ツイート

今週の1枚(09.04.20)





ESSAY 408 : 世界史から現代社会へ(71) 現代ロシア(3) チェチェン紛争の迷宮




 写真は、シドニー観光をした人なら必ず行ってると思われるミセス・マッコリーズ・チェアのあたり。オペラハウスの絶景ポイントなのですが、別にオペラハウスが見えなくたって楽しめます。日曜の昼下がりから夕暮れどきの、ほわわ〜んとした、いかにも地元オージーっぽいレイドバックした(くつろいだ)雰囲気に浸ってください。



 現代ロシアの第三回目。今回は周辺諸国との軋轢をやります。ご存知チェチェン紛争などです。
 チェチェンはニュースでお馴染みなので何となく分かった気でいましたが、舐めてましたね〜。今回調べてみて、チェチェン紛争の複雑さ、またその解決の困難さを思い知らされました。ある意味、21世紀の国際紛争のあらゆるエッセンスが凝縮しています。本当はチェチェンも含めて、グルジアやウクライナなど一回で片付けてしまおうと思ってましたがとんでもなかったです。チェチェンだけでも1回では終わらなくなってしまいました。じっくり腰を据えて読んでください。


 ロシアというのは異常なまでに領土が広い大国なので、国全体としてのマクロな方向性と、各地各局面で生じているミクロな問題とでスケールがまるで違います。スケールが違うからそこで働く論理も全然違ってきます。過去の2回にわたってやってきたマクロ的な国家運営方法、特にプーチン大統領の手法は、あのレベルの視点と論理で考えればそれなりに合理的な部分も多い。結果として国家崩壊に瀕し、国民の平均寿命さえ激減するというシリアスな危機にあったロシアに強力なタガをはめて、経済的にも再生させているのですから、大きな目でみればgood jobといえるでしょう。しかし、マクロレベルでは合理的な論理であっても、ミクロレベルではとんでもなく理不尽だったり、不正義だったりするものです。

 このマクロとミクロの悲劇は、ロシアに限らず大国全てに共通することですし、国に限らず一般社会でも、企業活動でも、コミュニティでも全ての人間集団において発生しますし。草むらに寝転がれば下の草花を押しつぶし、道を歩けば蟻を踏みつぶしているように、大が動けば不可避的に小が犠牲になる。大がそうと意識しなくても小は犠牲になったりする。倒産の危機に瀕した大企業を立て直そうとすれば、リストラされる社員も出てくるし、潰れてしまう下請会社もある。ロシアと周辺諸国の問題は、国が巨大なだけに、典型的にこの大と小の悲劇が現れてきます。


ロシア全図


 ↑これがロシアです。これでも北のシベリア方面をカットしているという、途方もないデカさです。

 でも地図をよく見ていると、実にヘンな国なんですよね。
 なぜって、ロシアの首脳部であるモスクワやペテルブルグは国の西端、ヨーロッパとの境界ギリギリにあります。ロシア帝国時代や東西冷戦時代は実際に北欧や東欧を支配下においていたので、中央アジアの国というよりはヨーロッパの東北端の国だと言ってもいいです。実際、ロシアの興味関心は常に西に向いていました。だからこそ「ヨーロッパの田舎者」というコンプレックスを抱えたり、中興の祖であるエカテリーナ女帝も西欧仕込みの教養下地がモノをいったりしているわけです。そういう意味ではロシアというのは本来モスクワあたりで国が終わっていても良いはずなんですけど、なまじそれより東方が遊牧民や狩猟民が点在する殆ど無人の大地だったために、これといった抵抗のないまま東へ東へ進み、オホーツク海まで達していってしまっています。西欧社会の大航海時代〜植民地時代に追随しようとするけど、海に恵まれてないから陸を行くしかなかったのです。

 無闇やたらと図体はデカイくせに、中枢神経は殆ど西端に集中しており、その他の地域は「一応、まあ、持っておこうか」くらいの感じで領有してたりします。バランスが悪いんですな。ちなみに、このバランスの悪さは中国も同じで、北京とか上海とか比較的海に近いエリアが栄えて、奥地の内蒙古やチベット、ウィグルなどは「一応持っておこうか」程度の感じでしょう。だったらそのエリアの人々が独立したいと言ったら快く独立させてやればいいものを、頑といって聞き入れず弾圧します。、これだけ大きな領土を統治するためには鉄の戒律で締め付けないとならないという意識が強いのでしょう。一つでも例外を認めると全体が瓦解するという恐怖感。そんなにしてまで大きな領土を持たなくたって良さそうなものですが、まあ、国家には一度自分の領土にしてしまったら手放したくないという本能的な領土欲があるのでしょう。それに昔こそ辺境地の価値は低かった(流刑囚を収用するくらい)のですが、今となれば資源の宝庫だったりするわけで、その利権があるから益々手放せない。また、離れているからこそ遠い強国への軍事的拠点としての意味も持ちます。ということで、端から見れば、強欲な大国が切れ端のような辺境エリアに固執し、可哀想な辺遠の小国を理不尽にイジメているような状況が現出するわけです。

