皆さま、こんにちは。
現在京都在住、30歳、廣瀬蓮と言います。
6年という時間を経て体験談を今更出すのは大変恥ずかしいですが、「田村さんにあれほどお世話になったからには必ず体験談は書かねば気が済まない」という、身勝手な理由で書き上げた次第です。ワーホリ中に書いたものや、帰国直後に書いたもの、数年経って思い出しながら書いたもの、タイミングがバラバラです。文体も文量もマチマチで読みにくい点申し訳ございませんが、読んでいただけると嬉しいです。
【ワーホリのきっかけ】
人間的に強くなりたいと思ったからです。当時、僕が思っていた人間的に強いは、「カッコいい目的があって、目的達成のために自己管理をしっかりしながら日々努力している。プラス、趣味とか遊びもたくさんあって充実している」そんなキラキラした人を理想にしていました。
大学生の頃、授業を真面目に受けるわけでもなく、バイトしまくってお金貯めて世界を旅する!みたいな活力もなく、部活は真面目にやっていたけど、のめり込むほどアツくなく、熱中するような趣味もなく、全部中途半端で宙ぶらりんな感じでした。「もっと色々できる、自分はこんなもんじゃない」と思い、とりあえず早起きして英語の勉強しよう、筋トレしてマッチョになろう、本読んで勉強するぞ、とか色々挑戦するも全部三日坊主で終わり、その度に「自分はなんて駄目なやつや、意志が弱すぎる」と思いながら自己嫌悪に陥っていました。しばらくしたら、また新たな目標を掲げて挑戦し、三日坊主に終わって自己嫌悪、というループを大学4年間で繰り返していました。自分がめっちゃ嫌いで、どうしようもないやつだと思っていました。
何とかこの泥沼ループを断ち切りたい、逃げ道のないところに自分を置いて強くなりたいと思った時に、知り合いナシ、自分のことは全部自分でしないといけない、ついでに英語は好きだったということで海外留学という考えに至りました。そのことを両親に相談したところ、20年来のAplacエッセイファンだった母から、ワーホリなるものがあること、Aplacと田村さんの存在を教えて貰いました。強くなりたい、と思っていた自分にとって選択肢が自由で、お金が稼げるワーホリはピッタリな選択肢だと感じました。また、田村さんの
「修行のススメ ヒドイ目に合おう!」を読んで、自分が求めていたものはこれだ!と、稲妻に打たれたような衝撃、感動を覚えたことをはっきり覚えています。
ワーホリを決めたのは大学3年生ぐらいで、実際渡豪したのは大学を卒業してからでした(実際は最後の最後に2単位足りず留年。優しい教授がレポート提出で卒業を認めてくれて半年後にオーストラリアにいながら無事卒業・・)。大学卒業してからだと就活が不利になる、でも、休学すると大学の部活のラグビーを同期4人で迎える最後の1年をやり切きれないことになる。揺れる中、田村さんにメールでご相談し、すぐに長文の心打たれるお返事をいただきました。以下、抜粋して紹介させていただきます。
ラグビー部の事情をお聞きしたら、断固として4年はそちらでやるべし、と思いますよ。エージェント的にそういうのは、ビジネスを潰しているみたいなんですけど(笑)、でも、実際そうでしょう?この1年こそがそれまでの集大成であり、大団円になるのですからね。
そして、卒業後から来る人は沢山いますよ。最近ではそっちの方が多いかな。休学したらお金かかるでしょう?そんな余裕、もう皆ないですもん。馬鹿馬鹿しいし。そして、新卒は普通3年までですし、ワーホリで実際に実力アップします。ちゃんとした企業だったら、そんな形式で選びませんし、そんな形式だけで見てるような企業は、遅かれ早かれ淘汰されるでしょう。てか、まだ淘汰されてないのが不思議というか、日本のダメなところだと思います。
だから、それでダメ出しするような企業に行ってはいけないし、そういうフィルターがかかるだけ、不利というよりは、むしろ「有利」だと思ったほうがいいです。
ラグビーでいえば、とにかく試合に勝てばいいんだってもんじゃないでしょう?勝てばいいだけだったら、弱いチームを探して、そこばっかとやって、反則やら汚いことやりまくれば勝ちは増えます。でも、誰でもそうだと思うのですが、勝ち負けよりも、内容的にいいラグビーをやりたいと思うんじゃないですか?正々堂々と、しかも敵ながらほれぼれするような強いチームとガチでやって、悔いのない戦いをする、だからこそ面白いと。
それを就職なり、仕事なりにあてはめればいいと思うのですよ。自分にとって、中身がある、充実している、価値のある方向へ進んでいけばいいだけだと。その積み重ねが、あなたを磨くし、強くするし、それがひいては人間力をアップさせ、そして就活やら社会でちゃんと評価されるようになる。それが王道だとおもいますし、王道しか無いと思います。
大学卒業してから行った方が絶対良い!心の底から思いました。
ラグビー部は4回生が中心の学生主体でやっていたので、自分たちの代で公式戦に負けまくり、負傷者が多すぎて1試合棄権せざるを得なかったり、結果勝てたけど下のリーグの入れ替え戦に回ってと、ラグビー人生の中で1番辛いシーズンでした。でも、自分の中では1番真摯にラグビーに向き合えて、良い部員、同期に恵まれた楽しい1年間でした。あの時、背中を押してくれた田村さんには感謝でいっぱいです。
【シドニー編】
●一括パック編
大学を留年して自分に厳しくモードに突入中だったので、田村さんのお家まで完全に1人で行くを選択。シドニー空港に少し遅れて到着するも無事荷物もピックアップして、電車に乗って、セントラルの地下道?を抜けて、大きな空の下、バス停がある大通りに出た時「きたな〜オーストラリア」と実感。バスの乗り換えも難なくできて田村さんのお家に到着。意外とスムーズにいけたな〜と感心。田村さんの家庭的な野菜たっぷりの手作りランチをごちそうになり気が休まる・・ 明日からの流れなどをお伺いし、満足に1日を終える。
宿は近所のYHAを田村さんに予約いただき移動。同じ部屋には背中タトゥーだらけのイカついおっちゃん
いるですけど・・コワい・・ びくびく怯えつつ、なるべく物音を立てずに行動、ベッドで横になるとそんなこともすぐに忘れて熟睡(熟睡しすぎて初日から寝坊しましたすみません・・)。

(シドニー到着直後の写真。セントラルの地下道抜けたとこ?)
