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今週の1枚(2009/06/01)



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ESSAY 413 : 世界史から現代社会へ(75) 中国(1) 

ケ小平と改革開放経済


写真は、Marouburaの波しぶき。望遠レンズで撮ったのですが、なかなか日本の浮世絵の波みたいな感じで面白く撮れました。





 今週から中国に入ります。
 BRICs諸国であるブラジル、インド、ロシアまでやったので、BRICs最後の国になります。といっても、別にBRICs特集をしているわけではないし、現にトルクメニスタンとか地味な国もしっかりやってきています。が、やはり注目されている国はやはりそれだけの理由を持ってますし、それをキッチリ押さえておこうかと。BRICsのトップバッターでブラジルをやったときに、いかに今までモノを知らなかったのか&知ったつもりになっていたのか思い知らされましたし。

 でも、中国、やりにくそうで腰がひけてました。
 このシリーズ(現代世界編)になって、「うーん、やりにくいなあ」と密かに思っているのはアフリカ諸国、それと中国とアメリカです。アフリカは、あまりに混沌として分らなさすぎるのでどこから手をつけたらいいのか途方に暮れるといった感じなのですが、中国とアメリカはその逆。妙にいろいろ知ってるだけにこれ又切り口に迷います。多くの日本人が中国やアメリカには行っておられますし、恒常的に関係していたりもするでしょう。皆さん、僕なんかよりも遙かによくご存知でしょうに、この上僕ごときを何を書くのか、屋上屋を架するようなものではないか?ということが一つ気になりますよね。また、断片的な情報は僕ですらもよく見分しますので、もうそれでいいじゃないかって気もするわけですね。それに中国なんて、日本史と重ね合わせられるくらい長い付き合いのある国ですし、論語やら三国志やらパンダやら馴染みも深いです。

 でも知ってるつもりで全然知らんかったということは、これまでの経験からも多々あるわけです。このシリーズもキリスト教から数えてもう75回目ですけど、「やっても意味なかったな」という回は一回もないです。やればやっただけのことはあるわけで、それまでの見方ががらっと変わったことも多いです。ですので、中国も「知ってるつもり」が沢山あるんだろうなーってのは感じます。

 でもって、切り口としては、前回の北方領土をやったときのように、プレーンで透明なナレッジという方向でいきます。頭をリセットして、カザフスタンやパラグアイを調べるような感じで、フラットに捉えてみようと思います。肩肘張らずにボチボチとやっていきましょう。

 能書きはこのくらいにして、、、例によって地図です。

 
中国地図


 いつも最初に地図を出すのですが、地図を見てまず思うのは、自分がこの国を仕切ることになったら何を考えるか?です。そういった目で今の中国の領土を見ると、まず「広い」。むちゃくちゃ広いです。ロシアほどではないですが、それでも広い。960万平方キロとか言われてもピンときませんが、オーストラリアよりも広いです。オーストラリアが日本の23倍だとしたら中国は日本の26倍あるといいます。

 これだけデカいと国境を接している隣国の数も多いです。陸地に国境線を接している国は北朝鮮、モンゴル、ロシア、カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、ミャンマー、ラオス、ベトナムと接し、さらに海を挟んで隣り合わせている国は、韓国、日本、フィリピン、ブルネイ、マレーシア、インドネシアがあります。

 だからなんだ?といいますと、僕ら日本人は中国というと、ついつい日中関係をメインに据えて見てしまいますよね。まあ、当然といえば当然なのでしょうが、でもプレーンに中国から見ると、日本との関係などワン・オブ・ゼムに過ぎないでしょう。確かに日本は戦時中に中国にエグいことをしましたし、それが何らかのシコリになっているのは事実でしょうが、それでも中国に視座を据えたら、ほんの一部でしかない。日本の侵略は18-19世紀の帝国主義の波の一部ですが、それより前から欧米列強は中国にタカって侵略の牙を剥いていたわけです。そもそも中国の歴代王朝は全て漢民族が作ったわけではなく、北方民族(満州族など)からの侵略を定期的に受けています。満・漢・満・漢の繰り返しというか、最後の清朝は満州族の侵略王朝ですし、その前の明は漢民族王朝だけど、さらに前になるとモンゴル系の元になりますもんね。戦争が終わってからは、中国人同士で国民党と共産党とで血で血を洗う争いをしていたわけですし、共産党独裁になったあとも文革やなんだで粛清の嵐が吹き荒れてました。

