渡豪に至るまで
(前置き長いっす。。でも自分を振り返る良い機会なんで・・)
人生わからんもんです。もともと興味はあったものの、自分が海外に出てくるなんて。ずっと実家暮らしだったんで、ひとり暮らしもしたことなく、国際線の飛行機も初めてだったんですが、まあ渡豪を決めるに至るきっかけみたいなものがあったわけです。
小学生の頃から漠然と学校での勉強に疑問を持ってました。こんなのやって意味あるんか?みたいな感じに。やらなかったら色々とめんどくさいことがありそうだったんで一応やっつけてました。高校になって真剣に進路を考えて、(自分が患者として通っていたこともあり)医療関係の方向に行ってみることに決めました。当時、大人たちやテレビメディアなどの話から察するに「大学」というところはすごそうに見えたんで、ずっと続けてきた部活を辞め、いわゆる受験勉強なるものを必死こいてやりました(やると決めたら徹底的にやる性格)。なんで疑問のあった学校のお勉強(受験勉強)ができたかというと、「大学」に対して期待があったからです。なんかそれなりにすごい教育があるだろうと。ま、ある意味ピュアな心情っすね・・今になって振り返ると。
実際、授業の内容自体はある意味では新鮮でした。医学ないし人体に関する知識が増えるのは心地よいものでした。が、大学になっても相変わらず勉強は勉強でした。一問一答式の知識を問われ、それに答える。それがテスト(最終的には国家試験がある)なわけですからそれ以上の発展性は望むべくもないように思われました(振り返ればそう思うだけで、この時点では教育を信じて真面目に勉強を続けている)。
そんなこんなで大学も終わりに近づき、実地研修が始まりました。真面目に勉強していたこともあり、自分が希望する分野の研修地に行かせてもらえることになりました。どんな分野でもそうだと思いますが、研修ってものは大概厳しいってのが一般的だろうと思います。僕も案の定睡眠時間も十分にとれない状態で続けていました。
・・・・で、1ヶ月ちょっと経ったある日、僕の身体の一部の機能は停止を余儀なくされました。当時はなにがなんだか訳がわかりません・・一時的に「声はでない」「メシ食べれない」「ボーっとして何も考えられない」状態も経験しました。とにかく体調を崩した訳ですが、僕の中では感覚的に「何かがおかしい」という思いがあったことは確かでした。当然、休学せざるを得なかったので休学することに・・結果的に休学期間は2年に及びました。
腐りましたね〜とことん。結果的に言えば教育に対しての期待が打ち砕かれ幻滅したというのが自分の状態でした。現場でやってる先輩達を見て「ああなりたい」と思えなかった。でも友達は皆、自分みたいになることなくやっていっている。自分の中では「もっとこうあるべきだろ、こんなのじゃ信じてやってけない」など(無知と若気の至りでしょう)怒りにも似た感情が溢れかえっているわけですが、そんな疑問をぶつける相手(それほどに尊敬し、信じられる人)もいない。自分の周辺と比較して圧倒的少数の自分・・自分がおかしいのか・・?
