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2013年02月06日


ゆかり.Aさんのワーホリ体験記
第一部 シドニー編(滞在8か月)

2012年10月〜 2013年01月



オーストラリアに来るまで



現在、渡豪後8ヶ月が経とうとしているところです。
2012年の5月にワーキングホリデイビザで来ました。
ずっと住んでいたシドニーを離れるので、その前にシドニー時代を忘れないように文字にしておこうと思います。

渡豪のきっかけはワーキングホリデイビザの年齢制限が間近に迫っている事に気づいたことでした。なんの根拠もなくいつか英語はしゃべれるようになるだろうと漠然と思っていた(勘違いしていた)ようで、このビザを逃すことはそのチャンスを逃す事のように思いました。
その晩は興奮して文字通り眠れませんでした。
それから実際に渡豪するまで日本で1年半を過ごしました。

日本での一年半は
1.英語の勉強 (ゼネラルで上の方のクラスに入る為に猛烈に勉強しケンブリッジFCEをとりました)
2.建築士の資格取得 (こちらでの就職に有利だろうと思い建築士免許をとりました)
3.勤めていた会社を離れる為の段取りいろいろ
4.運転免許と国際免許の取得
その合間に、田村さんを頼って数日下見に来させてもらいました。

当初考えていたのは、まず英語が話せるようになりたい。
趣味で終わらせたくないので、日本でやっていた仕事(建築関係)と同じ仕事をこちらでしたい。
英語学校ではゼネラルの上の方のクラスの授業を受けたい。
一年では、何かつかみかけた頃に帰国しなければならないような気がしたので、始めからセカンドビザの取得を考えていました。金銭面に関しては、学費を除いて赤字は避けられるだけの収入が目標でした。

8か月間の時系列表

1.学校(SCE)
2.Edamame Shushi(ジャパレス)
3.シェア探しと住まい1軒目 (Marrickville)
4.住まい2軒目 (Marrickville)
5.Weaving Job (ローカル/機織り)
6.Architecture Internship and Job (ローカル/建築士)
7.Language Exchange

学校(SCE)

学校はSCEに12週申し込みました。たくさん吸収すべき物はあったのだけれど、当時はEdamame Sushi に時間を取られたりなんだりで、宿題も行きのBus の中で何とかやる、みたいな感じでした。学校時代は終止、目的の建築の仕事が見つかるのだろうかという不安みたいな物がバックにありました。

最後の2週はInternship とバッティングしたため、4週の休暇後イブニングクラスに切り替えて通いました。イブニングはゼネラルで希望のクラスがなかったため、IELTSのクラスで受講しました。クラスの雰囲気としてはイブニングの方が落ち着いていて好みでした。

シェア探しと住まい1軒目 (Marrickville)

シェア探しは週をまたいで40軒ほど見た後、Dulwich Hill と Stanmore駅の中間辺りのHouse Share に決めました。
下見に来た際、ちょうどAPLaC で部屋探しをしていた方にご一緒させてもらって数件廻っていたので、何となく『こんな感じ』というイメージは掴めていたと思います。

 
注:1年前に細谷健太君が来ていた週に1−2日だけ下見同行している

最初の方は数見る事とザックリとシドニーの全体像を頭に描ければいいなと思いながら廻りました。

土曜日くらいにはへとへとでEastern Suburb から空港方面経由でWestern Suburb へのバスにのってシドニーを眺めたりしていました。最後はGlebe のRoom Share に決めるかどうか迷っていた時に、初日に送ったメールに返事が来て、学校を抜けてInspection へ行き、人も家もとても理想的だったので、その日のうちに即決です。

同居人はBritish の兄妹と、NZとセルビア人(Nina) 夫婦が暮らす新築のきれいな家でした。
皆同じような年頃でComposer だったり、Animator だったり Artist だったりと興味深い職業の人たちでした。仲間の一人が使っていた部屋が3ヶ月の旅行中空くので、その間だけ貸し出すという物件でした。
ArtistのNinaが Marrickville Market やGlebeのお兄さんの家へのDinnerなど、シドニーに着いて間もない私の相手をしてくれました。

この家を出てから5ヶ月目にFlatmate と再会する機会がありました。
同居当時よりも格段に彼らの言っている事が理解できている気がして、思わず " I can understand !!" と叫んでしまいました。時期を置いて渡豪初期の友人に会うのはとてもオススメです。

2軒目のシェア (またMarrickville)

後述の建築士インターンシップが始まって2週間ほど経つ頃、一件目の家の引越期限となりました。

仕事場の場所も考えて何となくまたMariickville で探し、駅の近くに素敵な家を見つけました。

Inspection の際に迎えてくれたHead Rentの女性が Gay の男の子2人と3人で暮らしている、とのこと。
家もすごく素敵だったので、Inspection の後、即決です。

