今週の1枚(07.10.08)
ESSAY 331 : キリスト教について(その5) 〜東西教会の亀裂
写真は、Durlinghurst。
5回目を迎えるキリスト教シリーズですが、前回は西ローマ帝国が滅びる背景になったゲルマン民族大移動をやりました。なんか世界史の通信教育みたいだけど。
えー、何を長々と歴史の勉強をしているかといえば、原点はシンプルで、今現在の世の中の仕組みを知りたいからです。「なんで今こうなってるの?」という。それを知るには過去の流れを見ていかないとよく分からない。人類史というのは超超超巨大な大河物語みたいなもので、山ほど出てくる登場人物がバトルロイヤルをやってるわけですが、なんでそこで争うの?というと「過去の因縁」があるからですね。これが分からないと何でモメているのかわからない。何の予備知識もなく「北斗の拳」の18巻などをいきなり読むと、知らない人と知らない人が「うお〜!」と戦ってるわけで、「誰、この人?」「キミタチ何やってんの?」てなもんでしょう。過去の因縁が分からないと、なんで中東でいつもモメているのか分からないし、キリスト教がどうして今あるような形に展開されているかも分からない。なんで日本にミッション系の大学等があるのかも分からない。
最初は、キリスト教を色々な角度からスポットライトを当てて考えてみるつもりだったのですが、それをやろうにも骨格となる歴史的展開というのが分からないと上手くいかないというが段々分かってきました。例えばカトリックとプロテスタントはどう違うの?という視点からやっていくと、従来のカトリックへの批判としてプロテスタントが出てきたわけで、じゃあ「従来のカトリック」というのはどうだったのかが必要になり、なんでそうなっていたのかというのも必要になり、、、、ということで、結局全部最初っから追っかけていった方が一番早いわって気がしてきたわけです。
それに西洋史や中東史というのは、「いつかは一回本腰を入れてやらなアカンな」と思ってたところです。あまりにも知らなさすぎ。「だって世界史とってなかったもん」なんて冗談みたいな言い訳がいつまでも通用するわけがないです。
ところで、高校の時分、世界史を勉強させられたときは何が何だかよく 分からなかったですけど、今だったら結構「ふんふん、なるほど」って分かるのですね。「何でこんな簡単なことが昔は分からんかったのかな」と不思議なくらい。なんでなんかな?と思うと、一つには人間年取ってくると、人間関係のパターンをある程度経験済みになってくるからでしょうね。大体、人間と人間とが握手したり争ったりする原理パターンというのはそんなに多くない。似たり寄ったりのパターンを繰り返しているわけですし、自分のその中の関係者として経験済だったりもするわけです。だから歴史の流れとか読んでても、「はいはい、大将が馬鹿だとしっかり者のナンバーツーが実権を奪ったりするんだよね」とか、「それに反発するグループがまたいたりなんかして」とか、ある程度アタリがついてくるのですね。それに出会ってきた人間のバラエティも増えてますから、「ああ、そういう人っているよね」と、歴史の登場人物の行動や性格が理解しやすくなるのでしょう。今にして思うと、社会科って人生経験の乏しいガキンチョがやっても難しいだろうなって思います。逆に言えば、社会に出てある程度揉まれてから、もっかい歴史でも地理でも政経でもやってみると、意外に簡単に理解できたりすると思いますよ。
このエッセイでは、出来るだけそういうクロスリファレンスというか、「このパターンはよくある」という部分があれば、他の局面の歴史や現在の企業社会、日常生活に置き直して当てはめてみようと思ってます。
さて、本題です。
これまで何度も言ってますが、最初の300年迫害されていたキリスト教がローマ帝国に認められ、唯一の国教の地位にまで登り詰めたのも束の間、ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国はゲルマン系諸民族に蹂躙されて無くなってしまいました。ということは、@ローマを中心とした西ヨーロッパのおいては帝国という権力的後ろ盾を失った、Aまだまだ健在である東ローマ帝国がキリスト教世界においても主役になる、ということを意味します。
