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今週の1枚(08.09.01)


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  ESSAY 375:キリスト教+西欧史(41)  

第二次世界大戦(1)


 写真は、シティのQVBのカフェ。



 さて、いよいよ第二次世界大戦まできました。やれやれ。
 といっても第二次世界大戦それ自体は、要はドンパチの経過ですので、それほど難しくないです。最初はドイツが破竹の勢いで進軍します。その勢いたるやすさまじく、周辺諸国をたちまちのうちに武力征服してしまいます。ドイツの勝ち馬に乗るような形でイタリアも参加。日本も独伊と同盟国になります。中国大陸やアジアの利権でアメリカと対立した日本は、真珠湾攻撃でアメリカと開戦し、これまた破竹の勢いで一気に南進し、東南アジア、太平洋エリアを制圧します。しかし、日独が景気がよかったのはここまでで、42年9月以降のスターリングラードの戦いでドイツはソ連に大敗北を喫し、同時期に日本はミッドウェー海戦で敗北し、ここで形勢は180度変わります。以下日独とも負け戦がつづき、イタリア、ドイツ、日本の順に降伏して終ります。ポイントは、最初の段階に日独がおっそろしく景気よく勝ち続けていったこと、それがある時を境に流れが変り、あとは坂道を転げ落ちていったことです。野球でいえば、3回くらいまでは20対ゼロくらいで圧倒的に日独が勝っていたのが、満塁ホームランを打たれたあたりでおかしくなり、回を追うごとに失点を重ね、9回を終えてみれば40対20でボロ負けてしていたような感じでしょうか。

 まずは単純に事実の経過を追ってみましょう。第二次世界大戦くらいになるとリアルタイムに覚えている人もまだまだ多く存命しておられるでしょうし、社会における記憶もまだ生々しく、世界各地の至るところにエピソードや、教訓や、史跡や、ドラマや映画小説のテーマが見受けられます。断片的によく知ってることも多いのですが、僕自身もあんまり体系的・網羅的にはよく知らなかったりしますので、この機会に主立つ出来事の経過くらいは押さえておきましょう。

ナチスドイツの進撃

 第二次大戦の期間は、ヨーロッパにおいては、ドイツのポーランド侵攻(1939年9月1日)からドイツの降伏である1945年5月7日まで、アジアヴァージョンである太平洋戦争は日本の真珠湾攻撃の1941年12月8日から降伏した1945年8月15日までと一般にはされています。しかし、これだけの大戦争が一夜にして始まるわけもなく、当然ながらそれに至る流れがあります。

オーストリア併合

 ナチスドイツの侵攻は、1939年よりももっともっと前から始まっています。第一大戦後のベルサイユ条約で「キミは武器を持ったらダメ!」と言われていたヒトラーのナチスドイツが、「そんなん知らんもんね」とばかり再軍備宣言をしたのが1935年3月、その1年後にはフランスとの非武装地帯であるラインラントに進駐します。軍事国家としての強面を晒し始めたドイツは、まずは周辺諸国を攻め入ります。最初のターゲットになったのはオーストリアとチェコスロバキアです。

 ナチスのオーストリアへの攻撃ですが、実は、再軍備宣言からさらに1年前(34年頃)にさかのぼります。オーストリア国内のナチス党員が政権奪取のためにドルフス首相暗殺というテロ行為に出ています(34年7月25日)。激しいテロ行為にオーストリア当局がナチスへの取締りを強化していると(当たり前だけど)、ヒトラーはオーストリアの後任のシューシュニク首相に対し、ナチス党員を大臣にして、監獄に入れられているナチス党員を釈放しろという滅茶苦茶な要求をします。要求は滅茶苦茶なんだけど、武力を背景にした恫喝ですから、シューシュニクも逆らえず署名してしまいます。帰国したシューシュニク首相は、せめてもの抵抗で「国民投票できめまーす」と宣言すると、ヒトラーは「そんなもんせんでええ」とオーストリアに進軍、オーストリアはドイツと合併されてしまいます。オーストリア首相を呼びつけたのが38年2月12日、国民投票発表が3月9日、ナチスのオーストリア進軍が3月12日、ドイツへの併合が13日ですからあっという間です。どうでもいいけど、これって山口組が全国制覇をしたときの手口を彷彿させますね。まずターゲットとなった組の縄張りに鉄砲玉・先遣隊を出す。そこで散々暴れ回り、他組が彼らを捕まえてシメようとしたり、殺したりすると、「ウチの組のモンに何さらすんじゃい」と山口組本家が一気に乗り込んできて、圧倒的な武力を背景に傘下に組み入れてしまうという。時期も規模も違うけどやってることは似てますね。

 ドイツとオーストリアの併合というのは、韓国が日本に併合されたのとはちょっとニュアンスが違うようです。というのは、この両国、もともとはハプスブルグ家が統治する神聖ローマ帝国として同じ国であり、ナポレオン後のウィーン体制ではオーストリアを盟主としたドイツ連邦でした。それがプロシアが台頭し、普墺戦争の末プロシアが独立、北ドイツ連邦を作りドイツ帝国の基礎としました。第一世界大戦によって領土を削られて小国に落とされたオーストリアにとってはドイツと併合して、かつての大ドイツ連邦になるのは、ある意味国民的悲願ですらあったといいます。だからこそ、オーストリア国内にナチス党員がいたりするわけです。それにヒトラー自身、もともとはオーストリア人ですしね。したがって元々違う国が強引に飲み込まれてしまう併合とはニュアンスが違います。しかし、実際に併合してみたら話は全然違っており、伝統的なドイツとは全く異質なナチス的な発想のもと、ユダヤ人をはじめ多くの反ナチス的な自由主義者や愛国者達が収容所送りになり、オーストリア人は二級市民扱いを受けます。皮肉なことに、この差別政策が初めてオーストリア人というアイデンティティを生み出したといいます。


