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僕の心を取り戻すために(7)

カジュアルな悟り


(承前)

前回までのあらすじ

 「別に不満はないけどドキドキしない、発展しない」という、まるで”尾根道”にいるかのような「幸福な行き詰まり」を感じていた僕は、その深層にある原因が「過剰に現実に適応し、物象世界に偏りすぎるゲーム指向」にあるのではないかと思いました。「何かを成し遂げて自己実現=ゲーム」というパターンにハマり、現実遂行に邪魔になるようなグチャグチャした人間の心象をきれいに整理して舗装してしまう。それが故の味気なさ。

 ところで、ふと気付くと巷ではココロ系のブーム、つまり「心が豊かになって救われよう」的な話が多かったりします。しかし僕にはピンとこない。「心が豊かになる」とは具体的に何なのか?どうやって豊かになれるというのか?よくわからない。

 そもそもどうして心の豊かさを求めるのかといえば、周囲の現実に行き詰まってる場合が殆どではなかろうか。その場合は、何よりも膠着した周囲の現実という「物象」を変えていくのが本筋である。しかし、それが面倒だから、あたかも心の問題のように装い、手っ取り早くココロをいじくりましょうみたいな「対症療法」も又多いのではないか。それはそれで意味はあると思うが、そもそもココロが不自然なまでに整理され波立つことの少ない僕には、そんなもの必要もないし、興味もない。

 しかし、中には、まさに心象変革が必要とされる場合もある。現実(物象)という客観を変えることが出来ない、変えても仕方がない場合、問題はいよいよ心象というフィールドに移ります。

「なんだかな」の日本的背景事情

 物象ではカタがつかず、心象それ自体が問題になる場合−−−−−−−。

 これ以上物象をいじくり廻しても、何を求め何を付加しても、今一つパッとしない状態。あるいは物象を変えたいのは山々だけど、もう物理的に不可能である場合。

 後者は、例えば恋人が死んでしまったとか、自分の身体に大きな障害を負ったとかいう場合で、この場合何をどうやっても死者は生き返らないし、失われた手足は戻らない。

 前者は客観的には何の不足もない幸福な状態、後者は絵に描いたような不幸な状態ですから、両者は全然違うように見えます。でも、いかに努力しても物象変革は無理、したがってこの現実に自分のココロを適応させなければならないという意味では一緒でしょう。今回は前者のパターンがメインですので、もっぱら前者を念頭において話を進めます。

 さて、ある程度満ち足りた状態が続くと、人間、伸び切ったゴムのように心の振幅が薄くなります。これ以上何をどうやっても、そんなにトキめかなくなってしまう。思えば、まだ満たされずにギラギラしてる頃は楽でした。「あの試験に合格したい」「彼女が欲しい」等など、息せき切って坂道を駆け上がるような充実感がありました。しかし、ひととおり満たされてしまうと、もう後がない。まだまだ世の中にやってないことは山ほどありますが、ある程度やればパターンが見えてしまうし、結果も大体予想がついてしまう。だから、そんなに「大冒険!」というトキメキは、やっぱり無くなりますよね。そこそこは面白いだろうけど、そこそこでしかないのも分かるという

 ちょっと横道入りますが、今の日本の30〜40才代が比較的このパターンにハマりやすいように思いますし、それはそれなりの理由があると思います。30代というのは定義しにくい年代ですが、「ポスト20代」と考えることもできます。何を言ってるかというと、生まれてから20代〜30代くらいまでは、言わば「初体験」の波状攻撃です。小中高校大学、就職、恋愛、結婚と、数年サイクルで次々に「こんなん初めて」という出来事があります。進学や結婚をしなくたって、「しない」ということについて自分なりの収まりどころを探します。

