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今週の1枚(09.10.19)





ESSAY 433 : 世界史から現代社会へ(85) 韓国・朝鮮(2) 高麗〜李氏朝鮮


 

 写真は、Neutral Bayの街角にて。これはもうグラフィーティ(graffiti=落書き)というよりは、mural(壁画)ですよね。よく見てみると、内容はこのエリアの歴史ですね。上部に書かれている”Cammeraygal(キャムレイガル)"というのは、このあたり(Lower North Shore)の住んでいたアボリジニの部族の名前です。ここから、キャムレイ(Cammeray)というサバーブの名前がつけられ、また毎年Cammeraygal Festivalが行われています。



 前回(No 431) に引き続いて、韓国・朝鮮シリーズの第二回目です。

 前回は、韓国の古代=三国時代(高句麗、新羅、任那)からはじめました。三国のうちの新羅が中国(唐)と組むことで、他の二国(百済、高句麗)を滅ぼして半島を平定し、統一新羅という国を作ります。しかし、今度は連合国の新羅と唐の関係が悪化し、冷戦状態になったところ、両国の中間地帯に渤海という新たな強国が出現します。以後北は渤海、南は新羅という時代が続きますが、どちらも徐々に国内秩序がヘタレてきます。新羅の場合は、国内の諸豪族が反乱し、旧百済、旧高麗がそれぞれ後百済、後高句麗を名乗り、後三国時代と呼ばれる戦乱の時代になります。一方渤海も、背後で支持してくれていた唐がガタガタになったことから足腰が弱まり、同じ満州系の契丹という国に滅ぼされてしまいます。ここまでが前回の歴史。

 今回はその続きです。

高麗 (918年 - 1392年)

 後三国時代(新羅、後高句麗、後百済)の三つ巴え戦国時代の朝鮮半島を統一したのが後高句麗です。後高句麗の将軍・王健がクーデターを起こして国主となり、後百済、新羅を平定して半島統一を成し遂げます(936年)

 また、高麗は、契丹(遼)に滅ぼされた渤海遺民を受け入れ、領土も渤海の一部を接収し、現在の南北朝鮮とほぼニアリーの領土になります(北朝鮮東部は取れてないけど)。朝鮮が朝鮮として一国になるのは、この高麗からでしょう。統一したのち国名を高麗といいます。高句麗から「句」の字が抜けただけですね。といっても、もともと「高麗」というのは、後高句麗の名前だったのですが、ややこしいので日本では「高句麗→高麗」と分けており、中国では「高麗→王氏高麗」と呼び分けているそうです。英語名のKOREAの語源になったのもこの高麗です。


 高麗建国の頃の日本はどうなっていたかというと、醍醐天皇の時代で、まったりした平安文化に浸かっています。西暦930年頃というのは、夢枕獏氏の「陰陽師」に出てくる安倍晴明や源博雅が生まれた頃ですね。ヨーロッパでも思いっきり中世のまっただ中にいます。お隣の中国では五代十国という戦国時代が徐々に宋によって統一されていく時期にあたります。

 高麗は1392年までの約450年間も続く大王朝です。
 陶器で有名な高麗青磁を生み出したように文化や学問が栄え、また女性の地位もかなり高く、良い時代だったようですね。いわば朝鮮における平安時代のような感じでしょうか。ただ、日本の平安時代は藤原荘園経済システムの疲弊と武士階級の勃興という国内的要素で自壊し、次の時代に進んでいきますが、半島国家である朝鮮のツライところは、常に常に北方の侵略に苛まれていたことです。

 ちょっと前にも書きましたが、このエリアの歴史というのは朝鮮VS中国の二極ゲームではなく、その中間にある満州系の国との3極ゲームとして理解した方がわかりやすいと思います。