ここから語学学校見学やシェア・バイト探しが始まる訳ですが、その合間に田村さんに言われた、「まず死ぬな」と、「セカンドトラブルに気をつけろ」が印象的です。
「死ぬな」は、文字通り、死んだらそこで何もかも終わり、だから死ぬな。人生山あり谷あり、滅茶苦茶傷ついたり、辛い思いをしたり、どん底に叩き付けられる時がある。でも、ほぼ全てのことは時間がたてば立ち直れるもの。間違っても命だけは失ってはいけないと、静かに、強く諭していただきました。
「セカンドトラブル(二次災害)に気をつけろ」は、財布なくしたり、家の鍵なくしたり、学校遅刻したり、何かトラブっている時は焦っているもの。そんなときは大抵状況判断力が低下して、普段はやらない無茶をして余計トラブルを深刻化させたり、最悪焦って車に轢かれたりしてしまうもの。ましてや異国オーストラリアの慣れない環境、トラブルを起こした時ほどこそ大きく深呼吸して、セカンドトラブルを起こさないにね。という金言です。オーストラリアでも「あ、これセカンドトラブルに突入しかけている、いや半分突っ込んでる。でも、今修正すれば何とかなるかも」と何回も思いましたし、何なら会社員になってからの方が「セカンドトラブル」が頭をよぎる場面が多いです(笑)今なお助けられる危機管理のアドバイスです。

(一括パック2、3日目、田村さんにいただいたギリシャ料理のテイクアウトの残り。オーストラリアはいろんな国の料理を現地レベルのクオリティで食べれて幸せだった・・)
◆シェア探し
エリアごとに田村さんが予め目ぼしい物件をピックアップしてくれて、「今日はこの地域じゃんじゃん連絡してインスペクションしてね〜」と家賃、住所、最寄り駅、バスの系統などまとめられたリストと地図をいただく超VIP待遇。実技の方も、電話のシミュレーションから始まり、電話のカンペ(想定問答集もあったような)、当時主流だったショートメッセージのテンプレートつき(慣れてきたら使ってみての、「○○日の17時にそっちの方いくからできたらその時間でヨロシク」的な応用編もあり)。
もうこれさえやっておけば、というかやらない言い訳ができない状態でした(笑)。全く何言ってるか電話で分からないながらも向こうが辛抱強い優しい人で、何とかアポ取れてインスペクションもできた。でも、すぐにショートメッセージの方が楽に間違いなくアポが取れることに味を占めほとんどショートメッセージに。
最終的に、Sydenhamというところのドイツ人と日本人カップル、イタリア人カップル、フランス人のバックパッカーという国際色豊かなところに決めました。オウンルーム週195ドル、アクセスはそこそこ良くて、住み心地も良かったのですが、シェア探しはちょっと後悔しています。そこに決めた理由は、見学行ったときに対応してくれた同居人のドイツ人がめちゃくちゃフレンドリーで、国際色豊かだったという理由で、他のところを見ている間に取られるかもしれないね、という一言に「ここにします」と即決してしまいました。その後、田村さんから「もっと見ないとだめだよ」とお叱りを受け、全部で20件ぐらい見ましたが結局ここにしました。今考えると、誰かと一緒に住むといっても4ヶ月だけだし、もっと何かが起きそう場所にすれば良かったと思います。「禅」の掛け軸を飾っているサーフィン大好きなナイスガイとか、めちゃくちゃ優しいベトナムのお母さんなど、魅力的な人がたくさんいました。妥協してシェア先を選んだ訳でないけど、シェア代とか国籍とか細かいことより、もっと自分の感性、直観に従って選べば良かった・・と今になって思います。
実際のシェア生活は、一緒に晩御飯を食べたり、お酒飲みながらバーベキューしたり、思い描いていたキラキラした共同生活とは異なり、顔を合わせたら喋るぐらいのドライな生活。そのギャップにショックを受け、引っ越した初日に「今のところを出ていこうかと考えています」と田村さんに切羽詰まった相談メールをしました。結局、「欲望は時間が経ったり、環境の変化によってすぐに変わる。自分の青田買いをしてみると良いよ〜」というアドバイスで思いとどまりました。その後、バイトや学校で忙しくなり、シェア内の距離感が程良く感じるようになり、ちゃんと田村さんの予言通りとなりました(笑)。「自分の青田買い」、今でも何か決断するときは意識するようにしています。

(シェア先の写真。個室で週195ドル)
◆語学学校
「語学学校の候補は3校ぐらいあるけど、内容的にここ一択かな〜」という田村さんのアドバイス通りを1ミリも疑わず(考えず)シドニーのSCEに。インターミディエイトで始まり、クラスは、日本人韓国人イタリア人フランス人タイ人などなどアジア人がちょっと多めで、ウェイウェイした感じはないけど、週末何人かで遊びに行くことはあるような、適度な距離感で居心地の良いクラスでした。途中でインターの人数が増えすぎて、自分含めインターのクラス毎アッパーに上がることになりましたが、その時にクラス替えがあり、圧倒的にクラスの中で授業に遅れるようになりました。18歳ぐらいの若くて賢い中国人に「こんなのも分からないの〜〜仕方ないわね」という感じで教えてもらったり・・ しかも、ヘッドティーチャーをはじめ先生が何人立て続けに辞めるなど学校側がバタバタしていて、授業毎に先生が変わるなどカオスな時期でした。臨時だから明らかにやる気のない先生はいるし、そんな状況にイライラして授業にこない生徒チラホラいました。でも、そのおかげでクラスの出席者が6人ぐらいになり、遅れている自分にもたくさん発言のチャンスが回ってきて、授業に遅れず着いていけるようになりました。何事も捉え方次第だとつ1つ学んだ出来事です。
