今週の1枚(07.10.15)
ESSAY 332 : キリスト教について(その6) 〜中世封建社会のリアリズム
写真は、BalmainにあるCafe。CafeはNewtownとBlamainなどがレベル高いですが、ここもお気に入りの一軒です。Circleという名前のカフェで、確か教会が経営してたんじゃなかったかな?メインストリートのDarling St沿いにあります。先日も、チキンとビートルートのリゾットというのを食べて、これが美味でありました。ビートルートがあんなに味わい深いものだとは知らなんだ。
6回目を迎えるキリスト教シリーズです。ってか世界史講座になってますけど (^_^)。
前回は、800年に教皇レオ3世が小ピピンの跡を継いだカール大帝に対し「ローマ皇帝」の帝冠を与えたところまででした(カールの戴冠)。
これは何を意味するのかというと、ローマ教会とゲルマン民族が融合する第一歩ということで、今日まで続く西欧社会のDNAが作られたということでもあります。これ以降、ゲルマン民族(西ヨーロッパ人)=キリスト教徒となり、キリスト教は西欧における精神的文化的な巨大な柱になります。
ところで、それまでのゲルマン民族は何を信じていたかというと、古代人らしいアミニズム的な多神教だったようです。主神はオーディンで、結婚と家庭の神様がフリッグで、、、という感じ。このオーディンが現在の水曜日"Wednesday"の語源、フリッグがFridayなど、その痕跡は現在まで残っています。当時のヨーロッパというのはとにかく圧倒的に鬱蒼とした「森の国」だったらしく、森を恐れ、敬い、森にこそ神が住むと思われていたらしいです。最大の脅威は森のオオカミであり、グリム童話の「赤ずきん」のようにオオカミに食べられてしまうというモチーフは、この頃の記憶から来ているようです。また、オオカミは英語でいうとウルフですが、ゲルマン系にはこの種の名前が多いです=ウルフ、ウォルフ、ルドルフ、アドルフとか。モーツアルトもウォルフガング・アマデウス・モーツアルトでしたよね。
このように民族の精神世界というのは、重層的に何層もあり、それが色々な形で現在に残っているのでしょう。
しかしながら、ものの本によりますと、西ヨーロッパの精神&文化構造を化学分解のように分析していくと、究極的には3つの主たる要素に分解できるらしいです。@古代ギリシャ文化、Aローマ帝国文化、Bキリスト教です。特に古代ローマ帝国の存在は「文明そのもの」といっていいくらい巨大らしいです。シーザーによって征服されたガリア(フランス)は、古代ローマ帝国に征服され、植民地化されていたことを今日に至るまで誇りに思っており(古くから文明的に開けていたから)、ライン川北部の征服されなかったエリア(ドイツ)を野蛮人として馬鹿にする傾向があると。現在もドイツ人がフランス人にどことなく文化的にコンプレックスを感じている根源は、「ローマ帝国に支配されていなかったから」らしいです。ドイツのなかでもローマ帝国に支配されていたエリアは鼻高々で、鬼の首でも取ったように観光情報に自慢たらしく書いてたりします。ドイツにケルンという町がありますが、「ケルン」の語源はもともと「植民地」という意味らしいです。英語で言えばコロニー、フランス語でコロン、それがケルンになったという。他国の植民地になっていたというのは普通は屈辱的なものであり、それをわざわざ誇りとするというのは、それだけローマ帝国の存在というのが(今なお)巨大だということでしょう。
古代ローマ帝国のなかでもジュリアス・シーザーの存在は圧倒的で、ヨーロッパ2500年の歴史の人気番付ではかなり上位にランクされるスーパースターみたいなものらしいです。フランスのナポレオンも、ひそかに「俺こそがシーザーの生まれ変わりだ」という自負していたようで、言動などを見ていくと、かなり強烈にシーザーを意識していたとか。
