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今週の1枚(08.10.27)






緊張緩和/デタント
     デタントの具体的な流れとしては、数々の軍縮交渉&条約です。69年にはヘルシンキで第1次戦略兵器制限交渉(SALTT=Strategic Arms Limitation Talks 1)を開始、戦略ミサイルの数量制限について話し合われ、1972年5月にニクソンとブレジネフによって核兵器の現状凍結や迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)という形で結実します。また、その翌年である1973年には、核戦争防止協定調印までこぎつけています。

     このように、米ソそれぞれが歩み寄って軍縮に合意したのは、別に突如として両国首脳が平和に目覚めたというよりは、より切実な問題として「お金がない!」というそれぞれの台所の事情があったと言われています。長年のベトナム戦争でアメリカの財政は疲弊し、ソ連もブレジネフ時代の長期停滞状態でパッとしません。このまま金食い虫である最新軍備をガンガン調達してたらやっとられんという切ない部分があったのでしょう。それに外交の現実を見れば、これまでのような軍事力の張り合い=東西冷戦構造だけでは解決がつかない時代なっています。お金をかけて軍備を整えても効果が薄い。折しも、ベトナム戦争を背景にした世界各地、とりわけアメリカ国内では反戦平和ムーブメントが盛り上がっているわけで、人気商売としての大統領としては多少なりともこれに挨拶しなければならない事情もまたあったと思われます。そして両トップの心の奥底には、キューバ危機のような核戦争崖っぷちギリギリというストレスフルな状況は沢山だという意識もあったのではないでしょうか。人類滅亡のボタンなんか誰だって押したくないですよ。

     このデタントの流れは、米ソを含む35カ国の首脳が参加した1975年の全欧安全保障協力会議(CSCE)とヘルシンキ宣言、同年の国連軍縮特別総会という形で引き継がれていきます。こういった軍縮の流れは、1979年のSART2が調印のあと、後述のソ連のアフガン侵攻にともなう新冷戦によって一旦冷え込みますが、また復活し、1982年からは第1次戦略兵器削減交渉(STARTT)、1987年の中距離核兵器(INF)全廃条約という流れになっていきます。SALTとSTARTで何が違うのかというと、前者はStrategic Arms ”Limitation(制限)”であり、後者はSTrategic Arms ”Reduction(削減)”です。「これ以上増やすのはヤメ」というのから、積極的に「減らす」になっているということですね。でも前者がSALTなら後者はSARTにすべきじゃないかって気もしますが、紛らわしいからかな。




米中国交正常化
     1970年から72年の間、ニクソンは、日本にも重大な影響を及ぼす二つ政策を行います。一つは米中国交正常化であり、もう一つはドル・ショック(ニクソン・ショック)と呼ばれる経済政策です。

     1971年7月、ニクソン大統領の懐刀であるヘンリー・キッシンジャー特別補佐官は。内密に中国に飛び、周恩来首相と会談。その後の記者会見で、近い将来大統領の中国訪問予定を発表して世界中を驚倒させます。半年後の72年2月、訪中したニクソンは毛沢東主席と会談、長年の仇敵関係にあった中華人民共和国との国交樹立への道ならしをします。

     ところで、これまで何故アメリカ(日本も含む西側)が台湾と親しくて、本土中国と仲が悪かったか?というと、これまでの復習になります。第二次大戦前後を通じる中国における共産党(毛沢東)と国民党(蒋介石)の覇権争いがあり、ソ連は当然共産党を、西側は国民党を支持していたところ、結局蒋介石が敗れて台湾に渡ったという経緯があるからですね。東西冷戦ドグマのもとではアメリカ(西側)は台湾支持で揺るぎなかったのですが、その冷戦ドグマ自体が揺らいできたわけですね。ソ連国内のスターリン批判、中国での毛沢東の独自路線と文革など、共産勢力内部でも足並みが揃わなくなってます。足並みが揃わないどころか、かなり喧嘩腰で中ソ間が険悪になっており、もはや東だ西だというシンプルな話ではなくなってきています。

