今週の1枚(07.09.24)
ESSAY 329 : キリスト教について(その3) 〜新約聖書の”謎”
写真は、Coogee。イースタンサバーブの海辺近くは、これから絶好のシーズンを迎えるのですが、鬼のような坂が多いのがタマにキズです。坂ばかりのシドニーのなかでもひときわキツいエリアです。
先々週、先週にひき続いてシリーズ化しているキリスト教についてです。
前回はイエスの死後、あちこちでイジメられていたキリスト教団が、最終的に380年にローマ帝国で国教として認められるところまで書きました。
この期間、つまり紀元30年頃から300年ちょっとの間に、キリスト教というものが社会に浸透し、ローマ帝国とタメに交渉できるくらいまでの影響力を持ったわけですが、同時に「キリスト教とは何か?」という教義が整っていく期間でもあります。
そこで、今週は、「これがキリスト教だ!」というキリスト教解説の定番本=すなわち「新約聖書」ですが、その謎を考えてみたいと思います。
「新約聖書の謎」といっても、Q資料がどうしたとか史実的にどうとかいう話ではなく、非常に原始的な謎、あまりにも当たり前なので誰も「謎」とすら思わないようなことです。何かというと、「なんであんな聖書なんか作ったのか?」「あれだけ迫害され、各地を放浪していたのに何で聖書編纂なんてことが出来たのか?」「どうしてそんな気になったのか?」という点です。で、予めお断りしておきますが、このエッセイを最後まで読んでもこの謎は解かれません。「不思議だ」といって終わりますから、よろしく(^_^)。
要するに、そういったことを「謎」だと感じる部分にこそ意味があるということです。
キリスト教は、イエスが出現し、産声を上げたかあげないかというところでいきなり教祖イエスが殺されてしまうという、ものすごいスタートを切っています。「キリスト教とは何か」をゆっくり考えて育むどころか、イエス本人や周囲も単なる「ユダヤ教の新興宗派」くらいの認識しかない段階で中核的な教祖を失うわけです。パソコンでいえば、再起動をかけて立上がりかけたところで、コンセントを引っこ抜かれて強制的に電源を切られたようなものでしょう。
しかし書いてて思うのですが、「よく、まあ、これで潰されずに残っていたな」って。
すごいですよ、これ。だって、そうでしょう?史実によればイエスの実際の布教期間というのは1年ないし3年という極めて短い期間です。これだけの期間があれば、それは確かに既成宗教の中に新興の改革派閥を作るくらいのことはできるでしょう。しかし、母体から離れた別個独立の教団や教理体系を育むだけの時間はない。しかも始まってからわずか数年で教祖を公的に処刑されるわけですし、周囲の弟子達に対する社会的迫害も強かったでしょう。つまり出来たか出来ないかというホヤホヤの新興勢力だったわけで、普通、こういう団体はリーダーを潰して、周囲のフォロワーに圧力をかけたら雲散霧消するもんです。
って、まだ分かりにくいかもしれないので、例を挙げます。地下鉄サリンのオウム真理教を思い出して欲しいのですが、リーダーが反社会的だといって公的に処刑されるという点ではキリスト教もオウムも事情は同じです(ところで麻原被告の死刑判決は確定していた筈=執行はまだのようですが)。イエス様を麻原と同じ扱いにするな!と反発を浴びそうだけど、その教義や人物、行動が正しかったとか、偉かったかという評価は、時代により人により全然違う。今だって、西洋社会からは極悪人のテロと呼ばれる行為が、イスラム社会の一部では英雄と呼ばれているわけで、評価なんかものすごく相対的なものです。大事なのは「新興勢力の教祖が公的に処刑された」という点にあり、そういう集団が社会でどれだけの扱いをうけていたか?です。イエス亡き後の教団が一体どれだけの社会的プレッシャーを受けていたかといえば、今日のオウムを考えてみれば何となく想像がつくと思います。ちなみに、今オウムはどうなっているのかというと、アーレフになり、古参幹部と対立した上祐氏は「ひかりの輪」を主宰しているらしいです。
教祖処刑のあと、残った信者が細々と活動を続け、分派が起き、、、という点では、今のオウムも当時のキリスト教も似たようなものだったと思います。いや、今日のオウム以上に状況はハードだったかもしれない。オウム真理教が旗揚げしたのは1984年、サリン事件が95年ですから10年以上布教期間はあったわけだし、十分に信者も団体も巨大になっていた。でも、イエスの場合は1−3年に過ぎない。また、イエスの死後30年ほどの間に、中核メンバーであるペテロもヤコブもパウロも全員死刑になってしまいます。オウムの後継者が今後30年の間死刑になるかどうかはわかりませんが、イエスとその後の教団を取り巻く環境はかなり厳しかったということが分かると思います。