このように「他国に支配されていたのを喜んで誇りにする」というマゾヒスティックな感覚は何なのだと思ったりするけど、別にマゾヒスティックでもなんでもないんでしょうね。同じようなことは日本にだってあります。古いところでは「平家の落武者伝説」なんかもそうかもしれない。「平家の落ち武者が住み着いた、、、」とか誇らしげに郷土史が語られたりしてるわけですけど、敗残兵によって軍事的占領を受けてるという被害的な歴史じゃないかって気もするわけです。でも嬉しげですよね。あるいは、神戸と横浜という二大港町がその隣の東京大阪という大都市よりも文化的に洗練されて、垢抜けていてカッコいいという気風がありますよね。あれだって、開国した明治政府や敗戦後の政府が、帝国列強やアメリカ軍によって半ば植民地化されていたようなエリアでしょ?植民地化されてるから「異人館」とか「外人墓地」があって、植民地化されてたからこそ「メリケン波止場」なんてのがあるわけで、屈辱的といえばこのくらい屈辱的なエリアもないでしょう。でも、自慢してますよね、地元の人達は。かといって別にマゾ感情に支配されてるわけでもないでしょ?それと同じことだと思います。
さて話は戻ってカール大帝ですが、この人はエラかったらしく、大フランク王国の基礎を打ち立てます。大体国を豊かにする場合にやることは決まっていて、@秩序=法制度の整備、A経済産業の振興、B文化の振興です。カール大帝をこれら基礎事業を営々としてやり、宮廷文化が盛んになったのでカロリングルネサンスとも呼ばれています。
が、偉大な帝王が死ぬとお家騒動があるのは何処も一緒で、フランク王国も3つに分離統治されるようになります。このときの東フランク王国が現在のドイツ、西フランク王国が現在のフランスになり、残りはイタリアの原型になります。もっともイタリアに相当する中部フランク王国はその後しばらくゴタゴタが続き、「イタリアの原型が出来た」とは言いにくいのですが、ドイツとフランスという国の基本(領土)はこのときに出来ます。この国境線の線引きを決めたのをメルセン条約(870年)といいますが、この線引きは今日に至るまでドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏の線引きと一致しますし、後に3つの領土の交差するあたりにスイスが出来たので、スイスの公用語は現在もこの3つになってます。
東フランク(=ドイツ)では、ハインリヒ1世のあとを継いだ息子のオットー1世が、ドイツ内部の小部族乱立状態をまとめあげ、何とか中央集権にしようと四苦八苦していました。同じ頃、イタリアのローマ教会は、スラヴ民族系のマジャール人による侵攻や地域内での抗争などゴタゴタが続いていました。そこで、ドイツのオットー一世と教皇ヨハネス一世は、再びGIVE&TAKEの手を組みます。ローマ教会はオットー一世にイタリア遠征をしてもらう見返りに、オットー1世に空位となっていた(西)ローマ皇帝の位を与えます(962年)。
まあ、ローマ皇帝の位が「空位になっていた」ということは、逆に言えばそれほど誰も執着しなかったということでもあり、そんなもん貰っても実質的に利益にはならなかったのでしょうが、それでも「権威」は得られます。なんせ形式的には「(西)ヨーロッパで一番エラい人」になるわけですからね。他の諸侯豪族に対するニラみもきくようになりますし、政治的駆け引きもやりやすくなるでしょう。前回書いたように、実力+権威(正統性)という政治の化学方程式です。
ともあれ、これによって東フランク王国(ドイツ)の皇帝が「ローマ皇帝」の地位を継承し、以後「帝国」「ローマ帝国」「神聖帝国」など呼び名は代わりましたが、1245年以降に神聖ローマ帝国と呼ばれるようになります。全然ローマでも何でもないドイツが「ローマ帝国」になるわけですけど、まあ、それを言うなら東ローマ帝国も今のギリシャとトルコにあるわけですから、似たようなものでしょう。
ということで、ここまでを簡単に整理すると、ローマ教会は最初に西ローマ帝国と結びつく→(しかし西ローマ帝国は滅亡)→ゲルマン民族(フランク王国)のカール大帝と結びつく→(しかしフランク王国は分裂してしまう)→東フランク王国のオットー一世と結びつく→神聖ローマ帝国へ、、、という流れになっていくということです。
このように生存のためにその時々の権力者と結びついて世渡りを続けるローマ教会でありますが、生々しい権力と提携することによる腐敗・堕落もおきますし、これに対する教会内部の強烈な反発もあったりしますし(11世紀のクリュニー修道院の教会改革)、当の政治勢力との闘争(聖職者叙任権闘争→カノッサの屈辱 1077年)なんてことも起きます。
