第一部:語学学校編
自己紹介
はじめまして。内田康弘ことヒロと言います。
僕がシドニーへ降り立ったのは2014年の1月、それから1年ワーキングホリデーでオーストラリアに滞在しました。
僕は、どちらかといえばあまり社交的ではないタイプで、さらに渡航前にはうつ病や人間不信を患っていて、それが日本にいた時、さらにシドニー来てから大きな問題となり、いろいろ苦労しました。
僕自身、体験談を書くのはためらっていたのですが、自身の経験は日本で同じように悩んでいる人の助けになるのではないかと田村さんからの助言をもらい、僕も誰かの役に立てればと思い、この体験談を書くことにしました。
渡航前
オーストラリア渡航までは、大学を卒業後、地元の郵便局で契約社員として3年働いていました。
郵便局と聞くと、待遇が良い、配達が楽というイメージを沸く人がいますが、確かに週休2日で有給もとれ、残業も少ないのですが、重要書類やかなりの大金を持たされることがあったため、社員にかかるストレスは相当なものがありました。加えて上司からの陰湿な嫌がらせや人間関係の疲れもあって、渡航前にはうつ病を発症し、一年間休職せざるを得ない状況にまで追い込まれました。
渡航へのきっかけ
海外へ行くことは、大学生の頃から考えていました。
その頃から日本の生きづらさ、閉塞感、ストレスフルな社会、先の見えない将来に漠然とした不安を抱えており、日本社会で生活していくことに絶望していました。また、就職活動もろくにしませんでした。
海外へのきっかけは、とある海外在住の方のサイト、日本を出て海外で生活して行こう、その方が道が開けるという趣旨の書かれたサイトを見たのがきっかけでした。
Aplacを見つけるまで
そのサイトを見てから、海外在住者の方のサイトなどをサーフィンし、海外就職や英語学校、永住権の情報などを調べるようになり、いろいろな情報を調べていくにつれて、さらに海外渡航への希望が膨らみました。
留学エージェントのサイトも閲覧し、エージェント経由で海外へ行くことも考えましたが、あまりの料金の高さに驚愕しました。また、個人の方が運営するサイトにおいては閲覧する情報がややネガティブな情報(「行っても欧米人相手にバカにされるだけ」「英語ができないと何もできないから行っても無駄」など)に偏っていたことから、もっと違った角度で書かれているサイトはないかと調べていたら、田村さんのAplacにたどり着きました。
正直、当時はAplacの趣旨というもの(ワーホリは修行のためにするものということ)は理解できませんでしたが、ほかのサイトとは明らかに違った視点で書かれている内容や、1ページに書かれている内容のボリュームの多さ、また、一括パックの内容のユニークさに惹かれて、Aplacに申し込みました。
渡航を決めたのは大学卒業時(2010年ごろ)で、郵便局で働いていたのは、渡航のための資金を貯金するためでもありました。4年後の2014年にオーストラリアに渡航しますが、その4年間、上のようなこともあって、日本を出たいという気持ちは、さらに大きくなっていきました。
シドニーへ
僕は、関空経由でシドニーへ行きました。シドニーへ降りたのは1月20日。
この日は忘れもしません。
渡航前までは、全く未知の経験で不安が消えませんでしたが、シドニー空港に降り立ち、田村さんと会って数日過ごしているうちにその不安は消えました。
着いた翌日 まだ緊張しています
田村さんは、僕のイメージしていた感じとは違っていましたが
知識の豊富さや、それまで考えもしなかったような発想の考察やユーモアセンスなどに圧倒されました。
自分自身の視野の狭さというか、僕もまだまだだなと、考えさせられました。
田村さんには、はじめの1週間、特に、はじめの半年間は、いろいろとお世話になりましたし、ご迷惑をかけることもありました。
時には、強く指摘されることもありましたが、おかげで自身の難点を理解し、直すことができたので、とても感謝しております。
シェアハウス探し
語学学校はSCEに決め、シティからレインコーブまでのバスも無事にこなして、3日目からシェア探しが始まりました。
僕は、日本にいた時からある程度を英語を勉強していて、ある程度決まったフレーズであれば喋れましたが、それ以外の応用ができなったので、うまく会話ができずシェア探しは難航しました。
誰もが経験するであろう英語での電話で僕も、はじめのうちはものすごい苦労をしました。
電話はするんですが、何を言ってるのかわからない。
聞き取れないことでテンパってしまって、何を言っていいのかわからない。
でも何かしゃべれないといけないから、必死にしゃべろうとするんだけど、かえってパニックになってしまい、英語はおろか、なんか意味不明な言葉をしゃべっているような感じになってしまって、電話しているときは滅茶苦茶でした。いわゆるパニック障害のような感じですね。
そのあまりのひどさに、相手側から「Are you Ok?」といわれる始末で、電話を切られてテキストで住所と時間を送られることもありました。でも、中には車で直接迎えに来てくれたり、いい人もいました。
その経験を通じて、日本との違い、人の良さというのを初めて経験しましたが、しばらく、英語で電話することに対して億劫になってました。
結局シェアハウスは、Croydonの週110ドルのタイ人のシェアハウスに決めました。
シェアハウス
Croydonのシェアハウスは、タイ人女性3人とのシェアでした。
この家は、傍から見るとハーレムシェアでした。女3人に男1人ですからね。
しかも、彼女達は、風呂上りにバスタオル1枚で僕の前を歩いていたりして、結構大胆でした。人に話すと羨ましがられるシェアでしたが、この頃は慣れない海外生活と、英語の苦労さから、それどころではありませんでした。
本当に、なんていうか1日の生活でいっぱいっぱいという感じでしたね。
彼女らとはあまり会話はありませんでした。
僕が英語ができなかったという部分もありましたけど、後からいわれたのですが、シェアメイト同士、あまりコミュニケーションはとりたくない、お互い静かに暮らしたいという人たちでした。
3か月たって、ハウスメイトの2人がもう1人のメイトと喧嘩して出ていって、それからは、僕とタイ人女性1人という形になりましたが、彼女自身、普段家にいないため、シェアハウスは、ほとんど、1人暮らしのような感じでした。
それははじめのうちは、快適でしたけど、3か月ぐらいたって(語学学校が楽しくなりだしてから)、なんとなく、寂しい気分になることが多くなり、だれか話せる人がいたらいいなあと思うようになりました。
残ったハウスメイトのタイ人女性 リンは、あまり会話がなかったですけど、いろいろ気にかけてくれる人で、悪い人ではありませんでした。
また、僕が英語ができないことを知ってか、同じことを何度も言い直してくれたり、時にはタブレットで、互いに文章を打ち合って、会話することもありました。個人的には「英語で互いに聞き間違いがあったり、聞き取りができない時の対処方法」として、参考になりました。
しかし、彼女はものすごい神経質な人でした。プロのクリーナー顔負けなほどきれい好きな人で、ささいな汚れでも事細かに指摘してきて、そのあまりのナイーブさに参りました。
結局、この家にはパラマッタに移るまでのほぼ6か月滞在しました。
語学学校
語学学校は、BroadwayのSCEに決めました。
語学学校はPre-intermediateからのスタートで、はじめの1週間は昼の学校に通っていましたが、日本人ばかりのクラスでうまくなじめず夜のクラス、イブニングクラスに変更しました。
夜のクラスに変えてはみたものの、正直、はじめの2か月は大変でした。
日本人であれば、ほとんどの人が経験すると思いますが、クラスでは、先生の言っていることがわからない。クラスメイトの言っていることがわからない。
何をしていいかわからない。
さらに、テンパって正常な判断ができなくなるということが多く
英語を学ぶというより自分の恥をさらけ出すような感じで毎日苦痛でした。そういう感じだからクラスメイトもあまり話しかけてこないしで、精神的にもきつかったです。