注意すべきは、西ローマ帝国の後ろ盾が無くなったからといって、西欧のキリスト教が衰弱・消滅してしまったわけではないことです。もともとキリスト教は300年かけて草の根的に民衆の間に広まり、浸透していったわけですから、上の方の権力構造が変っても、草の根的な民衆への広がりキープされていたのでしょう。だからこそ、落ち目の西ローマ帝国は、民衆の支持を得るためにキリスト教を優遇しようとしたわけですもんね。
でも、権力闘争とか国家の興亡を離れて、この時代のイタリアなどにいた普通の庶民がどのように生活をして、どのようにキリスト教が彼らの日常生活に浸透していったのかは、かなり調べてみたんだけどよく分かりませんでした。そこが一番知りたいんだけど、こういう地味な歴史の基礎構造部分というのは意外とよく分からない。
余談になりますが、歴史というのは往々にして政治史、権力史であり、美術などの文化史だったりしますが、「庶民史」みたいなものは記録に残りにくいので伝わりにくいんですよね。当時の人々は、何時くらいに起きて、起きたら顔を洗っていたのか、その水はどうやって汲んできたのか、水道はあったのか、浄水設備はどうなっていたのか、仕事というのはどういう仕組で何をやっていたのか、トイレはどうなっていたのか、何を生き甲斐に暮していたのか、などなどです。詳しく調べたら分かるのだろうけど、歴史の年表に出てくるような大事件ではないだけに、結構謎のままだったりします。キリスト教も、ローマ帝国に迫害されました、一転して国教になりましたって部分はよく記録されているのだけど、その当時の普通の庶民がなんでキリスト教を信じるようになったのか、キリスト教を信じると毎日の生活が具体的にどう変るのかというキモの部分がよく分からないんです。これはもう自分宛の宿題にします。
ともあれよくは分からないまでも、民衆レベルではキリスト教は浸透していたようですし、西ローマ帝国がなくなりました、ゲルマン人がやってきましたというだけでキリスト教が根こそぎ消滅したってわけではなさそうです。
東西教会の亀裂
この時代、キリスト教関係においては3つのベクトルが考えられると思います。
@東ローマ帝国とキリスト教団内部における東と西の力関係
A西ヨーロッパにおけるローマ教会の政治的遊泳(西ローマ帝国に代わる権力背景の構築)
B草の根活動の発展としての修道院活動の創設・発展
です。
@とAは微妙に関係します。
創業当時からキリスト教団は多国籍企業だったわけですが、中核となる本部は、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアの5つがあり、それぞれに総大司教座が置かれた「五本山」です。この中で特にライバル関係にあるのがローマ(西ローマ帝国)とコンスタンティノープル(東ローマ帝国)でした。要するに東京本社と大阪本社で本社が二つあるようなものですね。
ところで、教祖イエスの活動地域はもともとイスラエルであり、聖地エルサレムとか言ってるくせに、遠く離れたイタリアのローマがなんでそんなデカい顔をするのか?という疑問があります。それは、古代ローマ帝国全盛期の首都であること、またキリストの一番弟子であるペテロが殉教したのもローマであり、ローマ教皇は初代ペテロを継ぐ者とされていたからです。とはいえ大旦那の西ローマ帝国がコケてしまい、ゲルマン民族に囲まれているローマとしては、東ローマ帝国の保護が必要になります。だから、どうしても東有利になり、ローマ教皇の地位に就くには東ローマ皇帝(=コンスタンティノープル大司教)の承認が必要になっておりました。やがて7世紀に入るとイスラム教帝国が勃興し、アンティオキア・エルサレム・アレクサンドリアの他の3教会が失われると、名実ともにローマ教会VSコンスタンティノープル教会のライバル関係が明確化していきます。
東ローマ帝国もローマ奪回を目指して、国力が強大になったユスティニアヌス帝の頃に、イタリアを支配する東ゴート王国を滅ぼします(555)。一応宗家としてやることはやってるわけです。でも「おお、やったぜ!」と思ったらこれもヌカ喜びで、またすぐ南下してきたロンバルド族によって追い払われてしまいます。このロンバルト族がまたゲルマンで一番野蛮といわれ、ローマ教会は圧迫を受けることになります。当時のローマ教皇はグレゴリウス1世というエラい人だったのですが、「こら、あかんわ」「ダメじゃん、東」と東ローマに頼る従来の方針を改め、ゲルマン国家と上手くやっていくような方向性を考えるようになります。
