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今週の1枚(08.11.10)






ロナルド・レーガン

     ロナルド・レーガンは、アメリカでは珍しいアイルランド系の大統領です。他に有名なアイリッシュ系の大統領といえばケネディがいます。レーガンは、1981年から1989年までお二期大統領を勤めてますから、80年代はほぼレーガンの時代と言ってもいいでしょう。


     ご存知のようにレーガンはハリウッド俳優出身です。経歴を見ると、大学卒業後、最初はラジオのアナウンサーになります。特に野球の実況中継をやっていたようですが、幼い頃より話術と演技が上手だったレーガンはここで頭角を現し、20代後半から30代の頃に俳優として映画に出ています。大スターというほどではないにせよ、出演作が20本以上あり、主役も張ってますからそこそこ成功していると言っていいでしょう。徐々に司会業などTVに舞台を移していったレーガンは、同時に政治にも目覚めてきます。映画俳優組合の委員長あたりが振り出しだと思いますが、労組というリベラルで始まりながらすぐに保守化し、ハリウッドの共産主義者摘発(赤狩り)に協力しています。このあたりで人脈を作ったのでしょう。なお、29才のときに女優のジェーン・ワイマンと結婚しますが、レーガンの政治志向と奥さんの女優志向がうまくいかず8年後に離婚(唯一の離婚歴のある大統領)。

     1967年(56才)のときにはカルリファルニア州の知事に当選。当選の翌年に大統領選に色気を出しますが、予備選の段階でニクソンに勝てず敗退。カルフォルニア州知事を2期勤め上げた後、1976年に再び大統領選に打って出ますが現職のフォード大統領に勝てずに共和党指名を受けられません。80年に三度目の挑戦をしたときは楽勝で党指名を受け、大統領選挙では、イラン大使館人質事件の対応に苦慮していたカーター大統領を破って当選。以後、圧倒的な強さで84年の二期目も大統領として選ばれます。

     レーガンは、いわゆるタレント議員の走りではありますが、まんざら知名度だけで議員になったわけではなく、俳優時代の労組委員長経験や以後の政治活動、さらに州知事時代の経験があるわけで、ケネディのように最初から政治家のプロとして進んできたわけではないにせよ、それなりのキャリアはあります。俳優出身というか、天性のものだと思いますが、大衆の心をつかむ話術やユーモア感覚に優れていたし、またTV写りや「見栄え」という効用を知り尽くしていた(その方面に関してはプロだし)こともあり、アメリカ国民からは今でも親しまれ、敬愛されています。

     しかしレーガンが天下を取り、時局の運営を思い通りに出来たのは、単に見栄えとか話術というビジュアルなものではなく、彼の政治スタンスが時代の要請に合ったのでしょう。時代に見いだされたというか。彼はタカ派で保守主義だと言われますが、彼の発想のコンセプトは「小さな政府」に基づいた自由主義です。以後、現在に至るまで新自由主義といわれる一連の系譜で呼ばれるもので、この信奉者であったレーガンが時代にジャストフィットしたと。





     レーガンの政策はある意味一貫していて、内政においては大幅減税と積極的な財政による経済活性化(レーガノミックス)、外交においては軍事強化のコワモテ政策であり、いずれもイケイケ政策です。合い言葉は「強いアメリカ」。ベトナム戦争やデタント(軍縮)以来、アメリカのコンセプトは言うならば「我慢と平和」でありました。それはそれで正しいのだろうけど、イランに1年以上も大使館員を人質に取られても有効策を講じ得なかったりして、アメリカ国民としてはフラストレーションが溜まる日々が続いていたわけです。またニクソン時代の米中接近のような世界多極化をにらんだ戦略も正しいんだけど、よほど国際政治に精通していないとその真価が分かりにくかったりもします。