また、この頃、2週間だけジャパレスで働きましたが、そこでもうまくいかず、すぐやめてしまいました。また、1週間、パブのクリーナーの仕事もやりましたがうまくいかずクビになりました。
それでも、このころは郵便局で貯金したお金があり、金銭的にはまだ余裕がありました。また、実は副業としてネット収入をある程度得ており、それも多少ですが、生活費の足しになりました。
今考えると、この時期がワーホリ時代で一番きつかったですし、唯一日本に帰りたいと思ったのもこの時期です。
Santyとの出会い
この状況が一転したのが、スペイン人のSantyとの出会いでした。
当時の僕は、クラスでもあまりしゃべらず、借りた猫のような感じでしたが
彼が来てから、彼と同じ席で勉強することが多くなり、彼と会話する機会が多くなりました。
彼は、イギリスに3年ほど、サンフランシスコにも数年住んだことがあり海外経験豊富な方で、とても器の広い人でした。
そもそも、クラスで1人浮いているような感じの僕に毎日話しかけてきてくれたし、いろいろ相談に乗ってくれたり、1週に1回、バーに飲みにも誘ってくれました。
そうやって彼と会話しているうちに、少しずつですが精神的にも落ち着いてきて、また、ほかの人ともうまく話ができるようになりました。
同時に、クラスのレベルもInter mediateになり、相手の言っていることが理解でき始めてきたのもこの時期で、少しずつ語学学校が楽しくなりだしてきました。
イブニングクラス
イブニングクラスというのは、夜の4時30分ごろから、9時ごろまでのクラスで、主に昼働いている人のための学校でもあります。昼とは違ってアジア人の比率は少なく、ユーロピアン系の割合が圧倒的に多いです。
日本人は僕のいた時期は多かったですけど、普通はほとんどいません。
唯一の例外としては、アジア系でも、ベトナム人の比率は多かったと思います。
またビザ取り学校的な側面も多く、英語はできるけど、ビザが取れないから学生ビザを取るために学校に来るという人も多くいます。Santyも、そのタイプで、主たる目的は、シドニーで学費をためて、大学へ行くことだそうです。
もっとも、英語圏に数年住んでいるにもかかわらず、僕と同じクラス(Inter mediate)になったのは、ええ?という気もするのですが、彼は、英語は話せますが、文法はものすごい苦手で、文法の授業ではかなり苦労していました。
昼クラスの追加
Santyと仲良くなり、語学学校で楽しくなりだしてきた頃、仕事はしておらず、夜の学校に通うだけという感じだったので、仕事をするまでは、昼の時間帯にも通うことにしました。
僕は、昼の午後から英語学校に来て、夜のイブニングクラスを受講するという、かなりイレギュラーなカキュラムでしたが、学校側はその点は、難なく受け入れてくれました。
昼のクラスは、進学準備コースというクラスで勉強しました。このクラスはPre Interからはじめられるクラスで、かつほかのクラスに比べてレベルが高かったので、このクラスを選びました
クラスには日本人は僕を含めると2人だけ。しかしイブニングクラスと違って、アジア系が多数を占めるクラスで、またPre inter用とはいえ、進学する人のための本格的な内容だったので勉強は大変でした。
しかし、イブニングである程度揉まれてきたこともあってか、比較的すんなり馴染むことができました。
このころには、初期のようなうまく会話ができない、パニックになるようなことは少なくなり、クラスメイトとも話ができるようになりました。
このクラスでは、韓国人のパーク(English name)と同じ机で勉強していたこともあって仲良くなりました。
彼は、無類の女好き(特に日本人の女性)、俗にいう女ったらしような感じの人でしたけど、授業中にクラス中を笑わせたり、日本人女性がいいとか、中国人女性が悪いとか、日本語のBad words(Fack youみたいな)を教えてくれとか、そういったくだらない話をしたりしていて、一緒にいて楽しかったです。
彼は、常に何か面白いことを言うのですが、その内容は、時には下品で、くだらないネタもありましたけど、何より相手を楽しませようというエンターテイメント性にあふれていて、ある面とても勉強になりました。
勉強になったというのは、自然と周りも近寄ってくるし、友達もできやすいこと、
あと、英語でどう面白いことを言うのか?とかです。
そうやって面白ければ、会話も弾むし、さらに自分も楽しいし、それで相乗効果で英語で話す時間も増え英語もできるようになるという。
僕は英語でとにかく話すことだけを焦点を当てていましたが、彼と会ってからは、ただ話すだけでなく、英語で面白いことを言うようという点にも焦点を当てて話しました。
その効果もあってか、後半は友達もたくさんでき、クラスも楽しくなりだしてきて、語学学校が楽しいと思うようになりました。
夜のクラスでは、誰かの誕生日が重なると、授業の間に誕生日会のようなものやるのですが、
ちょうど僕の誕生日がきたので、イブニングのクラス全員が僕の誕生日を祝ってくれました。
サプライズパーティで、クラスメイト全員の寄せ書き書いてくれて嬉しかったですね。
イブニングクラスのメインティーチャーはJamieでしたが、彼はいい意味でも悪い意味でも個性的な先生でした。
Jamie先生と
悪い意味では、授業は基本的にグラマーしか教えず、また授業を中断して自分の過去の彼女について自慢げに話したり、また、本来ならやってはいけないSwearingの授業をしたり生徒にはあまり評判がよくなかったみたいです。
いい意味では、面白い教師というか、クラスを楽しませようといったエンターテイメント性ある人で、彼の授業は面白かったです。
この先生、意地悪な部分があって、ほかの生徒と話すときはゆっくりした英語で話すのに、僕と話すときだけ、ニュージー訛りの早い英語で話すんですよね。聞き取れないのですが、僕はこのころ、どうしてよいかわからずSorryと聞き返すこともなく、何も言うこともなく、ただ、相手を見てるだけという変な時間がありました。
こ れ以降は、語学学校ではタイ人の女の子とツアー旅行に行ったり、クラスメイトとパブに行ったり、外に出る機会も多くなりました。
Santy以外にも、チリ人の女性Johannaと仲良くなりましたし、シェアハウスでは、引っ越し直前に入ってきたPongというタイ人の男性とも仲良くなりました。
彼は、僕と同じで語学学校に通っていて、以外にも話があったので2日に1回くらいは、夜、お酒やタイ料理をごちそうになり、互いのことについて、話したりしました。
語学学校での心境の変化
自身の出来事を淡々と描いているだけでしたが、ついてから語学学校を卒業するまでの自身の心境の変化は、かなりあったと思います。
前述したように、僕は日本にいたころ、うつ病を患っていました。
そのためどちらかというと、ネガティブ思考でかつ、あまり他人と接したくないという心境がありました。
シェアハウスのときも、個室でプライベートが確保できればよい。
学校でもなんとなく、淡々とこなして英語が伸びればよい。
仕事もとにかく適当な仕事でお金は稼げればよい。
そんな風に思っていて、友達を作るとか、よい経験をするとか、そういったことはあまり考えていませんでした。
それが、Santyと出会い、いろいろな人と話していくにつれて
少しずつ考え方がポジティブになり、もっといろいろな人と交流したいと思うようになりました。
前述したように、シェアハウスでも後半期は1人でいることが退屈になり、ほかの家に移ろうかとも考えましたし
仕事やボランティアについても、何かアクティブにやってみたいという気分が少しですが、わいてきました。
英語
英語も少しずつですが、伸びてきたという実感はありました。語学学校の中だけですが、相手の言うことが少しずつ理解できるようになり、自分の言いたいことも少しずつ言えるようになりました。