チェコスロバキアの解体と宥和政策

 オーストリアを併合した数ヶ月後には、今度はチェコスロヴァキアをターゲットにします。チェコとドイツの国境付近であるズデーテン地方に数多く住んでいるドイツ系住民が迫害されているから助けるのだという大義名分を打ち立てます。形はズデーテン地方のドイツ系住人の民族独立を助けるということですが、実質はドイツがそのエリアを取るぞということです。このナチスの露骨な侵略姿勢に。激怒した英仏が一撃を加えたかというと、実はそうではなく、宥和政策と呼ばれる弱腰でことにあたります。イギリス首相のチェンバレンとフランス首相のダラディエは、イタリアのムッソリーニに調停を頼み、ミュンヘンで英仏独伊の会議を開き、ヒトラーに「もうこれ以上領土要求はしないよね」と確認を取りつつ、ズデーデン地方の即時割譲を認めます(1939年9月)。しかし、領土をブン取られるチェコこそいい面の皮で、ミュンヘン会議にすら参加させてもらえないという。

 帝国主義の元祖であり、世界で一番食えない国である英仏が、なんでそこまで弱腰の宥和政策を取ったのか?ですが、ソ連という「ワイルドカード」があったためだと言われています。第一次大戦で疲弊し、その後平和な繁栄を謳歌し、1929年の世界恐慌でドツボにはまりにながらも国を立て直しつつあった英仏としては、あんまり戦争をしたい気分ではなかったでしょう。しかし、その英仏にとって厄介な敵が二つあります。ひとつはドイツという狂信的なファシズム国家の台頭、そして産業革命の光と影のように常に存在している労働運動→社会主義革命への懸念です。前者は狂犬のようにやたら好戦的で鬱陶しい。しかし、後者はイデオロギーという感染力をもっているだけにもっと厄介です。思えばロシア時代はまだ楽でした。帝政ロシアというのは、図体はでデカいが動きが鈍重だった北のヒグマみたいなもので、クリミア戦争をはじめ英仏は常にロシアに一杯食わせてきました。しかし社会主義国となると話は別です。なにしろ英仏国内にも社会主義者は山ほどいるので、下手に感染して自国で発病したらたまったものではないのですね。例えていえば「暴力」には対抗しやすいけど、「病気」には対抗しにくいような感じでしょうか。ちょっと先走りますが、今回第二次大戦の経過を追ってみる思うのは、結局キーを握ってるのはソ連だったということです。ソ連の動向が結果的に第二次大戦のメインシナリオを決めていってるような気がします。

 老獪なタヌキである英仏は考えたと思います。だったらドイツとソ連を喧嘩させればいいじゃん、と。ナチスは、もともとが社会主義政党からはじまったくせに、今ではバリバリ反共産主義を唱えています。この狂犬ナチスに正面切って挑発したらこっちに向かってきて鬱陶しいから、「まあまあ、キミの意見もわかるよ」となだめておいて、ソ連に噛み付かせようってことでしょう。その際、オーストリアだろうがチェコだろうが、その程度の犠牲なんかどうでもいいと思ってるわけでしょう。しょせん自国のことじゃないしね。そのあたりの冷酷さがタヌキたる所以ですね。ミュンヘン会談のなりゆきを隣室でハラハラしながら待っていたチェコスロバキアのマサリク外相は、会談の結果を伝えられたとき落涙したといわれます。この宥和政策は、スペイン内戦で独伊が干渉したときも、イタリアがエチオピアに侵攻したときも、取られています。もっとも英仏もそんなタヌキ面を前面には出しません。あくまで当時流行っていた平和主義の実現としてやっていますし、真実そういう政治信条も混じっていたのでしょう。また、戦争するといっても準備が整っていないという事情もあったのでしょう。

 しかし、宥和政策は裏目に出ます。ソ連もそんなに馬鹿じゃないということで、ミュンヘン会議で「なんでウチが招かれないの?」と不満はソ連は、「ははあ、さては」と英仏の意図を見抜きます。一方、この宥和政策はヒトラーを増長させます。「なんだ、チョロイもんじゃないか」とばかり、半年後にはミュンヘン協定をあっさり破ってチェコに進軍、第一次大戦後に独立したばかりのチェコスロバキアは解体されてしまいます。


ポーランド侵攻とソ連の動向

 チェコスロヴァキアに進軍したヒトラーは、矢継ぎ早に次のターゲットに向かいます。ポーランドです。1939年3月、ポーランドに対して一部領土の返還と第一次大戦で認められたポーランド回廊(ポーランドと海を結ぶドイツ領内のエリア)に関する要求を突きつけます。

 ここに至っては、もう話し合いでどうにかなる段階ではなくなります。「ええ加減にせんかい」と英仏もぶち切れます。宥和政策を捨て、対ドイツ戦を真剣に意識します。さすが外交慣れした英仏は、いきなりドイツに殴りこむのではなく、ソ連に話を持っていきます。ソ連と軍事同盟を結ぶことによってドイツを挟撃すれば戦局は一気に有利になります。ヨーロッパにおける、挟んだり挟まれたりというオセロのような軍事外交戦略はフリードリッヒ大王の昔から延々やられている発想ですね。しかし、英仏に不信感を抱いているソ連は素直にウンと言ってくれません。丁度その頃(39年5月)、極東においては日本との間でのノモンハン事件という軍事衝突があり、極東にも力を入れたいソ連としてはドイツを敵に回すと、極東に目を向けている間に背後を突かれる恐れもあります。

