「それがどうした?」というと、エネルギッシュな頃というのはナチュラルにメッシー(messy)になるということです。より一般化していうと、生命力に満ちあふれた勃興時というのは総じて整理されず、汚く、やかましく、粗暴で、猥雑になる傾向があり、衰退期になると整理され、清潔で、静かになる傾向がある。
さらに進んで、なぜ生命力が満ちていると猥雑でメッシーになるのか?
それは「生命」そのものが猥雑だからでしょう。生命活動が逞しいほど、身体の各器官が激しく活動し、大量の新陳代謝が起こり、多量の老廃物が排出される。人気のあるイベント会場や商店街と、さびれたそれとを比べてみたら分るでしょう。賑わっている市場、縁日では、怪しげな人も含めていろいろな人々が集まり、あちらこちらで喧嘩がトラブルが起き、犯罪もあり、当然大量のゴミも出てくる。
人間の身体というのは大半が水分だといいます。それも雪解け水のようなクリーンな水ではなく、ぬちゃぬちゃドロドロした、萩原朔太郎の詩に出てくるようなある種のおぞましさを持った水分。僕らが日常において「汚い!」と感じるもの、つまり尿やら、糞便やら、吐瀉物(消化物)やら、血液やら、唾液やら、いわゆる”おりもの”やら、汗やら、ぜーんぶ自分の身体の中に、今この現在にも入ってるものです。「人間とはすなわち”糞袋”である」と誰かが書いてましたが、ある意味では真理でしょうね。僕も、あなたも、糞尿と唾液と血液がたっぷり詰まったゴミ箱みたいなものです。そもそも薄皮一枚下の人体は、内臓にせよ何にせよ、まさに「ぬちゃぬちゃ」した世界そのものです。
検察庁で修習している頃に2回ほど死体解剖に立ち会わされましたが、目の前で一個の人体が解体されていくのを見ると、そのことはイヤというほど分ります。死亡したばかりの”新鮮な”死体で腐敗の進行がほとんどなくても、人体というものは強烈な臭気を伴います。食べてから糞尿になるまでの各段階がサンプルのように詰まってるわけだし、排泄前の糞便もたっぷり詰まってます。老廃物だけではなく、血の臭いにせよ、内臓の匂いにせよちゃんとあります。人体がバラバラになるスプラッター映画というジャンルがありますが、本当にキツいのは視覚ではなく臭覚です。映画は匂わないからまだマシですよね。
しかし、糞便も唾液も無駄に存在しているわけではなく、それどころか生命活動を育むための大事な役割を担っています。僕らとしては、本来感謝こそすれ、嫌ったらバチが当たります。それなのに、糞尿も唾液もいったん人体の外側に出て、それがまた自分の衣服や肌に付着したら、この世の終わりのように大騒ぎします。身体の内側にある分にはいいけど、外側にあったらダメだという。変ですよね。いずれにせよ、人体や生命というのは、抽象的・文学的には美しいかもしれないけど、フィジカルには汚物同然に臭くて汚らわしい(かのような印象を与える)ものだということです。
今は人体という物体的な側面に目を向けましたが、活動面においてもしかりです。人が生きていくためには、食べねばなりません。きれいな水を飲んで尿に変え、動植物を解体して咀嚼し、消化し、ウンコに変えます。酸素を吸って二酸化炭素を出します。調和している自然をいじくります。山は崩され、川はコンクリで固められ、樹木は根こそぎ伐採され宅地やゴルフ場にされ、地中深く眠っていた石炭や石油を掘り起こして燃やし、膨大な炭酸ガスを排出し大気組成を変えていきます。要するに生きていくということは、とりわけ人類が生きていくということは、膨大なゴミを製造するということであり、人間とはすなわち汚物製造マシンのようなものです。ろくなもんじゃないですね。