 「満州」というと、第二次大戦の頃に日本が作った傀儡国家「満州国」を思い出しますが、”満州”というのは日本人の造語ではなく、もともとの地名です。位置的には現在の中国東北部と北朝鮮の北方とロシア領を含むあたりですが、このあたりの住んでいる人達を総じて満州族といい(古くは女真、オロチョン族、ウィルタ族など)、その言語でManju(マンジュ)と読んでいた地域名を、中国人が漢字で「満州」と当て字をし、それが日本に伝わっています。ちなみに英語に伝わった場合は、”Manchuria(マンチュリア)”といいます。

 余談ですが、その昔、坂本龍一が甘粕大尉役で出ていた映画「ラスト・エンペラー」の英語ヴァージョンでも”マンチュリア”って言ってましたね。しかし、あれはいい映画でしたねー。特にラストが印象的で、思いが胸に迫ってしばらく口がきけず、ホケ〜っとします。坂本龍一の雄渾&哀切な音楽がまた良くて、気持ちいいウルウル状態にしてくれます。あの人のメロディワークは天才的ですね。戦メリもそうだけど、映画のときにちょっと聞いただけだというのに、20年以上経っても瞬時にそのメロディを思い出せるという凄いです。一回聞いたら一生忘れないくらいメロディの力が強い。


 さて、この満州族ですが、民族的には、モンゴル→満州→朝鮮→日本というツングース系民族の流れがあり、言語的にはウラル・アルタイ語族系です。まあ、このあたりは例によって諸説入り乱れているのですが、モンゴルから日本にかけてというのは、比較的民族的にも言語的にも近しい存在と言えるでしょう。中国(漢民族)とはハッキリと異なるグループだと言っていい。それは、韓国語と日本語の多くの共通点=文法もSOV系だし、発音も大まかに近く、同じような単語が多いことからも何となく頷けます。中国語の文法がSVO系でむしろ英語に近い。また言語サウンド的にも、中国語の発音は四声があったり、母子音のバリエーションのずっと多かったりなど日韓語とはハッキリ異なります。ところが文化的には中国文化が周辺に浸透しているので、そのへんがゴチャマゼになってわかりにくいのですけど。

 この満州エリアに古来多くの国家が出来ていますが、高麗はこの北方の動きに常に翻弄されることになります。ここで中国に思いっきり巨大な帝国が出来て満州エリアもガッチリ支配してくれたら、高麗としては楽です。中国とだけつきあっていればいいからです。しかしこの時期、乱世(五代十国時代)を統一した覇者であるべきという国は、残念ながらそこまで強くはなく、満州エリアまでは征服できませんでした。だから、満州エリアは満州人の国、契丹が仕切ります。契丹という国は、途中でと改名し、さらに契丹に戻しています。ややこしいことしないで欲しいのですが、契丹=遼です。

 この契丹(遼)が高麗にとってはうるさい。高麗建国の頃から何度も何度もしつこく攻めてきます。高麗は、撃退したり、友好関係を結んだり、和戦両様のかまえで凌ぎますが、鬱陶しいことこの上ないでしょう。

 しかし、この契丹が西の方でウィグル相手に遠征しているスキに別の部族である女真族が台頭し、契丹を滅ぼしてしまいます(1125年)。女真族というのは一時期日本にも攻めてきてます(刀伊の入寇、1019)。契丹を滅ぼした女真族はという国を打ち立てます。金は、高麗方面ではなく中国方面に攻め入るのに夢中だったので、高麗は金に朝献をしつつ比較的安定期を迎えます。


 このまま推移してくれたら高麗も良かったのでしょうが、ここで世界史上の一大暴風雨が登場します。チンギス・ハンのモンゴル帝国。この世界史シリーズでも何度か書いてますが、人類史上文句なく、ケタ外れに最強でしょう。

