今週の1枚(07.09.10)
ESSAY 327 : キリスト教について
写真は、Newtownの教会。こういった教会があちこちにあります。ちょうど日本の町の社寺仏閣のように。見慣れたらどってことないのですが、素朴に見ると「何なの、これ?」「なんでこんなものがあるの?」って思っちゃいます。
今週はキリスト教を勉強します。
「藪から棒になんじゃい?」と思われるでしょうが、いい加減キリスト教というものを、もうちょっとマジメに知っておきたいのですね。オーストラリアも一応キリスト教文化圏の国であり、また英語がキリスト教文化圏の言語であることから、ある程度キリスト教的文化について知っておかないとどうも話が通じない。別にさしあたって何に困るわけでもないのですが、なんか気持ち悪いんですよ。
例えば、映画のマトリックスで主人公キアヌ・リーブスの恋人役の名前が「トリニティ」だったりしますが、これってキリスト教の教義の中核である「三位一体」を意味するわけで、でも「三位一体って何よ?」とよく分からんわけです。その教義を知らなくたってマトリックスは楽しめからいいっちゃいいんだけど、「神と子と聖霊と」とか言っているのは何なのよ?という疑問は昔っからあったわけです。でも、「ま、いっか」とやり過ごそうと思ってるそばから、もう一人「オラクル」という名前の「何でも知っているおばちゃん」が出てきますが、オラクルというのも聖書に出てくる「神託」「導き手」という意味です。
そうかと思うと、新聞記事の政治記事で「リザレクション(キリストの復活)」「アドヴェント(降臨)」とかいう用語が比喩的に出てきたりします。こういう具合に日常的に結構頻繁に聖書の文句とか、概念とかが出てくるわけで、これだけチョロチョロ出てこられると、「何なのよ、それ?」って気分が段々蓄積されてきます。クラスの中で皆が知ってる話に自分だけ参加出来ず、なんだか妙に気になる感じ。
これ、僕がこっちで生まれ育ってたら、おそらく知らなくたってそんなに気にならないと思うのですよ。日本文化や日本語には神道とか仏教の用語が散りばめられていますが、僕らはそれらの宗教的な正確な教義は知りませんが、でも知らなくてもいいと思ってます。でも日本語勉強して、日本に興味のある外人さんだったら、「あー、もー、それってなんなのよ?」と系統的に知りたくなるでしょう。
例えば、日本人だったら誰でも知ってる「お盆」があります。あれも外人さんにとってはミステリアスな風習に見えると思いますよ。日本人だったら誰でも知ってるし、そのあたりの時期に一斉に休業したり、帰省したり、高速道路は百キロ以上の渋滞になる。これだけの国民的イベントでありながら、お盆というのは正確に8月の何日から何日なのか言える日本人は少ない。大体8月の真ん中、15日前後ってな感じでしょう。そして、なんでそれが「お盆」と呼ばれるのかもよく知られていないし(調べたところで起源はよく分からないらしい)、あれだけ国民示し合わせたように休むくせに「国民の祝日」にはなっていないというのも不思議な現象でしょう。
さらに、お墓参りをやってる僕ら自身が、仏教なのか神道なのかそれともそれ以外の土着の民間宗教なのか、どういう教義に基づいてやってるいうのかもよく分からない。そもそも日本人は無宗教国であり、面と向かって尋ねられたら「特に信じてません」って誰もが言う。じゃあ、あのお墓参りって何なのよ、どうみても宗教的儀式ではないかって、外人さんは髪の毛をかきむしって、I can't understand!って叫ぶかもしれない。大体、釈迦の唱えた原始仏教では、生命の魂は輪廻するのだから、祖先の霊が帰ってくるわけないのだ。釈迦によれば、家族や肉親の情愛すらも「煩悩」であり、それを捨て去り解脱せよといってるわけで、祖先の霊をお迎えして偲ぶという儀式が出てくる理論的素地はない。
ほかにも、「お彼岸(ひがん)」という概念があります。春分秋分の日を挟んだ3日間を指し、「暑さ寒さも彼岸まで」と慣用フレーズになってたり、「彼岸花」という植物まであります。しかし「彼岸」というのはれっきとした仏教用語で、「あっちの世界」「死後の世界」の意味でしょう。より正確にいえば、煩悩を捨て去った悟りの境地のことで、阿弥陀如来のおわします極楽浄土、西方浄土という意味もあります。だから、まあ、「あっちの世界」ですわね。でも、それがなんで春分や秋分なの?どうしてその日に「おはぎ」なの?というとよく分からない。外人さんはもっとわからんでしょう。