人生わからんですね〜。教育に幻滅した直後、恩師に巡り合うという。
続行不可能になった学生に待っているのは中退でしょう。その先生だけは違いました。体調崩した僕を理解しようとしてくれました、なぜそうなったのかについて・・。徐々に体調も回復した僕は先生に疑問をぶつけました。「日本の教育はこんなもんなんですか?こんな教育で資格なんかもらっても責任持てません」と。。今考えても、何も知らない若造がクソ生意気言ってるだけだろうと思うんですが、当時の自分は怒りに満ちていました。
が、次の瞬間僕は今まで経験したことのない感覚に襲われました。「そうかもしれないな。」
怒ってもおかしくない状況で先生はとりあえず受け止めてくれました。それまでの人生で一番の衝撃でした。はみ出た学生ひとりほっといてもその先生には何のお咎めもないし、生意気言う奴に説教してもおかしくない場面だったわけです。「こんなすごい大人がおるんか」ということを目の当たりにした僕は、とにかく救われました。教育に対しての期待→幻滅→理想論を持っていた自分は、ここで教育の奥深さを身をもって知らされました。自分みたいな厄介な生徒を腐らせるのは簡単ですが、何かしら教え育てようと思えば、千差万別の人間を理解しようとする態度、つまり頭ごなしに否定せず一度受け止められるだけの懐の深さ・人生経験・・ひとことで言えば「人としてでっかくないといけない」わけです。
さて、人としてでっかくなる必要性もわかった、尊敬できる恩師もできた、となればその先生のもとで勉強させてもらえればどんなに厳しかろうがやっていけるだろうし万事OKなように思えるんですが、そうはいかないわけです。
ちょっと脱線な感じですが、大学時代に、先進とされる欧米の授業内容を英語で紹介してくれた先生がいて、日本語で書かれた教科書のわかりにくさと対照的に、非常にシンプルでわかりやすいことに驚いた経験があります。だから欧米がすごいとかって話じゃないです。近代医学なんてなかった日本が輸入したものをある程度のレベルまで持ってくることは凄いことだと思うし、日本には日本のよさがあると思います。ただ、それじゃあ二番煎じに過ぎないというか独自性に欠けるというか・・。輸入の過程でやることは翻訳なわけで、英語をただ日本語にした理解に苦しむ教科書で自分たちは教えられます。
そして、今思えば自分の中でずっと腑に落ちなかったのは、その前提はどうなってるのか?ってことだろうと思います。教科書や自分たちが教えられる内容において、前提なんてのは問われないし、質問しても結局落ち着くのは、「科学的に証明されてるからorそういう風になってる」みたいなとこでしょうか?じゃあ「そもそも科学ってなんだ?なんで科学の答えは信じられるんだ?」みたいな感じになってくと世界の文化や歴史にまで話は及んできます。自分の納得を追い求めていくと、勉強すべきことは果てしないことに気付きます。でも納得したければやるしかない・・翻訳された本では翻訳者の理解度によって自分の理解も規定されるし・・。
要は自分で自分なりに世界を解釈してみたかったわけです。
自分の学んでる分野のルーツが西洋医学にあるなら、その理論・実践・教育を介在者(中間業者みたいなやつ)なしに学んでみたい・・と。
ってことで休学の2年間何をしていたかというと、読書と情報収集です。
それまで読書習慣などなかったんですが、没頭しました。分野問わず読み漁るなかで、「何かがおかしい」と感じた疑問に対するヒントらしきものを述べてくれる著者が何人かいることに気づきます。その内のひとりが田村さんだったわけです。そしてオーストラリアの大学院ではどうやら自分が学びたいような内容の授業が行われているらしい、入学のためにはIELTsのほかに自分の国の国家資格と2年程度の実務経験が必要らしいなど、自分が納得するためにはそれらをクリアしなければならないと判明します。
さて、自分への考察です・・
@大学さらには社会に期待していた自分がいた。社会のグレーな部分に対する免疫が乏しかったわけだが、これはある意味では幸せに育ってきた証しともいえる。
A個人的に教育ってのは教える人間が教えるレベルでなければならないと思う。具体的に言えば、実際にやってみせ→真似させる、のサイクルを回しながら徐々に独り立ちさせていくわけだが、「実際にやってみせ」られるだけの実力・人間力が必要となる。僕は現場レベルでそういう教育があるとは思えなかったから、幻滅した。何年も現場でやってきた人達を見て、「ああいう風になりたい」と思えなかった。スポーツなどの技術は天才などは自然にできてしまう場合があるが、医療技術などは経験知の集合体だと思う。つまり経験は伝えないと途絶えるわけで、教える側のレベルによって教えられる側が到達できるレベルも規定されてくると思う。