 ところがそれも一段落しちゃうと、もう今までのようなパターンでの「新発売ラッシュ」はなくなります。思うに昔はそれでも良かった。なぜか?平均寿命が短かったからです。1935年(昭和10年)の男子の平均寿命を知ってますか?厚生省の統計によれば46.92才です。戦死者が多かったから短かった?いえ、女子の平均も49.63才ですからあんまり関係ないようです。ざっと47才で死ぬのが普通だったわけです。退屈してる暇ないです。戦後昭和25年段階でも、男子の寿命は60才を割ってます(59.57)。

 このように全体の人生が短ければ、そのサイクルも短くなります。1年を200日でやってるようなものです。子供だって10代でどんどん結婚しちゃうから手もかからない。特に戦後は、戦争で大量に男が居なくなり、それに加えて進駐軍の公職パージなんてのがあったもんだから、企業のトップが30代なんかザラでした。政治家も官僚など各界も似たようなものでしょう。要するにこのくらいの年でもう「日本を仕切る」という面白い仕事が待ってたわけです。その後は、いけいけドンドンの高度成長です。ほんと、「私の人生は〜」なんて考えてる暇ないでしょうよ。




 ところが昨今は、寿命が延びるのはいいのですが、間延びして退屈にもなりがちです。企業のトップを見れば80才になってもまだ居座る人もいます。上がつかえて、30代くらいじゃそんなに大きな仕事をやらせて貰えるわけがない。今の30代の人で「来週、アメリカの大統領に会う」なんて予定のある人ってほぼ絶無じゃないですか。それに加えて経済成長どころか、リストラだなんだで収縮してきます。早い話が日本全体で「やること=仕事」が少なくなってきてる。でも人間は多い、寿命も長いで、一人あたりの単位時間の本質的な濃度はどんどん薄まっていくのが道理でしょう。

 35才で「わたし、もうオバサンだよ、もうおじさんだから」と謙遜まじりに言う人いますが、35才だってリタイアするまであと最低30年はあります。あと30年も何をすればいいの?という感じでしょう。「リタイアから遡って30年」だったら昔だったらまだ20代前半の新人です。「死ぬまであと40年」という数え方をすれば、昭和10年だったらたったの7才です。自然状態の人間の寿命は、せいぜい30才半ばくらいと読んだことがあります。生物としてはそれだけ生きれば子孫残せるから十分なんだと。確かにそうでしょうね。女性も初潮が来ればもう妊娠できますから。大自然の声でいえば、初潮がきたら赤飯なんか炊いてないで「とっととセックスせんかい」ということでしょう。

 生物学的にも、社会的も、人間こんなに長く生きることは予想してないのでしょう。持ち歌10曲くらいしかないのバンドが4時間コンサートをやるようなもので、はっきり言って、間がもたない。なんか従来通りのプログラムでこの先の人生をやろうとすれば、一生順番待ってそんで終りという感じになりそうですね。

 だから、今の日本の30代40代の人々が、「なんだかなあ」「いまいちパッとしないなあ」と思うのは、当然すぎるほどに当然だと言うことも可能でしょう。

 で、人間ヒマになると、二つの方向があると思います。一つは暇に任せて哲学チックな高尚なこと、あるいは浮世離れしたことを考え出すという方向。もう一つは、規律のタガが緩んできて、メタメタになっていく方向(特に性的に)。古代ローマや日本の平安貴族など、貴族というのは基本的にヒマ人ですから、暇にまかせて高度な文化を開発すると同時に、もうセックスやりまくりになるわけです。当然近親相姦なんてのも流行ります。ローマ帝国や源氏物語なんか見ててもそうですもんね。光源氏のやってることといえば、義母に対して恋情を募らせる一方で、幼女をひきとって育てて大きくなったら犯しちゃうという。

 昨今の日本の風俗は知りませんが、上記の法則が当てはまるならば、まず浮世離れしたことが流行っているのではないですか?哲学は大変だから、もっとカジュアルでとっつきやすいもの。例えば宗教やら、前世とか輪廻とかオカルティックなもの、それとメンタルなんたらとかいう心理学的なもの、こういったものが10年前に比べて流行ってるのではないですか?それと性的退廃。これは援助交際みたいなハデなものではなく、もっと日常レベルの風景で、不倫やら近親相姦が静かに広がってるとか。ほんでもって、もう一ついうと、その反動として「至極まっとーな純愛」が逆にインパクトがあってウケるとか?

