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今週の1枚(08.10.13)






ベトナム戦争の泥沼

     最初にベトナムの歴史をおさらいします。ベトナムはフランスの植民地ですが、これは1858年にナポレオン3世が宣教師保護の名目でベトナムに軍隊を派遣したのがはじまりです。1858年というと日本でいえば明治維新の10年前、幕末の井伊直弼大老が安政の大獄をはじめて吉田松陰を捕縛した頃です。この頃はベトナムではなく、コーチシナ(南部)、安南国(中部)とか呼んでたらしいのですが、フランス軍は徐々に支配をひろげ、カンボジアも傘下におさめ、1884年の清仏戦争で中国からトンキン地方の支配権を奪い取り、ベトナム+カンボジアエリアをインドシナ連邦として成立させます。以後、1940年の日本軍による進駐まで100年足らずの間、ベトナムはフランスが仕切ります。

     ところで、西洋人がベトナム社会にいたのはそれよりも200年以上前に遡ります。宣教師達です。そりゃそうですよね。日本のようなド田舎にもザビエルやルイス・フロイスが行ってるんだから、距離的に近いベトナムに行ってないわけがないです。有名な人はアレクサンドル・ドゥ・ロードというイエズス会の宣教師で、1619年にベトナムに赴任します。1600年に関ヶ原の戦いが起きてますから、江戸時代がはじまってすぐの頃です。彼が有名になったのは、ベトナム語をラテン語で表記する方法を発明したからです。クオック・グーと呼ばれる表記法は、アルファベットの上や横にちょこっとシルシがついています。これが今日のベトナム語の表記法になっています。ベトナムは、アジア諸国なのにアルファベット系の表記法を持つ珍しい国で、なんでそうなってるのかかねてから不思議でしたが、そういうわけだったのですね。

     じゃあ、それ以前はどうなっていたかというと、漢字表記です。歴史的に北ベトナムは中国の一部のようなもので、その昔「越」という国がありました。高校の漢文や世界史の授業で越王勾践と呉王夫差の戦乱物語をやりましたよね。今でも日本語で「臥薪嘗胆」や「呉越同舟」という四字熟語で残っているアレです。中国南部は総じて「越」と呼ばれていたようですが(百越)、越人というのはベトナム民族の中核であるキン族を指しているとも言われます。「越」という表現は、なにやら「峠を越えた向こう」みたいな「遠方の地」というニュアンスがありますが、そういう意味で使われていたのでしょうか。日本の北陸方面も「越の国」ですよね。越前福井・越中富山・越後新潟。たしかに京からみたら峠の越えた向こうでしょう(そんなこと言い出したら日本全国そうだけど)。

     ベトナムは中国の南の方にある越の国ということで「越南」と呼ばれます。今でもベトナムの漢字表記は「越南」と書きますよね。で、英語では”Viet Nam”ですが、これは日本人の苦手な"V"発音(下唇を噛むやつね)が入るので、日本語で「ベトナム」といってもなかなか通じないこともあります。V音ではなく唇を噛まないB音で始めてしまから、英語ネイティブは「え?え?」と戸惑ったりするみたいです。「東京」が「農協」「公共」に聞こえているようなものなのでしょう。だから、ミスリードを招く"V "をすっ飛ばして、漢字風に「えつなん」と言った方が通じる場合もあります。「っえっなむ」って感じ。でも本当は「なむ」がポイント。英語のくだけた口語表現ではベトナムのことを略して"Nam"といいますから。秋葉原をアキバというようなものです。



     余談はさておき、フランスが仕切っていたベトナムを含むインドシナですが、第二次世界大戦の頃になると宗主国のフランスがナチスドイツに占領され、ナチスのいいなりのヴィシー政権が成立します。一方、日本は南方資源を求めるために中国から南下するわけですが、三国同盟でナチスとは友達ですので、インドシナにも抵抗なく進軍できちゃいます。1940年の仏印進駐。これでフランスのインドシナ支配は一旦途切れ、日本軍は傀儡政権とはいえ、ベトナム、カンボジア、ラオスに地元政権を発足させます。第二次大戦終結によって日本軍が消滅したあと、フランスは旧植民地の復活を試みますが、民族独立に燃える地元民衆はこれに反発します。まあ、当然ですよね。独立運動の英雄であるホー・チ・ミンは、大戦中に中国に亡命するなど苦労を重ねながら、ついに終戦間際にハノイを占拠し、ベトナム民主共和国を宣言しますが、この新生ベトナムとフランス軍との戦いを第一次インドシナ戦争と呼びます。1946年から54年まで結構長い間ドンパチやってます。