このあたりの展開は世界史の授業で何となくやった記憶があると思うのですが、こういった表面的な流れだけを追いかけていても、僕には上っ面を撫でるだけって感じがするのですね。なんかズシッとした理解にならない。何が足りないかというと、当時の社会のリアルな感覚や基礎構造が分からないからでしょうね。つまり、王権というのはどのくらい強かったのか、どうして諸侯をまとめ上げるためにそんなに苦労しないとならないのか、なぜそうなのか?が分からない。また、当時の人々にとってキリスト教とはなんだったのかが分からないから、どうしてキリスト教的権威と結びつくと王様にとって利益になるのかが分からない。そもそもその頃の人達って、一体何をどうやって毎日ゴハンを食べていたの?そのシステムはどうなっていたの?ってあたりが感覚的にピンとこないから、どうしてそういう流れになっていくのかストーリー的にも釈然としないのでしょう。
そこで、この当時の歴史を理解するためにはどんなファクターが必要なのか、また考えてみました。
@中世封建制度というシステム
A外敵の存在
Bその他の要因
Cキリスト教が社会の「精神的支柱」になるという意味
書き出してみたら以上の要因がからみあっているように思います。順次考えてみます。
まず「封建社会」です。これがクセモノなんだわ。
この頃の社会システムを「封建制度」という言葉で説明されています。「封建」とか「封建社会」というのは良く言いますし、日本でも現在ですら「それは封建的な身分関係だ」とか使われます。でも謎なのが、「封建ってなーに?」ってことです。なぜ、”封建”という表現をするの?意味は何なの?ということです。字面からすれば「建」を「封」してるわけですが、これが分からん。「建築を封印する?何それ?」てなもんです。分かりにくいんですよ、封建社会。なんでこんな分かりにくい文字を使うの?正確な意味は何なのか。誰か知ってる人いますか?
でもって調べてみました。「封建」の意味ですが、語源は「春秋左氏伝」です。中国の古い文書。孔子が注釈を入れたという歴史書で、ここに「故封建之」という出典があり、「皇帝が土地を諸侯に分け与え、領有統治させること(封土を分けて諸侯を建てる)」という意味だそうです。こんな何千年も昔の中国の古典の表現を、21世紀の日本でまだ使ってるわけです。分かりにくい筈ですよ。
この際、ムキになって徹底的に調べますが、封建の「封」はもともとどういう意味かというと、「こんもりと盛り上がった」という意味らしいです。特に土を盛り上げた状態。だから左側の偏(へん)には「土」が二つ重なってるでしょう?昔、その土地の領主となった王が、天地の神様に「新しくこの地の王になりましたよろしく」と儀式をするとき、土を盛り上げて祭壇を作ったそうで、その土の盛り上がった状態が「封」であると。「封印」というのも、蝋付けや糊付けして「こんもり盛り上がる」状態になるからそういうのでしょうし、そのように糊付けした状態の(紙などの)物体を「封筒」というのでしょう。
それが「封」。そこから意味が転じて、「領土」「領土を分け与える」という意味になります。「建」は「諸侯を建てる」からきていますから、「人事システムを作り上げる」という意味ですよね。ゆえに「封建」というのは、「土地を分け与えることを中核とする政治人事システム」のことなんだろうなって推測がつきます。なるほどー。長年の疑問が少し解けた。
この封建社会ですが、中国、中世ヨーロッパ、日本でそれぞれ意味が違います。また、「封建的な身分関係」と大雑把に言うようなときは「土地所有システム」なんかあんまり念頭になくて、「封建」=「古くさい」くらいの意味でしかないです。
さて、人類は農耕を始めることで文明を飛躍的に発展させてきました。農耕には土地が必要です。ということは、土地システム=生産システム=生きるためのシステムということです。不動産所有&利用のシステムの変遷を追いかけていけば人類の歴史はわかるってことですね。そして、「封建社会」はまさに土地の所有&利用システムだったりするわけです。
中世ヨーロッパの封建システムは、古ゲルマン人社会の従士制度と、ローマ帝国末期の恩貸地制度の合体進化版だそうです。