キリスト教は、そのようなハードな地点から出発し、2000年間生き延び、地球最大の規模を誇る宗教にまで発展しています。当時も今も、毎年無数の新興宗教が生まれ、そして消えていっているのでしょうが、なぜキリスト教だけがここまで巨大になれたのか?については、僕もよく分かりません。多分に時代背景や、さまざまな偶然が働いたのでしょう。ただ、幾ら運が良かったとか、巡り巡った歴史の偶然があったとしても、元となる部分がショボかったらこうはならなかったでしょう。つまり、イエス・キリスト本人のカリスマ性が大したことなかったら、周囲の弟子達も命がけで布教なんかしなかったでしょう。また、イエス本人が語っていた言葉も、将来世界宗教になりうるだけの普遍的なスケールがあったのだろうと推察します。
さて、キリスト教の中身の方ですが、先に述べたようにいきなリーダーを殺されていますから、まさにパソコンの強制切断によってハードディスクがクラッシュしたようなものです。データーがぶっ飛んでしまったハードディスから、データーの破片を拾い出してジグソーパズル的につなぎ合わせるような地道な作業が、イエスの死後数百年行われることになります。各地に散っていった直近の弟子達がイエスの言葉を伝えていくわけですが、その文献の集大成が新約聖書になっていきます。
新約聖書の編成は、
@福音書〜イエスの生涯、死と復活の記録(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)
A歴史書〜イエスの死後の初代教会の歴史(使徒言行録)
B書簡(パウロ書簡、公同書簡)
Cその他(黙示録、外典)
となっているそうです。
@は、イエス本人のバイオグラフィー、言行録であり、キリスト教の基本書のようなものでしょう。イエスの死後から50、60年の間に書かれたものらしいです。Aが
イエスの死後の伝道の記録。Bは補助論文みたいなものでしょう。
聖書というのは、これは旧約も新約もそうですが、あちこちの文章の寄せ集めです。今日の出版事業のように、最初に企画会議があり、「そうだ、聖書を作ろう」と衆議一決し、「聖書作成委員会」プロジェクトチームが組まれ、さらにコンセプトが練られ、それぞれの章につき執筆者が決められ、「せーの」で執筆、編集されたものではありません。イエスの死後、それでも地道に布教を続ける人達が、「イエスというのはこういう人だったのだ」「こういうことが言いたかったのだ」「こういうことがあった」ということを伝えるため、頑張って文章を残していったのでしょう。秀逸な作品はそのエリアや集団において教科書化していったと思われ、そのようなテキストが広くあちこちに散在していたのでしょう。
福音書は、伝承によるとマタイやマルコなどイエスの弟子やその関係者が書いたものということになってますが、実際にはマタイやマルコが執筆したかどうかは分からないそうです。誰が書いたにせよ、いずれにせよ多くの人々が関係していることに変わりはありません。名が知られている人、名もない人、それぞれにイエスやキリスト教に関する理解や考察を書き続け、書き連ね、それらの著作が一滴一滴溜まって、キリスト教の骨格が出来上がっていったのでしょう。
さらに、今度は数あるテキストの中からどれを聖典にするかという、「選ぶ」作業が必要になっていきます。これも大変な作業だと思います。考えただけで気が遠くなりそうですが、長い年月をかけて「これは外せないだろう」という重要文献を抜き出して、新約聖書という一大文献集として成立していきます。新約聖書が編集されたのは2世紀(西暦100年代)だと言いますが、最終的に「これで決定版」となったのは397年らしいです。
「始まったと思ったらいきなり大弾圧を受けた宗教」としてのキリスト教ですが、だいたいイエスの死後300年ほどして、政治的にも教義的にもほぼ形が出来あがってくると言われています。特に西暦300年代というのはキリスト教にとってエポックメイキングな世紀で、313年ミラノ勅令でキリスト教の公認、325年ニカイア公会議で教義の統一、380年国教化、392年キリスト教以外の異教禁止、397年新約聖書の成立と続きます。
