?c?C?[?g

今週の1枚(09.07.27)





ESSAY 421 : 世界史から現代社会へ(79) 中国(5)  チャイナ・リスク(2)〜派生問題・”規模の政治”と伝統カルチャー 




 写真は、つい数日前に撮影したRozelle。ロゼルは地味なサバーブなのですが、自由が丘みたいな雰囲気のお洒落な街です。Paddington, GlebeやNewtown系。シティに通うならPyrmontあたりよりもRozelleの方がオススメですね。ピアモントって地図上では近いけど、結局歩くしかないから意外とアクセス悪いし、石切場を造成して新興マンション群にしたエリアで、綺麗なんだけどTasteless。東京の晴海埠頭あたりの感じ。面白い店も少ない。そこへいくとロゼルは、Anzac Bridgeを渡ってすぐだから、タウンホールからバスに乗っても、実は信号が2−3個しかなく、10分くらいで着いちゃうから便利。しかも街は面白いし、落ち着いているし、背後にBalmainというもっと面白いエリアを控えているし。でもなんとなく地味だから物件も安いという。


 現代中国シリーズ、既に5回目を数えます。
 前回は現代中国の問題点=チャイナリスクのうち、根本的な政治システムの部分について言及しました。根本に問題があれば、それが周辺や枝葉に波及し、様々な形で問題を広げていくのは理の当然です。しかし、一方、毒入りギョーザのような問題は、政治体制が非民主的であるかどうかとはあまり関係ありません。また役所の腐敗や贈収賄慣行も微妙にレベルの違う問題だったりします。さらに一人っ子政策の弊害なども、政治体制云々とはアングルを異にしています。こういった諸問題のバラエティの豊かさを見ていくと、一元的な原因によるものではなく、いろいろなファクターが組み合わさっているように思われます。

 要因と考えられるものをランダムに列挙してみると、@とにかく国土が巨大で、国民の数がべらぼうに多いことに起因する問題、A漢民族の伝統的な文化傾向、B高度経済成長下にある発展途上国の問題、C歴史的・地政学的な国際関係、、などが挙げられるでしょう。


国家体制の根本システムから派生する問題


 前回やったように、中国の国家システムには根本的な問題=共産党一党独裁の非民主的な政治構造=があります。権力の発生や変動過程が不透明であるために予測がつきにくく、また脱線したときの復元力が危惧されます。現政権があまりにも国民の意向に反したことをやった場合、普通の民主国家では支持率が低下し、次の選挙で政権交代やら政局の変動があります。これが期待される復元力ですが、こういった透明で合理的なメカニズムが保障されていないと、天安門事件のように、戦車がゴゴゴと出動して国民のデモ集会を蹴散らしてしまうかもしれない。どうしてもファシズムや軍事国家としてのダークな側面がでてきてしまい、法治主義が重視されず、検閲や宗教への干渉など人権に対する配慮が乏しくなります。

 ところで、独裁体制であるからといって、必ずしも論理必然的に軍国的になったり、人権侵害が起こるとは限りません。例えば、その昔の名君と呼ばれた王様の時代は、人々は比較的平和で豊かな生活をしていたとされます。日本の江戸時代だって、体制そのものは戦時中の軍国主義以上に強烈な独裁体制だったのですが、戦時中のような息苦しさは感じませんしね。しかし王様が常に名君であるという保障はなく、また名君が常に優秀な政治をするとは限りません。8代将軍吉宗は人格的には立派な名君とされていますが、経済的には元禄バブルを崩壊させた第一級の戦犯であり、また生類憐れみの令など悪法を押しつけ、柳沢吉保などの不透明な側用人政治(一種の官僚国家)をはびこらせ、吉良の職場いじめ&不公正な裁決と行政不服審査制度の不備などによって、赤穂浪士の討ち入りという国内テロを招いていたりします。