     第一次インドシナ戦争は、発端は植民地支配VS民族独立だったのですが、東西冷戦初期においては朝鮮戦争にように北に共産国(ソ連、中国)がつき、南に英仏米がつくという代理戦争の様相を呈します。1954年のティエンビエンフーの戦いにボロ負けしたフランスは、和平交渉を行い、北緯17度線で北ベトナムとフランスの傀儡国家である南ベトナムとを分けて停戦します。その後ほどなくして、フランスもアルジェリアやらアフリカ諸国など、昔の植民地政策のツケ払いに追われるようになり、ベトナムにかまってる余裕がなくなりました。東西冷戦初期でソ連には一歩も引きたくないアメリカが、フランスの後を継いで、南ベトナムを仕切るようになります。



     さて、アメリカを始め西側の支援ではじまった南ベトナムですが、選んだリーダーが悪かった。北ベトナムは、ホーチミンという筋金入りの優秀なリーダーがいたので、民族主義的共産主義のもと経済復興が進んでいたのですが、南ベトナムのゴ・ディエン・ジエム大統領は、独裁政治をするわ、腐敗するわで、国内の不満が高まっていきました。1960年には、ジエム腐敗・親米政権を倒すための組織=南ベトナム解放民族戦線、いわゆるベトコンが発足し、北ベトナムの支援を受けつつ、反政府運動を激しく展開するようになります。そんなさなかにジエム大統領はクーデータによって暗殺されてしまいます(1963年11月)。またクーデータ政権が国内をまとめたかというとこれが全然ダメで、以後2年弱の間に十数回に及ぶクーデータ、10回近い内閣交代がおきます。

     フランスの後釜に座って、南ベトナム支援を始めたのはアイゼンハワー米大統領ですが、新たに大統領になったケネディは、「ほんとにこれでいいの?」と思って特別委員会を開き、副大統領のジョンソンを現地に派遣します。このジョンソンがお調子者というか、腐敗独裁のジエムを「東洋のチャーチルだ」と持ち上げて全面支援すべしという報告書をまとめます。「そうか」と思ったケネディは、アメリカの軍事顧問団を大幅に増強します。これが1960年の段階。しかし、1963年9月になってくると、ケネディも「やっぱ、ダメじゃん」という気になったのか、「サイゴン政府は民衆から遊離している、民衆が戦わねば意味がない」と演説し、10月31日には数ヶ月以内にアメリカ軍事顧問団の段階的引き揚げをやると発表します。ケネディが暗殺されたのはその3週間後である11月22日です。

     ケネディ暗殺によってアメリカは撤退する機会を失い、ずるずると泥沼に入り込んでいきます。なんか、軍部に引っ張られてドツボにはまるというのは、満州事変以降の日本みたいですね。どの国でも似たようなことは起きるわけですね。そういえば、ベトナム戦争突入の前年である1964年8月2日にトンキン湾事件というのが起きています。停泊中のアメリカ駆逐艦が北ヴェトナム魚雷艇の攻撃を受けたとして、アメリカ空軍が報復のために北ヴェトナムを攻撃しています。しかし、これは本格介入の口実が欲しい軍部が行った自作自演の狂言であり、そのことは1971年のNYタイムズの記者が暴露しています。日本の柳条湖事件や張作霖爆破事件のように、軍部というのはすぐにバレる稚拙な事件をでっち上げるようです。

     しかし手口は稚拙でも、実際のシナリオは開戦に向かっていってしまうのも日中戦争と同じで、トンキン湾事件を受けてアメリカ議会は本格介入を決議し、ケネディの後を継いだ副大統領のジョンソンは、1965年2月には北ベトナムの爆撃(北爆)を開始し、アメリカ軍全面介入=ベトナム戦争を始めてしまいます。こうなるとソ連も黙ってはおらず、北ベトナム軍やベトコンに対して軍事支援をします。アメリカは、近隣の西側諸国であるオーストラリア、ニュージーランド、韓国、フィリピン、タイに軍事行動を求めます。日本の自衛隊は、平和憲法と60年安保で岸内閣がぶっ潰れるという日本人の戦争アレルギーのせいで派兵をしないで済んでいますが、国内の米軍基地を提供したり、戦費を払わされたりはしています。北ベトナム側にも、ソ連のみならず、中国や東欧諸国が援助に入ります。段々大事になっていきます。



