ツイート
今週の1枚(09.01.19)
ESSAY 395 : 世界史から現代社会へ(58) インド(1) アーリア人概念、カースト制度について
写真は、Camperdownにあるアウトドア用品屋さん。アウトドアが大好きなオージーですから、この手の店、この種の商品は山のようにあります。
さて今週からいよいよインドをやります。
BRICsの一角を担い、今回の世界経済危機以降の世界=ポスト・アメリカ一極支配構造において、中国、ブラジル、ロシアに並ぶ主要プレーヤーになるインドです。インドの重要性は今更ここで僕が説くまでもないでしょう。重要なだけに時間をかけてやりたいと思います。
インドについてこれまでの復習
さて、インドの歴史については西洋史との関係でこれまでに幾つかやってきています。抜き出してみると以下の通り。
ESSAY368 (シリーズ34) 世界大戦前夜(2) 〜帝国主義の世界侵略 - 中東、アフリカ、インド、アジア
ESSAY374 (シリーズ40) 世界史の大きな流れ〜イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY377 (シリーズ43) 戦後世界と東西冷戦
ESSAY379 (シリーズ44) 東西冷戦・中期の動揺〜第三世界、文化大革命、キューバ危機
と、リンクを上げておいても読み直すのが大変でしょうから、これまで述べたところを編集しなおして掲示します。
インドが西欧諸国に植民地支配を受けてから、独立し、インディラガンジーが暗殺されるところまで、です。
インドの植民地支配
ヨーロッパが大航海時代に突入したとき、その第一世代になったのがスペイン、ポルトガルでした。これは中南米の歴史でもやりましたよね。植民地支配の先駆けになったこの両国のうちポルトガルが、インドを含むアジア方面に進出します。ポルトガル衰弱後取って代わったのが第二世代のオランダで、オランダがまだ強勢を誇っている間に第三世代のイギリスを打ち負かします(アンボナイト事件など)。当時はインドネシアなど東南アジアの方が香辛料などの関係で魅力的だった為、そっちはオランダが取ってしまったわけです。競争に敗れたイギリスは仕方なしにインド方面を支配します。しかし、何が幸いするか分からないもので、インド綿織物の爆発的ヒット、さらに産業革命とジョイントしてインド綿花栽培など、イギリスはインド支配で甘い汁を吸います。
17〜18世紀のイギリスは、インド綿織物を巡ってインドブームになります。こうなるとインドの方が美味しく見えるので、オランダやフランスがインドの支配権をかけてイギリスに挑みかかります。しかし、当時のオランダは本国における3回の英蘭戦争で弱体化していますし、フランスは1757年のプラッシーの戦いでイギリス軍に敗北し、イギリスはインドの支配権を守りきります。
こう書くと、まるで無人の大陸を西欧列強が戦っているようですが、アメリカにインディアンがいたように、インドにも先住民族はいます。いるどころか、ヨーロッパ以上の歴史と伝統を誇るインド文明のもと、数億人という規模でインド人は存在してました。当時インドを支配していたのは
ムガール帝国
でしたが、オスマントルコと同じく最盛期は過ぎ、内紛が絶えない斜陽期でありました。だからこそ列強のつけいるスキを与えてしまったのでしょう。
イギリスのインド支配の拠点になったのは
東インド会社
(1600年設立)ですが、この会社、最初は文字通り商社のような存在でしたが、徐々に支配が強まるにつれ、占領軍政府のような公的機関になります。1764年、ムガール皇帝とベンガル地方の太守の反抗を鎮圧したイギリスは、ベンガルをはじめとする広汎なエリアの徴税権や裁判権を獲得し、この時点で東インド会社はイチ企業ではなく、植民地支配政府たる性格を帯びてきます。
もっともインドは広大であり、一気にイギリスの支配が浸透したわけではありません。南インドではマイソール王国が4回にわたってイギリスと交戦し、中部ではマラータ族との戦争がありました。また、西北インドではパンジャーブ地方のシーク教徒と2回にわたって戦争をします。これらの反抗はいずれもイギリス軍によって鎮圧され、19世紀中葉にはイギリスの全インド支配が完成します。
イギリスとインドの経済関係は、初期においては、インドの綿織物→イギリスが輸入するという関係でした。ところが資本主義の発展でイギリス本国に大商人が増えてくると、インド貿易を独占している東インド会社が逆に邪魔な存在になっていきます。1813年には東インド会社の(紅茶以外の)独占権が廃止され、さらに1833年には東インド会社のインド商業活動が禁止されたりします。このように「商業活動のできない会社」という珍妙な存在になった東インド会社は、以後純然たる統治機関になります。
さらにイギリス本国で産業革命が進んでいくと、イギリス国内でも安い機械織りの綿織物が製作できるようになり、綿織物の輸出入関係は逆転し、イギリス→インドに向けて安価な製品が大量に出回ることになります。この国際的ダンピング攻勢で、インドの地場産業である綿織産業は壊滅的な打撃を被り、以後、インドは単なるイギリス商品の消費地であり、原材料供給地の地位に転落します。こうしてインドは、軍事的のみならず経済的にもイギリスに支配されてしまいます。
イギリスは、白人独特の優越的世界観から、カースト制や殉死、女性の地位の低さなど「遅れた文化をもつ可哀想なインド」を近代化しようとして、あれこれ力を入れます。英語教育を行い、イギリス式の社会システムを導入し、インド人を近代的に啓蒙しようとします。これらの事業は自分らの植民地生活を快適にするという実利もありますし、同時に白人によくある「傲慢な善意」の現れでもあります。
ただ、このようなイギリス政策によって、インドは英語が公用語の一つになるなど準イギリス化し、それが今日のインドの経済発展の大きな原動力にもなってます(ビジネスマンやインテリ層はほぼ当たり前のように英語が喋れる)。が、日本人のようにいきなりアメリカナイズされはしません。あれだけイギリス支配を受けながらも、相変わらずカーストはあるし、ガンジス川に死体は流すし、インド人頑固です。まあ、考えてみれば4000年の歴史のあるインドですから、たかだか数百年の歴史しかないイギリスなど、長い歴史のヒトコマ、数ある新興国のうちの一つに過ぎないのかもしれません。
インドの独立運動
このようなイギリスによるインド支配が進むのですが、当然のことながら地元インドにおいても”攘夷”活動が起きます。その典型的なのが、有名な1857年の
セポイの乱
です。「セポイ」というのは、傭兵のことですが、一部の傭兵が反乱を起こし、武器弾薬を奪ってイギリス人を殺害し、監獄を襲って仲間を解放します。デリーに向かった反乱軍に、市民も参加し、有名無実化していたムガール帝国皇帝シャー2世を擁立し、王の檄文を送り、インド各地で反乱の火の手があがります。文字通り”尊皇攘夷”です。この反乱はかなりのところまでいっていたのですが、統一組織がなく、目標もない烏合の衆であったため、イギリスが各有力者を切り崩し、各個撃破していくにつれ、最終的に鎮圧されてしまいます。ムガール皇帝はビルマに追放され、息子達は処刑され、ここにムガール帝国は完全に消滅します。
