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僕の心を取り戻すために(8)

世界観の崩壊と再生



(承前)

「物語」崩壊の遡及効と将来効

 目の前の現実について、納得できる物語と意味付けがなされれば、人の心は落ち着くのではないかという話まででした。

 逆に納得できないと苦しい。特に今まで納得していたものに疑問を持ち出したら、「こんな筈ではなかった」という苦しみが襲って来るでしょう。




 現在、団塊の世代と呼ばれる人々がリストラその他で受難にあっていると言います。将来の生活の発展と安定という手形を渡され、一生懸命に会社に尽くしてきてみたら、全然話が違ってる。ヒドイ話だと僕も思います。そこでの失望感は、単に人生の段取が狂ったとか、収支勘定で損をしたには留まらないでしょう。

 妻のために、子供のために、会社のために、そして大袈裟ではなく日本のために、休日返上で働いてきた。長い通勤時間にも耐えてきた。それが出来たのも、そればベストでありそれが幸福なのだという大きな物語と「納得」があったからだと思います。今から顧みても、その時代にそう思うことは何ら間違いではなかったでしょう。だが、しかし、時代の転換点を見過ごし、結果としては裏切られた。裏切られるとどうなるか、もう遡って物語と納得が崩壊します。何の為に今までやってきたのか?殆ど全ての意味が消滅したかのように感じられるでしょう。これはキツイと思います。残酷だわ。

 同じようなことは、戦時中お国の為に特攻隊に志願したところ、いざ戦争が終わってしまえば、あれは悪い戦争だ、すべきじゃなかった(それはそうなんだが)になっちゃた場合。はたまたベトナム戦争で死ぬ思いをして帰ってきたら、同胞達に人殺し呼ばわりされ石を投げられるというランボーみたいなパターンもあるでしょう。

 時代が変わるということは、ものすごく残酷なことなのでしょう。沢山の『話が違うじゃないか!」が生まれ、多くの人々はそれまでの人生の価値を一瞬にしてチャラにされてします。そうなると人間どうなるか?もうグレるなんてもんじゃないでしょう。たかだか3〜4年程度のお勉強が嫌だと言ってるガキンチョがグレるのとはレベルが違う。時間にして数十年、深さにおいてそれこそ生死の境までさまよってたわけですから。そこまで深く長くコミットしていた核心が無くなっちゃったら、心がぶっ壊れて当たり前だと思います。




 そこで出て来る対応は、勿論人によって様々でしょうが、例えばあくまでも昔の物語に固執するというパターンもあるでしょう。過去の戦争が何の価値もない悪いものだったと言われることに、もう耐えられない。自分の息子は単に犬死しただけなんて、絶対に認められないとなるのも、当事者としては無理ない話だと思います。もっとも、アジア諸国(オーストラリアも含む)でえらい目に遭った人達にしてみれば、「あれは良いことだったのだ」みたいに言われることはそれ以上に耐えられないでしょうが。

 もう一つのパターンは、ひたすら虚無的に、シニカルになります。何も信じられなくなるというか、新たな物語を構築する気力がなくなる。「ここでこんなに頑張っても、どうせ」という意識が頭から離れなくなる。で、「世の中そんなもんよ、くだらない」とニヒリスティックになっていってしまう。不幸なことに人間には学習機能がついてますので、一回イヤな目にあうと、次もそうなるのではないかと警戒機能が作動してしまう。そして、あとでも述べますが、納得なんてものは、徹底的に懐疑的だったら出来るものではないです。正直者が馬鹿をみる社会が良くないと言われるのは、それが倫理的にもとるというだけではない。一回馬鹿をみた正直者は次からは嘘つきになりがちだということで、ガン細胞のように世の中に嘘つきが増殖していくことだと思います。

 そんな時代の転換などという大袈裟な話でなくても、信じていた友達に裏切られた、恋人に裏切られたというのも同じでしょう。もう人が信じられなくなる。これまでまともに見えていた世界がグニャリと歪む、あの吐き気のするような感覚。あんなツライ思いをするのは二度と嫌だと思うから、恐くて心を開けなくなる。