 それに、あの国を仕切るという目で見た場合、最大のライバルになるのは日本ではなく、北のロシアと南のインドでしょう。国の巨大さという点ではがっぷり四つに組める格があり、今ではBRICs同士のライバルになってます。さらに、海を隔ててアメリカ。冷戦時代はソ連とアメリカという超大国に対抗する第三の潜在的な大国としての将来設計をせねばならないでしょう。

 したがって、あなたが中国の最高権力者だったら、対日関係は、大事ではあるだろうけど、メインではないでしょう。というかメインにしてはいけないです。そんな枝葉末節に囚われてはいけない。常日頃動静を観察し、注意せねばならないのは、まずもってアメリカでありソ連であったと思います。アメリカとは資本主義と共産主義というイデオロギーや政治体制の違いに基づく覇権争いをしましたし、ソ連とは同じ共産主義国でありつつもスターリン後の路線の違いで犬猿の仲になります。共産VS資本という面では、南方の東南アジア諸国での独立時代に、アメリカやソ連と並んでチョッカイを出します。ベトナム戦争や、カンボジアのクメールルージュなどは中国からすればすぐ隣の出来事であり、アメリカの覇権伸張をいかに押さえるかという文脈で考えたでしょう。インドとの間も険悪でしたよね。中印国境は常にきな臭く、軍事衝突も起きています。そして、不気味なソ連(ロシア)との関係。これだけのことを同時に考えなければならないわけですから、日本だけに目を向けていてもダメです。

 それと、未だに続く国共紛争の名残として台湾(中華民国)があります。この台湾がまた侮りがたい。もともと同民族でもあるのに加えて、本土中国を仮想敵国としてギンギンに武装し、且つ国の小ささと小回りの良さを生かして経済的にはガンガン先行しているという。

 加えて国際社会にデビューして「うまくやっていく」という戦略も必要です。毛沢東万歳でひきこもっていればいい時代はとうに過ぎ去り、ニクソン訪中以来、少しづつ国際社会に溶け込み、存在感を高めていこうとしています。そして、「共産党が独裁している資本主義経済」という、それ自体が存在矛盾のような国家体制に移行するというウルトラCをこなします。アメリカと親密となることによってライバル台湾(中華民国)を国際社会から蹴落して、「”中国”といえばウチ(中華人民共和国)!」とばかりに認めさせるところから始まって、去年の北京オリンピックまで、少しづつ中国を国際社会に親和させていこうとします。もっとも、あれだけの大国ですから、ロシアと同じく、ちょっとでもバランスを崩したらガタガタになってしまうので力の統制も必要。ときには強面で臨みます。天安門事件しかり、チベット問題しかりです。その都度、もっぱら西欧の人権重視の世論から激しい非難を受けます。オリンピックの聖火ランナーが世界各地で嫌がらせを受けたりもします。

 こうしてみると、まあ、中国も良くやってるよなって気がしますね。あれだけの巨大な国、まともに存続させようとするだけでも生半可な手腕では難しいでしょう。大きさでこそロシアに負けてますが、ロシアは領土はデカいけど人間は少ない。1億4000万かそんなもので、日本より多少多いくらいでしかない。しかし、中国は公称13億3000万人ですから(実はもっといるという説もあり)、これだけの人間を一つの秩序に治めるというのは容易なこっちゃないでしょう。民族だって漢民族が圧倒的多数で92%を占めますが、残りの8%は少数民族で、これがまた55民族いるというから大変です。たった8%というなかれ、母数が巨大だから8%といっても1億人を越えます。日本イッコ分くらいあります。

 ということで、まず冒頭において中国をプレーンにみるところから始めましょう。日本という視点を取っ払って中国そのものを見る、ということです。なまじ近い国なだけに、どうしても頭のどこかに「日本から見た中国」という要素が残ってしまいがちですが、それを除去するということですね。


社会主義市場経済 〜改革開放経済とは何か?