     そこへいくとレーガンは分りやすい。ドンパチやるから歯切れも景気もいい。レーガンは、デタント=米ソの軍事力を均衡させ、そのバランスに基づいて平和を築く=だけでは本質的な解決にならず、いたずら閉塞状況を長引かせるだけであり、これ以上話をしててもラチが開かないから「力による平和が必要だ」と説き、デタントから180度方針を転換します。そして、ソ連と「悪の帝国」と名指しで非難し、正面切って敵対します。国防予算を大幅に増大させ、いわゆるスターウォーズ計画を展開します。荒っぽい戦略のようですが、結果的にはこれが成功します。もともと国家体力が落ちているソ連はアフガニスタン侵攻でさらに疲弊してるから、ここで軍拡スパートを掛けてソ連の国力を破綻に追い込み、内部崩壊させるというストーリーですが、そのまんま話が進んでしまいます。こういう政策というのは国民にとっては分りやすいし、軍拡ともなればアメリカを裏から仕切る軍産複合体も支持します。

     レーガノミックスと呼ばれる減税+財政出動は、要するに政府の金庫をカラにして政府が大盤振る舞いをすることで景気を良くしていこうという政策です。これも国民や財界に金をバラまく、一種のバラマキ行政なのですが、これもまんまと成功し、アメリカは長期にわたる好景気を享受します。景気というのはかなり人間のメンタルな部分が作用します。明日は今日よりもお金が入ると思えたら人々はお金を使うようになり景気が良くなりますが、明日は今日よりも厳しいぞと思えば財布の紐もかたくなり、景気が悪くなる。レーガンという人は天性の陽気さと力強さという、いかにもアメリカ人好みのキャラクターを備えた人で、彼が山のてっぺんでドンドン太鼓を叩いていたら、皆も陽気な気分になり、景気が良くなったということでしょう。もちろん種々の経済要因は複雑に絡んではいるのですが、レーガンの個性や姿勢というものが大きな影響を与えたと思われます。



     しかし、こういった政策というのは一歩間違えたらドボンです。レーガンというのはラッキーな人でもあり、米ソ冷戦終結劇もたまたまソ連にゴルバチョフという立派な幕引き役が出てきてくれたからこそ上手くいったわけで、ここでまたスターリンみたいな奴がソ連のトップに立ってたらヤケクソになって核ミサイルのボタンを押していて、人類は取り返しの付かない結末を迎えていたのかもしれません。また、レーガノミックスも、結果的に景気が良くなったとは言いながらも、以来アメリカは巨額な財政赤字と貿易赤字(いわゆる「双子の赤字」)を抱え込むことになります。第一次、第二次大戦中ないし戦後において国力を充実させ、リッチな国だったことがアメリカの世界的地位を築く基礎になっていたことを考えれば、景気はいいけど借金だらけという体質になってしまったことは、後世にの負の遺産として残ってます(その大きなツケが今やってきている)。これで景気もよくならなかったら、ソ連より先にアメリカが破産していたでしょう。だからかなり危険な賭とも言える政策なのですが、しかし時代はそれは求めたのでしょう。いい加減ウジウジ冷戦やってないで、経済を中心にした新しい世界秩序に移行しろという時代精神みたいなものが、レーガンの波長と共鳴したということだと思います。

     また、シンクロニシティではないですが、同じような傾向は各国で同時に起きています。民間経済を活性化するために経済の動きを妨げるシステムは極力撤廃するという規制緩和、福祉や保障を薄くし「貧しかったら働け」とばかりに政府の役割を小さくするといういわゆる新自由主義の流れは、イギリスのサッチャー首相、あるいは国鉄や公社民営化をガンガン進めた日本の中曽根首相など、妙にレーガンと波長が合う、コワモテで歯切れが良い政治家が天下を取ります。中曽根首相がレーガンと意気投合し、ロン・ヤスとファーストネームで呼び合う仲になったと得意げに吹聴し、「日本列島は不沈空母」などと口を滑らして叩かれたのは今でも記憶に残ってます。