ところで、キリスト教には「公会議」というものがあり、歴史上何度も行われています。世界中の主立った宗派の代表がサミットを開き、教義内容について討論し、決議をするわけです。上記の325年のニカイア公会議のあと、第1コンスタンティノポリス公会議、エフェソス公会議、カルケドン公会議、第2コンスタンティノポリス公会議、第3コンスタンティノポリス公会議、第2ニカイア公会議、第4コンスタンティノポリス公会議、第1ラテラン公会議、第2ラテラン公会議、第3ラテラン公会議、第4ラテラン公会議、第1リヨン公会議、第2リヨン公会議、ヴィエンヌ公会議、コンスタンツ公会議、バーゼル公会議、フィレンツェ公会議、第5ラテラン公会議、トリエント公会議、第1バチカン公会議、第2バチカン公会議、、、、という具合に、延々やり続けています。
このあたり不思議なんですね。「よく、まあ、飽きもせず、、」というと不謹慎と言われるかもしれないけど、本当に良く会議をしますね。キリスト教というのは、不思議な宗教で、この求心力はどこから来るのだろう?と思ってしまいます。
他の宗教はどうなっているかですが、仏教やイスラム教は教祖が長生きしますし、教祖存命中に教団の中身もかなりしっかりしています。イスラム教は、7世紀にムハマンド(マホメット)という教祖が出てきて始まりますが、このムハマンドは宗教の教祖というよりは戦国大名みたいなもので、数万の軍勢を率い、存命中にアラビア半島を統一してしまいます。キリストや釈迦が放浪と布教の人生を過ごし、社会的身分としてはイチ宗教者、宗教を外してみたらただの庶民というかプータロー状態だったのに対し、ムハマンドのストーリーは宗教者のそれというよりは三国志の曹操みたいなものです。初代がこれだけ頑張ってくれたら、あとはやりやすいですよね。
仏教の場合、釈迦の死後、残された弟子達が釈迦の言葉を集める作業を行います。が、死後100年で上座部と大衆部に分裂し、さらにそれらが又細分し、時代が下るにつれどんどん細分化していき、キリスト教のように「せーの」で代表が集まるようなサミットが持たれたような感じはないです。もっとも、仏教というのは紀元前500年頃に起きてますからその歴史は2500年。キリスト教の2000年より500年古いし、イスラム教の1300年に比べれば倍くらい長いです。これだけ長い時間たっていたら、そりゃ細分化するのも無理はないですし、はるか古代に教典を残す記録や印刷技術があったのかという問題もあるでしょう。それでも、釈迦は80歳まで長生きしたようですから、存命中に十分に教義・教団の基礎を作ることは出来たのでしょう。
一方、宗教ではありませんが儒教の孔子の場合は、そもそもが学者さんですし、この人も長命だし、また天下の秀才達が弟子についてましたから、教祖の教えは比較的原型をとどめて伝えられていると思います。
その他、日本の神道や、中国の道教のように、教祖が誰なのかわからない宗教も沢山あります。こういう宗教は、その民族において古くから信じられていた世界観そのものですから、教祖が出てきてユニークな考えを皆に広めるという過程がなく、それだけに安定しており、教祖がコケたら即消滅というリスクもまた無いです。
こうして比べてみると、始めたとたんに教祖が殺されちゃった宗教なんか、そうそう滅多にあるものではない。あったとしても、普通、その時点でその宗教は終わりでしょう。宗教に限らず何でもそうですが、人間集団の活動法則として、立ち上げ期間はリーダーのカリスマ性が推進エンジンになっているから、ここが壊れたら失速するか、続いたとしてももう内容的には全然違ったものになっていくでしょう。それは、ホリエモン逮捕後のライブドアみたいなものです。
しかし、キリスト教の場合は、そこで終わらなかったというところが、僕には興味深いのですね。
そして、仏教のように世界各地に散り散りバラバラになっていくかというと、そうもなっていない。確かに弟子達は砂漠の地に散っていき、各地で布教を続けたけど、「キリスト教の一族」というアイデンティティは強固にあるし、そこからあまりブレていかないです。そして、何度も何度も公会議を行って教義の統一解釈をしようとしている。それも初期だけの話ではなく、20世紀にもやってる。
僕が何に感心しているとか、もう一回整理しますね。
キリスト教というのは、
@.教祖による初動立ち上げ期間が極端に短いこと
A.異民族に布教していく過程で、どんどんフレキシブルになっていく
B.強力なアイデンティティを保てるような厳しい戒律、民族やエリア的シバリが何もかかっておらず、教義内容そのものは抽象的普遍的
C.弟子達など第二世代の活動が実際上のメインになるが、そうなると各地で勝手にバラバラに発展しそうなものだけど、そうならない
D.20世紀になってもまだ公会議をやっている