なお、東インド会社は反乱を招いた責任から解散させられ、イギリス本国の直轄統治におかれます。後の1877年インドは正式にインド帝国になり、ビクトリア女王がインド皇帝を兼ねるという完全にイギリス領国になります。この反乱で懲りたイギリスは、インド内にある500を超える藩主国を巧みに操り、分割統治を始めます。これは徳川家康が日本を細分化し、互いに牽制させあって統治した手法に似てます。
第一次大戦中、イギリスは中東で行ったような二枚舌外交をつかいます。「戦争に協力してくれたら独立させてあげるよ」と。インドは120万人も兵隊を動員して協力しましたが、その見返りは微々たるものでした。それどころか、ローラット法という「法の支配」の国とは思えないような悪法を押し付け、インドの民族運動を弾圧するようになります。抗議集会につめかけた群衆にイギリス軍が発砲、数百人が死亡するというアムリットサル虐殺事件が起こり、インド民衆の反英運動は激しくなります。
有名な
マハトマ・ガンジー
はこの時代の人です。ロンドン留学して弁護士でもあるインテリのガンジーは、南アフリカで弁護士として開業、差別禁止運動に関わります。1915年にインドに帰国したあと民族運動(国民会議)に身を投じ、非暴力・不服従の運動をリードします。このガンジーの動きに、インドのイスラム教徒(ムスリム連盟)も提携、広範なイギリスボイコット運動が広がります。その過程での暴動事件で、首謀者と目されたガンジーは懲役刑に処せられ投獄されてしまいます。一方、ガンジーと同じくイギリス帰りの弁護士である
ネルー
がより急進的な左派グループを指導して台頭、1930年ネルー指導のもと、再び非暴力運動が始まります。釈放されていたガンジーもこれに参加し、360キロに及ぶ
塩の行進
(イギリスの塩専売に反対して)を行い、また逮捕されてしまいます。
一般に民族運動や独立というと、強固な地盤のある軍関係者や地方有力者がリーダーシップを握り、クーデターのような形で行うというのが通り相場だったのですが、ガンジーはこれを転換させ、運動そのものを広く一般民衆に浸透させていきます。革命における”革命的”発想であり、ここがガンジーの凄味だと思います。政治家や革命家というよりは、哲学者、宗教者的な雰囲気を漂わすガンジーは、一段高次なレベルから非暴力不服従(これはインドの各宗教に伝統的にある考え方らしい)という指導理念を導くとともに、これだったらどんな弱者や貧者でも参加できるという点にポイントがあります。イギリスも昔からの利権の塊であるインドにはかなり執着していて、飽きもせず弾圧をしたり、あるいはロンドン円卓会議で懐柔策を講じたりしますが、効果はありませんでした。有力な反抗勢力を軍事的に潰せばそれでよいという戦いではなく、数億のインド民衆を敵に回すような構図にさせられているので有効な鎮圧法が見つからなかったのでしょう。1935年にはイギリスも譲歩して新インド統治法によって自治権の拡大をみとめ、第二次大戦後の47年にインドは正式に独立します。なお、セイロンは、イギリス連邦自治領として独立し、後に国名をスリランカ共和国に改めます。
独立後のインド
ガンジーは大戦前に国民会議を引退し、カースト差別によって苦しむ不可触賤民の地位向上運動に努めており、独立後の新生インドは、初代首相ネルーのもとで憲法が整備され、インド連邦共和国と国名を変えます。しかし、「一難去ってまた一難」ということで、イギリスが去ってからインドはより大きな困難に直面します。それはヒンドゥーVSイスラムの対立です。既に両派の対立は、独立前の1935年の自治権拡大の頃から目立ってきており、国民会議での内紛もあれば、独立後には国内各地で武力衝突まで起きるようになります。
イスラム教徒が多数を占めるエリアでは、インドとは異なる独立国(パキスタン)を主張していたので、インドの独立もパキスタンとは切り離しての分離独立になりました。両国のいがみ合いは戦後も続き、特に両国の狭間にあるカシミールでは武力衝突が起こり((第一印パ戦争)、パンジャブ、ベンガル地方では多くの難民が生じます。対英よりも両宗派の融和に心を砕いたガンジーは、紛争の激しい地方に赴いて平和を説いていたのですが、1948年1月30日に狂信的なヒンドゥー教徒に暗殺され、78歳の生涯を閉じます。
インド独立後の初代首相となったネルーは、スカルノやナセルとともに第三勢力の雄として活躍しますが、1964年に死去。とたんに1965年からはカシミール地方をめぐって第二次印パ戦争が起きます。ネルーの後継者シャストリは、紛争解決に努め、なんとか休戦まで漕ぎつけましたが、心労がたたったのかわずか2年で死去してしまいます。66年にネルーの娘である
インディラ・ガンジー
が第三代首相になります。
インディラ・ガンジーは、よく間違えるのですが(僕も誤解してました)、ガンジー(マハトマ)の娘ではなく、ネルーの娘です。ガンジーとは血縁関係はなく、なんでガンジーなのか?というと、ガンジー姓の旦那さんと結婚したからにすぎません。 病弱な身体を押して反英活動のために2度も投獄されている母カマラの姿に接していた幼い少女のインディラは、「私はインドのジャンヌダルクになろうとひそかに決意した」と言われています。幼少の頃にマハトマ・ガンジーに可愛がれ、子供ながらに父ネルーの政治活動の手伝いをしていた(警察が見張っている自宅から父の秘密文書をランドセルに入れて運んだ)彼女は、イギリス留学中も独立運動に身を投じ、そこで奇しくもガンジー姓をもつ独立活動家の青年フィローズ・ガンジーと25歳で結婚します。新婚半年にして独立運動を理由に英国政府に逮捕され243日に及ぶ獄中生活を送ります。このような筋金入りの環境で育った彼女は、首相になった当初は単なるお飾りだと思われていたそうですが、インド歴代でも最強の指導力を発揮する大政治家に化けます。
1971年パキスタンは、さらに西と東に分裂し、東パキスタンはバングラディッシュと改称します。このとき、インディラ・ガンジーは東パキスタン(バングラディッシュ)の独立運動に軍事介入、わずか2週間でパキスタン軍を沈黙させ、バングラディッシュを独立させています。1975年選挙違反によって有罪、議員資格停止になると非常事態宣言を発令し、野党議員を逮捕するという強面ぶりを発揮。しかしその後の総選挙で惨敗するや、あっさり政権を委譲します。そして3年後の選挙で見事返り咲き、政権を奪回、以後84年に暗殺されるまで首相を務めています。暗殺される月、虫の知らせかインディラは遺書をしたためていたそうです。なお、長男の
ラジブ・ガンジー
が後継者になりますが、彼も91年に暗殺されています。
以上がこれまでのインドに関する記述ですが、これらは西欧史、あるいは戦後の国際情勢という狭い視点から垣間見ただけのことで、インドという国を理解するにはこれでは全然足りません。インド4000年の歴史からしたら、西欧による植民地支配など長い歴史のほんのヒトコマに過ぎず、ここだけ見ていても、なんでインドにカーストなんてあるの?なんでインドではヒンズーとイスラムが対立しているの?というあたりがよく分からないからです。ということで、視野をグーンと広げて、抜本的にやり直します。
「アーリア人」とは何か? 〜アーリア人/アーリア人種/アーリアン学説/サンスクリット語/インド・ヨーロッパ語族/コーカサス人種の概念弁別
