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今週の1枚(08.10.20)






ECSC→EEC→EC→EU

     第二次大戦の後は米ソの東西冷戦体制になっていきますが、同時にヨーロッパの存在は相対的に軽くなります。キリスト教の発生やローマ帝国から、ナポレオン、そして二つの世界大戦と欧州は世界史の重要なパートを占め、特にルネサンス以降の大航海時代、植民地、帝国主義と続く流れにおいて欧州が世界史をリードしてきたと言ってよいでしょう。

     ところが第一次世界大戦後からアメリカとソ連という巨大な新興国家が力を付け始め、第二次大戦後になると完全に時代の主役は米ソにもっていかれてしまいます。米ソ対立構造の煽りを食って、ヨーロッパは東西に分かれ、西ヨーロッパはNATO軍を組織してアメリカの賛助機関のごとく成り下がり、東欧はソ連の衛星国になってしまいます。要はアメリカかソ連の”子分のような存在”になったということです。

     ところで、第一次、二次大戦後に米ソが中心になっていったのは、一つには二つの大戦がヨーロッパを舞台に行われたからです。第一次大戦の西部戦線、第二次大戦のナチスの侵略によって、欧州は徹底的に荒廃し、経済力も底をつきます。一方ソ連は、モスクワあたりまでソ連領土でドイツと戦ってますが、その程度ですし、アメリカにいたっては領土を破壊されたのはハワイの真珠湾くらいでしょう。だから国内は殆ど無傷で温存できている。この差が国力の差になり、戦後世界のパワーリーダーの地位を支えます。ゆえに欧州復権を目指すならば、なにがなんでも国力回復、そのためには経済成長ということなのですね。

     もう一点付言するに、帝国主義時代のツケと言ってしまえばそれまでですが、世界各地の植民地を収奪して富を蓄えてきた欧州(特に英仏)ですが、戦後の独立ブームでどんどん植民地を失います。これだけもヘビーなマイナスです。なんとかその流れに逆らおうとして、フランスはインドシナ戦争を起こすわけですが、全然うまくいかず途中でアメリカにバトンタッチし、お鉢を継いだアメリカがベトナム戦争でまた散々な目にあうというのは前回述べました。フランスとイギリスは「これだけは譲れない」と頑張ったエジプトのスエズ運河の利権確保も、エジプトのナセル大統領にしてやられてしまうのも既に書きました。イギリス最後の砦である香港も、サッチャー・ケ小平会談で返還ということで、18-19世紀の構築した世界制覇システムもパーになります。それどころか、過去の経緯で多くの移民を迎え入れねばならなくなり、これが本国における移民問題、失業問題、さらに差別、治安という頭の痛い問題を引き起こしています。

     一言でいえば「時代が変わった」わけです。軍艦で他国に乗り付けてせっせと収奪するという大航海時代以来のシステムが完全に崩壊してしまった以上、ヨーロッパはその繁栄の基礎を失い、またルネサンス以前の欧州地方のローカル中小企業状態に逆戻りです。
     


    このような低落傾向を、かつて世界史を創ったというプライドの高いヨーロピアンが納得できるわけがなく、何とかして復権を目指す試みが行われます。それが欧州統合の試みです。

     まず、1952年にヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)というものが出来ます。フランスと西ドイツが手を組んで、石炭や鉄鋼を共同管理するシステムで、これにベネルクス3国とイタリアが加わり、計6カ国で始まります。とりあえずは、鉄鋼と石炭に関して、国境を越えた共同市場を創ろうという営みですね。これをベースにして、1957年にはローマ条約を締結し、ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM、ユーラトム)を結成します。

     欧州の統合と一口でいっても、経済、政治、警察・司法、軍備、、、国家が司る機能は山ほどあり、話し合いでそれらを統合するというのは気が遠くなるようなステップがあります。まずはやりやすいところから始めて、徐々に広げていこうということですね。ユートラムは原子力資源というまだ対象が限定しているからやりやすいとは思いますが、EEC=経済共同体に関しては範囲が広い。関税や貿易席源の撤廃、外部への共通関税、財貨サービス移転の自由化による単一市場化です。