 一方、イケイケのヒトラーは、ポーランド攻撃開始を9月と定め着々と準備を進めます。4月にはポーランドとの不可侵条約や破棄し、イギリスとの海軍協定を破棄します。同じ頃、イタリアのムッソリーニも、調子に乗ってアルバニアを併合して、ドイツと軍事同盟を結びます。

 英仏とソ連の交渉が難航している間、ヒトラーがソ連に近づいて、先にソ連と独ソ不可侵条約を結んでしまいます(39年8月)。ソ連は極東を、ドイツはヨーロッパをそれぞれ攻めるに当たって、お互いの背後は突かないということで両国の利害が一致したのですね。

 独ソが結びついて、後手後手に回る格好になった英仏はガビーンとショックを受けます。とりあえずポーランドの援助のための条約を結びますが、その数日後にはもうヒトラーはポーランドに攻撃を開始します。9月1日早朝。ナチスにとっては予定通りということで、ポーランドへの通告もなしに、もう事務的なまでの態度で攻めます。これを受けて翌々日に英仏はドイツに宣戦布告をし、1939年9月3日、第二次世界大戦が始まります。

 ドイツは、大量の兵力を集中し一気にポーランドを制圧します。わずか3週間でポーランド軍を壊滅させ、1ヶ月もたたずにワルシャワを陥落します。ドイツとツルんでいたソ連は、ドイツと呼応し、ポーランドに侵入し、秘密の取り決めのとおりポーランドの東半分を押さえます。可哀想なポーランドは、開戦一ヶ月ももたずに地図から消滅します。

 余談ですが、ドイツもソ連もポーランドに攻めこむ際には宣戦布告をしていません。もういきなりドドドと攻めてる。後で述べるように日本が真珠湾奇襲を行ったとき、宣戦布告手続が遅れたので騙し討ちだとか卑怯だとかいってアメリカ国民は怒りまくるのですが、別に宣戦布告をしないで戦争をするケースなんか、このポーランド侵攻をはじめ他にもいくらでもありますが、あまり問題になってません。なんで真珠湾だけ卑怯呼ばわりされるのかといえば、一つにはアメリカという世間慣れしてないトッチャン坊や的な正義感のせいかもしれません。老練な国際政治というセンスがあまりなく、一杯飲み屋や床屋政談レベル、時事放談レベルの感覚でオダをあげている、いわゆる「無知で野蛮なアメリカおやじ」のセンスなのでしょう。太平洋戦争開戦において日本が苦しんだのもアメリカの小児的性格のせいかもしれないし、その正義感が良い方向に振れれば戦後の占領政策で恩恵を被ったりもするのでしょう。ある意味では、自らの小児的正義感をもてあまして、それで一番苦しむのはアメリカ自身かもしれないです。よせばいいのにベトナム戦争に首をつっこんで泥沼化し、やってる間に気が変わって帰国した同胞兵士にベビー殺しと悪罵を投げつけ、最近でもイラクに侵攻して泥沼化するという。ただし日本も人のことはいえず、床屋政談レベルの「無知で野蛮な日本おやじ」の熱気が太平洋戦争を起こしているわけです。その観点からすれば、日米ともに似た者同士であり、すぐに感情的になってギスギスするのは今もそんなに変わってないかもしれないです。でも、1000年にわたる裏切ったり裏切られたりの国際紛争で鍛え上げられた欧州はやっぱり老獪で、英仏などはお互い相手のことは全然信頼しておらず、性格的にも全くソリが合わず、恨みもいいたいことも山ほどあるにもかかわず、貴族的な微笑を浮かべてエレガントに握手してたりするのですね。

独ソの侵略

 ポーランド侵攻から半年ほどナチスドイツは軍事行動をしていませんが、その代わりにソ連が大暴れをします。
 ポーランド進軍の勢いのまま北方に転じ、いわゆるバルト三国であるラトビア、エストニア、リトアニアを攻め入り(翌年併合)、フィンランドとも戦端を開き、その領土の一部を強奪します。ここでソ連がやってることというのは、まごうことなき侵略であり、ある意味ヒトラー以上にエグいことをやってるわけです。実際、フィンランドはソ連を国連に訴え、国連もソ連を除名処分にしています。日独伊も国連から出てますが、あれは自主的脱退で、除名という”クビ”になったのはソ連だけです。だから、この時点で第二次大戦が終ってたら、ヒトラードイツ以上にソ連は悪者になっていたでしょう。ポーランド侵攻の際には、ソ連によるポーランド人の大量虐殺カティンの森事件というのもあります。しかしこの事件は戦時中はソ連に配慮してアメリカは握りつぶし、戦後の戦争裁判でも黙殺され、東西冷戦時にはデリケートな問題としてポーランド国内ですらタブー視され、堂々と語れるようになったのはゴルバチョフのペレストロイカ以降だというから、国際政治のもっているオトナの二面性(偽善性)がよくわかる好例でもあります。

 さて、1940年4月、ポーランド侵攻から半年余後、沈黙を破ってドイツ軍が北方に動きます。中立国のデンマークに進駐、占領し、さらにノルウェーを攻撃してオスロを占領します。ノルウェー首脳はイギリスに亡命し、ロンドンで政権を宣言して戦争を続けようとしますが、ほどなく降伏します。