 とりあえず思いついたところからやっていきましょう。
 一番興味があるのは、共産主義なのに資本主義をやっているという体制です。あまりにもあっけらかんとやってるし、しかも実施されてからかなり時間が経っているので、今更誰も疑問に思わなくなってきてますけど、でも不思議ですよねー。もう単純に「そんなことしていいの?」「そんなのアリなの?」という。ある意味世界でもっとも激しく資本主義してたりするのだけど、でも依然として共産党一党独裁なんですよね。何なのそれ?イデオロギーや国家体制として奇妙としか言いようがない体制です。

 改革経済以前の中国の経済はどうなっていたのでしょうか。国共内戦が毛沢東率いる共産党の勝利に終わった1949年、毛沢東は重工業重視&農地改革を施すことによって中国経済は進展し、戦争による疲弊状態から脱します。1952年段階の中国のGDPは、実は当時の日本の1.5倍もあったそうです。すごいもんです。続いて、ソ連にならって第一次五カ年計画を実施し工業化を進展させたのですが、そこで毛沢東が野心的になりすぎるというか、調子に乗ってしまうのですね。イギリスに追いつけ追い越せということで、いわゆる大躍進政策を実施します。ところがこれが大失敗。工業と農業の飛躍的増産という目標は勇ましいのですが方法が拙劣でした。壮大な野望といえば聞こえはいいけど、現場においては「無理なノルマ」を課されることになります。農業生産性を高めるために強制的に集団農場化して農民のやる気を削いだり、何が何でも工業増産を目指し、条件も知識も整ってない農村を無理やり工業化したもんだから、粗悪品ばかり粗製濫造することになるのと同時に、弊害ばかりが目立ちます。例えば、ある村で製鉄をしようといっても専門家が足りないからろくに出来ない、耐火煉瓦がないから歴史的建造物を叩き壊して使用し、燃料の木炭のための大量の樹木伐採が行われ生態系を破壊し洪水が頻発し(未だに続いている)、農作物を食べるスズメを目の敵にして乱獲したことにより天敵がいなくなったのでイナゴやウンカが大量発生し、さらに農業技術も近代農法にはほど遠い稚拙なものであった、、、。

 要するに計画自体がスカタンだったわけです。まあ、当時のことですからそんなに全てが上手くいくわけはないのですが、ここで現場の失敗→再検討→改良策という段々改善させていくというプロセスが全くなかったのが第二の問題です。毛沢東が偉くなりすぎ、誰も批判できなくなってしまったのですね。毛沢東というのはレジスタンスとして日本軍や国民党軍と戦ってる間は確かにヒーローなのですが、絶対権力を手中に収めてからは結構独裁者になってます。この政策前には百花斉放百家争鳴→反右派闘争事件というのがあり、最初は「共産党への批判を歓迎する」と懐の深いところを見せていたのですが、あまりに批判が痛烈になってくると、一転して大粛清と言論統制をするようになります。これがあるから、大躍進政策が現場においていかにヘッポコであろうとも、誰もそれを言えないという事態が生じます。それでも気骨のある人はいて、共産党の大物である彭徳懐(ほうとくかい)が毛沢東をいさめたのですが、毛沢東の逆鱗に触れ失脚しちゃいます。これで益々皆がビビって、「とにかくノルマ達成」「質はどうでもノルマ達成」さらには、「達成してなくても達成したと報告」とどんどん杜撰になっていきます。各地から達成報告が集まってくる中央では、「よし来年は今年の2倍が目標だ」とまた大ボケかますもんだから、さらにメチャクチャになっていくという、ソ連もそうでしたが、共産主義の一番悪い側面が出てきてしまっています。