 以上、余談でした。

「納得」と「意味付け」の体系

 さて、そんな大きな背景事情が判ったところで問題の解決にはなりません。またパーソナルなレベルにもどって、ここで問題です。どうしたらいいでしょう?

 ある人は、ここで人生のテンポをゆったり目に変えて、「落ち着いた円熟の境地」に向かうのでしょう。あるいは、僕には子供がいないので分かりませんが、子供の存在が人生のアンカー(錨)になる人もいるでしょう。日々のドラマチックな進歩と成長の物語は子供が代行するようになり、自分はそばにいて波長共鳴していけば、それだけで十分充実するとか。あるいは、子供の成長段階に応じて、それぞれに未知の難問やら喜びやらが押し寄せてくるので、飽きることなく充実出来るのかもしれません。確かに子供は感動の宝庫かもしれん。

 そんなわけで、「子供を作ろう」という解決策がとりあえず浮かびます。ギラギラした青二才から、ムーミンパパのようにゆったりと人生を楽しむようになれるんじゃないかと。パイプ片手に、「いいかいムーミン、男というものはだね」とか何とか言ったりして。

 しかしですね、よく考えると、それも「子供」という物象に頼ってるんじゃないかという気もしますね。それまでバリバリ仕事したり、恋に落ちたり等の「ドキドキする日々の面白いこと」が、子供や育児という新しいテーマにすりかわっただけという。

 別にそれが悪いといってるのではないです。それどころか素晴らしいことですし、子育て以上に意義のあることなんか、多分この世にないでしょう。ただ、ここでのテーマ「物象じゃなくて心象」ということからすると、結局物象変化で乗り越えてるわけですから違うんじゃないかと。それに子供が独立して手が掛からなくなったら、又ぽっかり空虚な穴があいて同じ問題は出て来るでしょう。

 ちなみに、こんなこと言うのは角が立つかもしれませんが、「自分の人生を埋め合わせるための子供」という位置づけは、どことなく危ない感じもします。僕もエラそうなことを言えた立場ではないのですが、子供がいなくたって十分に光っていける人でないと、子供との距離感を間違える恐れがあるような、そんでもって子供に何か大事なことを教え損なうような。挙句、子離れできなくなるような。それ考えると、子供は決して解決にならない、結果的に解決になるかもしれないけど、最初から解決のためのツールとして見るのはどんなものかな?という気もします。



 そういった物象に頼らずに、「円熟した境地」に至ることもあると思います。何をもって「円熟」というのか曖昧なわけですが、ここでは、なーんにも面白いことがなくても、日々ニコニコと機嫌良く生きていける心境とでもいいましょうか。

 そうなれたら苦労はいらないわけですが、なんでそんなに機嫌良くやっていけるのでしょうか。勿論、僕はそこまで悟っておりませんので、適当に推測するしかないのですが、結局アレなんでしょうね、「悟る」というのは「納得する」ことなんでしょうね。何かに(あるいは「全て」に対して)、「なあんだそうだったのか、なるほどね」と納得できたら、人間ジタバタしなくなるのでしょう。

 しつこく「じゃあ、納得って何なのよ?」と考えるに、「全てのことがツジツマが合ったように思え、多分これが正しいのだろうなと思え、これ以上考えようとしなくなる心理状態」なのでしょう。

 だからですね、おしなべて何かに悟った人、悠然と構えてジタバタしなくなった人は、何かに納得した人で、納得するからにはそこには全体を包み込む一つの認識、一つのロジックがあるのだと思います。悟りの裏には、何らかの論理と物語があるのではないか。




