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今週の1枚(07.10.29)
ESSAY 334 : キリスト教について(その8) 〜カノッサの屈辱と十字軍
写真は、夕暮れのDrummoyne(ドラモインと読む)。ドラモインのTaplin Parkというところですが、よく目の前の入り江(Five Dog Bay)越しに綺麗な夕焼けに出くわしたりします。過去においてもこの場所の夕焼けの写真を掲載したことがあります。
Essay167
です。
8回目のキリスト教シリーズです。どこまで続くことやら。
前回は、宗教や思想、原理というものが、動物的人間を社会的人間に調教していくツールとして活用されていたのではないかという点を書きました。同質社会で集団志向性が強い日本民族の場合、それ以上に強烈な戒律や価値観を必要としないのですが、異民族が入り乱れ、食うか食われるかの激しい風土の彼の地では、ある程度皆が同じように善悪の価値観を共有し、同じように考える土壌が必要だったのでしょう。
前々回に触れたように、ローマ教会はゲルマン社会を制しつつあるフランク王国と結びつきました。ローマ教会としては、これによって権力的な後ろ盾が出来、安定するというメリットがありますが、フランク王国側のメリットは何だったのか?といえば、この調教効果だったのでしょう。支配する領土内の人民にキリスト教が広がることにより、人々の価値観が共通になっていくという。
価値観が共通になっていくと何が良いかというと、支配者側としては民衆をまとめやすくなります。王様といっても、単に威張り散らしたり、逆らう者を処刑にするという粗雑で野蛮で統治方法だけだったら、人々の恨みも買うし、それがひいては謀反や反抗のタネを蒔くことにもなります。人々の価値観がバラバラだったら、どんな政策を講じても大反発する集団がいたりして、これも世情不安を招きます。やりにくくて仕方がないでしょう。でも、ある程度皆の価値観がまとまってくれていたら、民を喜ばせたり、納得させたりするのもやりやすいですし、コストや労力少なくして統治することが出来ます。
ましてや、皆の価値観が王様にとって都合が良かったら尚更です。
「なんで王様はエラいのだ?」ということで、「一番暴力的に強いから」という身も蓋もない理由だけだったら、強くなくなったら終わりです。ボクシングの世界チャンピオンと同じで、常に常に挑戦者に晒されます。枕を高くして寝られませんね。でも、皆が「王様はエライからエライのだ」と、とくに理由らしい理由もなく盲目的に崇拝してくれているとやりやすいです。理由なき崇拝というのが一番いい。なぜなら理由がないだけに失脚する恐れはないからです。
しかし、まあ、こんな都合のいい思想はありませんから、それに類するものを探します。それが宗教であり、ローマ教会が仕切るキリスト教だったのでしょう。皆が信仰しているキリスト教、その教団の最高にエラい教皇様から「この人は王様です」というお墨付きを貰えば、「強さ」という実質的な原理ではなく、「偉さ」という抽象的な原理で君臨できるから、より安定するということなのでしょう。
カノッサの屈辱
さて前々回の復習になりますが、西ヨーロッパの覇者であるフランク王国のカール大帝がローマ教会から「西ローマ皇帝」としての戴冠を受けます。カールの戴冠、800年のことです。前々回も強調しましたが、このカール大帝(シャルルマーニュともいう)は非常に偉大な王様だったようで、実際この人が「ヨーロッパ」と言われる実質を作り上げたようなものでしょう。彼は、(1)フランク王国を率いゲルマン民族と西ヨーロッパを統合し、(2)ローマ教皇と連携しヨーロッパ(ゲルマン)の地にキリスト教を導入し、且つ(3)古代から続くギリシャ&ローマ文明をヨーロッパにもたらしたからです。
