(承前)
ひさしぶりのこのシリーズですが、既に10本目を数えます。何をこんなにムキになって書いてるのかというと、自分でもよう分からんのですが、「今、詰め切れるところまで詰め切っておかないとアカン」という気がするのですね。なんでアカンのか分からんけど、そういう意欲のあるときは意欲のままにとりあえず進ませてやりましょかといった感じです。
でも、こんな、ともすれば青臭く、クッサいことをマジメに考えて、それで一応のオトシマエを付けておくという作業、これが「必要なんだろうな」という気は、実はすごいします。それは個人的なステージで必要という事もさることながら、時代的にも必要なんだろうなと感じます。感じませんか?
多分に錯覚なのかもしれないけど、何となく地球の「空気」が変わったような気もするのです。特に昨年あたりから。一つは世界規模の大合併が各業界で起きて超巨大企業がボコボコ出来てきていること。もう一つはLTMC(ロング・ターム・キャピタル・マネジメント)がコケたりして市場原理がおかしくなってきていることです。
今回は本論からちょっと外れますけど、そのあたりの思い付いたことを書いてみたいと思います。
超巨大企業の寡占化→地球人全員サラリーマン化
大合併はベンツやらBMWの自動車業界にせよ、メディア業界にせよ、金融業界にせよ、ただでさえ超巨大な企業がさらに超々巨大になっていってます。昨年はシティコープ(Citi Bankの親会社)とトラベラーズグループが合併したし。
「そんなにデカくしてどうすんだ?」みたいな、もうそこらへんの国なんかよりも図体も影響力も大きい。そんな合併を繰り返して、スケールメリットを追求していけば最終的に行き着くところは、「世界に銀行は一つあれば良い」とか「自動車会社も2つくらいでいい」ぐらいの感じになりそうじゃないですか(まあ、そこまではいかんでしょうが)。アメリカの9000行ある地銀もあと数年で100まで絞られ、最終的には5〜7のグループに統合されるとかされないとか。日本もこの波が本格的に押し寄せてきたら、上場企業の数なんてドカンと減るんじゃないですか?銀行だって都銀3行くらいあれば十分であとは全部潰れるか吸収されちゃうとか。今だって論者によっては生き残るのは世界で10行とか言うし、その予想10行に邦銀は一つも入ってないし。
で、気になるのは、それで人々はハッピーになるのかね?ということです。合併続出だととりあえず重複部門はガンガンリストラされます。96年にチェースマンハッタン銀行とケミカル銀行の合併のとき、あっというまに8000人を即刻解雇、400支店の閉鎖したと言われてます。その種の雇用の不安定という問題は当然指摘されるでしょう。
でも、あんまり言われてないけど、ここで僕が気になるのは別のことです。超巨大戦艦が全てを駆逐し独裁するようになっていったら、結局「地球人全員サラリーマン」になるだけじゃないの?と。それでええんかい?という。
会社が10コあれば社長は10人います。社長業も大変でしょうが、とりあえず自分が采配を振るって仕事で自己実現できる余地はトップにいけばいくほど大きいでしょう。でも、会社が1コになれば社長は一人です。合併が進展するということは、社長が減っていくということでしょ。また、中小・零細企業がどんどん潰されていけば、それだけ「一国一城の主」が減ります。
国際競争力のない国など、下手すれば国民全員サラリーマン(or失業者)みたいにならんとも限らんです。日本にも外資系が増えてきてますけど、外資系企業の日本支社の社長になったところで、本当の意味ではトップじゃないし、本国の意向一つであっさり首になったりする。オーストラリアの大企業なんかもう殆どが外資(英米日資本)の傘下に入ってて、純粋国産企業なんか少ないと聞きます。
ここで「サラリーマン」という表現はあまりに漠然として無内容だから、別の言い方にしますと、「仕事の裁量の余地が比較的限定されていること」「いい意味での自分の趣味性を仕事で貫ける余地が少ないこと」「なにやら全人格的に押さえつけられているかのような上司の存在」「組織が大きすぎて自分の存在が必要以上に小さく思えたりすること」「努力と自分の収益との関係がダイレクトではないこと」「特に仕事のない時間に堂々と昼寝しにくいこと」「理不尽を我慢する理由が抽象的であること」などなど。