ゲルマンの「従士制度」というのは、エリート的な職業軍人のことで、徴兵されて兵士になった領民ではなく、自ら志願して主君に仕えるプロフェッショナルな戦闘員のことらしいです。自由民や貴族の子弟が有力者のもとで、衣食・武器を与えられ扶養と保護を受けながら、一人前の戦士に育て上げてもらう、そのかわりに一生涯その有力者に対して服従し、奉仕・忠誠をつくすという制度らしいです。だから従士というのは結構カッコ良さそうな存在ですよね。まさに「騎士」って感じ。恩貸地制度というのは、ローマ末期からみられた制度で、土地所有者が自分の土地を守ってもらうために、有力者に土地を献上し傘下に入り、改めて土地を借り受けるという制度だそうです。
当時の国王→諸侯(領主)→家臣(騎士)という人間関係システムがありますが、国王一人だけが超強くて、領土も国民(諸侯家臣)も全て一人で支配するって単純なものではないようです。そんな絶対的な上下関係ではなく、もっと水平な契約関係のようですね。全国各地に諸侯がいる=つまりはその土地を仕切る地元の豪族がいるってことですね。その豪族は、中央の王様に忠誠を誓うことによって、自分の領土を認めて貰う。同時に各地の豪族は、その配下にまた似たような関係の家臣団や騎士団を持つ。彼らの領土を認めてやる代わりに忠誠を求めるという、、、、、これが中世ヨーロッパの封建社会のようです。詳しい内容は僕にも分かりませんが、大雑把に言うとこういうことみたいです。
なあんだ、これって、今のヤクザ組織に似てますな。例えば九州に仮に博多組という暴力団があり九州北部を仕切っていたとして、もっと強大な山口組に忠誠を誓う=「杯(さかずき)を交わす」わけですな(内容によって「五分の杯」や「四分六の杯」になったりする)。忠誠を誓うシルシとして、山口組の代紋を掲げるとかとか、上納金を払うとか。その代わり、山口組はその博多組のナワバリを認めてやるわけで、侵略しないと。そして、博多組内部では、地元のイキのいい兄ちゃんがいたりしたら、「ウチのところで男を磨いてみないか」とリクルートして行儀見習いからシノギの方法まで極道のイロハをたたき込み、やがて杯を交わしてナワバリと代紋(ブランド)を分けてやって独立させるという。うーむ、似ている。まあ、ヤクザといい、騎士といい、軍隊といい「職業的暴力集団」であることに変りはなく、システムが似通ってくるのは当然のことなのでしょう。
要するに、@国王と諸侯、A諸侯と家臣との関係がそれぞれ二重構造としてあって、土地を媒介としてそれぞれのレベルで主従(契約)関係が作られたってことですね。そして、これは命令=服従の上下関係ではなく、極めて現代的な契約関係だったようです。だから、主君が臣下の保護を怠るなどの「契約違反」があったような場合には、あっさりと関係解消になったりもしたそうです。それに、主君といえども無茶苦茶なことは命令できず、臣下にも服従を拒む権利があったらしいです。また、臣下の義務の中で最重要な軍役も、「遠征は年40日、近隣の諸侯との戦闘は歩いて24時間で行ける距離までで1週間が原則」とされていた時代もあり、さらに臣下は義務さえ果たせば複数の主君を持つことが出来たそうです。なかには45人の主君を持ったという飛んでもない例もあったとか。そういう意味では、現代の特に日本のサラリーマンなんかよりは遙かに恵まれているというか、労働条件はいいですよね。
あと、王様(A)=諸侯(B)、諸侯(B)=家臣(騎士)(C)という二重構造ということで、国王(A)と諸侯の家臣(騎士)(C)とは直接の主従関係にはならないそうです。「臣下の臣下は臣下でない」というフレーズがあったくらいですので。
ですので、封建社会というのは、巨大な集合的・構築的な人間関係手段がドドーンとあるというよりも、二当事者間の契約関係が結合していくことによって全体を構成しているような感じです。会社で言えば、全員正社員の家族的な経営ではなく、派遣とパート、場合によっては請負とか外注、アウトソーシングをするというドライで、独立したパーツパーツの集合体みたいなものなのでしょう。もっとも契約観念を徹底すれば、どの契約関係も一代限りになる筈ですが、実際には世襲的になっていったようです。
これが中世ヨーロッパの封建社会だとしても、でもそこに出てくる登場人物である領主(諸侯)や騎士というのは、いわば社会の上層エリートです。彼らのシステムだけ見ていても片手落ちであり、僕らのような一般庶民はどうしていたのか?という疑問が湧きます。一般庶民はどうなっていたかというと、これが「農奴」と呼ばれる存在になって畑を耕していたのですね。