 人にはそれぞれ「それがあるから生きていける」という物語があるのだと思います。その物語を壊されるのは、かなり厳しい体験であり、心の危機になるでしょう。

 再び物語の世界に入っていくためには、破綻してしまった物語を修復する必要があります。それはカウンセラーや近親者の仕事なのでしょうが、一般的には破綻をも織り込んだ大きな物語にヴァージョンアップすることでしょう。曰く、「相手もまた苦しかったんだ」「断腸の思いでしたことなんだ」「あなたの信頼は決して無駄ではなかったのだ」「しかし人間は弱い生き物だ、そういう不幸な巡り合わせというのも又生じるのだ」「それは誰にでもあることなのだ」「それでもなお且つ信じ続けるからこそ人間は素晴らしいのだ」「恐怖と苦しみを乗り越えてオズオズと差し伸べられた手こそ尊いのだ」などなど。

 釈迦やキリストがやったように、とにかくフィールドを広げて全体のツジツマを合わすという作業。目の前の絶対矛盾を解決するためには、それもこの世の全ての悲惨さを修復しようとするためには、途方もなく巨大なキャンバスが必要になっていったのでしょう。




 ところで、リストラされちゃった団塊の世代の方々、あるいは多くの戦死された人々または遺族の方(それは日本人に限らない)に申し上げたいのは、あなた方が頑張ってあるいは苦しんでくれたおかげで今僕らはのうのうとやっていられる、ということです。国を二つに引き裂かれもせず、腐っても鯛で経済大国にしてくれたおかげで、海外在住の日本人は、日本人というスペシャルバリューでメシが食えるわけです。

 これ、日本がズンズン沈没しちゃえば、APLaCなんか壊滅ですわ。留学なんて資産数億レベルの特権階級だけのものになるでしょうから。結局、蛇頭のように密航者手引やら、出稼ぎ斡旋かなんかやるしかないでしょうね。「地球の歩き方」片手にシドニー散策やってるOLさんも、上の世代が頼りなかったら、今ごろはキングスクロスあたりのブロッセル(売春宿)で客引きやってるかもしれません。

 だから、あなたの個人史においてはツジツマは合わないかもしれないけど、その分次の世代である我々が不当利得のように果実を得ております。全体のツジツマを合わすために、その分の見返りを差し上げるべきだとも思います。といって、直ちに何ができるわけでもありませんが、とりあえずはそういう認識でいるといことを申し上げておきたいと思います。

「納得」の条件

 「こうなればいいのに」という願望と、全然そうなってくれない現実との食い違いを、どのようにツジツマを合せて理解できるか、どうやったらスンナリ落ち着く物語を発見できるか。あれこれトライするのが、いわゆる「悩んでる」と言われる心理状態なのでしょう。

 しかしながら、納得のための物語といっても、いいかげんなオトギ話を聞かされて「なるほど、そうだったのか」と思うほど人は単純ではない。それこそ、その人の根底にある世界観にカッチリ根ざした物語でなければ、そうそう納得できるものではないでしょう。



 このように納得のベースには世界観があるとしたら、世界観のベースには何があるかというと、個々の知識や体験だと思います。いろいろな体験や知識のモザイクが織り成す曼陀羅絵みたいなのが世界観、worldviewなのでしょう。これまで生きてきた実体験や知識、クールな知性や猜疑心を総動員して考えて、「やっぱりそうとしか考えられない」というところまでいってはじめて心からの納得というものが出来るのでしょう。




 この構造は、情報が少ない領域を例にとると分かりやすいでしょう。オーストラリアに3日だけ旅行して、直接話した3人くらいのオージーがみな親切だったら、「オーストラリア人は親切だ」というオーストラリア観ができます。逆に、行く先々で差別まがいの不愉快な応対をされたら「オーストラリアはクソだ」という世界観が出来るでしょう。

