★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
861 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次
このエントリーをはてなブックマークに追加

今週の一枚(2018/01/22)



Essay 861:パーソナル化する新しい「経済」 

〜個人の人生観と世界経済が交差する時代

 写真は、Fivedockって、場所にさして意味があるとは思えんけど、一応。

お金2.0の系譜

 「お金2.0 新しい経済のルールと生き方」という本が出て、大ベストセラーとはまではいかないけど、そこそこ広がっているようです。この十年来世界的にも語られ始め、このエッセイでも折りに触れ思ったり書いているようなことの系譜にあるものです。

 その前には「限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭(ジェレミー・リフキン)」(2015年)が有名になって、

 さらにその前には「資本主義の終焉と歴史の危機 」(水野和夫)(2014年)が話題になって、その前には、、、って昔っから言われてることでもあるけど、だんだん「やっぱ、そうだよなー」って広がってるように思います。さらにこのテーマがどんどん語られるようになればいいなあって思います。

 でも、ほんと、これ、誰でも感じるところだと思うのですね。「なんか違う」「これでいいの?」という思い。それらの流れの中に、世界の格差社会化、中間層の没落、ひいてはシェアリング経済や仮想通貨の台頭やら、それとは真逆の軍事右傾化の台頭やら国家の私物化やらがあったりする。

 いろいろな現象をあれこれを拾ってみて、その上でどっちが原因でどっちが結果なのかで並べなおしてみて、もっとも上流にあるもの=もっとも本質的なものは何かといえば、やっぱ根底にあるのは技術の進展であり、それによって「経済」という概念が変わろうとしていることでしょう。

 それら新しい流れに旧来のシステム(国家や貨幣、資本主義など)が対応できなくて陳腐化している。それでも無理やりそれをやってるから、矛盾や歪みがあちこちに出てきて、それが格差やら右傾化やらになってるんじゃないか。全部根っこは同じことだと。ただ、局面によって現象や機序が違うだけ。

 そこを詳しく書いてると又繰り返しになってしまうからカットして、今回はちょっと別の視点で新たに書き加えます。
 この世界の流れって、個人の生き方論とリンクしてるなということでもあり、経済のパーソナル化とも言えるのかなとか。

個人的な離脱歴

 パーソナルな話なので自分パーソナルなことを先ず書きます。

 僕がこの種の旧システムから別離したのは、やっぱ弁護士やってたのにオーストラリアにぽんとやってきたあたりまで遡るでしょう。

 その前に、いわゆる世間常識(進学→就職→いい人生)から離脱したのは17歳くらいで、何度も書いてますが、人生の基本OSを自分なりに書き換えた。生き方をパーソナライズして、テーマを自分の我儘を通すことにおいた。世間に評価されることではなく自分が満足することが価値の究極であるとした。「自分憲法」みたいなものですね。主語の「国民は」を「俺は」にする。だが実社会でそれを通すには難題が多い、そのために世間に対する自衛抵抗力をつけること=社会的な権威と社会的な軍事力を身につけること=喧嘩自衛のプロツールとしての法曹って流れです。

 ただその時点では世の中の大きな仕組みそのものを変える・変わるとは思ってなかった。やっぱ弁護士しばらくやってからですね、現状のシステムに対して見切りがついたのは。「今の日本のこのシステムでは自分を満足させることは難しいな」と。

 ということで日本というシステムから離脱しよーでオーストラリアに来ました。で、オーストラリアでなんだかんだ好き勝手動いて、起業みたいなことして。それでも世界の大きな仕組までは疑問に思ってなかったです。

 それが変わってきたのは、38歳くらいです。人生の後半戦に入りましたー、「かしゃ」って音がして、折り返し地点通過しました、ここから先は死のほうが近いよという実感。ここで考えたのですね。
 その流れは、「僕の心を取り戻すために(その1)尾根道にて(98年10/27)で書いてます。なにかに取り憑かれたように10回不定期連載で、
 (その2)ゲーム性現実過剰適応症候群
 (その3)雪が見えない強者の死角
 (その4-6)「心を豊かに」という幻影(PART1-3)
 (その7)カジュアルな悟り
 (その8)世界観の崩壊と再生
 (その9)心の巨大なブラックボックス
 と続き、最後の(その10)「なにかとやりにくくなりそうな地球のこと」で、世界の流れを書いてます。