諸侯や騎士が「封土を貰う」といっても、土地だけ貰っていたわけではないです。土地を耕す農民達もセットで貰ってたわけです。これはヤクザのナワバリと一緒で、みかじめ料を取れる飲食店などをコミにしてのナワバリですから。
この「働く農民をセットにしての領土(耕作地)」のことを「荘園」といいます。日本史にも同じ用語が出てきますな。荘園を持ってるということは、寝転がっていても領民がせっせと働いて、収穫物や税金を払ってくれるということです。荘園を保有する諸侯は騎士は、土地所有者であると同時に、領民の支配者でもあるから「領主様」でもあります。そのうち、キリスト教会や修道院も、寄進や開墾によって多くの荘園を持つようになり、大司教や修道院長らの聖職者も諸侯や騎士とともに領主として荘園の農民を支配したりするようになります。
その当時の村々はどういう配置になっていたのかというと、ここに当時の荘園の全体の配置図の資料があります。
大体、村落には領主様の家があります。お屋敷ですな。権勢が巨大だと「お城」になります。ドイツ語で「〜ブルグ」、フランス語で「シャトーなんたら」というのは昔の領主様のお城のことなんでしょう。その領主様のお屋敷の周囲に、領主の直営地や農民の耕作地、さらに皆でシェアしている牧草地(日本では入会地という)、さらに社会インフラとしてはエネルギー施設としての水車小屋(この力で石臼を動かし小麦粉を作るとか)、パン焼き小屋なんかがあったそうです。
農奴というのは誰がなっていたのかというと、ローマ帝国時代の解放奴隷や植民地として支配されていた人々、民族大移動で難民になったような人々、要するにハードな「力の時代」に天下を取るほど強くはないけど、あっさり殺されたり餓死したりするほど弱くはない、普通の市民達でしょう。今でいえば、暴力団や政治家、大企業の上層部にのしあがっていけるほどアクが強くない人々ってことで、要するに殆ど大多数の人々であり、早い話が僕らですな。
「農奴」とかいうと非常に哀しそうな表現ですが、確かに引っ越しも、職業を選ぶ自由もなく、一生土地に縛り付けられていたとはいえ、家族も持てたし、家や農具は自分のものとして持てました。その意味で単なる使い捨ての奴隷ではないです。農奴は、領主によってあれこれ搾取されます。領主の農地を定期的に働きに出されること(賦役)もそうですし、自分の土地を耕作して出来た収穫物(チーズや牛乳など)の一部を税金として納めなければならないです。さらに、あらゆる収穫の十分の1を教会に納めないとならず、結婚税・死亡税なんてのがあったところもあるそうです。また、水車小屋などの使用料を払うとか。
要するになんだかんだ理由をつけて農民から搾り取っていたのが当時の領主様であり、諸侯であり騎士であり、教会だったということです。封建社会というのは、この搾取システムを勝ち組(王、家臣など)の中でどう再分配するかというシステムなんでしょうねー。
しかし、この僕らと同じ庶民である農奴達の生活は大変だったろうなー、可哀想になーと思いつつ、よく考えると今もそう大差ないかも。確かに現代では憲法によって居住移転の自由も職業選択の自由もあるけど、それも先立つお金と能力あっての話で、それが無ければ名目だけの自由って気もする。それに稼いだそばから税金で持っていかれるのは今も昔も同じですわ。消費税なんて昔にはなかった税金もあるし。水車小屋は使わないけど高速道路を使えば料金掛かるし、死亡税はないけど相続税はあるし、贈与税はあるし、固定資産税はあるし、重車両税はあるし、住民税はあるし、健康保険料はあるし、そして年金料は取られるけど記録は紛失されるし。昔の農奴だって、大変なようでも家や農地は自分のものが持てたわけだし、頑張って働いていたら食べる分くらいはゲットできたわけだし、家族も持てたわけですよ。それに他国の軍隊や山賊が攻めてきたら、領土様の騎士団などが撃退してくれたわけなんだから、それほど悲惨の一語ってわけでもないでしょう。