これだけ並べて見てればあんまり面白そうではないのですが、勿論、組織に属していても、いや組織に属しているからこそ得られる充実感や連帯感はあります。それはそれで結構大きなものだと思いますし、僕も知ってます。また独立自営といっても、やれる範囲は限られてますし、大口取引先から煮え湯飲まされたり、隷属したりする詰まらなさは、組織内部におけるそれ以上のものがあったりします。
だから一概に言えないのですけど、だけどやっぱり違うでしょ?自分の名前を看板にしてやってるのと、誰かの為にやってるのとでは、違う。
おそらく、もっとも端的な違いは、「自分のことを、お客さん以外の誰かに採点されること」かもしれません。独立営業の場合は、八百屋さんも、作家も、ミュージシャンも、みなお金をもってきてくれるお客さんがいます。お客さんに「しょーもな」と思われたらそんで終りですし、OKだったら儲かります。極端な話、客だけ見てれば良くて、非常にシンプルではあります。でも組織内だと、いっくら顧客に人気があっても、上司のメガネに叶わなかったら昇進できないとか、お客さん以外の人が採点します。そこがダイレクトではないし、大変なところです。
それが何を意味するかというと「因果関係」です。自分のやってることが市場でウケるかどうか、人を喜ばせようと思ってあれこれトライしてそんで喜んでもらえれば自分の生計も成り立つという一連の因果関係です。漫才のネタを考えて、舞台でやったらメチャクチャ笑ってもらった、だから売れっ子になって生活楽になったというのは、因果関係がすごく判りやすい。僕は、そのシンプルさというのは生きていくにあたって、非常に重要なことだと思うのです。自分やってることと結果との因果関係がストレートであること。そのラインさえ崩れなかったら、そこで味わう苦しみや悩みは、それなりに納得できるだろうし、血肉になっていくだろうと思います。
ところが、組織があって上司がおって人事部があって、、となってくると、身内にいかに受けるかということが自分の人生を決めるようになっていきます。もちろん、人事部なり上司なりのセンスがお客さんのセンスと可能な限り同じであるように志すべきですし、そう頑張ってる組織も沢山あるでしょう。でもそんなのばっかりじゃないし、どうしたってワンクッションおいてることに変わりはない。
一方、自営だったらみなストレートかといえばそんなことないです。同業者同士やら取引先やらへの配慮によって、ダイレクトにお客さんばっかり見てはいられません。弁護士だって、対依頼者との関係、対裁判所との信頼関係、同業者への仁義の3面関係がありますし、これらがよく衝突して悩ましかったりします。しかし、それでも最終的にはお客さんが持ってくるお金で食べている、客に受けなきゃ日干しになるだけという構造は変わりませんから、そこはやっぱり違うと思います。
ダイレクトにお客さんのお金で食べてないとどうなるかというと、話がわかりにくくなります。極論すればお客さんを見て努力してる奴より上司を見てゴマすってる奴の方がよい暮らしが出来るという事態も生じます。因果関係がブチ切れます。僕思うに、この種の苦労というのはあまり意味があるとは思えないし、人を豊かにするというよりは消耗させる苦労だと思う。
それだけではない。「まっとーな感覚」が摩耗してくる恐れもあります。お客さんのことを思って自社製品の欠点も指摘しつついろいろ心を砕いている奴よりは、嘘八百並べて売りまくった奴の方が営業成績よくなりますもんね。自営でも同じようなことやってる奴もいますが(悪徳商法とか)、そんなことしてたらいずれは信用を無くして潰れますし、やってる方も長続きするとは思ってない。でも、組織におるとそうはならない。バブルの頃の証券会社の営業社員が、ストレスにやられて多く去っていったりしましたが、そうだろうなと思うもん。何も知らないおばあちゃんにリスキーな商品売りつけるのなんて、普通の神経だったらやりたくないもんね。大損した顧客が首吊って死んだら、良心の呵責が襲ってきて当たり前だと思います。でも、そこで平然としてる奴の方が出世したりしたら、やってらんなくなると思う。
つまり組織内部というのは、市場原理が貫徹してない。アホな奴でも一旦トップまでいってしまえば、警察に逮捕でもされない限り居座ろうとしたりする。あんまり風通し良さそうじゃないです。「なんでこうなるの」というと、因果関係がストレートじゃないからでしょう。つまり「市場原理」の他に「組織原理」というもう一つの原理がかぶさってくるから話が分かりにくくなるのでしょう。これは、やってて気持悪いと思うし、その気持悪さによって生じるストレスは悪性だと思う。
