今週の1枚(07.09.17)
ESSAY 328 : キリスト教について(その2) 〜原始キリスト教とローマ帝国
写真は、つい数日前に撮りました、春爛漫の風景。左手に見えるのは藤の花。右に見えるピンク色の花は、実はこれよく分からないので「梅みたいな木」と呼んでます(^_^)。撮影場所は、Waitaraになるのかな、北の玄関口Hornsbyのすぐ近くです。
先週に続いてキリスト教についてです。この際、もう少し突っ込んで勉強してみましょう。
キリスト教といっても色々な宗派があります。カソリックやプロテスタントだけではなく、山ほどあります。宗教に宗派があるのは当たり前ですが、なんでそんなに色々あるのか、何故あるのか。キリスト教は、その2000年の歴史のうち沢山の内部分裂を経験していますが、大きく分けても5つの大分裂があるそうです。有名なカソリックとプレテスタントの分裂はその最後の5回目だそうです。いったいキリスト教は、どういう経過をたどって今日あるような形になっていったのでしょうか。
イエスの存命中、そして死後しばらくの間は、イエス本人とその周辺の弟子や信者達は、自分達が信仰しているのが「キリスト教」だとは思っていなかったでしょう。彼らは、あくまでユダヤ教の新興勢力であり、ユダヤ教の中の”ナザレのイエス派”とでも呼ぶべき存在だったと思われます。それが徐々にユダヤ教から一線を画し、独自の宗教となっていきます。
イエスの死後、彼の弟子や親族が宗教活動を継続してのですが、教祖たるイエスがああいう亡くなり方(刑死)したため、関係者は四散したものと思われます。少なくとも関係者全員が一致団結していたというわけではない。そのなかでも中核的な存在だったのがエルサレム教会であり、イエスの直弟子と親族によって運営されていました。他方では、ヘレニスト(ギリシア語使用者)が各地に散って異邦人や異教徒と交わり、布教を展開し、アンティオケイア教会という形で結実していきます。
エルサレム派は「基本に忠実」というか、ユダヤ教の一派たる原点を守り、禁欲的に共同生活を営み、大々的に布教を行うでもなく、またエルサレムからも離れようとしなかったといいます。原則的、保守的な人々だったのでしょう。アンティオケイア派は、対称的に外向的であり、ユダヤ教主流派の圧力で各地に離散したことをキッカケに、異教徒や異邦人にも親しみやすい形に変容させていきます。つまり「伝統の味」に忠実な本家が地味に頑固に経営しているのに対し、その他の連中が「もっと皆に受け入れやすくしなきゃダメだよ」とばかりにポップな形に仕立てあげ、ファミレスチェーンのように幅広く展開して成功を収めていったようなものでしょう。伝統派からみたら、改革派は「堕落」「まやかし」に見えるでしょうが、改革派からすれば保守派は頑迷固陋に見えるでしょう。これはどんな分野、どんな場面でも普遍的に見られる路線闘争です。
保守派のエルサレム教会派の登場人物としては、ペテロがいます。イエスの最初の弟子であり、イエス存命中から弟子達のリーダー格でもあった名実ともに一番弟子です。一方、外向ポップ系のアンティオケイア派のリーダーはパウロです。この人はイエス存命中には弟子になっていませんでしたが、復活したイエスを目撃して弟子になってます。ちなみに復活したイエスの見て目が見えなくなり、他の信者祈ると目からウロコ状の物が落ちて見えるようになり、入信したとされ、「目から鱗が落ちた」という表現の語源らしいです。ほおー、知らんかった。
このペテロとパウロは、どちらも布教の過程で手紙をたくさん書いており、その手紙の内容がイエスの教えを伝えるテキスト化し、新約聖書の一部になってます。また、西欧人の名前は大体がキリスト教の弟子や聖人などから取られてますが、このペテロとパウロは非常にポピュラーな名前でしょう。英語読みをすれば、ペテロが「ピーター」で、パウロが「ポール」です。ピーターが、各国言語のお国訛りに沿って、フランス語だとピエール、イタリア語だとピエトロ、スペイン語だとペドロ、ドイツ語だとペーターになったりするそうです。旧ソ連のレニングラードが昔のロシア名のペテルブルグになりましたが、あれも原点は同じ「ペテロ」でしょう。
