今週の1枚(07.10.22)
ESSAY 333 : キリスト教について(その7) 〜「調教」としての宗教、思想、原理、
写真は、Paddington。こういう長屋みたいな連棟式建物をテラスハウスと呼びます。開拓初期の建築様式ですから、シティを中心に半径5−10キロくらいにしか存在しない(昔の居住区)です。昔ながらの建築が今も残り、そしてこの写真のように商業物件にも使われています。右端の店は不動産屋さんだし、真ん中の店のはニュースエージェントですね。日本でいえば江戸時代の建物が今も尚使われ、当たり前にビジネス用に使われているということで、京都ほか古い城下町にでも行かないとこういう風景は滅多に見られないでしょう。ちなみに、この写真のあたりだったら、一軒買おうとしたら余裕で一億円以上するでしょうねー。
つい先日のニュースでも、今のオーストラリア(NSW州)では、最初に不動産を買う人にとっては、その買いにくさは(手が出ない度)は、史上最悪だそうです。まともに計算してたら年収1000万円以下だったらまず無理だと。まあ、実際そんな感じですけどね。
余裕で年内一杯くらいかかりそうなキリスト教シリーズです。どこまで続くのか自分でもよく分かってませんが、まあ「自分が納得するまで」です。でも、過去のエッセイには「英語の勉強の方法・全16回」という長期連載がありますからねー、そこまでいくかな、どうかな?って感じです。
さて、先週からヨーロッパの中世封建社会をみてきましたが、じゃあこういった社会においてキリスト教というのは、一体どのような存在だったのか?という肝心な部分を考えてみたいと思います。
しかし、この点は超難問なんです。よく分からない!
ちょっと前に書いたように、派手なドンパチを繰り広げる政治史や権力史に比べ、庶民史というのは地味で史料が少ないから分かりにくいという点があります。しかし、それだけではない。単に歴史情報が少ない云々ではなく、もっとディープなところで分からない。そして何故僕が分からないのか?を考えていると、僕が「日本人だから」よく分からないって要素もあるような気がします。
細かな史料は分からないけど、当時キリスト教が人々の生活に入り込み、教会や修道会が多く建築されていたのですから、まあ、毎日、或いはそう間隔を置かずに人々は教会に出掛けていって、お祈りなり、神父さんのお話を聞いたりしたのでしょう。そのくらいは想像が付きます。ここで僕が知りたいのは「なんでお祈りするの?」「どうして教会に通うの?」「どうしてそうしたいと思うの?」という、個人の内面深い部分です。ここを知りたいし、ここが謎なんです。
とんでもないことを知りたがってるわけですが、これって要するに「人間にとって宗教とは何か?」ということです。ココが分からない。僕には分からない。分からない理由は色々あるけど、その一つの大きな原因としては「僕が日本人だから」ってことがあるように思います。日本人からしたら、どうして世界の人類は神なんてものを信じているのか?見たこともないことを何故キミらは信じられるのか?今ひとつピンとこないということでもあります。逆の言い方をすれば、なぜ日本人は無神論者が多いのか?ということでもあります。
そのあたりをちょっと掘り下げて考えてみたいのですが、これは日本人が無神論者であるとかいう宗教的な問題ではなく、もっとディープなところで、日本人が生きていく場合、特に改まって「原理」や「思想」という「この世界のフォーマット」「世界観のOS」を必要としないからではないでしょうか。原理が要らない民族、原理的考察を切実に必要としなかった民族である、と。といって、何も日本人が生物学的、DNA的に特異であるということを言いたいわけではないです。その種の日本人特異論は好きではないし、また正しくもないと思います。たまたまそういう地理的、気象的、地政学的環境に置かれると人間というものはそうなる傾向にあるというだけのことなのでしょう。
では、なぜ日本人はそれほど切実に「この世の説明原理」を必要としないのか、どういうメカニズムでそうなっているか、です。以下述べることは、僕個人の考えではありますが別に僕のオリジナルでもなんでもなく、これまでの多くの人々が同じような見解を述べてらっしゃいます。だから、今さら取り立てて珍しいものでもないですし、むしろありふれた議論であると言ってもいいでしょう。
さて、ヨーロッパもそうですし、中東のイスラム教もそうなのでしょうし、中国の漢民族もそうだと思われますし、要するに日本人以外の地球人はわりとそうだと思うのですが、彼らは日本人以上に、秩序、法、原理、思想というものを重視します。その度合いは、「原理がなければ生きていけない」「根本思想がなければ自分が自分として成立しない」というくらい強力なものであるように見受けられます。
なぜ人々は原理とか思想とかを求めるのか?別にこの地球に生まれて、好き勝手に生きて、好き勝手に死んでいけば良いではないか?何を好きこのんで面倒臭い原理やら戒律やらを発明して、自分の日常生活を縛り、自分の精神を拘束し、自分自身のアイデンティティすらもそれに委ねようとするのか?そんんなの窮屈なだけじゃないか、なんでそんなに束縛されたいのだ、キミらは?ということですね。
なぜか?