一方、そこらへんの文化祭の模擬店、コミケのブースで同人誌売るとか、ライブハウスで演奏するとかだったら、話は分かりやすいのですね。皆にウケた奴が勝つ、と。ルールは出来るだけ明瞭で公平な方が、やってる側としては気持いい。もちろん「いいもの」を作れなくて悩んだり絶望したりストレスはあります。単に宣伝が下手とかコネがないということで売れずにストレスを抱えたりもしますが、そこでのストレスは、僕はまだしも良性だと思う。
そこで、巨大企業の寡占状態で、全員組織人になったら、なーんか風通しの悪い息苦しい世の中になりそうで、僕はそこらへんをちょっと懸念するのです。これが一点。
読み直してみると、かなり誇張した書き方してますな。さっきも言ったように組織にいるからこそ出来る大きな仕事、大きな充実というのはあります。相棒福島もカルビー時代、「抹茶が好き」という超個人的なところから出発して「抹茶づくし」という商品を企画し、静岡の茶畑に行くわ、工場のオジサンたちや各地の営業の人たちに協力を求めるわ、パッケージの印刷から、CM撮影の立ち会いまでやって商品化して、それがテスト販売でスーパーで売られるまでになった。スーパーの試食コーナーをドキドキしながら陰からのぞいてて、買い物客のおばさんが食べて「あら、おいしいわ」で一袋買っていったのを見たときは、もう「やった!!」で涙ナミダの大充実だったといいます。
組織にいなかったらこんな感動得られなかったでしょう。非常に幸福なヒトコマだと思うのです。でも、結局彼女も会社辞めちゃうんだわ。そんないい思いをしつつも何で?と思うだろうけど、理由は様々だろうけど、一つには結局ダイレクトじゃないという点があるのでしょう。別にこれ売れたからって自分の給料が上がる訳でもないし、失敗したからといって破産するわけでもない。それに全部自分で仕切れるわけでもないし、「仕切っていいよ」という「お許し」を得ないと出来ないし、何よりも本筋に関係ない苦労も沢山あるわけで、そんなにストレートに出来てるわけでもない。
僕個人の感覚でいえば、マスコミ注目の大事件をやるのも、市井の片隅の離婚事件をやるのも、弁護士としての充実感はあんまり変わらなかったですね。これは僕が特異なのかもしれないけど、結局は個々の当事者が喜ぶかどうか、その喜びに関与できたことが跳ね返って自分の喜びになるわけで、その構造は一緒。規模の大小なんかあんまり関係ないんじゃないかな、と。最高裁までいって逆転勝訴したときの充実と、今APLaCやってて雑記帳がおもしろいですとメールを貰う喜びと、言ってみればあんまり差がないのですね。福島だって会社経由で大流通させるのではなく、自分でシコシコ作ったお菓子をバザーに持ってって売れたとしても、それでも似たような充実は得られたんじゃないかな。
そりゃ規模がでかくてメジャーになる分、「自分ってもしかしてビッグになれるかも」という自尊心をくすぐられる心地よさはあるんだけど、でも30年も生きたら人間スレてくるから、そんなナルシズム系の快感、「皆に褒められたい」的な快感なんか、それほどインパクト持たなくなっちゃうのです。新聞に載ったからどうしたとか、そんなんで喜べるほど無邪気じゃなくなるし。もっと気持いいことこの世に幾らでもあるもん。
だから、規模もメジャーさもあんまり快感に関係ないんじゃないかな。大事なのは因果関係のストレートさであって、そこが歪むと気持良くない。それに気づいちゃった。皆も実は知ってると思うのですけど。
しかしながら、組織は人間社会に絶対必要なものだと思います。国家だってコミュニティだって組織だし、バンドだって家族だってそうでしょう。その全体システムがうまく廻るということは、皆の幸福に必要なことだし、一人じゃできない種類の価値をも産み出します。そこには大きな充実もあります。さっき言ってたことと矛盾するようですが、矛盾しません。要はその必要性、自分のやってることの意義と達成感、そこらへんの因果関係がストレートに判ってたらいいと思うのです。
会社の総務部にしても、官僚にしても、お客さんとは直接接しません。でも、全体の機能が円滑に動くことそれがひいてはお客さんにつながっていくだろう。あるいは、総務の人にとっては社員仲間こそが「お客さん」だったりもするのでしょう。官僚にしても、全体のグランドデザインが個々の人々の喜びにつながっていくのならば、そこにはちゃんと喜びがあると思います。