     ここで中国に接近して仲良くするというニクソン=キッシンジャー政策は、今から思うと非常に興味深いです。ニクソン&キッシンジャーという人達は、さすがによく時代が見えていたのねという気がします。キッシンジャーは外交の達人といわれ、日本のマスコミにも露出度が高く、当時コドモだった僕ですら覚えているくらいの有名人です。この中国接近政策は、単なる対中国政策を転換しただけに留まらず、ベトナム戦争からの脱却と併せて対アジア政策の転換を意味し、さらに広い視座でいえばアメリカの世界戦略の再構築であり、もっともっと巨視的にみればアメリカの伝統的戦略すら変えています。かなり革命的な路線転換だと思います。

     アメリカというのは、モンロー主義の昔から孤立主義&理想主義がメインストリームの国です。理想をブチ上げて突っ走るけど、あんまり協調性のない国だったわけで、それは例えば、第一次大戦後に積極的に国際連合を提唱しながら、いざそれが出来たら自分は加盟しないという部分にも現れてます。理想主義は、それは良い方向に転がれば南北戦争の奴隷解放とか、公民権運動とか、国内での反戦平和ムーブメントという形で出てきますが、一歩間違えれば独善的で大風呂敷になりがちです。いわゆる「アメリカ(だけ)の正義」ってやつです。そういったアメリカ本来の体質からすると、このニクソン&キッシンジャーコンビのやったことは異質です。理想&孤立ではなく、その逆である現実&協調主義路線を打ち出しています。

     キッシンジャーという人は、ドイツ生まれで、ナチスを嫌ってアメリカに渡ってきた移民ですが、生涯強いドイツなまりの英語を話したそうです。そのことを問われると、「私はあまりにも外国語が上手な人を信用しない」と平然と切り返すなどユニークな人だったようで、そのユニークさはパーティに有名女優と一緒に登場する派手なパフォーマンスや、神出鬼没な活躍ぶりで日本で「忍者外交」と呼ばれているあたりにも窺われます。独自の外交観を持ち、引退後の著作や回顧録で世界の外交界の指南役としてレスペクトされています。彼の外交は、一言でいえば非常に現実的な路線を踏襲しており、なによりも世界の安定を重んじ、それが時として理想がないとか民主主義への無関心などとと批判されるのですが、ある種確信犯的に優先順位をつけているようです。

     この人のやり方をみてると、オーストリアのメッテルニヒを思い出します。覚えてますか?ナポレオン後のウィーン体制の守護神と言われ、外交の天才と言われたメッテルニヒですが(第27回参照)、似てるはずでキッシンジャーはメッテルニヒを崇拝し、ハーバード大学での博士論文の題材にもしています。もう一人、キッシンジャーを見てて思い出したのが諸葛孔明です。ここまでいうと褒めすぎかもしれないですが、米ソ対立という二極構造を、米中ソという三極ゲームにしてしまったあたり、三国志で孔明が唱えた「天下三分の計」と発想が同じですよね。プレーヤーの数が2だとすぐに対立だの決戦になって不安定だけど、プレーヤーを3人にしてしまえば三すくみ状態で安定しやすいという。単身中国に乗り込み話を通しに行くあたり、単身孔明が呉に赴いて軍事同盟を締結するくだりを彷彿とさせます。

     ニクソン=キッシンジャー政権が慧眼だと思うのは、東西冷戦という二極ゲームではもう埒が開かないという見極めをしたことであり、なんでもかんでもアメリカがやるのではなく、中国と仲良くして、ソ連への牽制は中国にやってもらった方が良いという現実判断をしたことです。この基本路線の展開というのは、よほどの洞察力と実行力がないと出来ないように思いますし、その後のフォード政権、カーター政権は基本的にはこの路線の踏襲です。また、この考え方は現在のアメリカにも受け継がれているらしく、何でもアメリカが仕切らないと気が済まない勢力と、多極的に分散しパワー・バランスで調整していこうという勢力とがあると言われます。