一方、東ローマ帝国自身も西のことなんか構ってられる余裕がなくなります。前述のように7世紀前半にイスラム教帝国は怒濤のいきおいで領土を広げ、東ローマ帝国からシリアやエジプトを奪い、さらに北アフリカからイベリア半島を征服しちゃいます。中東から北アフリカ、スペインまでイスラム圏内に入ってしまうわけです。地中海は「イスラムの池」と化します。首都コンスタンティノープルまでイスラム教軍に包囲されていたわけですが(717〜718)、さすがにこれは辛くも撃退します。
しかし、撃退はしたもののイスラムの影響はキッチリ受けます。東ローマは皇帝レオン3世は「聖像禁止令」というのを発布します(726年)。イスラム教は偶像(聖像)崇拝を一切認めない宗教です。というか、もともとユダヤ教〜キリスト教〜イスラム教という砂漠の姉妹宗教は偶像崇拝を嫌います。ところが当時のキリスト教徒の間ではイエスやマリア、殉教者の聖像や聖遺物を崇拝する風潮が広がっていたわけで、イスラム教徒から「お前ら、ダメじゃん」と激しい非難を受けたレオン三世は「そういえばキリスト教だって偶像崇拝は禁止だったよな」と、いっさいの聖像の制作・所持・礼拝を禁止し、破壊を命じます。
ところが、ゲルマン諸勢力への和合、布教に腐心しているローマ教会としてはこの聖像禁止令に強烈に反発します。ローマにはローマのお家の事情があったからです。なぜかは知らないけどゲルマン民族はビジュアル的に分かりやすい聖像が好きだったのですね。これはまあゲルマンが好きというよりも、布教しようとする場合、抽象的な言葉だけではなく分かりやすくも厳(おごそ)かで美しいビュジュアルはいい説得材料になります。新商品の売り出しと広告戦略と同じです。だからせっせと感動的な聖像などを示してゲルマン民族に布教をしていたローマとしては、「聖像禁止」なんて古いタテマエを押しつけてくる東ローマに反発します。「現場の営業を知らない本社の勝手な指示」みたいなもんですね。当時のローマの現場関係者達の不満の声を現代風にすると、「冗談じゃないッスよ、本社は何考えてるんですか!」「こっちが馬鹿なゲルマン連中相手に苦労してるってのに、現場のことなんか全然わかろうとしないんだから」「ゲルマンの奴ら頭悪いからわかりやすいビジュアルが必要なんですよ、聖像禁止されたらどーしよーもないですよ」「東の連中何か勘違いしてるんじゃないっすか、もともと本家はこっちでしょうが」「支社長、あいつらに一発ガツンと言ってやって下さいよ!」、、てなもんだったと思われます。
とかなんとか一悶着あって、東西教会の仲がこれでまた一段冷え込みます。
巨大企業があって、それが東西で対立して仲が険悪になって最終的に分裂するというパターンはどこも似たり寄ったりなんだなあってことです。そして、そうなるにはそうなるだけの環境というか背景があります。東ローマは東ローマの事情があります。なんせイスラム教が起こってガンガン領土を削られているわけですから、これへの対応が火急の課題になります。それに、イスラムの聖像崇拝批判を受けて国論が二分している状況をいかにまとめ上げるかという政治課題もあるわけです。西の方は、ゲルマン民族に囲まれて四面楚歌状態であり、しかも東ローマもアテにならないという状況で、いかに活路を求めるか、いかにゲルマン民族とうまくやっていくかという問題があるわけです。イスラムが聖像禁止だから東も聖像禁止になびき、ゲルマンが聖像好きだから西は聖像死守に走るという。このような営業上の必要性があり、同時に心情的には昔ながらのライバル意識、老舗・正統意識があるから、上部構造も下部構造も対立していくという。
ローマ教会の奮闘
さて、東ローマに愛想づかしをしたローマ教会の奮闘が始まります。ゲルマン民族に囲まれているこの環境で生き残るためには、ゲルマン民族と上手くやっていかないとならない。そしてゲルマン民族と一口にいっても、その部族は無数にある。どこと手を組むべきか?