 初恋の彼女にてひどくフラれてしまえば、その段階ではそれが全ての「女性体験」になるわけですから、「女なんて、畜生」と秋風が吹くでしょう。初めて行ったレストランでウェイトレスの態度が無礼だったら「ひどい店」ということになります。

 逆に情報が膨大にある領域、例えば「人間とは」みたいに、生まれてこのかた何万人となく接触している対象になると、そう一概に言えなくなります。さらに人間を包括するところの「この世の全て」になってくると、要するにこれまでに得てきた全情報がベースになります。膨大なものになります。膨大すぎてそんなクリアな世界観なんか作れないでしょう。

 それが証拠に、この世に関する全く相矛盾するコトワザの類は山ほどあります。「渡る世間に鬼はなし」「人を見たら泥棒と思え」というのは、世界観としては百八十度違う。でありながらも、どっちもそれなりに頷けたります。

 じゃあ完全に分裂状態になってまとまらないのか?といえば、58:42くらいの感じで、「この世には悪い人はいるけど、まあまあ良い人の方がちょっと多いかな」くらいのところに収まったりするのでしょう。また同じような環境、同じようなパターンで育った者同士であれば、大体似たような世界観になるでしょう。それがいわゆる「常識」とか言われているものだと思いますが、当然個人差もあるし、所変わればガラっと変わる。




 したがいまして、どのような情報をどのように摂取していくかが、どのような世界観を構築していくかの決め手になると思います。その意味で、教育は何にもまして重要だと言われるのでしょう。よく「知識の詰め込み」が批判され、「豊かな人格を作ること」を目標として言われますが、「豊かな人格を作る」というのはどういうことか?それはバランスの良い物語を作るために、バランスの良い世界観を築くこと、そのためにバランスの良い実体験と知識とを与えることなのでしょう。

 可愛い子には旅をさせろと言いますが、なんで旅をするといいのかといえば「広く世間を知る」からで、なんで広く世間を知るといいのかといえば、いろんな相反する事例に遭遇し、それだけ大きく且つバランスの取れた世界観が作られるからでしょう。

 じゃあもう一歩突っ込んで、なんでバランスの取れた世界観だといいのか?といえば、これはより現実ないし真実に近づくからでしょう。物事の一面から見た情報だけを得ていれば、反対側が見えなくなります。存在する事実も見落としてしまう。真実から離れると何故いけないかというと、現実離れしてきて、まるで間違った地図を見ながら歩いているように、失敗する確率が高くなるからでしょう。




 話が堅苦しくなってますので、ここで切ない事例をあげましょう。

 僕らが青少年だった頃、つまりリビドーが服着て歩いているような時期ですが、プレイボーイや平凡パンチ等の雑誌にさんざん騙されたものです。もう、海にいけば当然ナンパなんか楽勝にできると言わんばかりですもんね、車を買ったらもうバッチシ、流行のファッションでキメていたらもう安心、その上で、こんなことがあった、あんなイイコトがあったなんていう夢のような「体験談」が載ってたりするわけです。あれ読んでると、いとも簡単に彼女ができるように書いてあります。

 そうかと思えば、「女の子はいつも待っている」「女の子だってヤリたいときはある」「優柔不断な男が一番嫌われる」とか、その種の「ほら、いったらんかい」と煽り立てるような記事もあったりします。そんでもって「そうか、そうだったのか」と感違いする男の子を量産するわけです。

 が、実際はどうかというと、男同士でムナしく波打ち際を走ってたりするわけです。

 今にしてよく考えたら、もしそんなに天下万民みながモテて、女の子も積極的にセックスしてくれるのだったら、グラビアのヌード写真なんか要らないもんね。毎日毎日自分のベッドに女の子がいたら、あんなもん必要ないもんね。それがあるということは、嘘だということだもんね。もっと言えば、ミジメでモテない青春を送ってる人たちが沢山いるからこそ、ああいう雑誌が存在してるわけです。