英語能力向上は、英語の勉強による効果もあると思いますが、同時に外国人とのコミュニケーションに慣れてきた、また上述した心境の変化による効果も大きいと思います。慣れてきて、リラックスしてきて喋れるようになったという感じです。
また、昼のクラスを追加してから、英語が急速に伸びたという実感がありました。難しいクラスだったので、大変でしたけど、学習時間を増やしたこと、難しいクラスで四苦八苦して勉強したのが、功をなしたのだと思います。
ここで、思ったのですが、英語は、やはりたくさん勉強すること、また、少し頭を使う勉強をした方が、伸び率は高くなるということを実感しました。
以上が、僕の語学学校時代の体験談です。
第二部 Parramatta Job〜実社会体験編
学校卒業
学校を卒業した後のことは、あまり考えていませんでした。
なんとなく「シドニーでローカルの仕事につけたらいいなあ」という思いはありましたけど、かなり曖昧な感じでした。
というより、語学学校時代の楽しい経験が引きずって、学校をやめたくないという気持ちが先行していて、先のことを考えるのを避けていました。
あれだけ楽しく充実した語学学校時代でしたけど、そのころは、ただ楽しければよいという考えが先行していて、自分の問題点について、深く考えることはありませんでした。
結果的に卒業してから、そのツケがきて、自分自身のことについて、いろいろ悩む日が続きました。
まず、日本の価値観を引きづっていた部分があり、卒業してしばらく無職の日が続きましたが、学校も行っていない、仕事をしていないという状況、いわゆる無職の状況がものすごく自分にプレッシャーでした。別に悩むことでもないし、むしろ積極的に職探しをすれば良いことだけなのですが、まだまだこの頃は、未熟でした。
日本にいた時は、なんとなくですが、自分のやりたいことよりも、周りの目を気にして、みんながやってることをやろうしていることが多かったです。
自分に自信がなく、自分自身を嫌っていた部分があり、なんとなく他人に合わせていれば、自分はよくなれるという変な価値観がありましたし、自我というもの
がありませんでした。
日本では周りに合わせていれば、それでうまくいきますけど、オーストラリアでは、そんな常識は通用せず、周りの目、他人のやろうとしていることを探っても、
みんなやっていることが暴力的に違うから、合わせようがないです。
だから、その問題が、ここにきて自分の前に立ちはだかりました。
「自分は何をすればよいのか?何をすれば、正しいか?とか、みんなは何をやってるのか?」とか、そんなことばかり考えていました。
また、自分の自信のなさから、何をするにも臆病でした。
ラウンドに行こうとバッグを買ったりしましたけど、いざ行こうと決めて不安になったり、レジュメを配ったり求人に応募したりしても何となくしっくりいかず、仕事が決まっても、英語ができないからうまくできるか心配とか、レジュメ配りで英語が通じなかったらどうしようとか、ならもう日本に帰ったほうがいいんじゃないか?そんなことばかり考えていました。
うつ病、人間不信の後遺症
その不安の根底にあるのは、僕自身の性格もさることながら、日本にいた時のうつ病がまだ尾を引きづっていたということでした。うつ病になった時、自身の精神はボロボロで、すべての発想がネガティブで、極度に失敗を恐れ、自信を無くし、他人との交流を拒み、何もしたくない、自分のやりたいことが見つからない、他人と会話すらしたくない、自殺願望すらあるような感じでした。
1年の求職で多少は回復し、語学学校時代の経験で少しはよくなったものの本質的な部分は何もよくなっておらず、語学学校時代から何をするにも、まだまだ自分の頭の中に、それが残っていました。
そして、それが何をするにも障害になり、積極的に行動ができませんでした。
もちろん、まだまだ海外生活が不慣れ、英語が不慣れという面もありますけど、それらより、自分の内面の部分の問題のほうが大きかったです。
僕自身、海外でちゃんとやっていきたいという思いが強かったので、このままでは、いけないと思い、この時から初めて自分自身の内面の問題に向き合い、この問題について徹底的に向かうことに決めました。
パラマッタでの仕事のオファー
そんな中、以前から仕事のことで連絡を取っていた韓国人から仕事のオファーがありました。彼の名前はトーマス(English name)、日本語が話せる人で日本にも在住経験のある人です。
彼とは、語学学校時代にパートタイムの仕事に応募したものの、夜帰るのが遅くなるから無理という理由で断られ、その後「ほかに何かあれば仕事を上げるよ」ということで、連絡を取り合っていました。
仕事の内容は、クリーナーでフルタイム、朝6:30から14:30、月~金の週5日。とりあえず、何でもいいから仕事に就きたかったので、この仕事を引き受けることにしました。
また、同時に、Croydonのシェアハウスは、2週間後に取り壊されるということから、出ていきました。
僕のワーホリは、前半の語学学校時代、そしてこれから語るパラマッタ時代の2つに分けられます。最終的に、僕はラウンドにはいかずシドニー在住組になりましたので、ここからは、僕のパラマッタで生活していた時の体験談になります。
オフィスクリーナーの仕事
学校を卒業し、ビザの期限も残り6か月を控えた7月から、パラマッタにあるオフィスで、オフィスクリーナーとして仕事を始めました。
自給は13ドル、決して良い時給ではありませんでしたが、手取り額は13ドルで月に2000ドル程度の収入が得られ、貯金もできる額でしたので、金銭的には困りませんでした。この頃、郵便局でためた貯金は、当初180万だったのが、50万くらいまで減っていたので、貯金ができたのは、ありがたかったです。
仕事の内容は、朝に喫煙所、駐車場、ビル周辺の歩道のゴミ拾い、日中に3つのオフィスを回り、ごみを回収、キッチンやテーブルを掃除がメインでした。
労働時間は7時間30分でしたが、実際の実働は4時間弱、残りの時間がクリーナールームで待機し、何か突発的に頼まれたときに仕事をするというものでした。
もちろん、オフィス内に日本人は一人もおらず、すべて英語でこなさなくてはならない仕事で、はじめはかなり大変でした。
しかし、幸いにも以前勤めていた人が日本人で、トーマスさん(以後ボス)が日本語も喋れたことから、最低限のコミュニケーションには困りませんでした。
この仕事は、すべてを1人でこなさなくてはならないため、大変でした。
しかし、前任の日本人の方が、仕事の内容をとても丁寧に教えてくれたため、はじめは苦労しながらも、なんとか仕事をこなしていけるようになりました。
職場環境の良さ
この仕事はどちらかというと、裏方の仕事で、悪く言えば汚い底辺の仕事でもあります。
ネイティブの人たちも、この仕事は、重労働で、汚い仕事、やりたくないと言う人も少なくありません。なので、必然的に、クリーナーとオフィスの労働者と越えられない壁みたいなものを感じましたし、はじめのうちは変な劣等感みたいなものを感じました。
さらに、僕は英語が不十分でコミュニケーションが取れないこともあって、オフィス内でほかの人と顔を合わせるが嫌で、はじめのうちは精神的にもきつかったです。
しかし、職場の人たちは、そんな僕に対して、見下すとか差別するとか、そういった態度は一切なく、英語ができなくても、普通に挨拶してくれて、時には会話をしたり、おすそわけをもらったりすることもありました。もちろん、英語ができない日本人ということは理解していたんでしょうが、それによる差別みたいなものは全く感じませんでした。それどころか、仕事をちゃんとこなしていたことで、「毎日、オフィスをきれいにしてくれてありがとう。あなたの仕事はすばらしい」と言ってくれることもありました。
ここは、見知らぬ人でも気軽挨拶するし、エレベーターでちょっと小話をしたり、気軽にいろんな人と仲良くなれたり、ビルディング全体の雰囲気がとても良かったです。
ワーホリの後半は、ある意味この環境に救われたと思います。