一軒目は兄妹と夫婦の中で暮らしていたので、その強いつながりとはまた違う個々の中に均等に自分も住んでいる感じと、仕事から帰って来てそれぞれ部屋でゆっくりしたり、一緒にテレビを見たりそんな普通の毎日を一緒に過ごせる感じが心地良い家でした。

クリスマスには、もうすぐFarm へ旅立つ私に水筒とHat をプレゼントしてくれたのが、とても嬉しかったです。


仕事1 最初のジャパレス(Edamane Sushi)


一方、早々にMarrickville でウエイトレスの仕事が決まりました。
お店はEdamame Sushi という名前で、ボスはイタリアン専門でBackground がベトナム、セカンドシェフがKorean で寿司担当、出す料理は日本食とイタリアンのFusion という、何とも表現しにくいお店でした。

気づくと自分がそのお店での The first and only Japanese でした。

皆、和気あいあいとやっていて、ボスもウエイトレス経験のない、カタコトの英語しかしゃべれない私をちゃんとキッチンから見ていてくれて、今思うとシドニー生活の足がかりとしてはとてもいい場所だったと思います。

最初はお店の忙しい週末のみヘルプのポジションで入れてもらいました。
ウエイトレスは初チャレンジだったので、終止これでいいのかな〜と手探りな感じで仕事をしていました。

そのお店は働き始めてから3ヶ月でたたんでしまったのですが、最後の方には30席近くあるホールを一人でまわせるようになり、Eatability でのService の評判も良かったのであれでよかったんだなと思いました。途中から週に4日、5日シフトに入っていたので、自分はまるでウエイトレスの仕事をする為にシドニーに来たような気分でした。

ボスからは最後まで、もっとお客さんと会話をしなければダメだと言われ続けました。英語に対する不安もあったけれど、どちらかと言うと自分の性格がボスにそう言わせるのだと思います。

良いウエイトレスとは何かをずっと考えていた3ヶ月でした。

仕事2 機織り(Weaving)


平行してNewtown でWeaving の仕事に採用になりました。
それは、「この時代にこんな事を手作業でやってる会社があるのか!?」と少々驚きの仕事でした。

"Weave "その名の通り木製の機織機で機を織ります。
舞台カーテンの端部に付いているフリフリ(Bullion Fringe) 、テキスタイル、等いろいろな物を作るのですが、全て特注で注文を取って、それをボスが機織機にセットしてアルバイトが織っていきます。

不定期な仕事でしたが、注文が多く入る時は一日で8時間機を織っていた事もあり、普段自分は運動をしないので、私にとっては見た目よりもPhysical な仕事でした。
ほとんどは単純作業なので機を織っていると、普段思考が回らないところに思いを巡らせたりできるのが気に入って通っていました。

ボスはイギリス系のオーストラリア人で作業場の上が住まいになっていて、パートナーと暮らしています。
パートナーの彼は(Gay のカップル) Food book writer で一晩のみの晩餐会(チケットをネットで売る)を行ったり、フードツアーをコーディネイトしたり、ビルマのLonely Planet のFood 欄担当だったり、filmやテレビの中の消えものを扱ったりするそうです。

彼の晩餐会で 2度ほどウエイトレス兼 Dishwasher の仕事をもらいました。
この仕事は、なんと言っても彼の出す料理を私の分も取り分けてくれることが楽しみでした。
こんな機会でもなければ食べられないような料理をメインテーブルの進行具合を気にしながらほおばりました。
なかでもSmoked Coconut Milk と Berry のデザートが印象的でした。

このカップルにはなんだかんだ言って6ヶ月ほど世話になりました。

仕事3 建築士としてのインターン


建築の仕事をしたいと思って来たわけですが、ホントに仕事が見つかるのか不安に思っていました。
田村さんに最初の家に送っていただいた時に、「建築の仕事はさっさと片付けちゃって」と言われて、最初その意味が分かりませんでした。「きっと大丈夫見つかるから」と背中を押してもらいました。

建築の仕事というと、Drafter という事になると思うのですが、そうなるとCad Soft を操れないと仕事になりません。自分が使っていたソフト(Vectorworks)はオーストラリアでは主流ではない事が分かっていたので、主流のソフトを講習を受けに行って使えるようになる事も一時は考えていました。

就職活動をどうやってやろうかずっと考えていたのですが、学校を残すところ3週間になった所で田村さんに背中をもう一押ししてもらって、活動開始。

まずはGumtreeに自分の広告を出してみることにしました。
仕事探し等でJob のカテゴリーのところを日頃見ていた訳ですが、そこで逆求人しているAds を見て、何てLazyな就活の仕方なんだ、と常々思っていたので、まずはそこから手を出してみた訳です。