 ちょっとムキになって書いてしまいましたが(^^*)、イビツな情報をインプットすると、世界観もイビツになって真実から離れる、でどうなるかというと、結果はまるで空振りになるわけです。ボールを見てなきゃバット振っても当たるわけがない、と。






 他人事のように笑って読んでいるあなただって、多少は思い当たる節があると思います。まあ、そんなちょっとファニーな青春悲喜劇だけではなく、もっとシリアスな場合も多々あります。

 「銀行は潰れないという物語」「土地は上がるものだという物語」「関西に地震は起きないという物語」などなど、沢山の物語があり、沢山の世界観がありました。で、壊れました。

 もっとシリアスな歪んだ世界観でいえば「差別」です。
 差別する人というのは、ある種差別するのを当然だと思っているフシがあると思います。「差別して当然」とまではいわないまでも、また倫理的タテマエ的には良くないと思っていたとしても、感情的ないし世間智のレベルではそれが「合理的」だと思ってる。

 なんでそんな風に思うのかといえば、そういう世界観だからでしょう。つまり無知だから、情報が少ないからそうなっちゃう。オーストラリアでもアジア人蔑視が少ないのはシドニーやメルボルンの大都会の方と言われます。そこでは、住人たちは日常的にアジア人に接してます。知り合いのアジア人なんかもう1ダース単位でいます。沢山知ってるからこそ、そんな「アジア人」と一括りにできないことも知ってる。だから何らかの差異的な取扱いをしようにも、それがあんまり基準として機能しない。だから、差別になりにくいという面はあると思います。逆に、ポーリンハンソンみたいな人は、今までアジア人と喋ったのは一人だけみたいなお寒い情報だけだったりします。

 人間、よく知らない人をネガティブに見がちです。村にはいってきた「よそ者」は何をしでかすか判らない危険人物扱いにされる。だったら真に危険かどうかちゃんと会って話して、もっと情報を仕入れればいいのだけど、それもしない。何か問題がおきたら「あいつのせいだ」になりやすい。




 コマメに情報を集めて、それを公正に眺めて、一つの全体像を作り上げていくのは、結構面倒臭い話です。でも、それをしないと世界観が歪み、偏見が身につき、現実に正しくコミットできない。自分が損するだけならともかく、それで他人の人生を傷つけ、邪魔をするのならば、それはハッキリいって大迷惑でもある。この種の大迷惑は至るところにあります。

 ただ、歪んだ世界観を身につける方が楽は楽です。すごくクリアになるから悩みも少なく、生きるのが楽になるでしょう。例えば「日本民族は世界で一番優秀だ」と心から思えたら、それは楽でしょうよ。「しょせん、女は男に劣る」と思ってるなら話は簡単でしょうよ。

 逆に、全てのことをフラットに知りたい、「本当のこと」を知りたいとなると、相矛盾する膨大なデータの山に埋もれて、何がなんだか分からなくなる。全てのことを理解するなんて、一個の人間にできることではない。その1万分の1も不可能だと思う。ありふれた離婚事件ひとつとっても、双方の言い分をじっくり聞いて、徹底的に証拠を集めて、考えに考えるほど真相が見えなくなります。もっと客観的な筈の刑事事件でも、疑う余地のない物証同士が相互に矛盾してしまって「そんな馬鹿な!」というくらい完璧にミステリーになってしまうときもあります。交通事故の態様をスリップ痕や車両の衝突状態などから、純粋力学的に鑑定してもらうこともありますが、誰も想像していていなかったあっと驚くような結論になったり、あるいは解明不可能という結果になるときもあります。ほんの小さなことでも、事実を正しく認識するということがいかに難しいか。

 完璧な世界観を構築することなんか出来ないのですが、そうであったとしても、可能な限り真実の姿に近いものを模索していくことは大事なことだと思います。それは本人の人生がコケないためでもありますが、より重要なことは他者を傷つけないために、です。ミもフタもなく言ってしまえば、「あんたが馬鹿だから、他の人が迷惑してるんだ」というところでしょう。