といった特徴があります。@〜Bの条件からしたら、とっくの昔に消滅するか、あるいは無限のバリエーションとともに原型をとどめなくなっていても良さそうなのに、CDのように、強力な求心力をもって統合していこうとします。それは一体何故なのか?です。
もっとも、キリスト教がローマ帝国の国教となり世俗権力とリンクしていった後の動き=公会議を開き、正統性についての共通認識を協議しようとする試みについては、比較的理解可能の部分もあると思います。
例えば、キリスト教は歴史上大きく5回分裂していると言われていますが、その多くは公会議での正統/異端の取り決めの上でそうなっています。すなわち--
@一回目の分裂は、何度も出ている325年のニカイア公会議で、アタナシウス派のキリストの両性(神性・人性)が正統教義とされたため、キリストの人性を主張したアリウス派が異端とされました。
A二回目は431年のエフェソス公会議で、ここでネストリウス派は異端とされます。ネストリウス派はキリストの両性は認めるのですが、神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否してます。
B第三回目は451年のカルケドン公会議で、単性論が排斥され、両性説といわれる説を採用しています。キリストの人性は神性に吸収されてしまったのではなく、その二つの本性を混合することも分かれることもなく、唯一の位格の中に有するという思想です。
C第四回目は、1054年にローマ教皇とコンスタンティンポリス世界総主教が互いに破門しあって、東西教会の大分裂(大シスマ)します。教義的には、東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したことに起因する(フィリオクェ問題)。
D第五回目は、16世紀に起こった西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生のときです。
細かい教義上の内容は僕もよく分かりません。特に@〜Cは、素人考えからしたら、「そんなこと、どっちでもいーじゃん」って思えるようなことでもあります。というか、何がどう対立しているのかすらもよく理解できません。
しかし、形式的には「教義上の対立」ということになっていますが、その背景にあるのは、もっと生々しい政治的、文化的実質なのだと思います。教義上の対立でありつつも、同時に政治的な対立でもあり、集団内部の権力闘争という側面もあったのでしょう。「理解可能」というのはそういう意味です。
@ABと続いてきて、異端とされた宗派が正統キリスト教から追い出されていきます。外されたアリウス派(@)、ネストリウス派-アッシリア正教会(A)、単性論派(B)ですが、これらを総称して東方諸教会というようで、長い歴史の中で消滅したものもありますし、今なお残っているものもあります。もっぱらヨーロッパ以外の諸国で頑張っているようです。次のCで東西が分離しますが、@ABときてCになる流れは、「東の方からどんどん切り捨てられていく」流れでもあります。逆に言えば、中東で発生したキリスト教ですが、時代の流れとともに、その活動の重心がギリシャ、ローマとどんどん西に向かっていっているということでもあります。
キリスト教が西に広がっていく過程で、ギリシアを通り、ローマに行きます。文化圏でいえばギリシャ語文化圏とラテン語(ローマ)文化圏です。ギリシャといえば、ソクラテスやプラトンといった哲学者の名前を思い浮かべますが、彼らが活躍してたのは紀元前5世紀です。なんせキリスト教成立の数百年前から哲学的なことを語り合ってた連中ですからねー、抽象的な概念操作や論理構築はお手の物でしょう。おそらくキリスト教もギリシャ文化圏を通過するときにこの影響を受けたと思われます。実際、キリスト教成立初期の古代神学は、東方のギリシャ教父(ギリシャ語で著述をした神学者)達から始まっているそうです。前々回のエッセイで、三位一体について、ヘレニズム(ギリシャ)文化のストア哲学の影響を受けたロゴス概念の話をしましたが、これもそういう流れで理解出来るのだと思います。このギリシャの古典がさらにローマ帝国の学者達に影響を与え、ローマ教父のアウグスティヌスという「西洋の教師」と呼ばれる知的巨人に受け継がれていったらしいです。
あ、ギリシャ教父とかギリシャ文化圏とかいっても、今のギリシャの位置だけではなく、もっともっと広かったようです。ギリシア教父たちの活動は、エジプトのアレクサンドレイア、今のトルコの中にあるカッパドキア地方、シリア、エルサレム、東ローマ帝国のコンスタンティノポリスなどであり、これがギリシャ語文化圏だったのでしょう。かなり強力な文化圏だと思います。