語学学校で今も交流が続いている友達はいないけど、タイ人の双子の兄弟(オーとエム)とは結構仲良くなりました。2人とも穏やかでユーモアがあり、クラスの誰からも慕われている存在でしたが、そんなに喋らなくてもこの人には完全に気が許せる、信頼できるとビビッときました。放課後にカフェに行ったり、たまにランチしたりと特別なことはなかったけど、自分が日本に帰国した翌年2人と彼女の3人で日本に遊びに来て、大阪城を見たり商店街でお好み焼きを食べました。当時、季節は夏、クッソ暑い中を難波から大阪城〜商店街とたくさん歩かせてしまい、みんな滝のように汗かいてました。当時の自分の気の利かなさが情けない・・せっかく来てくれたのにごめん・・
オーとエムみたいに言葉が少なくても自然にスッと仲良くなれる人もいれば、いくらこっちが「クールでかっこよいな!仲良くなりたい!」と思っても、向こうは自分の何かが気に入らないのか距離を縮められなかった人もいます。相手にすり寄るのではなく、自分そのままでぶつかって、駄目なら仕方ない。変に気を遣うよりもありのままでいる方が自分にとっても良いなと思える経験でした。
(語学学校の遠足でのワンシーン。緑の帽子をかぶっているのが自分で、右から2番目の後ろにいる男性が仲良くなったタイ人のエム)
◆バイト
田村さんにもらったジャパレス一覧表に電話をかけていき、2,3軒目のボンダイのラーメン屋さんにあっさりバイトが決まってラッキー!と思いきや、仕事が終わるのがどう頑張っても23時、お局的存在の日本人の店長の奥さんが幅を利かせ、めちゃくちゃ雰囲気が悪かったので2回で辞めました。
その後、マリックビルロードをバスで通ったときに、格好いい外観のジャパレスがあったので応募すると、運良く求人中だったということで採用。「Manmaru」という、ナスダンプリング、コロッケ、刺身、いなり蕎麦など、ヴィーガン向けのメニューを豊富に扱う、一般的なジャパレスとはちょっと雰囲気の違うジャパレスで、地元の人から人気のお店でした。ホールを日本人オーナーのたかこさん、キッチンが自分担当で、盛り付けや揚げ・焼き・茹でなど、キッチンは基本自分だけ、好きな音楽を流しながらマイペースで仕事ができとても快適でした。「好きなもの好きな時に食べて良いよ−!」と言われていたので、遠慮なくコロッケや餃子など、普段食べられない日本食をここぞとばかりに食べまくっていました。とても快適な環境で、満足していたのですが、時給が13ドルと安く、どんどんお金が減っていくことに耐え兼ねて2ヶ月程で辞めました。
最後に、Wynyardのジャパレス「O'uchi」でキッチンとして1ヶ月ちょっと働きました。時給19ドルとジャパレスなのにローカル並みの給料で、ご飯も一工夫あってちゃんと作っているお店でした。人気店で、特にビジネスマンの利用が多いランチタイムは目の回るような忙しさでした。
キッチンには、「ザ・日本の料理人」的なおじさんがいて、挨拶は返ってこない、「おっせぇーなぁ、まだ終わんねぇのかよ」など、全ての言動が高圧的、定期的にブチ切れてモノを投げるような人で、「まさかオーストラリアに来て日本にいないような日本人に会うとは」、と少し感動。自分は仕事が遅く、要領が悪いのでしょっちゅう怒鳴られていましたが、時給が高く、賄いのご飯が美味しく、何よりその人の職人気質、「いいものをお客さんに出す」というこだわりは格好良いなと思っていたので、ビクビクしながらも頑張っていました。その人がしばらくして辞めることになったのですが、どれだけ怒られても続けていた自分を少しは目にかけてくれたのか、最後の出勤日に普段はありつけないサーモンの刺身を振舞ってくれたのは嬉しかったです。お店のオーナーにも辞めるときに、「よく続いたなぁ」と半分呆れられながら、笑って言われました。仕事のきつさ云々よりも、上司や一緒に働く人が筋の通った良い人なら、何かと働き続けられるのだと感じました。
ちなみに、怒鳴られエピソードで印象的なのは、「仕事は見て覚えるもんだ」という職人おじさんの言葉を間に受けて、メモも取らずに臨んだ結果、全く盛付や手順を覚えられず、「何でてめぇできもしねぇのにメモすらとってねぇんだよ!!!」と怒られたことです。
◆ラグビー
シドニーは地区ごとにクラブチームがあって(6リーグ各9チーム前後)、一応幼稚園からラグビーをしてる自信と、オーストラリアのデカさへのビビりの狭間で、とりあえず4部のチームに見学にいきました。オージーらしく「グデイメイト!よくきたな、チームを紹介するぜ!こいつはな〜〜」みたいなノリで迎えられると勝手に想像していましたが、現実は監督と1言挨拶して、あとは永遠に放置でした。チームは60人ぐらいいて、終始真剣なムードで、海外の楽しく・テンションの高いイメージは儚く砕け散りました。しかも、同じグラウンド上で見ると思ったよりデカいし、早い。完全にビビった僕は、1人寂しくバスを乗り継ぎ帰りました。
50チームもあるから、ちょうど良いレベルの他のチームを1チーム1チーム探せばよかったとは今では思えますが、当時はそういった思考が働きませんでした。後に、メルボルンの吉田さんに「骨折ってもええけんやりーや!!」と尻を叩いてもらい、以前よりもレベルを下げて5部のチームに、とりあえずチームの練習を見学できないかと、メッセージを送りまくりました。何通か返信を貰った中で、最初にめちゃくちゃフレンドリーな返信をくれたチームに見学に行き、かつて夢見た通りの超ウェルカムな歓迎を受け、レベルも雰囲気もちょうど良いそのクラブに参加することになりました。
シーズンの終盤に参加したため、練習は数回、1度しか試合には出られませんでしたが、その試合でチームのMVPを貰い、MVP含む各チームベスト3で競う「ビール早飲み競争」に参加できたことは大きな思い出の1つです。今まで、「このガリガリのよう分からん日本人誰だよ」みたいな目で見ていたチームメイトも、試合後にはgood job! ダイスキデス!などたくさん声をかけてくれて、めちゃくちゃ嬉しかったです。試合は2年振りぐらいで、練習もろくにしていなかったのでビビッていましたが、何でもいいから取り敢えず飛び込んでみる、小さな勇気は大事だなと思いました。
(ラグビークラブの練習風景)