出来の悪い世界観の方が居心地がいい

 というわけで、人間が一生かかって獲得できる実知識など知れたものですから、新情報のインプット→世界観の動揺→再構成という作業は一生続くのでしょう。ただ新情報があまりにも急で激しいものであったときは、前述のように世界観崩壊、ひいては人格崩壊の危機もが訪れる。

 さて、ほんの銃数行前に「イビツな世界観だったらさぞかし楽でしょうよ」と書きました。自分で書いて自分で感心するのもアホみたいですが、本当にそうだと思います。

 バランス良く情報をインプットし、バランス良く(できるだけ事実に即した)世界観を構築すれば、それだけ心が救われるか?というと残念ながらそういうものでもないようです。真実を知れば知るほど落ち込むというパターンだってあると思います、というかそっちの方が多いかもしれません。

 『今自分がこんなにシンドイのも、結局は自業自得じゃないか』という正しい認識に達したとします。これはキツイですよね。そこで、『じゃあ、もっと自分をマトモにしなきゃ』と思えるならいいです。なぜなら、これまでいいと思っていたレベルよりも、より次元の高い価値に気づいたわけだから、世界はより豊かに広がるわけです。例えば「男の子は強くなくちゃ」で喧嘩一番でやってたら皆に嫌われてしまった。それどころか好きな女の子からも「○○君乱暴だから嫌い」とまで言われてしまった。『何でだよ、強い方がカッコいいじゃん?』と不満だったんだけど、『腕力だけが取り柄じゃ確かにカッコ悪いわな。もっとカッコいいのってあるよな』って気づけば世界観は豊かに広がり、同時に救われます。

 でもそこで世界観のヴァージョンアップに失敗すると、よりセコいレベルで世界観を整合させようとします。さっきの例だったら、「ブチブチ文句を言わさず皆を子分にしちゃえばいいんだ」「絶対的な権力を持てばあの子だって好きになる筈。それでも嫌がるなら無理やり」という具合にエスカレートさせてしまうとか。ありがちですね。

 それか、「皆、嫉妬してるだけなんだ」とかやたら外罰的になってみたり、あるいは「もう俺なんか一生駄目なんだ」とかやたら内罰的になってみたり。日本経済が悪いのもみんなユダヤの陰謀だったり、全ては男と女の対決の図式に還元されたり、東洋と西洋の対決という歴史観で何でも説明してみたり。もういくらでもあるでしょう。




 ややこしいのは「一面真理」というやつですね。それが全てではないのだが、丸っきり見当ハズレというわけでもない。だから、それでも一応現実はそのとおりに動く部分もある。例えば、銭ゲバや金色夜叉のように、「所詮この世は金だ」「女なんかいくらキレイゴトいっても最終的には金で動くんだ」とかね。「金(貨幣)」というのは、生存本能をも含めた人間の全欲望を抽象化し、交換可能になるように普遍化させた「結晶」のようなものですから、「この世の大部分のことはカネでカタがつく」ようになっていてある種当然ですよね。だって、そうなるように人間が開発したんだもん。イチイチ物々交換やってたら面倒臭くてしょうがない。

 「この世は金だ」という認識も、まあ80点くらいは取れると思います。でも100%じゃない。それは「人の心は金では買えない」という道徳的なドグマから言ってるのではなく、人間がそんな満点ツールなんか作れるわけないからです。人の心が金で買えないのは、確かに崇高な精神性によるところも大きいでしょうが、もっとドライな言い方をすれば、人間の心象というのはもっと複雑でメチャクチャだから、そんな「常にAを出せばBという反応をする」というような単純な法則性では動かないからでしょう。だから金が安定的に通用するのは、単純な法則で動くようなレベル、つまりは生活事務処理レベルに過ぎず、金はそこでの「決済手段」でしかないと思います。