しかし、ここがネィティブの特権だと思うのですが、ネィティブは知らなくたっていいんですよね。お彼岸の宗教的意味や文化習俗的意味を、突き詰めて問われてちゃんと解説出来る日本人なんか少ないでしょうけど、僕ら日本人ネィティブは「まあ、おはぎ美味しいから、いいじゃん」って感じで軽くクリアできちゃうわけです。ああ、おはぎ食べたくなってきた(^_^)。日本語にせよ、日本のことにせよ、「そんなの知らなくたっていいもん」って言っちゃえるところがネィティブの強みです。ノンネィティブに対しては絶対的権力を持ち、「俺の知ってることは知っておけ、俺の知らないことは知らなくてもいい」という、ほとんど「この俺様が法律だ!」と言ってるようなものです。強え。もっともそんなことエバってられるのもノンネィティブに対してだけで、ネイティブ同士だったら、「お前、そんなことも知らんのか、アホ」と言われておわりです。
同じように、英語ネィティブに英語のことや、英語圏文化のことを聞く場合も要注意だったりします。英語ネィティブだからって英語のことを全て知ってるわけでもないし、オーストラリア人だからってオーストラリアのことを知ってるわけでもないです。こちらに住み始めた初期の頃、Aというオージーに単語の意味を聞いたら「そんな言葉聞いたこともない、誰も使わないよ」と言われ、Bというオージーに聞いたら「よく使うから知っておけ」と言われ混乱しました。人によって言うことがかなり違うので、そのあたりは場数を踏まないとなかなか分からないところです。語学や文化が難しいのはそういうところだと思います。
話がそれちゃいましたが、別にネィティブだってそんなに知ってるわけではないと思われるキリスト教世界ですが、この際もうちょい知っておこうと思い立ったので、高校生の課題レポートみたいにちょこちょこっと調べてまとめてみたいと思います。
とはいうものの、ちょっと調べ始めたら「だー!もう、やっとられん!」と投げ出したくなりました。情報量が膨大に多く、しかも無茶苦茶ややこしい。
キリスト教を知るためには、それに先立つユダヤ教を知らねばならず、さらにイスラム教とも交差してきて、この三大宗教の源流でもある「アブラハムの宗教」というところまでたどり着きます。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三つはいずれも姉妹宗教であり、共通点としては、中東の砂漠で生まれ、種々ある聖書聖典をその信仰の中核に置くという点で共通するようです。ゆえに「砂漠の一神教」とか「聖典の民」とか呼ばれるそうですが、この三宗教の信者は世界の約過半数(34億=キリスト21億、イスラム13億)、世界地図の9割くらいの領土を誇ります。単純に勢力範囲だけをでいえば地球人の宗教といってもいいです。しかし、巨大人口を有する中国とインドがこれに属しないので、人口でいえば半数どまりです。
これって世界史の一番最初にやるアレですよね、世界の四大文明とかいうやつで、チグリス・ユーフラテスのメソポタミア文明がどーのこーのというやつ。メソポタミア文明のように中東系文化圏(+エジプト文明)と、インド文化圏(インダス文明)、それに中国系文明(黄河文明)、これらが現在において尚も健在であるということなのでしょうね。
僕らが「世界」を見るときには、いくつものレイヤー(層)があることに気付かねばならないのでしょう。現在の世界観は、ルネサンス以来の自然科学をベースとし、フランス革命に象徴される民主主義体制を基礎に置き、英米がリードする資本主義経済原理をモットーとしています。国際言語としての英語を使い、科学技術を駆使し、企業活動や軍事活動を展開する、これがまあ、世界のゲームのルールみたいなもんです。こういった政治、経済、技術というのは、比較的基準が明確で分かりやすいから広まるのも早いし、改変も早い。要するに「強くて豊かだったらいいいんだ」「便利だったらいいんだ」「お金が儲かればいいんだ」という世界ですから、イスラム教徒であろうがヒンドゥー教徒であろうが、インターネットを使って株式投資をやってたりするわけです。