えー、根本的なところを思いっきり乱暴に要約してしまえば、なんらかの説明原理がないと気が狂ってしまうんでしょうねー。
なーんの説明もないまま生きていくには、おそらく普通の人間の精神には耐え難いって部分があったのでしょう。何がそんなに耐え難いかといえば、推測するに、一つは、生きていく環境、あるいは毎日目にあたりにしている風景がそうなのでしょう。
あまりにも広大でだだっぴろく、あまりにも過酷で無慈悲な自然というのものを見ていると、人の精神状態は荒廃してくるのかもしれません。だって、どこまでも続く地平線。一ヶ月歩き続けても変化のない地平線。荒野、砂漠、草原。それしかない風景に生まれてから死ぬまでポツンと置かれているわけです。また日本のように四季の変化がなく、生まれてから死ぬまで同じような風景ばかりが延々続くわけです。で、夜になったら空気が乾燥していることもあって、気持ち悪いほど満天の星が輝くわけです。こんな環境に生まれ育ったら、「これはいったい何なんだ?」「なんでこんなところに俺はいるのだ?」って気になるんじゃないでしょうかね。気が狂わないまでも精神になんらかの影響がないわけはない。
それと、人間〜というか生物は、自分が存在しているこの場の状況を徹底的に理解したい、「どうしてこうなっているのか」という世界の基本構造を知りたいと思う筈です。これは知識欲とかいう以前の生存本能でしょう。なぜならその場の構造を知れば、未来予測が出来ますし、環境への対応も上手くいくし、結果的に生存率も上がるからです。あなただって目が覚めたら真っ暗な部屋だか洞窟だかに転がされていたら、まず周囲の状況を知りたいと思うでしょう。あるいは見知らぬ無人島に漂着したら、食べ物はどこにあるか、猛獣はいないか、他の凶悪な部族はいないか、それこそ気が狂ったように周囲を調べるでしょう。新しい家に引っ越して猫を連れていくと、彼らは時間をかけて徹底的に周囲を調べますよね。生きること=知ることなのでしょう。
でもって、ドワワワワと延々続く大砂漠があり、荒野があり、大森林があり、大山脈があり、大海原があり、その前にあまりにも卑小な自分がポツンと存在しているわけですが、この無茶苦茶なスチュエーションを理解しようとしたら、人はとりあえずなにか超越的な存在を考えると思います。昔読んだ立花隆の本で、宇宙飛行士を取材したものがあります。それによると、アポロ計画などによって宇宙空間を体験した人々は、任務を果たして帰ってきたら、かなりの確率で急に信仰が深くなるとか、スピリチャルやオカルティックなものに傾斜するようになるらしいです。圧倒的に広大で、絶対的な虚無である宇宙空間を自分の目で体験してしまうと、なにか神様のような超越的なものを持ってこないと人間精神のバランスがとれなくなるという。というか、圧倒的に暗黒の宇宙空間に奇跡のような美しい地球が浮かんでるのをライブで見てしまうと、「なんでこんな地球みたいなものがあるのだ?」「こんなもの間違っても”自然に”出来たりするわけない!」「絶対”誰か”が作ったものだ」と思えてしまうそうです。だから「信仰」とかいうよりも、もっと直接的な認識として「そうとしか思えない」そうです。宇宙空間ほど凄くはないですが、生まれてから毎日圧倒的な大自然を見ていたら、無意識的に超越者の存在を求めてしまったとしても不思議ではないです。
ということで、直感的にどうしようもなく「神様」はいるのだと思ってしまうと、今度は神様はどういう法則に従って仕事をしているのかという「この世の構造」を知りた
くなるでしょう。古今東西あらゆる部族は、何らかの形で神様=自然神を持っています。とりあえず、手近なところでは太陽と月が一番分かりやすいから、太陽の神、月の神を考えたりするわけです。だから、大体古代民族の神というのは、天文関係です。太陽の神様は、ギリシャ神話だったらアポロンだし、日本だったらアマテラスですよね。
古代民にとって天文現象は、すべからく神の振舞であったのでしょう。そう考えた方が納得しやすかったのでしょう。カミナリだって、「カミナリ様(雷神)が、ドンドコ太鼓叩いて怒っている」と考えた方が、「急激な上昇気流により、雲の中の氷の粒が激しくぶつかり静電気を発生させ、雲の上方がプラス、下方がマイナスになり、大きな電位差を生じさせ、巨大な放電現象が起きる」なんて”正解”よりはしっくり分かった気になれるでしょう。
つまり古代における神話や神々は、精神の平衡を保つために必要だったのでしょうし、あれは宗教というよりは世界認識であり、人々はむしろサイエンスとして捉えていたのだと思います。今の僕らがいわゆる「科学的方法論」を世界認識の方法として採用し、地球が温暖化するとか、オゾン層がどうのこうのとかいってるのと同じ感覚で、○○の神様がどうのって理解していたのでしょう。「理解したい」というのは人間の業であり、生物の基本的な生存本能ですから、「なるほど世界はこうなっているのか」と心から納得するまで人々は説明を求めるし、考える。
このように古代社会には様々な神話があります。「神話」というくらいだから神様に関する話なのですが、ここで注目すべき点は、神様について語ってる割には、それほど宗教臭くならないって点です。日本の神話も、ギリシャ神話も、北欧神話も、やたら人間くさい神様が出てきて、人間同様に争ったり、殺し合ったりしているという「おはなし」です。キリスト教やイスラム教でいう「神」とはニュアンスが違います。精密な教義があるわけでないし、人々の日常を決める戒律もない、祈りも信仰も乏しい。
ところが、こういった古代神話に比べて、キリスト教などの「宗教」になると色々な点で違ってきます。何がどう違ってくるかというと、正邪・善悪という「価値判断」というものが出てきます。人間が生きている意味や、人間が「正しく生きる」ということはどういうことかを説くようになっていきます。古代神話は、それこそ単なる「お話」で、アマテラスが天の岩戸に隠れようとも、スサノオが八岐大蛇を退治しようとも、「だからは君は○○しなさい」という自分の日常生活とは無関係です。ナルシスが自分の姿に見惚れようとも、エディプスが父親を殺そうとも、「だから人はこう生きるべし」という教訓も指針も示されることはない。つまり古代神話には、道徳とか、倫理とか、法律とか呼ばれる要素、難しい言葉でいえば「規範」ですが、その規範的要素が乏しい。
なぜそういう違いがあるのか?ですが、これは今書いていてふと頭に浮かんだ僕のフラッシュアイデアなのですが、古代神話の場合はさっき書いたようにサイエンスとして「この世界はどうなっているのか」「虹はなぜ出来るのか」という説明原理としてやられており、その延長線として神々のお話が出てきただけです。言うならば自然科学的なアプローチです。ファーブル昆虫記やシートン動物記のように、対象となる自然界の虫や動物を観察しているうちに、だんだん彼らを主人公にした物語が出来てくるような感じだと思います。ファーブル昆虫記が倫理や道徳を説かないように、日本神話もギリシャ神話もあまり道徳を説かない。説教臭くならないんです。
それがどうして倫理や価値判断を説く、規範的な=まるで法律のような=説教臭い宗教が出てくるのか?
