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僕の心を取り戻すために(9)

心の中の巨大なブラックボックス
(心象変革編/承前)

 機嫌良く生きてこうと思ったら「納得」と「意味付け」を上手にすればいい。但しその場合の「納得」は、その人の世界観にフィットしたものである必要があるが、逆に納得しやすいように世界観そのものを変えることも出来るし、実際に僕らは無意識的にも変えているのではないか、というところまででした。

 自分で書いて自分で言うのはナンですが、「ふむ、なるほど」と。

 しかし、それが判ったからといって実はそんなに解決にはならんのですね。「さ、納得できる世界観作って気持ち良くな〜ろうっと」といっても、そんな都合よく出来っこないですもん。



無意識という統制不能の「影の番長」

 心の問題が面倒臭いのは、作為的に「こう思う事にしよう」で思っても、自分の心はそうなってくれないことだと思います。これがフィジカルなことだったらね、何をどう思おうが一日10キロ走ってれば勝手に足腰は強くなってくれるのですが。

 メンタルな世界は、意識よりも無意識の方が権力をもってます。まるで「影の番長」のように仕切っている。だから、どんなに意識レベルで変えたところで、「影の総番=無意識」がそのとおり動いてくれなきゃそうならない。これはもう「今夜こういう夢を見よう」と思って寝るようなもので、そんな事前の企画どおりに夢が見れるわきゃないわけです。面倒なことに、こうやって自分の心を照射して意識の勢力下に置けばおくほど、番長である無意識は奥へ奥へ入っていってしまう。もう逃げ水みたいなものです。





 とは言っても理詰めに分析しまくっていって、本体まで辿り着いて、「なんだ、煎じ詰めたら俺ってそんなことを気にしてたんか、あほらし」で解決することもあります。他人の相談事などの場合、他人の気安さで遠慮なくガンガン煎じ詰めれますから、そこらへんでカタがつくこともあります。

 ところで、もともと偏執的なまでの分析僻がある人の場合、つまり僕なんかの場合ですが、多少分析して解決するぐらいなら、既に自分で分解解毒しちゃってて最初から思い惑うことも少ない。前に「あんまり悩まない性格」と書きましたが、その理由の一端はそういう部分にあるのでしょう。

 「あ、それはそーゆーもんだから考えたってしゃーない」「その件に関しては、俺がその種のことに劣等感を持ってるからそうやって歪んでしまうのであって理由は明白。対策としては現在第6次改善計画と、”今に見ていろ俺だって”キャンペーンを展開してるので、その結果が半年くらいしたら出て来るだろうからそのときに再度検討すれば足りる。今考えても時間の無駄」みたいな感じで、パッパラ整理しちゃってるようです。これ冗談でいってるのではなくて、本当にそうみたいです。

 もちろんガーンとなるときもありますが、そのときはまずもって「情報不足」でガーンとなります。「うわ、なんでこんな風になるわけ?従来のデーターでは解析不能」みたいな部分です。だからこれも対処は明確で、リサーチして情報増やして、仮説立てて、実験して、検証して、理解して、対策を立てて実行するというだけのことです。これも時間はかかるけど、やることは決まってます。それでも分からんかったら「迷宮入り事件簿」かなんかにファイリングして、あとはほったらかしだったりします。その頃にはもう別なことに気を取られて、気にならなくなってるし。




 だもんでその辺の理詰めの分析で何とかなるようなことだったら、そんなに問題ないです。今僕が問題にしているのは、そんな分析なんかでは解決つかない部分。分析しようと意識を照らすと、それだけ奥の暗闇に引っ込んでしまう連中。これです。闇の王国みたいなところ。

 それは深層心理とか言われている領域なのかもしれませんが、何が深層心理なのかよう分からんので、僕には判らない。まあ名称なんかどうでもいいですが、ただ僕がいまイメージしてるのは、そんな大上段に構えたようなニュアンスではなく、寿司屋入って何注文するのかとか、そーゆーなにげないレベルのことだったりします。食べ物の好みとか、女性の好みとか、性癖とか。あるいは「なんだか知らんが今日は人恋しい気分なの」みたいなやつとか、さっきまで盛り上がってたのが急に醒めちゃうとか。

 そこらへんの何気ない感情の変化です。何気ないクセに「なんでそうなるの?」となると良く判らない。場合によってはさっぱり見当がつかない。また、何気ないクセして、やたらパワフルだったりします。自分でも知らないうちに盛り上がってたり、不機嫌になってたり、もう面白いように翻弄されてしまう。恐るべし影の番長。