前述したように、はじめのうちは英語ができないなどで、きつかったですけど、次第に、社内の人たちのやさしさに触れて、徐々に精神的にも楽になっていきましたし職場に行っていろいろな人たちと話をするのが楽しみになりました。
また、それまでわずらっていたうつ病、人間不信もこの会社で働き、人の優しさ、温かさに振れたことで、かなりよくなったと思います。
職場内では、何人か仲良くなった方もいて、時々会話をしたり、楽しい時間を過ごすことができました。
結局この職場には、ビザが切れるまでの6か月間働きました。
ローカル職場での仕事のやり取り
ローカルといっても、所詮は底辺の仕事、カジュアルジョブではありますが、いろいろ勉強になることがありました。
たとえば、ボスとの意思疎通に関して、ボスは日本語が話せますけど、彼はネイティブではありません。
この点理解しているようで、実は理解してなかったのですが、気付かないところで、僕の言ったことを誤解している可能性があるし、僕も彼の言うことを誤解している可能性があります。
それで、実際に誤解がありました。
ある日僕が掃除機を使おうとしたら、電源がつかずボスに電話したのですが、そしたら「ヒロが掃除機を壊したの?」と聞かれました。
僕は、「僕が壊したかもしれないし、壊してないかもしれない。でも電源をつけた時にすでに壊れていたからわからない。」といったころ、なぜか僕が壊したことにされてしまいました。
驚きましたけど、その理由は、彼が十分に聞き取れていなかった、もしくは日本語の意味、ニュアンスをよく理解していなかった可能性があるということです。
まあ、よく見ると僕の対応は、ちょっと曖昧な対応ですよね。
特に、文中の「かもしれないし、ないかもしれない」という部分は、ノンネイティブからすれば、何かよくわからない日本語になると思います。
これは、僕の話す英語、僕が聞き取る英語にも同じことがいえ、不十分な意思疎通のまま終えると、こういった誤解を与えるということを、その時に理解しました。
このようなことは、日本人同士でいたらわからない部分であり、移民国家の難しい側面でもあるなと思いました。
あとは、オージーの清潔感です。日本人だとゴミかす1つでもあると、汚いと言われますが、オージーはゴミが1つ落ちていても、あまり気にしません。
よほど汚くなければ、多少汚れていてもクレームをしないので、その点はプレッシャーがなく楽でした。日本にいた時は、理不尽なクレームを受けることが多かったので、それと比べると天国のような感じでした。
もっとも、時々くるインスペクションは、細かいところまで指摘するので、決して、いい加減に仕事をしていい環境ではありませんでした。
しかし、そのインスペクションでさえも、職場のすべてを見るのでなく、1か所だけを細かく見るだけで「うん、問題ない、頑張ってねー」と言っていなくなるので、「なんていい加減な仕事なんだろう」と思いました。
ただ、そのいい加減さがデメリットになるときもありました。
それは、トイレットペーパーや、ハンドタオルなどの消耗品を注文するときです。
「通常1週間前に注文すれば来る」といわれていたので、注文したのですが1週間たっても来ないことがありました。
ちなみにこの職場ではそれらを切らして、供給できないと即クビになるので、消耗品がなくなりかけた時は、あせって物資補給の会社に電話をいれました。
この頃も英語の電話対応のトラウマは残っていて、電話対応は滅茶苦茶でした。以前よりはよくなりましたけど、相変わらず、意味不明な言葉をしゃべっていたと思います。
それでも、なんとか次の日に来るという内容を理解して、事なきをえました。
実は後から聞かされたのですが、「あいつは英語ができないのに電話してくるけど、なんなんだ!」と会社に苦情が来たそうです。その時はボスが対応してくれたみたいですが、「英語ができなくても問題ない」といってもさすがに、限度があるなと思いました。この時は、ボスの対応に感謝しました。
ちなみに、この次の注文から、向こうも察してくれたのか、消耗品が注文した次の日に届くようになりました。
前任の日本人ヒロさんのサポート
仕事を続けられたのは、前任のヒロさんからのサポートのおかげでもありました。
ヒロさんは日本人ですけど、すでに永住権を取得し、在住9年になる方です。
ヒロさんからは仕事のやり方、基本的なことから応用的なことまで、いろいろ教えてもらいました。
この時に感じたのは、日本人からの日本語での仕事のアドバイスのありがたさです。日本語であれば、理解に問題はありませんからね。これが、もし英語だったら、細かいところまで理解できなかったと思いますし、それが原因で、クビになっていたかもしれません。
さらに、中にはいい加減な仕事をしている人もいて、そういう人から仕事を教えられても、中途半端な仕事になってしまって、長続きしません。
しかし、ヒロさんの場合は、いろいろと役に立つアドアイスを頂きました。
その中で、とても印象的に残ったアドバイスがあるのですが、それは
「オフィスの人たちとコミュニケーションをとって、関係をよくすること」でした。
それは、単に仲良くしたほうが良いという理由だけでなく、彼らとの関係をよくして仲良くなることで、何か問題があっても、直接僕らに行ってくれるし、クレームを避けるためでもある、ということだそうです。
確かに、全く挨拶もしないような関係になれば、何かクレームがあっても、直接言いにくいですし、会社に直接クレームいきますよね。それ以前にイメージが悪くなるので、そうなると、中には意地悪な人も出てきて、細かい部分を指摘してクレームをつけて、クビにしてやろうという人も出てくると思います。しかし、関係をよくしていればそんなことは起きないし、多少のミスがあっても、大目に見てくれかもしれない。それどころか、思わぬことがあったり、たとえばもっと良い職場を紹介されたりとか、あるかもしれませんよね。
これはクリーナーの仕事だけでなくすべての仕事に通じることではないかと思いました。
「良い人であれ」
ということですよね。
それ以後、僕はどこにいっても、他人とよい関係を作るようにしました。
韓国人のボス、トーマスさんのサポート
ヒロさんのサポートのほかにも、ボスのトーマスさんのサポートのおかげで、仕事が続けられた側面もあると思います。
この人のはじめの印象は、よくありませんでした。
口が悪く、ヤクザのような雰囲気がありました。
忘れもしないのは、この人は
僕がレジュメを渡すや否や、それを見て「あーこんなのいらない」と言って、
その場で破り捨てたことです。
「なんなんだろうこの人は・・・」と思いましたけど、はじめの仕事で
「この仕事は夜遅くなるから、ほかの仕事を上げる」とか、「仕事が見つかったら電話するから」といって、たびたび電話してきてくれたり、少しずつですが、接していくにつれて、この人は悪い人ではないというのがわかってきました。
ですから、在籍中はちゃんと仕事をこなすように努力しました。
しかし、この人は逆に良い人すぎるというか、ある意味かわいそうな人だというのもわかりました。
ヒロさんからいろいろ聞いたのですが、彼は韓国で行き詰って、裸一貫でオーストラリアへ渡ってきたそうです。語学学校も1週間しか通わず、英語にも相当苦労したみたいです。
日本語ができるので、日本にも滞在経験があるらしいですが、あまり良い経験がなかったらしく、韓国と日本は嫌いと言っていました。
それは話を聞く以前に、その風貌からもなんとなく苦労人だというのが理解できました。
これまでいろいろな人を雇ってきたらしいですが、いきなりドタキャンされたり、いい加減な仕事をされて深刻なコンプレインを出されたり、いろいろ大変な目にあってきたそうです。
とはいっても、彼は、在籍中いろいろ心配してくれたり、仕事のことはもちろん、仕事以外のことでもアドバイスをくれたり、時には強く怒られることもありましたけど、根は僕のことを心配してくれて、気にかけてくれていましたし、何より、英語もろくにしゃべれない、海外に来たばかりの自分を雇ってくれたことにとても感謝しています。この人のもとで働けて、良かったとも思っています。
シェア探しIn Parramatta.