 もう一つ。独裁体制は、「独裁体制をキープしなければならない」という至上命題があるがゆえに、常に国民からの批判や反対勢力を封じ込めねばというオブセッション(強迫観念)にかられる傾向があります。これは人間の心理としてどうしてもそうなる。独裁体制であればあるほど、一旦コケたら革命のような大変動が起きてしまうわけで、そうなれば権力者は一転してギロチン台に送られたりするわけです。言わば命がけですから権力者も必死で体制防衛するでしょう。だから政府批判や、批判の根源になるような”危険思想”をつみ取るために検閲もするし、表現の自由も抑圧する。体制を乱しうるくらいの規模の人間集団があったらこれを敵視する。法輪功にせよ、チベットにせよ、もう恐怖にかられいぇモグラ叩きのように叩きまくる。

 しかし、こういうメカニズムというのは、ビジネスの現場においては堪らんですよ。せっかく精密な法制度やシステムが完備しようとも、それ以上の価値=現政権の維持という至上命題が出てきたら、容易にひっくり返されるわけですからね。西欧的な民主体制に慣れた僕ら日本人や西欧人は、議論→合意→ルールという民主的なルールで物事を進めようとします。ビジネスについても、お互いケンケンガクガクの議論はするし、奥義を尽くして駆け引きもしますが、一旦合意したらそれがルールになり、以後そのルールによって物事が進められると思います。中国でビジネス展開をするにあたり、政府からやら関税やら、やれ労働条件やら、あれこれ注文をつけられますが、それで合意し、認可が下りたら、あとは基本的にそのまま進むもの、ルール変更があるなら事前にその旨の協議と合意があるもの、と思いますよね。当たり前ですよね。しかし、中国ではそうならない。事情が変わって中国政府のメンツという、至上命題がかかってくると、あっさりひっくり返されたりする。いったい何のための法であり、合意なのかという。

ケーススタディ/Rio Tinto 事件

 一例を挙げます。最近オーストラリアで物議を醸しているのが、Rio Tinto(リオ・ティント)という鉱山会社です。オーストラリアは鉱物資源が豊富なので、BHPとRio Tintoはオーストラリアの中でもマンモス級に巨大な企業です。ところが先日、リオの中国現地支社の経営陣が中国政府に逮捕されてしまい、未だに身柄を拘留されています。なんでそうなったのか、長い話を簡単に端折ると、もともとオーストラリアの産出する鉄鋼石を成長著しい中国が輸入するという関係でありました。中国パワーに引きずられてオーストラリアも景気が良かったわけですね。しかし今回の世界不況で中国側もリオ社も経営が厳しくなりました。もっと安く買えないかということで、中国のアルミメーカー(チャイナルコ)が巨額の出資をして、同じく資金難に苦しむリオ社に資金援助をして大株主になろうと話が進んでいました。話が大きすぎるのでこの件はオーストラリア政府の許認可事項になっていたのですが、ここでもし中国企業がオーストラリア有数の資源会社の経営に口を出せるようになれば、その影響力を利用して価格決定権は中国に握られてしまいかねないという危惧がありました。国内で議論が紛糾するままチャイナルコからの出資受け入れという形で話が進んでいたのですが、結局リオはこの話をドタキャンしてしまいます。リオ社の資金不足は、同じく国内王手のBHPとのジョイントベンチャー立ち上げと資金受け入れと、その他増資などによって解消しようとしたわけです。

 その後、リオ社の中国支社長Stern Hu氏ほか計4名は、中国政府によって逮捕されてしまいました。時系列の流れでいうと、リオ社がチャイナルコの出資受け入れを発表したのが2009年2月段階、ドタキャンになったのが6月5日、そしてHu氏らが逮捕されたのが7月5日であり、まだ拘留が続いています。Hu氏は北京大学を卒業したバリバリのエリートですが、94年にオーストラリアに来てオーストラリア国籍を取得しています。後の三人は現地の中国人スタッフです。逮捕容疑は産業スパイ。熾烈な鉄鉱石価格交渉を有利に展開するため、現地の中国鉄鋼メーカーの企業秘密や政府情報をワイロなど不正な手段で入手したというものです。Hu氏ら逮捕のニュースは、即日豪中両国の一面トップーニュースになっています。中国側は胡錦涛主席みずから逮捕&調査の正当性を述べ、オーストラリアはラッド政府が動いていますが、今時点では露骨な政治干渉は避けています。