 その結果が大失敗なのですが、単に経済政策が失敗して不況になったなんて生やさしいものではなく、人が死にます。それも数千万人という単位です(2000万とも5000万人とも言われているが定かではない)。死因は餓死。まあ、異常気象という不運も重なっていたのですが、しかし、数千万人餓死するというのは、ちょっと想像も出来ないですよね。西日本に住んでる全員が餓死するくらいの規模でしょ?戦争の比じゃないですよ。

 さすがにこれには毛沢東も懲りて、59年に国家主席を辞任、ケ小平・劉少奇などの改革派グループが実権を握るようになります。このまま進んでいたら中国の改革開放は20年早く進んでいたでしょうし、北京オリンピックも20年早く、日本でいえばバブルの真っ最中でJリーグが発足した頃に開催されていたでしょう。世界の流れも全然変わっていたと思われます。

 しかし、そんなに物事うまくは進みません。ケ小平らの改革路線が進むにつれ、いったんは退いた毛沢東が権力復帰の野心を募らせます。ケ小平らの改革を「反革命」だとして、過激派学生を煽って権力簒奪をもくろみ、この動きが文化大革命に続きます。このあたりのことは、シリーズ44回/東西冷戦・中期の動揺〜第三世界、文化大革命、キューバ危機で書きましたよね。文革というとイデオロギー闘争や経済路線論争のようですが、その実質は三国志さながらの血で血を洗うような権力闘争だと思います。毛沢東もさすがに老獪で、血の気の多い学生達に「造反有理(逆らうのは理由があってのことだ)」とお墨付きを与えて暴れさせ、紅衛兵組織にまでもっていき、ナンバー2の林彪を使って実権を握っていたケ小平や劉少奇を失脚させます。当時の中国における失脚は死を意味します。劉少奇は獄中で暴行を日常的に受け、治療すらも許されず、排泄物さえ放置され殆ど野垂れ死にのような無惨な死を遂げさせられます(大躍進で毛沢東をいさめた彭徳懐も同じように数年がかりでむごたらしく殺されています)。一方毛沢東の片腕である林彪も、隙あらば寝首を掻こうと毛沢東を暗殺しようとします、が、失敗し、ソ連に亡命中に落命します。そして、あれだけ毛沢東に踊らされてた子供達(紅衛兵)は、毛沢東が権力に復帰したら一転して大弾圧を受けます。凄まじいばかりの中国内部の権力闘争です。で、毛沢東がボケ始めた頃に実権を握って我が物顔に振る舞ったのがいわゆる四人組です(これも毛沢東が死んだら全員逮捕・訴追を受けてます、首謀者の江青はのちに自殺)。

 この時期、中国は狂っていたとしか思えないですね。群集心理の恐ろしさというか、革命が至上真理とされ、毛沢東のカリスマ支配によって、殆どオウムのような狂った宗教団体と化してしまったかのようです。が、宗教的熱情というよりは、コンセプトにあるのは恐怖でしょうね。庶民レベルにおいては、ヘタに逆らって反革命分子とレッテルを貼られたら周囲から虐められる。虐められるばかりか、本気で殺されてしまいかねない。迂闊な言動は許されないです。戦時中の日本と一緒。そして政界のエリート達はエリート達で熾烈な権力闘争があり、ひとたびこれに敗れると、獄中で糞小便にまみれながら放置され無惨な死を遂げるだけだという。上から下まで命がけでしょう。