 何をそんなにムキになっていたかといえば、やはりあの時点で抜本的にフォーマットを変える必要性を感じたからです。まあ、ミドルエイジクライシスという意味もあったのでしょう。40歳を前に(人生の後半戦を迎えるにあたって)、きちんと仕切り直しをしなければならないなと思ったのです。

 しかし、そういうパーソナルなことを考えていると、なんか自然に世界経済の動向まで視野に入ってきてしまうのです。この先どうやって生きていこうかなと思うと、どうしても外部環境の将来変化というのはありますから。だから最後に個人的な感覚というよりも、外部環境の予測論になった。

 そして、悪い予感ほど当たるじゃないですけど、実際に20年前に思ってたような感じに進んでます。これ、世界がこのままいったら、個々人の人生の喜びをスポイルしてしまうんじゃないのかな?と。当時の僕は資本の寡占化と市場原理の歪みを危惧してて、「巨大企業の寡占状態で、独立もしにくいわ、かといって会社との一体感もないわ、外界ともワンクッションおいてつながってるわ、因果関係のストレートさもあるんだか無いんだか判らないわでは、やりにくいだろうなあと思うのです。それに加えて、市場原理という頑張りのフォーマットがよく分かんない状態になっていくなら、尚更だろうなと。だからこれからの時代、個人が個人としてまっとうになるためには、従来とはまた違った意味での「闘い」があるような気がするのです。何となくそんな気がするのです」と書いてます。

 以後20年間、それやってるわけですが、これは僕に先見の明があるとかじゃなくて、「誰でもそう思うだろ?」ということです。だいたい、さして賢くもない僕ですら当時にそう思うんだから、世界で相当多くの人が同じことを思っただろう。
 そして見ていると、皆どんどん実行に移している。シェアリング経済も仮想通貨も出てきたときに「あ、同じこと考えてる仲間がいるぞ」とうれしかったです。発想の根本にあるものがビンビンに伝わってくるじゃないですか。おー、本気で世界をひっくり返しにきてるぞ、旧体制にセンスのいい喧嘩を売ってるわって。

旧体制の反撃(ごまかし)

 あ、ちなみにですね、ひっくり返される側の世界(旧体制)も黙ってるなくて、いろいろ防衛策を講じます。一番大きいのは遺伝子組み換えみたいに、事柄の本質を違う物事に組み替えて印象づけるミスリード洗脳でしょうね。例えば、Airbnbを民泊と訳したり規制立法やったり、どっかしらダーティなイメージ付をするとか(オーストラリアではそんなことないよ)。

 あるいは仮想通貨(クリプト・カレンシー、間違ってもイリュージョンマネーとか言わないように(笑))も、投資とか暴落とかいう側面に印象づけてる力を感じますね。遺伝子組み換えだなーと。あれ、マジに普及したら世界の国家も経済も全部ひっくり返るくらいの潜在力をもってるんだけど、それが浸透したら困るんでしょう。クリプトカレンシーの凄みは、国家からは全然把握できない完全オフグリッドの経済を作るところにあり、国家が国家たる伝家の宝刀、通貨高権を揺るがせるところにあります。権力とは社会の約束事を作り出す権利です。「この貝殻をお金にする」とか決める力。ルール制定力。普通、皆のゲームのルールを仕切る力(=皆の人生のありかたを決める力)は、秦の始皇帝の度量衡の統一のように、強大な帝王によってのみ可能だったんだけど、仮想通貨をそれをあっさりひっくり返す。権力そのものを無にしていく力がある。

 ここ言い出すと長くなるけど、ともあれ投資なんかじゃないです。てか投資じゃ意味ないのよね。既存の資産を仮想通貨に変えたらトレース出来るから、オフグリッドにならない、意味ないじゃん。だから意味ない方向に仕向けてるなと思うぞ。仮想通貨使うんだったら、ゼロからお金をゲットできる局面、つまりどっかで誰かを助けて、そのお返しにお金の代わりに仮想通貨をもらう。これは銀行口座も何も通さないから外(国家)からは見えない、追えない。そしてまた誰かに何かをもらったらその仮想通貨で払う。それが重なっていったら、年収が実質的に1億あったとしても表面上はゼロになるから税金とれない。これが普及したらどうなると思います?税収がガタ減りするでしょうし、GDPその他あらゆる経済統計が意味なくなるし、暴威を奮ってる国際金融機関もどこに何がどれだけ動いてるのかわからんから投資先もない。