でもこれらは世界の第一層に過ぎず、その下には昔ながらの頑固な文化や宗教層があるのでしょう。カルチャーや宗教というのは、「安くて高付加価値だったらいい」という世界ではなく、純然たる「好き嫌い」の世界ですから、機能性重視の第一層がどうなろうがあんまり関係ないです。将来日本が共産主義化しようが、軍事大国になろうが、アメリカや中国の属州になろうが、そーゆーこととは関係なく、味噌汁と温泉は好きだということです。だから宗教地図をみると、昔ながらの4大文明の勢力圏が未だに残っているのでしょうね。
さて、この砂漠の民の宗教ですが、ともあれ共通の始祖のようなアブラハムというおっちゃんがいたそうです。旧約聖書の創世記に出てくるおっさんですが、神様に言われて「約束の地カナン(パレスチナ)」にやってきた人です。アブラハム以前にも人類はいたのですが、浮かれてドンチャン騒ぎやりすぎて、神様から「お前ら、もっとマジメにやらんかい」と怒られ、滅亡してしまいます。完全に滅ぼしてしまったらマズいから、ちょっとだけ残しておきます。つまり一部の人間にインサイダー情報をリークして生き延びさせます。これが「ノアの箱船」ですね。ノアの大洪水でとりあえずリセットかけてから(すごいリセットのかけかた)、新しい人類の時代が始まるのですが(それが現在まで続いている)、このアブラハムというおっちゃんは、その新時代において最初に神様から啓示を受けた人ということで、最初の預言者として尊崇されているわけです。
このアブラハムにはイサクという子がいました。イサクの子がヤコブといい、この人がユダヤ人の始祖となります。ユダヤ人はみな「ヤコブの子孫」ということになってます。つまり、アブラハム→イサク→ヤコブ→ユダヤ人全員という系譜になるわけですね。ちなみにヤコブの別名は「イスラエル」といい、ヤコブの子孫=イスラエルの民という言われ方をし、現在の国名イスラエルにつながるのでしょう。ヤコブを英語読みすると、ジェイコブ(Jacob)であり、省略した愛称がジャック(Jack)になるという。
アブラハムには、イサクの他にイシュマエルという子供もおり、イスラム教では、このイシュマエルが全てのアラブ人の始祖であるとしています。ということは、アブラハムはユダヤ系からもイスラム教からも共通して偉大なる祖父、太始祖にあたるわけですな。キリスト教というのは、後に述べますが、位置づけとしてはユダヤ教の中の新興宗教に過ぎません。ですので、アブラハムというのは、ユダヤ、イスラム、キリスト教の共通の始祖になり、これらの宗教を「アブラハムの宗教」と呼ぶわけです。
なお、ユダヤ教は旧約聖書を聖典とし、キリスト教は旧約聖書と新約聖書を聖典とし、イスラム教は旧約聖書の一部&新約聖書の一部およびクルアーン(コーラン)を聖典とします。
こんなこと別に知らなくたって構わないのですが、押さえておくべきは、各宗教がどうとかいう以前に、まず旧約聖書の世界というのがドワワワ!とものすごいボリュームであるわけです。三国志の世界みたいに、覚えきれないくらい物凄い数のキャラが登場してくる超大河物語があって、全てはそこから始まるわけです。その大河物語の中のお気に入りのキャラを取り出して、それが信仰になり宗教になるという感じなんだと思います。えらい暴略だけど。三国志の中の人気キャラの関羽がいつのまにか神様になって世界中に関帝廟が築かれているのと似てる部分もあるのでしょう。
まず、この重厚な物語性というのが、淡泊な日本人には重い感じがしますね。これに比べれば仏教なんかシンプルなもので、ゴータマ国王家釈迦族の悩める王子様(シーダールタ)が思い立って家出して、荒野を放浪し、悟りを得てブッダになりましたということで、非常に簡単です。分かりやすい。孔子の儒教も、とにかく孔子というエラくて賢い人がおったというところからいきなり始まってくれるから楽です。もちろん釈迦にせよ、孔子にせよ波瀾万丈の生涯を送り、またその弟子達にも色々あったりするわけで、そこには大量のエピソードと物語性があります。でも、キリスト教のように、主人公が生まれてくる前に数百年分くらいの(正確には知らんが)膨大な物語があるというのはツライです。
さて、キリスト教ですが、まずイエス・キリストとは何者か?です。ものすごく基本的なことながら意外と知られていないことは、イエス・キリストはユダヤ人だということです。ユダヤ教を信じるユダヤ人の中に生まれたれっきとしたユダヤ人であり、当時のユダヤ教司祭達のやりかたを批判し、宗教改革&活動をしていたヨハネ一派に属して頑張っていた青年活動家だったのでしょう。