 さて、時の流れでいえば、この逮捕は出資案件のドタキャンに対する中国政府の意趣返しのように見受けられます。チャイナルコの出資話は、単に一企業レベルの問題ではなく、その巨額さとあいまって中国政府の意向が働いていており、頓挫することによって政府の面目は丸つぶれになったといわれています。また、ご存知のように中国は世界各地の資源争奪戦に血眼になっていること、同じ中国といっても中央と地方、各業界によって利権が入り乱れておりこれらに対して中央政府は再び強力なコントロール下に置こうとしていたことなどなど背景事情は錯綜しており、さまざまな憶測が飛び交っています。が、大事なのは、結局どうして逮捕騒ぎになったのか誰も分らない、ということです。もの凄い怨念による復讐なのかもしれないし、単なる偶然かもしれない。政府発表を聞いていても、通り一遍のことしかいわないので全然腑に落ちない。そして周囲が納得できてなくても政府は全然気にしないという。

 ここでの問題点は、一体どういう政治力学でそういうことになるのか分らず、また政府のアカウンタビリティ(説明責任)も殆どないという実情です。この事件についてオーストラリアは比較的クールに構えていますが、これって話を日本に置き換えてみたらスゴイことですよ。資金難に陥ったトヨタを中国企業が買収しようとするとか、トヨタの中国支社長らがスパイ容疑で逮捕されちゃったと考えてみたらいいです。しかもこれだけの事が起きていながら、どうしてそうなったのかがよく分らないし、合理的に解決されるという保障もない。こういった、”次に何が飛び出すか分らない”という予測不能ぶりは恐怖です。憶測を逞しくすれば、中国国内の中央・地方・業界というバトルロイヤル的な権力争いの帰趨でメンツを失墜された中央政府が、権力維持の為に強硬手段に出たのかもしれません(捜査・逮捕されているのは地元の中国企業も同じ)。こういう非民主的で、不透明な政治力がビジネス話の中に突如登場するあたりが問題なのですね。普通ビジネス話だったら、事前に合意し、事態が変わっても契約書どおりの違約金その他の処理をすれば足りるし、仮にそこで揉めても裁判沙汰になるくらいです。いきなり逮捕というのは反則です。でも、そんな反則があっさり起きてしまうのは、権力の生成・行使・抑制のプロセスがブラックボックスになってる独裁政権ならではだと思います。

 こういった政府の対応に煮え湯を飲まされているの外国企業は多いし、中国に進出した日本企業も大なり小なり似たような苦労しています。中国に大工場建設を企図した王子製紙のケースが日本では有名ですが、なんだかんだ規制が変わり、話が変わり、すぐにも建築操業だった筈が、最終的に許可がおりるまで延びに延びて4年もかかっています。学研が作った地球儀が、台湾の表記をめぐってトラブルになって結局販売停止に追い込まれたり、パナソニックが中国工場の人員削減をしようとしたら政府に止められたり類例に事欠きません。

 許認可権の濫用に翻弄されるケースだけではなく、経営内容や雇用についてもあれこれクチバシを入れられ、ぼけっとしてると企業秘密やノウハウを盗まれ、インサイダー情報を盗まれ、会社そのものを乗っ取られかねない。なんせ相手は”ルール変更権”というもの凄い武器を持ってますからねー。油断も隙もあったものではない。そしてその理不尽を主張して戦おうにも、透明で公正なルールやシステムそのものが機能していないから結局泣き寝入りという。このあたりが中国ビジネスの難しさであり、チャイナリスクの最右翼を占めています。

 かといって中国人や中国政府が蛇蝎の巣窟というわけでもなくく、彼らの立場からしたら、ある意味ではもっともというか、普遍的な事情もあります。まず経済活性化を求めて外国企業を受け入れますよね。外資導入、村おこしの原理と同じです。しかし、外資が入ってくるのはいいけど、ゆくゆくは自分達もその産業を興したいと考えています。だから外資企業の上陸・活動を認めるけど、そのやり方は”勉強”したい。一方、外資があまりにも成功しすぎて中国市場で荒稼ぎをしてられたら面白くはないです。自国民を安い労働力でコキ使い、自国民に高い値段で売りつけてボロ儲けされたら、そりゃあ誰だって腹も立つでしょう。下っぱの仕事ばっかりさせて、”勉強”する機会を全然与えなかったら文句の一つもいいたくなるでしょう。