 ちょっと脱線しますけど、「この世は金だ」と言う人だって、この世の最高価値が金であるとは思ってないでしょう。思ってたら何も買えないでしょ。だって、「買う」というのは金と何かを交換することですが、もし金が最高価値ならば、何を買っても何と交換しても、損ですもんね。だもんで金の力で何か金以上に価値があるものを手に入れたいわけでしょ。世界を征服したいとか、美女あつめてハーレム作りたいとか。神様が出てきて「おまえには望むだけの金をやろう。でも1円でも使ったら即座に殺す」と言われても、嬉しくないでしょう。だから金はつかってなんぼ、使えない金は金じゃない。本来的に決済手段なんだから、それが当然だと思います。

 だからどんなガリガリ亡者も、金は決済手段、何かを手に入れるための道具というフレームワークからは逸脱できないと思います。そのうえで、金が決済手段としては最強であるよと言ってるだけでしょう。(マニアックなコレクターは別ですけど、そういう人は「この世は金だ」とは言わんでしょう。もっと違う文脈で金に執着するでしょう(自己愛の変形とか))。で、金が決済手段として最強という主張に対しては、ルックスの方が強いんちゃうの?暴力のほうが絶対的じゃないの?とかいくらでも反論がでそうな気がします。汗水たらして、人を騙して蹴落として、必死に億単位の金を用意して、絶世の美女を落したとしても、その絶世の美女からしてみたら、ウィンク一つでその数億の金を手にできるのだから、そっちの方が全然強いじゃんとか。

 そこまで極端な事例でなくても、金が強いとしても、その金を稼ぐための面倒臭さまで考慮に入れたら、あんまり効率的なやり方ではないなと思いますけど。女に金を貢いでる男もいれば、その女から金を貢がせてる男もいるわけです。必死になってバイトしてローンで外車買って、あのコに「ドライブしない」と誘ってやっとのことでお茶してる男もいれば、「先週休んじゃったから悪いけどノート見せてくんない?お礼にお茶でもおごるよ」と言ってお茶してる男もいる。なんかねえ、そう考えると、「この世は金だ!」でやってる人って、一番貧乏クジ引いてるんじゃないかという気さえしますね。本人も薄々自分の要領の悪さに気付いていて、それが後ろめたいから、ああやって頑張って「金だあ」って主張してるのかもしれないです。まあ、頑張ってください。




 話逸れましたけど、「しょせんこの世は〜」という、「一面真理」のシンプルな世界観にまとまっちゃう人がいますが、それって大変だろうなあと思います。「所詮(しょせん)〜」と口癖のように言うひとって、ちょっとヤバいです。「しょせん」と口走った瞬間、複雑な陰影をもった実世界は、極めてシンプルな、ほとんど「マルかいてチョン」みたいな世界観に収縮しちゃう。その複雑な陰影が一番美味しいところだというのに、ああ勿体ない。「しょせん酒なんかアルコールじゃないか」と言ってしまえば、大吟醸も年代物ワインも工業用アルコールもみな同じになっちゃう。ああ、勿体ない。「しょせん仕事なんか金と生活のためだから、適当に給料が入ればいいのさ」と言ってしまえば、損得抜きで奔走しまくって望み通りベストの結果を得られたときに仲間と飲むビールの味も飛んでしまいます。あの一口目の、舌から喉に冷たい固まりが通り過ぎるとき、無数の泡が脳味噌にあがっていって、ほんのり白くスパークする半分気を失うような無上の快感も、無しです。ああ、勿体な。


 何の話かというと、世界観のヴァージョンアップの話でした。
 「衝撃の新情報」の置き場に困って、セコく、小さくツジツマを合せて、「一面真理」的な世界観でまとめちゃうのは、勿体ないよという話であります。もっとも、テンポラリーにはそれもしょうがないとは思います。ヴァージョンアップが発売されるまで(思い付くまで)、とりあえず拗ねていたり、イジケていたりしても、それはそれで無理ないですし、そんなときに「ポジティブに!」とか言われたってツライだけでしょうから。