カール大帝の死後、フランク王国が分裂し、紆余曲折があったあと、962年に東フランク王国のオットー一世はローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠を貰います。れこれが「神聖ローマ帝国」の始まりですが、ポイントは力の強い王様が出てきて全土に君臨しようとした場合、「ローマ教皇にお墨付きを貰う」ということをしている点です。かの地において「ローマ皇帝」という肩書に優るタイトルはなかったということですし、それを誰が認証するのかといえばローマ教皇以上に適任者は居なかったということでしょう。まあ、なんだかんだいって「伝統」であり「老舗」ですから。
しかし、なぜにそのような権威付けが必要だったかといえば、このフランク王国、その母体となったゲルマン民族というものが強力に統率された一枚岩の集団ではなく、独立性の強い小部族の連合体だったからでしょう。超強力な大王だったら、古ぼけた老舗の看板を持ち出して権威を誇示する必要もなかったでしょうに、それが必要だったということは逆に言えば各部族・諸侯がそれなりに独立性が強く、また勢力もドングリの背比べ的な状況だったことを意味します。とりわけ東フランク王国(神聖ローマ帝国)においては、諸侯の独立性が強かったといわれます。ちなみに、今日においてもヨーロッパが細かな国々に分かれているのも、このような歴史的な沿革があってのことなのでしょう。
一方ローマ教会ですが、これもローマに大きな教会がひとつボンとあってそれで終わりって単純な話ではなく、ヨーロッパ各地に支店や支部を持つ、今でいえば巨大企業のような存在だったでしょう。当然、本店(ローマ教会)内において、社長がいて、常務がいて、取締役がいて、部長がいて、、、というガッチリした組織が作られます。教皇=大司教=司教=司祭という職制階層も整備されます。各地の農村に教会を次々造り、農村を単位とする小教区を設定します。
さて、一般の企業の場合、誰を支店長にするか、誰を取締役にするかという「人事」の最終権限は社長にあります。すなわち、誰をどの教会の責任者にするか、誰を聖職者とするかという人事権は、ローマ教会の最高権限者=ローマ教皇にあるはずです。あるはずなんですけど、実際にはそうはなってなかったです。
全国津々浦々に教会を建ててキリスト教を普及、、、とかいっても、教会だって無料では建たないし、誰がその資金を出すの?人手はどうやって集めるの?というと、ローマ教会にそこまで強力な財政基盤があるわけではないです。そんなもんがあったら最初から困ってません。だから、教会や修道院を創設するといっても、現実にはそのエリアエリアを支配している封建諸侯であり、領主です。自分でお金も人手も出して教会を作ってるんだから、当時の領主の発想としてはそれらの教会は自分はモノだという自然な認識があったでしょう。私有教会制というらしいのですが、自分らの教会だからその教会の管理者=教会の神父や司教、聖職者についても自分らが任命すると思っていたでしょう。それは、現代の企業が自前のスポーツチーム等を持っている場合、自然にその人事権も持っているようなものです。巨人軍の監督の最終人事権がナベツネなどの親会社読売新聞のトップにあるのと同じです。
また、教会には寄付や荘園などからの利益があります。収益機能として使えるわけですから、国王や諸侯は私設教会だけでなく、自分の領土内にあるすべての教会・修道院を自分のものにしようとします。俺の領土内にあるモノは俺のモノだというわけですな。
こうなってくるとキリスト教組織のありかたがグチャグチャになっていきます。権威的にはローマ教皇を頂点にヒエラルキーが出来ているのですが、スポンサー的=実質的財政基盤でいえば諸侯の世俗権力に帰属しているわけですから、指揮命令系統が二つ出てきてしまって、教会が誰のものか、誰の支配を受けるのかよく分からなくなります。国王や諸侯の力が強いときは、ローマ教会などあってなきが如しというか、例えば神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ3世(在位1039〜56年)になると、自国領の教会・修道院の人事を掌握するだけはなく、そもそもローマ教皇の人事権すら握ります。この王様は、4人もローマ教皇を任免したそうです。