これは単純に言って、「それが必要になったから」なのでしょうねー。つまり、自然科学的なアプローチでは足りなくなり、人文科学・社会科学的なアプローチが人間社会に求められるようになったからだと。
どーゆーことかというと、社会がそれだけ複雑になったのでしょう。
えーと、まず、人類がものすごくシンプルに生きていた時代を想像してみます。原始時代とか旧石器時代とか人類、それこそ猿に毛に生えた程度の人類の場合、この世界には太陽の神と月の神が居て、、とか、あんまり複雑なことを考えなかったのでしょう。なぜなら食べることに必死、猛獣から逃げることに必死、寒さや暑さから身を守ることに必死だったわけで、そんなこと考えている余裕は無かったのでしょう。考えたとしても、それほど複雑なことを体系的に考えている余裕も必要もなかったでしょう。
それが農耕という大発明を通じて「文明」というものが生じるにつれて、いろいろ考えるようになった。「考える余裕」が出来てきたのでしょう。また、農耕は1年スパンのプロジェクトですから、1年単位の正確な未来予測が必要であり、それゆえ暦法も発達するし、天体観測もやるようになる。自然と「この世界はどうやって成り立っているのか」ということも知りたくなるでしょう。そして農耕社会において何よりも大事なことは豊作であるかどうかですから、豊作を願うために「神に祈る」という心理も生じ、そのための職業的な専門家(巫女や神官など)も出てくる。大体どこの国のどの民族も、厳しい冬を越え作付けの春には「春の祭典」をやり、収穫のあとには感謝祭をやります。日本の神道も、ベースとなるのはあくまで豊作祈願であり、収穫感謝祭は新嘗祭と呼ばれており、今は勤労感謝の日になってる11月23日がその日です。秋の収穫祭は、例えばアメリカではサンクス・ギビングデーになったりします。ちなみに西欧社会の春の祭典は、すなわちイースターでしょう。
このように農耕社会初期には、農耕に重要に関連する天候気象と、大地の恵みを感謝したり祈ったりという素朴なところから始まります。そこでは、「人の生き方はなにが正しいのか」論はそんなに展開されません。あくまで大自然と人間の話だからです。
しかし、農業生産が発達して余剰生産物が増えてくるにしたがって人間もヒマになってきますから、色々と「人は何のために生きているのか?」というヒマなことを考える人も出てくるでしょう。毎日餓死寸前に暮していたら、そんなこと考えてるヒマはないです。また、社会もいろいろ複雑になっていきますから、人々の協力が不可欠になり、各自が気の向くまま好き勝手やることを禁じなければならなくなります。なんの理由もなく殺傷されない、自分の財産を盗られない、さらに基本的な性秩序などが社会の基本的なルールになるでしょう。原始的な刑法や家族法の始まりです。それだけではなく、最初は素朴な物々交換をやっていても、段々と市が立つようになると市場を仕切るオキテも必要になります。交換のためのルールも、また貨幣も必要になっていきます。さらに貧富の格差も出てくるでしょうし、Aさんは地主でBさんは小作人という身分関係に関するキマリも出てくる。原始的な形で民法なり商法が登場する。また、戦闘集団が強大な国家を作りましたといっても、人々を従わせるためにはイチイチぶん殴ったり殺したりしてたら大変なのでオキテを作ります。毎年収穫の半分を貢ぎ物として差し出せとかいうルールが出来ます。税金の始まりです。さらに一般市民の間で殺し合いや収奪をしたら犯罪になるけど、国家が死刑にしたり、税金を取るのは犯罪ではないという区分けも出来てきます。行政法も出てくるわけです。
このように人間集団が社会を作るようになるにつれ、それを統制するルールは不可欠になります。つまり、人間社会が複雑になればなるほど、「規範」「ルール」というものが必要になります。右を向いても左をみても「〜したらダメ」「〜しなさい」と説教ばかりの世の中になるわけです。ゆえに人々も説教慣れしてくるし、優秀な説教を求めるようにもなる。ここに規範的な宗教が出てくる下地があるのだと思います。
さて、ここまでは日本も他の人類もそう大差ありません。差が出てくるのはここから先でしょう。
日本民族に比べて他の人類、特に古くから文明が発達していてエリアの人々は、大きく二つの点が違うと思います。
すなわち、
@過酷な生活環境=だだっ広い大地で、地平線の向こうから外敵が襲ってきて、年がら年中食うか食われるか、ヘタすればすぐに皆殺しにされちゃうという過酷で殺伐とした生活体験があること、
A遺伝子的要素=強力でエネルギッシュな生命力と運動能力
の二点です。
ヨーロッパや中東の歴史を見れば分かるように、民族単位であっち行ったりこっち行ったり、根こそぎ征服されたり、殺されたり、殺したり、飽きもせずやり続けています。これは中国大陸でも同じで、強大な王朝が興ったと思ったら衰亡し、戦国時代になり、また王国が出来、、、を繰り返しています。こういう環境でずーっと生きているとどうなるかというと、自然状態=過酷な殺戮状態という感覚になるでしょう。近代人権思想の父であるホッブスは、著書「リヴァイアサン」という書物で、自然状態における人間は「万人の万人に対する戦いになる」と書いてます。とにかくほったらかしにしていたら、人間というのはとめどもなく残虐になり、殺し合いばっかりするもんだという基本認識がありますし、「そーとしか言えんよなあ」というくらい中東・欧州の歴史は民族レベルの殺し合いの歴史です。今だって旧ユーゴのコソボで民族単位の虐殺とかやってるわけです。アフリカの内戦だって一つの村に攻めて全員皆殺しとかやってる。今、この瞬間にもやってるわけです。