Bここで、「お前が教えるレベルの人間に現場で出会ってないだけで、日本にはいくらでもいるぞ!」という意見が飛んできてもおかしくない。確かにその通りだ。が、問題はそういう人間は大抵どこかの組織なりに所属していて、その組織の身内になれば教えを請うことができるが、組織ってのは往々にして閉鎖的であったりする。田村さんのいうところの「家元制度」の名残である。「ウチとソトの文化」は日本にずっとあるもので、良い面もあると思うが、閉鎖的であるが故に批判にさらされることが少ないと思う。内輪での褒め合いばかりの印象すらあった、もちろんすべてじゃないが。そういうのも含めて幻滅したわけだ。
まとめると、一般的に言えばひとりの若造が実地研修の最中でドロップアウトした、という文脈でとらえられるのが普通だろう。そういう面もあると思うし、優秀なやつはどんな現実にもしたたかに対応していくのだろうとも思う。が、個人的に納得できなかった訳で、自分がおかしいのか、社会やシステムがおかしいのか・・・。というよりはそこに現実があって、それをどう捉えてどう対応するかというだけの問題なのだろうが。
自分なりに苦悩してたどり着いた結論は・・
・日本の中にいたら何が問題なのかわからない(比較できない)、日本以外を見てみたい
・ドロップアウトした自分が人としてレベルが低いのかどうか、確かめるためには縁もゆかりもない環境でゼロから自分に何ができるのか試す(社会やシステムに一切期待しない)必要がある
・信じていたが故に壊れた価値観を自分で創っていくためには、物事の両極を知る必要がある(最先端と最後端?、便利と不便など)
日本で2年ほど実務経験を積み、大学院入学のためには英語力(IELTs)と入学資金さえクリアすればよい(制度なんか変わるし分からんけど・・)という状況で渡豪に至るわけです。
これでもかなり端折ったんですが、ま、こんな人間の語学留学(半年)&ワーホリ(今後する予定)の物語です。誰かの参考になれば幸いです。
渡豪
日本からの離陸→シドニーへの着陸はとにかく静かな印象だった。国際線なんてのは初めてだったが、不思議と緊張しない自分に少し驚いた。
ただ、乗り継ぎのゴールドコーストで荷物を開けられた時には少し驚いた。というのも自分はダンボール+ゴルフバッグだったので、ダンボール箱の中身がこぼれる心配があったからだ。「ゴルフシューズはどこだ?」と問われ、ダンボールを指差すと、ハサミでチョキチョキ・・どうやらシューズの裏の土をチェックしたかったらしい。その後、検疫のオッサンなりに修繕してくれたが・・・ま、結果的にシドニーまで荷物を運べたので良し!
一括パック期間
←到着後二日目のHayato氏(中央)。この週は同期全員男ばっかという、いわゆる”ダンゴ三兄弟週”であった。他の二人の"兄弟"もいまだオーストラリアに健在。
田村さん宅での1週間はやはりシェア探しの印象が強い。
が、「田村さんの存在」から受けとる何かが大きかったように思う。
膨大な情報量のサイトを作っている本人、シドニーに来るまではメールでのやり取りのみな訳で、具体的にどんな人で何をやっているのかについてのフィジカルな情報がなかったので会ってみないことにはわからなかった。
会って特訓を受けてみると何のことはない、サイトに書いてあるまんまだった。
つまりは「初動が大事。とりあえず現地社会に入ってみよう。そのためのサポートしまっせ。」ってこと。この1週間で授かったメンタルは、その後のシドニー生活のあらゆる局面で効力を発揮することになる。
そして何より田村さんに実際に会って感じたことは、「そういう生き方もあるんか」ってこと。分類すれば「留学エージェントあるいは自営業」なのかもしれないが、やってる内容というかやり方は全く違うし、収入のない時期もあるだろう。日本で安定収入もらいながら「不安だ、心配だ」って言ってる人達は何なんだろうと思ったりした。結構な衝撃だった訳だが、その後働いてすらない人やいろんな人達、ひいては社会の違いを知ることになる。
さて肝心のシェア探しだが、同期メンバーと一緒に行ったところも含めると25件程度だろうか、とにかく楽しかったという記憶しかない。現地の人達とコミュニケーションするというのもそうだが、色んなバックグラウンドを持つ人がいて、サバーブごとに雰囲気が違う。僕は日本でカーナビを一切使わなかった人間なんで、新しいサバーブに行くたびに、頭の中の地図帳のパズルが埋まっていく感覚が気持ちよかった。結局、Marrickvilleの$165/weekに決めた。