これは別に中国に限ったことではなく、かつての日本だって同じようなものです。いっときムキになって日本バッシングをしていたアメリカも、「日本はズルい!」とキレていたわけですからね。「非関税障壁」という妙なフレーズも、法律上形式上は公正なようでいて、実際の現場では何だかんだとイヤがらせをされ、仲間はずれ(談合とか)にされて市場参入できないアメリカの「反則じゃあ!」という苛立ちを示しているものです。一応ルールは決まっていながらも、実際にはそのとおり動いていないのは、いかにも日本社会らしいダブルスタンダード(本音と建て前)です。官公庁に睨まれたらあれこれイヤがらせをされる現実。官僚の作文、官僚的答弁、法律・条例・政令・省令・訓令・照会回答というあらゆる規制レベルを縦横に駆使した魔法のような骨抜きと横車、それに業界のボスやら政治家がつるんだ腐った利権構造、そして狐と狸の化かし合い、、、日本だって人のことは言えません。

 ただ、中国の場合、若くてエネルギッシュだからやりかたがイチイチ露骨なんですよね。やりたくなる気持ちは分るけど、そこまでするか?という。さらに、国家体制そのものが、図体がでかく濃度はかなり薄まってるけど基本的には北朝鮮みたいな部分があるから、いよいよとなったらまたぞろ戦車がゴゴゴという無茶苦茶な話になりかねないという恐怖がある。将棋に負けそうになって、「待った」をするとか、持ち駒を誤魔化すくらいだったら想定内だけど、いきなり機関銃をぶっぱなすような事までは想定外です。でもあり得るというこの恐さ。ここがリスクの最たるものでしょう。日本もたいがいヒドイけど、そこまではせんよね。闇から闇へ暗殺というのはあるかもしれないし、実際あります。フィクションの話ではなく、例えば因果を含められた関係者の自殺とかありがちでしょ?有名どころでも、スキャンダルになると中心人物が何故か殺されてしまうという。豊田商事の永野会長は衆人環視のなかで惨殺されちゃったし、オウム真理教の村井”科学技術庁長官”(だっけ)もマスコミの目の前で殺されたし、ホリエモン事件でも幹部が沖縄のホテルで殺され、結局どれもこれも背景事情は今もって闇の中でしょ?日本だってかなり恐い国ですよ。でも、いくらなんでも戦車は出てこないよ。それが出てきかねないところが中国の何でもアリ的ワンダーランド的恐ろしさです。


領土&人口の巨大さから派生する問題


 この問題は非常にシンプルです。規模がデカいからどうしても大がかりな政策になり、必然的に荒っぽくなるということです。糊でハサミでチマチマ作業しているのではなく、いきなりブルドーザーが出てくる、ブルドーザーだからきめ細かな作業が出来ずに荒っぽくなってしまうという。

 いわゆる一人っ子政策などはこの典型だと思います。急増する人口を抑制するために子供は一人しか産んじゃダメという、もの凄い分かりやすいというか、荒っぽい政策です。荒っぽいだけにそのリアクションや弊害、副作用もものすごい。農家では労働力になる男子を求めるから男子人口が増え男女比率が不均等になるとか、出生しても届けを出さない黒孩子(ヘイハイズ)が数千万人単位で 存在するとか、小皇帝と呼ばれるワガママな一人っ子が増えたとか、人工的に急激な少子化をしたので世代間の人口バランスが悪く急激に高齢化社会になる、、などです。

 黒孩子だけを取り上げても、戸籍に登録されていない国民が数千万人もいるというのは日本では考えられないことです。都市農村格差問題のところでも書きましたが、都市と農村とで戸籍が違い、一種の差別的な扱いは戸籍を基準にするところ、そもそもその戸籍がなければ人生の展望も乏しくなってしまうでしょう。そういう人々が数千万人もいるということは、大きな社会不安要因にもなるでしょう。