 翌5月、いよいよ第一次大戦での最大の戦場である西部戦線にナチスドイツの大群が押し寄せます。第一次大戦のときは数年間の膠着戦になった西部戦線をナチス軍はあっさりと引っこ抜きます。奇襲で攻めたオランダとベルギーですが、オランダはわずか数日で降伏、ベルギーも同じ月の末までもたず降伏。ベルギー領内にいた英仏軍はフランスやイギリスまで追い払われます。勢いの衰えないドイツ軍は、6月にはフランス領内に侵入、6月14日にはパリを陥落します。フランス政府は陥落直前にパリから落ち延び、ボルドーに移りますが、新たに組閣したペタン内閣はドイツに降伏(6月17日)、休戦条約を結びます。フランスの60%はドイツの占領下におかれます。ペタンはヴィシーという都市を首都としドイツ協力政権を作ったので、ヴィシー政府と呼ばれます。ヴィシー政府とは別に、ロンドンでシャルル・ド・ゴールが自由フランス政府を宣言し、ドイツへの徹底抗戦を呼びかけ、レジスタンスを指導します。

 これと同時期、ドイツにつられるようにイタリアのムッソリーニも英仏に宣戦布告します(6月10日)。

 この時点でヨーロッパでヒトラーに対抗できるのはイギリス一国を残すのみです。ヒトラーは、ドーバー海峡を越えて爆撃機を飛ばし、1940年8月以降ロンドンをはじめとするイギリス諸都市に空襲を重ねます。当時、イギリスは宥和政策をとったチェンバレンからウィンストン・チャーチルが首相になっていましたが、この空襲を耐え抜いて、ドイツ軍のイギリス上陸を阻止します。なぜここでイギリスが踏みとどまれたかといえば、イギリスも日本と同様海に隔てられている海洋国家の利点で、攻められにくかったのでしょう。もともとが陸軍国であるドイツは海洋戦に対する備えが不十分だったといわれ、名機といわれるメッサーシュミットも航続距離が短く、ドイツ爆撃機を護衛することができず、スピットファイアなどのイギリス戦闘機に撃墜されてしまった。また海軍においては伝統的なイギリス海軍の方に一日の長があったといわれます。英独の制空権争いは3年ほど続いたらしいのですが、結局攻めあぐねたドイツはイギリス上陸を断念します。これが、大戦における一つの転機になります。

独ソ戦争 〜ターニングポイント

バルカン半島と独ソの険悪化

 さて、ここまであれよあれよという間にドイツとソ連がヨーロッパを荒らしまくったきたわけですが、今度はバルカン半島でドイツとソ連が険悪になります。

 ポーランドに続いて北欧を制したソ連は、ドイツがフランスを降伏させた頃、ロシア時代からの南下政策を実現するかのように南進してルーマニアに進軍し、ベッサラビアという都市を占拠します。ベッサラビアまでは独ソの密約でソ連が支配する話がついていたのですが、ソ連がベッサラビアでとどまってくれるという保証はありません。ルーマニアから石油の輸入して戦争をやってるドイツとしては、ソ連がおかしな動きをしたら命取りになりかねない。そのため、ドイツもルーマニアに進駐(40年10月)、前月に締結していた日独伊の三国同盟に強引にルーマニアを(ハンガリーも)参加させます。また、ブルガリアやユーゴスラビアも同盟に参加させ、ギリシアまで侵入しバルカン半島をガチガチに固めます。

 ドイツにここまでバルカン半島を制圧されるとソ連としても気分が悪くなります。そこでソ連は今度は日本と日ソ中立条約を結びます。独ソ不可侵条約を結んでいるとはいっても、ドイツもソ連も相手のことを別に信頼しているわけではありません。必要があればあっさり破棄される覚悟もあるし、自分が破棄するつもりもあります。それが本場西欧の外交でしょう。ただ、とりあえずの手当てにはなります。ノモンハン事件で日本との間が緊張したソ連は、背後を攻撃されないために独ソ条約を結んだと前に書きましたが、今度はドイツとの間が緊張してきたので、東の方で背後を襲われないために日本と手を組んだわけですね。それが日ソ中立条約です(41年4月13日)。

 ここでふと考えてみると、日本とドイツは同盟国で仲間だし、ドイツとソ連も不可侵条約を結んでいるので仲間の筈、つまりぜーんぶ仲間同士なんですよね。でも、お互い全然信じておらず、さらに相手を攻めようと機会をうかがったりするわけですね。このあたりのチグハグさが、ドイツもソ連もそして日本も、外交的に英仏に及ばないところなのでしょうかね。独ソも欧州を制圧したんだし、日本も中国大陸に大きな王手をかけているんだから、この時点でそれぞれの支配を確立して、新しい世界体制を固めてしまえばよかったんでしょう。逆に独ソが争えば、漁夫の利で英仏が息を吹き返す危険があるにもかかわらず喧嘩してしまいます。1941年6月、ドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、ソ連に向けて進軍します。当時のドイツ軍主力300万を擁しソ連領内に侵入します。

 最初、ドイツ軍はお家芸の電撃戦で進み、レニングラード、ウクライナと攻め、モスクワに迫ります。が、ここで11月になり冬将軍に悩まされ、12月には退却することになります。ナポレオンの二の舞です。寒い国に攻めていき、敵の強さではなく、冬の寒さに負けるという。

ソ連と連合国

 ドイツとソ連が戦争を始めたのを、機を見るに敏なイギリスが逃すはずはなく、さっそくソ連と相互援助条約を結びます。これにアメリカも相乗りしてソ連に武器援助などをします。ソ連も、当面の英米と仲良くしておいたほうが良いため、社会主義の世界宣伝のコミンテルンを解散します。英米の反共懸念にこたえるためです。 ソ連と英仏米が合体することにより、民主主義VSファシズムという「善玉VS悪玉」構図を描かれてしまうことになります。