ここで話は一気に大昔に遡ります。古代史からやりなおすのは、紀元前の出来事が現在にも強くインドに影響を与えているからです。
インドの歴史は紀元前3500年ほど前まで遡ります。地中海方面からやってきた
ドラヴィタ人
達が、移住後1000年ほどしてインダス川流域に有名な
インダス文明
を築きます(紀元前2600年)。ハラッパー文化とも呼ばれます。農耕や都市などかなり高度な文明を持っていたらしく、モヘンジョダロなど遺跡は有名ですから名前くらいはどっかで聞いたことがあるでしょう。
ところがこのインダス文明は紀元前1800年頃に滅亡してしまいます。なぜ滅亡したかは古代史のミステリーになっており、被征服説、気象変化説などがありますが、最近では地殻変動によって文明の根本であったインダス川の河川体系が破壊されたという説が有力だそうです。まあ、いずれにせよ、インダス文明は終焉を迎えます。
その後、紀元前1500年頃にイランあたりから遊牧民
アーリア人
が侵入し、先住民族であるドラヴィタ人達を支配するようになります。ここが現在に続くインドの原点になりますが、ここを起点に数えればインドの歴史は3500年、インダス文明から数えれば4600年にもなる途方もなく古い国です。
さてこのアーリア人というのが世界史の大きなポイントになります。ナチスのヒトラーが「偉大なるアーリア民族」を唱えていることから、その末裔はヨーロッパにまで及び、且つインド・ヨーロッパ語族という欧州から中央アジアにまたがる巨大な概念もあります。インド人やインド語というのは今日のヨーロピアンやヨーロッパ言語の先祖なのかという話にもなりがちで、このあたりは誤解や俗説も入り乱れて非常に分かりにくいエリアです。僕もゴチャゴチャになっててよく分かりませんでした。「アーリア人」「アーリア人種」「アーリア学説」「サンスクリット語」「印欧祖語」「インドヨーロッパ語族」「コーカサス人種」など、色々な概念があるわけですが、正確な関係はどうなっているのでしょう?
まず、
サンスクリット語
という言語があります。これは実在しました。日本でいえば「梵語」であり、昔のお墓の卒塔婆や石碑、あるいは密教系の文書に書かれている文字で、誰しも見たことがあると思います。修法などでも出てくる「ノウマクサマンダ バザラ ダンカン、、、」とかいうアレです。真言宗の真言とはサンスクリット語でいう「マントラ」ですし、マンガでいえば「孔雀王」とか「陰陽師」に出てくるアレです。わかると思いますが。サンスクリット語は、アジアにおけるラテン語のようなものです。昔々の学術用語であり、広いエリアで共通語、公用語として使われていたので古い時代の文献によく出てくる。超メジャーな言語のくせに、現在は日常で使用とする話者がほとんどいないという意味でもラテン語に似てます。ラテン語とサンスクリット語にギリシャ語を加えて、世界三大古典学術用語と呼ぶらしいです。
ちなみに人類史上、言語というのは無茶苦茶たくさん登場しており、リアルタイムでも(数え方によるけど)1000のオーダーを越えるとも言われています。これが人類史全てとなったら、もう数万とかいう単位であったことでしょう。そのなかで三大古典言語、特にラテンとサンスクリットが有名で、且つ今もなお学べるくらいよく保存されているのは何故かといえば、学術用語なだけに膨大な文書資料があるからでしょう。資料になるものがなかったら、戦争や天災でその部族(その言語の話者)が死に絶えてしまえばそこでその言語は途絶えます。録音技術なんかあるはずもないし。
ところで人類が「文字」というものを日常的に使うようになったのはわりと最近のことで、その昔は貴族とか学者(聖職者)など一部のエリート階級だけのものでした。なぜなら一般庶民が文字を使うためには、その前提条件として「紙とペン」というものが大量生産出来るようにならないとダメですし、且つ社会インフラとしての教育システムが確立していることも必要です。ヨーロッパにおいてはルネサンスの頃まで異様に面倒臭い工程でつくる高価な羊皮紙に、修道院の人々がせっせと写本していました。ヨーロッパに紙の製法が伝わったのは13世紀、グーテンベルグの活版印刷は15世紀であり、この頃からようやく一般民衆に文字文化が浸透していったものと思われます。中国はその千年前から紙を使っており、日本にも早い時点で(7世紀まで)伝わっていたのですが、それにしても安いものではなかったでしょう。古代において文字を使うというのは、もうそれだけで特権階級的な、学術的な用法になっていたのだと思われます。
物事の自然のなりゆきでいえば、言語における「文字の読み書き(ライティングとリーディング)というのは、むしろ例外的であり、コトバというのは本来がスピーキングとリスニングでなりたっていたのでしょう。そのことは、文盲という存在はあっても、その逆(読み書きは出来るが喋れない)は無いということからも分かります。言語類似のコミュニケーション能力を持つとされる他の動物(イルカとかサルとか)においてもサウンドないし身振りというビジュアル(尻尾を振るとか、威嚇のポーズとか)はあっても、文字は使いませんもんね。日本人が英語について良くいう「リーディングは出来るが、スピーキングが苦手」というのは、本来の言語のあり方からしたら、かなり変な状況です。識字率が非常に高い日本人の僕らには言語=文字という感覚が抜けず、「文字とは縁のない言語」のあり方が中々ピンときませんが、おそらく昔の庶民における「文字」というのは、現代におけるコンピューターのプラグミング言語のような感じだったのかもしれません。コンピューターは誰でも使ってますが(電卓やATM、携帯だってそうだし)、プラグラミング言語を読めたり書けたりする人は、ごく一握りの技術者でしかありません。でも、それで不都合を感じてないでしょ。そんな感じだったんじゃないかなあと。ま、推測ですが。
さてこのサンスクリット語をインドで研究していたウィリアム・ジョーンズという人が、「あれ、これってラテン語やギリシャ語に似てるじゃん」ということを指摘し、インドの言語もヨーロッパ言語ももともとは一つの言語だったんじゃないかという仮説を打ち出します。これが
インド・ヨーロッパ語族
という概念の始まりです。そして、この元となる言語を
インドヨーロッパ祖語(印欧祖語)
といいます。しかし、早とちりすべきではないのは、インドヨーロッパ語族という”民族”がいたわけではないということです。また、印欧祖語についても理論的に「あったはず」という形で想定されているだけで、実在が証明されているわけではないです。
「語族」というのは、音韻や文法の類似性などから言語学的に「同じ仲間」としてグルーピングされているだけのことで、同じ語族に属するけど民族的には全然違うということはあり得ます。これは、例えば日本語の場合、古来から中国語の影響をバリバリ受けています。漢字なんかまさにそうです。短歌のことを”和歌”といいますが、昔は詩といえば漢詩を意味し、詩吟は漢詩を対象にしますよね。漢詩の場合は文法もそのまま中国語ですから、1万年後の考古学者は日本では中国語を喋っていたと勘違いするかもしれません。近代になると英語等の影響をバリバリ受けています。カタカナ語として取り入れられている英語(あるいは他の西欧言語)がどれだけあるかというと、数千ではきかないかも。コンサイス カタカナ語辞典第2版が約5万2千語っていうんだから。でも、幾ら外来語を取り入れようが、日本人がアメリカ人になるわけでもないし、日本大和民族と漢民族は別民族でしょう。また征服民族が被征服者達に自民族の言語を公用語として押しつけたケースは沢山あったでしょうし、平均寿命が30-40歳程度だった昔においては、すぐに世代交代が起こり、自然と母国語のようになってしまったでしょう。