 ロシアの場合、なんせヨーロッパ志向ですから、欧州に近いエリアを何とか自分の支配下に置こうというアクティビティが昔から盛んです。ポーランドを属国化したり、ラトビアなどのバルト三国や北欧諸国を支配下に入れます。さらにより温暖な地を求め、また冬でも凍らない不凍港を求めて南下政策を進めて、同じく世界制覇を狙うイギリスあたりと衝突します。例えば黒海のクリミア戦争とか、イランやアフガニスタンをめぐってイギリス(インド)と対立したりというのは既に過去に書いてます。また、太平洋岸においてはオホーツクの不凍港を求めたり、当時眠れる獅子と言われていた中国への侵略を企図して、帝国主義勃興期だった日本と対立、日露戦争を起こしてます。また、第二次大戦後は太平洋岸の覇権を巡ってアメリカと対立、その結果が朝鮮戦争〜南北朝鮮の分裂になり、日本では北方領土問題になってます。



ロシアのカフカース(コーカサス)支配と反骨チェチェンの歴史

 大国における辺境少数民族イジメの構図は、今回やるチェチェンなどのカフカース(コーカサス)諸国も同じことです。
 では、地図を一気にズームして、カフカース諸国といわれるエリアをみてみましょう↓。

カフカース地図



 カフカース(コーカサス)と呼ばれるこのエリアは、古くからシルクロードの町である中央アジアに隣接し、トルコやヨーロッパへの架け橋となる回廊地帯です。インド・ヨーロッパ語族系、ペルシャ系、トルコ系、あるいは何処にも属さない諸派語族系など、非常に多くの民族がひしめきあっている地帯です。だいたい世界四大人種のひとつ、いわゆる白人系を表す「コーカサス人種」という名称は、このエリアを語源にしているくらいです(ただし、その語源の由来が、ブルーメンバッハの白人優越主義を導き出したいが為のノアの箱船伝説へのトンデモ的こじつけに過ぎないことは以前のシリーズ59/インド(1)アーリア人概念を参照)。

 上の地図でも、北カフカースエリアにチェチェン以外に多くのロシア連邦内の共和国があります。とても全部は書ききれませんでしたが、実際の民族の数はもっともっと多いそうです。その数20とも40とも言われ、これだけ狭いエリアにこれだけ多くの民族が混在しているエリアは人類学的にも珍しいそうです。またカルチャー的にも各部族毎の自主独立の気風が強く、それぞれにゴーイングマイウェイでやっていくという。

 なんでこんなに入り乱れているのか、また数百年から数千年の時を経ても混ざり合わないか不思議な気がしますが、一つは地形的なものがあるように思います。このエリアにはカフカース山脈が走ってますが、これがヒマラヤ山系で標高5000メートル台の山々が並ぶ、峻険な山岳地帯です。大体、民族や文化、国家社会のボーダーというのは、昔から海や河川、山岳などの自然のパーテーションによっています。日本などの島国には海という天然のパーテーションが深く機能し、いわゆる島国根性を育んでいます(なお、その意味ではイギリスもアメリカもオーストラリアも同じく島国根性的な部分があると思う)。徒歩、馬、船くらいしか交通機関がなかった昔においては、通行が困難なエリアは人物の往来が少なく、往来が少なければ文化の交流と同化作用も減り、アイデンティティの共通性も持たないのでしょう。逆に往来が頻繁だと、言葉も共通してくるし、恋愛や結婚などの血の交流も進むし、同一商圏同一システムになりがちです。中国などはあれほど広いにもかかわらず、基本的には往来可能であるがゆえに漢民族・漢文化というものが広く行き渡り、中国文化やアイデンティティが生じてくるのでしょう。逆にちょっと前にやったアフガニスタンも山岳地帯が多いので、タリバン後の統一が困難になっていますよね。

 チェチェンというのは日本の四国と同じくらいの大きさらしいですが、ちなみに四国もまた四国山地という東西に走る自然のパーテーションがあります。このパーテーション(山脈)によって分割され、北四国(愛媛、香川、徳島)と南四国(高知)とでは文化も気風も方言もかなり違うと聞きます。同じように、日本でも同じ県内で気質が違う2−3のエリアに分かれたりしますよね。長野県の北信と南信、福井県の嶺南と嶺北とか、僕が直接現地の人から聞いて覚えているだけでも、大分も、富山もそうだし、殆ど全ての県にその種の分化があるといってもいいでしょう。そしてミクロに見るとさらに細かく分化しているという。シドニーだってサバーブ別の優劣感情はあるし、例えばウチの近くのArtarmonエリアだって駅の両側で全然違います。文化・社会というのは、この種の嘘がつけない人間臭さ泥臭さがあって僕にはとても面白いです。