 右の図は、世界に冠たるモンゴル帝国グループ図ですが、もう地図の縮尺が違いますよね。中央アジアはおろか、中近東、東欧、ロシア、中国まで攻略しています。

 征服されなかったのは、日本とヨーロッパの西部くらいです。それも強かったから撃退できたのではなく、たまたま。日本の場合は台風ですし、ヨーロッパの場合はモンゴル軍が勝手に進軍を止めただけです。モンゴル軍は、ハンガリーまで攻め滅ぼし、1241年のワールシュタットの戦いでドイツやポーランド等の連合軍をあっさり撃破してます。ここで止ったのは、二代目のオゴタイ・ハンが没したからです。本家の跡目相続を睨んで全モンゴル軍が固唾を呑んだから、ヨーロッパ軍などの辺境地のザコなど眼中になくなっただけだという。どのエリアのどの帝国だって決して弱いわけではなく、それなりに強かった筈なのですが、殆ど問答無用でやられてます。なんかもう人間と人間の戦いという気がしませんね。異星人の侵略というか、家畜の屠殺のように機械的に粛々と殺しているという。

 そのモンゴル帝国が出現してきたのだから北東アジアもひとたまりもないです。
 当時、女真族の金は中国北部に攻め入り、当時南北に分裂していた北宋を併合し、事実上北宋にもなります。ところがモンゴル帝国は怒濤のように金や北宋を押し流し、高麗に迫ります。高麗もそれなりに抗戦したのですが、やがてモンゴルに服属します。

 モンゴル軍(の一部である東方軍)は、占領した北東アジアエリアの国名をとし(1271)、南宋を併合して中国全土を統一します。モンゴル帝国と書いてますが一枚岩の軍団だったのは創業者チンギス・ハン時代で、彼の死後は後継者の連合体のようになり、また後継者がコロコロ病没します。そのため創業時のような圧倒的な強さではなく、ちょっと攻めては中央の権力争いをやり、またヒマをみつけては攻略を続けるという効率の悪いことをしてます。元は、チンギスの孫である第五代ハーンのクビライが仕切ってます。その勢いに乗って日本に攻め入って来たのが有名な元寇です(1274、81年)。


 元がやってくる前の高麗は、王家や文臣があまり真面目に政治をしないということで、武臣(軍人)がクーデターを起こして政権を奪取して治世をする武臣政権が続いていました。皮切りになったのが1170年のクーデターですから、奇しくも同じ時期の日本と似たような経緯を辿っています。日本で藤原政権から武家政権に移る頃、例えば平清盛が実権を握るキッカケとなった保元・平治の乱は1156、59年ですから殆ど一緒ですね。高麗を平安時代になぞらえて理解するのは、この点でも有益でしょう。違うのは、日本の場合は以後ずーっと武家政権が続いたのに対し、朝鮮では王家が政権を再奪取する点です。といっても、けっこうセコい奪回の仕方なのですが、、、。

 元が高麗を支配する際、日本の武士に相当する武臣達は、奮闘むなしく強大な元に討ち滅ぼされてしまいます。これによって高麗国王だった忠烈王はタナボタ式に政権を回復します。でもって、この忠烈王という人が相当したたかで、自分の後ろ盾になってくれる元を徹底利用するわけです。日本侵攻である元寇もこの忠烈王の積極的な進言によるものだと言われています。「日本を攻めなはれ、今はチャンスでっせ」と言うわけですね。しかし、元寇といってもモンゴル人達は指揮命令するだけで、実際に戦場に出るのは被征服民族である金とか南宋とか高麗の人々です。また軍艦の建造やら補給をやらされるのは最前線の高麗です。元寇によって高麗経済はボロボロに疲弊しまくるのですが、何故そんな亡国の進言を忠烈王がしたのかというと、虎の威を借る狐的に政権を回復したから、虎にはずっと居て貰いたかったのでしょう。ひどい王様もいたもんで、これならなるほどクーデータも起きるでしょう。