     これがどれだけとんでもない試みかといえば、例えば、日本とご近所の韓国中国と同じことをやろうとしたら、中国韓国の製品が無関税でドドドと流れ込んでくるだけではなく、労働者も無制限になだれ込んでくるということです。また共通の農業・工業政策を実施するので、日本の米作はコストが高くて割に合わないので全廃しちゃいましょうなんてこともアリなわけです。コメなどの農産物の輸入一つで暴動並に反対が起きる日韓の国情を考えれば、到底不可能な政策なのですが、ヨーロッパはそれをやってのけます。まあ、西欧はお互い先進国同士だからアジアとは情勢が違うとはいえ、農産物なんかかなり国別に違いがあるわけで、実現には相当苦労したようです。しかし、苦労しただけのことはあって、独仏尹の経済成長はめざましいものがあります。


     1965年のブリュッセル条約により、EEC、EURATOMそれと元祖であるECSCの3組織が一本化され、1967年にはいよいよヨーロッパ共同体(EC)が発足します。



     ところがこういったフランス、ドイツ中心のヨーロッパの動きに最初イギリスはソッポを向いてます。80年代にサッチャーが出てくるまで、イギリスは「七つの海を支配した大英帝国」という過去の栄光に縛られ、プライドばかりが高いというヘナチョコ状態になり、その長期ダメダメ状態を指して「英国病」とすら言われたりします。そのダメさ加減によって将来に絶望したイギリスの若者がパンクロックを始めて、それが結局外貨獲得に役に立っているという皮肉な状態になったりして。

     「ふん、キミらとはやらないよ!」とEEC加盟を蹴ったイギリスは、自分で北欧諸国やオーストリア、スイス、ポルトガルなど「残りの西欧諸国」と一緒になってヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を結成します(1959年)。もっとも、これは単にイギリスがひねくれているだけではなく、実際上の懸念もあります。イギリスの産業は全般的にダメなのですが、ビートルズ以来の音楽産業以外にもう一つ世界に誇れる水準のものがあります。金融です。ロンドン市場の存在感は、他の欧州が束になってかかってもかなわないだけの規模を誇り、これがイギリスを支えていると言ってもいいです。それが欧州統合になって、なんだか分らない委員会かなんかの指図を受けることになると、唯一の武器すらも奪われてしまうかもしれないという恐怖があったといわれ、それはそれで分るような気がしますね。

     もっとも、そう広くもない西欧で、ともに統合を目的とするEECとEFTAの二つの組織があるのもヘンな話であり、最初スネてたイギリスもすぐにEEC加盟を申し出るようになり(しばらくはフランスのドゴールに反対されて実現しなかった)、1971年にはイギリス、アイルランド、デンマークがECに参加し、以後、ギリシア、スペイン、ポルトガルが加盟、89年のベルリンの壁崩壊後はドイツ統一により東ドイツも参加します。

     大所帯になってきたECは、経済的な統合をさらに進め、EC委員会を設けるなど政治面での統合をはかり、ついにマーストリヒト条約によって1993年のヨーロッパ連合(EU)に発展していきます。このマーストリヒト条約は欧州統合の一つの達成点といっていいでしょう。なんといっても共通通貨のユーロを創設し、三本柱といわれる欧州共同体(EC)+共通外交・安全保障政策(CFSP)+司法・内務協力(JHA)という広範な領域での統合が果たされました。

     もっとも、そんなにトントン拍子に進んだわけでもなく、3歩進んで2歩下がるかのように、条約は締結しても各国内での批准が出来ないなど、常に常に困難がつきまとっています。このマーストリヒト条約にしても、デンマークの国民投票では否決されてしまい、またミッテラン大統領が自信を持って臨んだフランスの国民投票も賛成51%反対49%という薄氷の決定でした。イギリスでも、議会に反対されてしまってます。

     共通通貨ユーロにしても1999年から導入されていますが、初期において実施したのは11カ国、今現在でも参加国27カ国中15カ国に過ぎません。イギリスは相変わらずポンドに固執してますから、外為市場からポンドは消えてませんよね。

     このように何か一つやるにしても各国内で反対が渦巻き、そのたびに修正条項をカマしたり譲れるセンまで妥協したりしながら、ギクシャクしつつも一歩一歩進んでいる欧州統合です。現在、体制をより整備するための欧州憲法を定めたリスボン条約(2007年)について2009年発効を目指して各国が批准作業をおこなっているのですが、今年になってアイルランドの国民投票でまさかの否決をしてしまい物議をかもしています。