 さて、カフカースです。
 大昔から種々の民族がひしめきあってるカフカースですが、北方の強大国ロシアからみれば、南方進出の要所にあたります。ロシアのこのエリアへの関心(+ちょっかい)は、ロシア帝国初期のイワン雷帝やエカテリーナ二世の頃から始まります。帝政ロシアは17世紀(日本でいえば江戸時代初期)にシベリアを制覇し、18世紀(江戸中期)から南進を始め、北カフカース諸国に侵攻します。18世紀後半にはロシア帝国と地元カフカース民族との間で紛争が激化し、カフカース戦争が19世紀初頭まで続きます。19世紀以降、ロシアはさらに南カフカースまで侵略を進め、当時このエリアを仕切っていたイランを追い払い、ほぼカフカース一帯を勢力下におさめます。

 しかしロシア帝国の侵攻に頑強に抵抗していたのが北カフカースのチェチェン人やダゲスタン人でした。イスラム神秘主義スーフィズム(インド史でやりましたね)に支えられ(ミュリディズムといいます)、かなり頑張って抵抗し続けたのですが、結局1859年クリミア戦争後にロシアの軍門に下りました。

 最終的にカフカース地帯を併合したロシアですが、最終的に制圧するまで100年くらいかかってるわけで、大国ロシアからしたら、相当手こずっています。なんでこんなに手こずっているのかといえば、山岳地帯だから平定するのが大変なのでしょう。また山岳など見通しの悪い地形はゲリラやレジスタンスにとってはやりやすい地形なのでしょう(ジャングルで奮戦したベトコンのように)。どうもここで苦戦したのがロシアの国家的トラウマになって現在にも尾を引いているような気がします。大軍を繰り出すけど平定できない、ゲリラ戦に苦しめられる、その結果ムキになって弾圧をしようとするパターンは、今回のチェチェン紛争と同じです。

 カフカース平定に苦労したロシアは、カフカース諸民族が結束して反抗することを恐れ、分割統治という方法をとります。このあたりは民族が細かく別れているのでそれを利用してエリアを細分、容易に結束しないようにするわけです。しかし、尚も反骨精神旺盛なチェチェン人達はゲリラ的にロシアに反抗し、あるいは周辺のトルコやヨルダンなどに逃げんで反ロシアを訴えます。

 そうこうしているうちに1917年のロシア革命を迎え、ロシア帝国そのものがぶっ倒れます。ソ連革命政府のレーニンの民族自決主義により、カフカースエリアは各自治州に昇格します。しかし、レーニンの死後に権力を握ったスターリンは強力に中央集権を進め、民族自治は名ばかりの存在になっています。帝政ロシアを倒したソ連革命政府も、結局のところロシアという大国主義であることに変わりはなく、昔から頑強に反抗していたチェチェンを危険視し、厳しい弾圧を行います。ナチスドイツが台頭しして来ると、チェチェン人がドイツ軍と手を握るかもしれないという恐怖心から、1944年にチェチェン人やイングーシ人50万人を有無を言わさず一夜にして中央アジアなどへ強制移住させるというとんでもない暴挙を行います(うち半数から7割は追放先で死亡)。でも、スターリンもカフカースの出身なんですよね。自分の出身地なんだから自治を認めてやればいいものを、そうしないで弾圧するところがスターリンらしいところです。

 過去にやりましたが、スターリンという人は、世界史で人殺し数のランキングがあればダントツ一位になると思われるような人で、スターリンに粛清された人は約2000万人とも言われます。ヒトラーでさえ殺したユダヤ人は最大の説でも600万人、太平洋戦争での日本人の死者が約300万人といわれてますから、2000万人というのがいかに破格な数字か分かります。ジンギスカンとかアレキサンダー大王も途方もない領土を手にしてますが、あの頃は人口そのものが少ないし、兵器も発達してないから、こんなにも殺してないでしょう。スターリンという人は豪快君の対極をいく病的なまでに恐怖体質の持ち主で、同時に子供っぽい自己顕示欲が盛んな小児体質でもあります。なかなか友達にするには鬱陶しい人格類型なのですが、こういう小児的恐怖体質の人間が権力を握ると、それも最高権力なんぞを握ってしまったら最後、いかに多大な災厄が人々にふりかかるか、そのいい見本だと思います。

 スターリンが死亡して後を継いだのがフルシチョフです。この人はスターリンとは全然違って”粗暴なオッサン”タイプの人で、スターリン批判を始め、1957年にようやく追放されたチェチェン人達の名誉回復が行われました。故郷のチェチェンに帰還し、チェチェン・イングーシ自治共和国の再建を図ろうとする彼らの眼前には、故郷を留守にしていた十数年の間に入植してきた数多くのロシア人の姿であり、ここでまた土地を巡るトラブルが起きます。また、地元の石油資源産業の利益が中央に吸い上げられたままという植民地状態は何ら改善されておらず、チェチェンの人々の不満はくすぶり続けます。

 さらに時代は下り1985年にゴルバチョフが登場し、ペレストロイカを始めます。1990年にはソビエト連邦を構成する15の共和国は主権独立宣言を行います。このとき、1991年11月にジョハル・ドゥダエフ空軍将軍を中心とする全チェチェン会議はチェチェンの独立を宣言し、以後チェチェンは事実上独立状態になります。しかし、ロシアはこれを許さずいわゆる(第一次&第二次)チェチェン紛争(戦争)が始まります。