     さて、アメリカと中国(本土)が仲良くなるのはいいのですが、ここで問題になったのは、これまで友好関係にあった中華民国(台湾)との関係です。本土と台湾は戦前からの国共対立関係が続いていますから、それこそ不倶戴天の関係にあり、一方に肩入れするということは他方を切り捨てるということで、アメリカにしても苦渋の決断を強いられることになります。

     これまで中国の国連加入の機会は、1950年のソ連提案、インド提案のときにあったのですが、いずれもアメリカが反対しています。それが一転して、アメリカが賛成に回るのですが、しかし台湾との関係が残されます。中国を認めて台湾を切るという方向性と、中国を認めるけど台湾は切らない(一国二代表制)という方向性があります。アメリカは台湾に配慮し、後者を主張しますが(日本も追随)、1971年の国連総会では台湾を追放するという決議になってしまっています。結局、1979年のカーター大統領のときに米中国交正常化は行われますが、そのときに正式にアメリカは台湾の中華民国政府と国交を断絶します。

     アメリカの中国接近は世界に強い衝撃を与えましたが、とりわけ日本のショックは大きく、1972年の田中角栄内閣のときに日中国交正常化が行われます。この際、日本も台湾との国交を断絶しています。この小学生でしたが、なんとなく国中がお祭騒ぎだったのを覚えてます。細かな日程をみると、72年9月25日に田中角栄が訪中、周恩来と会見、27日には毛沢東と会見、29日に日中共同声明が出されています。そして10月28日、つまりわずか一ヶ月後ですが、上野動物園に中国からパンダが贈られ、全国的にランラン、カンカンブームが湧き起こります。日本人がパンダという動物を身近に知った歴史的な時期ですね。

     ところで、世界中が中国の国際社会デビューを祝ってお祭騒ぎをしている最中、切り捨てられた台湾こそいい面の皮です。なんか出世していいとこのお嬢さんと結婚するために、貧しい時代を支えてくれた糟糠の妻を捨てるような後ろめたさがありますが、これはアメリカも日本も、そして他の世界も感じていたらしく、新妻(中国)の手前、「いや、手は切ったよ!」と言うものの、実は密かに会っているという状況が続きます。形式的には国交断絶なのだけど、民間など非政府組織を通じて事実上の国交は続けていくという。

     この中国と台湾の意地の張り合いもいい加減にしてくれって気がしますね。誰がどう見たって二国二政府でしょうと思うのだけど、中国の公式見解は台湾島付近を反政府勢力が占拠してることになるし、台湾側の見解ではその逆。中国と正式に国交を開いた以上、国家として公式に台湾と交渉を持つわけにはいかなくなります。しかし、当時の経済力は圧倒的に台湾の方が進んでいるし、置かれていた立地と立場の関係で台湾は本土中国よりも全然国際的に開かれていて付き合いやすい。日本とも昔から関係が深く、王監督だって台湾出身だし、当時の人気歌手欧陽菲菲もそう。もともと在米華僑などとのつながりは深く、また日本の産業構造と同じく優秀な中小企業集団を持っている台湾はどんどん工業化が進展します。IT系の進展はめざましく、既に80年代にマザーボードのシェア世界一になり、Acer、BenQ、AUSUS、GIGABYTE、D-LINKなど、自作パソコンをする人だったらなじみ深いブランドが沢山あります。

     一方当時の中国といえば、文革の真っ最中であり、ありていにいって超巨大なオウム帝国のようなカルト集団だったりします。付き合いにくいです。だから、国交を断絶したとはいいながら、台湾はオリンピックをはじめ世界のスポーツ大会に参加してるし、WTOなどにも独自に参加できています。その際の国名は"Chinese Taipei"だったり、”Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu”とか苦心のあとがみられます。また、アメリカは台湾との軍事関係は維持しており(台湾関係法)、1996年の台湾総統選挙に伴い、中国が恫喝的な軍事演習を強行したときも、アメリカは台湾海峡に空母を派遣しています。