それに中世の農奴だって、自分達のことを「農奴」って言ったり呼ばれたりしていたかどうかは怪しいです。「誇り高きボヘミアの森の民よ」「神ととも生きる親愛なる村人達よ」とか適当に言われていたんじゃないかって気がしますね。だって数では圧倒的に勝る彼らを必要以上に軽蔑したり、馬鹿にしたりして反発を食らうくらいなら、適当におだてていい気分にさせておいた方が統治方法としては賢いですもんね。今の僕らだって、30世紀の歴史学者からなんて言われるかわかったもんじゃないです。会社の奴隷だから「社奴」とか哀しいネーミングをされているかもしれません。あるいは単に「奴隷」だったりして。「20世紀から21世紀の奴隷は、一応憲法その他では基本的人権が認められていたが、名目上のものに過ぎず、実態はいくら一生働いても自分の家すら持てないという悲惨なものだった」とか教科書に書かれてるかもしれないわけです。つらいなあ。
さて、このような農民付の領土制度=荘園制度というのは、何でも現地&現場で話が完結する傾向があるから、中央集権に逆行し、どんどん地方分権体制になっていきます。やれ国王の領土だ、中央の貴族の荘園だとかいっても、数百キロ離れた山里の現地を支配するのは現場の領主であり、遠く離れた不在地主に馬鹿正直に税金分を送金しなくなったり、ピンハネするようにもなるでしょう。それどころか全然言うことも聞かなくなっていく現場の連中もいるでしょう、、、、てな感じで、封建社会というのは意外と地方分権的で、中央の王権は弱かったと言われています。
これは日本の歴史においてもそうで、平安時代の藤原氏の荘園制度とかいっても、貴族が潤っていたのは最初の頃だけで、段々地方が独立化していき、自分で開墾した土地を自分のモノであるとする勢力が起きます。これが「武士」の始まりです。「自分の開墾した土地は自分のものになるべきだ!」という、土地と生産手段の私有を訴える、まさにマルクス主義革命のようなことを唱えて、関東地方で革命軍を起こしたのが平将門の乱でしょう。このときは将門軍は鎮圧されてしまい、将門の怨念は現在にもなお祟っているとかいうのはその種の話の好きな人にはお馴染みのストーリーです。でもそれに続く源平時代になるともう貴族は没落して止められなくなり、武家政権が確立するというのが日本の荘園制度でした。
以上が中世ヨーロッパの封建社会の概略ですが、この時代を理解するためには、他にも考慮すべきファクターがあると思います。
一つには「外敵の存在」です。
前回に言ったようにフランク王国の南側はイスラム帝国が迫ってきています。イスラム勢力圏との拮抗、葛藤というのは、現在に至るまでヨーロッパの宿命でしょう常に常にこのテーマは存在しています。
イスラム以外の外部勢力はどうなってるかというと、ゲルマン民族のさらに北には「ノルマン民族」がいます。
彼らがデンマークやスェーデンなどの北欧諸国の源流であり、強力な船団を用いて軍事行動や交易活動を展開していたそうです。「バイキング」と呼ばれていたりしますね。彼らがまた元気で、北の方だけでイジイジやってるわけではなく、あちこち出掛けます。フランス北部のノルマンディーにいたノルマン民族はイギリスを征服してノルマン朝を打ち立てます。さらに、フランスを突っ切ってイタリアのシシリアまで出掛けて(傭兵の仕事でいったようですが)、地中海のシシリアに国を打ち立て、アラブ社会と盛んに交易をし、アラビア文化をヨーロッパにもたらしたりします。さらに、ロシア方面にも遠征しキエフ公国を作ります。さらに、コロンブスに先立つこと500年前に既にアメリカまで行っていたらしいです(アメリカではインディアンとうまくいかなかったようで、撤退してますけど)。このようにゲルマン人の他に(というかゲルマン民族の一部族らしいが)ノルマン人というのが活発に頑張ってます。
そして、ゲルマン民族大移動の原因になったフン族はいなくなったけど、またぞろ似たような遊牧民族系のマジャール人がやってきて、ハンガリーを作ったりして、ヨーロッパに圧力をかけます。この中央アジアの遊牧民族というのは、結構よくヨーロッパを攻めているのですね。フン族のあと、このマジャール人がきて、そして真打ちのジンギス・カンもちゃんとヨーロッパまで攻めてきます。しかし、東は日本、西はヨーロッパまで攻める蒙古帝国というのは、どれだけ巨大強大だったのか、想像を絶する面もありますな。
こういった外敵の存在が常に常にヨーロッパの人々に一定の圧力をかけています。
この圧力が、どのような化学変化を社会に生じさせるかというと、封建社会の成立を促進するように働きかけたと説明されています。
