それまでの革命万歳が、市場開放でビジネス万歳、お金儲け万歳に路線転換しました。もともと商才のある人達ですし、海外には華僑ネットワークという強い援軍もあり、イギリス統治下で資本主義の果実も毒もたっぷり経験している香港もあります。燃えないわけがありません。ガンガン経済成長し、世界の工場としてMade in Chinaは世界中に出回るようになります。
資本主義工業経済が軌道に乗り始めた勃興期というのは、若々しく逞しいエネルギーで社会が廻るようになります。「若々しい」とか「逞しい」とかいうと、いかにも清潔なイメージですが、その実態は、ティーンエイジャーがそうであるように、粗野で、荒っぽく、無茶苦茶だったりします。ということで、経済開放後の中国では、毒入りギョーザをはじめとして、勢い余ったトンデモ話に事欠きません。曰く製品の品質が悪い、安全性や信頼を犠牲にしても価格を重視する(安かろう悪かろうでOK)、金が全て的な拝金主義、偽ブランドや知的財産権無視のパクリ天国、、、もう枚挙にいとまがありません。
しかし、それはちょっと前に
ESSAY(418)生命の猥雑、死の清浄で書いたように、若いということは、本来的に猥雑で、とっ散らかって、メッシーなものだからだと僕は思います。というか、中国のことを調べていてふと思い浮かんだことをあのエッセイで書いたのですが、パワフルな時期というのはナチュラルに無茶苦茶なんでしょう。日本の高度成長期もかなり無茶やっていたでしょうし、かつてはMade in Japanは粗悪品の代名詞でもありました。今でこそ安全性や信頼性が大事にされていますが、とっくの昔に高度成長が終わっていながら未だに安全とか信頼とかいってるというのは、それ以前がいかに進んでいなかったかです。高度成長の走りのころ、1953年には森永ミルク中毒事件というのがありました。安価であることから工業用のヒ素を触媒にして作られた化合物(添加物)を粉ミルクに添加していたところ、不純物としてヒ素が含まれており、1万3千名もの乳児がヒ素中毒、130名以上の中毒死を出しています。これが突発的例外的事例でないのは、この事件が被害者救済という形で解決をみるまで20年以上もかかっているという国や企業の責任回避姿勢をみてもわかるでしょう。
経済成長の副作用として出てきた食品公害は、いわゆる事件という形で報道されたものだけでも、食用油にダイオキシンが入っていたカネミ油事件(1968年)などがあります。発ガン性がわかって全面禁止になったチクロ甘味料なんてのもありましたね(実は今ではチクロの発ガン性は否定されているようですが)。そして公害。四大公害事件といわれる水俣病、四日市ぜんそく、イタイタイ病など全国各地で公害被害が出て、工業廃水で川は死に、土壌汚染、大気汚染は進行し、日本語ボキャブラリーにPCB、六価クロム、ダイオキシンなどが加わり、有吉佐和子著“複合汚染”がベストセラーになったりしました。食の安全性や環境に関する問題意識は、高度成長が一段落する70年代あたりから広く日本人の間に高まってきており、豊かになればなるほど「安価に腹一杯食べられたらそれでいい」という荒っぽい価値観が洗練修正されていくことが分かります。もっとも、食品偽装問題や、保存剤、添加剤、農薬問題、さらに耐震安全性偽装など最近に至るまで、昔に比べて「真剣にどれだけ安全になったのか」というと心許ないものもありますが。