さて、ここで注意すべきは、伝統派のエルサレム教会の方がよりイエスの教えに近く、イエス直伝の「本物の味」を伝承しているのですが、現在のキリスト教からむしろ離れているということです。どういうことかというと、イエスが頑張っていた頃はあくまでも「ユダヤ教の一分派」としてやってるわけで、ユダヤ教の戒律や律法に縛られる度合も強く、より濃厚にユダヤ教的だったりします。例えば割礼をするとか、食物禁忌(食べてはイケナイものが多い)とか。でも、そういったシキタリというのは、異邦人や異教徒からしたら鬱陶しいわけです。それにユダヤ教というのは基本的に自分がユダヤ人でないとツライ部分がありますから、もともと異邦人に布教するのに不向きな宗教でもあります。だから、広く外の世界に布教しようと思えば、ユダヤ色を希薄にしていかねばなりません。今日の多くのキリスト教は、ユダヤ的シキタリからは自由です。割礼しろとか、○○を食べるなとかいう制約は少ないです。そして、このユダヤ色を落としていく過程で、単なるユダヤ教の一分派だったイエスの教団が、徐々に独立した「キリスト教」になっていったのだと思われます。
わかりにくいのですけど、本家本元よりも、本家の教えを薄めたポップ派の方が、よりキリスト教的である、ということです。イエスと同世代の人達からしたら、「あんなもんはイエス様の教えじゃねえ」「嘆かわしい」「まがいもの」に思えるでしょうが、その「まがいもの」こそがキリスト教をキリスト教として自立させる母体になったわけです。逆の見方をすれば、周囲のなりゆきで「ユダヤ教分派」という枠組み押し込められていたイエスの教えを、ユダヤ的な色彩や戒律を濾過していき、「純化」させていったとも言えるでしょう。
本家の味を守るエルサレム派と、広くポップな展開を目指すアンティオケイオ派は、当然のことながら激しく対立します。ほとんど抗争状態だったのを、ヤコブという人が仲裁に入ります。ヤコブという名前もやたら出てくるのですが、ここではイエスの兄弟(といっても、イトコ説、異母兄説、実弟説があるそうですが)のヤコブです。この人は、イエス本人との血統・近親度からいってもナンバーワンで誰も逆らえない「本家の叔父貴」のような存在であり、実際、うるさ型が多いエスサレム派の最長老でもあったわけです。この本家のオジキが「ちょっと待ったらんかい」と乗り出して、手打ちを仕切ります。オジキの案は「異邦人改宗者は基本的な戒律だけ守れば、あとは割礼を含めて細かな律法は守らなくてもいい」という折衷案であり、「こんなもんで、どや?」とオジキにすごまれた一同は、従ったそうです。以後、エルサレム派とアンティオケイア派、それぞれに管区を決め、管区を越えて干渉や越権行為をしないことというキマリが守られます。この「管区の独立性、自治性」というのは、歴史を越えて伝承されたそうです。
神聖なるキリスト教の初期の歴史を、日本のヤクザカルチャーにならって解説するのは恐れ多いことかもしれませんが、でもぶっちゃけた話、そーゆーことでしょ?「管区」といっても、要するに「縄張り」「シマ」ってことだし。というか、キリスト教だからとかヤクザだからとかいうことではなく、人間と人間の派閥争い、そして解決の方法というのは、幾つかのパターンに収斂されるのであり、歴史の時空を離れた二つが似通っていても、当然といえば当然です。
原始キリスト教の展開に紙数を割きましたが、僕がこの下りを調べて「ほう、なるほど」と思ったのは、キリスト教のDNAみたいなものがこの初期の時点で既に胚胎していたように感じられるからです。
僕の印象では、キリスト教というのは二つの相反する特徴を有しています。一つはポップで柔軟であること、もう一つは厳格であることです。上に見たように、母体であるユダヤ教・社会から離脱し、異邦人と交流する中で徐々にキリスト教というのが立ち上がっていきました。もともとが「変ることによって成立した」宗教であるから、フレキシブルであるのは当然なのかもしれません。また、異邦人にも分かりやすく説いていく過程で、必然的に(よい意味での)ポップさを身につけていきます。極めれば難解なんだろうけど、なにも知らない5歳の少女がすっと入っていける分かりやすさがあります。「マッチ売りの少女」のように。ガチガチの律法主義のユダヤ教から分離していくプロセスで、キリスト教は(本質を変えない限り)「受けるんだったらこれくらいええやろ」「固いこと言わんと」ってノリがあるような気もするのですよ。大阪人みたいに。もし、キリスト教にこのフレキシブルでインタラクティブ(信者のニーズに答える)が特質がなかったら、そもそもユダヤ教の一分派として歴史に埋もれてしまっていたかもしれません。
