気が違って面白かったです。
仕事は午前中に終わるので、ぼけーっとしていると、お昼から宿泊されてる人が一緒に車で海に連れてってくれたりしました。
家族で休暇を満喫中になのにわざわざ自分を誘ってくれて、しかもそのような事が別の家族でも滞在中に何度かありました。やっぱオーストラリアいいなーと。
シドニー〜メルボルン
約一カ月お世話になった後は友達と会う約束のためシドニーへ。
2日滞在した後は全豪テニスを見たかったのでメルボルンへ。
テニスを見た後は残金500ドル位だったと思うので、テニス以外全くメルボルンを満喫せぬままマッフラという町へファーム探し。
だがマッフラでは今は仕事はないよと言われたので一泊してメルボルンへ戻る。
そのあとはムルプナとかメリガムとか適当に周ってファーム探しをしていました。
仕事をしても歩合でどんなに頑張っても時給10とかにしかならなかったのですぐに見つけたファームでも辞めていました。
2週間くらい何度も何度もメルボルンからどこか近郊のファームありそうな場所へ移動していた為、バスの運転手に顔を覚えてもらえました。
まだ仕事さがしていると言うとタダで乗せてくれたりしたのでメルボルン周辺を行き来するバス(VLinerだったかな?)には助かりました。
宿代浮かす為にマクドナルドで深夜座ってたら店員さんがコーヒーとハンバーガーをタダでくれたのでメルボルン周辺の町は嫌いじゃないです。
QLD
しょうもない条件の仕事しか見つからなかったので一気にブリスベン飛んでみることにしました。ファームがあるってことをどこかで聞いたので、すぐにサンシャインコーストへ行き仕事状況を聞く。
でも直ぐにはないと言われたので今度はスタンソープへ行ってみる。
スタンソープへは事前にワーキングホステルに電話し仕事があるとの事だったので信じて行くことにしました。
事前の問い合わせのとおり仕事は次の日から始めることが出来ました。
ここスタンソープでは結局お金を溜める為3か月ほど暮らしていました。
ちなみにスタンソープでのバッパーも先のマンジマップと同じで携帯電波が弱く、町までも車が必要な環境でしたが、バッパー連中は最高でした。
こういった環境だとバッパー内でスマホをいじったりパソコンとずっと睨めっこ状態がなくなって必然とお喋りするしかすることがないので、みんな仲良くなり非常に楽しかった思い出があります。
ちなみにシティジョブでなくファーム探しなのはファーム仕事がいいから。
朝5時6時から仕事してお昼2時3時に帰ってきてシャワー浴びてさっぱりしてから太陽の下、芝生の上でごろごろしながらビールを飲むのがこの頃は何よりも楽しかったから。
スタンソープのファーム生活の後はゴールドコーストに行って一週間ほど体を休めていました。
その後はケアンズを目指し、途中の適当な町で降りつつケアンズ到着。
ケアンズ自体は特に印象ありませんが、横断歩道を歩いていたらマンジマップで一緒に過ごしていた台湾人とフランス人に偶然再会したので一緒に飲んだりして過ごしいました。
ラウンドではファームばっかりしていたのでシティジョブもしてみようと思い立って仕事を探そうと決意。
でもケアンズでは住む気になれなかったのでダーウィンに行ってみました。
ダーウィン→アデレード
ダーウィン近くのリッチフィールド。NTとWAの半分より上のオーストラリアの自然を見てしまうと東海岸なんて行く価値なんてないと思われる。(言いすぎですね。)
ダーウィンではスタンソープで出会った日本人と三日ほど一緒に観光してその後レジュメ配りを実施。
夜に働くのは嫌だったのでレストラン系は省きホテル中心に配ってみるも、まったくヒットせず1週間くらいで断念し、アデレードへ飛行機で行ってみる。
アデレードはカフェも多く、メルボルンやパースなんかと比べるとかなりこじんまりしていますが市街地は四方を公園で囲まれててのどかでとても気持ちのよい所でした。
セントラルマーケットでは野菜等の食材が非常に安く買えて長期で住むのにもお勧めです。
ですが、ここでもレジュメ配ってもまったく反応ありませんでした。