したがって、語族=民族ではない。それに数千年前の古代においては、シルクーロードのように行商したり、干ばつ避難や遊牧などで人々はあっちこっちに行ってたでしょうから、それらしき共通語みたいなものが自然と出来ていても不思議ではないですし、広い範囲に広まっていたとしても理解できます。このインド・ヨーロッパ語族仮説に基づいて、片端から世界中の言語が研究され、ジグソーパズルをはめこんでいくように、AとBは同じグループ、CはDよりもAに近いかなとかいう語族−語派の分類整理が行われましたし、今もなお研究中です。
語族=民族ではないにもかかわらず、そういう民族がいたんじゃないかという早とちりがなされます。インドヨーロッパ語族のメインとなる民族がアーリア人であるとする、
アーリアン学説
というものが登場します。これを言いだしたのがドイツ人の
マックス・ミューラー
という人で、古来ユーラシア大陸を支配した優秀なるアーリア人という人種がおって、彼らの一部が南に下ってインドに入り、また別の一派が西に進んでヨーロッパ人の祖先になったという説です。言語と民族が違うように、民族と人種もまた違うのですが、彼は強引に、インドヨーロッパ語族=インドヨーロッパ民族=アーリア人種と全部ひっつけてしまうのですね。「アーリア」というのはサンスクリット語で「高貴な」という意味ですが、人類の種として優越していたアーリア人種というものを考えたわけです。はい、ここまできたら人種差別までもう一歩です。
この学説は「世界は俺たちのもの」と思ってたヨーロッパの白人達の優越感をくすぐるだけではなく、政治的にもガンガン悪用されました。人種差別の正当化に使えるわけで、金髪碧眼の高貴なる白人種は生物学的にも優秀なのだから地球を支配する権利と義務があるとか、同じアーリア人でもインド人は劣等アジア人種と混血したので質が下がったとか言いたい放題。このアーリアン学説は、現在では全く科学的根拠がないということで否定されており、いわばトンデモ学説になってますが、この種の疑似科学が大好きな人はどこの世界にもいるわけで、ナチスのヒトラーが大ファンになります。高貴なるアーリア人の血を引く優秀なる純血ゲルマン人種が、劣等下等な他人種を「指導」してやるのは当然だ、高貴な責務なのだと演説をブツわけです。しかし、ヒトラーだけの妄想ではなく、イギリスもインドの植民地支配をするときには、「同じアーリア人の兄弟じゃないか」という支配の正当性を打ち出したりするわけです。この俗説アーリアン学説は、今でもネオナチ君とか西欧社会の人種差別者達は好んで援用しています。
「アーリア人」には広義と狭義があり、狭義的にはイラン・アーリア語族とインド・アーリア語族があるだけと言われています。広義では、上記の多くの民族の祖先になったアーリア人ですが、現在はこういう考え方は否定されているのが一般です。
もう一つ混乱しやすいのが
コーカサス人種(コーカソイド)
という概念です。人類にはいくつの人種があるのかというテーマで、色々なグルーピングがなされ、4大人種、いや6大人種だとか色々言われましたが、ネグロイド(黒人種)、コーカソイド人種(白人種)、モンゴロイド(黄色人種)に、オーストラロイド(インド南部からオーストラリアのアボリジニ)が加わって4大人種とも言われます。この中で、コーカサス人種(コーカソイド)という概念がありますが、これは「白人種」となってますが、中東からインドまでを含みます。確かに鼻が高く彫りが深いという点では似ており、またユーラシア大陸の中央あたりから派生してきたと言われているので、これとアーリアン学説がゴッチャになりがちです。
しかしながら、このような人種分類も大雑把な区分けに過ぎません。大雑把どころか、あんまり意味ないんじゃないの?というのが最近の流れのようです。この人類分類学説も、出てきた当初は白人の優秀性をなんとか強弁しようというトンデモ学説でありました。だいたいなんで「コーカサス」なのよ?という疑問があるわけです。コーカサス(カフカース)というのは現在の南ロシア方面、黒海とカスピ海に挟まれたエリアで、ドンパチやってるチェチェンなどがあるところです。あのあたりは確かに中央アジアとヨーロッパや中東へ抜ける交通の要所であり、古来多様な民族が住んでます。だけど、あのあたりを発祥としながら、「白人&金髪碧眼」を特徴とするのは無理がありますよね。言い出した人はブルーメンバッハというオジサンですが、この人の説も、「とにかく白人が優秀なの!」という最初に結論ありきみたいな感じです。で、なんで「コーカサス」かといえば、旧約聖書のノアの箱船伝説でノアがたどり着いたのがコーカサス地方だったからということに過ぎません。要するに「ノアの箱舟で、コーカサス地方に辿り着いた人々の子孫で、善である白い人」=コーカサス人種というだけのことです。
もともと生物学的に言えば人類(ホモ・サピエンス)というのは一種類しかいません。最新の遺伝子研究などによれば、「見た目」と遺伝子的近似性はそれほどピッタリ付合するわけでもないそうです。また、白人とか黒人とか「肌の色」はかなりいい加減であり、白人種(ヨーロピアン)といいながらも全然白くない人は山ほどいますし、いわゆるコーカサス人種(白人種)というのは肌の色が最も多様な人種でもあり、「白人」というよりは「雑色人」と言った方がいいのでしょうね。DNA的近似性では確かにコーカサス人種と呼ぶべき一群はあるようですが、「コーカサス」という呼び方が科学的根拠薄弱なので「西ユーラシア人種」という言い方に変わりつつあるようです。また、インド人もアラブ人も全部コーカサス人種に入るのですから、「白人種」とするのは明らかに間違いでしょう。もっといえば、「人種」という概念そのものが自然科学的根拠に乏しい幻想のようなものだという説もあり、自然科学としての人類分類は、「その昔、似たような文化、生活スタイルをしていた人達」ということで、徐々に社会科学や人文科学としての民俗学や考古学、社会学に置き換えられているようです。
以上、この機会に「アーリア人」についてちょっと調べてみました。
インドに入ってきたインド・アーリア語族ですが、「色の白い鼻の高い人達」と書かれているものもありますが、あんな低緯度地帯におってメラニン色素が乏しい白人系だったとは思えないですね。ヨーロピアンだって本当に「色白・金髪・碧眼(+長身)」の三拍子揃ってるのは北欧系の人達くらいで、イタリアやギリシャになるともう色黒・黒髪・黒目・中身長になりますから。ただ、鼻は高かったと思われます。乾燥温帯地方に住んでいると、呼吸の際に湿気を補充するために吸入口(鼻孔)を大きくする必要があり、これが「高い鼻」のメカニズム的所以らしいです(まあ、これも色んな考え方があるようですが)。
カースト制度はなぜあるのか?