     この新自由主義の流れ、すなわち小さな政府→規制緩和・自由競争→経済活性による景気高揚→最大多数の最大幸福の実現という基本コンセプトは、その後も世界的なメイン潮流として継承されます。第二次大戦後に作られた各国各制度が、そろそろ時代遅れになり、制度疲労を起こしていた頃ですから、このあたりで大きなリセットや新陳代謝を図るのは時代の要請だったのかもしれません。レーガンは州知事時代に、バイクのヘルメット着用義務化の法案を知事権限で破棄しています。ヘルメットを付けて安全確保をはかるかどうかは本人の選択の問題で、政府があれこれ押しつけるべきではないと述べ、国家のパターナリズムを否定しています。ヘルメットをつけずに事故で死ぬのも本人の選択だという自己責任論ですね。戦後、国力が低下し、食うや食わずの状況だった多くの国々では、国家が積極的に国民の生活の面倒をみることが求められたし、そのための制度や規制も沢山作られた。しかし、時代が下って豊かになっていくと、もはや不要なものも多い。かえってソ連的なお役所的非効率が目立つようになってきたので、「そんなに国家はあれこれ口を出さないでよろしい、好きにさせてやった方がいい」という発想です。これは一面正しいでしょう。



     その他、レーガンの政策でトピックなものを拾っていくと、アメリカに蔓延する麻薬問題について「麻薬への戦争」と銘打って、麻薬犯罪者をどんどん刑務所に収監しています。これが役に立ったのか、それとも刑務所人口の急増とと施設コストを増大させただけで結果としては役に立たなかったかは論者によって意見が分かれるようです。その頃新たに注目されていたAIDSについては、多くの専門家の警告を無視して有効な施策をうたず蔓延させてしまったということで、これは失点でしょう。しかし、強硬面だけではなく、人種差別については積極的に乗り出し、マーティン・ルサー・キング・ジュニア牧師の誕生日を国の祝日にしたり、第二次大戦中の日系人強制収容について謝罪と補償金を出したのもレーガンです。

     レーガン政権の功績は、上に述べた時代の移り変わりにフィットしたことだと思いますが、これはレーガン政権の功績というよりも、そういう姿勢を打ち出すレーガンを選んだというアメリカ国民、ひいては時代の空気がそうだったということでしょう。冷戦終結については、軍拡競争を敢えて挑みソ連をポシャらせたことが功績に数えられていますが、むしろソ連側の指導者であったゴルバチョフを評価し、敵対ムードをガラリと一転させて積極的に対話し、ゴルバチョフとともに冷戦を軟着陸させていった部分の方が大きいと思います。

     レーガン政権のマイナス面は、イケイケ経済による大幅な財政赤字ですが、中南米に対する覇権主義的な外交方針が反発を浴びている点も、地味ではありますが見逃せないところでしょう。中南米における共産政権や反体制ゲリラに対して強硬な姿勢で臨み、各国の反共勢力に対して軍事援助その他の支援を行っています。CIAもかなり暗躍しています。アメリカに敵視された政権は、必ずしも共産主義勢力ばかりではなく、単なる民族主義勢力もあり、要するにアメリカが気に入るか・気に入らないかで決まってたりします。このように他国に首を突っ込んで内戦を激化させた例としては、ニカラグア内戦、エルサルバドル内戦、グアテマラ内戦などがあります。グレナダ侵攻のように米軍が直接出て行ったケースもあります。

     もともとアメリカは、中南米に対しては自分の「裏庭」という意識から、覇権主義バリバリの介入をすることが多いです。その意味では、ソ連における東欧や中央アジアと同じで、大国が近所の小国群に対してあの手この手で内政干渉し、言いなりにならない勢力に対しては、それが政府である場合にはゲリラ軍を軍事支援し、それが反政府勢力だった場合には政府の秘密警察に協力して人権無視の弾圧をするという。これが巷で批判される「アメリカの正義」「ダブルスタンダード」というやつで、一方では人権外交を言いながら、他方では必要とあらば人権抑圧政権でも積極的に支援するという。このようなアメリカの態度に中南米は不信感を募らせ、今なおアメリカとの関係はぎくしゃくしています。