 元寇の後も忠烈王は活発に策謀を巡らします。今度は元王クビライに願い出て、皇女を嫁さんに貰います。娘婿になっちゃうわけですね。長いもののは徹底して巻かれろ、巻かれるだけではなく一体化してしまえという方針で、これが功を奏し、以後歴代高麗王は元の宮廷で育てられ、元宮中内で勢力をつけていくようになります。虎の威を借るどころではなく、虎になってしまえというわけです。

 しかし、そこまで元と一体化するということは、元が滅んだら共倒れになるリスクを抱えることでもあります。そして、元の勢いは意外と早く衰え、14世紀中頃に高麗王(恭愍王)は落ち目の元に三行半を叩きつけ、独立し、北方を奪回します。ドライなもんです。ただ、それで高麗王朝が再び栄えたかというとそうはなりませんでした。なぜなら実力がないからです。元が衰えるということは、世が再び乱れていくということで、中国大陸では紅巾の乱という反乱が起きます。そして朝鮮半島南部では倭寇の度重なる襲来に悩まされるようになります。しかし、こういった乱世を統治する力は高麗王には無かった。その力があったのが武臣であった高麗武士達であり、彼らは団結し紅巾賊を蹴散らし、和冦に打撃を与えます。

 一方、中国では元に代わってが興ります。高麗国内では明派と元派とに対立していたのですが、武功をあげてニューリーダーと目されていた李成桂がクーデターを起こして実権を握り、1392年に自ら国王に即位し、新たな王朝を築きます。これが李氏朝鮮であり、ここで高麗は滅亡します。

倭寇

 東シナ海沿岸を荒らし回った日本の海賊集団として知られていますが、別に日本人だけでもなかったようです。朝鮮半島から対馬、九州との間の襲撃、略奪などの行為は、遡れば統一新羅の頃からあったようです。その頃は半島から日本にやってくるというパターンです。大体、世が乱れて貧しいエリアから豊かなエリアに襲撃するというパターンですね。

 北九州と朝鮮半島の中間に対馬という島があります。中間地点にあるがゆえに板挟み的悲哀を味合う、琉球と同じパターンですが、この対馬が元寇の際にボコボコにやられます。略奪、虐殺、拉致のやられ放題。かといって日本政府が何をしてくれるわけでもない。末端地に対する中央政府の冷淡さというのは現在も昔もあまり変わらないですな。

 前期倭寇は、もともとは元寇被害の報復&防衛だったといいます。報復し、連れ去れた家族を奪回するという。しかし倭寇集団はどんどん大きくなり、半島内部で数千人で城攻めをしていたというから、単なる海賊ではなく一個の軍団みたいなものです。この頃になると、もう純然たる日本人集団というよりは、高麗やモンゴルなど寄せ集めの荒くれ集団になっていたようです。しょせん寄せ集めなので、正規の軍隊がやってきたらもろく、李成桂に撃破されます。また、明からはときの日本政府(足利幕府)に「なんとかせんかい」と要請がなされ、ちょうど南北朝合一を果した足利義満は倭寇討伐をし、これを機会に明との貿易を始めます(勘合貿易)。

 しかし、当時の日中経済関係(勘合貿易)は貿易寧波の乱(1523)などのゴタゴタによって険悪化し、やがて途絶します。正規の経済ルートが無くなったら、闇のルートの登場です。すなわち密貿易が盛んに行われるようになります。この密貿易集団が後期倭寇といわれています。この時期になると、どの国の生産力も向上し、貿易が大きな利潤を生むようになっていったのでしょうね。明は対日本以外にも海禁政策といって私貿易を禁止していたから、なおのこと密貿易は儲かった。もう昔のようにわーっと押しかけていって田畑の作物を略奪するという原始的なものではなく、もっとビジネスライクになっていくわけです。折しもこの頃になると西欧人(ポルトガルやオランダ)も来るようになってます。そうなると、ビジネスチャンスをつかめとばかり、日本人に限らず中国人などが動き回るようになります。