 つまり仮想通貨は、決済手段という本来のお金の機能に集中し、それ以外のあれこれ(やれ交換レートだとか、金利とか投資だとか)をオミットするから、付随部分にへっついてた勢力(金融業とか金融庁とか)が力を失う。ま、しばらくは同時併存状態になるとは思うけど、それでも現体制にしてみればえらいこっちゃですわ。皮肉なことに仮想でもなんでもない現金が一番仮想通貨に近い性質をもつけど(外から見えない)、だからこそ、世界のあちこちで通貨廃止(まずは高額紙幣の廃止)して、全部丸わかりのトレースしやすいオンラインにしちゃいましょうって流れがあるんだと思います。けっこう、チャンバラみたいに丁々発止で切り合いやってるんじゃないかなー。

 でもって、仮想通貨の本当の使い方は、仮想通貨でのやりとりが出来る取引先や消費者、仲間をどれだけ見つけられるかにかかってると思います。B to Cだったら難しいかしらんが、業界の奥の方の B to B専門だったら結構やりようはあると思います。


個人と世界がリンクする=パーソナル化


 で、ふと思ったんですよね、「あれ?」と。

 個人の内省的な人生観と、世界の潮流がなんでこんなにリンクしてるんだろう?

 おかしいでしょう?個々人の胸や頭の中の思いと、外界の流れとは一応は別個のものですよ。「犬が吠えても隊商は進む」じゃないですけど、個々人がどう思おうが、現実世界は全然別個の原理で進んでいるのが普通。

 そりゃまあ関連はしますよ。こういう世の中だから個人もああ思うとか、そういう個人が増えるからそういう世の中になるとか。でも、それを越えて本質的に関連性があるような気がする。
 その関連性は、多分理論的にも説明できそうな気がして、だから今回試論として書いているわけです。

世界の部族国家化

 部族社会化については、2012年にEssay 557 :「みんな」の極大化と極小化Essay 591:部族社会と互換性〜「国家」は本当に必要なのか? などでチラと書きました。591はもっぱら世界史や日本史の流れをトレースして、そこから延長線を引くという推論方法を用いました。

 
 上の図は、そのときのエッセイで即席に作った概念図ですけど、大小様々な人間集団がおって、これから時代どのくらいの規模の集団が主役になるだろうかな、使い勝手のいいサイズはどれかなと考えてみると、図でいう「中間集団」くらいだろうと思ったのです。

 国家が帯に短し襷に長しの中途半端な存在になるだろうというのは、一つには、商売(資本主義的利潤の極大化)は、もう国家レベルをはるかに凌駕してる点からも言えます。アマゾンでもなんでもそう。またそのベースとなるインターネットは、個々の国家ごときの手に負えるようなものではない。せいぜいが防戦一方(アク禁にするとかイジこい海岸線防衛だけ)。国家なんか考えてたら今のビジネスはできんよ、と。極大化の流れですね。

旧システムの陳腐化と時代の流れ

 一方、一人の人間が生計を立てること、そこそこ幸福に生きるための客観的条件は年々ハードルが下がっていると言われます。

 絶対条件になるインフラストラクチャーですけど、まず電気はどんどん発電コストが下がっています。太陽光でも革命的なレベルでコストダウンしてきてるから、手の届く範囲になってきている。
 中国ではパネルを敷き詰めた高速道路でを実験してるし、うまくいけば走行中のEV自動車に自動充電する可能性すらある(「高速道路で太陽光発電 世界初の実験」(毎日新聞、2018.01.04))。一般道で実験はフランスも2016年からやってるそうです。オランダでは100%風力発電で動く電車が出てきている(電車を「風力100%」で運行、オランダ鉄道(スマートジャパン、畑陽一郎氏の論稿、2018.01.14))。

 水道インフラも、(もしかしたらこれからの成長領域かもしれないけど)井戸掘り普及するかもです。井戸掘り機材もそんなに高くないし(20万くらいとか)、専門業者さんも多いし、自分でやっちゃいましたーって人もいます(例えばここ)。