     レーガン政権においては、致命傷にはなってませんが、イラン・コントラ事件というスキャンダルがあります。このスキャンダルは2部に分かれ、@レバノンでヒズボラの人質にとられているアメリカ人の釈放のため、ヒズボラとつながっているイランに対し秘密裏に武器を売却したこと、A売却代金を、ニカラグアの反共ゲリラ・コントラを支援に流用した、ことが問題になってます。どちらも当時のアメリカ議会の議決に反するもので、レーガン政権とCIAの”陰でコソコソ”というダーティなイメージを裏付けるスキャンダルでした。




     
     レーガンは、就任直後に暗殺されかかっています。1981年3月30日、講演先のワシントンDCで狙撃され、一時は呼吸困難にまでなりながらも回復しています。大統領退官後5年にアルツハイマー病にかかっていることを公開し、以後長い闘病生活の末、2004年に死去し、盛大な国葬が行われたことは記憶に新しいところです。レーガンの退官時77才は大統領として最高齢であり、死亡時93才は歴代二番目の長寿だそうです。





ミハイル・ゴルバチョフ
     さて、ソ連です。
     ソ連では、18年間延々とブレジネフ政権が続きますが、1982年にブレジネフが死去した後にやっと世代交代が行われたものの、ブレジネフ時代が長すぎたのでしょうか、次期のアンドロポフ、その次のチェルネンコがいずれも短期の間に死去します。そのためソ連においてもグーンと世代が若返り、チェルネンコよりも20歳若いゴルバチョフが政権をとります。

     ゴルバチョフは就任時(1985年)54歳で、ソ連指導者としては最年少であり、大卒者の指導者というのも彼が最初で最後です。もっとも、ソ連って異様にリーダーが交代しないのですね。ソ連成立以来、レーニン、スターリン、フルチショフときて、もうブレジネフになるから、ソ連全期間通じて7人しか書記長がいません。

     ちなみに54歳がそんなに若いか?というと、クリントン大統領就任時46歳、今度のオバマが47歳というあたりと比べれば別に若くもなさそうですが、現在の日本の麻生首相が68歳、若そうに見えた小泉首相も首相就任時59歳です。安部首相の52歳でさすがに若いのですが、若さが原動力になったというよりは、幼い坊やキャラが炸裂して自壊してます。ゴルバチョフって麻生首相よりも9歳年上なだけです。ちなみに、麻生首相は小泉首相よりも年上だったりします。ともあれ、長期政権が続き、死なないと政権交代が起きないというまるで徳川将軍か中国の歴代王朝のようなソ連において、実力で54歳でトップに登りつめたゴルバチョフの力量というのは並々ならぬものがあるでしょう。

     もっともトップにたったゴルバチョフの見た風景というのは、あらゆるところで瀕死状態に陥ってるソ連の惨状でした。もう手術をしなければどうにもならないし、手術したら体力が持たないかもしれないという、どーしーよもない状況だったと思われます。もしかしたらゴルバチョフが若くしてトップに就けたのも、上の連中が逃げたからかも知れません。多分、北朝鮮で次のリーダーに就いた人は同じ思いを抱くのでしょうねー。



     ともあれゴルバチョフは社会改革に大ナタを振るい始めます。日本にも紹介されて皆知ってるロシア語になったペレストロイカ(改革)、グラスノスチ(情報公開)です。86年2月の党大会でペレストロイカをブチ上げた直後、4月に有名なチェルノブイリ原発事故が発生します。これは途方もない原発事故だったようで、飛散した放射能は広島原発300個分で、東欧はもとより一部はイギリスまで達したそうです。チェルノブイリは完全に人災ですが、事故発生に至る経緯もお粗末ならば、その後の処理は輪を掛けて劣悪。事故そのものは、原子炉の作動実験の際に起きてますが、作業員への教育不足や実験者の判断ミスなどであり得ないような複数のミスが重なり爆発に至ったそうです。この事故原因と経過については、今日なお論争があるようですね。

     問題はその後の対応です。事故直後に駆けつけた消防署員、救急職員、後片付けの清掃職員が大量の被爆を浴びて被害にあいますが、彼らは現場がどれだけ危険な状況であるかについては全く知らされていませんでした。また、付近住民にも事の重大さが知らされておらず、避難するのは事故発生から なんと丸一日以上経ってからだし、避難した場所もそのくらい離れて殆ど意味ないような近距離だったりします。ましてや、汚染した農作物も、捨てるのは勿体ないからといって全国に出荷されちゃったりして。被爆者50万人以上を出したこの事故は、徹頭徹尾人災の極致のようなものです。