(ラグビークラブとは別に、週末にボンダイビーチでやっているビーチでのタッチラグビーにもちょこちょこ行ってました))
メルボルンオフ〜辻さんと吉田さんの家に
シドニーで一括パックを初めて1か月半経った頃、ニュージーランドで永住権を獲得されたアプラッカーの辻麻衣子さんが、同じくアプラッカーでメルボルン在住中の吉田さんのお家に遊びに行く際、航空券をダブルブッキングして「誰かご一緒にどうですか〜」との掲示板のお誘いに便乗してメルボルンへ遊びに行きました。
メルボルンの空港で待ち合わせしてお会いした時に、辻さんも佑紀さんもお会いするのが初めてだということで「初めまして〜キラキラ」みたいな対面を何となく想像していたのですが、そんなことは一切なく、辻さんは素のままの明るい辻さんで、佑紀さんは佑紀さんで「おいっす〜ようこそ」みたいな。お2人とも普段と何も変わらない感じで、自分だけ改まってへこへこしてしまい違和感を抱いていました。
吉田さんのお宅に伺った時も、圭子さん(結城さんの奥さん)はお客さんがきたというよりも宅急便がきたみたいな笑、ごくごく自然に、変に改まることなく迎えいれてくださって。その後、お酒飲んだり外に出かけたりしたときも、大学生の自分に対して常に対等に話しかけてくださりました。当たり前の人には当たり前のことかもしれないませんが、自分はありのままに振る舞えず、友達に対してでさえ相手や場面で自分を使い分けてしまうことが多々あります。いいやつぶっているのか、周りに嫌われまいとしているのか、自分に自信がないからなのか。たぶん全部だと思いますが、そんな風に偽っても見る人が見たらすぐに分かることなのに・・・だから、皆さんが凄く眩しくて羨ましかったです。
何でそこまで自分と違うのか、経験が違うからだと皆さんのお話を伺っていてはっきり分かりました。反対に色々失敗して、頑張って生きていけば、皆さんのような空気感を纏えるはずや!と、思いっきり行動しようという使命感にかられていました。何事もトライして、失敗して、たくさん考えて、いろんな人に会って、経験を積んで、自分がいいと思えるよ人生を生きたいと決心したオフでした。
(屋台で販売するための綿菓子づくり中)
(ベトナムの街、スプリングベールで調達したカオマンガイと何か。未だにこのカオマンガイを超えるものにありつけません)
【ラウンド編】
◆アデレード
4か月の語学学校を終えて、いざラウンドへ!こじんまりして、程よく田舎な感じがいいと思ったアデレードを最初の目的地に。デレード空港につき、空港からバスで市街地に降り立った時、シドニーに比べて街が小さく、人が少ないことに一気に心細くなりました。
天気はどんより曇り、街に活気が感じられず(不安な自分には当時そう見えた)、「よっしゃラウンド頑張るぞー!」という気合は、一瞬にしてしぼみました。
とりあえず、まいこさんに教えてもらった「インフォメーションセンターに行こう」の通りセンターへ。3~4種類バッパーの候補親切に教えてもらい、オススメ通りアデレード市内のYCAに宿泊することに。Glebeよりも圧倒的に安くて施設も綺麗で広い、しかも朝ごはんまで出る!
けど、不安な気持ちが圧倒的で、ヨーロッパのバックパッカーがいっぱいいる中で終始緊張。シドニーで養った4か月間は何だったんだ・・と結構しょぼんでました。特に1日何かするわけでもなく、もう寝るかぁと、とぼとぼ部屋に帰ると、廊下で鍵を無くして困っている、セルヒオ・ラモス似のカッコイイスペイン人、デイヴィットがいました。ちょっとどうしようか迷って、「空いているベットがあるから、とりあえずそこで寝る?」と声をかけると、「おおーサンキュー。お前は真っ暗な絶望の中、光を照らしてくれた救世主だー」とかなんとか、めちゃくちゃ感謝されながら一緒の部屋で寝ました。
自分の拙い英語に関わらず(彼はイングランドの大学に行っていたのでネイティブ)いつも話しかけてくれたり、「こいつはオレが暗闇で絶望しているところに光の手を差し伸べて助けてくれたクールなやつなんだ」と、他の友達に紹介してくれたり、街に連れ出してくれたりとっても良くしてくれました。それがきっかけでYHAで友達ができ、セントラルマーケット、南オーストラリア州立美術館と博物館、バスで1時間程南下したところにあるドイツ村(革専門のお店や、ソーセージ、チーズ、パイ、ジェラートなどのお店、めちゃくちゃ美味しいお洒落なドイツ調のカフェがあってオススメ)に行ったり、近くの川を散歩したり、結構楽しく過ごしていました。正直、デヴィッドと会っていなかったら、そのまま気持ちがしょぼみ切って、シドニーに帰ろうとしていたかもしれません。
(アデレードYHA正図)
◆WWOOF
仲良くなったデイヴィッド含め、友達がどんどんYHAから出ていくようになり、自分のお金も凄いスピードで減っていく。これは、いかん!と思いつつ、仕事探しには本腰を入れられず、、そんな中途半端な気持ちで、とりあえずWWOOFをすることに。
アデレードのあるSA州内で探して、市内から北へ車で3時間程かけていったところにあるWirrabaraというところの、周囲を牧場、農地、木々に囲まれた世俗から離れた、ハイジ的素敵な家でオージーの老夫婦のところへ一軒目のWWOOFとして行きました。
仕事内容は、土起こし・草刈り・水やりなどの畑仕事全般、飼っているヤギや馬のエサやりなどでした。初めの頃は、ホストのおばあちゃんが作る調味料を極力使わない、自然で優しいご飯を食べて、大自然に囲まれた中でしっかり肉体労働して、規則正しい生活していることに充実感を感じていましたが、一週間も経つと、だんだん飽きてくるように。本当に森の中にあるので、1週間でホスト以外と会うことがほとんどなく、ホスト以外としゃべることもほとんどなかったので、流石に刺激が欲しくなりました。移動することをホストに相談してみると、近所のWWOOFホストに紹介できるとのことだったので、繋いでもらって車で送り届けてもらいました。