 ということで深刻な弊害が指摘される一人っ子政策ですし、それを声高に語る人も多いのですが、でもね、じゃあどうすれば良かったの?というとこれといった対案もないんですよね。強引なまでの産児制限をしなかったら、つまり一人産むところを3人も4人も産んでいたらどうなったか、です。大体発展途上社会はどこでも子だくさんです。日本でも、僕の母親が9人兄妹だったように、出生率8とか9はザラでした。仮に一人産むところを3人産んでいたら中国の人口は今頃30億人を越えているでしょう。こんなの統治するのは無理ですし、そもそも食わせることすら出来ない。社会が破綻したらどうなるかというと、大量に餓死者が生まれるとか、三国志さながらの壮大な内戦が始まって大量戦死と虐殺が起きたかもしれない。まあ30億とか内戦というのは極端ですが、今の人口でさえ富が行き渡らず深刻な格差問題が出てきていることから考えると、かなり大変なことになっていたでしょう。実際、餓死者数千万の毛沢東の大躍進の大失敗そして文化大革命の狂気など、「かなり大変なこと」は直近過去にいくらでも実例があるのですから、夢物語ではないのだ。そんな生きるか死ぬかレベルでの政策立案なのだから、産児制限をせず、自由に産ませて、あとで餓死させるくらいだったら、最初から産ませない方がいい、、、とまあ、誰が考えてもそうなるでしょう。

 これが人口数千万程度の普通の国だったらまだしもやりようがあります。生産性を急ピッチで上昇させるとか、海外移民を奨励するとか。しかし、数億人単位の変動になると、よっぽどドラスティックなことをやらないと対処できないでしょう。なんせ仮に1億程度の増減だとしても優に日本一個分の人口です。日本一個分が”誤差の範囲”になっちゃうところが凄まじいところで、経済にも「規模の経済」があるように、政治にも「規模の政治」というものがあるのだと思います。

 もっとも荒っぽいといっても、二人以上産んだら即処刑とか、二人目は問答無用で射殺とかそんな話ではないです。産児制限する前に、晩婚の奨励、出産間隔をあけるとか、少数民族は適用外にするとか、都市部は厳格だけど農村部はゆるやかにするとかそれなりの配慮はしています。また超過出産は罰金その他の行政処分だから罰金を払っても産む人もいますし、黒孩子問題も地方担当官僚の成績のために敢えて戸籍登録をしないままにするという書類上の処理だけで、普通に農村で暮す分にはあんまり支障がなかったりとか、そこはそれ、現実の局面ではいろいろあるわけです。だから「荒っぽい」という語感だけで過激な連想をしないように。あくまで、他の先進国の諸政策に比べれば、かなり思い切った大胆な処方をしたという程度です。

 ところで、規模が大きくなるにつれマネジメントもドラスティックにやらねばならないのは別に中国に限った話ではなく、僕らの日常生活においてもあります。「じっくり皆で話し合って」と言いますが、2〜3人だったらそれも可能でしょうが、数十人規模になると全員と話し合ってることなんか事実上不可能ですもんね。数人で旅行するなら話し合えるけど、80人の社員旅行の幹事、数百人の修学旅行の責任者になると、数百人に「どこ行きたい?」と聞いて廻るのは難しいし、聞いたところで希望百出で到底まとまらないでしょう。だから強力なリーダーシップが求められるわけですが、リーダーシップというと聞こえは良いけど、要は”荒っぽく”やるということです。何か一つの方針を決める以上、必ず誰かの希望は叶えられなくなるわけで、そこに悲劇は起こるだろうし、人情に反する冷酷なこともしなければならないでしょう。極端な場合は、構成員の誰かを見殺しにしなければならないこともある。

 リーダーシップなりマネジメントというのはそーゆーことです。誰だってピッチャーで4番を打ちたいけど全員ピッチャーをやらせるわけにもいかない。あんなに必死に努力している○○君でも、実力不足ならレギュラーに出来ない。そこを下手に人情を出してしまったら、もう全体がガタガタになる。捨て犬を拾ってきて飼おうとしても、生活全般をマネジメントしているお母さん的立場からは「ダメです、捨ててらっしゃい」と言わねばならない場合もある。会社自体が倒産の危機に瀕しているときは、泣く泣く従業員を切らねばならないでしょう。そういったマネジメントを十数億人規模でやるわけですから、そりゃあ荒っぽくならないわけがない。天安門事件で軍隊を繰り出して数百人の同胞を殺しているとして全世界から非難を浴びた中国政府ですけど、断行した首脳部は、数百・数千万人単位の餓死や虐殺時代をリアルに体験しているのであり、数百人程度のことは屁でもないでしょうし、そのような意味の発言もしています。もう感覚や現実のレベルが違う。必要があれば何百人でもためらわずに殺せるという冷酷な迫力があるからこそ、全体として統制がきくという現実もあるのだと思います。