 ここで水道をいうのは、水道民営化の話もあるように、だんだんコスト的に国家の手に負えなくなるしれないからです。特に地方は範囲も膨大に広いし、水道管の劣化もあるし、やってられるかな?と。でもって、変な水飲まされて、高い料金払わされるくらいなら、自分で掘っちゃえという人が増えるかもねと。電気と水がなんとなかったら日本中どこでも暮らせますからね。また、全国レベルの大インフラを作って&維持しなくても足りる。

中央集権の方が効率が悪くなってきた

 長々書いてる余裕はないので端折りますけど、要するに今の国家サイズにしなければならない合理的な理由はない。1億人ひとまとめにして、年貢を一旦中央に収め、それから(地方交付税などで)分配するなんて無駄なことしないで、地産地消で大体済むだけの技術進化がある。

 ビジネス面でも、商圏や商業用のインフラだってオンライン、ネット販売に食われており、地政学的なエリアが必ずしも決定的な重要性をもたなくなってきています。

 そんななか、日本の予算は、膨大な中央集権事務をさばくため、生産性があまり高いとは言えない公的セクターの従業員(公務員)の皆さんの給料を払うために使われ(福祉予算が30兆とか言っても全部国民に渡るわけじゃなくて、職員の給料とかもある)、あるいはひたすら見せかけのGDPを上げるためだけに公共投資に使われている。あんま意味ないんじゃ、、って気にもなります。

必然性のない戦争

 国家の存在感を唯一示すのが戦争だけど、今の時代にやる意味がない。
 なぜなら、相手国を打ち負かして、それで「占領してどうすんの?」です。そんなことしても、相手国の年金肩代りして払わされるくらいじゃないのか。世界史をみても、植民地経営は結果的には赤字で終わってると言われてますし、それどころか移民その他の膨大な負の遺産を背負う羽目になります。

 古来戦争をやるのは、相手国を負かせて、そこの人員を奴隷労働力として利用して生産性を高めることでした。しかし、今は機械もAIもあるし、人のメンテナンス費用もかかります。そんなご苦労なことをして生産するくらいなら、人件費の安い国でやったらいいし、経済が目的なら経済的に支配するなり、有利な条件を構築した方がいい。途方もない戦費を考えたらそのほうがよっぽど安上がりです。

 戦争目的のその2は資源です。世界大戦は基本コレでした。しかし、太陽光だの風力だのがどんどん実用化されていくと、資源(=石油)は従来ほど価値を持たなくなります。

 かくして戦争する合理的(経済的)な意味は無い。経済的になんだかんだ支配したり、モノ買ってくれるように誘導した方がよっぽどコスパがいいです。

 それでも戦争ムードにもっていきたいのはなぜか?それは多分、意味がなくても国家の自己アピール(+軍産複合体が儲かる)ための戦争煽りなのでしょう。最近のスェーデンやフランスの徴兵制とかもそうです。でも、あそこまで必然性なく騒ぐということは、それだけ追い詰められているということでもあるんでしょ。

資本主義と個人の幸福

 一方、個々人の幸せはもうビジネス(自営&雇用)ではやりにくくなってます。

 一般雇用においても、非正規率がどんどん増え、公務員ですら非正規が増えている。非正規公務員は2016年時点で64万人、全体の3割を越え、2005年に比べて40%増です(「地方自治体で非正規職員が急増、「絶望的な格差」は法改正で解消できない」(ビジネス+IT、高田泰氏の論稿 2017.10.03))。この調子でいけば非正規が正規を数を上回りマジョリティになり、正規がなぜか特権階級視され、ひいてはバッシングされるかもしれない。なんといっても日本においては「正義=嫉妬」ですから。

 一方自営においても、一生懸命自分の表現としてお店を開いたり、親の店を継いだところで、巨大資本に踏み潰されてシャッター街になったり。

 また、そこで伸びているのは、万人受けする有名店や激安系ではなく、個人のパーソナルな趣味を全開にしたようなニッチな店だったりして、どっちかといえば金儲けではなく自己表現としてやってる観がある。当然利潤はしょぼくなるけど、それでもいいと。でも利潤極大化だけを目的としない時点で、純粋な資本主義的なビジネスからは離れている。