経済成長のもう一つの副作用として、古き良き倫理やモラルの低下もあります。経済成長するから皆さん嬉々として働く。モーレツ社員なんてのが流行語になるくらい働く。また東京などの大都市への人口集中がなされるから大家族から核家族化し、地域コミュニティも崩壊する。結果として、父親不在の家庭崩壊、高学歴→出世という人生の鋳型による受験戦争、ついていけない生徒を落ちこぼれと蔑称して非行化を招き、息子が就寝中の父親を金属バットで撲殺したりする。巨大人口を収用するための団地やマンション群などの”郊外”が出来たのはいいが、酒鬼薔薇事件など多くの理解不能の凶悪事件が都心ではなく郊外で起きるようにもなっていく。核家族化したことによる育児ストレスの高まりと児童虐待が増加する。ひいては核家族化どころか非婚化が進む。かつての団地ニュータウンは高齢化によりゴーストタウン化が始まる。一方小金を持ち始めた日本人は、猫も杓子も海外旅行に出かけ、"Ugly Japanese"と世界の顰蹙を買います(ちなみに日本の先代は”Ugly American"だった)。筒井康隆の「農協月へ行く」で痛烈に風刺されているように、スチュワーデスに強姦手前のセクハラをしまくる猥雑そのものの当時の日本人パワーが書かれていますが、そこまで田舎者ぶりは影を潜めたとはいいながら相変わらずアジア買春ツアーは行われ、ブランド店に群がり、バブル期は世界の名画を買い漁ったりしています。まあ、これだけやってりゃ嫌われるよね。
このように経済成長はいいことばかりではない。やってる最中はドラッグにラリってるようなもので、「大きいことはいいことだ」「隣の車が小さく見えます」なんて能天気に消費を享受していればいいけど、副作用もある。副作用というのは通例遅効性でタイムラグがあるからやってる最中には気づかず、気づいたときには深刻な事態になっている。今でこそ清潔で洗練されてはきたものの、日本にだって多くの”若気の至り”のような恥ずかしい過去はあったりします。あなたは年齢的に知らないかもしれないし、既に忘れてしまったかもしれないけど、俺は覚えているぞ。
しかし、これは日本人がどうのというよりも、急速に勃興する発展途上国の通弊であり、いわば人類共通の生理みたいなものだと思います。年寄りが若者の素行の悪さを嘆くように、老いたるヨーロッパ人はパワフルなアメリカ人を「文化も何も理解しないあの粗野なアメリカ人」として非難し、日本が伸びてくるとエコノミックアニマルとして嘲笑し、そして今は中国が世界で”憎まれっ子世に憚る”状態になっているということでしょう。
だからこの点に起因する多くのチャイナリスクは、発展途上段階の一過性のものが多いとは思います。平成日本人がタイムマシンに乗って昭和30年代の日本人に直接相対したら、「なんてパワフルで、なんて野蛮な奴らだ」と思うかもしれません。あの頃は一家5人が四畳半一間に暮らしているのが普通でしたからね。ただ、しかし、わかってはいてもその種のカルチャーギャップは厳しいでしょうねえ。
ところで中国人というと、権利主張が激しく、拝金主義的であり、安全や品質を犠牲にした粗悪品やジャンク専門で、環境汚染も汚職も人権も屁とも思わぬ人々の集まり、という芳しからぬイメージが日本で、あるいは世界で流布されていますが、どうなんでしょうね。常々僕は思うのですが、「○○人は○○」という分かりやすい認識というのは、往々にして実体に乏しいものです。「大阪人はがめつくてケチだ」とかさ。確かに一面真理というか、そういう側面も部分もあるでしょうけど、でも側面や部分でしかない。倫理的な面でいえば、中国は義とか仁などの東洋的道徳の発祥の地でもあるし、中国人は信義を重んじるという真逆の指摘もあります。孔孟の教えなんかとっくに廃れているとか、実体がそうでないから逆にそこが強調されたのだという意見もあり、それなりに説得力もありますが、それを言うなら今の日本人の住居やライフスタイルのどこに日本の誇る「わび、さび」があるのかって気もしますよね。でも現実はあんまり存在しないけど、日本人だったらその価値は知っているわけで、それと同じ事だとも言えます。