要するに組織がイケナイのではなく、大事なのは人間の努力とご褒美の因果関係が分かりやすいかどうであって、組織の大きさが時としてその因果関係を分かりやすさをスポイルする危険があるという事を言ってるだけです。自分のやってることの客観的意味が分かってるときは、人はそんなにムナしくなりませんが、大組織の組織原理は、その意味性を見失わせやすいんじゃないかということです。
もうひとつ懸念するのは選択肢の狭まりです。
人にはそれぞれ向き不向きがあるから、独立してやってる方が性に合ってる人もいるし、そうでない人もいる。集団の中での相互信頼と連帯感で大きなパワーを醸し出すことにに充実を覚える人もいれば、町の一角で美味しいパンを焼く事に生き甲斐を感じる人もいるでしょう。ボーカルやリードギターのようにフロントに出ていってお客さんと接するのが楽しい人と、ベースやドラムのように縁の下の力持ちでキチッとしたリズムを刻みグルーヴを出すのが面白い人と、いろいろなタイプがいると思うのですね。
大雑把に言ってしまえば、いい世の中というのは、ある程度の物資や文化の豊かさというのを大前提にすれば、あとは「どれだけ好き勝手やってられるか」だと思うのです。ベースやりたい人はべース、ボーカルで目立ちたい人はボーカルをやれるという、選択の広さです。それが沢山ある方が気持いいんじゃないか。多元生活ですね、Pluralistic Lifeですね。
でも、こんなに合併合併、巨大化、寡占化が進行していったら、その選択の余地はどんどん狭まっていくような気がする。下手すればみなベースやらされたりもする。
例えば、お寿司が大好きな少年が、「僕も大きくなったら寿司屋になるんだ」と思って修行するとします。でも、その頃日本の寿司屋はアメリカ資本あたりの超巨大な外食産業チェーンに牛耳られてしまっていた。日本のシェア90%を押さえているから、大量買入で価格は思いのまま。もう築地なんか奴隷状態。だから独立してやっていこうとしても、全然太刀打ちできなくなるとします。そうしたらその少年が寿司屋になろうといっても、結局その会社に入社してサラリーマンになるしかなくなる。そして、少年がいくらネタを工夫したり、店の内装に凝りたくても、マクドナルドみたいに本社設定の統一規格でやらされちゃうから、受け入れられもしない。「ポテトはいかがですか」みたいなことも言わなきゃならないとか。これじゃ面白くないんじゃないか?
これが二点目の懸念です。選択肢が狭まり、個々人が好き勝手に仕切る快感がスポイルされること、自己表現の機会が狭まることへの懸念です。
勿論、大企業寡占といっても、独占禁止法などの対処法はあります。でも独禁法が禁止してるのは、マイクロソフトがよくやってるとか非難されてる抱き合わせ販売等の不正競争であって、「社員の自己実現を図りなさい」とかそういうことは規定していません。
あるいは、そんな巨大企業になったら対応も硬直的になって、いくらでも隙間が出来るから、新興小企業が付け入る機会はいくらでもある、という市場原理によるバランス回復機能があると言われます。僕もそれを信じたいですし、それしかないだろうなと思います。でも、あそこまで超巨大化して、資材購入レベルで全て押さえられてしまったら、付け入る隙すら無いということもあると思うのです。あるいは資金繰りなんかでも小さな所には銀行が金貸してくれないとか、やりにくくなるんじゃなかろか。
そうなってくると、どんどん「大きくなったら○○屋さんになりたい」って夢がなくなります。働く=どこかの大きな組織に所属でしかなくなる。資本主義もここまで巨大になってくると、個人レベルでは、社会主義のコルホーズとかそんなんと変りなくなってくるんじゃなかろか。
そういうこと考えてると、なんかあんまり面白くなりそうもないな、とか思ってしまいます。
第三点は、半分余談です。
僕らの頃にはまだクラスに「肉屋のせがれ」とか「おでん屋の娘」「本屋の息子」なんてのが結構いました。放課後そいつの家に遊びに行くだけで、「商売というのはこうやるもの」というのが雰囲気的にも伝わったような気がします。また僕の父は、転職回数数え切れずで(多分30回越えてると思う)、僕も不動産屋の息子になったり、トンカツ屋の息子になったり、雀荘の息子になったりしました。
家の手伝いもそこそこしましたし、小学校から晩飯は自分で作ったりしてました。でも、それよりも「調理師会から派遣されてきたコックさんが腕が良くて助かる」とか「出入りの肉屋の質が最近良くない」とか、「バイトの子が出前で交通事故起こした」とか、そこらへんの日常会話の影響というのは少なからずあったと思います。