 ソ連を敵に廻し、しかもソ連への出兵が空振りした時点でドイツは負けパターンにハマっていきます。英仏とソ連に手を組まれ挟撃される体制になるのは、かつてビスマルクがもっとも恐れていた構図であり、賢明なビスマルクは外交の限りをつくしてそのパターンにハマらないようにしていました。それなのにビスマルクが去った後、二代目のボンボン王のヴィルヘルム2世があっさり破り、ロシアと英仏を両方を敵に廻して自滅したというのが第一次世界大戦でした。第二に、ドイツ一国で広範囲の支配を確立するためには俊速がイノチであり、ダラダラ長期戦になると周囲の敵国に態勢を立て直すヒマを与えてしまう。じっくり攻められたら数で勝る相手の有利です。第一次大戦でも短期決戦というテーマを掲げていましたが、ベルギー侵攻時点で既に破綻し、長期の西部戦線を招いてしまいました。今回は、第一次大戦よりは、はるかに段取りよく一気に周辺諸国を切り取りますが、最後にソ連を逃した。だから第一次大戦の負けパターンを、またぞろ繰り返していることになります。

 だから、後になって考えれば、そもそもドイツはソ連とは戦うべきではなかったのでしょう。ソ連(ロシア)には、ナチス以上に強大だった全盛期のナポレオンですら敗れていますし、この敗戦がナポレオンのケチのつきはじめになってます。それはソ連(ロシア)が強いというよりも、地政学的な条件でしょう。あそこは異様に広大な国だから攻めても攻めても奥がある。適当に戦って退却し、しかも退却時に町を燃やして敵軍に食料などの補給をさせないというのがロシアの伝統的な退却戦術(+焦土戦術)です。日露戦争でもそれをやってたのですが、当時クレバーだった日本はアメリカに頼んで途中で仲裁にはいってもらって「判定勝ち」という技を使います。そういった終わり方を考えずに闇雲に攻めていっても、背後には広大なシベリアがあるソ連を無限に攻め続けることは出来ない。ロジスティクス(補給戦)が伸びに伸び切って前線兵士が栄養失調でヘロヘロになったところで、零下50度といわれる厳しい冬がやってくればひとたまりもないですし、実際ナポレオンもナチスもそうなった。あのソ連(ロシア)を武力で征服しきった国は史上たった一つ、ロシア人以上に中央アジアを我が家としていた遊牧民族であり、異様なまでの行軍速度と精強さを誇ったジンギスカンの蒙古帝国くらいでしょう(タタールのくびき)。

ドイツの全面侵攻 〜バルバロッサ作戦


 ナチスドイツのソ連侵攻をもう少し詳しく書きます。この独ソ戦争というのは、ヒトラーとスターリンという両軍の大将がボケだったという特徴があります。両者とも戦略ミスを重ねており、そのボケ大将のツケを現場の兵士や住民が払わされるというもので、総大将が最大の戦犯といってもいいくらいです。

 一番最初のドイツ軍の侵攻は、バルバロッサ作戦と呼ばれる全面展開でした。北はバルト海から南は黒海を結ぶ途方もない長さの戦線をひたすら東進するというものです。北軍、中央軍、南軍と兵を3軍に分けて侵攻するのですが、よほど短期でケリをつけないと補給線が延び切ってジリ貧になる危険な戦略です。この立案時点で既にヤバかったりしますが、ヒトラーは「腐った屋台骨は、入り口のドアを蹴れば全壊する」と豪語し、進軍を命じます。そんな広範囲の電撃作戦なんか成功するわけないと思いきや、これが意外に当初は破竹の勢いで進軍します。ソ連軍は国境線でボロ負けし、多数の人的損害を受けます。なぜかといえば、スターリンのせいです。まず彼はドイツ軍が侵攻してくるという事前情報を受けていたにも関わらず、「まさか」といってタカをくくっていました。これが準備不足を引き起こします。また前回にも書きましたが、根が小心者で猜疑心の強いスターリンは、手当たり次第に粛清に次ぐ粛清をしたので優秀な軍司令官も多数殺してしまっていたのですね。さらにソ連お得意の退却戦術を取らせず、領土は1センチも渡さないという子供のような命令を下したため、兵士達は不利な国境線での戦いを強いられて無駄に死ぬ羽目になってしまったのです。緒戦で既にボケの応酬があります。

 次に中央軍をどんどん進軍させればいいものを、南方の黒海やカフカース方面の石油資源にもこだわったヒトラーは、中央軍から一部を抜いて南方戦線に廻します。そのため中央軍の進軍速度が遅れ、しかも間の悪いことに例年より早く冬がやってきたためモスクワまで辿り着いた時点で冬将軍のためにタイムアップになってしまいます。ここでモスクワを取っておればまた話も変わったでしょうに、戦機を逸します。この時点で短期決着がつかなかったのだから、本当はドイツとしてはソ連と手打ちをすべきだったのでしょうが、それをせずに戦線は長期化していきます。

ドイツの南方作戦 〜ブラウ作戦からスターリングラードの戦い

 厳しい冬季を持ちこたえたドイツ軍は、翌1942年の春以降新たな動きに出ます。もはや前年のような全面作戦を展開する戦力のないドイツ軍は、焦点を南方に絞ります。黒海周辺のカフカースの油田地帯を狙います。資源狙いでもありますし、ここはソ連にとっても貴重な資源地です。この南方進撃をブラウ作戦といいます。ここでまたヒトラーは戦力を二分してしまいます。カフカース油田地帯を狙うA軍団と、ボルガ川にある交通の要所スターリングラードを攻めるB軍団です。