     ゴルバチョフは、翌月に、この事故が人為ミスであることを発表し、管理体制や事故体制の欠陥を明らかにするとともに、だからこそ情報公開を促進して従来の秘密体質、隠蔽体質を変えないとならないのだと力説します。大体この事故がゴルバチョフの耳に入ったのは、スウェーデンの放射能検出という外国経由であり、下からは報告が上がってこなかったようで、それがまたゴルバチョフの苛立ちを深めます。

     以後ゴルバチョフはビシバシ改革をやります。経済統制を緩和して競争原理を導入するとか、アフガニスタンから撤退するとか、中国と仲良くするとか。しかし、個々の改革がどうというよりも、宗教団体のような共産主義ドグマをぶっ壊したという発想面でのコペルニクス的転回が凄いです。共産主義というのは、絶対的に正しい共産主義原理があって、それを絶対的に正しい党のエリートや前衛が立案し、絶対的に正しいから批判は一切許されず、党中央の指令のもと皆で一致団結して実現する、という論理だったわけですが、ゴルバチョフは「ペレストロイカに正解はない。試行錯誤でやっていくしかない」「党や政府の方針に対する批判は自由」と言い出したわけで、これでソ連国民はガビーンとなります。また、アメリカや中国と張り合ってなんぼの外交政策だったのに、積極的にレーガンと対話し(87年)、アフガニスタンからもさっさと撤兵し(88年)、中国とも対話をする(89年)という姿勢は、ソ連がソ連でなくなってしまうくらいの衝撃を世界に与えます。



     ゴルバチョフの内政は、彼の努力にも関わらずソ連をぶっ壊しただけ、停滞を破滅に追いやっただけと酷評されることもあるのですが、外交については評価は高いです。レーガンとゴルバチョフは85年のジュネーブが初対面ですが、この会談そのものは物別れに終ったものの、レーガンに「この男は信頼できる」という強い印象を与えたようで、以後、86年のレイキャビク、87年のワシントンD.C、88年のレーガン訪ソと何度も会っています。訪ソしたときのレーガンも、「今でも”ソ連を悪の帝国”だと思ってますか」とインタビューされたときに、明確にNOと答えています。実際、レーガンとゴルバチョフは個人的にもかなり親密になったようで、レーガンはソ連で改革を進めるゴルバチョフの身の危険をかなり心配していたらしいです。また、ゴルバチョフが書記長になる前に、イギリスに訪問してサッチャー首相と会見していますが、「彼と一緒なら仕事が出来る」とサッチャーから高評価を受けています。

     このようにアメリカとイギリスの最高権力者から個人的に信頼されるようになれば、そりゃ外交もうまくいくでしょう。ゴルバチョフと会ったあとのレーガンないし西側の潮流は、冷戦の末にソ連を打ち負かすのだという感じではなくなり、ゴルバチョフのソ連改革に協力しようという流れになっていきます。しかし、これは外交政策というよりも、ゴルバチョフ個人の人間的魅力というか人間力による部分が大きいのでしょうね。

     あとでも述べるようにゴルバチョフによってソ連の風向きの変化を察知した東欧では雪崩を打って東欧革命が進展し、1989年にはベルリンの壁崩壊という象徴的な出来事が起きます。その直後、ゴルバチョフは地中海のマルタでレーガンの後継者である(パパ)ブッシュ大統領と会談し、冷戦の終結を宣言します。

     さらにゴルバチョフの改革は進み、1990年3月の人民代議員大会では、大統領制の導入、共産党独裁の放棄と複数政党制の導入、私的所有の大幅拡大という憲法改正案が採択され、ゴルバチョフはソ連の最初で最後の大統領に就任します。