この点は強調しても強調しすぎることはない大事な点であり、同時にいくら強調されても日本人としてはピンと来ない点でもあると思います。日本なんか有史以来日本列島に日本人がいたわけで、取り立てて変化はないです。ずっと昔に縄文民族VS弥生民族という葛藤はあったでしょうが、あまりにも古すぎて民族の記憶として生々しく残ってない。ところが、古来メソポタミア文明が発達している中東エリアでは、紀元前3000年のシュメール文明以来、バビロニア、アッシリア、アケメネス朝ペルシャ、アレクサンドロス帝国、ローマ帝国、ササン朝ペルシャ、ビザンツ帝国(東ローマ)、イスラム帝国(ウマイア朝)、アッバース朝、ブワイフ、セルジューク、オスマン帝国、途中でジンギス・カンのケプチャク汗国が侵入して、イラン&トルコと続いています。同じ場所に、違う民族の違う帝国が、ロックフェスティバルのステージに上がるバンドのように次々に登場するわけです。
地球人の歴史というのは、滅多に誰も訪ねてこないような山奥とか孤島などの辺境地を除けば、同じ場所に昔から同じ民族が住んでるなんてことは、まずありえないです。そのありえないことを日本人の僕らは当たり前に思ってますよね。特に何も努力しなくても、1000年先も日本民族が日本に住んでると思ってる。そんなの当然だと思ってる。これはもう地球人平均の感覚でいえば、どうしようもなく「平和ボケ」した感覚でしょうし、どうしようもないド田舎的な感覚でしょう。それは悪いと言ってるわけではないです。そのくらい恵まれた立地にスクスク育ったんだということですし、日本人の平和ボケはなにも戦後60年の結果ではなく、成立以来2000年の年季の入った平和ボケなので、今さら変えるなんて難しいし、別に変えなくてもいいでしょう。
ともあれ、平均的な地球人、しかも古代から文明が栄えて人気のある都市エリアの場合、状況は日本人の感覚を遙かにぶっ飛んで過酷だということです。で、このくらい過酷な状況を前提にしたら、それを防ぐためには非常に強烈な秩序、何が善であり何が悪であるかを定める鮮明なルールが必要になるでしょう。「なあなあ」でやってけるような状況ではないからです。
このルール作りの必要性は、何も戦乱だけではなく、平和時においても妥当します。シルクロードや古代から大帝国のあったところは、様々な民族が流入し、交易します。言葉もろくすっぽ通じないし、とんでもない風習やカルチャーをもってる部族もいるでしょう。例えばですけど、「お釣りを払うとバチが当たる」とか「借金は踏み倒すのが正義」とか思ってる連中だっているかもしれない。異民族というのは何をしでかすか予測不可能ですから、危なっかしくて商売もできないのですが、それでも交易はやる。したがって、強力な統一ルールが必要になるわけです。
このあたりの文化的な地盤が、後の世の民主主義や契約社会のベースになっていくのでしょう。なんせ「あうんの呼吸」なんか期待できないし、「場の空気」なんか読もうとしても何も読めないわけですから、どんなことでも口に出して議論する。後で対立するくらいなら先に対立して取り決めをしておいた方が良いですから、細かなことでも取り決めをする。相手の感情を逆撫でしようが、お構いなしに言う。話し合って決める。決めた物事を証拠に残るように文書(契約)にする、、、ということで、こういうベースがなければ民主主義も契約社会も成立しにくいでしょう。
あ、あと、Aの遺伝要素ですが、こーゆー点も生々しくあると思いますね。
中東や欧州の人種、つまり彫りが深いコーカサス人種ですが、彼らは筋骨逞しく、生命力も強い。昔から日本人が「うわ、肉食ってる奴らは違うわ」と感心してますけど、ほんと、あいつらと付き合ってたら体力的についていけない。パブで立ちっぱなしのまま8時間も9時間もビールだけを飲み続けるなんて、日本人の僕には辛すぎます。このようにエネルギー有り余ってる連中が、何かの拍子で人格的に壊れたらえらいことです。文字通り凶暴なケダモノと化してしまう度合が高い。ゆえに規制も厳しい。西欧社会における暴力に対する忌避感、あるいはお酒は飲むけど泥酔者や酔っぱらいに対する規制の激しさは日本人の感覚をはるかに越えています。このあたりは、以前のエッセイ(ESSAY 183/飲酒文化と規制)でも書いたとおりです。
これに対して日本人の場合はどうかというと、まず遺伝的に、性格、体力、そして性的エネルギーにおいて穏健微弱であるので、ほったらかし=自然状態にしておいても、万人の万人に対する戦いという殺伐としたバトルロイヤルになりにくい。実際歴史を見渡しても、そんなバトルロイアルは少ない。もちろん戦国時代とかもあるわけですけど、それでもいちいちすり潰すように一つの民族(部族)を根こそぎ皆殺しにするような戦いは少ない。日本史上では、信長の比叡山焼き討ちと伊勢長島の一向一揆攻撃くらいでしょう。平安時代とか江戸時代とかも、実はびっくりするくらい殺人事件などは少なかったそうです。当時の人が現代に来たら、あまりの治安の悪さに逆にびっくりするのではないかと言われているくらいです。日本人の性的エネルギーですが、これは最近の調査でも、日本人の年平均セックス回数は世界レベルからすると遙かに少ないそうです。半分以下くらいじゃないかったかな。
また、島国という条件から、同じようなメンタリティと生活条件の連中同士の付き合いになり、話が全く通じないor全然予測が付かないような宇宙人的な敵が登場することもないです。つまり、日本人の場合、ほっておいても何となく上手くやっていくことが出来る。そこそこ社会秩序が保たれるし、それを破壊し尽くすほど個々人の肉体的能力が強くない。だから強烈な秩序や原理、思想や宗教というものを、それほど必要とはしなかった。皆がなんとなく感じる善悪の判断基準や、いわゆる「常識」が似たり寄ったりだったので、それ以上のものは要らない。