全ての記憶は感情と結びついていること



 心の奥の無意識の世界は、無意識であるがゆえに分析不能だと思われるわけですが、それでも全く不可能というわけでもないと思います。

 例えば、深層心理学などのアプローチで分かるようなものもあるでしょう。遥か昔、高校生の頃だったかな、深層心理学入門なんてのを読んでて今でも覚えてる研究報告は、「どうして一目ぼれするか」というケースでした。

 ある人は子供の頃、近くに住んでたおねーさんに強く惹かれた。そのおねーさんはいつも茶色のかわいい帽子をかぶっていた。で、大人になってそんなことすっかり忘れていたのですが、あるとき地下鉄乗ってたら同じような茶色の帽子をかぶった女性を見つけて、一目ぼれしてしまったとかいう話です。

 これも、まあ、ほんとに本当なのか判ったもんではありませんが、「あ、そういうことってあるかも」とは思いますよね。フェティシズムとか幼児体験とか、「あ、これイイ」と心にインプリンティングされたら鋳型のように残るというのはあるでしょう。逆に、イヤな体験をすると嫌いになるとか。大人になってからも、教科書やランドセルの匂いを嗅ぐと何とも懐かしい気持になったりするように、ある感情記憶が知覚・認識と結びついているってのは良くあることでしょう。

 「良くあること」というか、広い意味では一から十まで全部そうなのかもしれません。「茶色の帽子」のように圧倒的に強力な「感情起爆システム」を構築してるのはマレでしょうが、薄く、淡くではあっても、もともと全ての認識、知覚、記憶は、ことごとく心に対して何らかの作用を及ぼし、何らかの感情を刺激するのではなかろうか?万物に色がついているように、全ての記憶には色彩がついているのではないか。記憶と感情とは不即不離の関係にあると。

 ここでちょっとズレるかもしれませんが「言葉のイメージ」を考えてみたいと思います。

 詩の世界、あるいは広告のコピー文案は、言葉に普遍的に結合している感情記憶、つまり「言葉のイメージ」ですが、それを的確に見抜いて、組み合わせ、ハーモナイズさせ、総合的にいいイメージを構成しようとするものだと思います。こういう単語を使うとしょーもないけど、こう組み合わせるとグッとくるという。単に「雪が降ってるド田舎」でしかないものを「そこはもう一面の銀世界」と言ってみたりとか。

 いまも連載しているのかどうか知りませんが、西岸良平さん(だっけな)が描いた「三丁目の夕日」というマンガがあります。昭和30年代の風俗というか生活空間をリアルに切り取ってきて再現させているもので、非常に懐かしく、ほっとするようなノスタルジックな気分にさせてくれるので僕は好きです。で、秀逸なのは「三丁目の夕日」というタイトルです。ちょっと昔の、まだほのぼのしていた日本の庶民の暮らしというコンセプトと、「三丁目」「夕日」という単語が妙にハマるんです。昭和30年代を示すような時事とか風俗とか一切使わず、三丁目とか夕日とかいう一般名詞だけで、この感じを出してるわけで、ものすごくセンシティブな言葉の選び方だと思います。それが通じるということは、僕らの中においても、「三丁目」という言葉は単なる住所表示ではない何らかの感情と結合しているということでしょう。



 ある外人さんの書いた本で、日本語に雨に関する単語が異様に多いのでビックリしたとと書いてありましたが、確かに日本語には同じ雨でもめちゃくちゃ沢山の表現があります。ちょっと挙げてみましょう。たまたま手近に角川の類語新辞典がありますので抜き書きしてみます。

 大雨、多雨、小雨、豪雨、雷雨、長雨、霧雨、煙雨、小糠雨、涙雨、滋雨、多雨、五月雨、陰雨、淫雨、霖雨、篠突く雨、俄雨、通り雨、村雨、村時雨、夕立、白雨、驟雨、日照り雨、狐の嫁入り、春雨、麦雨、梅雨、空梅雨、涼雨、秋雨、秋霖、時雨、冷雨、氷雨、菜種梅雨、走り梅雨、よだち、露時雨、小夜時雨、寒九の雨、、、いろいろあります。

 「遣らずの雨」なんて言葉もあって、恋人が帰ろうとするのを邪魔するかのように降り出す雨のこと。カッコいいですね、これ。それはさておき、「雨」に関する言葉には、単に「空から水滴が継続して落下する気象」という意味だけではないのが分かります。それだけだったら「雨」一語で十分ですもんね。それでは済まさず、まるで小論文の問題みたいな「雨と私」というテーマで、心に映っていく様々な感情と雨とをコネクトして、様々な言葉が生まれてきているということでしょう。