世俗的側面が強くなってくると、もはや「聖職者」とは名ばかりで、実態は領主から任命されただけの只の教会管理者や地方役人に過ぎなくなりますし、また本来の聖職者達においてもお金でその地位を売るなど(聖職売買=シモニア)、腐敗堕落が横行するようになります。キリスト教本来のあり方でいえば、人々を導く神父などの聖職者は、キリスト教について理解が深く、当然のことながら信仰も深く、また品行も正しくて広く尊敬されるような人材であるべきですが、全然そうならなくなっていきます。
当然、真面目なキリスト教徒達からは反発が起きます。真剣に修道活動をやっていたクリュニー修道院から改革運動が起きます。また、レオ9世、グレゴリウス7世など真面目な教皇達が率先してシリアスな教会改革を行い、教会に聖職者の人事権(叙任権)を取り戻そうとします。かくして、世俗権力(皇帝や諸侯)VSローマ教会&教皇ということで、聖職者叙任権をめぐって鋭く対立するようになります。
グレゴリウス7世の改革運動に真っ向から対立したのが、ハインリヒ4世です。ローマ教皇を自ら任命したハイリンヒ3世の後を継いだ彼は教皇の意向に逆らい、あえてイタリアの聖職者を自分で任命します。これで叙任権をめぐって教皇と大喧嘩になり、グレゴリウス7世教皇はこのハイリンヒ4世を破門にします。「あんな奴は破門だ、だからあいつはもう国王じゃない」と言ってしまうわけです。この措置にビビったハイリンヒ4世は、アルプスをこえて教皇が滞在するカノッサの城門の前で3日間、修道服をきて雪の中にたたずみ教皇の許しをねがいます。これが有名な「カノッサの屈辱」です(1077年)。
カノッサの屈辱は「ローマ教会強し!」を印象付けるイベントで、中世ヨーロッパにおけるキリスト教権力の強大さを示すエピソードであるかのように思ったりします。が、今回よく調べてみますと、そんなに物事はシンプルではなかったりするのですね。まず、これを世俗権力(国王、諸侯)と教会権力という聖俗二元論で考えるのがそもそも間違っているという指摘がありました。これは、国王=諸侯=教会という三極ゲームなのだと。
三極ゲームというのは、国王権力が大きくなればなるほど相対的に諸侯勢力が弱体化するわけで、これは各地に布教しようとする教会側としては、各地における領主諸侯のチョッカイが少なくなるという大きなメリットがあります。また国王が、諸大公の権力を弱体化させるために多くの所領が教会に寄進されているわけで、これは教会にとっての非常に大きな経済的基盤となってます。つまり、教会にタカろうとする領主諸侯から教会を守ってくれる庇護者として国王がいるわけで、その意味では国王権力が増大することは、キリスト教会としても望ましいことだったりするわけです。そもそもそういう関係があるからこそ、この両者は手を握ってるわけですから。
それに国王が一貫して教会の腐敗を招いていったという理解は間違っており、むしろ国王が教会改革を進めていったという一面もあります。教皇4人任命したというハイリンヒ3世も、それだけ聞いてるとやたら暴君っぽいですが、当時の情勢を詳しく見ると、まずローマ教会そのものが乱れまくってたりします。ベネディクテゥス9世の乱れた私生活によってローマで暴動が起き、教皇の位が他に簒奪され、あるいは売買され、さらに復権をもくろみ、、というグチャグチャな内部闘争状態になっていたそうです。「ええ加減にせんかい」と思った民衆に請われて、ハイリンヒ3世が乗り込み、見苦しい内部闘争をやっていた三人の教皇を罷免し、事態を収拾したいうのが実情らしいです。
さて、教会としては頼りがいのある強い国王は望ましいのだけど、あまりにも王権が強くなりすぎるのも困りものです。なぜなら、国王に教会を完全に牛耳られてしまい、教会そのものの自立性すら失われるからです。片や、王権が強くなりすぎるのが好ましくないのは諸侯・領主も同じです。ということで、諸侯の勢力を牽制するためには国王と教会がタッグを組むけど、国王の力をセーブするという局面になると今度は教会と諸侯が手を組むという。このあたりが政治の醍醐味というか、絶妙なパワーバランスなんだと思います。