なぜかというと、こういう外敵が年がら年中チョロチョロしてたら、それに対抗するために強大な社会システムを作る必要があります。しかし、強大な敵国軍隊が一糸乱れず進軍してくるのではなく、一個中隊程度の小グループが、野盗&ゲリラ的にうろうろしてるような場合、必要なのは中央に強大な軍隊を作ることではなく、即時反応できる地域を拠点としたローカルの防衛軍です。そうなると、遠くにいる王や皇帝なんかよりも、近隣の有力豪族に保護を求め、主従関係を結んだ方が合理的です。かくして地域単位、ローカルの独立性の強い封建制度が進展したと言われたりします。
もう一つは、外民族の侵入による混乱によって交通や商業が衰えていったということです。強大なローマ帝国があるときは、治安もまだ良かったでしょうから交通も商業も発達しました。「全ての道はローマに通ず」という格言があるくらい道路網は整備され、ローマ帝国の威光で治安もよかったから商業往来は活発でした。しかし、大帝国が崩れ、ローカル単位でバラバラになり、ちょっと旅をしただけで山賊に襲われ、軍隊崩れに襲われ、、、では危なくて商業もできません。そうなると、皆は自分の農村に引きこもり状態になり、自給自足(自然経済)による農業中心の社会に移っていくという変遷があるとされます。これが「ひきこもり」中世になる一つの原因でもあるようです。しかし、封建制度が進展し、それなりに治安もよくなってくると再び往来が活発になり、文化も栄えていきます。
第二の外在要因としては、エネルギー源の問題と気象条件があると思います。これはあんまり歴史書で語られない点ですけど。
これも面白いテーマなのですが、なんでギリシャ、ローマと発展していたヨーロッパ世界が暗黒時代といわれる中世になってしまったかというと、「エネルギー源が枯渇したから」という考え方があります。鉄器を作る=製鉄をする場合膨大な熱量が必要です。しかし石炭や石油という化石燃料が発見されなかった昔には、森林を伐採するという木炭しかエネルギー源は無かった。だから森林が再生せずに禿げ山になってしまったらそれで終わりになるという。だからこそ、ギリシャの山々は森林再生ができないくらい乱開発され禿げ山になってもいます。レバノンなんてレバノン杉が有名で国旗のデザインにもなっているのに、今は禿げ山状態です。これは韓国など朝鮮半島なんかでもそうです。
ところで、日本は温帯モンスーン、水蒸気の国ですから、森林再生については抜群の環境にあります。だから製鉄をいくらやっても大丈夫になり、かなり遅れて文明が入ってきた日本であっても、ある時から鉄器製造に関しては素晴らしく進展します。これが日本の歴史を特徴付けるのですが(木炭エネルギーの豊富さ)、それはまた別の話です。
いずれにせよ森林枯渇というエネルギー問題、環境問題によって、社会の発展が頭打ちになったというのが古代ギリシャ、古代ローマ帝国衰亡の遠因になったという話を聞いたことがあります。同時に、豊富なエネルギーによって社会がガンガン進展するというエネルギッシュな展開も、それにシンクロする精神的躍動もないまま、まったりした、ひきこもり系の「中世」になるという。そして、これは昔話ではなく、1970年代以降、現在もまた新しい「中世」に入りつつあるのではないかという話は、既に過去のエッセイでやってますので(ESSAY 245/『時代が変わった』 〜物財幸福主義は1970年代に既に終わっていたこと)、詳しくはそちらを参照してください 。
もう一つ、ヨーロッパの気候は、11世紀から13世紀にかけて、それまでの寒冷期から温暖期になったそうです。この気象変化により農生産物の収穫量が上がってます。しかし、14世紀からまた寒冷期に入ります。こういった長期の気象条件が、実は社会の進展や停滞に微妙に影響を与えていたりします。
えーと、何が言いたいかというと、その社会が発展する/しないというのは、実に色々なファクターが影響しているんだなあってことです。