 中国が改革開放経済で立ち上がってくるのは80年代以降ですが、あれだけのポテンシャルのある国が戦後30年以上モタモタしていたのは、毛沢東独裁〜文革において、有能な人材が沢山殺されてしまったからだという指摘があり、それも一理ありますよね。多分スターリンの虐殺2000万人によってソ連にも同じ事が起きたのだと思います。ああいう状況で殺される人というのは、ある程度頭が切れて、しかも勇気のある人でしょう。革命だなんだと念仏唱えたって農作物は収穫できないということをキチンと見抜ける知性のある人であり、且つそれを堂々と発言できる人ですから、平時においてはかなり有能な人材でしょう。でも殺されちゃう。有能だからこそ殺されてしまうという。

 さて、こういったシビアな権力闘争にしぶとく生き残ってきたのがケ小平です。本来なら劉少奇と同じく殺されていても不思議ではなかったのですが、毛沢東の「あれはまだ使える」と鶴の一声で一命を取り留めてます。といっても、極寒の地での過酷な強制労働に従事させられ、死ぬような思いはさせられてました。

 周恩来の工作によって73年に中央に戻され、活躍を始めますが、四人組が健在だったのでまたしても失脚します。このとき失脚の原因となったのが第一次天安門事件です。世間で有名な天安門事件は第二次です。この第一次天安門事件は、一種の市民暴動事件ですが、もともとは周恩来の追悼集会です。文革もだんだんと中国市民から疎まれるようになっていたようで、毛沢東の虎の威を借る狐である四人組に対する反感も結構あったようです。周恩来は文革時における中国政府の良心のような人で、キッシンジャーをはじめ世界の要人からも激賞を浴びてます。有能でありバランス感覚もあるので文革時においても毛沢東の信頼が厚く失脚させられなかったのですね。中国市民も周恩来には敬意を払っていて、それだけの周恩来の死去は大きな哀しみと同時に四人組への反感を募らせる契機になったようです。これに危機感を感じた四人組が、市民の追悼集会を妨害しようとして、逆に火に油を注ぐ結果になったのが第一次天安門事件です。この暴動の責任を問われてケ小平は又失脚しますが、同時に四人組への国民の支持も急降下したと言われています。

 そして毛沢東死去〜四人組逮捕となったあとに、不死鳥のようにケ小平は三度目の復帰をなしとげます。そしていわゆる「四つの近代化(工業、農業、国防、科学技術)」と呼ばれる一連の改革を行っていきます。1978年から1992年までの15年間を第一期と区分けする説明が多いのですが、この時期は「とりあえずやれるところからやっていく」という漸次改革です。「先富論」というらしいのですが、巨大な中国でせーので豊かになろうといっても共倒れになって大躍進の二の舞になるから、まず豊かになりうる条件の整ってるところを豊かにし、その余波で他のエリアも豊かにしていくという極めて現実的なやりかたです。現実的なのだけど、「みんな一緒」という共産主義のコンセプトからは、まずは一歩逸脱していきます。

 まず、なんでもかんでも皆一緒だった農村部での人民公社を解体し、自分の努力次第で生産も報酬も増える経営自主を尊重します。これで農民のモチベーションを刺激します。都市部では、華僑や欧米の外資をどんどん導入させ経済的に突っ走らせます。広東の深センなどに経済特区を設け、上海や天津など沿岸都市に経済技術開発区が置かれます。また、ここでも経営自主のコンセプトを導入し、努力して結果を出せば生活が良くなるというモチベーションを植え付けます。

 ここで中国は共産主義から脱却し始めています。皆一緒という横並びを排除した時点で既に共産主義の硬直性を打破していますし、「経営自主」=生産のモチベーションというのは、要するに資本主義の基本コンセプトですよね。自分の努力や成果によって結果が違ってくるからこそ、誰もが創意工夫をして頑張ろうとし、それが経済を活性化させ、より安くて良いモノ・サービスが増え、豊かな暮らしを実現する、、、資本主義じゃんって。

 だからこの時点でもう中国は共産主義は止めたとも言えます。まあ、共産主義における「皆で豊かになる」大枠は変わらず、豊かになるための個々の方法論が改善しただけ、という言い方も出来ますが、そこまでいくと言葉の問題、言葉の遊びでしょう。共産主義かどうかは、生産手段の私有を認めるかどうかと定義されたりもしますし、その意味ではまだまだ共産国なんだろうけど、でも資本主義の一番肝心なコンセプトは、結果における平等を敢えて保証しないで、いい意味での競争を促す点にあるのだとしたら、この時点で共産主義ではないです。