 こういった時代背景において、先日にやった台湾の章で出てきた鄭成功のお父ちゃんなんかもいるわけです。中国の貿易商人(というか半分海賊)が平戸にやってきて日本人女性と恋に落ちて鄭成功を産んだという。このようにアジアの海を舞台にした活発な展開は、日本の戦国期から江戸初期に続き、多くの日本人が東南アジアに行ってます。タイの山田長政や、フィリピンの呂宋(ルソン)助左右衛門などなど。



李氏朝鮮/朝鮮王朝(1392年 - 1910年)


 そして、韓国・朝鮮、最後の王朝、李氏朝鮮です。
 クーデターによって高麗王位を簒奪した李成桂は、中国(当時は明)に使者を送り、自らの王位を承認して貰い、また国名も李氏朝鮮に変更します。

冊封体制

 ここでちょっと冊封(さくほう)という北東アジアに昔からみられるシキタリについて。古来からこの地域では、とにかく中国が抜きんでた存在であり、周辺諸国は中国との間に君臣関係を結び、中国からそのエリアを仕切る王といして正式に認知してもらうという段取りを経ていました。これを冊封といいます。大国中国の傘下に入り、その地位を承認してもらうわけです。昔っから、中国はまさに”世界の中心”として振る舞っているわけで、中華意識も育まれようというものです。

 ただし、この君臣関係はかなり名目的なものであり、周辺諸国が中国の奴隷状態になっていたわけではないです。まあ、昔の外交上のシキタリでしょう。奇異な感じもしますが、これって現在だってありますよね。例えば、中南米やアフリカでクーデターが起きたり、独立国が生まれます。そして、その政権の正当性や新国家の存在を世界にアピールし、これに応じて諸国は承認したり、しなかったりします。その場合、アメリカや旧ソ連など大国の意向が非常に大きな意味をもちます。

 またまた昔の映画で恐縮ですが、緒方拳主役の「さよならニッポン」というコメディ映画で沖縄の離島が独立する話がありましたが、村長の緒方拳は密かにアメリカを抱き込んで独立を承認して貰うように画策します。日本政府は、独立は絶対認めないということで、自衛隊に攻撃命令を出しますが、間一髪アメリカが承認をしてしまったので攻撃を中止せざるをえませんでした。日本の親分のアメリカがYESといってしまったら、日本政府は迂闊に手を出せなくなるからです(出せばアメリカを敵に廻すことになる)。このように、ずば抜けた大国のお墨付きを貰えば、国内や周辺に睨みがきくというものです。同じようなことは、暴力団の抗争なんかでもありますね。上納金を払って傘下になり、「○○組系列」という看板を出すと。

 李氏朝鮮の場合も、李成桂もクーデターによって王位を継いだだけに、正当化の箔付けが欲しかったのでしょう。さっそく外交です。中国に使者をおくり、「権知朝鮮国事」(朝鮮王代理)という承認を得ます。つまりは正式な承認作業という、政治的な手続きなんだと思います。日本史でも、源氏、足利、徳川いずれも天下人になったあと天皇から征夷大将軍の任命を貰い、正式に幕府を開くというシキタリになってます。現在の日本でも、国会で内閣総理大臣や最高裁長官は天皇が任命することになっているわけで(憲法6条)、だかといって天皇が日本国を所有する大王で、日本人は全員天皇の奴隷になってるわけではないのと同じ。つまり、任命だの認証という形式と、実際の権力関係はまた別だということですね。政治学的に言えば、正統性契機と権力的契機の違いとでもいうか。