     しかしながらゴルバチョフの改革は必ずしも成功したとは言いにくいです。ソ連、共産主義という強烈なドグマ、タガを外してしまったことによる未曾有の混乱がソ連を襲います。パンドラの箱を開けてしまったようなものです。ゴルバチョフは西側世界においては絶大な人気を誇り、おそらく第二次大戦後の政治家としてはケネディと並ぶくらいの人気を集めているでしょう。しかし、ソ連やロシアでは評判が芳しくないです。ブレジネフ時代の方がまだマシだったという人もいるようです。

     ゴルバチョフの改革は、ソ連に巣食っていた秘密体質や抑圧的で硬直しきったシステムなどの抜本的改革を目指すもので、その方向性は正しいです。また、ほとんどオカルティックなまでの共産党絶対主義を廃して、表現も批判も自由な社会を造ろうという方向性もまた正しい。しかし、その正しさは満ち足りた国の知的水準の高い世界での正しさであり、食うや食わずで生活に喘いでいる庶民にとっては表現の自由とか、共産主義の理論的正当性への懐疑なんかどうでもいいし、考える余裕もないでしょう。ゴルバチョフは、かなり聡明な人だしパリパリのインテリでもあります。だから、地元ソ連よりも西側において高く評価されるのでしょう。また、レーガンやサッチャー、さらに時代そのものが志向する新自由主義の流れを、ゴルバチョフもまた汲んでいますから、彼らとも意気投合できるのでしょう。

     しかし、ラフな一般庶民の世界では、清潔な理念論や聡明さよりも、人情に厚い親分肌であるとか、腕っぷしが強く、肝っ玉が太いということの方が訴求力があったりします。確かにソ連の破産財政を考えれば、アフガニスタンに出兵しているヒマはないし、共産国仲間の中国と喧嘩してる場合ではないです。また、湾岸戦争でアメリカと角突き合わすのも得策ではないからイラク支持を引っ込めます。東欧においても抑圧的な覇権主義を続けていく論理的根拠もなければ、財政基盤もないです。だから彼の目指した方向は正しい。しかし、アフガニスタンから手を引いたら、これまでソ連の支援を頼みの綱にしていた親ソ政権が危なくなることを意味しますし、それは東欧でも同じです。東欧革命の際にルーマニアのチャウシュエスクは処刑されてしまっています。ソ連がそれを見殺しにしたということは、「人情味の厚い親分」という部分で欠落します。また、これらソ連傘下のエリアからの撤兵は、それまで多大な犠牲を払ってきたソ連軍部や諜報機関にとっては釈然としない気持ちも大きかったでしょう。つまり正しければいいというものではなく、正しさと人気や人望はまた別物だということです。

     ゴルバチョフは混沌が渦巻くロシアをなんとかバランスをとりながらコントロールしていこうと腐心してきました。しかし、そのバランスを取ろうとする行動が、はたから見たら優柔不断だったり、ヌエ的に見えたりもします。ゴルバチョフの政権末期になると、激しい守旧派の突き上げと、もっと激しいウルトラ急進派のエリツィンの板ばさみになります。守旧派と手を組みリトアニア等の傘下エリアの独立運動を抑圧する側に廻ることもありました。ゴルバチョフのやろうとしていたことは、西側自由主義の良いところを取り入れて共産主義ロシアをリストラすることですが、自由主義を取り入れながら共産主義やソ連の枠組みをキープすること自体が至難のワザです。というか不可能。少なくともそんな短期間にやるのは無理で、やろうとおもったら中国のように時間をかけて市場開放し、しかし同時に天安門事件のように人民弾圧を躊躇わないという「恐い政府」をキープし、共産党一党独裁も崩さないでやっていくしかないのでしょう。

     ゴルバチョフという人は、頭と性格が良すぎたのかもしれません。混乱を収拾するのに手っ取り早いのは暴力と恐怖ですが、恐怖で統治しようというのは彼の趣味には合わなかったのでしょう。また、なんとか混乱を収拾しよう、全体の均衡を取ろうとするから、バランスに配慮しなければならず、それが右顧左眄のようになって、逆に求心力を失っていくことになります。