カノッサの屈辱においても、教皇による破門によってなんでハイリンヒ4世がビビったかといえば、単に破門が恐かったのではなく、これによって国王と諸侯のパワーバランスが崩れ、諸侯に対する支配力が薄らぐことを政治的に懸念したのでしょう。実際、当初は「破門?やれるものならやってみろ」という勢いだったそうですが、この機会にかねてから反発感情を持っていたドイツ諸侯が王に反旗を翻し、さらに民衆においても予想外にウケが悪かったので、「う、こんな筈では、、」と焦った結果らしいです。父のハイリンヒ3世による教皇廃位は、ローマ教会内部のしょーもない内紛状態を正すためだったので民衆は国王を支持したのですが、今回の場合は単なる自分勝手な喧嘩であるというイメージが強く、民衆の支持を得られなかったそうです。諸侯によって王位剥奪するぞと詰め寄られたハイリンヒ4世は、政治的延命のためにやむを得ずカノッサの屈辱と呼ばれる破門撤回の嘆願を行ったわけです。
反抗諸侯にとっては破門は国王を追い落とすための口実に過ぎず、理由は何でも良かった。教皇によってとりあえず破門が解かれたことによって諸侯のアテが外れますが、なんだかんだ又別の名目を作ってハイリンヒを追い落とし、ルドルフという対抗馬を担ぎ出し新しい国王に据えます。新旧国王間(ハイリンヒとルドルフ)とでドンパチがあります。その過程でルドルフ勝利という一時的な局面で、教皇はハイリンヒを再度破門にします。しかし、こんどは民衆もついてこず、空振りに終わります。この事実からでも「破門」という宗教上の意味は殆どなく、単なる政争の道具に過ぎないことがよく分かると思います。ルドルフの死後、捲土重来を果たしたハイリンヒは、今度は教皇に逆襲し、教皇を廃位し、新教皇を任命します。グレゴリウス7世は難を逃れるために逃亡し、亡命先のサレルノで失意の最後を迎えます。
ということで「カノッサの屈辱」というのは、連続ドラマの一部分だけをカットしているようなもので、実際にはそのイメージほどやたら教会が圧倒的に強かったわけではないです。国王ですらひれ伏すくらい「破門」が強い宗教的呪術性をもっていたわけでもないし、事実は二度目の破門はアッサリ皆に無視されているし、最終的には国王の返り咲きです。まあ、歴史なんて連続ドラマの誰にスポットを当てるか、どこからどこまでを切り取るかで全然イメージが変ってくるものですけどねー。
ただ、ここで注意すべきは、叙任権をめぐって国王と教皇の間で熾烈な綱引きが行われたのは事実ですし、その当時の諸侯、国王、教会の微妙な3者のパワーバランスがあるのだということですね。あと、最後は亡命したとはいえ、グレゴリウス7世の決然たる行為によって、叙任権が本来の教会の手にキープされるようになったのは事実です。だって、これだけ頑張った先輩がいたら、後輩教皇や聖職者達もハンパなことは出来ないですよね。というわけで、彼が真剣にやろうと思ってた教会改革は一応の実を結んだものと思われますし、彼が偉大な功労者として、聖人として数えられるのも理解できるところです。
十字軍
さて、段々時代が下るにつれて馴染みのある世界に入ってきますが、いよいよ十字軍です。クルセイダーズですね。
カノッサの屈辱が1077年、第一回十字軍が1096年ですからほんの20年後くらいなのですね。 意外と近い時期に起きているという。
十字軍というのは、東ローマ帝国の要請で、西ヨーロッパの軍団が聖地エルサレム奪回のために中東に進軍し、イスラム教徒達を追い払ったということで、「我が物顔で聖地を占拠している異教徒達を追い払うため、正義の騎士達が立ち上がった」とキリスト教世界においてはヒロイックに語られたりしますが、実際のところはただの侵略軍であり、それは第二次大戦で日本軍がアジア諸国を侵略したのと変らないと思います。当時の日本だって、西欧帝国主義からアジアの同胞を解放するんだという大義名分はありましたし、「エルサレム奪回」というのも多分に大義名分に過ぎないって面はあったと思います。