     現在のEUは既に経済力においてアメリカを凌駕しています。これが一つの国だとしたら、EUはアメリカを越える世界一の超大国になっているわけで、第二次大戦後のフランス・ドイツの石炭と鉄鋼に関する提携作業からはじまって、50年以上にわたり延々努力を重ねここまでやってきたというのは、やっぱりドエライことだと思います。「ヨーロッパを根性を舐めるなよ」という声が聞こえてきそうです。





フランス
     さて、ちょっとEUで先走ってしまったのですが、冷戦下における欧州諸国の経過を押さえておきましょう。まずはフランス。
     フランスでは、植民地アルジェリアの独立闘争に手を焼いていたのですが、1958年に戦時中のリーダーであったド・ゴールが12年ぶりに政権に復権し、憲法を改正してフランスは第五共和制時代に入ります。

     アルジェリアの独立を認めて戦争を終結させたドゴールなのですが、戦争を終わらせたから平和主義者なのかと思いきや、彼のテーマは「フランスの栄光」でした。東西冷戦体制が真っ盛りなのにフランスはフランスで独自の道を行くという、プライドが高いというか、自分が見えてないというか、いかにもフランス的な方向に行きます。1960年には原爆実験を行って核保有国になり、63年にはイギリスのEEC加盟を拒否、64年にはアメリカの意向に逆らって中国(本土)を承認し、66年にはNATOから脱退するという、アンチ英仏、アンチ・アングロサクソン、とにかく英米が世界を仕切ろうとするのがムカつくという態度をとります。しかし、まあ、米ソが軍事力を背景に世界を二極化するのは良くないという視点そのものは悪くはないと思うのですね。ただ、フランスが核の力で第3極になるのだといっても、それはちょっと国力的にも無理でしょうって気もしますし、実際無理でした。

     ド・ゴールという人は、身長が2メートルもあったそうで、また歴史や文学の造詣も深く第一級の教養人だったそうです。その堂々たる体躯と教養、そして「大フランス」への信念に基づく押し出しで国民のカリスマ人気は強かったようです。1968年パリで起きた反ドゴール運動で退陣した後も、総選挙で大勝して返り咲いています。フランス第一主義をとってるからさぞかし右翼的な政治志向かといえば、意外とそうではなく一筋縄ではいかない人です。

     ドゴール退陣のあと、後継者として大統領に就任したのはポンピドゥー(1969)です。もっともこの人は在任中に急死してしまい(74年)、総選挙になります。社会党のミッテランが第一位になったものの、決選投票ではジスカール・デスタンが勝って大統領になります。ちょうどこのときに第一次オイルショックが起きて、世界不況に陥ったために保守派の人気が下がり、81年の総選挙ではミッテランが社会党初の大統領になります。

     ミッテラン左派政権は、最初の頃は共産党と足並みを揃えていたのですが、徐々に共産党と対立するようになります。83年総選挙では保守派が勝利し、共和国連合のシラクが首相に就任します。大統領は革新、首相は保守という奇妙な保革共存政権になりますが、88年の大統領選挙ではミッテランがシラクに大差をつけた勝利したので、シラクは首相を辞任します。ミッテランは、ドイツのコール首相とともにヨーロッパ統合につとめます。93年選挙では保守勢力が勝ち、またしても保革共存政権になりますが、今度は捲土重来を期したシラクが大統領選に勝ち、保守政権になります。

     このあたり細かく見ていくのは避けますが、フランスというのは大統領と首相が両方いるという不思議な政体をしています。アメリカよりも大統領の権限が強く、しかも任期が7年(後に5年に短縮)と強力な大統領制でありながら、なぜか首相がいるという。もっと不思議なのは憲法上両者の権能の違いが明記されておらず、慣習によって行われているという点です。上に述べたように、大統領と首相とで政党が違うというねじれ現象が起きますが、これをコアビタシオン(フランス語で”同棲”という意味)といいます。




イギリス

     イギリスですがサッチャー首相が出てくるまで、ハッキリいってあんまりぱっとしないです。
     フランスと組んでのスエズ運河の戦争が失敗に終わったことから、ときの首相であるイーデン首相が辞任(1957年)。保守党のマクミラン首相になりますが、前述のようにEECに対抗してEFTAを作ったものの仏独という強国を欠いて組織を作ったところでメリットは少ないことで、2年後にはすぐにEEC加盟交渉に入ります。しかし、これはドゴールが反対して流れます。この右往左往ぶりが国民の支持率を下げ、マクミランは63年に辞任します。