 かつて保守本流ビジネスだった重厚長大系は、国家にしがみついてるから安泰だったけど、今では国家とともに沈下してる。軍事、電力しかり。

 反面伸びてるのが分散型ネットワークを地でいってるようなエリアで、アフィリエイトなどが典型的だけど、企業のメインバーを社員として囲い込むのではなく、外部アウトソーシング化するもの。それは雇用から請負へ、個々人を給与所得者から自営業者に向かわせる方向であり、それが進んだのがAirbnbやUberなどのシェアリング経済、そしてオンラインレッスンなどの流れでしょう。いずれも個を経済単位に引き上げる方向、生産手段を個に戻す方向です。

 シェアリング経済だって、アイディアや方法さえ示してもらったら、別にどっかの企業に音頭取ってもらわなくても限定されたエリアだったら自分らでも出来るし、広がるでしょう。とある村くらいなら、Uberにやってもらわなくても、Googleカレンダーを皆で共有して、「あ、○さん今空いてるわ、乗せてもらおう」とか出来る。ま、高齢者が多いからそんな活用は無理っぽいけど、原理的には可能でしょう。

流れのいくつく先は個々人パーソナル

 いろいろ考えていくと、これらの流れはどこに向かっていくのか、どこに収斂されていくのか?といえば、パーソナルな方向だと思うのです。

 一つは、今述べたように、一般ビジネスでも大量の従業員を抱え込んで人件費に四苦八苦する方向でなく、大衆に散在する人的資本をオンタイムでつなげていく分散ネットワーク式でしょう。その方が効率がいいからのびている。これらは経済的にいえば、個を個として自立に促す方向にある。まあ、今の段階では、個人がそれで食っていくのは難しいかもしれないから、しょせんは「鵜飼の鵜」みたいなものかもしれないけど、この鵜は頭いいから、いつまでも鵜匠の言いなりにならないで、自分で取った魚を自分で食べるようになるかしらん。

 それはともかく、自我を殺して組織のイチ細胞に同化していく流れよりも、目覚めて自立する方向に進むでしょう。それは個人の幸福にとって良い方向である以上に、企業にとっても人件費負担(単に給与だけではなく、社会保障費などが高い)を軽減して有利だからです。

 他方、全体のインフラなりまとまりなりでいえば、現在から未来の技術を前提にすれば、国家よりも遥かに小さい規模の集団=「仲良しグループ」=部族社会みたいなもので、大体の所は賄えるような気がするからですよ。やり方ひとつで7割位は出来ちゃうんじゃないか。福祉的なことは、ある程度気心もしれた、同じような価値観と人柄保証のある集団内部で助け合えば、大体はできちゃうでしょう。また今後どんどんやりやすくなるでしょうね。過疎エリアでもドローンで持ってきてくれたら楽だし、ネットの解像度の向上と、検査機器の低廉化とAIなどで遠隔医療だってある程度は出来るでしょうし。

 そのような部族社会化が進むとしたら、その場合のキー・エレメンツ(基本構成要素)はなにか、部族社会を形成する鍵となるものは何か?といえば、個々人の価値観=パーソナルそのものでしょう。仲良しグループなんだからそうですよね。人が誰かと仲良くなるのはなんで?といえば、個々人の趣味嗜好や価値観や波長がある程度同じか、違うけどそれが好ましく思えるかどうかでしょ。要するに「パーソナリティ」以外の理由はない。

個人と分散型ネットワーク

 何度も書いてる「分散型ネットワークの時代」は実はインターネット以来ずっと続いてますし、20年以上やってればもうだいぶ皆の身体と発想に馴染んできたでしょう。そうなってくると、「集団」をつくる意味も変わってくるでしょうね。ゆくゆくは完全個人ベースになっていくかもしれない。既にクラウドファンディングのように完全個人ベースで社会参加できるんだしね。

 個人をベースにしつつ、同好の士や、エリアなどで小さな集団を作る。全面コミットするのではなく、局面別にコミットする。こう書くと難しいけど、要するに部活やサークルみたいなもんです。一人で幾つもの集団に加入するのも全然可能。

 そういった小さなグループとグループが、テーマや利害によって一時的に手を組んだり、融通したりもできる。この相互干渉や流入がダメだったら、分散型ネットワークといっても、単に散らばって、全員孤族の全員ボッチになるだけの話です。大事なのはネットワークの組み方だと思います。うまいこと転がしていければ、例えば、いい井戸掘りマシンを共同購入して皆でシェアしましょうという呼びかけがあったら、いろいろな集団から手が上がったりさ。足りない人材を相互に融通するとかさ。できちゃうじゃん。