このフレキシブルさは、例えば、キリスト教も偶像崇拝を禁止しているのにも関わらず、世界の教会にはキリスト像やマリア様の像がやたらあることからも分かります。リオデジャネイロには30メートルのほどの巨大なキリスト像があります。あれは偶像ではないんか?というと、一応「像ではあるが、”偶像”ではない(礼拝の対象ではない)」ということでオフィシャルにはクリアしているらしいですが、しかし、あれを「偶像」と呼ぶかどうかはともかく、キリスト教のビジュアル戦略&マルチメディア戦略には凄まじいものがあります。宗教画は山ほど書かれているし、ステンドグラスは綺麗だし、賛美歌だけではなく様々な曲が書かれているし、今でも音楽や映画(例えばダヴィンチコードにせよ)で連綿とキリスト教周辺のものが製作されています。このあたり「まあ、偶像みたいだけど、ええんちゃうの?だって分かりやすいやろ?」というノリがあるような気がしますし、それがあるからこそ、民族を越え、時代を超え、その時々のポップカルチャーを惹きつける魅力を維持しているのだと思います。そもそもの出発点において、異邦人との武者修行によって鍛えられてきた宗教の強みなのでしょう。
しかしながら、一面ではキリスト教は厳格でもあり、頑固でもあります。律法や戒律、すなわち生活習慣や文化そのものが宗教の内実をなすユダヤ教やイスラム教が、旧約聖書やコーランという聖典を重視するのはわかります。あれだけ「はい、赤あげて、白下げないで赤あげない」みたいに人々の生活にチョッカイを出す以上、「なんでじゃ?!」と言われたとき「聖典に書いてあるからじゃい」という「根拠」は必要だからです。でも、キリスト教のように、一般信者に対する戒律がゆるく、フレキシブルで実質本意な宗教の場合、あそこまで聖書とか聖典にこだわらなくてもいいように思えるのですが、聖書、好きですよね。また結構頑固なところも多く、その頑固さが悪い面に出ると、異教徒に対する容赦のなさであったり、未だに進化論を否定したりという部分に現れたりします。
このように、草創期の戒律重視の保守派遺伝子と、流浪の中で逞しく育まれたポップ遺伝子という一見相反する二つのDNAが、以後のキリスト教の流れのなかに埋め込まれていったんじゃなかろかって気がします。
もう一つ、ヤコブのオジキの手打ちで始まるように、内部で抗争があると「教義や布教方法を話し合って決める」という、デモクラティックなDNAもあるでしょう。歴史を見ると、年がら年中なんたら公会議とかいってサミットして、教義内容を決めてます。抗争の解決方法を持っていること、協議によって教義を決めること。こーゆーのって、珍しい宗教なのではなかろうか。臆測を逞しくすれば、西欧社会で民主主義という手法が考案され、実施されていったのも、この「話し合って決める」という慣習がその前に根付いていたからかもしれません。
でも、なんでそうなってるの?と想像するに、キリスト教の実質的な教典は新約聖書ですが(旧約聖書も勿論あるけど、イエスが出てきてキリスト教らしくなるのは新約)、この新約聖書は、前述のように保守派のペテロとポップ派のパウロ、その他複数の人が書いていますよね。僕は殆ど聖書というものを読んだことはないのですが、読みもしないくせにエラそうなことを言わせて貰えば、あれは福音と呼ばれるイエス本人の言行録のほか、使徒達の書簡などで成り立っていて、いわば初期の「キリスト教論文集」だと思います。だいたい、おびただしい文献群のうちどれを聖書として認めるかについても歴史的変遷があり、一応「これぞ決定版」と言われる原型が出来たのも397年のカルタゴ教会会議だと言われています(また会議やってるわけです)。が、1000年以上後のルターの宗教改革では「これは、いらんのとちゃう?」と選出に疑義が出ていたりしてます。