今でも覚えてますが、不動産やってたオヤジが、ある日、百万円の札束を「ほら」といって放り投げてくれました。当時の百万というのはすごい大金でビックリしましたが、印象に残ったのは「ほお、金というのはこんな具合に入るものなのか」ということです。それに至るまで、オヤジがガリ版切ってチラシ広告書いてたり、そのあたりの地主相手に(電話などで)あれこれ頭下げてるところを、こっちも見るともなく見てるわけで、細かいことはよう分からんけど、ああいうことを積み重ねるとこうなるわけね、というのが子供心にも判ったような気がしました。
あれは結構「原体験」なんじゃないかなと思います。弁護士やってりゃいいものをアテもなくオーストラリアにやってきたのも、APLaCやって3年未だに赤字続きだけどあんまり焦らないのも、「金というのは入るときには入るわ」「やることやってりゃ、なんとかなるんじゃないの」ということが脳裏に刻まれていたからかもしれません。月給ないから、月単位で物考えなくなるのですね。数年スパンで帳尻が合うかどうかを考えるようになる。「給料日だからどうの」とかいうのは、僕が25歳で司法研修所行って自分が月給貰うまで感覚的に分からんかった(バイトは週給が多かったし)。
だから何だというと、親が商売やってるのって、子供にとっては結構いい環境なんじゃないかなと思うのですね。世間でやっていくには、どこで頭下げて、どこで突っ張って、どこで儲けて、どこで捨てて、トラブルが忘れた頃にやってきて、、とか、そういうのが日常レベルで見られますから。後々いい財産になるんじゃないかなと思うわけです。でも、巨大企業の寡占化が進んだら、親はいつも疲れて帰ってくるだけだし、自営業やってる家も「巨大資本に押されジリ貧になり潰される」というネガティブな擦り込みをされたりして逆効果とか(だから後継者難になるのでしょう)。
つい先日のオーストラリアの新聞で、新刊本の紹介を兼ねた特集記事で書いてありましたが、その人のお金の使い方、稼ぎ方、貯めかたというのは、もう子供の頃に親の真似して原型が出来てしまい、それは一生続き、滅多なことでは変わらないとかいう研究結果があるそうです。だとしたら、ずっと月給月給で月単位経済で慣れてきた子供が独立したときは、やっぱり恐いんじゃないかな。弁護士の独立なんかでも「半年客ゼロでも当たり前」と言われてるくらいですし。そういえば、住専管理やってた中坊さんも、独立の頃はあまりに客が来ないので研修所の教官に「今から裁判官になれないか」と手紙書いたとか言ってましたし。「誰でもそうだ、そんなもんだ」と思えればいいのですけど、それ感覚的に納得できなかったらやっぱり恐いと思います。1年無収入が続いたらパニックになったり、無気力になる人もいるでしょう。
そのあたりのお金稼ぎのノウハウというか感覚を知ってると、結構人生楽になる部分があると思うのですね。別に、いい学校→いい会社→一生安泰なんてルートを通らなくても、いっくらでも食べていく事は可能だという事実。それが、親兄弟親類縁者、友達、先生、周囲どこを見ても組織人ばっかりだったら、社会と人間が本来もってる自由度というのが見えなくなりがちで、それだけ息苦しくなってしまうような気もします。10代の頃から年金気にしたりしてたら楽しくないだろうし、ちょっと挫折しただけでもう終りみたいに思ってしまうとか。
そんなこんなで、ただでさえ狭い地球なのに、そんなに巨大企業ばかり作ってもっと狭くしてどうする?という危惧を、ちょっぴり感じたりもするのです。
市場原理がなんかヘンなこと
今オーストラリアドルは日本円に比べて安いです。1ドル70円後半。これほんの半年くらいまでは95円とかいってたのですから様変わりです。でも、なんでそうなるの?というと良く分からない。オーストラリアは今景気いいのですね。シドニーなんか不動産上がりっぱなしだし(異常だと思う)、消費者の意欲も十分だし、かなりいいセンいってると言われます。一方日本は、昨年後半の公共投資前倒しのモルヒネ打ってなんとか痛みを散らしてるだけで、お世辞にも景気がいいとは言えない。
だから本来的には日本円が下がって豪ドルがあがってしかるべきなのですね。分かりやすい世界の話ならば。でも、事実は逆。なんで?それは色々後づけの理屈があるのでしょう。でも、ハッキリ分からんということに変りはないと思います。