プチ・サバイバル生活〜一軒目のシェア
決めたシェア先は、イタリア人一家がオーナーだったが、中庭を挟んだ離れのような建物(個室が2つ)のうちの1つの個室で、その時点では誰も住んでなかったので実質1人暮らしだった。ここでの生活は大変だった。ネットない、寝具が貧弱で寒い、調理器具は錆びて使い物にならないフライパンがひとつだけ(ケトル、トースター、電子レンジはかろうじてあった)。おかげで、鍋ひとつですべてのメシをやりくりする能力、地元の図書館をフル活用する能力が身についた。
オーナー一家の母ちゃんがシェアの管理をやってて、朝のゴミ捨てと用事がある時だけ部屋にやってくる感じだった。ある朝、物音が聞こえて目を覚ましたが、また眠ってしまった。その後起きて部屋から出てみると、冷蔵庫がなくなっており、中のものが全て出されていた。どうやら冷蔵庫を新しいものに変えるためだったらしく、夜に帰ると新しいものになっていた。生鮮食品もあったし、なくなっていたものもあったりして、親と電話した時には「文句言え」とか言われたが、文句言うエネルギーが僕にはもったいなかったので、勉強と新しいシェア探しに注力することにした。この家は2ヶ月で出ることになる。
ちなみに、すぐ隣にジョンっていうおっさんが住んでて、ある時声をかけてきた。「お前宛ての荷物が昨日も一昨日も来たぞ。オレが変わりに預かってやろう。なーに心配すんな、オレは政府から金もらってる(失業保険?年金?謎である)からずっと家にいるんだ。中国人じゃないから安心しろ(なぜか中国人を差別していた)。盗んだりしないさ。」もちろんジョンのお世話にはならなかった。このジョン、土日になると決まった時間にインド系?の音楽を爆音で流す奴だった。ここの家がminimum stayがなかったのは、それが理由だろうか。
→シェア移動時のHayato氏。
Marrickvilleの、結構広い部屋。実は、彼にも言ったけど、過去にここに住んだ人がいます。
体験談122-125頁の板橋さん。2006年に来られた方です。彼女はここで「オーストラリアのお父さん」とも呼べるシェアメイトと知り合いますが、当時とはオーナーも居住者も全く変わってました。でも、家は同じ。「あ、ここ、知ってる〜」って。
生活安定期〜ラストまで 2軒目のシェア
2件目のシェア探しは、ノウハウがわかっていたので具体的に質問するようにして、とにかく妥協しないことを心掛けた。15件程度回った末に、Dulwich Hillの$160/weekに決めた。いいなと思っていたところに「お前に住んでほしい」と逆オファーを受けたこともあり、ここに決め、最後まで住むことになる。
夫婦との3人暮らしで、セネガル人の夫、フランス人の妻ともに優しく、良くしてもらった。夫はムスリムで祈りの場面を見たこともあったし、妻は「Life is hard~」と歌いながら、よく夫と金銭面のやりくりについて議論(口論?)していたりもした。実際ここに移ってからはバイトを始めたこともあり、2人と顔を合わさないこともしばしばだったが、とにかく快適だった(特に1件目と比べるとってことです)。
学校&英語
SCEに24週間通いました。レベル4から始まり、最終的にレベル5で終了。バイト先でのローカルレベルからするとお遊戯みたいなもんですが、それが大事なんだと思います。オージーの子供以下の英語力の自分達が、ある程度効率的にアウトプットの練習ができる場所はやっぱ語学学校しかないと思います。
個人的にワイワイはっちゃけたいタイプじゃないし、結構明確な目標を持ってやってきたんで、がっつり勉強しました。通学バスの中、休憩時間などなど時間なんかいくらでも作れます。これだけやったらこれだけ上達するなんてことはないわけで、ひたすらインプットを続ける・・資格のための勉強とは違って、目標地点は果てしなく遠く、試されるのは自分だけって状況がひたすら心地よかったです(自分Mなのか??)。
受験勉強は一応やったんで、こっちではしゃべることに力点を置いてゼロから勉強しようと思ってました。
っていう僕みたいな人(読書好きだとなお良い)におすすめなのは、graded readerシリーズです。レベル毎に使われる単語数が制限されていてレベル1→250語、レベル2→400語みたいな感じ。古典やノンフィクション、伝記など色んな物語を読めます。少なくともoxfordのシリーズがMarrickvilleの図書館にはあります。僕は一番下のレベルから始めて、トータル150冊くらいひたすら音読しました(CDついてます)。「読書百篇意自ずから通ず」って誰か忘れたけど偉人の有難い言葉。いつ効果が顕在化してくるか知らんけど、信じてるぞ偉人!