何が言いたいかというと、キリスト教というのはイエス本人がサラサラと著作を書いて疑義を許さぬ決定版教典・教義があるのではなく、常に常に皆で考え続けてきた宗教なのだろうってことです。また、フレキシブルでポップである分、中核部分の論理と構造だけは死守しないと、なし崩しになって何が何だか分からなくなってしまうって事情もあるのかもしれません。まあ、どんな宗教でも後世の信者達が一生懸命考えて発展させていったものですが、キリスト教の場合は特にイエス本人の布教期間が1−3年と極端に短く、また文献も少ないことから、後世の手にゆだねられる部分が非常に大きかったのでしょう。天国でイエス本人が今の聖書を読んだら、「俺、こんなこと考えてへんかったけどなあ、でも、うまいこと言うなあ、ふむふむ」と感心しているかもしれません。つまりキリスト教というのは、イエス様の教えを中核とした宗教なんだけど、より実態的には、イエスがヒントや種を蒔いて、あとで皆が考えて育て上げた宗教なのかなって気がします。
このように皆で考える中で生まれていったキリスト教は、常に考え続けることで発展し、今も尚考え続けるのでしょう。それが遺伝子。だから、「話し合って決める」というメソッドに馴染むんだと思います。
さて、その後の展開ですが、キリスト教は草創期よりあちこちから迫害を受けます。とりあえずユダヤ教保守本流からいじめられ、多神教を旨としていた当時のローマ帝国からもいじめられます。上記のペテロ、パウロ、そしてヤコブのオジキも全て弾圧・処刑されています。そうこうしているうちに、今度はユダヤとローマが喧嘩を始め(ユダヤ戦争)、ユダヤ国はローマ帝国に制圧されてしまいます。そうなると保守派のエルサレム教会派は本拠地を失い衰亡、逆に流浪のポップ派がキリスト教の担い手になり、ここで完全にキリスト教はユダヤ教から独立します。いわゆるキリスト教の成立というと、このあたりの時期を指すそうです。年代でいうと紀元70年頃です。イエスが十字架にかけられたのが紀元30年頃だといいますから、短期の間に分裂・手打ち、そして独立と事態は変転していったわけですね。
さて、キリスト教としての自覚を持ったユダヤ外周辺の人々は、地中海沿岸を西進し、ギリシアを経て、ローマ帝国領土内で活動をしていきます。この流れはユダヤ戦争以前からありました。しかし、前述のように多神教文化を持つローマ帝国においては、一神教で皇帝崇拝を拒否するキリスト教徒は異物扱いされ、弾圧されます。有名な暴君ネロなんかもこの時代です。キリスト教徒を闘技場に引き出し、猛獣に食べさせて残虐な見世物にしたエピソードは有名ですね。ちなみに暴君ネロというと権力欲の権化のような油ぎったオヤジを想像しますが、彼が皇帝だったのは14年間、自殺したときはわずか31歳(紀元68年)です。年齢でいえば高校3年生のときに既に皇位につき、最初の5年間はかなりの善政を施したらしいです。実像はどうも繊細な芸術家肌の男だったらしく、それが陰惨な宮廷闘争環境で神経が病み、後半はほとんど精神異常をきたしていたのではないかという説もあります。ほとんどワーホリ可能年齢のうちに生涯を閉じたネロですが、反乱にあい、自殺する直前に言った「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」という文句は有名。
ネロの後もローマ帝国はキリスト教を弾圧しますが、それでもキリスト教は草の根的に広がっていきます。そして、紀元300年代になると風向きが変り、313年のミラノ勅令でキリスト教は初めて公認されます。そこからは怒濤の勢いで、380年にはキリスト教はローマ帝国のナンバーワン(国教)になり、392年はキリスト教以外は禁止(オンリーワン)になっていきます。
ローマ帝国というと、「全ての道はローマに通ず」という諺で有名なくらい、バリバリに強大な帝国を想像しますが、そのピークは紀元前31年にクレオパトラの率いるエジプトを征服したオクタビアヌスが紀元前27年に初代皇帝になった頃でしょう。シーザーが出てくるのはそれより一世代前(紀元前50-60年代)です。ちなみに紀元前1世紀〜紀元1世紀というのは西洋・中東史的にはオールスター的時代で、シーザー、クレオパトラ、キリスト、ネロが出ています。