さて、このアーリア人がインドに住み着き、先住民族であるドラヴィタ人達を圧迫支配するようになります。
前回に述べたように、アーリア人が固有文化としてもっていたバラモン教、その聖典であるヴェーダなどが、インド土着信仰であるヒンドゥー教の中に溶け込み、渾然一体となってヒンドゥー教になっていきます。
その際、アーリア人内部の階級と、アーリア人と被征服先住民ドラヴィタ人とを区別するために、カースト制度というものがしっかり社会の中に取り入れられ、バラモン教(ひいてはヒンドゥー教)の根本理念としてインド社会を縛り付けるようになります。これは今日でも続いています。
前回、バラモン教やヒンドゥー教の本来の趣旨(梵我一如と輪廻)からは階級差別的なカーストという発想は出てこず、アーリア人がドラヴィタ人を支配するための政治的ツールとして使われたと書きましたが、もう少し立ち入って調べてみると、バラモン教の本来の趣旨からカーストは出てくるのだけど、それを後世に支配の道具として活用したって感じらしいです。
「カースト」というのはポルトガル語で、外人(西欧人)がそう呼んだだけの話で、本来は
ヴァルナ
と
ジャーティ
という言い方をします。この内容も諸説ありますが、まずは大雑把な理解から入ると、ヴァルナが大分類でジャーティが小分類。ヴァルナというのは社会の中の身分階層を大きく4(5)つに分類するもので、聞いたことがあると思いますが、最高位から順に、バラモン(司祭者)→クシャトリア(貴族、武士)→ヴァイシャ(商人、平民)→スードラ(奴隷)→アウトカースト(カースト外の存在、アチュート、アンタッチャブル、不可蝕賤民)に分かれます。日本でいえば士農工商・穢多非人みたいなものです。
士農工商の中にもさらにランク分けがあります。同じ武士階級でも、大名もいれば家老、旗本、馬廻、徒士頭、、と細かく分類されるし、商人の中でも材木問屋、廻船問屋もいれば表具屋、大工なんかもあります。このように職業別電話帳のように細かく分類し、上下関係をつけたのがジャーティという概念です。でも、こんなのどんな社会でもあります。今の日本だって、「大卒」というヴァルナがあって、そのなかに東大卒、京大卒、さらに東大でも法学部とか医学部とか、さらに○○ゼミ出身とか、いくらでも細かくなります。だから、カースト制度がないと言われる日本でも、結構感覚的にはわかっちゃったりします。
余談ついでに「カースト外の人達」ですが、不可蝕賤民とか穢多非人とか言われますが、一般に職業的にいえばツラくて汚い仕事に従事する人を指すようです。学期のはじめのクラス会で、検便を集めなきゃいけない保険委員が欠席裁判で決まるように、イヤな仕事は弱い人に押しつけられる。古来イヤな仕事といえば、家畜の屠殺、糞尿の収集、死体の埋葬などで、最もワリを食っていた社会的弱者の仕事にさせられ、しかもその仕事をやってるという理由で、「汚い」「人間以下」と蔑まれたりします。しかし、これもヒドイ話で、皆のためにしんどい仕事をやってくれてるのだから、感謝をもって報いねばならない筈でしょ。なのに不可蝕賤民とかいって差別するという。この一点だけとってみれば、人類なんかクソであり、今日にでも絶滅しちゃえばいいんだって気にもなります。クラスの中で力が弱くイジメられている少年がパシリをやらされてるようなものであり、あれはクソなる人類の原型でもあります。
日本史における士農工商以下とされた穢多非人階級ですが、そーゆー階級が確固としてあったというよりは、「雑多な」「それ以外の」くらいの意味で、本来のカチッとした身分階級にどうもハマらない人達を総称していただけのようです(呼び名は地方によってバラバラ)。時代劇を見てても、「この人何なの?」みたいな人達が出てきますよね、旅芸人とか武者修行とか謎の虚無僧とか。ああいうフリーな人達が「それ以外の人達」です。日本の昔も身分階級がカチッとあるようで、ないようでよう分かりませんね。士農工商とか細かな職制はあるんだけど、別に皆がそれに従ってたわけでもない。オフィシャルにはあったのだろうけど、誰もがそういう価値観に縛られていたわけでもなさそうです。
飢饉で村から逃げてきた農民、お家取り潰しで失業した素浪人などの浮遊階級が出現しますし、彼らも生きていくために色々やらねばならなかった。元○○藩士という武士階級でありながら、町人の長屋に住み、傘張り浪人をやったり、剣術道場や読み書きそろばんを教えたり。彼らは階級的にいえば何になるのか、よう分からんところがあります。また、都市社会の成熟によりこれまで存在しなかったニッチ産業が興り、新しい職業が次々に出てきます。それが例えば河原者といわれる歌舞伎役者や人形浄瑠璃や義太夫などの芸人集団であり、現在でいえばロックスターや映画スターのようなセレブです。また彼らを写した絵師であるとか、ツタヤのようなメディア流通業者が出てきます。遊郭には売春婦とそれを仕切るビジネス組織があり、幇間という職業もあり、全国に女衒というスカウト師が飛びます。僧侶階級でも住職や寺男とという"就職"が出来た人々以外にも、修験者がおったり、行者がおったり、尺八吹いてる虚無僧がいたりします。越中富山の薬売りもいれば、清水次郎長のような”博徒”と呼ばれる集団もいます。めちゃくちゃ色んな人達がいます。彼らは本来の士農工商からしたら微妙に「枠外」だったりするケースも多いでしょうし、その意味で言えば穢多非人です。でも、普通に存在が許されてたり、人気役者や絵師は民衆の支持によって独特の高い地位を占めていきます。吉原の一流どころの花魁はかなりセレブとして尊敬されていたようですし。
これは今の日本にだって通用する話で、士農工商的価値観で生きている人と、もっとフリーに生きている人がいます。前者は、いい大学を卒業して、高級官僚や医者や弁護士のような特権職につくか(士)、大企業のサラリーマンになるか(工商)、女性だったらそういった旦那さんをもらって専用主婦をして子供ももうけて良妻賢母でやっているという。こういう人達こそが「まともな」人達で、それ以外は全部出来損ないの落ちこぼれだという価値観を持ってる人だって日本人の中にはいるわけです。しかし、そうやってガンジガラメに縛られて汲々と生きていくことこそクソだという価値観もまたあるわけで、スターを目指したり、スポーツ選手、自分なりの芸術活動、ボランティア、、、いろいろなフリーな生き方もあります。前者がカースト内部で、後者がアウトカーストの穢多非人みたいなもので、そのくらい漠然としたものに過ぎないと考えた方がいいと思います。