 でも振り返ってみれば、共産主義国というのは、国をまとめるための方便というか、接着剤として利用されてきたキライがあると思うのですよ。ソ連と中国という世界の二大共産国があったわけですけど、ソ連の場合はロシア帝国という長年君臨してきた皇帝国家を倒したあと、これに変わるモノがなかったので共産主義のプロレタリアート独裁という錦の御旗が掲げられたのだと思います。また、中国の場合も、西欧列強、日本帝国軍支配を経て、国民党との内戦が終わった後、巨大な国を一枚岩にまとめるために強烈な思想という価値体系が必要だったから共産主義を使ったという感じです。どちらも真面目に共産主義をやろうとはしてたのでしょうが、でも、共産主義というのは本家のマルクスにいわせれば、まず資本主義があって、資本主義によって社会経済は発展するけど弊害も大きくなったので、それを乗り越える形で共産主義が出てくるわけです。だから本来的には資本主義やってない国に共産主義なんかありえないとも言えるわけですが、ソ連も中国も資本主義はやってません。中世の封建体制からいきなり共産主義になっている。資本主義もやったけど問題多すぎだから共産主義にしようねという流れではない。じゃあなんでここで共産主義が出てくるの?といえば、西欧流の自由、平等、民主、人権という理念ではあまりにも抽象的すぎて国をまとめる接着剤にはならなかったのでしょう。

 そういう目でみると、中国も毛沢東体制の下、革命だ反革命だと熱心に共産主義を実践していたかのようですが、よりクールに実質を見ると、政治的なスローガンであり、且つ権力闘争におけるツールとして使われてきただけって気もします。日本だって、明治維新後に欧米列強に対抗するために急速に近代化を迫られたとき、強烈な統制と中央集権が必要だったわけですが、日本というサイズも人口も手頃な小国、しかも民族的にほぼ均一で対外危機感を共有できていたときは、それほど強烈なイデオロギーという麻薬をもってこなくても良かったのでしょう。御飯粒みたいに粘着性の強い民族は、固めておけばオニギリみたいに自然に固まる。それでも戦前になると無理筋な戦争をやろうとする軍部の独走が激しくなり、他の批判を封じる必要が出てきたので軍国主義やら神国日本というオカルティックな天皇崇拝になっていったのでしょう。日露戦争の頃の日本は、あそこまで狂信的な宗教国家になってなかったように思います。

 何を言ってるかというと、中国における共産主義というのは、もともとその程度のものだったのかもしれないということです。だから、経済開放とかやりはじめて、共産主義を事実上捨てはじめても、それほど民衆の反感を買うようなことはなかったのではないかと。もっとも、最初の改革の頃は毛沢東の復権によって頓挫していますし、強烈な共産主義教条主義が吹き荒れますけど、あそこまで狂信的に吹き荒れてくれたおかげで、逆に民衆に免疫抗体が出来たのかもしれませんね。革命だなんだで馬鹿騒ぎするのはもう疲れた、あんまり意味ないかもという感覚が広がり、結局は権力者の権力闘争のツールじゃないかって意識も芽生え、それが四人組末期における不人気や第一天安門事件につながっていったのでしょう。

   さて最初の15年で「出来るところからやる」という経済改革をします。成功します。成功すると今度は困った問題が起きます。格差が出来ちゃうのですね。成功した人失敗した人という格差もありますが、より大きくは農村と都市、沿岸部と内陸部での経済格差がかなり深刻になってしまいます。まあ、もともと「出来るところから」というのは格差が出来るのを当然承知の上でやるわけですから、多少の格差がでても想定内です。多少どころかかなりの格差がでても、それすらも考慮にいれていたでしょう。