(バルコニーから見た庭の景色)
(飼っている馬と犬の散歩。森というか野原の中を歩く)
◆WWOOF 2軒目
1軒目ホストの知り合いで、ClareというSA州の中では中規模の町から車で1時間ぐらい走ったとこにある、壮大な畑の中にポツンとある老夫婦のホストにお世話になることに。
主な仕事は、飼っているアルパカ、ダチョウみたいな鳥たちのお世話、フェンシングなどの作業でした。
そこは、キャンピングカーで全国を回る人達向けに電力供給とちょっとしたお手伝いのエクスチェンジを実施していて、外部の人と交流できることが楽しかったです。
(フェンスをつくる作業中の絵)
(ホストハウス外観)
(ホストハウスの家の周囲)
ただ、ホストのおじさんとは反りが合わず、、指示を聞き間違えてミスをしたりすると、自分の英語力のなさをなじってきたり、「スコップはこう持って、こういう姿勢で穴をほれ!」など、指示がいちいち細かく、結構ストレスでした。
そして、本当にこれは耐えられないと思ったのは、おかわりしても満腹の半分にも満たないご飯の量。お腹が満たされず、自由が利かない環境でじわじわ締め付けられていくような感覚に我慢がならず、1週間ほどで出て行くことを決意。おっちゃんは「今、出て行っても1週間しか働いていないおまえには何の技術もないぞ。しかも、英語はできない。誰がそんなやつに金を払うんだ。せめて1ヶ月はここで働いて技術を身につけてから行け」と言われた。まあ、一理あるなぁと思いながら、技術と言ってもここの動物たちの世話がメインで、単に労働力が減るのが都合悪いんやなぁと思った。「もし仕事をゲットしたら連絡してくれーハッハッハ」という捨て台詞とともにお別れ。
「ちょっとアデレードは遠いから、近くにある割と大きな街に降ろすわね」と降ろされた街は、当然全く知らない街。しかも雨が降り始める。これからどうなるんだとめちゃくちゃドキドキ不安だったが、「よっしゃ〜〜自由になった!このドキドキワーホリっぽいぞ」と、開放感の方が強かった。
ここでも、NZの辻まいこさんのアドバイス=「とりあえずインフォメーションセンターに行け」に従って、インフォメーションセンターを目指すことに。道行く優しそうな人に尋ねると「この道を1.5kmぐらい行ったとこかな」と。15kgのバックパックを背負って、割と強めの雨に打たれながら、他に歩く人がいないような長〜い車道をビュンビュン車に抜かされながら歩いた。
「誰か車乗せてくれーオージーの優しさ見せてくれー」と念じたものの通じず。本当にこの先にセンターがあるのか、若干不安になりながら歩いていると、突然それは現れた。冷えきった身体をラテで温め、センターの人に空いている安めの宿をとってもらい、次の日のアデレード行きのバスの時間と出発地を教えてもらう。まいこさんの言う通り、インフォメーションセンターなんて良いとこなんや、と感動しながら元来た道を引き返して宿へ。その日は溜まりに溜まった食欲を解放して、ピザのテイクアウトにtimtamとポテチの暴飲暴食。お腹いっぱいになって泥のように眠りました。
◆ワインの旅
<仕事にありつくまで>
WWOOFを始める前、漠然で農業関係で働きたいと思っていたので、ファーマーズマーケットに行って仕事がないか聞いて回りました。「ここはそういう場所じゃない」的なことを言われて嫌な顔をされたお店もありましたが、だいたいのお店は「今は人手が足りているから、また今度連絡してみて!」と名刺を貰うことが多かった。中には「あそこのお店は今募集していたんじゃないかしら」と紹介してくれたり、頑張ってねー!と応援してくれる人(オーストラリアはしょっちゅう応援してくれる)もいて、結局、その場でゲットとはいかなかったが、貰った名刺を大事に持って帰って、バッパーで満足げに眺めたりしていた。
WWOOFからアデレードに舞い戻り、いよいよ仕事探し!これからが勝負やとアデレードでお気に入りの川沿いの芝生に陣取り、お気に入りのチョコレートをつまみながらどう始めようか考える。チョコレートばっかり食べて進まない、いや、もうチョコなくなってまう、いかん、まずはファーマーズーマーケットで聞いて周ってゲットした連絡先に電話しようと。うっすら印象に残っている感じの良かったファームから順番に電話する。
1軒目は応答なし。
2軒目で感じの良い女性が出る。ネットで調べた「仕事探しの電話で使うテンプレートカンペを読むものの、しどろもどろで伝わらず。あきらめて「仕事ありませんか?!」とストレートに聞くと、「絶賛夫が探していたわよ!夫のこの番号にかけてみてー!」とのこと。おおお〜yeahリアリーサンキュー!!と速攻番号を聞いて電話すると、まためっちゃ感じの良い人が「イエイエーウェルカムだよ!もし良かったら今晩うちのキャビンに泊まってもらって、明日の朝から働いてくれ」と。オーリアリーサンキューソーマッチサンキュー!アムリアリーアプリシエイトォォ!!!貧しいボキャブラリーを総動員して心から感謝を伝えた。
更に話を聞くと、「明後日にはドライブダウントゥNSWブラブラ…(たぶん地名)VICブラブラ…エンゼンWAイエー!!」と言っている。ドライブ?車で州を周る?ドライブって他の意味があるんかな、ていうかレジュメとか面接なしでいきなり始めるのはどうなんや・・と思ったり。「近くの駅まで来たらマイワイフが迎いに行くから!」と言われたものの本当に来てくれるのかずっと不安だった。
しかし、集合場所や時間をSMSでやり取りしているうちに、これはマジだと思うように。仕事ゲットした!!!英語が理解できない度に、「そんなのじゃ誰も雇ってくれないぞ」「もし、おれとお前の間に賃金が発生するなら、お前はここにいない」「別れ際に仕事ゲットしたら連絡してくれーハハハ」とか散々言ってきたWWOOFのホストに「I got a fucking joooooob」って言ってやりたい。あっさり見つかって若干拍子抜け感もあったけど、とりあえず仕事が決まったこの瞬間が本当に嬉しくて、嬉しくて。見慣れたアデレードの街の景色もパッと明るくなったような。これがラウンドか〜〜。