加えるならば、日常見てきた自然環境です。日本列島は、人間に徹底的な卑小感・無力感を味合わせるような圧倒的な大砂漠や大森林は少ないです。多くは起伏に富んだ優しい自然です。四季折々の変化も豊かです。そうなると、自然に育まれる世界観としては、強大無比な神が絶対的な原理で支配するというよりは、生活や情景のさまざまな陰影に細々といろいろな神様が共存しているという見え方になるでしょう。八百万の神々ですね。宇宙空間を見たり、大荒野を見たときに想定する神は強力無比な絶対神でしょうが、水蒸気の国のほんのり優しげに連なる緑の山々に宿る神はそんなに過酷な神様ではない。また、神の役割も、砂漠の民が考えたような「万物の造物主であり、万物の支配者」みたいな権力的なものではなく、人間社会に寄り添ってくれている優しげな母親的な神でしょう。
このような日本的な特殊環境に育まれた人間はどうなるかというと、豊かな植物相に囲まれた中で、一致団結して稲作をやれば良いということになります。
なお、イネは本来ベトナムやタイの熱帯性植物なので、これを日本のような温帯、場合によっては亜寒帯で栽培しようと思えば、かなり気を遣って育てる必要があります。灌漑もやらねばならないし、台風前に刈り取りをしなけばならない。だから農作業の一致団結というのは、生き抜くための基本だったでしょう。でも、一致団結してやれば、まあまあ生きていけた。となれば、何はともあれ「皆仲良く」という原理、すなわち「和の原理」が日本人の生きる基本OSになるでしょう。でも、それだけで足りてしまうんでしょうね。
あとは、湿気の多い気候ですから、風土病や伝染病に気をつけることが大事で、「いつも綺麗に」という基本原則が出てくる。神道の基本原理はたった一つだといいます。「ケガレを嫌い、清浄に保つ」ことです。要するに「綺麗にする」ということです。これは衛生観念からいって必要不可欠なことだったのでしょう。
上で見たように西欧中東エリアにおいては、話が通じない外敵がドドドと押し寄せてくるわ、異民族同志が混じり合ってるわ、喧嘩したり壊れたりするとトコトンいってしまいそうだわという激しい無秩序になりがちです。だから、日本人以上に強烈な法律が必要になるのは分かります。
しかし、それだけの話ではないか?という疑問も出てきます。
要は、明確で峻厳な法律を作ればいいだけであって、それ以上踏み込んで「だから宗教が必要」「原理原則や思想が必要」という話にはならないのではないか?と。
なぜ法律以上にディープなところで宗教とか思想が必要になるのか?
これはこういうことだと思います。
いっくら精密な法律を作ったって、人々がそれを守らなかったらなんの意味もないからです。
もちろん違反者はビシバシと処刑すればいいけど、考えてみればそれも大変な話です。コストもかかるし、恨みも残す。恐怖と暴力だけで人々を従わせようとしても限界があるのです。もっと効率が良く、もっとナチュラルな方法としては、人々が自然に「あ、法律は守らなくちゃね」と思うようになることです。
日本人というのは生来穏健ですから、野獣的なワガママを押し通す人は少ないけど、過酷な環境で育ってくれば「気にくわない奴は殺せ」という信条で生き抜いてくる連中だって多いわけです。人間が本来もっているケダモノ性を濃厚に含んでいるような人々が多くいる場合、まずやるべきことは「調教」です。法律を作る以前に、「法律に従う人間」にしなければならない。野生の馬を調教して従わせるように、野生の牙を抜き、ケダモノを社会的な存在にしなければならない。「狼に育てられた少女」を人間社会に戻すためには、「対話をする」「人の言うことをきく」という基本的な部分を叩き込む必要があるのと同じです。そのための「調教」です。
社会というのは人の集合です。個々の人間という無数のブロックを積み上げるようなものですから、個々のブロックは、ある程度統一的な法則で大きさや性向が定まっている必要があります。大きさも強度も形もバラバラだったら、積み上げるそばからガラガラと崩れちゃいますからね。そこで人々を、一つのパターンに押込める必要があります。それがすなわち、思想であり、宗教であると思うのです。
ここでいきなり話は核心に入りますが、そもそも思想や宗教というのは何なのだ?と。
思想や宗教とは何かといえば、僕は、人間のもっともベーシックな世界観、人生観であり、もっともベーシックな正邪・善悪の判断基準、価値判断だと思います。人間の最も基礎的な「人格の設計図」であり、「人格のOS」ではないでしょうか。
個性的な野獣達を、とにもかくにも社会的な存在にするためには、独特の思想や原理で、共通の善悪基準を作る必要があったのでしょう。どういう行動を「正しい」ことと感じ、どういう行為を「悪い」ことだと感じるか、その基本設定です。なぜ自分はココにいて、そしていかに生きるべきかの基本観念です。
あー、でも、こんな具合に抽象的に言っていてもわかりにくいのですよね。
仮に大荒野に一人で生きていて、一日旅しても誰にも会わないという生活をしているとします。大地と自分だけ。食べ物は自分で採取し、たまに誰かと出会ったら即座に戦闘行為に入り、強い方が生き残る。それだけの生活、それだけの人生だったとします。ここには、正義も悪もありません。何が正しいか、素晴らしいかという価値判断もありません。野生の動物と似たり寄ったりです。