キリストの史的実像は、実はあまりよく分かっていないようです。もちろん宗教的には沢山の物語が記されているわけですが、厳密な歴史的検証をクリアして認められる史実としては、そういう人がいて、当時のユダヤ教や信仰のあり方について何らかの活動をし、それがもとで公的に処刑されたらしいという程度で、細かいことはよく分からない。でも、こんなの分かるわけないですよ。エジプトの王様とか秦の始皇帝とか他の歴史上の人物だったら、それなりにエライし、やることも派手で物質的だから歴史的記述にも残りやすい。物証も豊富。例えばピラミッドとか万里の長城なんか巨大な「証拠」だもんね。でも、当時のイエス君の場合、その辺の街頭で演説したり、仲間とともに放浪したり、最後には官憲に捕まって一般の受刑者といっしょに処刑されてるわけで、いわばその生涯はそのへんのお兄ちゃんと変らんわけです。布教してた期間も短くて1年、長くても3年という短期間に過ぎなかったと言うし。これじゃ歴史的な証拠が残る機会にも乏しいでしょう。それは例えば僕やあなたが実在したことを、2000年後の連中がどうやって知るか?ですよ。僕ら別に歴史的業績なんか何にもしてないから記録にも残らないだろうし、2000年後にも残ってるだろう歴史的建造物なんかも作ってないでしょ。
ともあれイエス君は、当時のユダヤ教の教義や実践、運営のありかたに何か一言言いたかったのでしょう。それがどの程度の規模で、どの程度の深さとインパクトを持っていたのかはわからんのですが、少なめに評価すれば村の農協内部の若手改革派のリーダーレベルであり、多く評価すればユダヤ教の中で新派閥を構成する新興宗教としてのパワーはあったのでしょう。ユダヤ教とは異なる別種の宗教、キリスト教なのだってくらいの独自性が当時あったのかどうかはよう分からんです。そうなったのは後世の展開でそうなったのだと思うのですが、ただ、後日そうなりうるだけの革命的な内容を口走っていたんだろうなって気はしますね。
いずれにせよユダヤ民族内部のユダヤ教に関するあれこれに関わっていたということで、イエス先生はユダヤ人であり、中東人です。後日、ヨーロッパ社会でキリスト教が広まり、段々勝手にイメージがふくらんで、「痩せてスラリとした金髪でハンサムな若者」というキリスト像が出てきますが、実物は、ビン・ラディンやフセインみたな濃い顔をしていたんじゃないかと思われます。なお、余談ですが、ユダヤ民族がヨーロッパで迫害されるのは、キリストを裏切り、殺したのはユダヤ人だからだという部分があったりするらしいですが、でも当のキリスト本人もユダヤ人なんだから、それって変な理屈のような気もします。ともあれ、世界で最も有名で、最も愛されているユダヤ人が、イエス・キリストだってことなのでしょう。
イエス・キリストという名前ですが、イエスが名前で、キリストが姓ではないです。キリストというのは救世主という意味で、もともとはヘブライ語の「メシア」(香油を注がれた者)という意味で、それがギリシャ世界に渡りギリシャ語の「クリストス」になり、これを日本語的に発音すると「キリスト」になるという。英語では、ご存知のとおり「クライスト」と発音します。意味としては「救世主イエス」という意味で、卑近な意味では、通り名や二つ名ってやつですね、「遠山の金さん」「哭きの竜」みたいなもんでしょう。
でもって「イエス」ですが、英語では「ジーザス」といいます。しかし、タイムマシンで当時にいって、キリスト本人に「イエスキリスト」と呼びかけても、「ジーザスクライスト」と呼びかけても振り返ってくれないでしょう。だって、本人は自分の名前だとは思わないでしょうから。このあたりの呼び名とか発音の仕方が難しいのですね。もともとイエス本人は、西方アラム語の方言を使っていたらしく(ヘブライ語も使ってたらしいが)、この西方アラム語というのは当時はオリエント社会の国際言語として使われていたらしいものの、現在は消滅しているので(東方アラム語はあるらしい)、実際になんて発音したのかわからない。だから、イエス本人が自分の名前のことを正確になんと言っていたかは、今となってはよう分からんのでしょう。