 お釈迦様は菩提樹の下で、キリストはゲッセマネの山で、それぞれ悟ったと言われてますが、何をどう悟ったのかは、悲しい凡人である私ゴトキにはよう分からんのですが、一つ言えるのは彼らもまた大きな物語(普通それは「真理」と呼ばれますが)を求めていたこと。なんで人間が存在して生きてるのか、なぜこの世の悲惨は生じるのか、などです。「なんでこの世はこうなってるわけ?」という。

 それについて「あ、なあるほど」と思わはったのでしょう、悟らはったわけですね。
 両者の「納得した世界観」に共通するのは、この現実世界はムチャクチャ大きな世界の一部に過ぎないということですね。フィールドをいきなり無限大に広げちゃう。この世界を全体の中の1パーツであるとした上で、全体を貫く巨大な物語を考える。例えば、輪廻のように、魂は何度もこの世に生まれ変わり、魂の完成度を上げ、最終的には解脱して、菩薩などに出世し、より高次の階梯に進む、と。あるいは、人間の原罪に対して神が与えた試練であるとかなんとか。

 この壮大な物語を語ることによって、なぜ人間がいるのか、なぜ人間は苦しまねばならないのかということについて、「修行だから」「試練だから」とか「大いなる納得」が与えられるわけです。全てこの世の悲惨や不幸には、それぞれポジティブな意味があるのであって嘆くことはないと。

 これらの「仮説」が真実であるかどうかはともかく、プラクティカルに、あるいはマーケティング的に考えれば、ものすごく良く出来た「物語商品」だと思います。だって、どんなツライことがあっても、それには全部意味があるのだ、実はイイコトなのだというのは、すごい救われると思うのですね。不幸にメゲそうになってる人をこのうえなく勇気づけるでしょう。不幸でない人にも、「想像もできないくらい高い次元の世界があり、今とは比較にならないほどの絶対的な幸福があるのだ」というのは耳に快いです。つまり誰もが今より得をする。減税しながら福祉を厚くするようなもんで、これはあらゆる購買層にウケるでしょう。




 ここで、商品だのマーケだのわざわざ不謹慎な言葉を使ってるのは、これらの宗教を馬鹿にしてるからではありません。今は、「人が機嫌良くなるためには何が必要か」という心象システム論の観点から話をしているわけで、話を分かりやすくするためにミもフタもないドライな表現をしているだけのことです。

 人間の心象の安定には、「納得」が有効らしい、納得のためには全体構造の整合性と、それを説明するための大きな物語が必要だということですね。納得するとなんで落ち着くのかといえば、@これ以上ジタバタ考える必要がないという、これが正しいという安心、不安からの解放があり、さらにはA全ての事象に対して「意味」づけがなされるからでしょう。

 いまは一番手っ取り早いということで宗教を例に取りました。しかし、納得の物語=不安からの解放=意味付けというのは、心象を安定させるための基礎方程式と言えると思います。


「納得」のケーススタディ

 この「意味付けの体系→納得」というパターンは、よく考えてみれば身近に幾らでも例があります。というよりも、そうでないものなど一つもないというくらい、ありふれたものでもあります。

 このことは、弁護士として依頼者の人といろいろ打合せをしているとき、つくづく感じたことでもあります。普通の人にとって弁護士沙汰になるということは、一生に何度もない文字どおり「事件」なわけですが、この事件をどのように展開させるのか、あるいは終了させるのか、クライアントと話し合って方針を出さねばなりません。又、予想されるシビアな現実に依頼者の人がどこまで納得し、覚悟できるかどうかが非常に重要な問題になります。

 離婚をもって「結婚の失敗」と考えるか「新たなる人生のリセット」と考えるか。視点やテーマを変えただけで、全然目の前の現実の意味が変わってきます。勝訴の確率が非常に低い事件でも、そこで「文句を言う」ということに大きな価値を見出す場合もあります。エイズ訴訟など公共的な訴訟は、それで勝って賠償金が欲しいというよりも、広く世に問題を提起する点が重視されます。