しかし、「この世には神様という存在があり、神様は常に自分を見ている、正しい行いをしているかどうか見ていて、正しかったら死んだ後に天国に連れて行ってくれるけど、ダメだったら永遠に地獄で苦しむ」という思想が、何かのキッカケで彼の頭の中に入り込んだらどうなるでしょうか。彼の世界観、人生観はガラリと変るでしょう。そして、何が神様からみて「正しいこと」「悪いこと」なのか考えるようになるでしょう。考えても分からないから、その道のプロ(聖職者)に聞くでしょう。
ついさっきまで野獣のような生活をしてきた奴がいきなりそんなことを信じるようになるか?って疑問もありますが、僕はありうると思います。大自然の中に生きていれば、この世界には人間以上の超常的な存在があるような気になるでしょう。かなり親和性の高い発想だと思います。あとの「原理」は、それを説く人の説明の上手さ、プレゼンテーションの善し悪しにかかってくると思います。古来、キリストにせよ、釈迦にせよ、孔子にせよ、聞く人が皆「おお〜、なるほど、そうだったのか」と感動するくらい、プレゼン上手あり、圧倒的にライブに強いパファーマーだったと思われます。
説得のレトリックだって、なんとなく分かるような気がします。いくら野獣的といっても、いや野獣的であるからこそ動物的な本能はあります。本能は何も殺戮本能だけではなく、種族維持(求愛)本能も、育児本能も、営巣・帰巣本能もあります。自然児だからこそ自分のパートナーや子供、家族に対して「優しい気持」になれるでしょうし、ナチュラルな友情も起きるかもしれないし、それに野生の動物はお腹いっぱいのときは殺戮はしないでしょう。辻説法をしている聖者達から、「お前の中にある、その優しい気持、清らかな気持は一体どこからやってくるのか。なぜそういう気持が生じるのか?自分で分かるか?」と言われたら「むむ」と思うでしょう。そして畳みかけるように、それは神が人に与えたもうた祝福なのです(キリスト)、それこそが仏の慈悲の心(釈迦)、それこそが惻隠の情(孔子)と説明用語はそれぞれですけど、そういわれると「そうかな」と思う人も出てくるでしょう。「それが証拠に、子を持つ母は皆我が子に優しい眼差しを向けるではないですか、あれは偶然ですか?こんな偶然がこれほど重なりますか?何か理由があるのですよ、そしてあなたの心の底ではその答をもう知っている筈だ」とかトントントンとたたみ込んでこられたら、「おおー」と思うかも知れないよ。そんでもって、超能力的な奇跡の一つ二つ目の当たりにしたり、熱狂的な信者から「俺は見た!」と言われたら、「おお、この人こそ神の使者ではないか」と思ったりするでしょう。
今、宗教的な「神」という視点で言いましたけど、これは何でもいいんです。ルソー以来の近代人権思想でもいいですし、マルクス主義でもいいですし、資本主義でもいいです。なんでもいいです。この世界の根本原理と、「だから自分は今どこにいて、なにをすべきか」を示してくれれば、それによって人は善悪の価値判断基準を持つようになるし、自分の人生の意義付けも出来るようになるでしょう。
アル・ゴアほかの環境論者の言うように、「今、地球は温暖化の差し迫った危機を迎えている」という「世界認識(世界観)」を教えて貰い、「なるほど」と納得したら、「では、あなたは何をなすべきか?」ということで、サステイナブルなライフスタイルですよとか、エコフレンドリーな価値判断を持つようになるでしょう。これは別に「宗教」ではありませんが、基本的な世界観を示され、それによって自分の立ち位置を理解し、自分の人生の基本方針なり、価値判断が出てくるという意味では全く同じことだと思います。
分かりますか?
僕らは、ごく自然に「これはイイコト」「これはイケナイこと」と判断していますけど、その判断基準は何なのか?その基準を導く大きな構造原理というものがあるわけです。
さて、西欧社会におけるキリスト教、あるいは中東におけるイスラム教というのは、生物学的ケダモノ的な人間が「社会的な人間」になるための基本的なフォーマットなのだと思います。そのくらいに理解していないと、何故あれだけ浸透していくのかというあたりが理解できないのではないでしょうか。
ところで、遺伝子的には同じアジア系の中国の漢民族の場合も、原理や思想に縛られていると言われます。キリスト教やイスラム教の代わりに儒教がありましたから。
儒教というのは礼法の集大成であり、人間が生まれてから死ぬまでの「こういう場合はこうする」という行動基準を定めたものです。日本人の場合、儒教を学んでも、それは理性的・哲学的に学んでるだけであり、人間の基本的に善悪や感情・感覚までは規律しません。お隣の韓国は昔から儒教社会になってますから、出身地が同じで同じ姓の人間とは絶対に結婚しないとか、長幼の礼が厳しく兄の前では弟はぜったいタバコを吸わないとかいうルールは今なお健在だと言います。同本同姓の結婚禁止も形式的なものではなく、同本同姓というだけで近親相姦的に感じられ、性欲すら自然消滅するくらい、生理的な感覚になっているようです。こうやって人間の基本感情を左右できるくらいになってはじめて、儒教という原理がその人間を作り上げているということになるのでしょう。ところが日本の場合、そこまで儒教というものが染みこんできていない。あくまで「お勉強」レベルでしかない。それが証拠に、古代の天皇家なんか親族・血族同志でバンバン結婚してますからね。平安貴族もそうです。中国や韓国の儒学者が聞いたら卒倒するくらい、儒教的に言えばケダモノの所業をやってるわけですけど、別にそれで僕らは全然違和感を感じてないわけです。