昨年、アメリカのLTCMという金融会社がコケました。ノーベル経済学賞をとった二人の学者をはじめ、錚々たるメンツで、ムチャクチャ高等なデリバティブの理論をひっさげてガンガン儲けていたわけですが、ロシアのルーブル危機で天文学的な損を出してコケました。アメリカ政府も機敏にこれに対応して、経済がぶっこわれるのを防いだとされます。
でもこのあたりから、「市場原理ってほんとに上手く廻ってんの?」という疑問の声が世界各地で出てきたというのはご存知の人はご存知でしょう。日本でも株のカラ売りについての規制が設けられましたし。
よく引き合いに出される例ですが、現在地球上を駆け巡る国際決済のお金は莫大なものですが、そのうち実取引きの裏付けがあるのは(例えばオーストラリアのユーカリオイルを買ったからオーストラリアに代金を送金するとか)、全体のうちの微々たる割合でしかない。もう1%とかそんなレベルだったと思います。圧倒的大多数は何かというと、「投資」であり、より正確にいえば「投機」であり、もっとあからさまにいえば「バクチ」のお金です。
日本円が上がりそうだとなるとドドドと買いまくる。ヘッジファンド等もともとの資金量が莫大なうえに、レバリッジ(テコの原理)きかせてその数倍数十倍の取引きをするから、天文学的な巨額が地球上のあっちこっちに移動する。例えばコケたLTCMの場合モトデは22億ドル、これに借入金120億ドル、これらを担保にデリバティブなどで膨らませた額が1兆2500億ドルとか読んだことがあります。巨額過ぎてピンときませんが、貯金20万程度のフリーターの人が120万借り入れして、いきなり1億円の株買ってるようなものです。その量が圧倒的だから、実際の経済が良いとか悪いとかいうよりも、そのバクチをする連中の思惑で国際相場や国際経済が作られていってしまってる。
アジアが新しいといって猫も杓子も金突っ込んで投資して、ヤバイとなったら一斉にお金を引き上げるからアジア危機が起こった。バブルが大崩壊し、その余波を食らって、潰れなくてもいい企業も沢山潰れ、国の経済は壊滅状態になった。これまで営々と築き上げてきた国内経済の基盤を、あいつらは台風のようにメチャクチャに破壊していった、”international brigands/国際山賊団”とマレーシアのマハティールが怒るのも無理ないだろうなと思われる訳です。
で、LTCMの場合は、自分等のバクチの読み間違えで大損をだして、アメリカ経済そのものがコケそうになったので、あわてて防いだということでしょう。これ、もう、その国がいかにいい商品を開発してるとか、国民が一生懸命働いてるとか、そんなの全然関係ないですもんね。実体取引の何十倍もの資金が、勝手に賭けて勝ったり負けたりして動くから、いくら真面目に頑張ってても、全く関係ないところで自国通貨が崩壊したりメチャクチャ高くなったりする。そんな環境で輸出入の経営なんかやってられないでしょう。また、自分のところは堅調であっても、連鎖倒産のあおりを食らったりもする。
そんなこんなで「これって市場経済なわけ?」という疑問が出されてきたのでしょう。市場原理というのは煎じ詰めれば、イイモノを安く作ろうと頑張った人から順に市場で売れてリッチになれるということで、「頑張ったらご褒美がある」というフォーマットだと思います。巨大企業が出てきて独占してても、それで慢心してたら小回りが利かなくなり、新興の零細企業が付け入る隙がでてくると。そういうことを繰り返してバランスは保たれると。その原理を透明に働かせるためには、本来負けるべき企業が政治的に保護されるとか、カベを作って新規参入を妨害するとかいうことはあってはならない、という要請が働きます。
日本がここまで経済成長できたのも、市場原理のおかげでしょう。安くてイイモノを作れば売れる、頑張れば頑張っただけのことはあるという「確信」があり、その保証もあった。日本車や日本の精密機械は世界最高レベルであるということと、世界で一番売れていてリッチになれるということがイコールで結ばれてます。
これは非常に重要なことだと思うのです。僕は、この確信が日本人のメンタリティに色濃く擦り込まれてると思います。これが、いくらいい製品を作っても人種差別その他で全然売らせてもらえない、いつまで経っても貧乏な敗戦国のまんまだったら、日本人のライフスタイルや勤労観は絶対今と違ってると思います。幾ら努力してもどうにもならない、何やっても駄目だったらやっぱり国を挙げてグレますわ。努力なんかする奴は馬鹿だということになりがちでしょう。