WWOOF先で出会った夫婦に「経験や英語力がないと、サウスは人口も少ないし仕事を見つけるのは難しいわ」とさんざん言われた。アドバイスに悪気なんてなく、本心でそう言ってくれてたと思う。でも、ローカルの人でも知らないことは山ほどあるし、なにより世間でよく言われる常識とか、正解があてにならないことがあることが分かった。いくらでもその人にあったやり方や抜け道があると思うし、縛られないように気をつけたい(とか言いながら、帰国後の就活でがんじがらめになった自分が恥ずかしい)。
予定より少し遅れて、奥さんが車で迎えに来てくれた!喋った感じめっちゃいい人で、後部座席に座る3人娘が超可愛い。自分も将来子どもが3人欲しいと思った。車で家に着いた時に、仕事終わりらしきボスが出迎えたくれた。笑顔で手を振る姿を見ていい人や!と確信。イエイエ〜〜 good on you mate(よくやったな!みたいな意味)が口癖の、絵に描いたようなイージーgoingな人。実際、「もし明日働いてハッピーだったら続けて働いてくれたらいいし、嫌だったら辞めても全然alright no worriesだぜ」と、軽すぎて感動。しかし、NSW、VIC、WAの各地を車で周るのは本当らしく、旅の間はキャンプ場にスワッグ(1人用テント)で寝泊まりするらしい。これはなんかスゴいことなのでは!ボスもいい人そうだし絶対続けると誓う。graftingがなんなんのかもよく分からないまま、とりあえずぶどうの木にテープをぐるぐる巻きつけるのが自分の仕事なのか、と分かったところでその日はキャビンで就寝。
次の日、5時半発の6時に仕事がスタート。ボスと、バラエティーのコメンテターみたいに抑揚つけて喋るイングランド出身のトム19歳と自分の3人チーム。別のエリアでは4人のアボリジニのチームが仕事をしているらしい。
ボスがぶどうの木の側面二面にレの字に切り込みを入れ、ぶどうの枝から専用のハサミを使って切り出した芽をぴったり差し込むgrafting。それを芽だけが露出するように専用のテープで隙間なくぴったりグルグル巻いて固定するtaping。これがトムと自分の仕事。
(ぶどうの枝)
(枝から専用のはさみで芽の部分だけを切り出しところ)

(ぶどうの幹に切り込みを入れて芽を挿し、テーピングで固定した図)
簡単と思っていたtapingは意外と難しい。巻いたテープに隙間があると芽が空気に触れ、乾燥して死んでしまう。しかし芽をテープで覆いすぎると芽から新しく枝が伸びない。隙間なく、かつ芽はしっかり露出というのがなかなか。しかも、ボスがgraftingしていった木を追いかける形でtapingしていくから、遅いとあっという間にボスが遠く彼方に行ってしまう(遅れ始めるとボスにpushing up!と言われる。最初、遅いから罰として腕立てかと思った)。しかも、だいたい15秒で1本の木のグラフティングをするから、勿論その日の天候や木の種類(樹齢の高いものは木が太く、表面がゴツゴツしているから作業が大変に)、あらかじめvineyardの(ぶどう畑)マネージャーがどれだけ準備してくれるかによるけれど(木の周りに雑草が茂っていたり、木を腰の高さ程でカットしていないと作業が超大変に(腰を曲げて木の上に覆い被さるような形がベストなポジションだから)、だいたい1日1000本ぐらいgraftingする=tapingしないといけない。
仕事は1日平均9時間ぐらいで、2ヶ月に休みは2日だけ。キツい。特に曲げ伸ばしを繰り返すから腰がバカに痛い。ヒドイ時は座っているだけで痺れて痛くなるほどに。
(旅の寝床スワッグ。最初ここに2か月暮らすと聞いて動揺したが、中にしっかりしたマットレスが引かれていて結構快適。)
幸い?tapingのやり方をある程度覚えた後、NSW&VICの東の旅が終わるまでの3週間はdevarkingという、ボスが木に切り込みを入れやすくするためにナイフで木の皮を捲る仕事になったので、耐えられない程じゃなかった、というかテーピングに比べて超楽だった。devarkingが一通り済んだ後に、トムがボスに追い付けるようにtapingを手伝うことはしょっちゅうで、これじゃdevarkerかtaperか分かんねーよ!と少し毒づいていた。
テープ巻きのトムはアスペルガーだった。コミュニティケーションがちょっと取りにくいと感じたり、気分の浮き沈みが激しいなとは思っていた。その気分の浮き沈みが仕事のモチベーション・アウトプットにダイレクトに現れるから、ボスや自分は結構困っていた。トムは、真面目にやればボスの接ぎ木のスピードについていけるけど、テンションが低い時はやる気がないことを隠そうともしない。その分、自分がテープ巻きを手伝わないといけないから、ちくしょーとか思うものの、性格的に仕方ないんかなと思い、自分の中で処理しきれずにもやもやしていた。トムはあんまり運動は得意じゃないようで、旅が進むにつれて体力が削られるからやる気のなさが顕著に表れることが増えていた。こっちは1日仕事が終わったときにはぐったりなのに、トムは終わった瞬間、子どもみたいにはしゃぎだすから、そんな元気あるならもっと真面目に仕事せえよと思うことも多かった。
ボスも、手を変え品を変え、根気よく励ましたり、時には厳しく自分の仕事の責任説いたり、何とかしようと頑張っていたけど、あまり響いていないようだった。なかなかイライラして、トムに冷たい態度を取ったこともあったし、そんなやる気のないテープの手伝いしたくねぇと、木の皮をめくるスピードを緩めたときもあった。でも、性格的に仕方ないかなぁの繰り返しで、木の皮はいだりやテープ巻きながら色々考えた。個性の種類や強弱は人によってそれぞれ、その個性が自分の許容量を超えたときに違和感や戸惑いをおぼえて、そういう部分をただ障害と言っているだけ。本質はみんな一緒で、要は個性の強弱が違うだけだと思った。実際、私生活でトムはめちゃくちゃ優しい場面もあって良い奴だった。そう思うと、気持ちが楽になって、あれこれ考えずに仕事を頑張ろうと思えて、多少トムの浮き沈みにも耐えられるようになったと。