     ゴルバチョフの後に天下を取ったのはご存知のエリツィンですが、彼はフルチショフのような暴れん坊将軍で、行動や人格にかなり問題があったと言われますが、それだけにインテリが持ってる弱さが無いです。野性的なタイプのエリツィンは、インテリ肌のゴルバチョフとは波長が合わず、政争に敗れて失脚させられますが、民衆の支持で当選し不死鳥のようによみがえってきます。エリツィンは、ゴルバチョフ以上の急進的な改革派ですが、そんなに急激に改革したら国が無茶苦茶になってしまいます。でも、エリツィンはそこまで考えてないというか、まあ考えたのでしょうけど、無茶苦茶になってもいいという腹の括り方をしているように思います。実際、後日エリツィン政権になってから、ソ連経済は無茶苦茶になって、92年には前年比2500%という嘘みたいなハイパーインフレがロシアを襲ってます。しかし、ゴルバチョフは理性が邪魔をするのか、急進的に踏み込めません。ロシア共和国大統領になったエリツィンは、(彼からみれば)微温的なゴルバチョフから政権を強引に奪取するため、ロシア共和国がソ連から脱退独立するというウルトラCを宣言します(90年5月)。ソ連の中核的な部分がソ連から脱退するわけで、この調子で各共和国が脱退したら、ソ連はもぬけの空になり、ゴルバチョフがソ連の大統領といっても内実のないものになります。

     このようなエリツィンの台頭によって危機を感じていた保守派は、1991年8月に軍事クーデターを起こし(8月クーデター)、別荘にいたゴルバチョフ夫妻を拘束し、軟禁してしまいます。この保守派のクーデターに対し、市民が立ち上がって反対運動を起こしますが、先頭にたって民衆を鼓舞したのがエリツィンであり、戦車の上に立って呼びかけるエリツィンの映像が全世界に配信されています。この見せ場で完全に男を上げたエリツィンは、強いリーダーシップを求める民衆の支持を得ます。ゴルバチョフの政治的影響力はこの時点で終焉し、以後はエリツィンの天下になります。

     もっとも、エリツィンがゴルバチョフ以上に見事にロシアを切り回したかというと、それは疑問で、前述のように経済混乱を引き起こしたりします。ただし、ゴルバチョフと違って、蛮勇ともいえる剛腕を振るうので、それなりにロシアは国家としての体を保ちます。蛮勇といえば、エリツィンは、彼の大統領解任を決めた最高会議の決議に従わないばかりか、正面切って逆らい、最高会議ビルを戦車で砲撃したりしています。もう無茶苦茶なんだけど、あそこまで確信犯的にやられると世界も納得してしまうという。以後、エリツィン政権下であれこれ政策を重ねますがどれもパッとしないのですが、エリツィンのずるいところは経済政策が失敗すると、それを担当した経済相や首相のせいだとしてクビにしちゃうところですね。部下のせいにしてしまう。で、たまに何かに成功して首相が国民の人気を博するようになると、それも気に食わないからクビにすると。二期目の選挙のときも、かなり国民の人気も低下していたのですが、アメリカから選挙アドバイザーを呼んだり、TVの前で踊ったり、かなりなりふり構わぬ選挙戦を展開、混乱に乗じて成り上がったロシアの新興財閥の援助を求め、それがまた腐敗に輪をかけるという。

     以上、ブレジネフが停滞させたソ連を、ゴルバチョフが転機を作って崩壊させ、エリツィンが原型をとどめないほど完全にぶっ壊したという流れになると思います。





     以上、書いていて考えさせられることが多いです。
     「時代」というのはあるんだなあ、と。「天命」というか何というか、「天は必要なときに必要な人材をこの世に生み出し、その役目が終わると惜しむかのようにたちまち回収する」というのは、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の一節だったかに書いてありましたが、日本でも戦国時代や幕末の頃に集中豪雨のように偉大な人物が輩出します。あたかも工具の選定のように、叩き壊すときはハンマー的人材が、磨くときはヤスリ的な人材が出て、その工程が終わるとチャッチャと退場するという。