パラマッタで仕事を初めて、はじめのうちはシティから電車で通っていました。
シェアハウスについては、Burwoodや、Ashifieldなどでいくつか探しました。
しかし、不便な点と朝早いという点から、パラマッタのシェアハウスを探すことにしました。
パラマッタでは2件インスペクションしましたが、そのうち中国人オーナーの女の人(アリスン)が経営しているアパートに決めました。
このアパートに決めたのは、その彼女の人柄の良さです。
彼女は現在はシドニーで会計士をしており、若いころはロンドンに留学していたそうです。しかし、その時に、あまりの物価の高さに驚愕し、学生時代は
いろいろ苦労したそうで、その経験から同じ境遇の学生の人たちの助けになればと、シェアハウスを運営してるとのことでした。
それを聞いて、この人は悪い人ではないと確信しました。
僕の考え通り、滞在中もいろいろサポートしてくれたり、融通を効かせてくれたりといろいろとお世話になりました。
しかし、1つ落とし穴があったのは、彼女はシェアハウスに住んでいないという点です。
オーナーは別の家に住んでいるというタイプですね。
ですから、彼女と会うのはレントを払う時だけでした。
ベトナム人とのシェア
パラマッタでは2件の家に住みましたが、1件目はベトナム人学生5人とのシェアでした。
ここははじめの印象はとても良く、初日にはウェルカムパーティもしてくれて、シェアメイトもみなフレンドリーでした。
ここの家は少し変わっていて、トイレットペーパーやご飯もシェアでルールはない。という個性的なところでした。
しかし、はじめはよかったのですが、徐々にいろいろ問題がでてきて、結局、2週間で出ていきました。
問題は、1つは国籍の問題。ベトナム人5人と日本人1人という状況の居心地の悪さです。
こういう環境って、行ける人は問題なくいけると思うのですが、僕の場合は無理でした。というのも、彼らは結局普段は母国語でしゃべるので、僕が入る隙間がないというのが1つ。そういう環境だから孤立していて、とても居心地が悪かったという点が2つ目にあります。
僕とのやり取りは英語ですが、僕自身英語が不十分、向こうの英語もよく聞き取れない、単純に慣れていないという点もさることながら、ベトナム人の話す訛りの強い英語の聞き取りにくさで、互いの意思疎通は大変でした。これが3つ目です。
あとは、はじめはよかったのですが、徐々に彼らの悪い点が見え隠れしてきた点が4つ目です。
自分の目の前で、悪口を言う(英語ではなく母国語でいうのですが、なんとなくイントネーションでわかる)。
シェアメイトの1人が不愛想で自己紹介もないし、キッチンであっても挨拶がない。
それどころか、ちょっと英語で会話がうまくいかないと切れる。など…。
あとは、僕もそうだったのですが、国籍の違い、文化の違い、意思疎通の大変さから、なんとなく、お互い避けていた、信用していなかった局面がありそれで、徐々に居心地が悪くなっていきました。これが5つ目です。
アリスンのそのことを相談したら、もう1つ別のシェアハウスを経営してるからそっちに移動したらどう?ということで、別の家に移ることに決めました。
引っ越す際、彼らに「なぜ?移動するの?」と聞かれました。
その時には、自分の思っていたことを率直に伝えました。
このときまで、僕は、自分の意見をはっきり言うことを避けていました。
悪いと思っていても良いといってみたり、曖昧にしてしまったり、言い訳したり…。具体例を挙げると、彼らが料理を作ってくれた時、味はよかったのですが、臭いがきつく、でも味は良いし、臭いも良い。と嘘を言っていました。
これって、まさに日本人流の「本音を言わない」ことだと思うのですが、これが、逆に彼らを不安にしてしまった(信用できないと思わせてしまった)のかなと思いました。ですから、この時から、悪い部分は悪いとはっきりを言うことにしました。
自分の意見を伝えたのち、彼らもそのことは納得してくれて最後に「はじめ日本人が住むということを聞いて、うれしかった。楽しみにしてた」といってくれました。
結局、何が問題だったのか、振り返ってみると、文化の違いとか国籍とか、英語の問題もあったと思いますが、一番の理由は5つ目の理由だった思います。
僕自身、もう少しアクティブに、「英語ができない、でもそんなの問題ないんじゃあ!」と切り込んでいたら、ちょっとはちがったかもしれません。
相手側も、僕と同じような感情は抱いていたとおもいますけど、こっちからいけば、徐々にそんな感情はなくなるでしょう。
少しは違ったのかなと思います。
インド人、ベトナム人とのシェアハウス
3件目は、同じくパラマッタでインド人とベトナム人が住んでるシェアハウスに移動しました。この家は、アリスンが経営する別の家だったので、ボンドや家賃の
支払いは、以前どおりのままで、ミニマムシティなどの条件もなくそのまま、すぐに移動することができました。
ここは、以前とは違ってベトナム人と、インド人混合のハウスだったので、国籍に偏りがなく、普段の会話は英語でした。なので、英語を話す環境としては非常に良いところでした。もっとも彼らは大学生だったので、英語のレベルは、僕とは天と地の差がありましたが…。
前のシェアハウスの経験から、ここではできる限り、積極的にコミュニケーションをとるように心がけました。
会話を避け部屋にこもりすぎると、悪い印象を与えると思ったからです。
そのおかげか、ここでは、ハウスメイトでベトナム人のFanと話す機会が多かったので仲良くなりました。
また、インド人のRusselとも仲良くなりました。
以前のように、孤立するようなことはなくなりましたが、ここでは、また別の問題が発生しました。
それは、インド人がキッチンを片付けないことです。
食事の後、皿は洗わない、残り物は捨てない、食べ物はテーブルの上に何週間も放置という、Lazy極まりない人たちで、
キッチンは、ゴキブリが出るほど、使うに耐えない状況でした。
さらに、彼らは夜の8時ごろから、深夜の3時ごろまで、3日1回くらいはパーティを開く、しかも自分の部屋の前のラウンジで騒ぐので、十分な睡眠がとれない日が多くなりました。
仕事は6時からなので、朝の5時には起きなければならず、睡眠時間は2時間か、一睡もできないような日が多くなり精神的にストレスがたまる日が続きました。