では、現象としてなぜこういうことが起きたのか、です。
いろいろな解説があるのですが、「ほほう、なるほど」と思ったのは西欧における軍事的フラストレーション説です。ゲルマン民族が群雄割拠していた頃は年がら年中いろいろな場所で戦闘行為がありました。ゲルマン民族同士でもドンパチやってますが、ノルマン人だのマジャール人だのを相手にも喧嘩しています。しかし、王権が確立し、キリスト教が浸透するようになると、前回ふれた宗教の調教効果もあり、このような激しい戦争状態は徐々に収まっていきます。それはそれでめでたいのですが、それが寂しい人もいます。軍団の兵士や傭兵など、戦乱状態にあることで生計を立てたり、生き甲斐を見いだしている人達だっているわけです。平和になるということは、こういう軍事的プロの大量失業を意味します。
日本でも関ヶ原以降、戦国時代末期になると、「槍一本で出世」というサクセスストーリー、戦国ジャパニーズドリームが消滅します。それまでフリーランスの傭兵だった連中の最後のチャンスが大阪城夏・冬の陣だったりしたわけです。それ以降は、どっかの大名に仕官しないと食えなくなり武士がサラリーマン化していきます。明治維新の頃も、藩制度や武士階級が廃止されて大量失業した士族のフラストレーションのガス抜き先が必要となってます。そのために明治政府は北海道開拓を掲げ、結果としてアイヌ民族に多大な迷惑をかけてますし、後には満州に行かせ、これまた現地の人に迷惑を掛けてます。構図は十字軍と似てますな。現代史でも、東西冷戦やソ連が消滅するとCIAとかKGBの連中が大量失業し、軍人や軍事産業も不況になるから、なんかかんか喧嘩のネタを探し、小競り合い状態だったのを火に油を注いで大事にして活躍の場を得ようとしたりします。だから911テロだって、本当は事前に分かっていたけど戦争したいから握りつぶしたなんて話もでてくるのでしょう。
キリスト教が広まり秩序が浸透することで世の中平和になりますが、それは同時にこういった軍事的フラストレーションが高まっていくことをも意味します。彼らは敵が欲しいわけで、スペインにおいてイスラム勢力を追い払ったり(レコンキスタ)、地中海においてイスラム勢力と覇権を競ったりするようになります。西欧対イスラムの図式になり、新しい敵としてイスラム国家が対象になっていくわけです。
もう一点は、戦乱が治まり、治安が良くなるのと表裏一体の関係になりますが、ヨーロッパの人口が増えたという点があります。戦争というのは膨大な殺し合いですが、人口への圧力は単に戦場での戦死者だけではないのでしょう。つまり、戦乱が続くとろくに畑も耕させないし、せっかく収穫前でもドドドと兵馬に蹂躙されたりするなど生産量が激減します。それによって栄養状態も悪化するでしょうし、戦場以外で人々が沢山死んだでしょう。またマトモな育児なんかやってる余裕も少ないでしょう。医療厚生のインフラも手薄になるでしょうから新生児死亡率も高くなるでしょう。そんなこんなで戦乱が続くと人口は減りますが、逆に治安が良くなると人口は増える筈です。実際、この時期のヨーロッパは人口が増えたらしいのですが、そうなると今度は増えた人数分だけ食わせないとならないし、職なども用意しなければならない。段々手狭になっていきます。そこで新天地願望が出てきて、「そうだ、エルサレムだ」みたいなノリになったのかもしれません。
第一回十字軍は、1095年に東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノスが、イスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領されていたので、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが始まりです。東西ローマ帝国で仲が悪かったわけですが、イスラム勢力という「共通の敵」を前にして、援助を依頼したということですね。もっともこの時点での東ローマの要請内容は「傭兵を送ってくれ」という単なる軍事援助に過ぎず、まさか十字軍のようなものがやってくるとは思ってなかったでしょう。