ポートフォリオ的に過去の仕事の写真と図面を一緒に載せました。
British のFlatmate に英文を直してもらい、Vectorworks Operator Available と広告を出しました。
可能性を狭めてはいけないなと思い、最後に他のCad Soft を使う必要があるなら、Internship 期間中に学ぶこともいとわない。と付け加えました。

すると、その日のうちにInternship のInterview のOffer を一件もらい、次の日に面接に行き、その次の日に来週からおいでと3ヶ月の無休インターンシップが決まりました。このAdsへのオファーはこれ一本でした。

ちょうどこの頃、扁桃腺のようなひどい風邪を引きベッドから出れない状態が2日間続きました。
時空のような次元のような見えない物を無理矢理こじ開けたしわ寄せが来たような感じがしました。


 
Lakenbaとムスリム文化
Internship はLakemba という街に事務所のあるまだ若い建築設計事務所でした。
ボスは30代後半の敬けんなムスリム。
AUS生まれでBackbround はレバノン。
Lakembaは駅前にどかんとモスクがあるMuslim色の強い街で、アラビア語を話す人たちの多い街です。聞こえて来る挨拶はHi ではなく、サラマレコンがほとんどをしめます。Marrickville に比べて若干物価も安く、よくLebanese pizza(1枚$1.3~$4.3で具がチーズのみ、オレガノのみのようなシンプルなピザ) やLebanese Restaurant($7で半分持ち帰って夕飯兼用) で昼ご飯を食べていました。事務所で窓を開けていると、通りの車から大音量で中東系の音楽が、道ばたからサラマレコンの挨拶が聞こえてきます。こちらに来て初めて、あぁ〜異国へ来たな。という感じがしました。

ボスは私にイスラム教についていろいろ教えてくれました。あまり熱く語るので、布教活動的なところもなきにしもあらずでしたが、私はイスラム教についての知識がほとんどなかったため、そういった意味でもいい機会でした。
彼は中学校でイスラム教の授業を担当していて、一度私も中学生に混じってその授業を聞かせてもらったことがありました。そこで、道徳と宗教が一緒に語られるのを見て、初めて何となくイスラム教に付いて自分の中でピンと来る部分がありました。シドニーを離れる前に一度、金曜日のPray に連れて行ってもらいました。感想としては、子供の頃に法事に連れて行かれた感じと良く似ていました。

レバノン系やアラビア語を話すクライアントが多く、会社は年間を通して仕事があるようでした。
仕事は主に1000平米前後の土地にResidential Flat Building を建てるDevelopmentでした 。中にはモスク(新築や既存建物の用途変更)やイスラム系の学校の計画もありました。

Internship は3ヶ月、基本無休で期間終了後採用検討というものでした。
電車賃は支給してもらえたのに加え、数回おこずかい程度のお金をくれる事がありました。

始めは自分のLaptop に入れていたCad Soft で1ヶ月仕事をし、ある程度図面がかける事を分かってもらった後、会社が使う Archicad というソフトを新しくLaptop を買って入れてくれました。
このソフトを使えるようになるのはなかなか困難で、それまでCad を手の延長の様に操っていたのに、思うように自分の手が動かせない感覚が想像以上に辛く、1.5ヶ月目くらいの時期に、自爆ぎみになったりしていました。

Internship 期間は、このチャンスを逃す分けに行かない、何が何でも仕事にしなければ、と事務所が6時にしまった後も家で仕事をし、Cad のInstruction のビデオを見、日曜日は法規関係の資料を読み、土曜日はWeaving の仕事をして、と心身ともにへとへとでした。
家で仕事をしているとFlatmate に仕事し過ぎだとよく怒られていました。


   
建築の実務 日豪の差
そもそも、日本の労働観念の様な物がはなはだ嫌いだったので、オーストラリアで仕事が見つかれば、毎日6時にあがって、Holiday もとれて、お給料ももらえて。。。という生活が出来るんじゃないかと思っていました。それを建築の仕事をしながら日本でやるのはなかなか難しいのです。
しかし、建築の仕事となると、こちらでも事情はさほど変わらず、Deadline に追われて遅くまで仕事をする会社も多い事を、初日に事務所のスタッフから聞き、どうやら思い描いた生活が存在しないらしいという事を知りました。