ちなみに、休憩時間も勉強してるような奴でも、友達できます。気張らず自然体でおったら自然と気の合う奴と仲良くなります。
バイト
お金を貯めてきたつもりだったが、減り方が思った以上だったので、とりあえずジャパレスからはじめることに。ウェイターだったが、仕事の教え方もイマイチ、というか職場の人間関係が悪い意味で日本的な面があったためあまり馴染めず。。色んな現実を知るって意味では良い勉強だったかな。まあメシ食うためだけに働いてました(約2ヶ月)。
ジャパレスで働きながら並行してレジュメ配り(15件くらい)、ネットの求人募集にメール攻撃など、なりふり構わずやっていたら運よくローカルのレストランで働けることに。Durlinghurstのメキシカンレストランで、Dish washerでした。シェフで日本人が一人、バイトのシェフでも一人いて、あとは大半が地元民(キッチンはタイ人が多かった)でした。
はっきり覚えてないけど、時給19ドル台で、スーパーアニュエーション付っていう天国のような環境でした。
Dish washerクソ忙しいです、日によるけど。5時間くらい動きっぱなし、洗い物さばきっぱなしてな感じで。身体動かすのが好きなんで楽しめました。慣れてくると、洗いながら考え事したり、ホールスタッフの会話に耳を傾けてみたり。dishwasherは単純肉体労働な訳ですが、そうであるが故に物事を観察するにはうってうけだと思います。店や客の雰囲気、スタッフの働き方などその場に身を置いてみないと感じ取れないことはたくさんあると思います。
学校とかでバイトの話になると、英語のためにはローカルがいいとか、キッチンよりはウェイターがいいとか話してる人に出会うと思うんですが、関係ないと思います。英語っていう独立したものがあるわけじゃないと思うんで、英語が使われているこの国の社会や人間についてあれこれ考え、知ることがひいては言葉の習得にもつながっていくんじゃなかろうかと思ったりします。どんな状況であろうとup to youです。
あと、個人的に2人の日本人シェフから学ぶことが多かったです。
2人とも在豪4〜5年で、彼らの英語の反応速度やリズム、テンポなど、そういうレベルに行けば地元のオージーとある程度ナチュラルにしゃべれるんだなっていう良い見本だったんで、必死に観察してました。
日本で飲食経験がなかったので、全てが新鮮な体験だったわけですが、dishwasherのコツは状況判断と段取り!これに尽きます。ちなみに、あるホールスタッフに「こんな素早いdishwasherは今まで見たことない」って言われたときは、さりげに嬉しかった記憶があります。
あれこれトライしたこと
映画のエキストラのバイト求人にメール送ったら返事が来たので面接にいく
→行ったはいいが面接官の英語についていけず、「また電話するから帰っていいよ(お門違いって意味)」と言われ、同席した女性2人にクスクス笑われる
語学学校の医療コースの先生の紹介で医療現場を見学に行く
→行って質問して感じたことは、結局やってることは日本と大差ないこと。
医学自体、欧米からの輸入ものだから当然か。
あと、こっちは分業がはっきりしてて、技術など学ぶのは大学っていうことが明確になっている。大学も数が少ないし、教員なんか狭き門だから教える人間の質は保たれるだろう。少なくとも卒業したけどペーパーテスト受かっただけなんてことはありえない。じゃないと高い授業料払って留学生が来るはずない。