 このようにマクロ的には正しくても、ミクロ的には冷血で鬼畜に写ったりするもんです。物事というのはミクロとマクロ両方から見るべきで、そのバランスや兼ね合いが難しいのですね。日本でももうすぐ総選挙らしいですが、各党のマニフェストでも耳障りの良いことばかりが並べられているでしょう。およそ選挙民にわかりやすい、ミクロ的なことが挙げられるでしょう。でも、「減税をして福祉を厚くする」ということが原理的に絶対無理である以上、何かを変える以上どっかに必ずしわ寄せはくるわけで、そのしわ寄せ部分まで苦渋の選択をしているかどうか、正直に踏み込んで言ってるかどうかが評価のしどころだと思います。今の日本は年収の十数倍の借金があり、個人でいえばとっくに自己破産している金欠状態にあり、マジにこれを直視すれば大幅増税と弱者切り捨てをやるしかない。しかしそれは出来ないし、やったところで国民は滅んで国家が残るという本末転倒な事態になるので、そこをどうするかですよね。だから行政の無駄を改める行政改革がいつも唱えられているわけですが、問題は何をどう改革するかです。どこをぶっ潰してどこを残すか、それでいったい幾ら浮いて、その余ったお金を何に使うかです。そこまで言ってくれると選びようもあるわけだし、そこまで言わせるのが国民(とマスコミ)の腕の見せどころなのでしょう。ここがボケだと結局のところ「この程度の国民にこの程度の政府」になってしまうという。

 ちなみに生まれてこの方、学級委員長も、班長も、部活のキャプテンも、旅行や宴会の幹事も何もやったことがない、およそ”長”がつく仕事をしたことがないという人は、どうしてもミクロ的なものの見方に偏りがちで、マクロの仕事は益々出来なくなる。経験不足ですから。要するにマネージャーやリーダーには不向きな人材ということであり、一生ぺーぺーということです。いざとなれば切り捨てられ要員。起業は自分が社長になるわけですから尚さら無理。僕もパッとしないガキだったのですが、くじ引きで強引に文化祭のクラス単位の責任者にさせられてしまったのが良い経験にはなりました。「みんなの意見なんか聞いてられるか」というのが骨身に染みて分ったし、その後の良い肥料になりました。やってるときは地獄だったけど。逆に、大財閥の御曹司と生まれたりすると、子供の頃からマクロ的教育を受けます。いわゆる帝王学ってやつです。これはこれで余りにもミクロが分らなくなりすぎてどっかで大コケしたりする。だから難しく、だから面白いんですけど。


中国の伝統文化に派生する問題


 中国の庶民は強いです。したたかです。中国4000年の歴史といっても、およそ国家や政府が国民のために何かイイコトしたようなケースは少ないです。いつも収奪され、いつも戦場に駆り出されて虫けらのように殺されるという。これは中国に限らず、日本も含めてアジア諸国の共通の傾向ですが、自分の国の政府を信じてない、アテにしてない。あなたは日本国政府を信じて、アテにしていますか?なぜか信じないかといえば、信じられるような実態がなかったからです。三国志や戦国時代のように権力や国家というのは、喧嘩の強い奴が暴力で奪い取るものであり、勝った人間が好き放題にやるものだからです。喧嘩の番長政治であり、暴力団抗争と似たり寄ったり。法律やシステムは強者が勝手に作って勝手に押しつけるルールに過ぎない。西欧のように近代啓蒙思想が出て、市民革命が起こり、その後もウィーン体制下で絶対王政との間で長い期間つばぜり合いを続け、一歩づつ民主主義を勝ち取ってきた西欧人と異なり、アジア人は民主主義を心の底では信じてないし、法律を守ろうという遵法意識にも欠ける。