ネロ治世の紀元60年代頃には、ローマ帝国も絶頂期を過ぎ既にガタがきていたのでしょう。落ち目の権力者の常套手段ですが、民衆の不満を逸らすために「みんなこいつらのせいだ」というスケープゴートを作ります。ネロがキリスト教徒を迫害したのもその種の政治的パファーマンスだったようです(ローマ大火を仕掛けたテロリストとして糾弾)。あとローマは古代の神々をあがめる大らかな多神教文化ですから、一神教のキリスト教は「変な奴らだな」とは思われたでしょうが、自分らの信仰への脅威であるとはあまり思わなかったのではないか。まあ、このあたりはよく知らないのですが、酒池肉林でドンチャン騒ぎして、コロセウムで見世物に熱狂していた人々って、あんまり「敬虔な信者」ってイメージにならないんですよね。だから宗教的な理由というよりも、他の理由、すなわち政治的理由が大きかったのではないか。つまり、当時のローマは広範な領土を統治するための政治的手法として皇帝=神という皇帝崇拝儀式をやっていて、それにキリスト教徒が従わないという点が問題だったとも言われています。つまり、宗教的に憎いというよりも、政治的必要性があっての弾圧ということです。
ネロの後、ローマは、いわゆる「五賢帝の時代」という賢い治世者が5人連続して登場して持ち直すのですが、その後また落ち目になり、反乱が頻発し、そうなると世界のどこでも同じですが軍部が力を持ちます。で、これも世界どこでも同じですが軍人に政治やらせると益々混乱し、ローマも50年間に26人も皇帝が代わるという滅茶苦茶な状況になります(→もっとも日本も他人のことを言えないけど=戦後45年から2007年までの62年間の歴代総理大臣は48人、今度で49人目)。最後の軍人皇帝であるディオクレティアヌスは、軍人得意の強烈な武断政治をひきキリスト教徒を大迫害したけど、あえなく失敗。これも大体どこも同じですけど、落ち目になると、歯切れが良くて分かりやすいマッチョ的・右翼的な主張で国民の求心力を保とうとするけど、「で、団結してどうすんの?」というと喧嘩する以外の生産的なシナリオが書けないから、結局以前よりも状況は悪くなるという。ヒトラーしかり、ブッシュ政権しかり、そして安倍首相しかりでしょう。
「もう、さっぱワヤですわ」という状況で帝国を引き継いだコンスタティヌスは、さすがに政治家としてまだ優れていて、既に無視できない勢力になっていたキリスト教徒達と和睦をし、彼らを取り込み、帝国を盛り上げようとします。これがミラノ勅令です。これが313年。325年にはコンスタティヌス帝は前回書いたニカイア公会議が開かれ、キリスト教の教義の確定がなされます。ここでなんでキリスト教内部の教義話に皇帝が直々に会議を招集したのかですが、教義問題が深刻になってキリスト教内部が分裂しかかっていたわけで、コンちゃんとしてはせっかく帝国の勢力基盤においたキリスト教がここで分裂されたら困るということでしょう。
以後、キリスト教はローマの国教、さらに他を排斥した独占宗教となり、政治権力と手を携えることになります。
ここまでの経緯でわかるのは、ローマ帝国側は一貫して世俗的な権力闘争や政治問題として話が進んでいます。政治的に必要ならば弾圧するし、必要なら国教にもするという。政治力学で話が進むわけです。一方キリスト教徒側からしたら、草創直後から300年間虐められ続けているわけです。弾圧されていく過程で「殉教の美学」のようなものが醸成されていったように思われます。人間というのは逆境になるほど、それも外部からの圧力でそうなるときほど精神が凝縮し、純化し、あるいは陶酔する傾向にあります。戦時中の日本軍の特攻のように、死を含むハードな状況には人間の精神を純化する作用みたいなものがあるのでしょう。逆に全てに満ち足りてしまうと弛緩してダラダラしていくという。キリスト教も300年の弾圧の歴史で、命がけの宗教として精神的に深まっていったのでしょう。大体、大将であるキリスト本人が十字架で派手に殉教してますから、ロールモデルとしてはこれ以上のものはないわけですし。