 しかし、一冬の間にソ連も成長しています。もともと社会主義体制のもと非人間的なまでの計画経済を推し進めているソ連は、世界大恐慌の影響も受けず強大な工業力を持ってます。前年の敗戦を教訓にして、より強力な軍備を編成しつつありました。同じく前年の失敗に懲りて、拠点死守方針は捨て、伝統の退却戦術を思い出します。それに同じ厳しい冬季を過ごすにせよホームタウンであるロシア人は寒さには慣れてますし、食糧や武器の補充も容易です。しかし、祖国ドイツから遠く離れたドイツ軍は、その地に居るだけで疲れます。これらの差が後の戦いに違いを生みだしていくます。まず、カフカースの油田を狙ったA軍団が失敗します。奮戦したのですが、頑強なソ連軍の抵抗に遭い、やっと油田に到達したと思ったら、撤退していくソ連軍が油田設備を破壊していったので使い物になりません。

 B軍団の方は、ロシアの退却戦術に引きずられるように進軍し、1942年8月下旬にはスターリングラードという都市まで行きます。ここでスターリングラードの戦いと後々まで語り継がれる悲惨な戦闘になります。スターリングラードに猛爆撃を加えたドイツ軍は、廃墟なったスターリングラードに進入し、市街戦になります。瓦礫の山を上手に使い、狙撃兵によってドイツ兵を攻撃するソ連の戦術にドイツ軍は苦戦します。両軍とも瓦礫の中に入っての塹壕戦になってしまったので、一気に決着がつかず、戦闘は長期化します。この長引く戦闘を背景にジュード・ロウ扮する狙撃兵を主人公にした「スターリングラード」という映画がありましたよね。僕も見たことがありますが、今これを書いていて、「そうか、あの映画はそういう映画だったのか」と分かりました(^_^)。

 戦闘が膠着している間にまた冬が訪れます。ドイツ軍も、スターリングラードなどのこだわらずとっとと退却し、今後に備えて戦線を整えればいいものを、ヒトラーはムキになってスターリングラードに固執します。多くの軍司令官がそのことを進言してはヒトラーに罵倒されて解任され、戦功が上がらない司令官もどんどん更迭。スターリングラードという、スターリンの名前を冠した都市になぜか宿命的なものを感じて、必要以上にこだわったヒトラーは現地軍の退却を認めず、かといって十分な援軍を送ることも出来ず、結局ソ連軍の大群に包囲され多大な損害を出して敗退します(43年2月)。スターリングラードの戦いで消滅したドイツ軍は約30万とも言われます(うち9万人は降伏・捕虜)。

 このスターリングラードの攻防戦は第二次世界大戦のターニングポイントになり、以後各地におけるドイツ軍の敗退が始まります。

ナチスの占領政策と北アフリカ戦線

ナチスの占領政策

 近代戦争は膨大なエネルギーを必要とします。資源や工業力のほか、戦場の兵士や工場での労働力などのマンパワーを絶えず調達していないと倒れてしまう。自国領土の何倍ものエリアを占領したドイツが戦線を有利に運ぶためには、占領地において資源や労働力の過酷な収奪をしなければ持ちません。強制連行、強制労働です。当然、占領地内で強烈な反発が起きます。降伏や占領といっても、その国の正規軍が軍事的に敗北しただけの話で、多くの民衆が従順に従っているわけでもありません。本国ドイツにおいては狂信的なファシズムで国民が一致団結していたとしても、他国ではそうはいきません。従わせるためには強力な武力と恐怖が必要です。しかし、その軍事力を維持するためには、またマンパワーが必要。そのマンパワーを強制徴用するには軍事力が、、、ということで、しょせん自転車操業にならざるをえない。

 そういった占領政策を持続させるためにも、ある程度占領地の民衆の心をつかむような政策が必要でしょう。圧倒的に物質的に豊かで魅力的なアメリカの文化をもちこんだ日本に進駐した米軍のように。しかし、ヒトラーは本国でやっていた優生思想を占領地においても実行します。劣等民族は殺せ、です。劣等民族という烙印を押されたのはユダヤ人だけではなく、非占領下のスラブ人なども対象にしているから、使えそうな奴は強制労働、使えそうもない奴は強制収容所行きという身も蓋もない占領政策を実行します。こういう馬鹿な占領政策が長続きするはずがないです。降伏したって殺されるんだったら戦ったほうがマシです。ということで、各地で民衆のゲリラ的抵抗が湧き起こります。呼び名はいろいろなのですが、非合法的な抵抗運動をレジスタンスと呼び、ゲリラ戦術による奇襲や撹乱をパルチザンと呼ぶようです。フランスやユーゴスラビアのチトーが指揮したものが有名です。

北アフリカ戦線とロンメル将軍


 一方ドイツの同盟国であるムッソリーニのイタリアは何をしていたのかというと、殆どモノの役に立っていません。
 ドイツがフランスを占領しかけた頃(40年7月)、イタリアは勝ち馬に乗るように英仏に宣戦布告します。40年9月に英仏の植民地のある北アフリカ(リビアからエジプト)とバルカン半島(アルバニアからギリシャ)に進軍しますが、いずれも現地の抵抗に遭って失敗しています。もっとも英仏も内輪もめをしたり、西アフリカのダカール作戦を挙行するも失敗してます。イギリスは地中海を対ドイツ戦線として構えていましたが、怒濤のように南下してくるドイツ軍は、バルカン半島についでギリシャやクレタ島などイギリス軍の拠点を奪ってしまいます。