まあ、人間だけを責めるのはお門違いで、動物だって似たようなモノです(石油を掘ったり環境破壊はしないけど)。植物だって、昆虫だって、微生物、ウィルスだって同じようなモノです。すなわち自然に存在する物質Aに関与して物質Bに変化させるという。死体がころがっていたら、まず動物や鳥が食い散らかし、その残骸を昆虫が消化し、さらに土中における微生物が消化分解し、さまざまなミネラルに変え土中養分にする。
それは生化学変化の循環であり、それが相互補完的に作用し、大きく円環をなしてエコロジー体系を作る。偉大なる自然の営みです。したがって、本来ならアレが汚いとかこれがキレイとかいう話ではないです。クソ小便は汚く、腐乱死体はおぞましいけど、野に咲く花は美しいと思うのは、世間知らずで阿呆な人類が思いっきり偏見カマしてるだけであり、いわば大錯覚なのでしょう。本当なら汚いも綺麗もないんだけど、偏見バリバリの僕らの感性によれば、生命活動というのは、本質的に汚いもの、汚く感じられる部分が多いものとは言えるでしょう。
ミもフタもない生命現象というものに日々直面している人々は、このあたりのことを当然わきまえています。医療関係者が人体を汚がってたら話になりません。患者さんの糞便に平然と手をつっこめるだけのタフさが必要です。同じように人体の終焉に立ち会う警察などの司法関係者、法医学関係者は、死体を見る度に失神してたら仕事になりません。鉄道関係者もバラバラになった自殺者の人体を回収します。葬儀屋さん、僧侶などにとっては、死体は毎日見るモノであり、死臭は職場の匂いです。そして、人の親になれば、朝から晩まで糞便垂れ流している赤ちゃんの世話をします。ウンチが汚いとか言ってられないし、赤ちゃんの健康を計る大事なバロメーターだから目を背けることも許されない。そもそも汚いとも思わないでしょう。生命に直面している人は、”汚い”とか無責任で表面的な感情に振り回されない。もっと大きな価値を守るため、その重責を果たすため、そんな気にもならんでしょう。
で、何の話かといえば、そういった生命活動が激しければ激しいほど、状況がメッシーになっていくのは当然ではないかということです。好奇心と行動力にあふれ、あれもこれも手を出している若い人の部屋や子供部屋が、老人の部屋よりも散らかっているのも当然といえば当然でしょう。
激しくスポーツをすれば大量の発汗を招くから、体育会系の部室はナチュラルに汗臭いです。ジャージや道着にも汗が染みつくし、もう人体そのものが汗臭くなっても不思議ではありません。論文や研究に没頭している人の部屋は、文献やコピーが散乱しているでしょう。マッドサイエンティストの研究室は、巨大なガラクタ置き場のようだろうし、絵画や創作活動をしている部屋は絵の具やら正体不明な素材が転がりまくっていようし、映画の撮影現場や株式取引の場は喧噪が支配しようし、ミュージシャンの作曲活動においては多大な試行錯誤の度に大量のノイズが製造されるでしょう。人が頑張って何かをやればやるほど、汚くて、散らかって、臭くて、うるさいです。だから、生命活動とは本質的に猥雑なものだと思うのです。
また何かに没頭すればするほど、行動も粗雑で乱暴になっていく傾向があります。モノは放り投げ、ドタバタ走って移動し、がっちゃがっちゃとモノをかき分けて捜し物をし、電話口では怒鳴り、電話機は叩きつけるように切る。沈着で、緻密に、しずしずと、、という感じではない。それは確かに粗雑ではあるけど、魚河岸や証券取引所がそうであるように、「威勢がいい」「イキがいい」という状況になります。チマチマやってないのね。そりゃ、本番というか、お客に見せる段階では整理されてますよ。展覧会はチリひとつ落ちていない会場に綺麗に展示され、リサイタルのピアニストはドレスアップして精密機械のように指を動かし、板場の料理人の包丁は名人の舞のように無駄のない動きをします。しかし、その準備とか創作活動においては、怒号と喧噪が渦巻き、髪かきむしり、譜面を叩きつけたりしているわけです。
ここまではよろしいですか?