     激しい南北の爆撃合戦が行われ、さらにジョンソンは65年3月マリーン(海兵隊)を上陸させます。トム・クルーズ主演の「7月4日に生まれて」のマリーンですね。7月には陸軍まで派遣し、その年の暮れには18万人以上の大軍をベトナムに送ります。戦線は山中のゲリラ戦になり、険しい山間部にヘリコプターで兵を送り込み、村やジャングルにいる敵兵を捜し出して攻撃するという地味な作業が繰り返されます。しかし、そのような現場では誰が兵士やゲリラ軍で、誰が一般民間人なのかイチイチ確認するのが面倒になってきて、大雑把な無差別攻撃や、村民への暴行が増えます。これは中国大陸に飲み込まれた日本軍と似てます。誰が敵だか分らず面像臭いから皆殺しにして、戦後に激しく糾弾されるという。また、北ベトナムの支援ルートを潰すために、隣国のカンボジアやラオスまで攻撃したので、両国の共産党政権まで敵に廻します。

     かくして、アメリカ軍は、最大で50万人以上の兵力を派遣し、ご自慢のハイテク兵器を駆使し、B52戦略爆撃機による空爆を10万回以上という途方もない回数を行い、ジャングルで村人を虐殺し、後にBC兵器や環境破壊と後ろ指さされまくる枯葉剤の散布という、核兵器以外のありとあらゆる軍事行動をします。しかし、戦線は一向にはかばかしい展開を見せません。まさに泥沼。ベトナム戦争において主立った戦闘は、旧正月に北側が一斉に攻勢をかけたテト攻勢、ベトコンによる南ベトナムでの市民虐殺のフエ事件、アメリカ軍による村民虐殺のソンミ虐殺事件などがあります。



     ベトナム戦争は南北軍ともジャーナリストの取材を自由を認めたので、リアルタイムに豊富な情報が世界中に配信されています。戦場での悲惨な映像を目の当たりにするにつれ、当事国アメリカ国内を含む世界中で反戦運動が湧き上がります。折りしもアメリカでは黒人の差別撤廃を求める公民権運動が盛んになっていたところ、反戦運動とジョイントし、大きなうねりになります。大学自治を求める学生運動など、アメリカの既存の秩序や文化に対するカウンターカルチャーが形成され、いわゆるヒッピームーブメントが起きます。膨大な戦費と人的損害を出しても一向に好転しない戦況に加え、大義名分においても正当性が薄く、且つ個々の戦術に対する強い批判(村民虐殺や枯葉剤など)によって、国内の反戦活動は高まり、67年にはニューヨークやワシントンで巨大な反戦集会が催されます。反戦メッセージを発信するカリスマであるジョン・レノンがFBIに目をつけられ、アメリカ退去命令を食らうのもこの頃です(裁判の結果、ジョンは勝訴)。

     ベトナム戦争の泥沼化で苦境に立たされたジョンソン大統領の支持率は最低になり、1968年3月には北爆の部分停止を発表するとともに次期大統領選出馬をあきらめます。しかし、アメリカ全土が反戦一色になっていたわけではなく根強い保守勢力も存在しており、公民権運動の旗手であるキング牧師の暗殺(68年4月)、さらにケネディの弟のロバートケネディ大統領候補も暗殺されます(6月)。これらの事件によりアメリカ国内の運動はエスカレートし、ついに10月、ジョンソン大統領は北爆の全面停止を発表、パリ和平会議に本格的に臨みます。

     新たに就任したニクソン大統領は、翌1969年6月にアメリカ軍のベトナムからの段階的撤兵を発表します。9月のホーチミン大統領の死亡、カンボジアやラオスへの戦線拡大(70年)、72年4月での限定的な北爆再開など紆余曲折は経ますが、ついに73年1月にベトナム和平協定が結ばれ、アメリカ軍は撤退します。反戦ムーブメントはニクソンの段階的撤兵発表の後、徐々に沈静化します。なんといっても発表の翌月である69年7月にアポロ11号で人類が月面に降り立ったことで、人々の関心はベトナムから宇宙に移ったことが大きいですが、同時に反戦活動の質が劣化して単なるサブカルになっていったこと、徴兵猶予を受ける裕福な大学生やインテリ層に対する白人保守層の反発なども要因としては挙げられるようです。

     アメリカが撤退したらベトナム戦争が終ったかのようですが、その後も南北ベトナムで戦争は続き、アメリカの支援を失った南ベトナムは北の侵攻を受け、75年にサイゴン市(現在のホーチミン市)が陥落し、インドシナ戦争から数えて30年にも及ぶ戦乱は終結します。76年には統一総選挙が行われ、ベトナム社会主義共和国として統一されます。