なぜチェチェンの独立をロシアは認めないのか(グルジアやカザフスタンは独立しているのに)

 ソ連崩壊時に多くの旧ソ連下にあった国々が独立しています。ラトビアなどのバルト三国もそうだし(独立宣言初期に軍事侵攻を受けたが後に独立)、ベラルーシやウクライナもそう、カザフスタンなどの中央アジア諸国も独立しているし、同じカフカース諸国のアゼルバイジャンやグルジアも独立しています。大体ソ連邦が崩壊したのも、ロシアやウクライナがソ連から離脱したのが最終的な引き金になってるわけで、ロシア自身がソ連から独立しているくせに、なんでチェチェンだけダメなのかという疑問があります。

 これに対する回答は容易ではないのですが、まず簡単な形式的な話でいうと、ゴルバチョフ以後に崩壊・消滅したのは「ソ連」であり、それぞれ独立したかったら独立してもいいよって話になったのは旧ソ連加盟の15の共和国です。これはなにかというと、ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバの他、バルト三国であるエストニア、ラトビア、リトアニア、中央アジア諸国であるカザフスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルメキスタン、キルギスタン、それに南カフカースにあるグルジア、アゼルバイジャン、アルメニアです。これらの諸国はみな独立しています。

 しかし、チェチェンを含む北カフカースはロシア共和国の中の一部なのですね。だから話のレベルが違う。日本、韓国、中国、ベトナム、、、、などが合体してアジア連邦という国を作った場合、この連邦が崩壊して日本や韓国が独立するのはいいのだけど、日本の中の大阪府が独立するのは認められないということです。ソ連という枠組みを解消したあと、旧ロシア共和国は新たに現在のロシア連邦となり、傘下の地方自治体と再び連邦条約を結ぶわけですが、チェチェンだけは最初から現在までガンとして首を縦に振らないわけです。

 一見「なるほど」と思いながらも、しかし、こんなのは形式的な理由ですよね。山脈隔てて南側のグルジアなどはいいけど、北側はロシアの一部だからダメとかいっても、もともと同じようなエリアで等しく帝政ロシア〜ソ連の植民地的な支配を受けてきたことに変わりはないわけです。特にチェチェンなど北カフカースは反発が激しいから念入りにケアしましょうとしてロシアの直轄領のように組み入れられ、しかも少数民族同士いがみあうように分割統治までやってきたわけで、植民地的な支配はむしろ厳しく、それだけにチェチェン人の独立欲求は強く、いわば帝政ロシア以来の宿願のようなものでしょう。ソ連という消滅しちゃった国の旧行政組織がそうなっていたから等という形式的理由=「規則ですから」みたいな理由で200年来民族独立を求めてきたチェチェンの人達が「じゃ、しょーがねーな」と納得する筈もない。

 実質的な理由としては、昔から反発の強く、特別のケアが必要なエリアだからこそ、安易に独立を認めたら周辺エリアも「じゃあ、俺も」といって独立しだして収拾が付かなくなるということがあるでしょう。実際、これで最終的にチェチェンが独立を果たしたら、ロシア政府としては何となく「ゴネ得」を認めたような後味の悪さが残るでしょうし、周辺エリアも「チェチェンが認められたなら、俺たちも」と言うかもしれないし、そう言われたときにダメという論拠が乏しい。大国を仕切る中央官僚の、いかにも中央的・官僚的な発想からすれば、こういう特例は認めがたいでしょう。

 もう一つエリツィン〜プーチンにいたる歴代大統領の事情としては、国民の人気を集め国内選挙を有利に展開するため、「強いロシア」「強いリーダーシップ」を演出しようとしてチェチェン紛争に必要以上に強硬路線で臨んでいるという指摘があります。有名な反体制の物理学者サハロフ教授の未亡人エレーナ・ボンネルは、第一次紛争はエリツィン再選のため、第二次はプーチンの大統領就任のために必要だったと、アメリカの上院議会で証言しています。この指摘をする人は多く、チェチェン急進勢力が過激な行動をとるにように挑発したり、ときには自作自演でテロを演出したりという疑惑もあります。

 また、2000年以降ロシアが経済発展しているのはひとえに石油など天然資源のおかげです。そして、最大の産業である石油のパイプラインがこの北カフカースやチェチェンエリアを通っているのですね。ここでチェチェンに独立されて手が出せなくなると、パイプラインを握られ、何をされるか分からないという恐怖心もあるでしょう。これはもう中央政府や官僚のメンツなどではなく、より現実的経済的な利益です。


チェチェン紛争

 このパイプライン確保のために、1994年にエリツィン大統領はチェチェンへの武力侵攻を始め、第一次チェチェン紛争(戦争)が勃発します。

 1994年12月、空挺、戦車、空軍などからなるロシア軍がチェチェンに侵攻し、首都グロズヌイ奪取を目指しますが、手間取り、空爆でグロズヌイの民間人が大量に死傷しています(グロズヌイだけでも7万人とか)。