     わずか1年の短命政権のヒューム内閣をはさんで、1964年の総選挙では労働党が13年ぶりに勝利しウィルソン内閣が発足します。鉄鋼の再国有化を行い、また67年にはEEC加盟の再交渉を行いますが、このときもドゴールが反対して流れます。68年には経済立て直しのために軍事費削減を行ったりしますが、経済状態はよくなく、6年間の政権のあと、1970年ヒース保守党政権に移ります。ビートルズの"Taxman"という曲のバックコーラスで"taxman, Mr Heath"と歌われている人ですね。

     ヒース首相は、かつてEEC加盟交渉をやってた人なだけに、EEC加盟に積極的に取り組み、またうるさいオヤジのドゴールが引退していたこともあって、めでたく71年に交渉妥結に至ります。これで外交でポイントを稼いだヒースですが、今度はアイルランド問題に悩みます。

     アイルランドは、長い長いイギリスの抑圧の末に1922年に晴れてアイルランド自由国になりますが、アイルランド北部(北アイルランド=アルスター地方)は、古くからイギリスのブリテン島からの移民が多く、プロテスタント(というかイギリス国教)が多かったこともあり、アイルランド独立には参加しませんでした。しかしプロテスタントが多いといっても3分の2程度であり、3分の1のアイルランド土着の人々はカトリックです。当然ゴタゴタが起き、カトリック系住人は支配層のプロテスタント層に差別されます。この状況にキレた住民の一部が非合法のアイルランド共和国軍(IRA)を組織し、68年頃から対立が激化、イギリス本国は軍隊まで繰り出して鎮圧に乗り出します。この鎮圧をやっていたのがヒース首相です。

     以後、74年に選挙返り咲いた労働党の第2次ウィルソン内閣→76年のキャラハン内閣と、労働党政権が続きます。しかし落ち目のイギリス経済を立て直すことは出来ず、イギリス全土で労働争議が激しく行われます。79年の総選挙で圧勝したのが保守党のサッチャーです。



     11年に及ぶサッチャー政権は、落ち目になったイギリスを徹底的にリストラします。言ってしまえば「小さな政府」を基本とした行政改革という日本でも耳にタコが出来るくらい聞き飽きているスローガンですが、サッチャー政権の凄まじさは、もうイギリスを半分ぶっ壊すくらいの勢いでやってます。激しい労働運動に対して、「弾圧」と呼んでもいいくらいの露骨な組合潰しを行います。イギリスの自国産業では到底世界市場に太刀打ちできないことを見切っていたサッチャーは、国内産業を育てようとはせずに積極的に外国企業を誘致します。ちなみに日本企業も沢山これで誘致されています。

     なぜイギリスが「英国病」と呼ばれる長期停滞になっているかといえば、戦時中の荒廃、過去の植民地政策のツケという前提条件に加えて、イギリスが豊かであった頃のシステムが逆に重荷になっていたからです。イギリスは資本主義発祥の地だけに資本主義の非人間的な行き過ぎもヒドく、それゆえ資本主義に対する反動=労働組合や運動が非常に強い国です。それは同じ二大政党制といいながら、アメリカは共和党と民主党なのに、イギリスでは自由党と”労働”党であるということからも多少は窺えるでしょう。ちなみのイギリス直系の子供のようなオーストラリアも、まんまその体質を伝承していて、労働者の権利や労組は強いし、二大政党においても労働党だったりします。

     これが景気のいいときだったら、「ゆりかごから墓場まで」という世界的に有名なキャッチコピーを生み出した手厚い社会保障システムを誇る素晴らしい国になるわけで、実際そういう時もあったのですが、経済が左前になると全てが悪循環になります。景気が悪くて企業がリストラをしようとしても労組が強いから話が先に進まないので労使共倒れになるし、「大きな政府」独特の病気=ソ連的な国有企業のお役所仕事の非能率性などなどです。同じ頃の日本は、「モーレツ社員」とか言われながら一家7人が四畳半一間のボロアパートに住み、エコノミックアニマルと嘲笑されながらも、朝から晩まで気が狂ったかのように働いていたわけです。国際市場で勝負になるわけがないです。つまりキツい言い方をすれば、国民が大した努力もしてないくせに「もっともっと」と欲しがるだけみたいな状況だったわけですね。これが「英国病」の本質だとすれば、それを根本的に叩き直すためには、国有企業を民営化し、大規模な規制緩和を行って競争原理を取り入れ、社会保障を制限し、財政も削減し、公務員も削減するという荒療治が必要です。