 このネットワークの組み方論、その技術論やノウハウが、おそらくは将来的に一番のポイントになると思ってます。僕が卒業生相手に掲示板やるところから始めて、A僑ぶち上げて、オフやってっって広げているのは、その練習というか、揺籃期というか、インキュベーション(卵の孵化)です。百年の計で見定めると、多分そこが急所になると。

 仲良しクラブなんだけど、ただの仲良しクラブじゃダメなんですよね。これ、自分でもまだ見極められてないけど、ものすごーくデリケートな作業ですよ。開放性と閉鎖性という矛盾する要素を矛盾なく両立させないといけないし、普段はサラサラの液体だけど、なんか触媒をいれるとガッと個体化するという一種の人間「化学」ですし。従来の組織論は役に立たないし(そもそも組織じゃないし)。

まとめ

 さて、長々書いてきたのは、そういった色々な現象を、一箇所だけに視点をフォーカスせずに全部まとめて概観すると、「個」というものが浮かんでくるのです。

 ならば、個々人の内省的な人生観と、世界の流れが符合していくのも、ある意味では当然なのかもしれない

 大きく言えば、そういう時代的な条件が徐々に整っているからこそ、個人は個人として覚醒し、自立していく方向になり、社会もまた個人起点の合理的な組み換えを行うようになる。

 これが高度成長期のように集団マンパワーが合理性を持っていたなら、集団の発展と個人の幸福がきれいに重なるから、そんなに個は個として目覚める必要もなかったし、それで十分幸福になれた。そこで幸福になれないからこそ=既存の集団に対する違和感やズレを感じるからこそ、個は立ち止まり、自覚的に考えるようになるんだろう。

 またそういう個人が増えるほど、個ではなく集団として捉えるマスマーケティングも頭打ちになり、マスマーケティングの最たるものは国家ですから訴求力やリアリティも劣化する。

経済のパラダイムシフト

 「経済」というのは「経世済民」の略ですが、この語源や語義にはさまざまあります。態様は「世の中を上手にマネジメントして、人々を救うこと」です。別に金勘定やったりグラフ書いたりするのが「経済」なのではない。

 とある現状を前提にして(この程度の科学技術、この程度の教育水準や人心の荒廃とか)、「こうすれば一番うまく廻る」という方法論が経済だと思います。資本主義も貨幣もそのイチツールに過ぎない。そういった広い意味で経済を考えた場合、パーソナルにパラダイムシフトしてきてるなーって改めて思うわけで、だから経済のパーソナル化だと思うわけです。

 これまではマス・集団経済だったと思います。人数集まった方がスケールメリットがあって何かと便利であったと。発電ひとつとっても、資源である石油を地球の反対側から引っ張ってきて、コンビナートにに備蓄して、精油して、各地の発電所に運んで、発電して、それをまた山奥の送電線をたどって都会にもってくる。これだけの大事業ですから、人数多く集めた方が一人あたりのコストは安くなる。市場を作るにしても、出来るだけ多くの店が参加した方が便利ですから、皆が同じようなエリアにひしめきあって住むほうが良かった。でも、通販、そしてオンラインがメインになっていったら、そういう制約もなくなる。

 だから雁首そろえて大人数でやるメリットがどんどん失われている。これまでの大人数による大規模経済をマネージするのは、資本主義が一番都合が良かった。「大衆に散在する資本を集積」し「資本の原始的蓄積」というタネ金を集め、どかーんと巨大なシステムを組んで、どっかんと儲けるシステムですね。そして話がデカくなるから、そこには金融というものが必要になり、金融が出来ると今度は付帯技術(投資、投機)が出てきた。でも、そんな巨大なマスを作る必要がないならば、資本主義は用済みと言えなくもない。

 そうなると、金融にしたって要は決済手段として正確に透明に金勘定ができればよい。だったら仮想通貨の方がより正確でより透明だし(改竄しにくい)。分散型ネットワークであるブロックチェーンでやるから、関係者全員が「原簿」を持ってることにもなるし、なんかいじくったらその痕跡がそのまま残るから不正はしにくい。