     ベトナム戦争でアメリカが得たものは殆どないでしょう。まあ、南ベトナムの共産主義化を10年遅らせたという東西冷戦ゲームにおける得点ポイントは確かにあります。この10年で、共産陣営の二大勢力であるソ連と中国が仲間割れをし、ニクソン訪中による国交正常化など東西構造は大きく変わっていってます。その意味でまんざら無駄ではなかったにせよ、失ったものが大きい。54万人の軍隊と途方もない費用を注ぎ込んで、5万の戦死者と15万人の負傷者を生み、生還した兵士においても社会復帰が困難になる人も多かったそうです。儲かったのはロッキードやグラマン、ボーイング、ダグラス社など軍需関連企業でしょう。この企業名に見覚えがあると思ったら、田中角栄のロッキード事件の関連企業ですね。全日空の機種選定にまつわる国際的な受託収賄事件は、ニクソンが就任してベトナム撤兵が始まった頃の起きてます(発覚し大騒ぎになったのは76年だけど)。



     しかしアメリカが失ったものはお金や人的損害だけではなく、自信やプライドというもっと根深いものです。時代の趨勢もあったとはいえ、アメリカの戦争は常に正義であるという神話が崩壊し、既成秩序や文化も崩壊とまではいかないまでも大きな打撃を受けます。73年には徴兵制も廃止されますし(ていうか、73年まであったというのが逆に新鮮な驚きですが)、アメリカ国内での犯罪、麻薬、教育、貧困、、というあらゆる「内部疾患」のようなものが増えてきます。

     ベトナム戦争はそれほどアメリカ現代史において大きな存在だったと思いますし、後々まで後遺症を残したという意味では日本の太平洋戦争の比ではないかもしれません。日本の戦争は、規模も被害も桁違いに悲惨ですが、あそこまで徹底的に負け、あそこまで徹底的に破壊されれば却ってサバサバしますし、心機一転リセットをかけられるし、現に日本はそうしています。しかし、一回ゲームオーバーになってゼロリセットをしているわけではないアメリカは、リウマチに苦しむ老人のようにジグジグ痛みが続きます。それを反映するかのようにベトナム戦争を描いた映画と、第二次大戦を描いた映画とは質が明らかに違いますよね。第二次大戦は、ナチスドイツという誰もが頷くわかりやすい悪役があったから戦争それ自体に対する内省的な懐疑は少ない。「大脱走」みたいにカラッとしてます。しかし、ベトナム戦争を描いたものには、どこかしら沈痛な苦味があります。「地獄の黙示録」なんか暗鬱だし、「フルメタルジャケット」「プラトゥーン」もある種救いがないです。「ランボー」なんかアクション映画のようだけど、1は帰還兵の居場所の無さが切ないし、地味な名作「ジェイコブズ・ラダー」なんかもベトナム戦争の後遺症がひとつのモチーフになってます。




カンボジアのクメール・ルージュ
     カンボジアは、社会主義国としてシアヌークが仕切っていたのですが、1970年にシアヌークの外遊中に、アメリカの支援を受けたロン・ノルがクーデタを起こして、カンボジアを乗っ取ってしまいます。アメリカは、ホーチミンルートの遮断作戦の一環としてカンボジアに侵攻、ロンノル政権を支援します。実質的にアメリカの傀儡政権のようなロン・ノルはベトナム戦争支援のために、カンボジア在住のベトナム人を激しく弾圧し、また自国カンボジア領内のアメリカ軍の空爆を許容します。このために多くのカンボジア農民が犠牲になり、国内難民が発生します。カンボジア国内でのロン・ノルの人気は落ちる一方です。どうもこの時期のアメリカの傀儡政権の作り方はヘタクソで、タマ選び(リーダー)が悪い。南ベトナムだって独裁腐敗のジエムなんか選ぶから反政府運動が盛んになりベトコンが生じたのだし、カンボジアのロンノルも同様。それにあそこまで大規模なカンボジア空爆なんかやって、カンボジア国民を敵に廻すから、結果的に手塩に掛けたロンノル政権がコケてしまうことになってます。