話がそれましたが、大きなヴァルナと細かなジャーティですが、バラモン教の前半においては、それほど強固な身分制度ではなく、聖職者が僧侶が知識階級として一番上で、王族や武士がおって、一般庶民がおって、、、という、大まかな分類でしかなかったようです。いわば大雑把な職業分類。しかし、本来は職業を意味するものであっても、世襲制度によって段々とそれが出自(生まれや家系)を意味するものに変わっていくのは世の常です。家老職は職業分類だけど、家老の門地・家柄という出生に関わるDNA的なものになります。名家の嫡男が巷の町娘と恋に落ちて結婚しようとすると、一族郎党あげて大反対するわけです。身分が違う、家柄が違うと。本来ジョブ=職業だったものが、職業=階級=家柄=出生=DNAと全部つながっていくわけですね。アーリア人も、インドに入ってきた頃は、まだ逞しく明朗な「開拓民一家」だったと思われるのですが、段々社会が確立し、集団内部を統率し、先住民を支配していくうちに、うるさいキマリを沢山作っていったのでしょう。
一方、バラモンというインテリ階級(当時は宗教=科学=知識人)は、最上階級でヒマなもんだから、ヒマにあかせて色々考えます。ウパニシャッドなど高度に緻密で思弁的なインド哲学が出てきてるわけですが、これがバラモン教の中の理論体系に組み込まれていきます。キリスト教でもそうですが、成立時点では素朴な「他人を許す優しい気持ちを持ちなさい」という道徳的確信といったわかりやすいものだったのですが、後に神学者とかそればっかやってるプロ集団が出てくると、三位一体の論理構造がどうのという、おそらくキリストが聞いても理解できなさそうな高度な学問になっていきます。
また、社会が豊かになるにつれ、どんどん新しい職業が出てきますし、人々の生き方もそれなりに多様になっていきます。「僧・貴族・平民とそれ以外」みたいな単純なヴァルナでは話が進まなくなっていき、サブカーストであるジャーティが考案されたともいいます。あれやこれやの社会的要因によってアーリア人支配社会でカーストがシステムとして強固なものになっていったのでしょう。
簡単に書いてますが、2000以上のサブカースト(ジャーティ)が定められていくのに1000年ほどの時の流れがあったようです。紀元2世紀には、マヌの法典という集大成が作られ、カースト制を固定化し、カースト制の下での生活規範を定められ、こういったバラモン教のシステムと土着宗教であるヒンズー教が大きく融合していったのが7世紀といわれます。
しかし、これだけでは、今なおインドでカースト制度が根付いている説明にはならないと思います。「もともとはそうだった」という3000年前の昔話に過ぎず、現状を説明するにはこれだけでは足りないように感じてました。「それだけじゃないだろ」と。
やっぱりこれによって支配されるドラヴィタ人達や、下層カーストに組み入れられた人達が、「いーんでないの」という消極的肯定くらいしてないと、こうは根付かなかったと思うのですね。アーリア人支配とかいっても、あとで述べるようにイスラム民族に征服されたり、上に書いたようにイギリス人に植民地にされているのだから、カースト制度が真に不満なら、これをひっくり返せる機会は幾らでもあったと思われるからです。それなのに、なんでまだやってるの?という。
まず、カーストをバラモン教の梵我一如+輪廻思想とどう理論的に融合するかというと、「現在のカーストは前世の行いの結果である」という理屈になります。現在カーストが低いのは、前世で良くないことをしたからであり、今世で頑張れば来世は上位カーストに生まれ変われるという発想です。能力別クラス編成をやってる学校のようなもので、前期の学年末試験の結果によって今期のクラスが決まるという。で、一番上のカーストであるバラモンは、バラモン=ブラフマン(梵天)ですから限りなく神に近づくという。生まれてから死ぬまでの「今世」だけを基準にものを考えれば(それが僕らの普通の発想だけど)、確かにカーストはものすごい理不尽な差別システムです。しかし、今世など数限りなくある輪廻の一局面だと考えれば、単なる途中経過にすぎません。ましてや前世の結果が正しく反映されるとするなら、信賞必罰でメリハリをつけるためにも、低いカーストの人間を差別しなければならない。ここでなまじ平等にしてしまったら、何のための輪廻か、何のための努力かって話になるでしょう。差別こそが正義。入試で頑張って良い成績を取った人は入学、点数が低かったら不合格にするようなもので、そこでは合格/不合格という「差別」はありつつも、それは正当な結果であるから差別ではないということです。低いカーストに生まれてしまえばどんなに努力しても上位カーストにあがれないのは理不尽のような気もしますが、それは入試で不合格になったあとにどんなに勉強をしても不合格が取り消しになって合格になるものではないのと同じ。来年(来世)に向けて頑張ろうという話になるだけです。
輪廻思想は仏教にもあります。仏教はバラモン教の一宗派みたいなもので、それはキリスト教がもともとはユダヤ教の中の新興派閥であったのと似てます。輪廻という考え方は、釈迦よりも前、アーリア人のバラモン教によって説かれる前に、既にインドにあったという指摘もあります。また、インド人がなんであんなに哲学的で内省的なのかという点に関して、インドでは農業が容易だったからという指摘があります。インドの大河川流域では夏期に河川が適度に氾濫し、その土砂を利用して耕作するという氾濫感慨農業があり、また気候も熱帯のために種を蒔いておけば勝手に育つというイージーな部分があり、人々は個人個人でゆっくりものを考える時間があったから、哲学的で内省的になったという。興味深いですね。これが必死に皆で協力しないと餓死してしまう環境では、強固な協力体制=社会が生まれ、社会を統率するための倫理や掟が整備されたでしょう。日本もヨーロッパもそうです。でもインドでは、一人一人で「人間はなぜ存在しているのか」みたいなことを考えていたと。
素朴に考えた場合、他の宗教における天国地獄二元論よりは輪廻の方が合理的というか、希望があります。だって、短い一生の間にイイコトしたとか悪いことしたとかいう一時的な行為を理由に、永遠に地獄に落とされて苦しみ続ける、、、というのは、ちょっと救いがないというか、バランスを失してませんか。今回サボったから次回は罰としてショボイ人生を送り、そこで頑張ったら次はいい人生になり、それを繰り返していけば段々上にあがっていけるというのは、これは救いですよね。また、一回の人生の中でも、苦あれば楽あり的な因果関係は普通にありますから、この種の因果応報感覚は馴染みやすいです。というわけで、カーストはこの輪廻思想と強力に結びついたので、生き延びたという考え方があります。
しかし、僕はそれでも足りないと思います。そんな小理屈だけで、悲惨な日常が我慢できたとは思えないのですよ。もっと何かメリットがあったのだろう、と。
そしてここが多分インドの核心になるのだと思いますが、ブラックホールのように何でも呑み込んでしまう混沌としたインドの特性です。僕はインドに行ったことはないのですが、行った人の評論を読むと、とにかく「全てが過剰」だそうで、辛すぎるわ、甘すぎるわ、暑すぎるわ、人が多過ぎ、うるさ過ぎ、喋りすぎ、赤だったり黄色だったり、超金持ちもいるわ乞食もいるわ、、、無限とも思えるあらゆる断片がモザイク絵のようにトータルでインドを作っていると。インドには優に11億以上の人々が住み、公用語だけでも22あり(資料や時期によっても違う)、部族言語まで含めると860言語あるという資料もありました。民族も、別にアーリア人とドラヴィタ系の二種類だけではなく、数え切れないくらいいますし、インド自体が一個の世界、一個の宇宙のようです。インドとは○○であるというようなカチッとした概念がありません。むしろ「何でもアリ」こそがインドらしいのでしょう。