当時のゲルマン社会の赤丸注目株はフランク族でした。フランク族はライン川の周辺にいた部族ですが、フランク族の中のサリ族の小王国のクローヴィスというおっさん(465〜511、位481〜511)が無茶苦茶強く、フランク族を強引にまとめ上げたかと思うと、ライン川を越え、アラマン族・ブルグンド族・西ゴート族を撃破、大王国を建設しました。まずこの創業者のクローヴィスが、奥さんがカトリックだったという縁がありカトリックに改宗します(496年、異端のアリウス派から正統のアタナシウス派へ)。クローヴィスの改宗により、西ローマ帝国の残党貴族連中とも仲が良くなります(そういう政治的思惑もあったのかもしれません)。
この一代創業者クローヴィス以後、ゴタゴタはありつつも王権は身内に相続されていきますが、この血筋は残忍と好色の血統と言われているようで、贅沢三昧に溺れるようになります。そうなると、「しっかり者の番頭」が会社の実権を握っていくのは今も昔も変りません。ここでは番頭と呼ばず「宮宰」と呼ばれているようですが、その宮宰になったのが大ピピンです。ピピンには大中小があり、祖父大ピピン、父中ピピン、孫小ピピンであり、なんでピピン1世、2世と呼ばず、大中小と呼ぶのかは知りません。また中と小の間に一代すっ飛ばしてます(カール・マルテル)。
フランク王国は最初はクローヴィスの血統であるメロビング家が仕切りますが、やがて番頭であるピピンのカロリング家が仕切るようになります。このパターンはおなじみですよね。日本史にも良く出てきます。最初は天皇家が仕切っていたのにいつの間にか藤原氏の天下になったり、鎌倉幕府を作ったのは源氏(頼朝)だったのにあっという間に執権(これも番頭ですな)の北条氏が仕切るようになるという。
中ピピンの子(小ピピンの親)がカール・マルテルという人で、彼は732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム教徒を撃退したことで知られています。当時のイスラムは破竹の勢いで、地中海を制覇しイベリア半島(スペイン)まで支配していました。さらに西ヨーロッパ方面に攻め上がってくるのを、カール君が撃破したわけです。これって結構大事なことで、もしここで負けてたらヨーロッパは現在のような形になってなかったかもしれません。イスラム+中東文化に染まりまくっていたとは思えないけど、少なくとも西欧社会+キリスト教というセットパターンは変容されていたでしょう。その意味で、イスラム世界VS西欧キリスト世界の最初の戦いであり、現在のイラク問題やテロ問題に続く因縁の始まりでもあります。
このカール・マルテルは、現在のフランスあたりも征服し、版図を広げます。ここまで功績をあげてエラくなってしまうと、もはや「番頭」じゃないですよね。事実上の国王になり、カロリング王朝への道を開きます。
一方、東と険悪の仲になり、ゲルマン民族の中で保護者を求めていたローマ教会は、「カールマルテルのフランク軍ってのは強いそうじゃないか」と目を付け、手を組みませんかと打診します。が、あっさりカール君はこれを断ります(739)。しかし、後をついだ小ピピン君は親父と違って話が分かります。彼は、751年にクーデーターを起こして主筋のメロヴィング朝ヒルデリ三世を廃し、自分が王位に就くわけですが、単にクーデーターを起こすだけだったらイマイチ格好が付かないので、もう一押し大義名分が欲しかったのでしょう。ローマ教皇に「名前だけの者と、実権を持つ者とどっちが王であるべきか」と問い、「それは後者でしょう」という回答を得ます。ローマ教皇から「お墨付き」を貰うわけですね。これで、フランク族諸侯の支持も得て小ピピンは晴れてフランク国王になります。カロリング王朝の始まりです。
このパターン=「実力と権威(正統性)の関係」は、様々な歴史のなかに登場します。圧倒的に強くなければ天下統一は出来ないけど、単に強いだけだったら民衆の支持がイマイチ足りない。強いだけではなく、「正しい(正統)」というなんらかの権威付けが欲しいわけです。覇道と王道の違いとでもいうか。この発想は現代政治や憲法学にも受け継がれ、政治学をやった人なら政治権力の「正統性の契機」と「権力性の契機」という言葉を聞いたことがあると思います。