さて、本当なら日本も、力任せな若い馬鹿パワーから成熟したオトナにならねばならない筈です。「まだまだ若いモンには負けん」とばかりにエネルギーは十分に保持しながらも、無秩序な馬鹿パワーではなく、メリハリのきいたオトナの節制と力強さが時代の基本コンセプトになっていても不思議ではないです。しかし、どうもそういう感じではない。
これは前々から思っていることですし、何度か似たようなことも書いてます(例えば、
ESSAY 316:幼生成熟とか)。知能は未熟なまま、エネルギーや気力、体力が老年になっていくという。肉体と精神の充実をみるべき壮年期がなく、いわば老人の肉体に子供の精神が乗っているかのような。
思い当たるフシはいろいろあります。例えば、総じて言動が幼稚で未熟になっていくこととか(モンスターペアレンツや、どんどん幼稚化する総理大臣とか)。
それと、他者との接触、それもフィジカルな接触や、暑苦しい接触が苦手になってきているって点も指摘すべきでしょう。
今の日本では「知らない人に話しかけるのは犯罪です」みたいな感じで、”袖振り合うも多生の縁”なんてのは死語でしょう。バスを待ってて、隣の人に「暑いですねえ」なんて気軽に言うことも少ない。前々からそうだったけど、その傾向が強くなってきている。だから、コミュニケーション能力なる言葉が今更ながら取り沙汰されたり、ナチュラルに他人に無関心になる学級崩壊なんてのも起きたりする(崩壊していた初期の連中もそろそろ社会に出る頃ですか)。
他者との接触という最も基本的なことが苦手になると、あれこれ大変でしょう。基本的に「他人に話しかけてはダメ」というルールでやるから、例えば、日本では携帯文化があれだけ盛んでありながら、マナーモードやら電源を切れやらいう場所が多過ぎる。僕も日本に帰ったとき、あまりに電源切れとかうるさいのでこれじゃ携帯もってる意味がないじゃんと腹が立った。オーストラリアでは電車内でも普通に平気で喋ってるし、マナーモードなんかよほど大事な会議でもない限りしません。なぜか?うるさかったら見知らぬ他人でも平気で注意するからですし、心臓のペースメーカー問題があったら気軽に周囲にお願いするからです。ここでは、「見知らぬ他人には話しかけるのがルール」みたいな世界ですから、原則自由にして問題があったら個々人が対処という方法をとれば済む。
しかしねー、他者との接触がこれだけ制限されたら、そりゃあ鬱病にもなるでしょう、そりゃあ婚活もしなきゃいけないでしょう。なんせ出会いというものが少ないんだから。日本で異様に自動販売機が発達しているのも、無関係ではないと思います。治安がいいって面もあるけど、それだけではないと思う。ラブホテルが連れ込み旅館と呼ばれていたときは、おばちゃんがお茶を運んでくれたりしたのだが、今ではパネルをタッチしてキーをゲットし、支払いも自動だったりしますよね。タバコ屋のおばちゃんの長話につきあわされるのも、今となれば時代劇のような昔話です。お金の借りるのも「むじん君」だもんね。とにかく他人と接触したら死んでしまうかのようだ。
反面、ネガティブな接触、つまりは文句を言うとか、喧嘩をするということにも慣れてないので、面と向かってこちらの意見を言い、対立点を洗い出し、建設的に討論するというプロセスが苦手になる。修行不足なんだからしょうがないけど、どうなるかというと、すぐキレる。また、ムカついた時点ですぐに「ばかやろー」と喧嘩したりできないから、悶々と毒素が心に溜まりまくる。溜まって溜まって最後には無差別殺人。あるいは他人からちょっとキツいことを言われただけで、すぐに精神がヘコむ。
それが若さの喪失とどう関係するかというと、エネルギーや好奇心パワーが少ないのでしょう。見知らぬ他者との接触には、かなりエネルギーを使いますからね。相手がどういう対応に出てくるか分らないし、千変万化する状況に臨機応変に対処しなきゃいけないから、結構大変です。その昔の少年漫画のように、取りあえず挨拶代わりに殴り合いの喧嘩をして、それからガハハと大笑いして仲良くなるというパワフルな展開にならないよね。喧嘩でもしたら、ネチネチと陰にこもりそうだ。