僕もこのあたりの詳しいことはよく知りませんが、キリスト教が広がっていく過程で、古来から論理と言語の職人集団とも呼ぶべきギリシア〜ローマの学者達に取り上げられることで、キリスト教の精緻な神学体系が形作られていったのだと思います。だって異様にマニアックだし、単に「信仰が広がる」といった感じじゃないです。もう学会の論争みたいな感じで話が進んでいきますもんね。だいたい「三位一体」なんて発想が出てくるところが「素人の仕事」じゃないですよ。
そういったアカデミックのノリがあったからこそ、教義に関する先鋭な対立が生じたり、どっちも引くに引けなくなったりして、公会議というものが開かれるようになったのでしょう。単に砂漠の上をジプシー的に伝承されていくだけだったら、ここまでアカデミックな論理体系にならないだろうし、論争や学会もまた開かれなかったでしょう。
しかし、そういったアカデミック趣味が底流にあったとはいえ、単にクリーンな学術的な争いだけではなかったのでしょう。大体、今の大学の中だって、「白い巨塔」的な学内政治のアレコレがあるわけですし、人間のやってることなんかここ1万年何も変っていないでしょうから当時にだってあったのでしょう。
また、第一回のニカイア公会議ですが、これはローマ皇帝の肝いりで開催されてますが、大体なんで信仰もしていないローマ皇帝が出てくるのよ?という疑問があります。これは前回述べたように落ち目のローマ帝国がキリスト教信徒の力を借りたいという政治的打算があったからです。力を借りたい当のキリスト教団内部が対立抗争状態にあったら、一致団結してローマ帝国を支えてくれないですもんね。だから、皇帝自ら「じゃあ、皆で話し合って決めよう」なんて呼びかけたりしてるわけです。
また、431年のエフェソス公会議もかなり政治的な会議だったらしく、コンスタンティノープル総主教であるネストリオス自身が異端のレッテルを貼られて追放されてしまうわけです。身の危険を感じたネストリオスが議場に入れないでいる隙に、反対勢力のキュリロス一派が議事を誘導してネストリオスを排斥したというのだから、かなりエグいというか、まあ、クーデターみたいなものだったのでしょう。
Cの東と西との分裂=大シスマは、これはもうヨーロッパの社会文化の母体が、東ローマ帝国(ビザンチン文化)と西(神聖ローマ)とに分かれていったという絶対的な基底条件があったのでしょう。それぞれギリシア語圏とラテン語圏に分かれ、東のコンスタンティノポリス総主教庁VS西のローマ教皇庁は、遅かれ早かれタモトを分かつことになったのでしょう。1054年に東方正教会とローマ・カトリック教会に分裂します。
このように、キリスト教が政治権力とリンクしたり、それ自体巨大な存在になってからのことは、一種の政治力学、人間集団の社会力学として理解する余地は十分にあります。だからまだ分かりやすいし、「謎」ではないです。
しかし、分からんのは、最初の300年です。
弾圧され、差別され、イジメられていた時期においても、各地に分散していた教徒達が執筆活動をし、その文書が流通し、最後に新訳聖書という形で完成されていくわけですよね。この期間というのは、キリスト教やっててもそんなに世俗的に「イイコト」は無かった時代です。
政治権力と手を握ったり、教団自体が巨大になれば、世俗的なメリットは十分にありますし、誰が正統か(誰が権力の椅子に座るか)を巡って争いになるというのも分かります。しかし、キリスト教徒だといったら処刑されるかもしれないという段階で、散り散りバラバラになっているにも関わらず、統合していこうという動きがあり、それが成功しているというのは、やっぱり凄いことだと思います。なんでそうなったのだろうか?と。
いや、宗教的確信のある人は弾圧や殉教を恐れないかもしれません。また、教祖の死後、布教に努める弟子達が教祖の言行録を書くことも珍しいことではないでしょう。しかし、弾圧が厳しくなれば、日本の隠れキリシタンのように地下に密行し、他のキリスト教組織と連絡を取るということは難しかったのではないと思われます。無理ではないけど困難は伴ったでしょう。また、殉教の喜びというのは、教団や教義が揺るぎなく明確で強く感じられてこそ生じやすく、キリスト教が大教団化する前、それも昨日今日信徒になったような人に命がけであれと要求するのは無理でしょう。さらに、大教団になる前、各地でそれぞれに布教をしていた段階においては、情熱が深ければ深いほど自分のオリジナリティが出てしまい、自分の考えを言うような感じになってでしょう。そうなってくると、それぞれがお山の大将になりがちであり、遠く離れた他の教団と教義の統一のために努力するという心情は生じにくくなるような気がします。