 上に挙げた古式ゆかしい言葉だけでなく、新しい言葉も毎年生まれます。日本を離れていると段々とここらへんでギャップがでてくるのが恐いのですね。流行語の類だったら浮かんで消えるから別に恐くもないです。問題は、昔からの言葉に新しいイメージがくっついて微妙にニュアンスが変わっていくことです。

 インターネットで日本の出来事は日々フォローできます。もしかしたら日本に居る頃よりも日本の出来事を知ってるかもしれない。しかしリアルタイムに現場にいる者だけが共有できるイメージというのが欠落します。例えば、僕が留守している3〜4年の間に、在日日本人の皆さんは、「カイワレ」と聞いたら「O−157」を連想するでしょう。100%それってことはないにしても新しいイメージとして付加されたのは確実だと思います。僕もその事件は知ってるけど、それは頭で知ってるだけで、実際にスーパーに行って、カイワレを見て「買おうかなあ、どうしようかな」と思った経験のある人とは決定的にリアリティが違うと思います。同じように、今だったら「カレー」といえば、「毒入り」とか「保険金」というイメージが混入してるでしょう。「カレー→毒入り」なんて突拍子もないイメージですから、インド人もびっくりです。

 そんなにメジャーでなく、脇役のようにさりげない小物なんかにもイメージが混入します。こっちの方が恐いかな。例えば、この時点では僕はまだ日本にいましたが、「カナリア」と聞いたら何を連想します?「歌を忘れたカナリアは〜」だけじゃないでしょ。おそらく、オウムの本部に警察が一斉捜査をしたとき持っていたカナリアの籠というイメージも、フラッシュバックのように、ほんの一瞬よぎると思うのですね。あるいは、若い世代にとっては「3億円」ときいても、2億円と4億円の間くらいの数値的なイメージしかないかもしれませんが、僕らの世代だと「3億円強奪事件」を未だにちょびっと思い出します。

 そういったすごく微妙な積み重ねで、「三丁目の夕日」がイメージ的にピンと来たり来なかったりするのでしょう。



 およそ日常的に使われている言葉にはいろんなイメージがくっ付いています。それがあるから「詩」という「言葉のマジック」が生じるのでしょうし、いわゆる言霊(ことだま)も生まれるのでしょう。

 逆にいえば、言葉にはその本来の定義以外にも、豊かな感情イメージがくっついている。「三丁目」=「地方自治の最少行政単位(”町”など)を、住所表示等の便宜上さらに細分化するためブロック分けしたもので、通例順次漢数字が冒頭に付される」なんてことだけでは絶対ありえないのですね。もっともっと豊かな情感がその言葉を取り巻いている。

 言葉と感情との親密度を考え、さらにそれを一般化すれば、僕らの頭にある全ての情報・記憶は何らかの形で感情記憶とコネクトしてるといって良いように思われます。


膨大な感情記憶の宇宙


 というわけで、「茶色の帽子をかぶった女性」というある認識記号が、「幼い時の強烈な恋慕と憧憬」という特定の感情を起爆させる隠れたスィッチになる、ということもありうると思います。

 だからある程度は分析可能ではあります。無意識の世界の影の番長だ、闇の帝国だとかいっても、ある程度の推測はつきます。つきますけど、でも何が何のスィッチなんだか、どことどこがくっついているのかがよく判らない。あまりにも情報量が膨大過ぎて自分でも把握できません。

 そもそも外界から受ける刺激は一つじゃないし、コネクトされてる感情記憶もひとつではない。ほんの1秒の間でもハードディスク一杯になるくらいの様々な情報が頭の中を飛び交ってることでしょう。それらが全体としてどういう潮の流れを構成し、結論的にどうなるかなど、予測もつかんし、過程もわかりません。

 例えば前述の「茶色の帽子」という記号にしたって、あれも実際にはもっと複雑だと思います。その帽子をかぶった女性を見る角度であるとか、帽子の色だけでなくて形もあるだろうし、「髪をかきあげるしぐさ」なんかも入ってるかもしれない。そんな茶色の帽子をみる度にいちいち惚れてるわけもないと思うのです。いろんな要素が惑星直列みたいにドンピシャと揃ったとき、「あ、、、、!」と思ったりするわけでしょう。




 例えば僕は、今度また日本に帰りますけど、帰ったらやっぱり日本旅館に泊りたいなと思います。どんなイメージを予期して喜んでるのかといえば、

     未明の深く透明で蒼い空気、ふと目覚める。
     近くの川のせせらぎの音が聞える。
     サラサラとジャバジャバの中間のような、深みと軽さが入り混じった何ともいえない音
     他になにも聞こえない
     あの”夜明けの川の音”