他にも色々あります。例えば、数年前から資生堂の新製品から「加齢臭」というのが新しい日本語になり、新しいスタンダードになってますが、こんな概念が出てくるようになったら末期症状だって気もしますね。だってさ、匂いでいえば、若い奴の方が絶対臭いよ。新陳代謝が激しいんだし、よく動くんだから、基本的に汗臭くて当然だし、生殖適齢期の発情したオス・メスなんだから本来フェロモン出まくっていなければ嘘ですわ。加齢臭とやらも言われるまで僕は気づかなかったぞ。自分の親が別に臭いとは思わないし、老人が沢山いる観光バスに乗っても臭いということはない。本当にあるの、そんなの?あるなら昔からあったはずだし、だとしたら今以上に五感の感度が鋭敏だった昔の人がそれに言及しない筈もないと思うのだけどね。仮にあったとしても、そんなの若い人のケダモノじみた獣臭に比べたら微々たるものでしょう。それがクローズアップされるということは、それだけ他の臭気が失せてきているということであり、それはいきなり肉体的組織が変わるとは思えないから(変わってるかもしれんけど)、おそらく異様に気を遣ってそうしているのでしょうが、いい若いモンがそんな細かなことなんか気にしててどうするって気もしますね。他にやることはないんか。
あと「セレブ」という言葉の誤用なんかも挙げられるかもしれません。本来の英語(celebrity)では、名士や有名人くらいの意味で、抜きんでた実力が伴っている必要があり、実力もないのに有名になってるだけ、さらには有名になりたい一心で私生活まで暴露するような人を"media whore"(メディアの売春婦)として嘲笑の対象にされる傾向にあります。このようにcelebrityの意味は多義的なので、迂闊に英語で使わない方がいいです。でも日本では、有名人という意味だけではなく、ちょっとゴージャスっぽかったら猫も杓子もセレブという、水に薄めた低い基準で誤用されています。和製英語のスカタンぶりは今更言うまでもないけど、「有名だけど中身のない人」「金持ちだけど金遣いが下品な人」、要するに馬鹿にした意味での”芸能人””成金”すらもセレブになり、しかも以前のように悪い意味で使ってないというところが気になるのですね。どうしてそこまで基準を下げるのかというと、どーせ名実ともに真正のセレブにはなれっこないから、せめて気分だけでもといういじましさや目線&志の低さを感じるし、何よりも本物のセレブになってやるというパワーが希薄になっているような気がします。本来馬鹿にすべき成金ですらチヤホヤするんか、そんなもんになりたいんかという。
このあたり書き出すとまた2−3本いってしまいそうだから後に取っておきます。
僕はオーストラリアという、基本的にパワフルで若い社会にいます。別にオーストラリアだけがパワフルなのではなく、海外は大体そうでしょう。日本だけがやたら老成して、妙に透明になっていってるような気がします。ただでさえ日本人はガタイもショボイし、内向的だから存在感が薄いんだけど、これ以上いったら煙のように消えてしまいそうだ。それは、毎年毎年同じようにワーホリさんや留学生さんを迎えていて感じるのですが、年々世界と日本のギャップ、それも個々人レベルでのギャップがキツくなっているのですよ。世界の連中は総じてもっと”やんちゃ”だし、恐いもの知らずだし、好奇心も強いし、行動量も多い。だから経験量も多く、世慣れている。ネットで必死にハウツー系の情報なんか集めても、基本の人間レベルでギャップが激しいからツライところがあるんですよね。
ただし、グッドニュースは、しばらくこっちの社会に溶け込んでいたらすぐに元に戻ります。なんせ自然の人間の生理なんだから、乾燥ワカメを水に浸したように、すぐに戻ります。日本人同士で固まってたらダメよ。日本モードのまま全てが進行しちゃうから。オーストラリアはそれほど猥雑ではなく、クリーンな社会だから、手始めはいいかもしれません。それでも日本よりはいい加減で、笑っちゃうようなムチャクチャなところも、感動的なまでに行動的なところもあるから、良い刺激にはなるでしょう。
いずれにせよ、年々お綺麗に、清潔になっていくわけですが、それって本当にイイコトなの?って疑問は非常にあります。限度を超えたら不自然だよ。人間ってもともとナチュラルに猥雑で、臭くて、汚いものなんだから、それを受け入れられないと色々と困ったことになると思います。それこそパートナー探しにも難儀しようし、国家レベルでいえば国際関係が理解できないでしょう。汚いもの、不都合なものを直視することが出来ないと、臭いものに蓋をして無かったことにしようとする。トラブル慣れしてないから、事なかれ主義になる。でも問題は消えて無くなるわけではないからどんどん悪化する、でも何もしない。好奇心よりも恐怖心が強いから、新しいものを自分で広げていく力が乏しくなり、ひいては将来性が乏しくなる。要するに戦後日本の馬鹿パワーの逆になるわけです。それでいいのか?って思ったりするわけです。