ちなみに対応してくれた方は50歳くらい?のベテランで、その人の時代には今では大学院でないと教えないような内容も大学で教わることができたらしい。商業化してない時代の教育羨ましすぎる・・。
Gumtreeに掲示を出してゴルフパートナーを見つける
→2〜3回一緒にゴルフしたが、その後バイトが見つかり行けなくなる。パキスタン人だった。こっちのコースはだだっぴろく開放感がある。日本のコースのほうが変化に富んでてテクニカルな印象。
エクスチェンジも少しやったが、バイトなどの都合もあり自然消滅。
ま、あれこれやって結局思ったのは、学生ビザの期間はとにかく勉強に集中したい自分がいるってことでした。
まとめ&今後への展望
aplacは個性的なメンバーが多いし、その他オーストラリアに来てる日本人も色々だけど、結局良い意味でも悪い意味でも「日本人」で括れると思う。
バスの中で近くに座った若い女性のTシャツがもうボロボロ、オペラハウス周辺で地べたに寝そべっておしゃべりする若い娘たち、髪の毛グリーンの人、スーツにランニングシューズ、雨の中カッパ着てんのかと思ったら透明のゴミ袋かぶってたオッサン、1枚写真とったら南米・ヨーロピアン・アジア・アフリカとあらゆる大陸からの人間が写ってたり、バスが10分くらい動かないと思ったら運転手が高齢者を助けてたり・・こっちではまあ色んな人を目撃します。
こういうのを「diversity(多様性)」っていうらしいけど、そんな言葉だけ観念的に知ってても意味なしです。
それを体感するだけで生き方に広がりがもてるようになる気がするし、世界の広さと自分のヘボさ加減・知らなさ加減がわかっちゃうわけです。か〜、全く持って「Life is hard~~」です。hardだから諦めるのか、頑張っちゃうのかはup to you としか言いようがないでしょう。
さて、大学院進学という最終目標があった上での語学留学&ワーホリなんですが、最終目標に変わりありません。
ワーホリ中にどんな出会いや経験が待っているのかわかんないんで、目標なんてあってないようなものかもしれんですが・・。
ワーホリ期間は「世界の人達の生活の仕方や物の見方を肌で感じる」ことがテーマかなと思います。
現地住民、旅行者など出会う人全員が様々なバックグラウンドを持ってるだろうし、経験することすべてに学びのチャンスがあるんでワクワクがとまらんです。
本を読み漁って得た知識も、体験や身体感覚に基づかないと意味なしでしょう。
それなしに大学院なんかで学んでも僕的には意味なしです。
と、同時に、1〜2年のワーホリを経ても大学院で学びたい気持ちは色褪せないのか自分を試す面もあります。
自分でも思うんすけど、欲張りです。日本人として先端科学の内容をどう捉え、どう取り入れていくべきかを考える材料にするためにも、カウンターとして欧米系の先進教育を受けようと思ってるわけですから。
こんなもんできるかどうかじゃなしに、やるかやらないかです。
やりたい、納得したいからやる!それだけです。
でもこちらでは、そういう思いは社会的には許容されやすいと思います。
来てみりゃわかるし、みんな違うという前提をみなが持ってると思うんで。
だからか、自分の行きたい方向に進んでる実感がとにかく心地よいです。ま、単純に人口密度が低く、自然が多いから心地よいのかもしれんけど・・。
人生も世界もわからんもんです。ま、1〜2年後には多少何かがわかるかもしれません。