中国人といっても十億以上いるんだから、いろんな人もいるでしょう。個人レベルの認識でいえば、どの中国人に会って、どういう体験をしたかってこともあるでしょう。僕の場合は、日本で中国系の友人が多少おり、またオーストラリアで多くの中国系の人と接触してきましたけど、純粋に個人的な体験で言えば、イヤな思いをしたことは一度もないです。僕が接触するのは、こちらに来ている中国系の人、それも高度の技能を持って永住権を取り、現地に根を下ろして暮らしている人達ですが、もともとがインテリ層ということもあるのか、言ってることもやってることも極めてリーズナブルですし、別にがめつくもなんともないです。ただね、これで僕が中国に赴任して、日系の工場を管理する立場に立ったら出会う中国人もまた違うタイプの人達だろうし、日本で半ば不法就労という形で働いている人達に接したらまた印象は異なるでしょう。仮に同一人物であっても立場が違えば接し方もまた変わるでしょう。でもそれは民族の違いというよりは「立場や状況の違い」という面が大きいような気がします。発展途上国に観光旅行するとさんざんタカられ、ボラれ、騙されって悲惨な目にあったりしますが、同じ国に住人として、ちゃんと現地の言葉も習慣も覚えて住んでいると、また全然違った扱われ方をする。
僕がこちらで会う場合は、同じ外国人として、同じように永住権を取り、同じように現地に生きているという、ほぼ対等で同じような立場です。同じ立場だから比較しやすいと思うのですが、そうやって比較する限り、中国人だからどうってバイアスはゼロに近いくらい無いです。共に第二言語として苦労して英語を覚えて、英語でコミュニケートするわけですが、実際相手が中国系だろうが、マレーシアだろうが、ベトナムだろうが、感じるのは個性の差で民族的な差というのは一対一の関係になると案外と感じないです。
先日、シドニーで中国系の家族5人が惨殺される事件があり大きく社会の耳目を集めています。オーストラリア人は、中国に対する危機感情というか反発意識が日本人よりもやや強いところがあるのですが(日本人以上にアジア的なものを理解しにくいしね)、それでも被害にあった中国系家族に対しては全国的に同情の声が満ちていますし、一人だけ旅行をしていて難を逃れた少女には満腔の同情が寄せられています。一家が経営していたニュースエージェント店前には献花やカードが積み上げられ、コミュニティでは追悼集会がもたれています。要するにオーストラリア人に受け入れられ、愛されていたといってもいいでしょう。これも「死んでしまえば皆善人」みたいなノリではなく、勤勉で、誠実で、フレンドリーだから愛されるという王道的なノリであり、その王道に沿って現地に受け入れられている中国人は多いです。実際勤勉だし、見てても本当によく働きますわ。
だから、国家政府の動きや方針、経済活動などではバリバリ不協和音を立てていても、個々人レベルになると全然違ったりします。前回やったRio Tinto事件と今回の殺人事件はほぼ似たような時期に発生しているのですが、オーストラリア人としては「それはそれ、これはこれ」ってことなのでしょう。というか、抽象的・相対的な民族やグループのイメージと、実際の個々人レベルのイメージは常に違っていて当たり前なのだと思います。
なんでこんなに力説するかというと、僕自身も下らない過ちを犯していたからです。関西人に対する偏見です。僕は東京生まれの東京育ちだったから、ナチュラルに関西人、特に大阪人に対する偏見がありました。ちょうど今の日本人が中国人に対する抱く偏見に似ていて、はしっこくて、がめつくて、情緒も文化も理解しない拝金主義者で、妙に馴れ馴れしくて、図々しくて、油断も隙もない、、みたいな。まあ、極端に言ってますが。しかし、自分が関西・大阪に住むようになってからは、こんな下らない偏見は瞬殺って感じで消滅しました。偏見を持ってたこと自体忘れてしまうくらい。東西同じくらいの期間を過ごした身でいえば、総じて大阪の方が人間臭いし、フレンドリーだし、実質的だし、「人間の真実により近いところ」にいるように思います。住んでしまえば東京よりも暮らしやすいですよね。大阪人はケチだというのは大嘘で、実際には相撲のタニマチの語源になったように文化芸術のパトロンも多い。ただ個々人の鑑定眼がシビアで、他人の意見に左右されず独立性があるため、幾ら流行っているからといってもお金分の価値がないと判断すればお金を使わず、良いと思ったものには気前よく払う。より本音に近いところ、より真実に近いところにいようとするから、勢い現実的にもなるし、生臭い話を回避しない。話が人間関係的に際どいところまでいくから場を和らげる話術やジョークが多く、フレンドリーにもなる。