その中国2000年以上の儒教の伝統を、ひとりの中国人が壊します。毛沢東ですね。マルクス主義に東洋思想を混ぜた毛沢東主義を掲げ、クラシカルな中国人の価値判断や世界観を徹底的に叩き壊しました。毛沢東の死後もこの運動は続き、いわゆる文化大革命が起き、古典教養=悪、農村=善という新しい価値観を隅々にまで徹底させます。その徹底度は、長年使ってきた漢字すらをデザインし直すというところまで行きます。逆らう人々は即投獄、処刑。キリスト教徒における聖書のように、毛沢東語録を皆が持ち歩いて、政治やビジネス、日常生活にいたるまで「毛語録の何頁には○○といってるから、こうすべきだ」とやっていたという、ちょっと引いて見たら、十数億人が総発狂しているようなスゴイ状況になっていたわけです。でも、一つの民族のOSである基本的な価値観、世界観を変えるというのは、それだけのことなのでしょう。
さて、長々と書いてきましたが、これだけ巨大なテーマがこんないっぺんの雑文で語りきれる筈もなく、至るところで意を尽くせていないわけですが、まあ、ラフスケッチくらいに思っていてください。
ともあれ、人間が社会を構成するためには、人間を社会的に調教しなければならない、その場合の調教ツールとして大原理があるのだってことですね。日本人にだってこれは当てはまって、日本人を動かしている日本的な諸原理というのはあります。ありますけど、西欧や中国などに比べると原理に対する執着心は乏しい。原理が壊れたら、アイデンティティが崩壊するとか、人格が消滅するとか、そこまで強く思いこんでいるわけではない。そんなに強力な調教を最初から必要としない民族なのですね。生来的に大人しくて協力的だから、波風を立てるのを好まず、調教らしい調教をしなくても、そこそこ社会が作れてしまうってことでしょう。
日本列島という周囲を海に囲まれた孤島、しかも東側は巨大な太平洋であり、昔の感覚では「この世の果て」です。そんなところにわざわざやってくる連中も少ない。古代のシルクルードが今の東京だとしたら、古代の日本など硫黄島みたいなものです。よほどの物好きでもない限り、あんなところに行かない。だから、日本列島に生まれてしまえば、いつも同じ民族同士、似たもの同士の集団生活です。外敵がいない箱庭社会です。
しかも性情も肉体も穏和な僕らは、基礎原理といってもせいぜいが「和をもって貴しとする」くらいです。「皆で仲良く」ってくらいです。仲良くしないとイネが枯れちゃうから、集団生活を機能的に行うことは上手。でもそれで大概のことはなんとかなっちゃうから、それ以上のトラブル解決方法やスキルを開発してないです。「皆で一生懸命頑張れば何とかなる」と思ってる。第二次大戦のときだって、「進め一億火の玉だ!」とかやってたわけで、メンタリティは全く一緒。宗教にしたって神道ですけど、神道自体に精密な教義や峻厳な戒律があるわけでもないです。「ケガレを祓って、清浄を保つ」という程度でしょう。
つまり、あなたが「日本人」になりたく、日本人らしいOSを設定してもらいたかったら、@世間や周囲に波長をシンクロさせてうまくやっていきましょうということと、あとAいつもキレイにしておきましょうということくらいです。「世間体を気にして、清潔好き」だったら、キミも立派な日本人であり、それで世の中上手く廻る。「どーもどーも」を連発して賞味期限を気にしていれば立派な日本人ですわ。
日本人だって、強力な原理原則や思想なんてものにハシカにようにカブれることがあります。でも、大体一夜明けたらケロッと忘れてますよね。昨日まで尊皇攘夷を熱烈に唱えていた革命勢力が政権を取った途端いきなり開国という、これ以上ないくらいの裏切り行為を明治政府がやったとしても、皆さん「文明開化だ!」といって喜んでいる。昨日まで鬼畜米英といってたのが次の日になったらアメリカさん万歳になっている。普通、これだけ狂信的に何かやってて、根本原理が崩れたら、発狂するか、自殺しますよ。しないまでも強烈なトラウマを残しますよ。一生廃人になってもおかしくない。でもケロッとしてるのが僕ら日本人です。
明治維新から敗戦まで、政府は「万世一系の天皇陛下の帝国」という壮大な「お話」をでっち上げました。国民は「臣民」と呼ばれ、「陛下の赤子」と呼ばれ、全ての日本人の本家の本家の総本家は天皇家であり、天孫降臨以来の神様であるという。神様だから天皇陛下の名前を口にするときは誰もが直立不動になり、陛下の写真の前では最敬礼しなければならない。世界認識はどうなっているかというと、世界で一番優秀な日本民族がアジアの人々をリードして鬼畜米英の悪事を粉砕し、解放するのだという。米英の言葉は適性語だから、野球をやってもストライクは「よし一本!」と言わされ、コーヒーは「炒り豆のだし汁」と呼ばされという、悪い冗談のような体制でした。そしてちょっとでも批判的なそぶりを見せると、特高警察に拉致され、天井から逆さ吊りにされ、太股に五寸釘を打たれて残虐に殺された。そんなことを大真面目にやっていたわけです、僕らは。
こういう社会世相をクールに引いて一言でいえば「発狂」以外のなにものでもないです。ものすごく強烈な「原理」を押しつけ、国民はそれに従った。それこそ死ぬまで従った。これだけ従ってたら、それが「ごめん、全部ウソでした」ってことになったら革命が起きるよ。天皇陛下も人間宣言した時点で、怒れる日本民族によってリンチで八つ裂きにされても当然でしょう。だって、こいつのために愛しい家族が無駄に死んだんですよ。殺しても飽き足らないでしょうが。でも、いまだに日本人は天皇陛下が好きだし、僕も悪感情は持ってないです。これだけ信じきって、その原理のために死んでもいいって思い、実際沢山の人々が死んでいったにもかかわらず、「はい、おしまい」といったら、「はい、おつかれさまでしたー」みたいな感じでアッサリ終わってしまう。