バラエティと表現するのも愚かしいくらいの爆発的な多様社会にもってきて、内省的で理屈っぽい人達だから、てんでバラバラ。強烈な天下統一によるモノカルチャーの支配という具合になりません。それに近いくらい支配したのはムガール帝国(イスラム帝国)とイギリスですが、どちらも外来者です。アーリア人とバラモン教がインドを支配したといいますが、実情はアーリア人とバラモン教がインドという巨大な混沌に呑み込まれ、咀嚼されたようなものでしょう。インドという広大な宇宙では、全国各地にそれぞれの部族がそれぞれのカルチャーを持ち、全てのものを神とあがめるアミニズム的な土着宗教があり、それらを総称してヒンドゥー教と呼ぶというのは前回書きました。ヒンドゥー教は緻密な論理体系を持つバラモン教を強力な消化能力で飲み込んで、自らもまた進化を遂げます。
さて、それがカーストとどういう関係があるかですが、こういった巨大な海の中で人々が生きていくためには、拠り所となる小集団が必要だったのだろうと思われます。それは出身部族であったり、同業者組合であったり、それぞれがグループ化し、お互いに助け合って生計を立てていくというやり方です。変な例えですが、マンガに出てくるヤンキー高校みたいなもので、一人残らずワルばかりという校内では、バケモノみたいに強くなかったら一人ではやっていけません。そこで戦国時代のように色々なグループやチームが出来ていき、その集団パワーで安全が保障されるという。この生活相互扶助集団がカーストなんだと思われます。職業は、すなわち「生きていくための方法」であり、各自が全力でやるからファミリービジネス化し、自然に世襲的にもなる。だから職業集団=生まれに基づいた集団になり、カースト=生まれながらの差別=職業差別になっていくのでしょう。
他のカースト(職業集団)からしたら、それは差別・被差別の関係になるのでしょうが、集団内部においては相互扶助の心強い組織であり、それを離れては生存ができなかったという社会保障的側面があったといわれます。これに多様な宗教信仰が入り交じり、カーストを離れるということはそのカーストを守る守護神の保護からも離れることを意味し、またカーストから離脱するということは輪廻から外れるということであり、生まれ変わって良くなるチャンスを棒に振るということでもあります。こういった物心両面の必要性が、インドにおけるカースト制度を存続させたのではないかと思われます。
古来カーストを否定した有名人は二人います。釈迦とガンジーですが、どちらもカーストを除去することに挫折しています。釈迦の仏教は、バラモン教やヒンドゥー教から宗教的装飾性や土臭いローカル性を取り除いて、純粋哲学のように昇華させたものですが、それだけに分かりにくい。また土臭い部分がないので、とっつきにくいということで、一時は隆盛になりますが、やがて下火になります。仏教も本来は小乗仏教(個人の悟りを追求する)ものだったのが、だんだんと大衆を救済する大乗仏教になり、世間に受け入れられる為にゴテゴテした宗教的装飾を付加していきます。インドで仏教徒は少ないのですが、しかしゴテゴテ装飾した仏教がヒンズー教の巨大な海に取り込まれていったとも言えます。なお、「ゴテゴテ」ですが、日本にも帝釈天とか鬼子母神とか弁天様のように「ヒンズー的ゴテゴテ」が仏教と一生に伝来し、現在に至るまで混沌としてますよね。こんな極東の島国まで混沌とさせちゃうんだから、インドの混沌パワー恐るべしです。また、それだけに民衆に分かりやすく、ポップなんだと思います。
現在、インドにおけるカースト制度は、オフィシャルには否定されています。独立ともに制定されたインド憲法ではカースト制度は公式に廃止されています。にもかかわらず残っています。これは、インド独立と同じ頃日本で戦後憲法が制定され、それに伴う民法改正で家制度がオフィシャルに完全否定されているにも関わらず、未だに家概念は日本人の中に残り、結婚式では○○家という家単位の表示がなされたりしてるのと同じ事でしょう。Old custom die hard(古い習慣は中々消えない)。
ただ、このカーストも段々揺らいではいるそうです。カースト制度が、生きていくために必要なシステムだから生き残ったのだとしたら、生きていくために不要だったり邪魔だったりしたら逆に廃れる道理です。また、カースト制度においては、ヒンドゥー教徒以外は一番下層カーストに組み入れられたり、他宗派から改宗した人も一番下から始めます。だから僕やあなたがヒンドゥー教に改宗したら、身分は奴隷のスードラになります。これって、布教するのは非常に邪魔なシステムであり、だからヒンドゥー教では布教活動というのがあんまり無いです。それどころからイスラム教に改宗したら、しょぼいカーストから逃れらるので、そのために改宗する人もいます。
BRICsの一角を担い、経済的に離陸しているインドですので、カースト制度そのものが薄らぎつつある傾向もあるようです。低いカースト、あるいは不可蝕賤民の出自でありがらも、国外で教育をうけ、実力を認められて凱旋帰国し、事実上インドで実力者として君臨するケースもあります。1997年から大統領になったナラヤナンも、最下層カーストの出身です。最下層でも大統領になれちゃったりするわけです。
また、次々に新興企業が立ち上がり、バンガロールなどはITのメッカとして名高いですが、こういう熾烈なビジネス社会では、英米流のマネジメントでいきますから、なによりもスキルとキャリアがモノをいい、カーストがどうのとか悠長なことを言う雰囲気でもないという部分もあります。ちなみに、被征服民族のドラヴィタ系の方が理数系に強い傾向があるらしく、彼らが多く住む南インドにIT産業の7割があるそうです。もともとはインダス文明を作りあげた人達ですし、腕力に強く理屈っぽいアーリア人とは違うのかもしれません(といっても、長い年月で混血も進んでるから何とも言えないけど)。
都会においては、自分のカーストがなんだか知らないという人もいるらしいです。資本主義経済システムという、新しい「生活するためのメソッド」が開発されたら、何も職業別小集団(カースト)で縮こまってる必要もないわけです。農村部に行けば未だに強固にあるらしいですが、それもこれも要するに生活のためのシステムという経済構造によるものだと思います。おそらく、インドが発展して中産階級が増えていくにしたがって、カーストという意識も徐々に薄らいではいくでしょう。そして、昔ながらの伝統風習や習俗という形になっていくのではないでしょうか。