要するに「強さと正しさ」という二つの要素が必須のなのだということですが、これはありとあらゆる人間関係で登場してくると思いますから覚えておかれると良いと思います。職場であろうが、サークルであろうが、忘年会の幹事であろうが、皆を自分の指示に従わせようと思ったら、「強さ」「正しさ」の二つが必要。「強さ」というのは、例えばあいつが一番上手だからキャプテンやるのも当然だとか、一番仕事が出来るからという実質面です。でもそれだけでは足りない。ちゃんと適式な手続で任命されているからとか、皆でアミダで決めたからとか、なんでもいいんですけど、その人間に権力があることが「正しい」んだと思ってもらわないと人はなかなか言うことをきかない。血で血を洗うような極道社会においてすら、いや極端な実力社会であるからこそ、「先代組長の遺言」「姐さんの意向」などの「正統性」が厳しく問われますし、それらの正統性を示す”杯事(さかずきごと)”は滑稽なまでに厳粛な儀式としてしめやかに行われます。つまり「勝手に名乗っていても誰もついていかない」わけですし、強ければいいってもんじゃないんですよね。僕も若い頃は、およそ儀式くらい下らないものはないと思ってたのですが、今にして思うと、あの無駄臭い儀式というのは、集団心理学的に結構意味があるのですね。
日本史においても、平安時代以降、天皇家は武力ではなく「権威」だけの存在になり、日本の政権の争いは「天皇争奪戦」になります。織田信長が最後の足利将軍を追うときも、将軍よりも権威のある天皇を担いできますし、幕末も尊皇攘夷で天皇家を担いだ薩長が幕府を倒して明治政府を作った。そもそも日本の成り立ちにおいて、出雲の国の神様(オオクニヌシノミコト)から譲ってもらったという「国譲りの神話」があります。あんなの実際には暴力的に侵略したんでしょうけど、「力づくで奪いました」では盗賊みたいで皆が納得しないから、「譲ってもらった」ことにして、大和朝廷支配の正統性を言ったのでしょう。このように、天下取ったあとで皆さん苦労してるわけですね。そりゃあジンギスカンや秦の始皇帝みたいに圧倒的に強かったら「正統性の言い訳」やサポート資料としての第三者の権威なんか要らないでしょうけど、力だけでやってると力が衰えたら即消滅するから持続性に欠けるのですね。
話は戻って、かくしてローマ教会は西ヨーロッパにおいて、日本史における天皇家のような存在になり、「権威(正統性)」を売り、「保護」を貰うというバーター関係になります。王位を承認してもらった小ピピンは、ローマ教会に領土を寄進します(ピピン寄進、774年)。これによりローマ教会は教皇領という自前の領土&統治システムを持つことができるようになります。さらに800年、教皇レオ3世は、小ピピンの跡を継いだカール大帝に対しローマ帝国を復興せよと「ローマ皇帝」の帝冠を与えます(カールの戴冠)。
ちなみに、このあたりの名前関係がややこしいんですよね。カールマルテル→小ピピン→カール大帝になります。このカール大帝の「カール」というの名前も言語によって呼び方が違います。ラテン語的には「カルロス・マグーヌス」というらしいのですが、ドイツ語風になると「カール」になり、フランス語では「シャルルマーニュ」になり、英語では「チャールズ」になり、イタリア語では「カルロ」になるという。
それはともかく、ピピンの寄進とカール戴冠というエポックメイキングな出来事によって、ローマ教会としては物質的経営的に大きな飛躍を迎えるわけですが、同時にそれまでの精神的な存在だったのが、世俗的で生々しい存在になる第一歩でもあります。
修道院制度
ここで一気に目を転じて修道院というシステムを見ます。
この修道制度は、遡ればどこまでも遡ることができるようで、洞窟や砂漠で1人修行していた教徒たちがいたらしいです。聖アントニウスがその始祖であるといいます。とはいっても完全に一人でやっていくのは無理が多く、修道士たちが集団で暮らすというシステムが自然に出来ていたようです。これが修道制度の原点なのでしょう。
ここもちょっと興味深い点です。キリスト教に限らず宗教系の団体においては、二つの両極の人間のタイプが登場してきます。一つは巨大な組織を構築し、運営していくタイプ、もう一つは「道を究める」という求道的な面を重視し、シビアな修行生活を送るという「孤高の放浪者タイプ」です。でもって教祖はその両方の側面を併せ持ちます。キリストも荒野を放浪しつつ、人々の求心力になり集団を作りますし、釈迦も孤独に放浪しつつ教団の芯になっていきます。