このあたりの初期の記憶が濃厚に残り、殉教者は神と人間の中間に位置する「聖人」なのだという殉教者崇敬が生じていったのでしょう。以後、キリスト教の「突っ張って、突っ張って、殺されるまで突っ張る」「殺されてこそ一人前」みたいな精神の水脈が出来ていったように思います。この「殉教OK」「弾圧上等」の精神があるから、15世紀頃からイエズス会をはじめ世界各地に宣教師を派遣し、ほとんど自殺行為のような布教活動でも嬉々としてこれを行い、実際に殺されるという出来事が世界各地に生じます。日本でも戦国から江戸初期にかけて宣教師が殺されることはママありましたし、有名な長崎の二十六聖人の殉教、あるいは島原の乱などがあります。ちなみに、江戸幕府のキリシタン弾圧→隠れキリシタンとして潜伏という状況は幕末まで続いたそうですが、明治政府になり欧米列強に追いつけ追い越せと頑張ってるとき、当の欧米諸国から「キリスト教禁止?われ、何眠たいことぬかしとるんじゃ!」と一喝された明治政府はキリスト教禁止をやめます。ともあれこの殉教者称揚の流れがあったからこそ、キリスト教が地中海沿岸のローカル宗教から世界宗教になっていたのかもしれません。
ここまでのマトメとしては、キリスト教というのは生成後300年くらいの間に特徴的なDNAを獲得していったんだろうという話です。すなわち、母体ユダヤ教からは聖書聖典へのこだわりや戒律が継承され、流浪の布教時期に民族を越えたポップさと柔軟さを獲得し、それと同時に中核となる教義解釈と統一への希求、そして解決としての話し合いの文化が生まれてきたのではないかと。さらに弾圧の時代を経て、殉教のスピリットがそれに付加されていったんだろうなということです。
といっても、書いてる僕もそんなに確信ありませんから、あまり鵜呑みにしないように。なんせ僕自身、書く直前にWikipediaなどをパラパラと見て、適当にまとめ、適当に「まあ、そういうことかな」と思いつきの考察を加えているだけですので。
さて、めでたくローマ帝国のオンリーワン国教になったキリスト教ですが、ここからキリスト教のもう一つの特徴「権力としてのキリスト教」という点が出てきます。これまではイジメられるばっかりでしたからね。まさに反逆者の宗教だったわけですが、ここから先は自分が権力者、体制側になっちゃいます。さて、どうなるか。
しかし、ここから先ぶわっと展開するので、どうしたものかと書きあぐねています。なんせローマ帝国の国教化ということで、最高権力とリンクしちゃったわけですから、以後のキリスト教の歴史は、まんま西洋・中東史になっていきます。まあ世界史そんなに知らないし、いつかは勉強しなきゃいけないなと思ってたからいいのですけど。簡単に言うと、国教化(380年)、単一宗教化(392年)の直後にパトロンであるローマ帝国が分裂します。395年に東ローマ帝国。その100年後に西ローマ帝国は滅びてしまいます。せっかく掴んだスポンサーなのに、まあ、ローマ帝国も長期低落にあったのでしょう。
以後、東と西でキリスト教は異なる展開をします。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の方は、東方正教会として頑張っていたわけですが、ここに強力なライバルが出現します。イスラム教です。イスラム教は比較的新しい宗教で、ほぼ7世紀に形になり、中東アラブを中心に広がっていきます。東方面のキリスト教勢力は政治的にも宗教的に対イスラム問題が課題になります。一方、西の方は中東から離れている分まだ影響は少なく、西ローマ帝国滅亡後、ヨーロッパ各地の有力者と関係を結び延命していくうちに、欧州王国連合みたいな、今のEUみたいな連合組織に関係するようになり、さらにその実質的な権力に食い込んでいきます。このEUみたいな連合体というのが、「神聖ローマ帝国」です。さっき東西分裂して滅んでいったのは「古代ローマ帝国」です。ローマ1とローマ2があるのですね。最初は連合体のボスになる奴が、ボスらしい権威や飾りが欲しいから、ローマ教皇に「あんたは古代ローマ帝国の正当な継承者だよ」と言ってもらうためにローマ教会を利用していたのですが、段々デコレーションの筈の教会が力を得てきて、有名なカノッサの屈辱事件みたいに王権よりも強くなっていくわけです。