 リビアからエジプトを攻めて、逆に返り討ちに遭ってリビアに攻められているヘナチョコなイタリアですが、ドイツ軍の加勢を受けます。このとき出かけていったのが有名なロンメル将軍です。戦後鬼畜のように嫌われたドイツですが、ロンメルだけは別格的に尊敬され、戦時中はドイツの国民的英雄であるばかりか、チャーチルに「ナポレオン以来の戦術家」と言わしめ、あまりにも連戦連勝するので敵軍からも崇拝する人間が多くいたといわれています。イギリス司令部は、自軍の兵士が敵将ロンメルを崇める傾向を憂慮し「ロンメルといえども人間だ」と異例の通達まで出していることから、その神格化がわかります。ただ神格化されるのも分かるくらいの用兵上手であると同時に、中世騎士道の精神を受け継いだかのようなエピソードが沢山残っています。捕虜を非常に丁寧にあつかい、敵兵の死体を丁重に葬り、捕虜や敵兵に関するヒトラーの虐殺命令を再三無視して、命令書を焼き捨てたこともあります。第一次大戦からの歴戦の勇士ですが、高級司令官になっても危険を冒して前線にでて兵士と語り、兵士の気持ちを理解するように努めています。なんか、ちょっと美化されすぎてるような気もしますが、どうも本当らしいですね。

 ロンメルが北アフリカに派遣された頃、イタリア軍はもうヘロヘロ状態でした。もともと装備も準備も出来ていないイタリア軍が軍事行動を起こすこと自体無謀ともいえるわけで、そこは軍事音痴のムッソリーニの責任でしょう。人数でも兵器でも遥かに劣るイタリア軍への加勢として派遣されたロンメルですが(ソ連侵攻が忙しいドイツからも僅かな兵力しか持たせてもらっていない)、それでも勝ち続けたのはひとえに諸葛孔明のような戦術の妙でしょう。1941年2月、圧倒的に劣悪な情勢でスタートしながら、ベンガジ奪回、トブロク包囲戦、バトルアクス作戦、さらにカザラの戦いで2倍以上のイギリス軍を壊滅させます。この功績で、ロンメルはドイツ軍史上最年少で元帥になります。プロシア出身でもなく、陸軍大学出身でもなく、単なる中流家庭の出身のロンメルが異例の昇進を重ねたことで、軍内に嫉妬をする者もおり、これが後日の悲劇につながります。

 1942年、ロンメルは最後の戦いとしてエジプトのエル・アラメインに向かいますが、旧式ヘロヘロ戦車300両対新式バリバリ戦車1100両の対決、しかも弾薬燃料の補給要請を軍に握りつぶされてしまったので、敗北してしまい、撤退します。世に有名なエル・アラメインの戦いです。撤退したロンメルですが、連合軍が調子にのって進軍すると、巧みに反撃し、大きな打撃を与えます。しかし、最後は連合軍に制空権を握られて補給路を絶たれ万事休すになります。

 43年3月ヒトラーの命令でロンメルは帰還。5月には北アフリカは完全に連合軍のものになります。帰国後、ロンメルは頭部に重傷を負い療養中のところ、44年7月におきたヒトラー暗殺計画の関与を疑われ、44年10月、療養先で裁判を受けるかここで自殺するかと問われ、一切の弁明をせずに服毒自殺しました。実際に関与していたかどうかは歴史の謎になっていますが、彼の死は戦死と報じられ、盛大な国葬が営まれたそうです。ロンメルは愛妻家で戦場でも妻ルーシーと筆まめに文通をしていたそうですが、ルーシーはドイツ軍部のやりかたに腹をたて、葬儀の際のゲッペルスの敬礼を無視したとされます。

 北アフリカを奪い返した連合国軍は、地中海を押し渡り、43年7月にはシチリア島に上陸し、イタリア本土に向かいます。もともと弱いイタリアはこうなると手がなく、大評議会の結果、ムッソリーニの権限を剥奪し、王政への復帰を決めます。その後成立したバドリオ政権は、9月に連合国軍がイタリア本土上陸すると無条件降伏します。このように日独伊の三国同盟といっても、殆どイタリアはものの役にたってません。ムッソリーニは逮捕・投獄されますが、ヒトラーは軍をさしむけてムッソリーニを救出し、ムッソリーニは北イタリアにファシスト共和国を宣言しますが、もはや影響力は乏しく、逃避行を続けるうちに、1945年4月スイス国境付近でパルチザンによって愛人とともに銃殺され、その遺体はミラノの広場に吊るされています。

ナチスドイツの敗北

 さて、ドイツがソ連相手に苦戦しはじめた時点(41年12月)で既に大方の趨勢は決まったも同然です。
 しかし、その前にアメリカ(フランクリン・ルーズベルト)とイギリス(チャーチル)は大西洋上で会談し、41年8月に大西洋憲章という宣言を出しています。領土不拡大、民族自決、社会保障など8項目に及ぶ「世界の設計図」みたいなものです。この大西洋憲章をもとに、41年12月に日本の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まると、翌42年1月の連合国26カ国は連合国共同宣言を発表し、この戦争はファシズムに対する民主主義の戦いと位置づけています。