日本の仏教でも古来さまざまなキャラクターが登場しますが、大教団を組織したり世俗権力と絡んでいくタイプ(道鏡、蓮如、天海)もいれば、放浪の一生を終えるタイプもいます(良寛、円空)。個人的に著名ではなくても、大きな寺組織で黙々と縁の下の力持ちをやっていた人々と、山伏や行者のように放浪系の人々がいます。これはもう人間のタイプなんでしょうね。宗教に限らず、音楽などの芸術でも、学問でも、武道でも、アーティスティックに道を究める方向性もあれば、その技芸をどう世の中に還元していくかという側面もある。企業でいえば前者は開発研究部であり、後者は営業人事部みたいなものです。
キリスト教にもこの流れはあって、ローマ帝国による迫害が終ったあとも、人里離れた辺境や砂漠で求道的&禁欲的な生活を行おうという人達が沢山出てきます。このライフスタイルは何故かアイルランド方面に伝わり、さらにアイルランド経由でイングランドやヨーロッパ本土に逆輸入されてきます。なんでアイルランドに行くのかよく分からんのですが、こういう人達は辺鄙な場所、生活環境が厳しい場所が好きですから、辺境伝いに移動していくとそうなったのかもしれません。
この修道院制度を語るとき、絶対に出てくる重要人物がベネディクトゥス(480頃〜543頃)という人です。この人は、もともとイタリアの貴族出身で、ローマで学問を修めたエリートなのですが、ローマの退廃ぶりに失望し17歳で山ごもりします。そして、「これではアカン」と理想に燃えた青年ベネディクトは、強い信仰と高い教養を備えたプロの聖職者を養成するのだと、聖職者のための「虎の穴」みたいな組織を作ります。ローマ南方のモンテ・カッシノ修道院(529年)です。これが以後連綿とつづく、西欧修道院システムの原点になります。
このベネディクト派修道院は、清貧・貞潔で「祈れ、働け」をモットーとするもので、信仰だけではなく日々の労働も重視し、荒れた土地を開き、農業技術を発展させます。資料によると、午前2時に起床し午後8時に就寝するまでに、4〜5時間の祈りと6〜7時間の労働を行い、2時間の読書・写本に励んだそうです。生活は自給自足。同じ志を持つ女性のための女子修道院も生まれます。
ハードなようですが、ある意味では普遍的な宗教団体or同志集団の生活スタイルといってもいいでしょう。高い志をともにする人々が一緒に暮し、全て自給自足で行い、必死に労働し、何かを極めるという。昔のお寺は(今もか)自分の敷地に畑をもっていたし、少林寺の映画の修行風景とかみてても水を汲みにいったり耕したりしてますもんね。70年代ヒッピーの間で流行ったコミューンのようなものでしょうし、現在でもこういうことやってる集団は沢山あります。日本では山岸会なんか有名ですよね。こういうライフスタイルのあり方に賛否両論あるでしょうけど、やってる本人達は結構楽しいんでしょうね。原始生活&共同生活の楽しみというか、それを部分的に再現するのが僕らがやってるアウトドアのキャンプだろうし、部活の合宿のようなものでしょう。
ところが「望外の果実」というか、この修道院がヨーロッパ文化に多大な寄与をするようになります。なんせこれだけ勤勉実直な集団が鬼のように求道的にやってるわけですから、何をやってももの凄い生産性を示します。頑張って開墾をするわけですが、その段階で農機具を改良するとか、こういう肥料をやるといいとか、灌漑はどうするとか考え、実行するでしょう。取れた農作物を保存するための技術もいろいろと開発するでしょう。なんせ「怠ける」という要素がない集団ですから。
修道院では皆で必死で勉強するから懸命に古典を写本するわけですが、この写本製作によってギリシア、ローマの古典が保存されます。これも簡単に写本とか言ってるけど、当時の技術ですから紙なんてまだ存在しないです。羊皮紙なんてものを使ってたでしょうし、羊皮紙なんか作るだけでも気が遠くなりそうです。また、ペンにしろ、インクにしろ、製本や装丁にせよ、いちいち技術革新が行われたものと思われます。また旅行者や病院の世話も行いますし、周辺の村々に農業技術やラテン語教育を施したりもします。結局、強力な文教厚生施設になっていくわけですね。
このベネディクト修道院のスタイル(会則)は、その後西ヨーロッパ各地に広まっていきます。これらの組織を拠点として、多くの優れた聖職者を生み出します。彼らはゲルマン諸族の王をアタナシウス派に改宗させたり、辺境や異教の地での布教に活躍しています。それまで草の根的にやっていたキリスト教会の活動が、強力な戒律と抜群の生産性をもってパワーアップされていくわけです。
そうなるとキリスト教会における修道院の力も相対的に強くなります。大教皇と呼ばれたグレゴリウス一世も、もともとは貴族出身ですが、後にベネディクト修道院に入り、修道院長から教皇になってます。東大を出て総理大臣になるみたいな感じなんでしょうかね。