社会がグチャグチャになり治安が乱れてくると、商業は衰退します。前述のようにA地点からB地点まで商品を運んでいく度に盗賊に襲われてたらやってられないですからね。しかし、これも近場の有力者同士が関係を結んで団結する=封建システムの進展によって、かなりの程度改善されるようになっていきます。また気候条件の改善により、ヨーロッパを覆う「黒く冷たい森」がどんどん開墾できるようになると生産も上がっていきます。また封建システムの形成で、領土単位で一致団結して開墾に当たれるようになるから益々耕作地は広がる。農産物はまた増える。増えると面白くなってくるから農機具が改良されていく。
「人類の歴史は、つまるところ余剰生産物の歴史である」と何かに書いてあった記憶があります。全員総出で働きまくっても、ようやくカツカツ餓死しない程度しか獲れなかったらあまり社会は発展しない。ところが生産力が上昇し、10人働いたら20人分食べられるようになってくると、10人分遊んで暮らせるようになる。この10人が武士階級や貴族階級になり、あるいは僧侶になり、芸術家になる。絶対的に食えなかったら人類の職業なんかたった一つ=「食糧採取者」だけです。農耕という人類史最大の発明によって、一人が働けば二人が食えるという「余剰生産」が出来るようになり、人類の歴史らしい歴史が始まったのはそれからでしょう。余剰生産=余剰人員がいるからこそ、軍団を作って強大な帝国を築くことも出来るし、貴族階級が贅沢することによって文化が進む。
ちなみに日本の場合、古くから米の生産量という尺度があります。昔の単位で「一石」というのがありますが、10合=1升、10升=1斗、10斗=1石という関係になり、一石は要するにお米1000合です。1日3合弱食べると1年で約1000合ということで、米一石=「人が一年食べる量」らしいです。だから1万石だと1万人を食わせることが出来る。あと、田圃の大きさで「坪」というのがあります。畳二畳で一坪(3.3平米)ですが、一坪の田んぼで人が一日食べるお米の量が取れる。そして、田んぼの単位に「反(たん)」というのがありますが、一反は360坪であり、要するに「お米1年分」であり、一石でもあります。良くできた単位なんですよね。田んぼ1反=米一石=人が一年食べるお米の量なですから。
それが何か?というと、要するに「食う!」というのは人間の、いや動物の最大のテーマだということです。食うこと=生きることだし、ちゃんと食えるというだけで、もうその人生は素晴らしいものだと思われていたという非常にシンプルな、しかしとてつもないリアリズムがそこにはあります。このギリギリのリアリズムがあるから、日本では「人が一年食える」という基準で、広さを測り、石高を計り、大名の勢力を計り(加賀百万石とか)、士の給料を計ったわけです。「食う」ということに貫かれて社会が設計されている。これは日本だけではなく、どこでも同じでしょう。
話がちょっととっちらかっちゃったけど、ヨーロッパの中世封建社会というのは、上に見たように各異民族の襲撃という外的条件、気候条件、生産力などの基本条件によって成り立っていったのでしょうね。そのベースにあるものは「食う」という農耕生産システムのリアリズムだと思います。このリアリズムまで分からないと、なんか歴史を学んでいても、ツルツル出来事が上滑りしていく感じがしてイヤなんですよね。
ところで、一旦中世封建社会というものが成り立つと、その上にまた新しいカルチャーが出来てくるようになります。
封建制度が一代限りの契約から、世襲的なものになり、積み重なり堅牢なものになっていくにつれて、騎士には騎士の道徳や文化が出来てきます。日本における武士道みたいな、騎士道、ナイトシップが生まれてきて、独特の正義感や美意識、さらには「白馬の騎士」的なビジュアルイメージが出来てきます。貴婦人に対する献身とか、勇気とか高潔さとかが求められ、これをベースに様々な騎士道物語が出来てきます。「アーサー王と円卓の騎士」とか、ドンキホーテとか。大体、若くて逞しい青年が修行をして強い騎士になり、住民やお姫様を助けるためにドラゴンをやっつけにいくというヒロイックファンタジーが生まれます。そして、ドラクエなどの現在のゲームにまでこの物語パターンは踏襲されることになります。
では、こういったヨーロッパ中世社会におけるキリスト教というのは、いったいどういう存在だったのか?です。
既にこの先も書いたのですけど、この時点でかなり長くなってしまったので、次回に廻すことにしますね。
文責:田村
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