 もっと身近な具体例を挙げましょう。子供の頃から内気でNOと言えない人が、周囲に勧められるまま結婚し、我慢と忍従の日々を過ごしていたとします。いよいよ我慢も限界になり離婚を決意しました。この場合、その人にとっては生まれた初めて言う『NO』であり、初めて面と向かって他人に逆らうことであり、自分のために戦うことであったりします。それは勝訴確率がどうのというレベルを超えて、大きな人生的な意義のある通過儀礼であったりもします。

 そして例えば向こうから「慰謝料も財産分与もやらん。むしろそっちから100万迷惑料を払えば離婚してやってもいいぞ」というオファーがあったとします。どうすべきか? とにかく離婚はできるからそれでもいいやと思うか、「ここで又ナメられたら一生負け犬のまんまだぞ」ということで、「ふざんけんじゃねえ」と要求を突っぱね、逆に適正な額である財産分与などを要求するという強気の姿勢を敢えて取ることもあります。後者の場合、解決は長引きますが、生まれて初めて「対等に戦う」ということを学ぶ絶好のチャンスと考えることも出来るわけです。敢えてそれをすることが、今後の人生で計り知れない財産(自信)になるかもしれません。

 一つの物事には、そういった色々な「意味付け」をすることが出来ます。そのなかで本人が一番「これだ」と思える「意味」を探し、それと現実の勝率などハードな事実と突つき合わせて、ハードルを決めます。「半年間、メゲずに戦い抜けたら、あなたの勝ち」とか、個人的な「勝訴」の定義をするわけです。そのうえで、一つ一つ細かい段取の打合せに入ります。

 日本社会の特徴からいって、人々はあまり裁判などで白黒つけることを好みません。それでもやるということは、その時点でもうゼニカネの問題を越えます。大企業のビジネス的・機械的な訴訟(銀行の抵当権実行とか)を除いた一般の市井の事件というのは、九分九厘そういった主観的意義あっての裁判になります。そこでは、この事件、この訴訟における、あなたの人生史的意味を模索することになり、それなりの物語を一緒に考えるという作業がどうしても入ってきます。

 無論、ビジネスライクに訴訟遂行することも出来ますし、その方が簡単なんですけどね。勝訴の見込みがなかったら最初から引受けないとか。その方が、何時間も打合せしなくて済むし、ドロドロしないし、儲かるし楽なんだけど、そんなのやってて全然面白くないわけです。そうそう、よく勝訴率が高い弁護士は腕がいいとか俗説がありますが、僕に言わせれば事実はその逆です。だって、最初から勝てる事件だけ受任してれば嫌でも勝訴率はあがりますもん。負けるに決まってる事件をどう切り抜け、どう本人にとって意義ある出来事に昇華させるか、それこそが「腕」でしょと思うわけです。だもんで勝訴率100% という弁護士がいたとしたら(まずいないと思うけど)、それは面倒くさいことはやりたがらない弁護士だというのが真実に近いと僕は思います。余談でした。




 そんな裁判沙汰のように極端なケースでなくても、ある物事の「意味」付けが出来たら迷いはなくなるというケースは幾らでもあります。例えば、どの世界でも新人はシゴかれたりイジメられたりしますが、「それで根性を養う」とか「必要な基礎過程である」とか「すぐにイジメる番に廻れる」とか、それなりの合理性(?)みたいなものが納得できれば従えるわけです。夫の家に嫁いで姑さんのことで気苦労していても、「そうやって人間関係は育まれるものなのだ」「これこそが確かな人生の肌触りなのだ」と思えているうちはいいです。必死になって予備校通うのもいい大学入れれば十分にモトは取れるのだという「物語」あってのことでしょう。

 恋愛沙汰においても、後で振り返ると情けなくて舌噬んで死にたくなるような愚行を繰り返します。どう考えても無駄に決っているのに、「もしかして」と思ってずっと駅で待ってるとか。「それを言っちゃおしまいよ」というような事ばっかり言ってしまうとか。しかし、「恋愛なんてそんなアホなもんでしょ」「それが醍醐味でしょ」と納得出来るようになれば、話も変わってくるでしょう。