     個人的な体験でいえば、その昔検察庁で司法修習をしているとき関係者の調書をとったのですが、この方が台湾の出身だったので、どう表現していいのか苦慮したことがあります。なんせ今書いているような気楽な雑文ではなく、検察庁の公式文書であり、日本国の正式文書を作成するわけですから、「中華民国国籍を有する〜」とか書けないわけです。「だー、面倒くさっ!もう”沖縄の先にある大きな島”とでも書きますか?」とかボヤいていたのを覚えています。



     ついでに述べておきますが、パンダブームで日本が浮かれていたこの当時、中国では未だに文化大革命の最中です。キッシンジャー訪中とニクソン訪中の間にあたる1971年9月には、毛沢東の片腕だった林彪がクーデターに失敗するなど苛烈な政争が行われています。もっとも文革は76年に終わりますから、そろそろ終焉期を迎えつつあります。無茶苦茶になった国土を周恩来が必死に立て直し、有能なんだけど遠ざけられていたケ小平を呼び戻したりしてます。その後、ケ小平勢力と、文革の中心にある四人組との勢力争いが激化します。

     76年1月には周恩来が死去してしまい、四人組勢力が増大するなか、同年4月周恩来を追悼する民衆が天安門広場に集まり、暴動が起きます(第一次天安門事件)。これは政府(四人組)によって鎮圧され、あおりを食ってケ小平はまた失脚します。しかし、その直後、つまり76年9月に毛沢東が死去したことから一気に形勢が逆転、10月には華国鋒首相がクーデーターによって四人組を逮捕し、翌年には正式に文化大革命の終了を宣言します。

     以後、復活したケ小平らは「四つの現代化」を推進し、中国は改革開放路線に入り、途中に第二次天安門広場事件などギクシャクはしつつも、徐々に「共産党が仕切っている世界で最も成長率の高い資本主義国」というワケのわからない存在になり、今では世界経済を引っ張っているのは周知の通りです。




ドル・ショック
     ニクソンが行った大きな政策には、ドルショックと呼ばれる経済政策があります。
     当時のアメリカは、ベトナム戦争による疲弊や貿易赤字の増大などで国際収支は非常に悪化していました。国際通貨であるアメリカドルへの信用も低下しているなか、1971年8月15日(終戦記念日ですな)に、ニクソンはドル防衛のために、ドルと金の交換を停止するとともに、一律10%の輸入課徴金を設定しました。これをドルショックと言います。さらに、71年と73年にドルの切り下げを行います。この動きは、ある意味では米中接近よりも切実に世界に衝撃を与えます。

     しかし、これって経済専門的な話なので、今ひとつ理解しにくいですよね。ドルと金の交換を停止とか、ドル切り下げとか、どーゆー意味?という。

     それを理解するためには、その前のブレトン・ウッズ体制というものを知らねばなりません。これも過去に触れましたが、第二次大戦後の世界経済の安定&復興のために、世界の通貨の為替相場を安定させましょうという体制です。世界中で貿易をやってる最中、例えばA国で超インフレが起こってA国通貨が暴落、A国から代金を貰っても紙クズ同然というのではたまりません。そんなことが世界のあちこちで頻発したら、恐くて貿易取引なんかやってられないし、大戦争直後で不安定な状況だっただけに、「安定」というものが何よりも求められたのでしょう。安定化のために、金本位制がとられ、金1オンス=35USドルと固定させます。とにかく35米ドルをもっていけば金1オンスと交換して貰えると。その上で、ドルに対する各国通貨の交換比率(為替レート)が定められ、且つ固定されます。固定相場制ってやつで、日本円の場合は1ドル=360円と定められます。

     ニクソンはこのシステムをやめてしまいます。まず、ドルと金とのリンクをはずし、金本位制を廃止します。金本位制だと、アメリカは自分が発行しているドル通貨と同じ分だけの金を持ってないとならないのですが、ベトナム戦争の戦費拡大や貿易赤字などで、持ってる金以上のドルを発行しないとならなくなったので、金本位制を維持できなったわけです。まあ、経済活動が発展し、決済のための通貨が大量に必要になり、保有金量を超えていったらいつまでも金本位を維持することは出来ません。歴史的にも金本位制は採用されては廃止され、また採用されては放棄され、、を繰り返しています。とりあえずこれで、アメリカは保有金量に関係なくいくらでもドルを印刷発行することができるようになります。