 一方チェチェン側も、長年の反ロシア感情が染みついていますから、当然ロシア軍に立ち向かいます。オマル・ハッダード司令官が中心になって反撃をします。ここで、後日話が微妙にブレていく萌芽がみられます。カフカースはイスラム文化圏でもあるので、イスラム教のジハド(聖戦)という観点から、他国のイスラム教の戦士(ムシャヒディーン)が参加し、戦場だけではなくロシア都市内に潜入しテロ攻撃をします。後日のブレというのはこの「イスラム」や「テロ」という要素が入って来ちゃう点です。後述します。

 「チェチェンなんか即刻平定してやる」と豪語していたロシアですが、全然話は進みません。激しい戦闘の結果、ドゥダーエフ大統領も戦死してしまいますが(爆死ともミサイル攻撃とも言われている)、ロシア軍の方もメロメロで、ろくに訓練も受けていない徴兵兵士達が多かったため、大きな損害が生じています。チェチェン勢力といっても、覆面したゲリラが自動小銃を持ってるというレベルではなく、ドゥダエフ大統領自ら旧ソ連軍のバリバリの軍人(空軍少将)であり、また配下のチェチェン兵士も昨日まではソ連軍の兵士だったわけです。後任のマスハドフ大統領もパリパリのソ連軍大佐でした。いわば旧ソ連軍内部の戦いのようなものですが、90年代の混迷ロシアで生活破壊を受けているロシア市民から徴兵されてきたロシア軍と、祖国防衛で燃えているチェチェン軍とでは士気も全然違って当然です。かくして大軍を繰り出した割には戦局は進展せず、ロシア人兵士がバタバタ戦死していくなかロシア国内でも厭戦気分が出てきます。かくして降着した戦線においてし、1996年に暫定的な手打ちが行われます(ハサブユルト和平合意)。とりあえず停戦して、独立に関するややこしい話は2001年まで(向こう5年間)棚上げにしようということです。

 第一次チェチェン紛争でドゥダエフ大統領が戦死したあとをうけ、チェチェンでは国際機関の肝煎りのもとで選挙が行われ、アスラン・マスハドフが大統領になります。マスハドフは精力的に外遊を行い国際的な協力を求めますが、なかなか上手くいきません。一方戦争で疲弊しているチェチェンでは、誘拐などの犯罪が横行して混迷を度を深めていきます。

 この時期、チェチェン内部ではロシアとの和平をさぐる穏健派と、あくまで民族独立を貫く急進派とが分離していきます。戦死した先代のドゥダエフ大統領、当時のマスハドフ大統領などチェチェンの歴代リーダー達は、スターリンによって強制的に移住させられた地で出生した世代であり、ソ連・ロシアの理不尽な圧政は骨身に染みています。基本的にはチェチェン人達はみな独立派といってもいいでしょう。しかし、連日空爆が実施され、おびただしい民間人が死傷している現実をみれば、市民まで巻き添えにして徹底抗戦すべきなのか?という当然の疑問も出てくるわけです。それはロシア側も同じでしょう。自分達の若い世代がチェチェンに飛ばされ、異境の地で犠牲になっていく状態が延々続くのを良いとは思わぬロシア人も多数います。また、ここで和平を構築しなかったら、何のための政治家かという気もします。そして、実際に両国に和平を構築しようという動きが出てきます。

 ところが、このような和平への動きを好ましく思わぬ人達も沢山います。安易にロシアと妥協するなら死んだ方がマシと考えるチェチェンの人達もいます。過激なようですが、僕だって日本がソ連やロシアに同じようなことをされたら(日本人の大部分が強制的にシベリアに連行されて殺され、さらに日本全土を連日空爆されたと考えたら)、そう簡単には妥協したくはないでしょう。一方、ロシア内部でも、自分が失業しているイケてない現実の憂さ晴らしのように強硬方針を歓迎する大衆もいるし、それに迎合して人気を得ようとする政治家もいます。マンガのような図式だけど、ついこないだまでのブッシュ政権下のアメリカが良い例です。今となってはベトナム戦争の二の舞になってしまったイラク、アフガニスタン戦争も、ちょっと前までは圧倒的大多数のアメリカ人が好戦的なブッシュを支持し、好戦的な発言をしない政治家は嫌われたわけです。このような情勢で穏健派マスハドフ大統領の和平努力は実らず、シャミーリ・バサエフを中心とする急進的な独立派がマスハドフ政権とは別行動を取るようになります。

 そして合意で定められた2001年を待たずに停戦は破られ、第二次チェチェン紛争が勃発します。1999年の8月、チェチェンのバサエフら強硬派が近隣のダゲスケン共和国に侵入し、またモスクワなどの都市で大規模なアパート爆破事件が続発したことから、ロシア軍が活動を再開、チェチェン全域に空爆を行って20万人といわれる難民を出します。これは前回やったプーチンがエリツィンの後継者としてデビューした時期であり、ここで断固たる軍事行動を示したことで、国内の人気を得て翌年の大統領就任をモノにしています。