     レーガンは、今冷静に考えてみてもそれほどぬきんでて優秀な政治家だったとは思えないのですが、時代がまさにレーガン的なるものを求めたのでしょう。レーガンは、本来の地のまま行動していたら、それがそのまま時代の要請に合ってしまったという幸福な政治家だったように思います。あのままチマチマ軍縮を続けていたら、ソ連の破産状態は先延ばしにされていたでしょうし、そうなればゴルバチョフ時代の変革を求める内圧も高まってなかったかもしれない。また、レーガンの相手方としてゴルバチョフが出てきたというのも、まさに天の配剤のようなものです。西欧的価値観や自由主義志向を持つインテリ・ゴルバチョフは、西側としては「話のわかる」願ってもない理想的なソ連の指導者でしょう。だからこそ、第二次大戦後の世界レジームであった東西冷戦を、あれだけなごやかに終焉させることができたわけで、これがエリツィンとゴルバチョフで順番が逆だったらどうなっていたかわかりません。

     また、戦後40年以上続いたソ連体制が崩壊すれば、長年の膿が一気に噴出すから、誰がやったってうまく行くわけないです。世の中は当然のごとく乱れるわけですが、そこを何とか纏め上げるのは、ゴルバチョフのような理性的なキャラではなく、腕っ節一本でのし上がるエリツィンのような剛腕キャラなのでしょう。そういえば断食などの自然療法においては、施行してからしばらくは、それまで不健康状態に溜めつつ抑圧していた毒が一気に出てくるので、症状は逆に非常に悪くなるけど、それは「毒出し」という必要な過程だといいます。国家もそれと同じなのかもしれません。ソ連を一新させようとしたら、まずソ連時代の毒を出し切ってしまわねばならず、ゴルバチョフはその毒にあたったようなものでしょう。その毒に対抗できるのは、「毒がなんぼのもんじゃい」という強烈キャラのエリツィンだったのかもしれません。




    過去掲載分
    ESSAY 327/キリスト教について
    ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
    ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
    ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
    ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
    ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
    ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
    ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
    ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
    ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
    ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
    ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
    ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
    ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
    ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
    ESSAY 343/キリスト教+西欧史(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
    ESSAY 344/キリスト教+西欧史(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
    ESSAY 345/キリスト教+西欧史(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
    ESSAY 346/キリスト教+西欧史(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
    ESSAY 347/キリスト教+西欧史(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
    ESSAY 348/キリスト教+西欧史(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
    ESSAY 349/キリスト教+西欧史(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
    ESSAY 350/キリスト教+西欧史(その23)〜フランス革命
    ESSAY 352/キリスト教+西欧史(その24)〜ナポレオン
    ESSAY 353/キリスト教+西欧史(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
    ESSAY 355/キリスト教と西欧史(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
    ESSAY 356/キリスト教と西欧史(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
    ESSAY 357/キリスト教と西欧史(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
    ESSAY 359/キリスト教と西欧史(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
    ESSAY 364/キリスト教と西欧史(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
    ESSAY 365/キリスト教と西欧史(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
    ESSAY 366/キリスト教と西欧史(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
    ESSAY 367/キリスト教と西欧史(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
    ESSAY 368/キリスト教と西欧史(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
    ESSAY 369/キリスト教と西欧史(その35) 〜第一次世界大戦
    ESSAY 370/キリスト教と西欧史(その36) 〜ベルサイユ体制
    ESSAY 371/キリスト教と西欧史(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
    ESSAY 372/キリスト教と西欧史(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
    ESSAY 373/キリスト教と西欧史(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
    ESSAY 374/キリスト教と西欧史(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
    ESSAY 375/キリスト教と西欧史(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
    ESSAY 376/キリスト教と西欧史(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
    ESSAY 377/キリスト教と西欧史(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
    ESSAY 379/キリスト教と西欧史(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
    ESSAY 380/キリスト教と西欧史(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
    ESSAY 381/キリスト教と西欧史(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
    ESSAY 382/キリスト教と西欧史(その47) 〜欧州の葛藤と復権
    ESSAY 383/キリスト教と西欧史(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
    ESSAY 384/キリスト教と西欧史(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命


    文責:田村




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