もちろん、注意はしたのですけど、「そうだね。夜22時以降は迷惑だし、平日は法律的にも悪いから、やめた方が良いよね」とか言うのですけど、次の日にはおかまいなく騒ぎ、何度注意しても、半分切れ気味に言っても全く改める気がありませんでした。
なので最終的に、「ああ、こいつらは何言ってもダメだな…」と注意するのはあきらめました。
いっそのことパーティに一緒に参加してしまえばよかったかも知れません。
とはいえ、パーティで騒ぐのはあまり好きではなく、抵抗がありました。
そのせいもあって、ハウスメイトのFanはインド人が大嫌いらしく、英語で話す機会が増えたものの、話の内容は、他に話題はないのか?ってくらい彼らの悪口でした。
そのことに関してだけは、長々と話し、会うたびに熱弁するので、相当嫌いなんだなというのが、理解できました。
シェアハウスには、なんとなくベトナム人とインド人で、グループのようなものができていて、彼は、僕をベトナム人側に引き込みたい感じでした。
彼は、悪い人ではなく、ユーモアセンスもあって楽しいまさにFanなみたいな感じの人なのですけど、ちょっと問題のある人でした。
インド人が嫌いなのはわかるのですがインド人の干してある服を足で蹴って地面に落としたり、さらにインド人が洗わない皿の中に自分の使った食器も混ぜて彼らのせいにしたり…。
彼も含め、ほかのベトナム人もインド人と時々衝突していて、彼らは3日に1回くらいは喧嘩してました。
ベトナム人の女の子が、彼らの食材を放り投げたり、Fackと言ってののしあったり…、でも普段は、お互い穏やかで、誰かの誕生日が来ると誕生日パーティをやったりしていましたが、そのギャップが不思議でしたね。
しかし、1週間経つと、ベトナム人だけが、あまりの環境の悪さに出ていきインド人だけが残る、そしてまた新しいベトナム人が入ってくるような環境でした。
Fanがまだいたころに彼の誕生日パーティをやりました。その時の写真です。
真ん中が問題児(笑)のFan。その後ろにいるのがRussell.
アリスンにも、このことは相談したものの「夜騒ぐのはどこのシェアハウスも同じだししょうがない」的なことを言われたので、引っ越してから3日で出ていくことにしました。
アリスンにその旨を伝えたところ、「ラウンジから離れたところにある小屋なら騒音も聞こえないから、そこに引っ越したらどう?」という解決策を提案してくれました。
その時は、もう早く出て行きたい気持ち一心だったのですが、とりあえず、そこに移動して、それでも問題が解決しなければ家を出ていくことにしました。
結果的に、そこの小屋に移動したのは正解で、騒音問題はとりあえず解決しました。
ここの内装は部屋というより小さな家みたいな感じになっていて、ベット2つ、キッチンあり、暖房、冷房器具あり、家具もついてる、本来用2人用の部屋で190$にしては、とても贅沢なところでした。
いくら個室と言っても、「さすがに贅沢なのでは?」と言ったのですが、「本当は駄目だけどヒロは良い人だし、いろいろ迷惑もかけたから特別」と機転を利かせてくれたようです。
結果的に、騒音問題も解決し、広い個室で快適に暮らすことができるようになりました。
この家には、ビザが切れるまで、2015年1月まで住みました。
インド人の印象
とはいえ、数か月シェアメイトのベトナム人はみな出ていき、Fanも母国に帰ってしまい、気付いたらシェアハウスがインド人の家になってました。
インド人数人と、日本人1人という、また国籍が偏った構成になってしまったのですが、ここは、不思議と居心地が悪いとは思いませんでした。
これは、あくまで僕の印象なのですが、インド人はキッチンは汚すし、夜は騒ぐしで、一緒に住むには最悪のタイプだと思います。(シェアメイトのインド人がたまたまなのではなく、これらはインド人の特徴のようで、どの人たちもインド人とは住みたくないというのが、評判のようです。)
また、彼らに関しては、やたらFuckという単語を連呼していて、お金が足りないと「Fuck」仕事が見つからないと「Fuck」と、品のない連中だなあとも思いました、
しかし、彼らと3か月住んで思ったのは、自分たちがいい加減な分、僕らに対しても、おおらかというか、物凄い懐が広いと思いました。
ささいなことで、あれこれ言わないし、人を馬鹿にしたりしないし、英語ができない、シャイで奥手だからと言って差別したりしない。
カースト制度とかあるし、本国に行ったら、もっとひどい人がいるかもしれませんが、それはわかりません。
オージーもそういう気質はありますけど、質が違うというか、彼らはオージー以上に、懐が広い感じがしました。
日本人1人の環境で、やはり会話に積極的にいけないという状況はここでもありましたけど、前のベトナム人やタイ人の家で感じた疎外感みたいなものは感じませんでした。
彼らも、僕のことはあまり気にせず、普通に挨拶してきてくれました。Russellには、「ヒロはいつも挨拶するけど挨拶だけで、ほとんど会話がない」と言われたことがあり以降は、できる限り短い話でもするように心がけてきました。そのおかげか、後半になると打ち解けてきて、時々話し込むこともありました。
ベトナム人シェアハウス事件
パラマッタに移るすこし前、Croydonを出てから1週間だけ、punchbowlという場所で語学学校の友達のAnnaとシェアハウスに住んだのですが、そこがいろいろおかしなところだったので、珍事件として書こうと思います。
学校に通っていた頃、彼女からシェアハウスを借りるから住まないか?という誘いを受け、面白そうだったので「Yes」と返事をして一緒に住むことにしました。それはよかったのですが,そこからが問題でした。
1.詳細を教えてくれない
「Yes」と返事をして「じゃあ、あとでどんな家か詳細を教えて」と言ったのですが、まったく教えてくれませんでした。
何度もテキストで送り、学校でも聞いて、電話で聞いたのにも関わらず「Later」と言って先延ばしにするので、頭に来て「お前はもう信じられない、友達じゃない」とテキストしたら次の日に教えてくれました。
しかし、その情報はとても曖昧なもので、レントと何人部屋か?どこのサバーブか?だけで、それ以外は何もわかりませんでした。
2.インスペクションなし、約束も破る。
インスペクションをしたかったので、いつ行けるのか?同じように連絡したのですが、全く連絡がなく、なんとかコンタクトをとって土曜日に電話するからといっても、全く連絡がなく、また頭に来たので「あんたのことは信用できない」と言ったら、日曜日に引っ越しができるからという連絡がきました。