ところが、前述のように、バクチ系の金の動向で、優良企業が潰れたり損したりするのであれば、この大原則が崩れます。モノ・サービスという実体経済から遊離した金融経済だけが阿呆みたいに突出して、本来の市場原理を歪ませてしまう。どんなに現場で張り切って商品開発しようが、売るための努力をしようが、ワケわからんうちにドドドと崩壊して、いきなり会社が潰れ、失業者になっちゃったみたいな状況が頻発するようになると、どうなるか?馬鹿馬鹿しくなってくると思います。最終的には、仕事に自己実現なんか求めなくなるでしょう。
破綻した場合だけでなく、上手くいってるときも同じ問題が起きると思います。未だに記憶に生々しい10年前のバブルの頃。やれ立退料が数千万だ、マンション買って半年で転売して2000万儲けたとかそんなことやってると、地道に働いてくのが馬鹿臭くなります。一個100円の物を頭下げて買ってもらって利益は5円みたいなことやってらんなくなる。この精神の麻薬性がバクチの恐さであり、国家的見地からわざわざバクチを賭博罪/犯罪にしているユエンでもあります。
でも、バブルで懲りてこれからは地道にやろうと思ってるのに、まだバクチやってる奴がいて、そいつの影響でこっちまで倒産させられたらたまんないわと、これが懸念するところです。
いまは豪ドルに対して円高だからいいですが、これが何かの拍子に豪ドル高になったらキツいです。あまり知られてませんが、その昔は豪ドルは米ドルよりも高く、1ドル400円という時代もあったそうです。もしそうなったら、お金をためてオーストラリアにワーホリを、、なんてのはまず無理でしょう。今、大体ワーホリ1年で100〜200万くらい貯めて来られる方が多いようですが、1ドル400円になったら、500万〜1100万くらい溜めないと駄目。25歳まででそんなお金持ってる人はマレでしょうから、ほぼ全滅でしょう。オーストラリア旅行、シドニーケアンズ7日間でお一人様150万円、一家4人で600万円だったら、まあ来ないでしょ?だから在豪の旅行会社はじめ、僕らも含めいろんな事業はほぼ即死状態になるでしょう。
こういった事態が、予測できたらまだ対処のしようもありますが、「国際山賊団」のバクチのあおりを食ってそうなったというなら、泣いても泣ききれない。マハティールと一緒に「ばっきゃろー」と言いたくなります。実際、アジア危機でインドネシアルピーは対豪ドルで5分の1まで下がり、韓国ウォンは半値になりましたから絵空事ではないわけです。
再び心の話
うろ覚えの「聞いた話」でグローバルなことを言ってしまいました。で、それがどうしてこんなウザったい長編を書いてることにつながるのか?それを最後に言います。
上述した世界の潮流を一言でいえば、「ワケわからん世の中になりそうだな」という危惧です。大組織の一部になるしかないような選択肢の乏しさ、そこで頑張っても自分への報酬とは直接リンクするわけでもない、それどころか会社が好調でも関係ない投機筋の動きでコケてしまうかもしれない。
これまでは、自分が頑張る→お客さんが喜ぶなどいい結果がでる→自分ないし会社が繁栄する→生活がグレードアップするという、一連の因果関係がまがりなりにもあったと思います。大分ガタがきてるところもあるでしょうが、それでも基本はこの流れであり、この流れに沿って各自は自分の行為の意味を見出し、報われてきたと思います。
でも、それが段々と通用しなくなったらどうなるか。会社や社会の成長と自分の成長がシンクロしなくなったらどうなるか?自分のやってることに生き甲斐を見出しにくい世の中になってしまうかもしれません。頑張って仕事をしよう、そして生活を良くしていこうというシンプルなものじゃなくなるから、どっかしらニヒリスティックになっていく人もいるでしょう。あるいは、個人のスキルとキャリアを磨いて、会社を渡り歩いていくという生き方になるでしょう。
オーストラリアは日本よりもアメリカの影響をダイレクトに受けますので、転職キャリア指向は当たり前といって言いくらい一般的なものだと思います。会社と自分の関係も日本よりはドライです。それが会社べったり人間よりも自立した人間らしいあり方だと言われもするでしょう。
でも僕は思うのです。それっていずれは煮詰まるんじゃないかと。オーストラリアの若くて頑張ってる子は、在学中からバイトその他でコネを作り、メチャクチャ働きます。"I'm ambitious!"とかいうわけで すが、「アンビシャスねえ」というちょっと引いた視点で僕は思ってしまう。