(広大なワイン畑)
ただ、トムが東の旅が終わって一旦SAに帰ってきたときに辞めてしまったので、1ヶ月の西の旅では正真正銘fulltime-taperだった。普段からtapingしてたから何となく1日テーピングをやり続けるタフさは想像できて、ヤバそうやなぁと思っていたがでも実際は更にキツく。本当にキツかった。
このtaper期間に広大なぶどう畑の中で発狂してぶどうの木蹴ったり、遠のくボスや同僚を目の端に捉えつつ、テープ巻きながら涙が溢れ落ちること2度、半泣き多々。ただ、この涙は肉体的な疲労ではなく、メンタルが原因だったような。肉体的に疲れたからメンタルが乱れ、とてもお世話になっているボスを恨めしく思ったり、あらぬ事を考える程に病み、色んな想いが湧き上がり、結果、涙。みたいな。何か大袈裟な感じするけど、とりあえず疲れてる時ってメンタル乱れやすくて、ほんとにとんでもないこと考えてもうたりするから気を付けようと思った。うえ、tapingやべぇよ。トム、はよせえ!!!とか思ってごめん。もっと親身に助けに行くべきやった。
一応、自分の名誉のために言うと、東の旅の途中から合流した別チームのアレックスも2回泣いたらしい(オージー大学生25歳、grafting5年目でブラジリアン柔術歴7年のナイスガイ。「He is the Australian cage-fighter champion」※ボスのアレックス紹介の鉄板。自分は「Japanese hurricane」。作業が早くて周りにプレッシャーを与えるから。実際、全然そんなことないから言われる度にメッチャ恥ずかしい)。

(雨を全身に浴びるナイスガイ アレックス)
トムの替わりに、ロッキーというザ・オージーなハイテンションガイが合流しました。ボスの友達のいとこ?的な対場だったと思います。英語が完璧に分からない自分でも面白いと感じるぐらいのギャグを連発し、気さくにたくさん話しかけてくれるナイスなガイでした。
西からテープがメインの仕事になり、仕事の進捗によりダイレクトに影響を与えるポジションに。しかも、ボスに追いつけず、ロッキーに手伝ってもらうことが多かった。旅の時間が経つにつれて疲労も溜まっていき、はじめは仲良く気さくに話していたロッキーと距離を感じるように。ある日、「あいつの仕事が遅いから自分に負担がくる」とコンプレインしているのが聞こえる。事実ではあるけど、めっちゃ頑張っていたのに、悲しかった。ただ、ちょいちょいロッキーにも仕事の手を抜くところが見られ、「お前に言われたくねぇよ!」と思うところもあり、ちょっとモヤモヤした気持ちもありました。そうこうするうちに、ワインの仕事が明日で終わる日、畑から帰りの車のなかでボスが「履歴書におれの名前と電話番号を書いていいぜ。いつも100%で仕事してくれていたからな」と言われたときにはもう、嬉しくて、嬉しくて、泣けました。どこでも、頑張りを見てくれる人がいるんだなぁとしみじみ思いました。
(いつかの移動日の朝。食事は基本キャンプ場で各々自炊だったけど、行程に余裕があるときはカフェに寄ってモーニングしたり、レストランに外食することも。)
(キャンプ場で仕事終わりにくつろぐ図。車に座っているのはガークルという大学生。フィジークが趣味ということでグラフティングの旅は初参戦でもめっちゃタフだった)

(ボスのマークとの別れ際のツーショット)
◆オーガニック野菜畑
ワインの仕事が終わった後、将来ちょっとやってみたいと思っていた、農園直営レストランに絞って、メールで履歴書を送りまくった。ワインの経歴を書いてアップデートした履歴書だったので、30件近く送って5件ぐらい返事を貰った。「今は人手が足りていて雇えないけど、凄く良い経験をしているね!きっと雇ってくれる人がいるはずだから、keep going頑張って」と励ましてくれたり、実際に来てくれと言ってくれるところもあった。夢にも見なかった、こちらが仕事を選べる状態に、、グラフティングの経験はネイティブから見ても強烈なんやなぁ。どういう形であれ、自分が頑張った経験で道が開くことが嬉しかったし、わくわくした。最終的に、facebookで見つけた*farm to tableのハブのような小さなレストランで仕事をゲット。(*レストランの持つ畑で収穫した野菜をレストランで提供するところ)。オーナーの息子が、ラガーマンで日本に観光業を学ぶために留学中というラッキーもあり、採用してもらえた。
オーナー夫婦は40代ぐらいのオージー、2人共親の世代から続くワインの農家で、近くにvineyardも持っているらしい。レストランで働くイングランド人、オージーが3人、自分はメインがファームで主に働き、忙しい時はバルの皿洗いのようなポジション。オージーのうちの一人と、イングランド人の3人でスタッフハウス(普通の一軒家で4LDK)に住ませてもらった。ただ、オージーは数日内にチリに旅に行き、イングランド人は母国に帰るとかで、だだっ広い家に一人になることに。
ファームのボス、ジャレッドは60歳ぐらいのオージーで、クリントイーストウッド似のダンディでめっちゃイイ人。流暢に会話ができなくても、15分ぐらい喋ったぐらいで「この人は信頼できる!」と、ばっちり感じた。初めて会って喋った15分で、お互いの夢の話までして(その頃の自分の夢は、ファームtoテーブルのレストランがある宿を営むこと)、最初からこんな打ち解けられることもあるのかと振り返ってびっくりしました。ジャレッドは農作業を通して土を触ることに絶大な意義を見出していて、お金に執着して働き過ぎのシティの人たちはみんな農業をするべきだ!と盛んに言っていました。ちょっと極端かなと思いながら(笑)でも、農作業をしていると確かに心が落ち着きます。一種の瞑想?状態みたいに穏やかになれるのです。実際、農作業しながら考え事をしているとアイデアがまとまったり、「あれはそういう意味があったのか!」など、自然と気づきが湧いたりします。