本当は、インスペクションがしたかったのですが、Croydonの家はもう長く住めず、早く引越ししたい気持ちもあったので、仕方なくその日に移動することにしました。
3.住めない家
なんとかPunch bowl駅で待ち合わせする約束をしてその駅で落ち合うことができました。
しかし、問題はまだ続き、荷物を抱え来たものの家はできてない状態で、住めるような環境ではありませんでした。
それを彼女は平然と言うのですが、家ができてないのになんで引っ越しを日曜にしたのか?甚だ理解できず
「今まで何度も詳細を聞いたのに、なぜ教えてくれないのか?」
「なんで家ができていないことを教えてくれないのか?」と言いました。
さすがに向こうも、Sorry for everythingと謝ってましたけど僕もかなり頭に来ていましたし、前のシェアハウスのこともあり、
少しきつめにいいました。
仕方がないのでCroydonの家に戻り、その趣旨を伝えてもうしばらく延長してもらうことにしました。
4.ぼったくりハウス
しかし、数日後に、Croydonの家がこれ以上延長できないことを伝えられたので、引っ越しをせざるを得ない状況になりました。
バッパーや、ほかのシェアハウスを探すという方法もあったのですが、その後、ちょうど住める状況になったから「来て良いよ」という連絡をもらったので、そこに引っ越すことにしました。
しかし、その家はまだできたばかりだったということもあり、ほとんどが中途半端な状態でした。キッチンや洗濯機、冷蔵庫はありましたがWifiはなし、食器はなし、家具はなし、ベットもなしという家で、しかも家賃が150$、個室ではなくシェアルームという、完全にぼったくりのような家でした。
しかも、当の彼女はこの家に住んでおらず、自分ともう1人、別のベトナム人(あまりフレンドリーではない)が住んでるという状況で、来てそうそう、なんでこんな家にしたのか後悔しました。
5.反省と考察
今思えば、そこまでこだわる必要はなかったと思いますよね。
詳細を教えてくれなかった時点で、断ち切ってもよかったし、バッパーとか、他のシェアハウスを探すという手もあったと思いました。それをせずに、楽をしようとしたツケが来たのかなと思いました。
あとは、顔見知りだったこと、Annaは、語学学校で仲良くなったし、自分の英語が滑舌の悪いベトナム英語でも積極的に会話していたり、性格も優しい子だったので、信じきっていた側面がありました。
詐欺なんじゃないか?と思いましたけど、結局、理由は単に面倒くさかっただけのようです。
次の日の日中に、再びその家を訪問しました。家を建てている大工にいつできるのか?聞きたかったからです。
家を建てていたのはベトナム人でした。彼らに「いつ家ができるのか?」聞いたところ、「本当は昨日だったけど、いつできるかわからない」と呆れた答えが返ってきました。もうあいた口がふさがりませんでした。
彼女の性格うんぬんもあると思いますが、要するにベトナム的な価値観と日本的な価値観の違いで生じた問題ということでしょう。
彼らはいい加減なんですね。
このころは、日本人の感覚が強かったので、この経験を通じて、よりいっそう、マルチカルチャーだということを思い知らされました。
自分の未熟さ、相手のいい加減さが招いた問題でもありますけど、この問題を通して、物事をいい加減にされることの苛立ちさ、
文化の違いや、いい加減さが原因で起こる問題がどういうものか?ということを学ぶことができたので、それだけでもよかったと思います。
日本語教師(ボランティア)
語学学校時代、パラマッタ時代含めて、僕はChastwoodで日本語教師のボランティアをしていました。
ボランティアなので、専門の教師ほど難しいことは求められず、単純に、外国人に日本語を教えて、いくつかの雑務をやるだけでよいという簡単な仕事でした。
しかし、日本語を英語を使って教えるわけですから、ある意味、頭を使う仕事でもあり、同時に英語の勉強には、非常に効果的でした。
生徒は、主に現地の中学、高校に通っている人たちで、全体的にアジア系の人たちが多数を占めました。なので、内容は語学を教えるというより、学校のテスト対策的なものが大半を占めました。もちろん、中には日本語を勉強してるオージーもいました。
普段何気なく使っている日本語ですけど、いざ教えるとなると、理屈を英語で教えなければならないので、とても大変だというのがわかりました。文法、例えば「?は」「?が」の使い分けを英語で説明したり、日本語作文の添付、生徒用の問題を作成したり生徒の学習進度の管理など、とてもやりがいのある仕事だと思います。
また、日本語を勉強する外人が、どこでつまづくのか?上述した「は」、「が」の使い分けから、ボキャブラリーの誤理解、もっといえば、どれほど日本語が難しいか?ということも知ることができました。生徒の全員が、日本語は難しいと豪語してましたね。
サーティフィケイト
現実問題、多くの人たちが日本語を勉強したがるのですが、過半数が日本語のあまりの難しさに、すぐ辞めてしまうといいます。ひらがなやカタカナを習って辞める人は数知れず、文法までいけばいい方、ということらしいです。
この仕事も、ビザが切れる1か月前まで続け、140時間の経験をしたというサティフィケートをもらうことができました。
英語(ローカルで働いてから)
語学学校を卒業して、思ったのは、やはり学校を卒業したくらいでは、ネイティブはおろか、ノンネイティブですら、会話が難しいということでした。
語学学校である程度できるようになったといっても、このころの英語は散々でした。
簡単な会話こそできるものの、ちょっと込み入った会話になるとダメ、
自分のことならある程度話せても、他人の話になると全くダメ、
また、発音の悪い相手に当たれば、ほとんど会話にならないという状況が続きました。
また、職場に関しては、半分以上がオージーネイティブだったため、はじめのうちはほとんど会話が理解できませんでした。
それ以前に、How are you?と声かけられて、その受け答えすらできないという、
さらに、誰かと話してたり、そこに人がいるだけでも、強ばって小さくなってしまう、
怯えてしまうという、そんな状況がありました。
語学学校では、ある程度喋れて、相手の言うことも理解できるようになっていたのに、なぜ、そうなってしまうのか?