しかし、そんなこと言ってられるのもルネサンスあたりまでで、神様さえ信じていればそれでよかった「中世」から、新たな科学技術の発展(火薬や羅針盤など)をテコにして人類は近世に進みます。話はもっと生々しくリアルになっていき、パワーとスピードの時代になります。これまでは宗教上のライバルや、政治上の力関係でやってればよかったのですが、全く違った種類の強敵が登場します。すなわち「近代精神」というやつで、科学、思想、哲学、市民革命などなどで、現代社会の大骨格が作られてくる時期です。そうなると神様それ自体が相対的に流行らなくなってくるわけで、地盤沈下していきます。同時に、ローマ教会の一手独占の西欧キリスト教社会も、これらの時代背景のもと、ルターの宗教改革やピューリタンなどニューウェーブが続々と登場してきます。
そこまで先走るのはやめておいて、今回までの部分で若干補充しておきます。
一つは、あれだけローマ帝国に弾圧されながらなぜキリスト教は広がっていったのか?です。あれだけの大帝国が本気で弾圧すれば、いかなキリスト教といえども絶滅とまではいかないまでも、勢力を伸ばすのは難しく、ましてや最終的に帝国の方からすり寄ってくるほどの強大な集団になっていくのは不可能とも思えます。なぜか?ここを詳しく書いてる文献はあんまり見つからなかったのですが、一つには弾圧といってもそれほど徹底を極めたものではなく、散発的なものでしかなかったのだろうということです。確かにネロは鬼のような弾圧をしましたけど、大義名分はローマ大火のテロ活動であり、キリスト教だったら有無を言わさず処刑という論理ではなかった。その意味で、日本のキリシタン弾圧の方が遙かに徹底していたと思います。
もう一つの理由は、名も無き民衆の声なき支持があったのだろうということです。ローマ帝国というと皇帝や貴族、華麗なセレモニーとか、壮麗な建物を連想しますが、あれだけの贅沢三昧をやるには、底辺に沢山の虐げられた人がいたのでしょう。ローマ帝国に占領された民衆は奴隷にされ、コキ使われ、搾取されるわけです。多くの民衆をコキつかっているからこそ、一握りの貴族が栄耀栄華を極められるわけですね。で、そういった底辺庶民にキリスト教は魅力的に映ったのでしょう。数では絶対的に勝る庶民のシンパシーを得なければ、キリスト教が皇帝とタメに話が出来るまでのし上がれるわけはない。では、ローマ帝国を支える一般庶民は、キリスト教の何に惹かれたのでしょうか?
僕が推測するに、一つは教義のシンプルさ、つまり「愛」という分かりやすくも奥行きの深い概念を持っていることです。「とにかく○○神を信じなさい。信じればイイコトがあるぞよ」という通り一遍の説得ではなく、また日々の生活において「朝起きたら○○して、毎週○曜日には○○して」と細かく指示されるわけでもない。人間が本来持っている善性を再発見させ、それを引き出す。このシンプルな奥深さが受けた理由の一つなのではないか。あと、流浪の共同生活から始まってる宗教ですから(なんせイエス本人もアウトドア派の流浪共同生活者だったし)、異文化交流技術、共同生活、相互扶助、サバイバル技術はお手の物だったのでしょう。ラウンドのプロみたいなもんです。皆の寝るところを作り、食糧を調達し、病人が出たら看病し、地域社会にボランティア活動を展開するという一連のシステムが出来ていたのでしょう。それが後日の修道院、修道僧などに引き継がれ、戦国時代の日本にやってきた宣教師達もセミナリオという学校を作ったりしています。異文化交流技術やサバイバル技術が無ければ、言葉もろくに通じない未開野蛮な土地に一人でぽーんとやってきたりはせんでしょうし、やってきたあと布教なんかも出来ないでしょう。
このような実質があったからこそ、ローマ帝国の奴隷にされ、将来に大した希望も持てない大多数の庶民の心と生活に、キリスト教は入っていけたのでしょう。キリスト教が浸透するにつれ、大ローマ帝国に紛れ込んだ「変な連中」に過ぎなかったキリスト教団も、徐々に支配者VS被支配者という政治的な構図になっていき、支配側からも人民との対話とか人民統治のメソッドとして認識されるようになっていったのかもしれません。
とりあえず、今回はこのくらいにしておきましょか。
今日はこのくらいにしといたるわってやつですね(^_^)。
文責:田村
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