 さて、辻褄合わせの歪んだ世界観ですが、これが異常にアサッての方向に進んでいくと、いわゆる精神疾患としての「妄想」になっていくのでしょう。被害妄想、被愛妄想。日常あまり接する機会はないでしょうが、こういう人達ってやっぱり居ます。市役所などの無料法律相談とか持ち回りで出掛けるのですが、何十人かに一人くらいの割合で出食わします。最初は普通の法律相談かとおもって聞いているうちに、段々話が妙な方向に展開していくわけですね。

 ありふれた家賃払えとか貸した金返せみたいな話だったのが、いきなり「実は、命を狙われているのです。今日もここに来るまでに尾行されてたのでまいてきました」という話になり、さらに大阪府警や大新聞は「やつら」の支配下にあるからアテにならないとか、親切に話を聞いてくれた近くの兄ちゃんの姿が見えなくなったのは暗殺されたからだとか、どんどん広がっていきます。「どうしよう?」と思いますよね。市役所の職員の方も気をきかせて「次の方がお待ちですので」とか助け船入れてくれたりするのですけど。でも、でも始まる前に職員の方がやってきて「次の方は、ちょっと難しい方でして」とか言うくらいですから有名なのでしょう。でも「難しい方です」とか言われると、「え?」とかドキッとしますね。

 もう少し進むと、「電波が教えてくれる」といういわゆる「電波系」の人々になります。ホームページでも時々ありますもんね。怪文書の類をせっせと印刷して配って歩いたりしますが、内容よりも、まず日本語として意味が全然分からんとか。

 被愛妄想も聞きます。これは女性に多いようですが、客観的には単なる知り合い程度なのに、本人の中では愛を告白され、一夜を共にし、将来を誓い合って、、というところまで進行します。「だったらいいのになあ」と「そうだったのだ」の、幻想と現実の区別が曖昧になっていく。可哀相なのは相手(ですらないが)の男性で、たまたま恋人と街を歩いているのを目撃されただけで、もう「裏切られた」ということになり、凄まじい報復が始まります。勤務先から取引き先、親類縁者一同、どこで調べたのか、関係する人(あるいは関係なくても)、エロ小説まがいの赤裸々な告白(妄想だけど)と弾劾文を延々FAXで送り続けるわ、職場に怒鳴り込んで泣き喚くわ、大変な騒ぎになります。

 これ冗談で言ってるのではなく、本当にあるのですね。あるいは有名人になると、必ずと言っていいほどその種の狂信的なファンがついたりするそうです。大槻ケンヂ氏がエッセイに書いてましたけど、「この前のコンサートの6曲目の○○という歌詞のところで客席の私を見てましたね。あれは「あの夜のことは一生二人の秘密だよ」というサインだったのですね。私にはすぐわかりました」みたいなファンレターが年柄年中来ると。勿論、どんなに記憶を辿ってみてもそんな人は知らない。会ったことも聞いたこともない。何かの間違いではないかと鄭重に返事を書くと、「あなたがそういうのはわかってました」と返ってくる。ひどいのになると、親子でイッちゃってて、母親共々訪ねてきて「どうか娘をよろしくお願いします」と言われてしまうという。そのくらいならまだいいです。ジョン・レノンなんか殺されちゃったもんなあ。

 そこまで完全に客観世界が崩壊してしまうのは稀だとしても、ストーカーとか熱狂的なファンなんか、その一歩手前だと思います。

 心理学でいうところの投射とか同一化機制でしたっけ。その人にとってカリスマ的人物と自分との距離感がおかしくなって、関係妄想というか段々世界観が歪んでくる。しまいには自分が何者かというアイデンティティレベルまで狂ってくる。有名人なんてなるもんじゃないですわ。ちなみに、日本の精神分裂患者さんで一番人気は、やはり日本における最大最強の有名人、天皇だという話を聞いたことがあります。自分は明治天皇の御落胤であるとかないとか。





 そこまでいかなくても普通の恋愛・失恋レベルでも、「なんかこの人誤解してるみたいだけど、もう終るんだからまあいいか」みたいなこととか、あるんじゃないですか。別れ話を切り出して、「そう、結局、私達はあの時にもう終ってたのよね」とか言われても、「あのとき」がいつかさっぱり見当がつかないけど、まさか「いやあ、単純に飽きただけなんですけど」とは言えず、「うん、、すまないとは思ってるけど」とか適当に調子を合わせちゃうとか。僕じゃないですよ。