英語ができないことによる気おくれが、原因だと思います。
さらに、まだまだ外国人とのコミュニケーションに慣れていなかったこと、英語能力の不十分さ、うつ病、人間不信の後遺症的なものもあったと思います。
「語学学校を卒業しても、英語ができるようにならない」というのは、こういうことなのかなと思いました。
ただ、この言葉は、誤解を生むと思うのですが語学学校の勉強が無駄だったというニュアンスではないです。
語学学校でレベル1からレベル20くらいまであげて、現場へ出たけど、「ネイティブのレベルは80くらいだった」「ノンネイティブは40くらいだった」といえばわかるでしょうか?レベルが低すぎて相手にならない、そういうことです。
ベトナム人のシェアメイトとも、たびたび会話で誤解が生じてしまい、日常生活に支障をきたし始めてから、さすがにこれはやばいと思い、英語の勉強を始めることにしました。以下は、滞在時にやった僕の英語の勉強です。
1.コピーライティング
仕事の合間によくやったのは、新聞や本に書いてある英文を、ノートにそのまま移すだけのコピーライティング作業です。
これは、Jamieが教えてくれた勉強法なのですが、書いてある英文を大量に書いて、わからない単語はその都度しらべて、それを繰り返しているうちに、語彙数が増え、多くの英文がインプットされるということでした。
同時に、文法事項、特に可算名詞と不可算名詞には、どんなものがあるのか?とか、theとaの使い分けとか、関係代名詞WhoやWhichを使った英文の実例、といったことも勉強できます。
さらには、実際に使われている生の英文を覚えられるというメリットもあります。
2.Tutor(家庭教師)
文法とリーディング、語彙数に関しては、コピーライティングのおかげで少しずつ改善していったものの、スピーキング、リスニングに関しては、壊滅的に駄目でした。そこで、Gum treeで英語の家庭教師のTutorを探しました。
Burwoodで日曜と土曜の夕方に、1時間20$で受けられるものがあったので、さっそく連絡を取り、通いはじめました。
教師は、韓国人で日本語が話せる女性で、普段は会計士をしている方で、英語を教えているのは、趣味でやってるとのことでした。
日本語が使えることで、この人を選んだのですが、自分の勉強のためにと思って、よほど困った状況でない限り、授業はすべて英語でやりとりするようにしました。
内容は、Youtubeにあるテレビ番組などを聞いて、何の内容を話しているか?説明したり、リーディングをして、内容を説明したり、今日、今週あった出来事を話したり、スピーキングとリスニングがメインでした。
また、あるトピックの自分の意見を書くライティングの課題もありました。
家庭教師で1対1での勉強でしたので、1時間の授業でも、かなり効果があったと思います。
家庭教師を初めてから、英語のスピーキング、リスニングは少しずつ改善していき、ビザが切れる直前には、職場のオフィスの人たちと、ある程度会話ができるレベルにまでなりました。
3.その他
あとは、通勤中に、英語のラジオを聴いたりもしました。
IELTSの勉強もやりましたが、この頃は難しすぎて、すぐにギブアップしました。
4.エクスチェンジ
パラマッタ時代には、英語の勉強、友達作りのためにエクスチェンジもやりました。
エクスチェンジでは、10人くらいの人とLineやメールでやり取りしましたが、そのうち、実際にあったのは5人程度でした。
初めに会ったのは、New townに住んでいるEngland出身の男性。
香港人のワイフがいて、日本人の友達が多くいるそうですが、「日本人の知り合いはたくさんいるけど、何か奇妙で付き合いにくい」と不満を漏らしていました。あと面白かったのは「俺は女の友達が多いけど、セックスが目的じゃない。だいたい多くのオージーがそんな感じだけど、俺はセックスはしない」とやたら、それを強調する人でもありました。
2人目は、Campelltownに住んでいる男性。
Centralの駅で会って、結構会話が盛り上がったのですが、その後疎遠になってしまって、それきりになってしまいました。
3人目は、台湾出身で、路上で絵描きをしている女の子です。彼女とはLineで盛り上がり、日本語もそこそこ喋れて、あった時も僕の絵を描いてくれました。
描いてもらったときの写真
その後は、疎遠になってしまいましたが、今まであったことないタイプの人だったので、中々新鮮でした。
4人目は、いまでも連絡を取り合っているイラン人のMathewです。
彼はとても我の強い人でした。
自分の言いたいことをはっきり言う、外国人はみなそうですけど、彼は、特にそれが強く、些細な会話でも「自分はこういう意見を持ってる。でも、それはおかしい」と、討論みたくなることがありました。
喧嘩っぽくなるような時もありましたけど、こっちが話していることは、最後まで聞いてくれたり、細かい気配りをしてくれたり、とても知的で優しい人だとも思いました。オーストラリアの永住権も持っているそうです。
エクスチェンジをした理由が、日本人の彼女がほしいからとのことでした。
しかし、彼もまた「日本人女性は奇妙で訳が分からない」と言ってました。
「Lineやメールで連絡を取り合って、実際に会おうというと、ほとんどが途切れて連絡が取れなくなる。また、実際にあった日本人は、ほかの男性とも、掛け持ちをしていて、僕の入る余地はなかった。さらに、彼女たちは、英語の勉強のためにしか、エクスチェンジをしたがらない。日本人の彼女を探すのはとても、難しい!中国人の方が楽だ」と言ってました。中々面白い話だと思いますね。
5人目は、オージーのAlexです。
彼は、今まであった人の中では、一番、日本に関心のある人でした。
性格はオージーらしからぬ、シャイな性格です。
今でも連絡を取り合ってますが、日本にホームステイに行ったり、日本語も継続して勉強していて、日がたつにつれてうまくなっていくし、大学では、日本語のスピーキングコンテストにも参加したみたいです。
前述したように、日本語は難しくて、多くの人がギブアップしていく中で、それでも、継続的にやり続け、日本にも足を運んでいるというのは、本当に日本が好きなんだなと思いました。
エクスチェンジでは、いろいろな人と会うことができるので、単に英語の勉強のためだけでなく、友達を作るのはもちろん、いろいろな人と会って、価値観を広めるという意味でもよいと思います。
あとは、彼らの日本人に対する印象も聞けて面白いですね。
旅行など
メルボルン
基本的に、シドニーにずっと滞在していましたが、ブリズベン、ゴールドコースト、メルボルンに車で旅行に行きました。
シドニーとの違い、街並みの違いから、アジア人が少ない、日本との交通ルールや道路環境の違いなど、いろいろ面白い経験ができました。この辺りのことは、僕の自身のブログに、細かく書いていますのでご覧ください。
個人的にメルボルンの街並みは、個性的で面白いと思いましたね。
フィッツロイというサバーブがあるのですが、そこの街並みが個性的で、もしメルボルンに住んだら、ここに住んでみたいなと思いました。
グレートオーシャンロード
グレートオーシャンロードにも行きました。
さすがグレートというだけあって陸から見る景色はすごいです。
総括
1年を振り返ってみると、ラウンドはしなかったものの色々良い経験をすることができました。特に自分の心境の変化はかなりあったと思います。
語学学校、パラマッタどちらを見ても、よい人達に会ってその人たちと楽しく過ごし、そのおかげでこれまで患っていたうつ病や人間不信が和らぎ、気持ちが楽になることができました。
これは、今日本で同じように悩んでいる人に参考になると思います。
日本で心療内科に通って、薬を処方して、家でじっとしているよりも、良い人と会ってそこで生活して、よい経験をしていくという、その方が効果があると思います。
帰国直前に挨拶に来ていただいた際のスナップ
これは、いうなれば、「療法ワーホリ」だと思います。
みなさんのようにラウンドに行って修行する!的なものではなく精神的な病をオーストラリアに来て治すという。
そういうワーホリもありかなと思いました。
もちろん、海外で生活したという達成感、英語能力の向上、色々な国の人と知り合えたこと、人間的にも成長した部分はあります。
そして、それが自分の自信につながり、相乗効果でさらに、うつ的症状を治療した側面もあると思います。
また、トータルでこそ赤字なものの後半の仕事でお金も貯金することできましたし、得たものは計り知れないと思います。
2年目の抱負とこれから
僕は、もともと海外に活路を見出すために、オーストラリアに渡航しました。
結果的に1年目は、療法ワーホリという形になったものの、当初から海外で生活し、働きたいという思いがあり、それは今でも変わっていません。実は、この体験談をNZで書いていて、2年目のワーホリをやっています。
2年目は、1年目の療法ワーホリ的側面もありつつ、修行的な側面や、海外の現場である程度のことは、そつなくこなせるようにすることに焦点を当て、やっていきたいと思います。
もちろん、英語能力のさらなる向上、IELTSで6点以上を取ることも視野に入れていますし、学校に通って専門スキルを見つけたいという気持ちもありそれを目指して頑張りたいです。
1年目と違って、将来のことを視野に置きつつ、頑張りたいです。
僕の体験談は以上で終わりですが、日本にいる方、悩んでいる方や、海外生活に活路を見出したい人のご参考にしていただけるなら幸いです。
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