 もっともプーチンが「断固たる対応」を取ったからといって事態が収束したかというとこれが全く逆で、話は大がかりな戦争というよりは、ゲリラ戦、さらにはテロや暗殺という厄介なものになっていきます。2000年以降、チェチェン勢力がモスクワ劇場や小学校に人質とともに立て籠もるという事件が相次ぐようになります。ロシア国内にも、またチェチェン国内にも「ええ加減にせえ」という厭戦気分は起きており、両者による非公式な折衝が試みられます。が、和平の話し合いが起こると、これを潰すように人質事件やテロが行われて話は流れてしまい、現在に至るまで泥沼状態になっています。和平交渉を進めていたマスハドフ大統領も、2005年2月には暗殺されてしまいます。

シャミール・バサエフ

 バサエフという人物は根っからのゲリラ職人のような人で、ソ連崩壊の初期にはエリツィンと共に旧共産党クーデターと戦っていましたが、その後故郷のチェチェンに戻り、チェチェン問題を世界に知らしめるために1991年11月アエロフロート航空機ハイジャック事件を起こします。カフカース人民同盟軍司令官になったバサエフは、92-93年には義勇軍と称して、隣国グルジア内部のアブハジア独立のためにグルジア政府軍と戦ってます。これだけみてると広報戦略にも優れた、チェゲバラのような天才的なゲリラを想起しますが、しかし事情はそう簡単ではないです。アブハジア紛争においては、グルジア政府の力を弱めたいロシア政府の工作としてやっており、実はロシア軍と手を結んでいるというよく分からない複雑な動きになります。

 1994年の第一次チェチェン戦争では、ドゥダエフ大統領の下で水を得た魚のようにロシア軍を反撃、各地を転戦し、95年には病院占拠事件を起こしてロシア政府の譲歩を引き出すことに成功します。戦果を挙げているという意味では有能なゲリラであり、この時期バサエフはチェチェン民衆の英雄になります。

 しかし第一次紛争後、チェチェン市民は相次ぐ戦乱にうんざりします。バサエフは大統領選挙に出馬するのですが、民衆は穏健派のマスハドフを選びます。このあたりから”国民的英雄”バサエフと普通のチェチェン人とのズレがでてきます。とはいっても、バサエフはマスハドフ政権下において要職を歴任し、この時点ではまだ政権内部の意見の対立程度のレベルでした。しかし、そのズレは徐々に広がり、ついにチェチェン政府から分離して独自に行動を起こすようになり、アラブ人の司令官ハッターブとともに隣国ダゲスタンに侵攻、第二次チェチェン紛争の発端を作ります。そして、2002年のモスクワ劇場事件から学校占拠事件など一連のテロ事件を起こすようになります。

 バサエフの急進的な姿勢は、好戦気分が高まっている紛争初期においては国民的に支持されましたが、徐々に厭戦気分が広がっていくと逆に浮いていきます。国内はもとより独立を支援する海外の組織も、単なるテロリストと変わらぬようになるバサエフとは距離を置くようになります。2005年にマスハドフ大統領死亡のあと、チェチェンの政権に参画しますが翌年ロシア軍によって殺害されます。

 ところでバサエフですが、一時期、ロシアの新興財閥オリガルヒの巨頭ベレゾフスキー(現在イギリスに亡命中)から資金援助を受けていたこともあります。なぜここでオルガリヒが?というややこしい背景は後でまとめて書きます。

マスハドフの和平交渉と挫折 〜チェチェン問題の迷宮

 第二次チェチェン戦争勃発後の事情をもう少し調べると、いったいロシア政府(プーチン)はチェチェン紛争を終結させたいのか、させたくないのかよく分からなくなります。また、アメリカをはじめとする国際社会の対応も微妙な部分もあり、チェチェン問題を複雑にしています。

 第一次戦争後に選挙によって、急進派のバサエフを破って穏健派のマスハドフ大統領が選出されたわけですが、この人が一番マトモという印象を受けます。チェチェンをめぐっては、バサエフのような急進派と、何がなんでもチェチェンを抑えつけたいロシア中央政府の強硬派(特にプーチンによって抜擢されたシロビキと呼ばれる軍、警察出身の官僚団)とは不倶戴天のような関係にあり、到底話し合いになるわけがありません。いきおい双方陣営における穏健派・和平派がそれぞれで実権を握り、歩み寄るという方法しかないわけです。

 マスハドフはバサエフに嫌われても、なんとか和平を模索するのですが、第二次チェチェン戦争勃発後、2000年2月に首都グロズヌイを武力制覇したロシア政府は、マスハドフを武装反乱指揮容疑で指名手配します。同時にこれまでのマスハドフ政府とは別に直轄統治体制を敷き、その行政長官に親ロ派であった宗教指導者アフメドハッジ・カディロフを抜擢し、臨時政府を作らせ、翌2003年の選挙で大統領になります。しかし、武力に追われたこれまでの政府であったマスハドフら独立派はこの選挙をボイコットしてますので、形としてはロシア軍が武力でチェチェン政府を蹴散らして傀儡政権を作ったというような感じでしょう。