     これらの政策は、規制緩和とか競争原理とか削減とかいう聞きなれたフレーズで言うとうっかり流してしまいそうですが、早い話が「働かざる者食うべからず」であり、もっと極論すれば「弱者は死ね」に近い過酷な政策なわけです。サッチャーはそれを10年以上にわたって断行し、その凄まじさゆえに「鉄の女」というこれまた凄まじい仇名を貰います。おびただしい企業が倒産し、1982年には失業者が300万人を突破し、福祉の切り捨てをめぐって「血も涙もない」と罵倒されます。金融ビッグバン(日本も同じ名前でやってるけどこっちが元祖)によって、ご自慢のイギリス金融界の主立つ機関は殆どが外資にのっとられるという、いわゆる「ウィンブルドン現象(地元で開催するけど外人選手ばかりが優勝すうことから)」が起きます。しかし、総選挙で3選されたことで、長期政権になり、この政策はほぼ貫徹されたといっていいでしょう。賛否両論の激しいサッチャー政権でしたが、確かにこれによってイギリスは再浮上します。外向的に強面で、アルゼンチンがフォークランドを占領すると、すかさず軍隊を派遣し、徹底的にやりこめています。

     今、日本で小泉内閣の規制緩和で自殺者が増えたとか、失業者がどうのとか言ってますが、あんな生ぬるいもんじゃないです。規制緩和やリストラによる国家再生というのは、サッチャーくらい徹底的にやらないとダメなのかもしれません。中途半端にやると、経済は再生しないで、潰れるべき企業や無駄の多いシステム、没落すべき富裕層がぬくぬくと温存し、結局社会の底辺にだけ皺寄せがいくという、痛みはあるけど果実はないという最悪の事態になるわけで、今の日本もそれに近いかも。サッチャー語録に「私を”鉄の女”と呼ぶ人がいるが、それは正しい」というのがありますが、政治家というのはそのくらいの根性が必要なのかもしれないし、また国民もそのくらいの根性で政治家を育てないとダメなのかもしれないです。これだけのことをしたサッチャーをイギリス国民は三選させているわけですからね。

     強権を誇ったサッチャー政権も、90年の人頭税導入において激しい反発をくらい、ECへの統合に消極的な態度を示したことから支持を失い、急激に失速するようにして辞任します。1990年以降はメージャー保守党内閣にバトンタッチします。メージャー政権がサッチャーの後継路線を行いますが、かなり景気が回復していたので大きな破綻もなく7年ほどつとめ、その後、労働党のトニー・ブレア首相が出て3期つとめ、サッチャー政権での行き過ぎを是正していきます。




西ドイツ
     戦後49年から14年間にわたりアデナウアー長期政権において、西ドイツは主権回復、NATO加盟など国際社会に復帰し、奇跡と呼ばれる経済復興を果たし、 EEC加入や、ソ連との国交回復など、戦後ドイツを軌道に乗せます。後を継いだエアハルト首相をはさんで、キージンガーが左派をも巻き込んだ大連立内閣を発足させますが長続きせず、69年にはブラントが初めての左派政権を成立させます(69年)。

     ブラントは、左派政権の地盤の利を生かし、社会主義諸国との関係改善をめざすいわゆる「東方外交」を展開します。70年にはじめて東ドイツ首相と会談し、ソ連との間で武力不行使条約を締結、ポーランドとも国交正常化を果たします。72年には東西ドイツ基本条約が結ばれ、翌年東西ドイツは国連合に同時加盟を果たします。ブラントは、その他のチェコスロヴァキア、ブルガリア、ハンガリーなどの東欧諸国とも国交を結びます。

     ブランドの後は、同じ左派である社会民主党のシュミットが継ぎますが、82年に不信任を出されて退陣、続いてキリスト教民主同盟のコール首相が16年にわたり長期の保守政権を樹立します。コールは欧州統合に尽力し、マーストリヒト条約の批准も果たします。また、東方外交も継続し、在任中の1989年にベルリンの壁崩壊が起き、東西ドイツの統一に努力します。90年統一後には統一ドイツの初代首相となります。

     1998年には社会民主党に大敗し、政権は再び左派の社会民主党のシュレーダーに移ります。





戦後の西欧の流れ、そして日本