日本人における「原理」というのは所詮その程度のものでしかない。戦後の民主主義も、今の資本主義も、自由主義も、真剣に理解して自分の血肉にしているとは到底言えないでしょう。また、いっとき流行ったマルクス主義にしても、流行が去ったらなんのこっちゃです。
でも、「そのくらい日本人というのはいい加減な民族なのだ」と批判する気はないですし、むしろそういう「自由度」が僕らの最大の武器なのでしょうね。
原理原則や思想や宗教に、骨の髄まで縛られないから、ものすごく合理的、プラグマティックに判断や行動が出来ます。昨日まで孔子様だ儒教だ、朱子学だといってたのが蘭学だとなれば、皆さん蘭学をやり、これからは英語だとなると英語をやり、フランスがドイツに負けたらこれからドイツだとドイツに学ぼうとするでしょ。中国も韓国も根っから儒教が染みこんでいたら、いくら西欧列強の強大な力を見せられても危機感が無かったし、あったところで具体的に生活を大改造してまで追いつこうとは思わなかった。日本だけですわ。ほんのちょっと黒船がきただけで、日本全国沸騰するような大騒ぎになり、攘夷だなんだと騒ぎまくる。攘夷だと騒いでいた長州藩の連中も、実際に上海とか列強の凄さを目のあたりにした瞬間に、「あ、攘夷なんか無理無理」と一瞬にして攘夷を捨てます。それまで「攘夷のためなら死んでもいい」と言ってた人が、瞬時に考えを変える。現実というものをそれだけ大事にする。
これは誰かの本の受け売りですけど(出典忘れた)、昔中国では「五臓六腑」と言われていたのですが、実際に罪人の死体を解剖するとどうも理屈と違う。「あれ?」と思うわけですが、中国人は原理に忠実だから、「これは罪人だから内臓の形や数が違うのだ」と現実否定をする。でも、日本人の場合、山脇東洋だったかなエライ漢方学者が同じように解剖したら、「あれ、違うじゃん!」と喜ぶ。「なんだー、これ間違ってるじゃん、そうか、そうだったのか、わっははは」と、まず現実を見て、原理のために現実をねじ曲げない。それは原理に縛られない日本人の最大の飛び道具的長所だと思います。ただし、この例は中国人と日本人の性質の差を言ってるのではなく、「原理に縛られる人」と「縛られない人」の差を言ってるだけのことです。
こういう日本人の僕らですから、なんだかんだいっても、皆で周囲同調してうまくやっていく自信があります。2000年これでやってきたんだから、かなり自信あります。だから日本という社会も国家も、別に総理大臣など強力なリーダーが引っ張っているとは思ってない。だから総理大臣なんか誰がやっても変らないと思ってるし、そもそも世の中が政治によって動いているとは思ってない。あなただって思ってないでしょう?首相が安倍から福田に替わろうが、別にどってことないと思ってる。プロ野球の監督が替わった方がまだしも現実に影響があるくらいに思ってる。平均的な日本人にとって、世の中動かしているのは、僕ら一人一人であり、上の連中は”飾り”くらいにしか思ってないでしょう。
そのかわり、この集合体である「日本人」がリアルタイムにどうなっているか、最近の傾向はどうかということに関してはメチャクチャ敏感です。そういう「最近は皆〜」「最近〜という人が増えている」というネタに関しては異常にセンシティブであり、熱心に聞き入り、語り合う。でも、政治課題に関する与野党の政策なんてのにはあんまり興味はない。なぜか?
日本人にとってリアルに大事なのは、自分が何となく思ってる善悪感覚や美醜感覚が、世間一般のそれとが波長シンクロできているかどうかです。これが日本人にとって生命線です。集団と自分との波長同調やチューニングがズレてくると、もう日本人としては出来損ないの二流品になってしまうから、もう必死ですよね。自分と感性が違う日本人が出てきたら、彼らが間違っているのか、自分が型遅れのスクラップになっているのか、とにかく非常に嘆き、哀しみ、怒り出します。ちょっとばかり態度の悪い店員を見たり、電車のなかで話の通じない若い連中の生態をみただけで、もうこの世の終わりが来たかのように嘆き悲しむ。なぜなら、僕ら日本人にとって「集団との一体感」以上に大事な要素はないからです。首相が替わることよりも、自分が「世間からズレてきてるかどうか」の方が遙かに大事。100倍大事。あなただって、そう思ってないですか?
このように、僕ら日本人の「人間としての成立の仕方」と、ヨーロピアンなど他の地球人の成立の仕方とは、かなり違うような気がしますし、キリスト教など宗教についてもそこにリンクしてるんだろうなーって気がします。だって、何らかの形で神の存在を信じる人間が、全人類の9割前後いるといいます。要するに、人類というのはごく自然に神だの宗教だの、そういう感覚を持っている。でも、日本人の場合は9割が神なんか信じてないです。かなりヘンなんですよ。でも、僕も日本人だから自分がヘンだという気がしないし、なんでそこまで神様を必要とするのか今ひとつよく分からない、ピンとこないです。
ただ、ピンとこないまでも、こういう前提でみていくと、なぜヨーロッパでキリスト教が浸透したのかというのは、多少分かるような気がしますよね。社会を作るために必要な作業なんだろうなーって。そして、これが「キリスト教が社会の”精神的支柱”になるという意味」なんだろうなと思うわけです。
日本人からはピンとこないけど、中東西欧の連中にとっての原理の大事さ、宗教の有用性がなんとなくわかったところで、世界史の続きにいきます。どうしてゲルマン民族のフランク王国がキリスト教を必要としたのか、そしてゲルマン社会にキリスト教が浸透するということはどういうことか、です。
文責:田村
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