ファームは農薬・肥料を使わず、自然農業でトマト・なす・ズッキーニ・とうもろこし・バシル・ルバーブなど20種類ぐらいの色んな野菜を作っていました。草抜き、土耕し、収穫、水やり、など基本的な農作業の他に、ニワトリ小屋つくり、ファームレストランの駐車場の石積みなんかもやりました。ボスのジャレッド、自分とほぼ同じタイミングでやってきたフランスの星付きレストランで働いていた20代のフレンチシェフカップル(片方がファーム、片方がレストラン)、自分の3人で月~金9:00−16:30ぐらいまでゆるりと働いていました。ミシュランレストランの激務をこなしてきたフレンチカップル(16時間勤務や徹夜が日常茶飯事)、めちゃくちゃ働きものでタフでした。その2人でさえ日本人はクレイジーなマシーンと言っていましたが笑
良い同僚・環境で気持ち良く働いていましたが、日本での就活に合わせて帰国することに。1月から2月下旬までの約2ヶ月弱と短い期間ですが、ボスのジャレットとは親友になって、少しだけ畑の広げ方なんかも見ることができて良い経験になったなぁと感じます。

(野菜畑)
(収穫した野菜。野菜は全て無農薬、肥料もレストランの食べ残しなどからなるコンポストだけで自然農法を実践していた)

(畑のボス、ジャレッドとの別れ際のツーショット)
◆帰国後〜今まで
帰国後は周りの大学4年生と一緒に「既卒新卒生」として就活しました。エントリーシート書いて、合同説明会に出て、と一般的な就活でした。ワーホリ中か帰国前に、これまた田村さんからアドバイスいただいた「取り敢えず営業してみればいいんじゃない。色んな人に会って、話するだけでも勉強になるのでは」の言葉に何の疑問もなく(だいぶ前で理由が曖昧ですが、営業をオススメいただいたのは確か)。
営業職で、かつ漠然と海外に携わる仕事がしたいとの想いから総合商社と、食が大好きだったので食品メーカーを中心に見ていた。結果的に、大学の友達が入社していて、働きやすくていい会社!と言っていたカゴメに入社。メーカーの中でも原料や安心にこだわり、自信を持って勧められる商品が多いと思って強く入社を希望していた会社だったので嬉しかったです。希望する会社に入れてよかったですが、内定が貰えるまでの当時は、「完全に枠にはまっていた」状態で、エントリーシートや面接の結果に一喜一憂して、ワーホリ帰りの大胆さやエネルギッシュな感じはなく、情けなかったなと感じます・・
現在もカゴメの営業職として働いていて、初期配属となった埼玉県さいたま市で4年、ホテルや外食店にモノを納める業務用卸への営業を担当し、24年4月から量販店向けに自社で調達してカゴメブランドとして販売する生トマトの営業担当として働いています。
◆ワーホリで得たものがどう生かされているか、どう生かされていないか
ワーホリで得たものは計り知れなく、現在の生き方にも影響していると思います。ワーホリに行った直後で自分自身が大きく変わったということはなかったかもしれませんが、ワーホリで感じたことや学んだことがその後の選択や生き方に大きな影響を与えていて、行く前とは全く違う自分になっている気がします。具体的に今に生かされている教訓や学んだことは、
・色んな人の生き方を見たことで、違いに寛容になれたこと。今までの経歴に関係なく、同じクラス、出身大学などの括りもなく、その場の自分が見られる状態。仲良くなりたいと思ったけどなれなかった人、自然と仲良くなった人がいて、自分と気が合う人、合わない人が必ずいると思いました。じゃあ、無理に人に合わせる必要はなく、気が合う人と仲良くすればいいから、自分はありたいように振舞えば良いと思うようになりました。
・自分のことがよく理解できるようになったこと。ワインや畑作業など、自分と向き合う時間が多くあったことで、自分が今どういう状態にあるのか、見極ようとする習慣が身に付きました。そのおかげで、何となく最近心の中で悪態つくことが多くなり、荒んでいるなと思った時に、この荒みは何が原因なのか考えるようになり、その原因=ストレスのもとを軽減する、という思考ができるようになり。ストレスが大きくなる前に早めに対処できるようになりました。また、過去のことを振り返り、こういう学びがあった、あそこはこうするべきだったかなとよく考えるようになりました。
また、その振り返りで、自分はコツコツ努力するのが性に合っていることを確信しました。どんくさいし、要領は悪いですが、地道な作業や行程をコツコツ重ねて、信頼を得ることはできるとワインや畑作業を経て感じました。学生の頃にやっていたラグビーや日本のバイトで薄々感じていたことがではありますが、異国の地で実感したことが確信に繋がりました。
・自分を常に良い状態に保つことが大事であること。オーストラリアでたくさんの人のいろんな優しさを受けて、自分も優しくありたい、受けた優しさを返したいという気持ちになりました。ただ、人にやさしくするためには自分が心身ともに疲れていない、良い状態でないと他人を思い遣れる余裕がないと感じました。まして、自分は人とコミュニケーションをとることに結構体力を使う(疲れていると話す元気がなくなる)ので、大事な人と会った時に良い自分でいられるように、なるべくよく寝て・食べて、健康に過ごすことで常に自分が良い状態を保てるよう意識するようになりました。
ワーホリで得て生かされていないことは「ない」と思います。失敗も本当に多かったですが、良いことも悪いことも全部糧になっていると思います(思いたいです)。誰か言っていたかもしれませんが、ワーホリの思い出は「心の中の宝箱」のようなもので、いつ思い返しても「良かったな〜楽しかったな〜」としみじみした想いになる、かけがえのないものになりました。 終わりです。