お金も底をつきそうになってきたので、ワインで有名なバロッサバレーに行ってファーム探すことにしました。
ですが、現地に着いてからバッパーまでの道のりでここに滞在する気がなくなり一泊してからまたアデレードに戻りました。
出て行った理由は何となくです。町の雰囲気とかがなにか違って。。。ここじゃないなと。
結局アデレードに戻ってからは特に仕事探しもせず1週間くらいぼーっとしてました。
ガムツリー見ていたらレンマークでオレンジのピッキング募集があったので直ぐにコンタクトをとりレンマークへ。
紹介してくれたコントラクターはインド人でした。
住む場所はバッパーではなく彼の家出した。
彼の両親、奥さん子供、兄弟+友達とそこそこ大家族。自分は週50ドルで庭にある物置部屋みたいな所で寝泊まりしました。
冷蔵庫とガスを取り付けてもらい汚いですが安いしそこそこ快適でした。
たまに名前は忘れましたがインド料理を分けてもらったりで少しだけホームステイしているような感じを味わえました。
一カ月ほど働き生活に余裕が出来たので再度職探しの為にアデレードへ戻る事にしました。
ですが今回も仕事にありつけなかったし、この時期南は寒かったので飛行機なんかの移動費があるうちにと思いブリスベンへ。
QLD
ブリスベン到着後早速ホテル中心にレジュメ配り。3日間配って今度はバイロンベイ。
オーストラリアで出会う人ほとんどの人が良かった所と教えてくれたバイロンベイ。
なにか仕事を得る為、それからダーウィンから続く仕事探しに疲弊していたのでリフレッシュを兼ねて2日ほど滞在。
結局仕事にはありつけなかったので今度はゴールドコーストへ。
ゴールドコースト、サーファーズパラダイスにはたくさんのホテルが乱立しているのでレジュメを配りまくる。
ゴールドコーストではレストラン等にも配るけどここでもダメ。
次はヌーサに行ってみる。
ヌーサには夕方ついたので翌日観光を兼ねてレジュメ配りをすることにしていましたが、次の日の朝8時か9時頃、朝食を食べていたらゴールドコーストのホテルから電話があり今日の午前中に面接に来れないかと。
どう考えてもその日の午前中は無理だと思ったので翌日に変更してもらい、その日はヌーサを観光し夕方か次の日の早朝にバスでゴールドコーストへ行けばいいと考えました。
ですが、ネットでバスの時刻表を見るとこれから10分後にヌーサを出るバスに乗車しないと明日の面接時間に間に合わないことがわかりあわててチェックアウト準備。
カバンにものを詰め込みながら電話でバスの申し込み。それからバッパーからバス停までの距離を考えたら遅刻する可能性大だったので、10分くらい待ってくれないかと相談。
で、なんとかバスも自分を待っててくれてなんとか乗り込みゴールドコーストへ戻る。
翌日無事にホテルの面接。面接と言うよりは何曜日に働ける?とかの確認。直ぐに仕事を開始することになりました。仕事内容は清掃業務でした。
仕事時間は4時間くらいと短かったのでお昼の2時くらいにシェアハウスに帰ってきてからが暇。
なのでガムツリーで弾いた事ないけどアコースティックギターを購入して毎日海の見えるベランダでギター練習してビール飲んでまったりするという生活を3カ月。
...で、オーストラリアのワーホリ生活終了です。
おわりに
この2年を振り返って思いつくことは「来てよかった」の一言です。
自然の景色はすごいし、スーパーの内部をうろうろするだけでも毎日が楽しかった。
外人日本人関係なくつるんでお酒飲んでビリヤードするのが楽しかった。
自分自身の何かが変わった事も多分ないと思います。
100ドル切ってもへっちゃらという先輩方が沢山いますが、自分は1000切ったら生きた心地しません。卑屈にもなるし。
行った先々でつるんで楽しいのは外人より日本人ですし。
でも気付いた。というか思い出したのは、旨いもんを天気のいい日に外で気の合う人らと一緒にたべれたらそれだけで幸せだな。というちょっとした事です。
おわり
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