     留守中に国を乗っ取られたシアヌークは民族戦線を結成し、ロンノル政権と内戦状態になります。このとき反政府(というか旧政府)の中心になったのが悪名高いクメール・ルージュです。ポル・ポトに率いられたカンボジア共産党勢力ですが、これが各地で攻勢に出て、74年に首都プノンペン攻撃、75年にはロン・ノル政権を倒して新政権を樹立します。76年に国名を民主カンボジアと改称し、シアヌークが元首として返り咲きますが、ほどなくポル・ポトと対立して辞任。以後、ポル・ポトの一党独裁による急激な社会主義化を進めます。

     「急激な社会主義化」といえばバリバリ改革を進めているようなポジティブなイメージがありますが、まあ本人たちはそのつもりだったのかもしれないけど、ポル・ポトが「東洋のヒトラー」と呼ばれていることから分かるように、客観的には大虐殺です。農家の9人兄弟の8番目に生まれたポル・ポトは、奨学金でパリに留学している優秀なインテリですが、留学中に共産党に入党、帰国後政治活動を始めます。理想に燃える青年ポル・ポトが、どこでどうなってしまったのかは分かりませんが、理想家肌ゆえの硬直性でしょうか、原始共産制を目指した徹底的な政策を断行します。都市住人を強制的に農村に移動させ、農業に従事させますが、弱者に対する配慮は一切なく、路上でひとりで出産する妊婦や、反抗するものを家に縛り付けて餓死させたりしています。通貨を廃止し、音楽や楽しみの類は一切禁止、私財は没収、仏教も破壊されます。共産党員以外は常に反革命分子として監視され、純然たる農民以外は生存を認めず、特に知識人層は問答無用で殺されています。メガネをかけているというだけで反革命的だとして処刑されたりもします。ポルポトが実権を握っている間(わずか4−5年のことではあるが)に殺された国民の数は300万とか170万とか諸説ありますが、おおむね100万人以上は固いところでしょう。人口800万人の国にこの犠牲者数は凄まじい。ちなみに、日本人駐在員の子供二名がこのカンボジアの地獄の収容所から奇跡の脱走をして帰国し、平和ボケしたバブル期の日本を変えるために暴力団の総長と総理大臣になっていくという漫画「サンクチュアリ」は、15年以上前の作品ですが今読んでも面白いですよ。

     78年、ベトナム軍の侵攻を受けて、ポル・ポト派は敗走、ベトナムの支援を受けた元クメールルージュのサムリン政権が成立します。タイ国境に逃げ込んだポルポト派は抗戦を続けます。ポルポトを支援した中国は、懲罰としてベトナムに侵攻し、中越戦争が起きます。89年ベトナム軍撤退、国連監視のもと民主化再生が行われますが、ポルポトはこれへの参加も拒否、抗戦を続け、98年にジャングルの中で心臓発作で死去したとされています。




     
     なお、アメリカ軍がベトナム戦争時にちょっかいを出して、かえって薮蛇になっているのはラオスも同様です。
     ラオスでは、左派のパテト・ラオという勢力が北ベトナムや中国の援助を受けて優勢になったので、アメリカはホーチミンルートの遮断という、いつもの大義名分でラオスに侵攻(71年)、しかしパテト・ラオの勢力は逆に強まり、ラオスを仕切るようになります。






「プラハの春」とソ連の軍事侵攻

     前回フルシチョフが解任されるまでを書きましたが、後継者になったのはブレジネフ書記長とコスイギン首相です。が、この18年にも及ぶ長いブレジネフ政権は、ソ連「沈滞の時期」とも言われ、ソ連の政治と経済は徐々に停滞し、いよいよニッチもサッチもいかなくなったところでゴルバチョフが出てきてぶっ壊すという流れになります。

     ブレジネフの何が悪かったのかというと、まあ、政治家として凡庸だったということもあるのでしょうが、時代の流れもあるのでしょう。ブレジネフも、経済の発展を意図して利潤方式を導入したり、スターリン憲法を修正したり、あとで述べるデタント(緊張緩和、米ソ軍縮の動き)にもそれなりに対応しているのですけど、それほど画期的なものでもなく、どうしても旧体制の重い腰が残ります。例えば、デタントをやってるそばから、これも後述するアフガン侵攻なんてやらかしてモスクワオリンピックのボイコットを招いたり、ロスオリンピックをボイコットしたりという子供じみた応酬をしたり、言論統制や官僚支配を批判した知識人であるソルジェニツィン(ノーベル文学賞)を国外追放にし、同じくノーベル平和賞を受賞したサハロフ(ソ連原水爆の父)を軟禁したりしています。



       フルチショフの「雪どけ」の時期に民主化を目指したハンガリー動乱がソ連軍によって徹底的に弾圧されたことは前回書きました。同じような動きが、他の東欧諸国におき、これが有名なチョコスロバキアのプラハの春といわれる一連の出来事です。