 ちなみに日本は中国冊封体制下にあったのかですが、古くは漢委奴国王印の金印が冊封体制にあったことの証拠だとか議論されたり、遣隋使や遣唐使など中国王朝に朝貢したりしています。ただし、日本は距離が遠いので、攻めたり攻められたりという軍事的な緊迫感に乏しく(百済出兵くらいか)、政治や外交というよりは、学術使節団や貿易取引という色合いが濃いですね。だから冊封体制に組み込まれていたかどうか微妙なところがあります。聖徳太子が隋に「日出処の天子」として書簡を送り、隋の皇帝を怒らせてますしね。ちなみに、あれは”日出処”という部分が悪いのではなく、”天子”という言い方が悪いのですね。この世に”天子”は中国皇帝ただ一人であり、勝手に天子を名乗ってることに怒ったという。まあ、怒りというよりは、「これだから田舎者はどうしようもないね」と苦笑してたらしいのですが。聖徳太子は敢えてそう言ったという説もあり本意はわかりませんが、いずれにせよ「こっちも天子を名乗っちゃえ」くらいの感覚ですから、日本の冊封体制に対する感度は総じて鈍かったと思います。

 なお、このときに李成桂は人心を一新するべく国名も変えて李氏朝鮮にします。というか旧王族を追い払って旧来の屋号を承継するのもいかがなものかという配慮があったのでしょう。「朝鮮」というのは、中国(明)が「これにしなはれ」と選んだ名称だそうです。なお、「李氏朝鮮」(李朝)というのは日本語の表現であり、本国の人は単に「朝鮮」と呼んでるそうです。そうすると壇君朝鮮など古朝鮮時代との区別がつきにくいから、日本語的には「李氏」をつけて区別しようとする。韓国本国では、古朝鮮とただの朝鮮とで区別するそうです。

 李氏朝鮮は、1392年から1910年という非常に長い歴史を誇ります。1392年といえば足利幕府の室町時代初期&南北朝の時代です。それから戦国時代→江戸時代→明治時代の後期(日露戦争後)まで、ずーっと韓国・朝鮮は李氏朝鮮一本だったわけですね。なんと27代、519年間も続きます。15代、260年の江戸幕府の約二倍です。なお、首都が現在のソウルの位置になったのもこの頃です。当時は漢城と言っています。


 えーと、長くなってしまったので、ここらで切りましょう。
 李氏朝鮮の具体的な歴史については次回です。





過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
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ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
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ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ
ESSAY 407/世界史から現代社会へ(その70) 現代ロシア(2)  発展の2000年代とプーチン大統領
ESSAY 408/世界史から現代社会へ(その71) 現代ロシア(3)  チェチェン紛争の迷宮
ESSAY 410/世界史から現代社会へ(その72) 現代ロシア(4)  チェチェン紛争の迷宮(2)
ESSAY 411/世界史から現代社会へ(その73)  現代ロシア(5) 王道のロシア文学
ESSAY 412/世界史から現代社会へ(その74)  現代ロシア(6) 北方領土
ESSAY 413/世界史から現代社会へ(その75)  中国(1)  ケ小平と改革開放経済
ESSAY 415/世界史から現代社会へ(その76)  中国(2) 誰が一番エライの?〜中国の権力メカニズム
ESSAY 417/世界史から現代社会へ(その77)  中国(3) 中国における都市と農村の地域格差
ESSAY 419/世界史から現代社会へ(その78)  中国(4) チャイナリスク(1) 政治システム上の問題点
ESSAY 421/世界史から現代社会へ(その79)  中国(5) チャイナリスク(2) 派生問題〜”規模の政治”と伝統カルチャー
ESSAY 423/世界史から現代社会へ(その80) 中国(6) チャイナリスク(3) 地縁社会と高度成長の副産物
ESSAY 425/世界史から現代社会へ(その81) 中国(7) 外交関係(1)  戦後外交史の基本 東西冷戦と米中ソ三極構造
ESSAY 427/世界史から現代社会へ(その82) 中国(8) 外交関係(2)  中国とインド、そしてチベット、パキスタン
ESSAY 429/世界史から現代社会へ(その83) 中国(9) 台湾
ESSAY 431/世界史から現代社会へ(その84) 韓国・朝鮮(1) 三国時代〜統一新羅





文責:田村




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