イエスは、アラム語では「イェーシュア/Yeshua」というらしく、これがユダヤ言語のヘブライ語になると「イェホーシューア(ヨシュア)/Yehoshua」になるそうです。当時のユダヤ社会ではわりとよくある名前だったらしい。さらにギリシア語になると「イエースース/Iesous」になり、「イーサー」「イエスス」などの言い方になったりもします。日本でも昔は「イエズス会」とか言ってたのですが(後にイエスに統一)、その方が原音には近かったのでしょう。ともあれ、なんせ昔のことでもあり、現在に至るまで、西アラム語、ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語と経て、その都度のその言語流の読み方をし、さらに今日にでは英語風あるいは日本語風にツイストがかかってますから、ジーザス・クライスト、イエス・キリストという本人が聞いてもよくわからない呼び方になっているのでしょう。特に英語はひどく、「ジーザス?なんじゃ、それ?」ってなもんでしょう。世界史的にいえば、英語などヨーロッパの辺境の訛りのキツイ田舎方言に過ぎませんからね。
イエスの死後、その弟子達がイエスの言葉を各地に伝承して廻った原始キリスト教時代が続きます。ローマ帝国で正式に国教として定められる頃(380年)にはかなり大きな宗教団体となり、教義も徐々に整っていったのでしょう。ギリシャあたりを中心に東ローマ帝国で広まっていった東方正教会(ギリシャ正教会、オーソドックス)と、ローマ帝国→西ローマ帝国→西ヨーロッパに広まっていった西方教会(カトリック、プロテスタント)、さらにそのいずれにも属さない東方諸派という大きく三つの流れがあるとされています。
キリスト教の教義ですが、これもねー、現在時点で30億人×歴史的に2000年の年月を経てやってるだけに、微細な差異まで含めれば天文学的な数の宗派があっても不思議ではないです。ただ、381年に第1回コンスタンティノポリス公会議で、キリスト教を自認する各派が集まり、教義統一のためのサミット会議をやってくれてますので、ある程度はカッチリした内容として残ってくれています。これ、やっててくれなかったら、今頃は散り散りバラバラになっていたかもしれませんね。
この公会議で決議されたニカイア・コンスタンチノポリス信条というので、いちおう「キリスト教というのはこういうもの」という大綱が定められていますが、それによるとキリスト教というのは、
@神は三位一体である
A父は天地の創造主である
Bイエスキリストは父の子である神であり、父ともに万物を創造した
Cキリストは聖母マリアから処女生誕である
Dキリストは人類の原罪を贖うべく十字架で刑死し、3日後に復活、昇天。いずれ再臨し死者と生者の全てを審判し、永遠に支配する
E聖霊もまた神である
Fその他教会、洗礼、来世の生命など
あたりの事項を教義の骨格として持っているということです。そして、個々の解釈や意義付けについて各派に別れているという。
この基本的事項と異なる信条を持ちつつ、なおもキリスト教徒であると自認している人を「異端」と呼ぶそうです。最初からキリスト教でもなんでもないわいと言ってる人は、異端ですらなく、「異教徒」ですね。異端は、英語では"heresy"(ヘラシー)異教徒は"pagan(ペイガン)" 。
さて、こういった基本的な初期設定としての「おはなし」を受け入れるかどうかですが、それは個々人の内心の問題だから各自の判断だけど、僕の場合、受け入れるかどうか以前に、よく理解できないことがあります。それが例えば「三位一体」という概念です。聖霊ってなによ?なんで3つに分かれてるの?という。
三位一体ですけど、ネットでいろんな文献を読みあさりましたが、どうにも「なるほど!」と分かった気がしない。「”父なる神”と”ロゴス である子なるイエス・キリスト”と”聖霊”の3つが、皆尊さが等しく、神は固有の三つの位格(自立存在)でありながら、実体は同一であるという意味」とか説明されたって、分かりますか?これはハッキリ言って哲学です。
いろいろな解説が付されていますが、三位一体のうち、「父なる神」は、まあ天に神様がいるんだということで一番まだ分かりやすい。次にキリスト(子)は、神が人の姿としてこの世に現れ神の言葉を人類に伝えたという、一種の神の「表現」であり、神様のライブなのでしょう。天に神様がいるといっても、いるだけだったら誰もそんなこと分からないから、「いるんだよ」と教えてくれる人が必要であり、神とはなにか、なにを考えているのか、どうせよというのかというあたりをガイドしてくれないとならない。そのためにイエスという人間、その生きざまと言葉という表現をしたのでしょう。ロゴスというのは、キリスト誕生頃まで、かの地で流行っていたヘレニズム文化のストア哲学の基本概念ですので、キリスト教を教義として成立させようとした時期、これらの影響を受けたのでしょう。