「自由の国」と言いながら未だに結構エグい差別が残ってるアメリカ、金太郎飴モノカルチャーと言われながらもやたらランキングが大好きな日本など、「カーストは無い!」といいながら実質的に何だかんだあったりもします。逆にカーストはある!と言いながらも、背後から徐々に空洞化しつつあるインド。うーん、思ったほど天地の開きがあるわけでもないような気もします。
ああ、今回だけでインドの歴史を全部やるつもりだったのですが(そのあと現在のインド情勢)、アーリア人がやってきたところだけで終わってしまいました。でもこのくらいボリュームを掛けてやらないとインドというのは分かりにくいです。続きます。
過去掲載分
ESSAY 327/キリスト教について
ESSAY 328/キリスト教について(その2)〜原始キリスト教とローマ帝国
ESSAY 329/キリスト教について(その3)〜新約聖書の”謎”
ESSAY 330/キリスト教+西欧史(その4)〜ゲルマン民族大移動
ESSAY 331/キリスト教+西欧史(その5)〜東西教会の亀裂
ESSAY 332/キリスト教+西欧史(その6)〜中世封建社会のリアリズム
ESSAY 333/キリスト教+西欧史(その7)〜「調教」としての宗教、思想、原理
ESSAY 334/キリスト教+西欧史(その8)〜カノッサの屈辱と十字軍
ESSAY 335/キリスト教+西欧史(その9)〜十字軍の背景〜歴史の連続性について
ESSAY 336/キリスト教+西欧史(その10)〜百年戦争 〜イギリスとフランスの微妙な関係
ESSAY 337/キリスト教+西欧史(その11)〜ルネサンス
ESSAY 338/キリスト教+西欧史(その12)〜大航海時代
ESSAY 339/キリスト教+西欧史(その13)〜宗教改革
ESSAY 341/キリスト教+西欧史(その14)〜カルヴァンとイギリス国教会
ESSAY 342/キリスト教+西欧史(その15)〜イエズス会とスペイン異端審問
ESSAY 343/西欧史から世界史へ(その16)〜絶対王政の背景/「太陽の沈まない国」スペイン
ESSAY 344/西欧史から世界史へ(その17)〜「オランダの世紀」とイギリス"The Golden Age"
ESSAY 345/西欧史から世界史へ(その18) フランス絶対王政/カトリーヌからルイ14世まで
ESSAY 346/西欧史から世界史へ(その19)〜ドイツ30年戦争 第0次世界大戦
ESSAY 347/西欧史から世界史へ(その20)〜プロイセンとオーストリア〜宿命のライバル フリードリッヒ2世とマリア・テレジア
ESSAY 348/西欧史から世界史へ(その21)〜ロシアとポーランド 両国の歴史一気通観
ESSAY 349/西欧史から世界史へ(その22)〜イギリス ピューリタン革命と名誉革命
ESSAY 350/西欧史から世界史へ(その23)〜フランス革命
ESSAY 352/西欧史から世界史へ(その24)〜ナポレオン
ESSAY 353/西欧史から世界史へ(その25)〜植民地支配とアメリカの誕生
ESSAY 355/西欧史から世界史へ(その26) 〜産業革命と資本主義の勃興
ESSAY 356/西欧史から世界史へ(その27) 〜歴史の踊り場 ウィーン体制とその動揺
ESSAY 357/西欧史から世界史へ(その28) 〜7月革命、2月革命、諸国民の春、そして社会主義思想
ESSAY 359/西欧史から世界史へ(その29) 〜”理想の家庭”ビクトリア女王と”鉄血宰相”ビスマルク
ESSAY 364/西欧史から世界史へ(その30) 〜”イタリア 2700年の歴史一気通観
ESSAY 365/西欧史から世界史へ(その31) 〜ロシアの南下、オスマントルコ、そして西欧列強
ESSAY 366/西欧史から世界史へ(その32) 〜アメリカの独立と展開 〜ワシントンから南北戦争まで
ESSAY 367/西欧史から世界史へ(その33) 〜世界大戦前夜(1) 帝国主義と西欧列強の国情
ESSAY 368/西欧史から世界史へ(その34) 〜世界大戦前夜(2) 中東、アフリカ、インド、アジア諸国の情勢
ESSAY 369/西欧史から世界史へ(その35) 〜第一次世界大戦
ESSAY 370/西欧史から世界史へ(その36) 〜ベルサイユ体制
ESSAY 371/西欧史から世界史へ(その37) 〜ヒトラーとナチスドイツの台頭
ESSAY 372/西欧史から世界史へ(その38) 〜世界大恐慌とイタリア、ファシズム
ESSAY 373/西欧史から世界史へ(その39) 〜日本と中国 満州事変から日中戦争
ESSAY 374/西欧史から世界史へ(その40) 〜世界史の大きな流れ=イジメられっ子のリベンジストーリー
ESSAY 375/西欧史から世界史へ(その41) 〜第二次世界大戦(1) ヨーロッパ戦線
ESSAY 376/西欧史から世界史へ(その42) 〜第二次世界大戦(2) 太平洋戦争
ESSAY 377/西欧史から世界史へ(その43) 〜戦後世界と東西冷戦
ESSAY 379/西欧史から世界史へ(その44) 〜冷戦中期の変容 第三世界、文化大革命、キューバ危機
ESSAY 380/西欧史から世界史へ(その45) 〜冷戦の転換点 フルシチョフとケネディ
ESSAY 381/西欧史から世界史へ(その46) 〜冷戦体制の閉塞 ベトナム戦争とプラハの春
ESSAY 382/西欧史から世界史へ(その47) 〜欧州の葛藤と復権
ESSAY 383/西欧史から世界史へ(その48) 〜ニクソンの時代 〜中国国交樹立とドルショック
ESSAY 384/西欧史から世界史へ(その49) 〜ソ連の停滞とアフガニスタン侵攻、イラン革命
ESSAY 385/西欧史から世界史へ(その50) 冷戦終焉〜レーガンとゴルバチョフ
ESSAY 387/西欧史から世界史へ(その51) 東欧革命〜ピクニック事件、連帯、ビロード革命、ユーゴスラビア
ESSAY 388/世界史から現代社会へ(その52) 中東はなぜああなっているのか? イスラエル建国から湾岸戦争まで
ESSAY 389/世界史から現代社会へ(その53) 中南米〜ブラジル
ESSAY 390/世界史から現代社会へ(その54) 中南米(2)〜アルゼンチン、チリ、ペルー
ESSAY 391/世界史から現代社会へ(その55) 中南米(3)〜ボリビア、パラグアイ、ウルグアイ、ベネズエラ、コロンビア、エクアドル
ESSAY 392/世界史から現代社会へ(その56) 中南米(4)〜中米〜グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ベリーズ、メキシコ
ESSAY 393/世界史から現代社会へ(その57) 中南米(5)〜カリブ海諸国〜キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルトリコ、グレナダ
ESSAY 394/世界史から現代社会へ(その58) 閑話休題:日本人がイメージする"宗教”概念は狭すぎること & インド序章:ヒンドゥー教とはなにか?
文責:田村
★→APLaCのトップに戻る
バックナンバーはここ