こういった大阪人の美点とも呼ぶべき傾向を、東京あたりの遠くから見ていると、「金の話ばっかりする」「やたら馴れ馴れしい」という具合に映るのでしょうね。逆に大阪から東京を見れば、本当の人間同士のふれあいもせず、真実に近い大事な事柄から逃げ、やたら周囲をうかがってカッコばっかりつけている本質的には冷血漢の集まり、に見えたりもするわけです。しかし、東京ネイティブ的には、特に山の手方面に昔からある「淡交をもって尊し」とするカルチャーがあったりするわけです。他人の領域に踏み込みすぎるのを避けようとする、シャイな照れや、デリケートな思いやりがあるのですね。でも、遠くから見てると「冷たい」の一言で斬られてしまう。そんなもんだと思います。そして、集団の傾向ではなく、目の前の一人一人についていえば、全然違いはないですよ。東西の差よりも、個々人の個性差の方が何十倍もデカいです。だから集団レベルでのゼネラルな傾向をいくらあげつらっても、「人間の真実により近いところ」でいえば、ほっとんど無意味というか、酒の肴の話題くらいの価値しかないと思いますね。
だいたい大阪人だって、別に俺は大阪人だって力みかえって24時間生きているわけではなく、普段は自分が大阪人であること自体意識はしません。それは日本にいるあなたが日本人だと四六時中力みかえっているわけではないのと一緒。それが大阪的特徴を全面にフィーチャーするような言動を取るのは、何かのキッカケによってそれが起動するからです。そういう話題になったからということもあるでしょうし、こちら側がよそ者オーラを全開にしてたり、相手を見るのに「異人種を見るような目」で見ているから、鏡のように相手から反作用を受けているのだという気がします。つまりは「そういう気にさせる」態度を無意識のうちにとっているからでしょう。だから、同じ住人、同じ地平に立ってしまえば、同じ人間ということでその種のイガイガした摩擦は消えます。
話を中国に戻して、その他、粗悪品であるとか、人権意識が低いとか批判点も又一面的な見方だと思います。中国人が民族的に粗悪なものしか作れなかったり、創意工夫発明の才能がないならば、青磁や茶器のように高度に芸術的な工芸品なんか産み出せるわけないです。また、世界の三大発明の印刷、火薬、方位磁針は全て中国で発明されたもので、それがヨーロッパに伝わったものです。低能民族(もしそんなものがあれば、だが)にそんなこと出来るわけねーよ。文化や芸術、ライフスタイルについても、漢方薬や鍼灸、中華料理の奥の深さ、中国武術のバラエティなどを見てもわかるように、探求心の深さがハンパではないです。
人権や民主的なものへの指向性でいっても、天安門事件は民主化を求める学生や民衆の集まりだったし、殺されるのを覚悟で戦車の前に立って進軍を止めた映像も世界に配信されています。強権的な中国政府に楯突いて投獄されたり、処刑されたりしたジャーナリストや活動家もいます。逆に今の日本に、殺されるのを覚悟で人権や社会正義のために戦える日本人がどれだけいるのかって気もしますね。
もっとも、だからといって中国の何もかもが素晴らしいって浅薄なことを言ってるわけじゃないですよ(わかるでしょうけど)。問題点は死ぬほどあるし、だからこそ何回にもわけて延々書いてるわけだし。ただ、それらの現象や欠点を列挙して「だから中国人は○○なのだ」的なことを言っていても仕方ないし、それこそ浅薄だと思うのですね。大事なことは、これらの欠点がどういう理由、どういう構造によって発生し、そしてその実相はどんな程度であるかということを見極めることでしょう。
さて、最後にC歴史的・地政学的な国際関係というポイントが残りましたが、これは国際関係上の諸問題として次回に述べます。