東ローマ帝国の要請を受けたローマ教皇は、クレルモンの宗教会議で集まったフランスの騎士達に「聖地エルサレム奪回を」と演説しました。この時点で既に本来の話から逸脱してるのですが、単に「東ローマが人手が足りないってさ、ちょっと行ってくれる?」程度の話では人々をその気にさせられないので、もっとロマンチックで魅惑的に見えるように言ったのかもしれません。「聖地こそがまさに”乳と蜜の流れる土地”である」なんて訴えたとされます。
最初はローマ教皇も、「これで幾らかでも行ってくれる人がいたらいいな」くらいの気持だったんじゃないかと思いますが、事態は教皇の予想を大きく超え、コントロール不能の巨大な動きになっていきます。一つは上述の軍事プロ達の格好の働き口であったということもあるでしょうが、国王や諸侯にとっては聖地であろうがなんだろうが外地を侵略し、植民地とすることは、それだけで魅力的に映るでしょう。しかも、ローマ教皇自ら神の思し召しであるという最高の大義名分をつけてくれたわけですから言うことなしです。
しかし、問題はこういったプロ達だけではなく、一般の民衆がメチャクチャ盛り上がってしまったことです。むしろ一般民衆、農民や庶民達の方が熱狂してしまった。戦闘の素人に戦場に行ってもらっても足手まといになるだけだし、役にも立たないので、教皇をはじめ領主や聖職者が「キミらは行っちゃダメ」と口を酸っぱくして説教したらしいのですが、我も我もと押しかけ、膨大な人数になってしまったらしいです。なんでこんな素人集団が盛り上がってしまったのかといえば、おそらくは宗教的情熱であり、日頃の抑圧から逃れたかったのではないかと言われています。まあ、分かるような気もしますね。農奴として搾取され、パッとしない日々を過ごしていた彼らとしては、日常の鬱屈から逃れられる魅力的なイベントに映ったのかも知れません。なんだかんで10万人規模に膨れあがったそうですが、女性や子供も多く、ほとんどピクニック気分、巡礼気分で参加してたりもします。
しかしこんな素人集団が進軍したところで末路は見えてたりします。軍事行動で一番難しいのがロジスティクス(兵站、物流)であり、大人数の食糧や生活物資も一緒に運ばないとなりません。それを深く考えずに着の身着のままで参加したらどうなるかといえば、食糧は行く先々の村々で現地調達ということになります。2−3人だったら村人から善意のもてなしを受けることもあるでしょうが、こうも大人数だったら村側もたまったものではありません。結果、行く先々でトラブルというか、無理矢理収奪をすることになりますし、相手からの反撃も受けます。東ローマの首都コンスタンティノープルまでたどり着いた時点で既に4分の1が死んでしまったそうですが、こんな連中に来られてしまった東ローマもいい迷惑だったでしょう。「じゃ、あっちの方をお願いね」とイスラム支配エリアに体よく送り出し、そこでイスラム勢力の反撃を受け、ほとんど全滅状態になってしまったらしいです。
さて、素人集団が壊滅したあと正規のプロ集団(諸侯の騎士団)がエルサレムまで遠征します。このプロセスは、なるほど後の世に語り継がれるだけあって、多くの戦闘を経て、大変な苦労してエルサレムまでたどり着き、エルサレムを奪回します。生き残った騎士達はヨーロッパに凱旋し、英雄として賞賛されますし、エルサレム周辺には幾つかの十字軍国家を築きます。ただ、細かく戦闘や移動の経緯をみていくと、食糧が枯渇して人肉を食べたとかかなりエグい内容だったりします。また、エルサレムの奪回も、「奪回」というと聞こえは良いですが、ありていにいえば破壊と強奪の地獄絵図だったようです。イスラム教徒だけではなくユダヤ教徒も、東方キリスト教信者なども含めて市民は皆殺しにされ、女性達はほぼ全員強姦されるというほとんどケダモノ状態だったといいます。まあ、死線を越えてきた戦闘集団というのはもうキレまくってますから、彼らに占領されてしまえば十字軍に限らず、どこでもこのような修羅場にはなるのでしょうが。