     ドルと金のリンクが外れ、アメリカが無制限にドルを発行できるようになると、ドルの価値は下がります。実際にも市場で暴落しました。ここで分らなかったのは、ドル360円という具合に固定相場制度をとってるんだから、ドルの”暴落”もなにも起こりえないんじゃないかということですが、各国政府も機敏に対応し、一時的に変動相場制に移行したそうです。ニクソンショックが8月15日で、その年の12月には先進国蔵相がスミソニアン博物館で協議し(なんでそんな所で会議したんだろう)、各国通貨の交換比率が改訂されます。これをスミソニアン体制といいます。日本円も1ドル308円になりました。この308円という数字は日本側代表にとって想定外に大きな切り上げ幅だったのですが、当時の日本の存在感でしょうか対日本円交渉は一番最後に廻され、時間が押しているという状況で、日本側があっけに取られて「あうあう」と言ってる間に、「じゃ、そういうことで」と決まってしまったそうです。らしい話ですな。らしいといえば、8月15日のニクソンショックの後、日本が変動相場制に移行したのは26日ですが、他国はもっと迅速に動いてますから、その間日本の富がずいぶん無駄に流出してしまったそうです。

     しかし、スミソニアン体制も長続きはせず、固定相場制に対する市場の信頼が低下したため、73年からは変動相場制に移行します。以後日本円は多少の上下動はありながらも円高を続け、78年には200円を割り、94年には100円を割り、95年には79円という記録的な円高になります。ここ数年は110−120円台で推移してましたが、今回の経済危機でこれを書いている時点で94円まで高騰してます。

     ともあれこのドルショックは急激な円高を招き、日本経済、特に輸出産業に大きな打撃を与えます。360円が308円になるというのは、1ドル輸出して360円入ってくるところが308円しか入ってこないことを意味します。ものすごい為替差損であり、円高が自国産業に被害をもたらすものだということを日本人は初めて実感として学んだわけですね。もっとも原爆たたき落とされて焼け野原になっていた頃の日本と、当時の日本とでは国力に雲泥の差があったわけで、それをいつまでもドル360円という固定相場でやってる方がおかしいわけです。逆に言えば、ドルショックで日本経済が損したというよりも、ブレトンウッズ体制で不当なくらい得をしていたと考えた方が正しいと思います。これは後のオイルショックにも同じ事が言えます(それまでアメリカの石油制限政策で安い石油を買えていた)。

     余談ですが、長いこと1ドルといえば360円という時代が続きました。それに当時の1円と今の1円では価値が違います。例えば昭和40年(1965年)と平成19年(2007年)の消費者物価指数を比べてみると、日銀のサイトに料率がありますが、443対1767です。終戦時(昭和20年)を100として幾ら上がってるかですが、計算してみると約4倍です。だから当時の360円は今の1440円にも相当するわけで、1ドル1440円という途方もない円安レートだったわけです。だから当時の海外旅行や留学というのは、ものすごくお金がかかったわけですね。ハンバーガー一個3000円とかしてたわけですから。1年留学しようと思えば優に1000万円くらいはかかるという、誰もができるものではなかったということです。また、ドル1400円というアホみたいな円安でやれば、そりゃあ高度成長もするでしょうよ。もひとつちなみに、この日銀の物価上昇率をみてると、当時の日本がものすごいインフレだったことが分ります。年に10%とはいかないまでも8%くらい上がってるんじゃないかな。昭和20年からの10年間で物価は3倍になり、また昭和40年代後半のオイルショックあたりのインフレ率も凄く、45年に577だったのが50年には988というたった5年で物価が二倍近くに跳ね上がってます。これスゴイですよ。タクシー初乗り500円が5年間で1000円になってことだもん。今から思うとスゴイ時代だったのですね。2007年から直近10年の物価上昇率はマイナス。これも凄いのだけど、1997年(平成9年)に1833だった物価指数は、2007年に1767に落ちてます。余談でした。





ウォーターゲート事件