 しかし、同じアジアでも日本と中国は違い、中国の方が大陸で地続きであるせいか、よりグローバルな感覚に近い。中国は西欧の古い都市と同じく城塞都市です。マンガ(映画)の「墨攻」で描かれているように、都市の周囲を高い塀で囲い、外敵が入って来れないようにする。敵に蹂躙されたら単にそこの領主や殿様が殺されるだけではなく、市民全員皆殺しか奴隷にさせられるという苛烈な環境にあります。また中国は地続きの大陸ですから異民族が絶えず行き交い、チンギス・ハンのモンゴル帝国を始め、北方民族が攻め入って王朝を建てるケースが多い(遼、元、清)。また年がら年中内戦があって、映画「レッドクリフ」の三国志が有名ですが、その前にも春秋戦国時代(孔子の時代ね)があるし、三国志のあとは五胡十六国、南北朝、五大十国時代があります。ワイルドなのね。日本の場合は、戦国時代といえども田園風景にポツンとお城があるだけで城壁はなし。史上最も苛烈な武将と言われた織田信長でさえ、占領地の市民まで皆殺しにしたのは叡山焼き討ちと伊勢長島くらいでしょう。あとは領主が降伏して切腹したら終わり。百姓領民は、ちょうど今で言えば新知事を迎える程度の変動でしかない。平和なもんです。だから領主や殿様も、西欧や中国に比べると比較的穏健で、領民を地獄に叩き落としたりはあんまりしない。ロシアの農奴なんか悲惨なものだし、チンギスハンに至ったら征服以前に皆殺し、犬猫の首まで切ったと言われる徹底ぶりです。

 口の中の唾がシュンと乾くような過酷な環境で4000年も暮せば、それは甘さが抜けるでしょうよ。それは中国人が変わってるというよりも、世界的にみればむしろ日本人が珍しいくらい穏やかな歴史を持ち、ほんわかメルヘン民族になってるということでもあるのでしょう。でもって、それは恥とすべきではなく、むしろ誇りとすべきなのですが。

 サバイバル生存競争の厳しい中国では、そこでしぶとく生き残り、淘汰されてきた庶民もまた強い。政府や権力者には従うけど、面従腹背というか、土下座しながらペロリと舌を出しているようなしたたかさがあるといいます。商売でもふっかけ、値切り倒しという駆け引きがあり、文句があったら臆面もなく堂々と自己主張するという意味では西欧人に近い。つまり個人主義的な部分がある。言語も日本語のSOV構文ではなく(動詞が最後に来る)、西欧言語のSVO系だし、意外と西欧人の方に中国ファンがいたりしますよね。「日本人は分らんけど、中国人は分かる」という。ちなみに現代のオーストラリア人は、僕の見た感じでは中国人と日本人の間くらいで、日本人ほど引っ込み思案ではなく言うべき時は言うけど、中国人ほどズケズケとは言わず、なあなあを好むように思われます。このあたり、面白いんですけど。

 庶民のサバイバル技術としては、これは読んだ話ですけど、ワイロ文化です。中国では(というか東南アジアもそうらしいが)、政府がいくら規制しても賄賂文化が後を絶ちませんが、これは人道的に劣化しているというよりも一種のカルチャーみたいなものらしいです。つまり「皆で幸福に」という夢物語が通用しにくい生存競争が苛烈な環境では、まずは自分の利益を守る。そして家族や仲間を守るというグルーピング思想が出てきます。一族の中で賢そうな奴がいたら皆で学費を負担し出世させる、科挙にでも合格したらスゴイけどあまりにも難しいので現実味がないが、まあそこそこの地方役人くらいにはなれるだろう。そして見事役人になったら、安い給料だったらダメだからせっせと賄賂を受け取り蓄財に励み、一族の皆様にご恩返しをするという。実際、中国系オーストラリア人と結婚した日本人女性から聞いたのですが、旦那さんはかなりエリートで高収入なのですが、砂糖に群がるアリのごとく遠い親族がやってきくる。その度に資金援助したり、なにくれとなく面倒を見る。日本人の感覚では「どうしてそこまで?」というくらい遠縁の親族の面倒を見るそうです。そうしなければならない。