ところで、「父と子」までは「神様が人間の姿を借りてこの世に現れ、なんらかの自己表現をした」ということで、ある意味「よくある話」で分かりやすい部分はあります。特に「人の姿をして現れ」という部分は、日本昔話の「鶴の恩返し」やら、世界各地でその種のパターンの発想は見られます。まあ、なんで「神様がキリストの姿をして出てきた」といわずに「父と子」という別人格っぽくなるのよ?なんでそんなややこしい説明するのだ?って部分はありますけどね。「神は固有の三つの位格を持ちつつ、実体は同じ」ってどういう意味なの?という、だからこのあたりの発想がストア哲学なんかな?って気もします。
一番ナンギなのが「聖霊」というシロモノです。早い話が、「神様エネルギー」「神様パワー」らしいです。全世界に酸素のように、エーテルのように充ち満ちている神様のエネルギー。しかし聖霊とは何か?について、新約聖書も曖昧な表現しかしていないし、この聖霊理解をめぐって宗派が入り乱れているといってもいいです。昔も今も聖霊の同格性を否定したり、三位一体を認めない宗派も沢山あります。ニケア公会議以降、三位一体を認めない宗派は「異端」扱いされてますが。また、聖霊が父から出てくるのか、父と子から出てくるのかの解釈を巡って、教会の東西対立が起きてます(フィリオクエ問題)。
聖霊の存在を、やや意地悪く解説するなら、「無いと困るから考え出された」という理解があります。旧約聖書においては、神がやたら登場します。誰かの前にゴゴゴと出てきて、あーしろこーしろと言ってくれます。しかし、そんな話は昔々の昔話だから言えるのであって、新約聖書のように新しい時代に明らかに人間が執筆しているときに、そんなに気軽に神様を登場させるわけにはいかない。嘘くさいですもんね。でもキリストはもう天に帰ってしまっている。だからこの世には、神様もでてこないし、キリストもおらん。「誰もおらんやん」ってことになるわけで、そうなると新約聖書って普通の人が書いた普通の文章ってことになってしまう。それが「聖書」と呼ばれるためには、何らかの意味で「聖性」がないと困る。そこで、神も子もいないけど、神様パワーはこの世に満ちていて、その聖霊が新約聖書の筆者達を霊的に感化させて執筆させたのだ、という説明が考案された。この神様パワーを「聖霊」と呼ぶのだという説明です。
僕なりに理解すると、この世に充ち満ちているパワーというのは、要するに万有引力のように、電気やイオンのような自然現象みたいなものをイメージすればいいのでしょう。そして、聖霊パワーは、電灯をつけたり、インターネットをさせたり、リンゴを大地に落としたりするかわりに、人々の魂に働きかけ、キリスト教的なる神の精神=愛や善を喚起させる。僕らが日々生きていて、「あ、愛しいな」と思ったり、「可哀想だ、なんとかしなきゃ」と思うとき、そこには神の愛パワーたる聖霊の働きかけがあるのだという、、、、ことなんじゃないかな?って思ったりもします。まあ、いろいろな理解があるとは思いますが。
なお、キリスト教も後に下るにつれ、ルネサンスを経て、宗教改革&プロテスタントを経ていきますが、ここで興味深い指摘があります。イタリアや南米のようなカトリック系は伝統的な「全ては神の御心のままに」という意識が強く、逆にいえば人間個々人はそんなに努力しなくても「聖霊が何とかしてくれるよ」という楽天的な発想になり、ラテン系の大らかさ、いい加減さにつながっていく。でも、ドイツなどのプロテスタント系になると、宗教改革の影響がモロに出てて「個人が努力せなあかんのじゃい」という意識が強く、ゆえにクソ真面目で陰気になる傾向があるという。なるほどねという気はしますね。