ともあれ第一回の十字軍は、聖地エルサレムの奪回という初期の目的を達成しますが、なまじ一回目に成功してしまったことから、その後も次々に十字軍が編成され、送り込まれることになります。その後の十字軍遠征は、(人によって数え方は違うようですが)大体全部で8回試みられたとされていますが、いずれも失敗しています。
あとの時代になって「十字軍とは何だったのか?」と冷静に振り返ると、一言でいえば「壮大な悲劇」ということになるでしょうか。
もちろんヨーロッパ的な価値観でいえば、輝かしい聖戦というポジティブなイメージは今も尚あり、社会的なボランティア活動も「草刈り十字軍」とか、○○十字軍という表現の仕方が残っていたりします。
しかし、攻められるイスラム諸国や、たまたま十字軍の進軍途中にあったために収奪されまくった村人達にとっては迷惑以外の何物でもなく、「侵略者としてのキリスト教徒」という、ほとんど悪の象徴ですらあります。「十字のマークを付けた強盗団」みたいなもので、その忌避感は今もなお根強く、医療救援活動をする「赤十字」すら、イスラム諸国では嫌われ、別のシンボルマークを使ったりするほどです。また、もともとは東ローマ帝国の要請でなされた筈なのに、この統制の取れないならず者集団のような十字軍に辟易した東ローマ帝国との亀裂は深まり、第四回十字軍では東ローマのコンスタンティノープル市民への略奪や虐殺が行われたりして、東方教会からも忌避されたりします。
また、ヨーロッパにおいても十字軍によっていい思いをした人など殆どいないのではないでしょうか。宗教的熱狂にうかされた庶民達は、この遠征に参加し、その多くは悲惨な末路をたどっています。子供十字軍の哀しい物語も有名です(騙されて参加した子供達が奴隷として売られてしまう)。また、正規軍である騎士達も、いい加減な準備や指揮命令系統などから、遠征先で無念の野垂れ死にした者も多数いるでしょう。結局、いい思いをしたのは、生き残って凱旋した第一次十字軍の騎士達か、あるいはドサクサ紛れに火事場泥棒のように収奪をした野盗みたいな連中が、束の間思いを遂げたくらいでしょうか。肝心なエルサレムにしても、そこが西欧の支配下にあったのは、一番最初の成功した十字軍直後の1099年から1187年の約90年間を除けば、あとは1229年〜1244年のわずか15年に過ぎません。7−8回にわたる大規模な作戦として純粋に軍事的に考えれば大失敗といってもいいかもしれない。
トータルのプラスマイナスでいえば、唯一プラス面としてカウントできるのは、東方に遠征したことによって、当時圧倒的に優越していた東方のイスラム文明を西欧に伝えたことくらいでしょう。この意味はデカいとは思います。
それに引き替え、マイナス面は多いです。
まず参加者達の苦難と不幸な末路というマイナスがあり、進軍途上にあったために踏みつぶされた周辺住民、攻撃対象になったエリア住民も大迷惑です。それによって前述のように、今日に至るまで民族的宗教的に大きなシコリを残しています。
キリスト教の歴史という観点でいえば、十字軍は、キリスト教にこれまでに無かった攻撃性・侵略性という要素を付加させたという点があると思います。
これまではキリスト教の効能として人々の善性を目覚めさせるとか、人々の獣性を抑え社会的存在に教育するというものがありました。が、熱烈な信仰や宗教的陶酔は、人の理性を狂わせる麻薬としても機能します。これは別にキリスト教だけがそうなのではなく、どんな宗教、どんな原理や主義主張にも付きまとうものです。人間の理性面を深く開発するだけではなく、人間の感情をも強く揺さぶる。情動への揺さぶりが良い方向に出れば、敬虔で優しい人格態度につながるのですが、悪い方向に出ると、陶酔にかられて理性を眠らせ、残虐な行為すらも容易にさせる。
十字軍が編成される頃には、ヨーロッパ各地でユダヤ人に対する迫害が行われるようにもなってます。異教徒から聖地エルサレムを奪回するということで盛り上がっていけば、なにもエルサレムまで行かなくなって身近に異教徒はいるじゃないかということになり、しまいには聖地奪回とかいうよりも「異教徒は殺すことが正義」みたいな独善的な盛り上がりになり、結果としてあちこちでユダヤ人集落が襲われ、虐殺されるという痛ましい事件が相次ぎます。これを第一次ホロコーストと呼ぶ人もいますが、宗教的陶酔が偏狭な独善性に転化したとき、恐ろしい悲劇が起きるという例証みたいなものです。