 この種の「なんたら宣言」というのを、僕は今まで選挙のスローガンのように軽く考えていたのですが、しかしよく考えてみれば、太平洋戦争前にそんな宣言をされている時点で、個々の戦局がどうあれ、枢軸国側はもう負けが決まったようなものでしょう。なぜかというと、あくまで英仏米は戦争は外交の一環として捉えています。単に喧嘩が強いだけではなく、国際世論や政治というものの噛み合わせがなければ戦争それ自体に意味はないことが分かっているのですね。冷静です。どんなに突出した軍事力を持っていようが、残りの世界全部を相手にするほどの力はない。近代戦が総力戦であるなら、より一層強大な国力や、国力を維持するマンパワーや資源が無尽蔵になければならない。しかしそんな国はない。だから永遠に勝ち続けていかないと占領体制が保てず、そんなことは不可能だから、所詮どこかで破綻します。それを避けるためには、適当に勝っているところで仲間を作り、敵を分裂させたり、相互牽制させたりという外交上のテクニックが必要なわけです。振り上げたこぶしを何処で下すか、最初から落としどころを考えて喧嘩をしろということです。

 しかし、日独伊の三カ国のうち、そういった外交上のセンシティブな配慮をしている国はない。イタリアは弱すぎて論外だとしても、ヒトラーもイギリスの制空権をとれなかった時点で外交に切り替えるべきだったでしょう。ソ連を叩いて、対英協議を有利に展開するという思惑もあったようですが、そこでソ連と事を構えること自体が既に外交的にはミスでしょう。イギリスと組んで新世界秩序を構築し、ソ連と対抗するという形にすればよかったのかもしれない。そうすれば、共産国VS反共勢力というもう一つの絵がかけたわけだし、このテーマを掲げて世界をリードすれば、世界中の資本家が味方についてくれるでしょう。でも「アーリア人の優越性」なんて偏狭な思想を掲げていたら、それが邪魔になってしまう。挙句の果に軍事力信奉主義になる。軍事が生命線なだけに負けたら終わりです。その心理が退却すべきところで退却できなくさせ、いたずらに損害を増やす。

 日本に至ってはナチス以上に問題です。ドイツと同盟を結んで共存共栄を図るならば、ドイツとソ連が険悪になった時点で日ソ中立条約なんか結ばないで、ドイツの要請のとおりソ連を攻撃すれば良かったのでしょう。そうすればソ連の兵力は東西に二分されることになり、ドイツのモスクワ陥落まではいったかもしれない。ところがノモンハン事件でこっぴどくソ連軍に叩きのめされていた日本軍部は、ソ連とことを構えることを嫌い、南進しようとします。いよいよ日米開戦を決意し真珠湾奇襲をするのですが、その時点(41年12月)には、ドイツのソ連攻略がかなり苦しくなっているのもわかっていただろうし、その数ヶ月前に英米が大西洋憲章なんて戦後を見通して話し合いをしているのですから。日米の兵力比較をするまでもなく、外交的にも軍事的にも開戦時点で既に間違っていたとすら言えます。また、日本は日本で、よせばいいのにナチスのような優生思想=日本だけが神の国という神州思想を掲げています。外交的に言えば、こういうことって腹の底で思ってればいいだけで口に出して言うべきじゃないです。なぜなら日本人が最優秀という思想は、日本人以外の全員を敵に廻すからです。仲間を募り、世界秩序を構築していくテーマとしては最悪と言ってもいい。

 さて、43年1月、ルーズベルトとチャーチルはモロッコでカサブランカ会談を行い、北アフリカと地中海での作戦を協議します。イタリア降伏後である同年11月にはカイロで英仏に中国の蒋介石まで出席して、日本が戦争に負けたあとをどうするかの話し合いまでしたうえ、日本に無条件降伏を要求しています。カイロからそのままテヘランに飛んだ英仏首脳は、今度はソ連とスターリンと話し合い(テヘラン会談)、ノルマンディー上陸作戦の協力が話し合われます。そして、ノルマンディー上陸後、ドイツ降伏の3ヶ月前には米英ソの三首脳はヤルタ会談を開き、ドイツの戦後の後始末を協議するとともに、ソ連の対日参戦や南樺太や千島列島のソ連所有まで話し合われています。なんというか、最初の頃から彼らにとってはドイツも日本も眼中にない感じですね、「その後」について腹の探りあいをやってるという。

ノルマンディー上陸作戦とドイツの降伏

 1944年になるとドイツの敗勢はハッキリします。
 まず、44年6月6日の北フランスでノルマンディー上陸作戦が開始され、連合国軍のヨーロッパ上陸を許したドイツはどんどん押されていくようになります。ノルマンディー作戦は、別名「史上最大の作戦」とも呼ばれ、また6月6日はD-DAYとして未だに日常会話に出てきます。航空機1万2000機、艦船6000隻という途方もない物量作戦による上陸作戦ですので、威風堂々と進軍したかのように連想しますが、実際には映画「プライベート・ライアン」でイヤというほどリアルに描写されているように、波打ち際で機関銃で薙ぎ払われ、酸鼻を極めた屠殺場のような状況だったのでしょう。ともあれ、人海戦術のように上陸作戦を成功させた連合軍は、パリに進軍するにつれ各地のレジスタンスが蜂起、8月25日は連合軍がパリに入場します。

 一方、スターリングラードでドイツ軍を下したソ連軍、1944年の春から各地のドイツ軍を駆逐し、占領されていたソ連領を回復するとともに、6月にはポーランドやルーマニアに侵入します。東西から挟撃されたドイツは、最後の攻勢である44年12月ベルギーでのアルデンヌの戦いに挑みますが、あえなく敗退。45年3月には連合軍がドイツ領内に入り、4月にはベルリンに入ります。ソ連も45年1月にポーランドのワルシャワを陥し、4月にはベルリン郊外に達します。もはやここまでと観念したヒトラーは、4月30日愛人のエバブラウンとともに拳銃自殺をし、ドイツは5月7日に降伏します。


 太平洋戦争まで書くつもりでしたが、長くなってしまったので一旦切ります。 以下次回。



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文責:田村



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