 ただ、そうなると民衆の不満も大きくなっていきます。教条的なタガをゆるめたが故に政治的社会的には不安定になります。一つは共産主義への回帰を図る勢力があるでしょう。もっぱら反ケ小平、反主流派の政治勢力が掲げる錦の御旗としては共産主義の原点というのは格好なスローガンになります。もう一つは、経済改革で締め付けをゆるめたがゆえに、人々に自由を求める気運が高まっていくということです。また、緩むということは綱紀も緩むということで、役人の間で腐敗が蔓延していきます。

 そこで起きたのが第二次天安門事件です。ときは1989年6月。この1989年というのは激動の年で、11月にベルリンの壁が崩壊してますし、日本では1月に昭和天皇が崩御し平成になり、かつバブル景気の最終時点でもありました(年末の大納会の株価が史上最高)。中国では天安門事件に先立つ数年前から、都市部の学生などを中心に民主化や自由を求める声が強くなっていました。また中国政府においても、胡耀邦総書記が言論の自由を提唱し、国民の支持を集めていました。しかし、ケ小平ら長老グループは中国に自由は時期尚早という判断を下し、胡耀邦は失脚、後を継いだ趙紫陽も保革板挟み状態になります。失脚した胡耀邦は、2年後に心筋梗塞で死亡します。折りから党内腐敗問題がクローズアップされていたこともあり、胡耀邦追悼と、民主化と腐敗防止を訴える学生や市民の動きが活発になります。なにやら第一次天安門事件前夜とよく似てるんですよね。

 市民のデモは恒常的になり、またこの処理をめぐって、改革派の趙紫陽と保守派の李鵬との間も険悪になります。天安門広場は十万人単位のデモ市民が集まり、活発な意見交換や政府批判の場となり、一時期は50万人も集まっていたというからすごいものです。そんな折、ゴルバチョフが訪中し、ケ小平らと会談、長年対立関係にあった中ソ関係に雪解けムードが漂います。ただ、訪中時もデモの勢いがすごくて、日程や移動にかなり支障が出たそうですが、とりあえずゴルバチョフがいる間はなんとか無事に推移します。

 ゴルバチョフ帰国後、デモと政府と関係は益々緊迫度を高め、学生達に同情的だった趙紫陽が更迭されてしまうことにより、いよいよ臨界点に近づきます。事態を重くみた政府は戒厳令を発令、これに反発する市民はデモに参加し、北京デモでは参加者100万人を数えます。もう一触即発。そして、ついに6月3日の夜から4日にかけて集結していた中国軍(人民解放軍)はデモを鎮圧するために行動を開始します。これがまた日本の機動隊のように解散を促し、催涙弾を飛ばして、警棒でブン殴るという可愛いレベルではありません。市民に対して無差別発砲、さらに戦車が出てきて市民を轢き殺したりします。警察力による治安回復というレベルではなく、軍隊による戦争レベルの事態になります。この騒ぎは、当然のことながら世界からボロカスの批判を浴びます。単に遺憾の意を表明するだけではなく、外交関係において最恵国待遇を取り消したり、外交団を引き揚げたり、世界銀行は融資を停止したり、その激しさは昨今の北朝鮮核実験の比ではないです。

 しかし、今ではあんまり話題になりません。ならないどころかオリンピックまでやってます。そして、中国は1992年から第二次経済改革に入ります。第一次で「出来るところから取りあえず」とやっていった弊害=格差の是正を織り込んだ改革です。もちろんこれらの問題が一朝一夕に解決するべくもなく、なおも深刻な問題になって残っていますが、問題は含みつつも経済発展の方が著しいから、大きな停滞を経ることなく「世界の工場」と呼ばれるまでになり、2001年にはWTOにも加盟しています。結局、問題は沢山あるのだけど突っ走り続けていったので、それでOKになってしまっているという感じですよね。