 同時にこれまでの決済以外の金融付帯部分は不要になる。僕も前々から思ってたのですが、例えば為替レート。やれ円高だドル安だとかいって儲かったとか、損したとか、あれは何の意味があるのだ?そりゃ国力という実体経済を正しく反映しているなら、その限りで意味があるけど、今日の世界金融は実体経済なんかまるっぽ無視して、投機的思惑だけで変動している。真面目に働いて儲かったと思ったら、為替でパーとか、ふざけんなって思いますよ。

 だから仮想通貨なんでしょう。あれは国関係ないですから、世界のどこで誰と取引しても同じ通貨だったら、為替もなにもない。最も安定した取引が出来る、しかも改ざん率が限りなくゼロ。そのうち、仮想通貨に対置するものとして現在の各通貨が「国家通貨」と呼ばれる日が来るかもしれない。今の投資だ暴落だというのも、仮想通貨と国家通貨との連携での話です。そして国家通貨が不便で使われなくなってくれば、旧来の巨大な金融権力(国家とか銀行とか)は、用済みになるか、かなり役割を変えざるを得ないでしょう。

おまけ:個人レベルでの処方箋

 これを個々人のレベルまで落としてくると、どういう話(生き方)になるかというと、うーん、たぶん、個人が個人として立ってる人が勝ち組でしょうね。キャラ立ちというか。十把一からげで、常に「普通」であることに安心しようとしてたり、「その他大勢」だったら負け組だと。なぜならキャラがわからないと、所属部族もわからないからです。

 大雑把な例でいえば、修学旅行でグループ分けするような感じでしょうか。好きなもんどうしグループ組んで〜って言われたときに、「ほんじゃあ」で好きなもんと組めるかどうか、どっかの部族社会に入れるかどうか、そういう感じ。

 こういうと一瞬クラス風景がよぎるかしらんけど、ちょっと違うのはクラスの規模が70億人だから2億倍くらい選択の余地が広がってる点。それと、格上格下とか、スペックとか、偏差値とか、有名とか、人気とか、その種の面倒くさい概念にこだわってる人は、これから先「前世紀の遺物」になるかもしれません。なぜならネットワークにはヒエラルキーとか上下関係なんか無いですから。

 その意味では、今までの日本の個人処世術からは真逆なベクトルになるかもしれません。ただ、矛盾するようですが、本質的な意味では何も変わらないとも言えます。現在だって、そんな表面的な付き合いなんか、時が経過すれば何も残りませんから。

 ちなみにリア充だとか、友達多いとかいうのは、こと経済レベルに関していえば、あんまり関係ないと思います。消費の側面で遊び仲間がいるかどうかではなく、生産的な局面でどうかって話ですから。

 結局、正直に生きてるかどうかって話になるのでしょうか。本音ぶち撒けて生きてますか?と。それをすることで損をしたりハブられたりするかしらんけど、別にそこはどうでもいい(良くはないかもしれないけど致命的ではない)。少なくとも本音は言ってるわけですから、自分の心と自分の行動にズレはない。そこに不快感はない。ココが大事だと思うのです。

 ほんとは「違うな〜」とか思いながら、場の空気読んで「そうだよねー!」とか全力で相槌をうってたり、自分を殺して集団に同化したとしても、それがそもそもストレスでしょうし、違和感バリバリ感じながら、友達できたって意味ない。それ以上に、所属部族を間違えるのはキツいと思います。さらに、「そういう人か」と思われて、もっと気の合う人との出会いを逃したり、より自分にフィットした部族社会を見つけるのをミスったりするでしょう。かくして一生自分じゃない自分を演じ続け、居心地の悪い部族に所属して、心にもない日々を送るのって、かなりしんどい話だと思います。ある意味では人生全部、丸損になるかもしれない。

 ということで、何よりも自分の色を出せるかどうかが大切なポイントになっていくかもしれません。最初はおっかなびっくり、次にギクシャクながらも。そしてだんだん慣れてきて自然にさらっと。そのあたりで慣れに走ったり、技巧に流れたり、自己表現のワンパターン化が起きるから、それをこまめにメンテして、叩き壊して、常にフレッシュな自分を出していくと。けっこう難しいです。ただ、それは新時代の難しさというよりも、何が起きても変わらない人間関係の難しさという普遍的な難しさに由来するものです。そして、新しいパーソナルな時代には、それが一層フィーチャーされるような気がします。




このエントリーをはてなブックマークに追加

 文責:田村

★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page
★→漫画や音楽など趣味全開の別館Annexはてなブログ