ちなみに東ローマでも、修道活動は展開されます。彼らは組織化されない民衆を代表して国家(=教会)にモノ申す役割を果たします。
この修道院の役割は、現在のヨーロッパにも深く影響しています。例えば医療、病院のルーツは修道院になるわけですが、トリビアになりますが、旅人や巡礼者を宿泊させる修道院、巡礼教会をホスピス(hospice)と呼んだらしいですのですが、これがホスピタリティ(歓待)とかホスピタル(病院)の語源になってるそうです。また、ヨーロッパに古くからある常備薬の中には、修道僧や修道女の絵柄がよく用いられたりするそうです。さらに、ヨーロッパのビール、ワインは今でも修道院で醸造されているものも多いそうです。
以上、今回は「ツナギの歴史」みたいな感じで地味だったわけですが、現在の世界の原型みたいなものが徐々に出来上がってくるのが分かります。
ここまでを整理すると、登場してくるキャラクター&勢力は大雑把に言えば4つ。
@イスラム系勢力
メソポタミア文明以来のアラビア・中東方面の勢力で、このエリアはユダヤ〜キリスト〜イスラム教の三大宗教の発祥の地ですが、7世紀以降はイスラム勢力圏に入ります。これは現在に至るまでそうなってます。
A東ローマ帝国
ソクラテスやプランなどの高度な文明を誇った古代ギリシャ系の末裔。これが東ローマ帝国になります。東ローマ帝国のことをビザンチン帝国と言ったり、この文化をヘレニズム文化とかいったりしますが、要するにギリシア文化ってことですよね(ヘレニズムというのはギリシャ人のことだし、ビザンチンというのもコンスタンチノープル(=今のイスタンブール)の別称ビザンティウムから)。
Bローマ教会
西ローマ帝国とローマ教会があります。西ローマ帝国は滅亡しますが、ローマ教会は残るし、ラテン文化圏は残ります。
Cゲルマン民族系
これが現在のヨーロッパ人の原型みたいなものです。
この四つの勢力が反発し、争い、ときには手を握ったりしながら、グツグツとヨーロッパから中東にかけての原型を作っていったのでしょう。距離的に近い@とA、BとCが戦ったり合従連衡したりするわけですし、この流れは現在まで続きます。
Aの東ローマ帝国&教会は、やがてローマと決定的に決別(大シスマ)したあと、イスラム勢力圏に飲み込まれるようになり「世界最強国家」といわれるオスマン帝国の支配を受けます。オスマン帝国は1299年から1922年の第一次大戦まで続き、その間東教会はオスマン支配の中で生き長らえますが、1830年にギリシャがオスマンから独立し、ギリシャ正教という形で現在に至ります。また、まだ東ローマがある頃からロシアの方にもキリスト教は伝わりロシア正教となって残っています。
BとCは相互リンク関係で互いに影響を与えつつ一体化していきます。ゲルマン民族がローマカトリック化していくということでもあるし、ローマ教会がゲルマン内部の権力闘争に夢中になっていくことでもあります。その結果神聖ローマ帝国なんてのが出来ちゃったりするわけですが、これは次回。
でもって東と西の対立は、西が十字軍なんてのを東に送って暴れることによってさらに悪化します。この傷跡はまだ残り、東西教会の和解はずっと言われながらも中々難しいのが実情のようです。2003年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がギリシアを訪問し、十字軍について謝罪して正教会側に感動を呼んだわけですけど、あとを継いだベネディクト16世(今の教皇)は保守派で、就任早々「西の方がエラいんじゃ」とか言って正教側の反発を受けてるようです。やれやれ。
さて、もう一つ、今回は修道院というものが出てきました。この草の根的な文教・福祉・厚生・科学技術の組織は、その後今日に至るまで存続しているのはご存知の通り(日本にも沢山あります)。それだけではなく、2000年間戦乱に明け暮れてきた欧州の地において、古代ギリシア以来の人類の知的財産を守ってきた重要な中継地としての役割も果たしています。修道院の皆さんがせっせと写本をしてくれなかったら、プラトンとかピタゴラスの定理とかは現代まで伝わってなかったかもしれません。そして、この知的・文化的蓄積が、次回以降に述べる12世紀ルネサンス、さらにルネサンスの土壌になったものと思われます。
文責:田村
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