 江沢民→胡錦涛→温家宝とリーダーが変わっていきますが、総じて言えるのは徐々にソフトになっていってることです。最初の頃は、格差がでようが何だろうが共倒れになるくらいならまず食えるところから食っていくという骨太で荒っぽい改革だったのですが、胡錦涛の頃になると、「小康社会」(多少はゆとりのある生活)を行き渡らせようのがスローガンになり、温家宝時代になると私有財産の保護や外資企業との税率是正など、初期に比べればほとんど「微調整」のような細かな作業になっていってます。

 というわけでケ小平が三度目の権力復帰をしてからの経済改革30年で、中国は押しも押されぬ経済大国になりつつあります。結果的に見れば改革大成功といってもいいでしょう。

 その立役者となったケ小平ですが、この身長150センチの小柄なお爺さんは、そのバイオグラフィーを読むと、その本性において中国人というよりは、西欧人のような感じがします。本人自身、フランスに留学して苦学生をやっていたこともあり、西欧文化に全く嫌悪感を持ってないし、チーズとワインとクロワッサンが大好物というパリっ子のような人です。そういう嗜好性だけではなく、発想や行動が西欧の一流の政治家に似ていて、ウィーン体制の頃にヨーロッパで生まれていたらオースラリアのメッテルニといい勝負をしていたのではないかと思われます。

 なぜそう思うかというと、発想がプラグマティックで情緒や思想に流されてないからです。中国の経済力をつけるという大目標があったら、あとはそれに有用か有用でないかだけで冷静に判断していってますよね。共産主義というのは宗教性の強いドグマになりがちですが、そういう臭みはゼロです。だからこそ共産主義一党独裁でありつつ、平然と市場経済に移行するという事が出来る。それも五月雨式に出来そうなところからやっていって、先にある程度形にしていって、弊害が出たらその都度修正という現実的なプランを断行します。天安門事件とそれに続く言論弾圧も、彼にしてみれば必要だからやったまででしょう。

 なんというか、ケ小平という人は、同胞である中国人(というか人間というもの)に期待はしていたけど幻想は抱いてなかったと思います。これは優秀な政治家の資質ですが、夢は持つけど幻想を持たない。国共内戦から毛沢東独裁、文革での失脚、復権、また失脚という辛酸を舐めてきて、中国人に自由にやらせたらアカンという意識はあったのではないでしょうか。文革であれだけ狂うような連中にいきなり自由を与えたらまたメチャクチャになるという冷徹な認識が、彼が天安門での大弾圧を実行させたのでしょう。まあ、大躍進の失敗で数千万人が餓死し、失脚=獄死の世界を生き抜いてきた彼ら長老派にしてみれば、天安門ごとき弾圧のうちにも入らないのでしょうし、国際世論の批判など屁とも思ってない部分もあります。いずれにせよ、とにかく必要な物事を必要な順番にやればいい、それだけだというマシンのような性向を感じるのです。ここが西欧人みたいなんですね。日本の政治家は情緒的だし、情緒的なことが国民にも好まれ(江戸城無血開場における勝海舟と西郷隆盛の信頼関係とか)、西欧流の真に有能な政治家、例えば大久保利通なんか全然人気がないですけど。

 ケ小平の名言に、「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」というのがありますが、これは別に彼のオリジナルではなく昔からある格言だそうですけど、この格言を好んで口にしていたそうです。ここに彼のプラグマティックな真骨頂をみるような気がします。




過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ
ESSAY 407/世界史から現代社会へ(その70) 現代ロシア(2)  発展の2000年代とプーチン大統領
ESSAY 408/世界史から現代社会へ(その71) 現代ロシア(3)  チェチェン紛争の迷宮
ESSAY 410/世界史から現代社会へ(その72) 現代ロシア(4)  チェチェン紛争の迷宮(2)
ESSAY 411/世界史から現代社会へ(その73) 現代ロシア(5) 王道のロシア文学
ESSAY 412/世界史から現代社会へ(その74)  現代ロシア(6) 北方領土


文責:田村



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