 マスハドフはカディロフ政権とは別にチェチェン政府を称し、ロシアとの対話を呼びかけます。マスハドフは第二次紛争以前から対話を呼びかけていますが、プーチンは一貫してこの呼びかけを無視しています。一方ではバサエフら急進派があちこちで活発にテロ行為を繰り返しているのですが、マスハドフはこれらのテロ行為を厳しく非難し、自らは無関係だと主張しています。この時点で「話し合おう」と言っていたのは事実上マスハドフだけだと思われるのですね(細かく見れば幾らでも他にいるだろうけど)。プーチンは武力でロシア直轄政府を作ろうとするし、バサエフはバサエフでせっせとテロ活動をするしで、他の連中は「話し合いもクソもない」という態度でいます。

 プーチンの強硬策は、例えば傀儡政権の大統領に据えたカディロフが就任後1年もしないうちに爆殺されたりして(2004年5月)、事態の沈静化にあまり役に立ってません。プーチンはそれでもアルハノフを後任大統領に据え、2007年からはカディロフの次男のラムザン・カディロフが大統領になっています。

 話は前後しますが、マスハドフは2005年3月に、ロシア軍特殊部隊によって殺されています。混乱の渦中において唯一話し合いを求めていたマスハドフを、なぜロシアは殺したかですが、要するに話し合いなんかする気はなかったし、それを主張するマスハドフが邪魔だったのでしょう。ロシアという大国の舵取りをする場合、チェチェン問題はチェチェンだけ見ていてもダメです。大国ロシアを圧倒しうるより強大な力を持っているのは他の国際社会であり、特に西欧社会です。そして、西欧社会は人権問題に非常にうるさい。前回見たようにプーチン大統領の強権的政治手法は常に西欧の批判に晒されています。ロシアという巨大な混沌を救うためには、ある程度は必要悪として認められる限度があるにしても、無制限に好き勝手は出来ない。2000年以降ロシアが経済復興をしたといっても、先進諸国から見たら石油という天然資源におんぶした後進工業国であり、西欧の思惑を無視できるほど強くはないです。チェチェン紛争にしても、第一次、第二次紛争を通じ、民間人に対する無差別空爆はジェノサイド(大量虐殺、戦争犯罪)として強い批判を浴びていますし、ロシア軍統治下におけるチェチェン人への人権問題も数多く指摘されています(2005年には欧州人権裁判所で、ロシアはチェチェン民間人被害に賠償を命じられている)。また、チェチェン政策を批判していた女性ジャーナリストが暗殺されたことも、プーチン政権への批判を増やしています。

 しかし、プーチンとしてはヘタに和平交渉のテーブルについたら、国際世論の手前何らかの譲歩をしなければならなくなり、石油パイプライン死守の目的や国内人気の維持などから、いずれにしても楽しい話になりそうもない。このまま力任せに傀儡政権を続けていって、チェチェンの経済復興を進め、平和な生活を求める一般市民の支持を得ていった方がいいでしょう。実際、チェチェンに暮らしているチェチェン人からしたら、10年以上続いている戦乱に倦み疲れて、ロシアでもチェチェンでもなんでもいいから平穏に暮らしたいという人間として当然の要求も強いわけですし、傀儡政権といいながらもそれなりにチェチェン人の支持もついてきている。ムチの後には飴を与えれば何とか収まると。ここで、旧悪をほじくり返すような交渉をしたくないなーってのが本音だと思うのですよ。この紛争では20万人ものチェチェン人が犠牲になっており、叩けばホコリの出る身体なんだし。だから、一貫して和平交渉を求めるマスハドフが邪魔になると。

 しかもマスハドフが言ってるのは正論なので、世界的にも注目を浴びるし、ロシア国内でもそれに呼応する声もあるわけです。2005年2月には、マスハドフの委任を受けたザカーエフ文化相と、ロシア兵士の母親達のNGOの代表が、ロンドンにある欧州議会代表部で会談し、「チェチェン戦争に軍事的解決はありえない」と書かれた合意文書「チェチェンにおける平和への道」が採択されています。敵国の指名手配されている首謀と、自分の軍の兵隊のお母さん達が「戦争はやめよう」と話し合ってるわけです。美しい話です。国際世論が注目します。世界的に市民団体が益々批判を強めるでしょう。このまま放置していたらマスハドフを黙殺しているプーチンの立場はどんどん悪くなります。でもって、殺しちゃえと。この会談の翌月である05年3月、ロシアの連邦保安庁(FSB=KGBの後身)は、同庁の特殊部隊がマスハドフを殺害したことを発表しています。もう「暗殺」ですらないです。まあ、ロシアの法的根拠で言えば、最初から指名手配しているんだからいいんだってことになるんでしょうが。

 しかし和平派のマスハドフの死によって、チェチェン紛争の対話による終結の希望は途絶えます。なんせ後に残るは急進派のバサエフであり、ロシアのプーチンであり、どっちもイケイケですから泥沼化するのは目に見えていますし、現に泥沼化しました。