一旦巨大なまとまりのある教団になってしまえば、その後は比較的楽で、殉教者も出ようし、相互の意思疎通も図りやすいでしょう。しかし、始ったかどうかという時点で空中分解し、ホウセンカの種のように頼りなげに砂漠に散っていった段階では、その後布教を続け延命しようとも、それぞれが「○○流キリスト教」と諸分派を名乗り独立成長したり、あるいは自らが「○○教」を新たに創始しても不思議ではないでしょう。なんせ交通機関といえばラクダと徒歩、マスコミもメディアもなく、電話も郵便もインターネットもない時代に、はるか数百キロ離れた地点で細々と布教を続ける同士達とどうやって連絡を取り、そして自分の功名心や自我を殺してキリスト教であるという同一性を保持し続けられたのか、それが凄いと思うのです。
そのような原始的な段階で、砂漠に点在する彼らを束ねる共通点はたった一つ、イエス・キリストという一人の男に関する物語であるという点だけです。逆に言えば、キリストという人間には、あるいは彼の生きざま(死にざま)は、それだけの強烈なインパクトがあったということでしょう。確かにキリストは十字架にかけられて印象的な最後を遂げましたが、殉教したという点では後の多数の使徒や信者も同じです。もっとむごたらしく殺された人も多い。それなのに、パウロ教とかペテロ教にはならずに終始一貫キリスト教のままであり、その一点だけは2000年間小揺るぎもしていません。
それは一体何故なのか?というのが、今回の問いかけである「謎」です。
キリスト教に関する資料をパラパラと読みあさっていて、ふと「ああ、そうかも」とヒントらしきものが浮かんだのですが、もしかしてキリスト教というのは、イエスキリストの語った教えを伝える宗教ではないんじゃないか?という気がしてきました。そうじゃなくて、イエスキリストという一人の男性の壮絶な人生と死について「あれはどういう意味だったのか?」を皆で考え続ける宗教なのではないかと。
リンゴが木から落ちるのを見てニュートンは万有引力を発見したといいます。それと同じように、もしかしてイエス・キリストは「リンゴ」であり、「リンゴが落ちた」=「キリストが十字架に架けられた」という現象の意味を考えるのがキリスト教なのではないか。つまり、「キリストが説いた宗教」ではなく、彼が説いた言葉も何もかもひっくるめて「イエス・キリストという現象を考える宗教」なのかな、と。
なぜって、彼の死にはもの凄い大きな人類的な意味があります。キリストは全人類の代りに贖罪をしたことになってます。キリスト一人が犠牲になることで、全人類の原罪は償われた。およそ一人の人間の死に、これほどまでに巨大な意味をおっかぶせるのは何故なのか?です。
単にキリストが説いた「教え」という抽象的な情報だけだったら、後世の連中が幾らでもヴァージョンアップできますし、独自に改良を加え全く新しい宗教として売り出すことも可能です。しかし、「イエスキリストという”現象”の意味」という問題の立て方をされてしまうと、これは全人類に開かれたオープンクエスチョンになり、いくら時代が下ろうとも、どれだけ多くの人々が参加しようとも、原点はブレずに永遠に残り続けるでしょう。
イスラム教はマホメットが唱えた真理や戒律を守ることで成り立つ宗教であり、仏教は釈迦の説いた哲学原理を考える宗教です。もちろん宗教共通の特徴として、教祖自体も神格視されたりはしますが、「マホメットとは何者か」「釈迦とは何か」という形でその宗教の根本命題にはなることはないです。でも、キリスト教は、明確にそういう形で提示されているわけではないでしょうが、キリストが色々語ったことも重要なんだろうけど、そもそも「キリストとは何だったのか」の方がもっと重要なのでしょう。だからこそ、あれは神そのものだ、いや神の子だ、いや神半分の人間半分だという神学論争にもなるのでしょう。
中心テーマ、根本命題が、イエス・キリストその人そのものであるから、キリスト教というのは、2000年の長きにわたって拡散せずに求心力を持ち続けているのかもしれませんし、正統だ異端だという神学論争や公会議が絶えないのでしょうし、新約聖書も頑張って作ろうかっていう気になったのかもしれません。もっとも、これだって仮説とすら呼べない思いつきに過ぎません。”かもね?”"could be"程度の話で、依然として「謎」であることに変りはないです。
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