ちなみに、「この全ては神の御心」という発想は、浄土教(浄土宗、浄土真宗)の「他力本願」の発想に近いものがあります。全ては阿弥陀如来様の立てた願い(本願)によって物事は流れていくのだというのと、「全ては神の〜」というのは考えた方としては似てます。神様が作った強大なパワーの流れ、この世の力学法則に個々の人々は乗って流れていくのだという発想。ところで浄土教において救われるかどうかはひとえに信心、信じるかどうかであり、念仏「南無阿弥陀仏」と唱えるかどうかは関係ないそうです。誤解されやすいのですが、「南無阿弥陀仏」にはそんな現象を引き起こす呪術性はなく、あれはたんに「ありがとうございます」と感謝の言葉を述べているに過ぎない。また、ここ10〜20年ほど日本語日常会話に出てきた「〜させていただく」という表現があり、「あやまった敬語用法」「過度に卑屈な表現」としてこれを毛嫌いする人も多いです。確かに敬語用法としては間違っているのであまり多様しない方がいいのだろうけど、あれはもともとは浄土教の信者の言い方らしいですね。現在自分がこの場で生きていることすら、阿弥陀様の打ち立てた宇宙法則にのっとって生じている現象なので、その事実の認識と感謝を表わすために「南無阿弥陀仏」と唱えるとともに、「今日も一日健やかに過ごさせていただいている」という表現になるという。だからスジ論を言えば、「〜させていただく」という表現をされたら、「日本語として間違ってるんじゃないの?」という指摘はアリでしょうが、「いえ、ウチは代々真宗ですから」と返されたら、「おお、これは失礼、信教表現の自由ですな」と詫びるのがスジなのかもしれません。まあこんなこと意識して日常会話してる日本人なんかあんまりいないと思うけど。余談でした。
三位一体についてあれこれ書きましたが、しかしこんな高邁なストア哲学、世界34億人のキリスト教信者達はちゃんと理解しているのかしら?疑問だったりします。そして、キリスト教に入信するのに、こんなクソ面倒臭い理論を理解しなくてはならないのでしょうか?これはもっと疑問だったりします。
また、マリア様の処女懐胎にせよ、キリストの復活にせよ、最後の審判にせよ、これらを信じないとキリスト教信者になれないのでしょうか?これも疑問なんですよね。別にキリスト本人はそんなこと言ってないように思うし、イエスという青年は、そーゆーことを言いたかったのかどうか?人間が本来持っている善性、愛をもっと自覚した方がいいよ、その方が満ち足りて生きていけると思うよって言ってたのではあるまいか。
そして、数多くのキリスト教信者の皆さんは、キリスト教のそういった素朴な部分にハートを打たれて入信しているのではなかろうか。聖霊概念の緻密な検証やら、今回は述べなかったですけど教会概念における使徒性と継承性とでどちらを重視するかなんかあんまり考えていないじゃないかな。キリスト教が世界最大の信者を獲得している本質的な理由は、人間愛というシンプルな分かりやすさ、そしてそれをタテマエだけではなく実践するボランティア精神があったらだと僕は思う。決して稠密な教義体系が素晴らしかったというだけでもないのでしょう(国家権力や他勢力との競合を突破する力にはなっただろうけど)。
最初に書いたように、調べはじめて「だー!」と投げ出したくなったのは、そのあまりの複雑さ、膨大さ、枝葉末節さによります。しかし、よくよく考えてみると、そういった教義の複雑さや、聖書の成り立ちや内容なんてのは、いわばマニアの世界であり、キリスト教インダストリーのプロフェッショナルな業界情報であり、キリスト教オタクの細密な情報に過ぎないのではないかって気がしてました。もちろん、それが悪いわけではなく、キリスト教専業従事者の方々の営みを馬鹿にするつもりは毛頭ありません。真剣にやればやるほど細かなことでも揺るがせにしたくなるという心理も分かります。ただ、プロの世界のプロの解説やマニアックな分別の方が情報量も多いし、解説も精緻だし、「調べる」となるとどうしてもそういう情報が先に出てきますからそっち系統にいきがちですが、あんまりそっち方面に流れていくと、皆に信仰されているキリスト教というリアルな実在や肌触りが分からなくなってしまう怖さがあるなと思ったわけです。
さて、これでキリスト教が分かったかというと、全然ですよね(^_^)。
まだカトリックとプロテストタンとがどう違うかも分からんし、オーストラリアに住むならイギリス国教会(アングリカン)の理解も必要だろうし、なんでバチカンはあんなにエライのとか、ビショップとかアーキビショップとかの階級制とか、知らんことは山ほどあります。まずは、とっかかり部分だけでも。
文責:田村
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