 つまり、こういった一連のシステムが、彼らにとっては一族親族の共存のための保険システムであり、したがって賄賂を貰うことも当然であり(払うのも当然)、むしろ親孝行と同列な美談ですらあるという。”腐敗”だとは思わないのね。とんでもない連中だって気もしますが、生き残るためのしたたかな庶民文化だと思えば「なるほどね」とは思います。日本は世界でも珍しいくらいに賄賂文化が少ない国ですが(オーストラリアもそう)、そうであっても盆暮れのご贈答はもうカルチャーになってるから、「あれは別格」でしょ。私立学校の裏口入学はおよそ止むことがないし、交通違反のもみ消し、税務署調査の手心、手術前に執刀医にいくばくかを包む、教授先生と個人的に知り合いだから順番飛ばして手術して貰う、、、、、ね?細かなところでは幾らでも残ってますよ。外人からみたらモロにワイロ社会でしょう。これが庶民文化でしょ。

 同時にグルーピングによる共同防衛思想が強いから、同郷意識も強く、閥も多い。とにかく人口の海のような中国社会はタテヨコいういろな人脈があり、グループがあり、その仲間に入れて貰えれば保護されて心強いけど、仲間外だったら冷や飯を食わされる。あそこはそーゆールールであり、そーゆーゲームです。日本だって明治維新の藩閥から、現在に至るまで大企業や官公庁では厳然として学閥が残ってるでしょう。40面下げたいいオヤジが、「キミ、出身大学は?」とか聞くでしょう。この種の同質的仲間意識は、いわば人類の本能だけど、中国の場合はカルチャーを越えてシステムにまでなっているということでしょう。

 中国では、「上に政策あれば、下に対策あり」というらしいのですが、いかにもという気がします。日本で、中国というかアジア文化に一番近いのは大阪だという気がしますね。値段を聞くのも、「これ、なんぼにしてくれる?」といきなり交渉だし、「これ、なんぼで買うたと思う?」とパッチもん大好きだし、ゼニカネテーマが”はしたない”ことではなく大好きだし、良くも悪くも個人主義だし、目立ってなんぼだし、およそ日本人じゃないですよね。一番笑ったのが、ずっと昔にシートベルト着用が義務化され、罰金点数が導入されたときに、大阪のあるショップで”シートベルトTシャツ”が売り出されたそうな。身体の前面に斜めに黒い線がプリントされていて、ぱっと見にはシートベルトをしているように見えるという。これを着てればシートベルトしてなくてもバレまへんで、ネズミ取りで写真撮られてもわからしまへん、ええやろ?という。よくそんなこと思いつくよな、そしてよく実際に作っちゃうよな&売るよな〜。まさに「上に政策あれば、下に対策あり」ですわ。日本で中国人パワーに勝てるのは大阪人であり、実際、オーストラリアも含め海外在住者の関西人比率は高いようです。鍛えられているから、対応しやすいんでしょうね。


 ということで、こういう一筋縄ではいかない連中を相手にビジネスをしようという日本を含めた外資系企業にとっては、ビジネス展開において悪夢のような出来事が続出するわけですね。あそこはそーゆーゲームなんだから、まず郷に入れば郷に従えで、人脈を造り、コネをつくり、グループの一員として認めて貰うようにする。そして正面から見たら複雑怪奇な曲線をもつルールも、角度を変えたら直線に見えたりもするのでしょう。

 長くなったので、以下続きます。




過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ
ESSAY 407/世界史から現代社会へ(その70) 現代ロシア(2)  発展の2000年代とプーチン大統領
ESSAY 408/世界史から現代社会へ(その71) 現代ロシア(3)  チェチェン紛争の迷宮
ESSAY 410/世界史から現代社会へ(その72) 現代ロシア(4)  チェチェン紛争の迷宮(2)
ESSAY 411/世界史から現代社会へ(その73) 現代ロシア(5) 王道のロシア文学
ESSAY 412/世界史から現代社会へ(その74)  現代ロシア(6) 北方領土
ESSAY 413/世界史から現代社会へ(その75)  中国(1)  ケ小平と改革開放経済
ESSAY 415/世界史から現代社会へ(その76)  中国(2) 誰が一番エライの?〜中国の権力メカニズム
ESSAY 417/世界史から現代社会へ(その77)  中国(3) 中国における都市と農村の地域格差
ESSAY 419/世界史から現代社会へ(その78)  中国(4) チャイナリスク(1) 政治システム上の問題点


文責:田村




★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