これまでのキリスト教の歴史においても、宗教的陶酔は発生しています。しかしそれは、例えば古代ローマ帝国時代における殉教、あるいは修道生活のストイシズムという形で登場しています。このときはキリスト教がまだ社会的支配力を握っていなかったから、宗教的陶酔は、苦難や試練に耐えるモルヒネのような効果を発揮し、それ以上に悲惨な結果を拡大することはなかったのです。しかし、ここまで社会的影響力が大きくなると、思ってもいなかったような麻薬的な暴挙につながっていったりもするのでしょう。
この時期、キリスト教のマイナス面の萌芽があちこちに見られます。
整理すれば、本稿前半に触れたように、キリスト教が国王や諸侯における権力闘争や政治の道具として利用されたりもします。あるいはキリスト教そのものが政争の当事者として登場しますし、同時にローマ教会内部で権力闘争が起こったりもします。政教分離ではない、政教一致による生臭さが出てきます。
第二に、宗教的興奮ゆえに情緒不安定に陥り、前後の見境なく十字軍に参加して野垂れ死んだり、ユダヤ人を虐殺したりという暴挙的行動につながるようにもなります。
第三に、これは第一と第二の混合体ですが、宗教的興奮と世俗的な欲求が絡んでくると、もう滅茶苦茶な状況になります。十字軍だって、崇高な使命感や高潔な精神によって参加した騎士達も多数いたでしょう。でも、同時にこのドサクサに一旗揚げようと目論んでる野武士みたいな連中だって沢山いたでしょう。また、高潔な騎士達も、行く先々で苦難に合い、裏切りに出会い、仲間を殺されていき、仲間割れを起こすという悲惨な日々によって、本来の目的よりも復讐心に固まっていく人だっていたでしょう。高潔さと卑俗さが不可分に絡み合ってくると、どんな高邁なお説教も偽善的に響いたりもします。
このようにキリスト教にまつわる社会的な動きはどんどん広範囲、複雑になり、また見方によってはどんどん純粋性を失っていくことになります。しかし、これはキリスト教独自の問題ではないでしょう。それだけキリスト教というものが社会全体に広まっていったということだと思います。図体がデカくなり、社会のあらゆる部分を覆うようになってくれば、社会のあらゆるスペクトルを反射するようになるだけのことだと。それぞれの階級、それぞれの立場にある人が、それぞれの情念と打算によってそれぞれにキリスト教に近づき、関わって動いているってことだと思います。
今回見たのは、カノッサの屈辱によって象徴されるように、キリスト教が国家のトップレベルでの政争の道具になってきたことと、十字軍の熱狂にみられるように宗教にみられる麻薬的な毒性が生じ始めたということです。
以後、時代は中世後半になるにつれ、教会と西欧王権とのパワーゲームはより深いものになり、宗教的毒性は異端審問や後の世の魔女狩りという形でより吹き出すようになっていきます。次回はそのあたり、中世末期の暗黒性から近世と宗教改革につながるあたりを触れるつもりです。
過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教について(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教について(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教について(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教について(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
文責:田村
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