     1968年1月、チェコスロヴァキアでは、ノヴォトニーからドプチェクにリーダーの地位が移ります。親ソべったりだったノヴォトニー政権に比べ、ドプチェクは社会主義という大枠の体制は守りつつも、市民的自由を認め、市場経済を部分的に導入するなど、「人間の顔をした社会主義」というスローガンで自由化改革を進めようとします。この自由化を「プラハ(チェコスロバキアの首都)の春」と呼びます。

     ドプチェク政権の自由化政策に呼応して、国内では、チェコの文学者が民主化のための戦いや、ソ連の干渉を非難する「2000語宣言」というものを発表し、多くの国民がこれに署名します。このムーブメントには、国内の英雄であったオリンピックのメダリストなども参加します。

     ところがこのようなチェコスロバキアの動きを快く思わないソ連は、1968年8月に、ワルシャワ条約機構軍を動かし、ソ連をはじめ東独、ポーランド、ハンガリー、ブルガリアの混成軍がチェコスロバキアの領内に侵攻します。そしてドプチェクなど政権主要メンバーを逮捕して強引にモスクワに連行していってしまいます。市民の抵抗も武力鎮圧され、自由化の動きは挫折させられます。翌年ドプチェクは解任され、再び親ソ的なフサークが政権を取ります。

     当然のことながらこのソ連の乱暴なやり口は国際世論の非難を浴びます。
     ここまで一国の主権を侵害していいのか?という批判に対し、ブレジネフは、共産主義を守るという大きな目的のためには他国の主権侵害も許される場合もあるという、(特に今更目新しいわけでもないけど)ブレジネフ・ドクトリンを発表します。



     以上がプラハの春のおおまかな経緯ですが、細かく見ていくと、ソ連もそれほど乱暴に一気にドドドと侵攻したわけではないです。ドプチェク就任からソ連軍事介入までの8ヶ月間、チェコが一丸となって民主化に燃え、それをソ連が問答無用に圧殺したというものでもない。チェコ側においても自由化に関する温度差はあります。微調整から過激派までいるし、民主化よりも連邦制が先だという人もいます。一枚岩ではない。また、ソ連サイドとしても出来れば穏便に済ませたいということで、しつこいくらいに会談や交渉を繰り返します。むしろ強硬だったのはポーランドや東独などの周辺東欧諸国で、同じような民主化要求が本国内で起きたら自分が面倒だから(実際起きているが)、そういうゴタゴタの芽は早めに摘み取りたいという意向が強かったといいます。また、ワルシャワ条約機構に基づく多国籍軍の侵攻も、もともと共同軍事演習が予定されていたので、各軍が集結すること自体は異常なことでもなかったです。

     結局、構造はちょっと前のポーランドやハンガリー動乱と同じで、過激な自由化を求める民衆と、あまりにソ連を刺激するとぶっ潰されて元も子もなくなるので双方のバランスを取らねばならない政府が板ばさみ状態です。ドプチェクも大変だったと思いますねー。自由化を進めたいのは民衆と同じだけど、友邦国の懸念も分かるし、ソ連の立場もわかる。かといって何でもかんでも言いなりだったら意味がないし。苦しい中、チェコとソ連は折衝を続けました。7月14日のワルシャワ会談、7月20日の シェレスト・ビリャーク極秘会談、7月29日のチェルナ会談、8月3日のプラティスラヴィア会談、、などギリギリまで話し合いをやってるわけで、その上での8月20日軍事侵攻になります。その軍事侵攻にしても、直前のチェコスロバキアの幹部会で親ソ派が多数を握り、ドプチェクを更迭、ソ連に軍事介入を依頼するというシナリオが出来ていたのですが、幹部会で多数を握るという目論見が挫折しちゃったから、結局チェコ政府の意向を無視して軍事侵攻という、ソ連としては一番避けたい悪役的状況になってしまったらしいです。

     ドプチェクさんがやろうとしていた自由化は、一言でいって時期尚早。1989年の東西冷戦終結後であれば、どの東欧諸国も普通にやっていた普通の政策だったのですが、それを1968年にやろうとしたところに無理があったのでしょう。20年早かった。ソ連の圧力で失脚させられ、秘密警察の監視付で営林署勤務にさせられていたドプチェクは、20年後の1989年のビロード革命において、民衆の大歓声を浴びて復権します。





東西冷戦というゲームの実質的な終焉