 そういえば僕も、社会に出た頃、世のオッサン達がバーやクラブで金出して女の子にチヤホヤされてるのがどうにも理解できんかった。金出せばモテるの当たり前じゃん、そんなことして何が楽しい?という。付き合いで同席してても、野卑なうえにギャグとしても全然面白くない寒い下ネタやら、オナニーしてるの見せられてるのと変わらんようなカラオケとか、「くだらねえことやってんなあ」という感じでありました。でも、まあ、そこで憮然としてても、結局店の女性達に迷惑かけちゃうということがすぐに分かりました。それに、人間こんなアホでもやらなきゃ仕事なんかやってられんのだろうなあとか、ゼニカネを介在させた方がむしろ人間関係が円滑に進むということもあるのだろうなとか、職場でセクハラやったり素人に手を出すくらいなら半分幻想半分本気の隔離病棟みたいなところでやってた方がいいのかな、とか、それなりの「理由」がわかったら、納得もできるようになりました。とはいいつつも、自分からは行く気にならんけど。




 その昔、ケースワーカーの殺人事件の弁護をしてたことがあります。僕と同じ年の被告人は、元来が内気で生真面目な性格なのに、同和地区担当になり、そのストレスに心がブッ壊れてしまって発作的に殺人を犯してしまいました。その情状立証の過程で、福祉の世界の超ベテランの先生に話を聞きにいったことがあります。ニワカ仕込みでいろいろ勉強しましたが、福祉の世界というのは全然メルヘンじゃなくて、人間の醜さがてんこ盛りになってる大変な世界でありました。これに比べれば弁護士なんか楽なもんだと思ったくらいで。

 それこそケースバイケースですが、いわゆる困難ケースの場合、生活保護費欲しさにありとあらゆる出来事が起る。脅し、すかし、泣き落とし、色仕掛け。実際命を失ってる職員の人もいます。そうかと思えば親兄弟も冷たい。本人が泣いて頼んでも、引取り同居を拒み、十数年梨のツブテ状態でありながら、いざ本人が死んだら速攻でやってきて、死体を医学部の解剖実習に提供すれば謝礼が入るから手配しろと言う。それが自分の親にやることかという。で、くだんのベテラン職員の人は筋金入りで、刃物突きつけられたり監禁されたりなんてのもよくある話だったそうですが、その人が筋金入りだったのは、まさにそういう状況こそをやりたくて福祉を勉強してきたのだと。口汚く罵られ、脅迫されながらも、「ああ、俺はいま福祉の宝石箱に手をつっこんでいるんだ」と思ったという。

 何を言ってるかというと、どんな現実、どんな状況も、本人においてそれなりに意味付けがなされ、納得できていたらOKだということです。

 ちなみにそんな困難ケースがある反面、貰ってしかるべき人が役所の壁に阻まれて貰えない。札幌や東京で、『二度とあんなところ(福祉事務所)には行きたくない』と書き置きをして、餓死した母子家庭などの悲惨な報道もまだ記憶に新しいところです。財政破綻の折、厚生省の(そもそもは大蔵省の)締め付けが厳しくなる。で、のさばる奴はのさばり、弱い人から順にシワ寄せがいく。やりきれない話です。




 物象・現実を変えずに、心象変革を行なって機嫌良く暮せるための第一の方法は、「なるほど、だからそうなってるわけね」「まあ、こんなもんだろう」という全体を貫く物語を理解し、「だから今はこれをすべきなのね」という個々の行為について理由づけが明確になり、「納得」できるようになることでしょう。言うならば、「カジュアルな悟り」みたいなものです。

 英語で言えば、Such is the life. This is the way people go.みたいなものでしょう。−−人生ってそんなもんよ。世の中なんてそんなもんだ。

 でも、話はまだまだ続きます。なぜなら、
 そんな簡単に納得できるんだったら苦労はない、からです。




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1998年12月31日:田村
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