それって結局「自分がビッグになろうゲーム」でしょ?すごく言葉悪く言えば、自閉症の自己中のナルシスティックな喜びでしょ?志望校に合格したとか、資格を取ったとか、そういう種類の喜びでしょ?それだけだったら、普通の神経してたら、絶対どっかでカベが来るよと思うのです。
自分がどれだけの業績をあげ、それが世間でどれだけ評価されたかが喜びの源泉。「俺が俺が」で隙あらば世間に手柄を見せびらかす。会社との関係はドライだから一体感による喜びもない、お客さんが喜んでくれたときの幸福の共有もない。そんなもんなの?寒くないの?と、僕は思う。
思うのですが若い人が「何者かになりたくて」ガムシャラに頑張る、そして何事かをなしとげて自己確認をするのはいいことだと思います。自信もつくし。でも一遍なんでもいいからそれをやったら、後はもう一緒でしょう。自己確認なんか一度やっときゃいいんじゃないか、そんな何度も何度もしなくてもいいじゃん。そこから先はもっと深いものを求め出すのが普通じゃなかろかと。それをいつまでも「アンビシャス」でやってるのってのは、よっぽどどっかに欠落感があるのか、他人に自慢する快感にハマッてしまったのかどっちかなんじゃないかなあ、と思うわけです。
自己確認の先にあるのは、実はもう昔からよくあるありふれた喜びだと思います。他人に喜んでもらえると嬉しいとか、価値あるものを作り出せたことの喜びとか(作り出せる自分を確認して喜ぶのではなく)。毎朝船を出して漁をする、その日々の単調な繰り返しのなかに確かなリアリティを感じるとか。そういうことだと思います。いわば自己確認が内的な自家発電的なものだとしたら、そこから先は自分の外の世界と接して作っていく外的なものだと。
そんなのは、昔っから、自分のお店もったり、職人さんになったり、皆で何かを盛り上げていったりするなかで自然と得られてたと思うのですね。自然にやってりゃ自然にそこそこ幸福になれたんじゃないかと。個人がいくらでも外の世界とダイレクトにつながっていけるチャンネルがあったんじゃないか。
それがですね、巨大企業の寡占状態で、独立もしにくいわ、かといって会社との一体感もないわ、外界ともワンクッションおいてつながってるわ、因果関係のストレートさもあるんだか無いんだか判らないわでは、やりにくいだろうなあと思うのです。それに加えて、市場原理という頑張りのフォーマットがよく分かんない状態になっていくなら、尚更だろうなと。
だからこれからの時代、個人が個人としてまっとうになるためには、従来とはまた違った意味での「闘い」があるような気がするのです。何となくそんな気がするのです。だとすれば、今までのように、ゲーム化して、戦略立てて実現して成功してそれでOKみたいな姿勢で臨んでいっても行き詰まるだろうし、現に行き詰まりそうになっていた。
そこで、次の一歩に進むためには、自分がどうやったら気持いいのかというあたりをもっと掘り下げて考えて、確認して、足腰を固めておく必要があるように感じられたわけです。寡占化と市場原理の歪みという環境下においては、これまで以上に頭使って立ち回る必要もあるだろうし、なんか非常に割に合わないことをやってるかのような迷いも沢山出てくるだろうけど、それでもいいんじゃと言えるためには、それなりにあれこれ考えなきゃならない。「色々考えたけど、やっぱりこれでいいんだわ」と思えるためには、やっぱり色々考えなきゃならない。かなり掘り下げておかないと後でコケちゃうだろうなと。
でも、思うのですけど、このまま資本の原理が極端に推進され、マイクロソフトの一人勝ちみたいに、一極支配でにっちもさっちもいかないまま、人類はずっと続くのかといえば、そんな筈もないだろうと。ビルゲイツがいかに巨大でも、それを「くそったれ」と思ってる超零細企業の連中がいて、一気に全部ひっくり返すようなことを夢見ながら日々頑張ってるだろうと思う。それこそが人間だろうと思うし、そうやって世の中を少しでも面白い方向に戻していくのだろう。人間がスポイルされそうになればちゃんと人間復興を目指すムーブメントが出てくるだろうし、すごく大袈裟にいえば、そうやって歴史を進ませていくだろうと思うわけです。
そのムーブメントを僕は見てみたいし、他人がやるのを見てるだけなのは詰まらないから自分も何らかの形で参加したいです。で、そのために、こうしてウザったいことを書いてるということも、部分的ではありますが、あります。
★一つ前に戻る
1999年04月20日:田村
★→シドニー雑記帳INDEX
★→APLaCのトップに戻る