日本での仕事と何が違うかと聞かれれば、各Council (役所)が街の景観計画をきちんと立て、それを一戸一戸の建築まで適用している点だと思います。具体的には、日本の建築基準法にあたる物の下にCouncil ごとの条例(DCP, Development Control Plan)があり、その条例でSetback やHeight を決めています。Development の計画を進める際もデザインを実際にするのは建築事務所ですが、デザインの方向性についてもCouncilと相談します。数字で条例の内容を満足していても街のCharacter に会わないからと言う理由でApproval をもらえない事もあるようで
した。
一方で、Council の見解にOwner が納得しない場合はCourt に持ち込みます。一度、その為のLawyerとの打合せに同席させてもらった事がありました。City のど真ん中の高層ビルの中の会議室。各専門家を集めて勝算について話し合います。繰り広げられる議論はさっぱり分からなかったけど計画を進める過程を間近で見ることができて興味深い体験でした。

この事務所では26歳のスロバキア人の男の子がボスの右腕を担っていました。
頭も良く切れ、英語も良く出来、一見人当たりもいいのですが、少し上から目線のようなところがあります。最初は片言の英語を話す東洋人を疎ましく思っていたきらいがありましたが、最後の方には仲良く仕事をさせてもらい、仕事帰りに一緒にCooks River 沿いをWalking する仲になりました。思わぬ進歩です。
その他のスタッフは、7年くらい経験のあるAUS生まれのLebanese(素行が悪く年内に解雇)、インテリア担当Intern とPhoto Montage 担当のIntern。Background はそれぞれトルコと中国。

インターン後に給与付に昇格するのだが、、、
Internship は3ヶ月後めでたく仕事となりました。

希望としては$2,000/月位を考えていたのですが、言い渡された金額は交通費プラス家賃分だけでした。同時にFarm Job が終わったら帰って来て1年いて欲しいと言ってもらいました。(Farm Job後は$400/weekのオファー) 待望の建築の仕事でしたが、お給料のことと3ヶ月のInternship 後の疲れもあって単純に嬉しいというのとは違っていました。Farm Job 後については何も考えていなかったので、Farm後の1年のオファーを受けるかどうかすごーく迷いましたが、田村さんに話を聞いてもらいすっきりして、受けないことにした。

田村さんにもらった、「この分だとあと三ひねりくらいあるんじゃない?」という予言を頼りに。(笑)
そん頃何となくセカンド取得のためのFarm Job はタスマニアでWWOOFかなぁ〜と考えていたのですが、Farm Job 後、会社に戻らない事を決めたとき、すぐにシドニーを出たくなりました。

その後実際にシドニーを離れるまでの3ヶ月はタスマニアの事ばかりを考えていました。


エクスチェンジ

当初から、絶対にLanguage Exchange Partner を見つけると決めていました。
Sydney Uni の掲示板は見たところ同じような日本人でパンク状態だったので、他の手を考えることにしました。

まずNSWUのLanguage Labo のラウンジにAddを貼りました。
しかし、この建物では英語を学びに来る学生が大半を占めるようで可能性は低いように見えました。

ふと仕事を探していた私にFlatmate がJapanese Foundation Sydney という組織がある事を教えてくれたのを思い出しました。そこでは、日本語のクラスがあると聞いていたので、Exchange が成り立つんじゃないかと思い、Library にAds を張らせてもらいました。

すぐに5人ほどから連絡がありました。そのうちの一人がなんとSCEで昔教えていた事のある英語の先生でした。
日本語以外にも何カ国語か話す言語フリークで日本でも英語を教えていた事があるそうです。現在はmusician で生計をたてていました。

お互いに勉強するいい機会だったので、忙しい合間を縫い9月に彼がスペインに越すまでに週一のペースで会っていました。最初の一時間はカフェでノートを広げて勉強して、お腹がすいたらAPLaCのレストラン情報を頼りにいろんなレストランへ行きました。
彼とは話が合い、スペインに越した今でもたまにスカイプで話す仲です。

■まとめ


 昔ある映画を見て、ゲイの人たちと暮らすのは楽しそうだなと思ったり、
 フランスのWWOOFのドキュメンタリーを見て、私もやってみたいなぁと思ったり、
 好きな写真家がニューヨークで英語学校へ通っていた事を綴ったエッセイを読んで、私も英語学校に行きたいと思ったり、

 何となく本気に考えてなかったけど、面白そうだなと今までどこかで思っていた事が一つ一つ現実になるようでした。

建築の仕事も今はとりあえずお腹いっぱい、大学に入ってからずっとこの分野にいたので、少し離れてこれからの事を考えられるいい機会です。

目的としていた事を押し進めて行く中で、予期していなかった付随していたまわりのもの達が、とても濃密で大切な物だったように思います。

シドニー時代は旅というのとはちょっと違っていたので、ようやく旅立ちです。


2013年1月20日





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