 最新ニュースでは、つい数日前、つまり2009年4月16日のニュースによれば、ロシア政府は正式にチェチェンにおける対テロ掃討戦の終結を宣言し、ここに第二次チェチェン紛争は公式に終結しました。ロシアの傀儡政権であるラムザン・カディロフ政権が安定したことを意味すると同時に、ロシア軍の駐留費用が重荷になってきているという切ない理由もあるようです。なにしろ昨年からの原油価格下落と世界経済危機でロシアも苦しいですから。

 でも、よーく調べてみたらロシア政府の「チェチェン対テロ作戦の終了」宣言は、実は2001年にもやってるのですね。それにロシアが一方的に終了宣言をしても、山岳地帯を根城にしたゲリラ攻撃は未だに活動をしています。だから今回の終結宣言も単に「言ってみただけ」という色あいが多分に強い。じゃあなんで言うの?というと、プーチンの後継者であるメドベージェフ大統領が先月オバマ新大統領と面会したり、来月(5月)にプーチンが日本を訪問するなど、外交を展開するにあたり行く先々でチェチェン問題を突っ込まれるのが鬱陶しかったのかもしれません。だから「もう終わったことにしたい」という感じでしょうかね。

 一方、ロシア&プーチンの虎の威を借る傀儡カディロフ政権の強権独裁ぶりには、既に西欧の人権団体などから強い非難が寄せられており、敵対する者を暗殺したり、独立派武装の家族の家を順次に放火して廻ったりという行動にでているようです。もともとカディロフ(父)政権以降、チェチェン民衆からの支持を得た政権ではなく傀儡政権ですから、強権的に統治しなければならないという事情があります。そのうえで、ロシア中央から寄せられる援助をもとに経済復興をして市民の支持を得るようにしていかねばならないのですが、競馬が趣味で馬主でもあるボンボン二世大統領のラムザンがどれだけチェチェン市民の信望を集めきれるか、怪しい部分はあります。



 さて、これだけではチェチェン問題の半分しか書いてないも同然です。なぜなら、何かと一枚噛みたがるあのアメリカの動静を何も書いてませんし、すぐご近所で行われたイラク、アフガン戦争との関連も触れていません。また、911以降の対テロ戦争との流れも書いていません。

 チェチェン問題が難しいと思ったのは、単に「大国ロシアが小国チェチェンをイジメてます」という分かりやすい話では終わらないことです。これだけだったら、世界世論、特に人権系の市民団体やNGO達はプーチン悪VSチェチェン善という分かりやすい図式を描けたでしょう。しかし、バサエフら急進独立派のテロ攻撃はかなり熾烈に行われており、さまざまな占拠事件などで人質も百人単位で犠牲になっています。この点からすれば、完全にテロリスト・バサエフが悪です。特に911テロ以降の世界的な反テロの動きにおいては、チェチェン側が悪党呼ばわりされる構図もよく見受けられたし、残虐なテロリストとして報道されるケースも多かったです。つまり、大国エゴという悪と、小国のテロという悪の、悪対悪の構図になってしまい、単純な世界観では理解できない状況になっているわけです。

 しかも、対テロ戦争の盛り上がりは、イラクやアフガンが長期化し、次第にその茶番性や欺瞞性が知れ渡るにつれ、低下していきます。ブッシュ政権末期ではアメリカ歴代でも最低の支持率にまで落ち込み、イラク視察をしたブッシュ大統領に靴を投げつけた記者に世界が拍手喝采するようなところまで行き着きます。そして世界経済危機がきて、そしてオバマによる新しいアメリカになったわけで、チェチェン問題は二重にも三重にもツイストがかかるようになり、そこへもってきて今度はお隣のグルジアが燃えあがったという、なんだかよく分からない展開になっているわけです。そのあたりを次回に書きます。



過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2)  中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞  ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
ESSAY 395/世界史から現代社会へ(その59) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
ESSAY 396/世界史から現代社会へ(その60) インド(2) ヒンドゥー教 VS イスラム教の対立 〜なぜ1000年間なかった対立が急に起きるようになったのか?
ESSAY 397/世界史から現代社会へ(その61) インド(3) 独立後のインドの歩み 〜80年代の袋小路まで
ESSAY 398/世界史から現代社会へ(その62) インド(4) インド経済の現在
ESSAY 399/世界史から現代社会へ(その63) インド(5) 日本との関係ほか、インドについてのあれこれ
ESSAY 401/世界史から現代社会へ(その64) パキスタン
ESSAY 402/世界史から現代社会へ(その65) バングラデシュ
ESSAY 403/世界史から現代社会へ(その66) スリランカ
ESSAY 404/世界史から現代社会へ(その67) アフガニスタン
ESSAY 405/世界史から現代社会へ(その68) シルクロードの国々・中央アジア〜カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギスタン、タジキスタン
ESSAY 406/世界史から現代社会へ(その69) 現代ロシア(1)  混沌と腐敗の90年代と新興財閥オリガルヒ
ESSAY 407/世界史から現代社会へ(その70) 現代ロシア(2)  発展の2000年代とプーチン大統領


文責:田村




★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