 世界観は人みな違うから、それが新鮮でもあり、刺激にもなります。人とつきあう意味はそこにあるといっても言い過ぎではないでしょう。「なるほどこんな生き方もあるのか」「そうか、そうやって考えればいいのか」「自分にはそういう考え方は出来そうにないけど、そういう生き方をしている人はとてもエライと思う」とか、いろいろあると思います。

 ただ、それも程度の問題で、全く接点がないというのもつらい。でも、接点がないだけならまだいいです。お互い世界観を広げていけば、いずれは重なりあう部分も出て来るでしょう。もっともキビシイのが、妙にクリーンに体系化された世界観にハマってしまった場合です。何がなんでも血液型とか星座とか姓名判断とか、家相とかで説明された日には、あと1億年くらい生きても接点なさそうだなあと思えてしまいます。誤解なきように言いますと、別に全否定してるわけではなく、近所の家が火事になったのも、幼なじみのマキちゃんが受験に失敗したのも、従兄弟のコウちゃんが失業したのも、郵便ポストが赤いのも、箸が転がったのも、みんなみんな血液型やら天体の運行やら家の間取りや漢字の画数のせいにされたら、ましてやそれを押し付けられたら堪らんなあということです。


 世界観崩壊の危機に瀕したとき、衝撃の新情報をインプットして、直ちに世界を再構成し、さらに豊かに広がることが出来ればいいです。でもそれが出来ないと、本当にツライとおもいます。ただ、ツラくはあっても、妙なところで小さくまとめてツジツマ合せてしまうのは危ないと思います。一回それをやってしまうと、中々抜け出せないと思うから。

 世間で出回っている人生読本的なものとか、魂の救済に関する宗教的なストーリーというのは、整理のつきにくい新情報を、うまく統合して整理してくれるための、「考えるパターン集」みたいなものかもしれません。「こう考えると整理がつきやすくていいよ」という、一種のソフトウエアなのでしょう。

 ここで又宗教が出てきてしまうわけです。どうしてもこの種の話をしてると登場してきます。宗教はもうプロパーですから、どんな事態でもガンガン辻褄は合うでしょう。「それが御仏のお心」「神のお導き」とか究極のツジツマ兵器をもってますから。

 ただ、全国各地で灌漑技術の伝承やら啓蒙活動をした空海にせよ良寛和尚にせよマザーテレサにせよ、優れた宗教家は、優れた現実感覚を持ち、現実を豊かに変えてきているのも事実です。シュバイツアーやナイチンゲールなど(といって詳しいバイオグラフィーは知らんですが)、数々の偉人と呼ばれる人たちが宗教的使命感に基づいて献身的偉業を達成してます。それを思うと、一概に否定したもんでもないだろうなと思います。「この世に神という、人格らしきものを備える絶対的超越的存在があり、自分の生もまたその絶対的存在との関係性に本質がある」という世界観は、僕の世界観ではありません。ありませんが、「この世界をそういう具合にとらえる見解もありだろうな」とは思いますし、そう思った方が現実に対しより建設的かつポジティブに対応できる場合が多々あることも認めたいと思います。

 実際、古典的な宗教は長年かけただけあって練れてきてますし、とっつきやすく出来ています。ユーザーインターフェイスも悪くない。だから、いよいよ解決がつかずに困ったときには、本当に救いになると思います。僕だって、今でこそこんな賢しげに分析的なことを言ってますが、目の前で肉親が皆殺しにされたとか、自分の子供がイジメにあって自殺したとか、そのレベルの「新情報」が入ってきたら、それを受け入れつつ、全体のツジツマ合わせ、さらに明日に希望を抱くに値する物語を構築し切る自信はないですもん。



 というわけで、まだ続きます。





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1999年01月08日:田村
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