 とか思ったりします。「あの音だよ、ね、ほら、分かるでしょ?」といえば、おそらく文化(というか自然記憶)を共通にする日本人だったら99%の人が「ああ、あの音ね」と判ってもらえるのではないかと思います。その川は「キャムデン・リバー」なんてのじゃなくて、やっぱり「竜神川」とかでないとダメなわけです。

 これも茶色の帽子と同じく、「川の音」といいつつ川の音だけではないのですね。そこには、和室独特の「やや湿り気を帯びた静寂」やら「冷んやり凛とした畳の感触」があったりします。薄っすら見える天井には白いレリーフが施されているのではなくてやっぱり木目。ズシリと重い掛け布団を、夜中暑くてぶはーとはいだり、夜目にも障子がほの白くうつったり、、、などなど色んなものが渾然とミックスしていて、その上での「川の音」なんです。

 そういった膨大な情報記号と、それにいちいちひっついてる感情記憶。そのオーケストラのような、一大交響曲の結果として、「あ、ええわあ、それ」という感情が湧いてくるわけでしょうし、多少金払ってでもいくかという気にもなるわけでしょう。




 いっくら分析しても、いくら緻密に考えても、感情を誘発し、構成している、破片のような膨大な情報記憶を整理しきることは出来ないとおもいます。ある情報がある記憶を連想させ、その記憶にひっついている感情を誘発する、、とかいう大雑把な方程式みたいなものは判ったとしても、その方程式のXなりYに入る情報は、あまりにも多すぎるし、どこにどんな感情記憶が眠ってるかは、自分のことでありながらも自分では判らない。広大な宇宙の星屑のように、やたらと広く、とりとめもない。

 結局どうなるとかという、「なんで自分がこんな気持になるのか分からない」という現象が生じます。この前これをやったときは楽しかったけど、今日は全然楽しくないのは何故か?というと良く判らない。どうして今日に限って憂鬱な気分になるのか判らない。どうしてこの曲が好きなのか、自分でもよく判らない。恋人の何気ない一言でどうしてこんなに自分が傷つくのかわからない。それなりに理由はあるのだろうけど、なにがどうしてこうなってるのか分からない。





 「納得」を構成するベースになるのは個々人の世界観だと言いました。

 「世界観」とは何なのか、その実体は何なのかといえば、生まれてから今まで知覚経験してきた全記憶の体系だと思います。生まれてからまず「他者」という存在を知り、空間を知り、時間を知る。母親を知り、父親を知り、男と女の性差を知り、友達を知る。犬を知り、猫を知り、食事をする。童話を読み、TVを見て、ゲームをする。自転車に乗り、サッカーをし、人形で遊ぶ。そういった膨大な経験によって得た知識や記憶をつなぎあわせて、「お母さんというのはこういう人」という人物観が出来るし、「カレーとハヤシはどう違うか」なんてことも知る。全てについて「○○とはこういうもの」という物の見方が出来てくる。そう「全部」が世界観と言われるものだと思います。

 全世界のありとあらゆることについて「私はこう見る」という認識の全てが世界観であり、その世界の中に自分をどこに置けばいいのか、どのように動かしていけばいいのか、その収まりどころが、前に述べた納得と意味付けの原理だと思います。





 そして、ここが重要で、しかも最大にややこしいところだと思うのですが、世界観を構成する膨大な記憶には、いちいち全部感情がくっついてきているということです。ドライな認識が枠線を引き、感情が色付けする。万華鏡のように複雑に入り組んでいるのが僕らがもってる世界観なのでしょう。

 だとすれば、世界観を意図的に再構成することは、理屈レベルでは無理やり出来るかもしれないけど、感情も含めたトータルでいえば、そう簡単に出来るものではないという気がします。頭では割り切れてもハートでは割り切れない、どうしても感情的にしっくりこないということも十分ありうると思います。ありうるというか、まず100%しっくりこないのではなかろうか。





 例えば、「そうかそうだったのか!」でその時は悟ったような気がする。「ああ、これで俺は生まれ変われる」レベルの大感動をしたとしても、しばらくすると、やっぱりいろんなところで矛盾も出ててきます。

 感動的な映画を見たあとで、「ああ、人はみな淋しがり屋なんだ、愛し愛されたい可憐な生き物なのだ、そうなのだ」と力強く思ったとします。自分もこれから全ての人を優しく愛せるようになりたいし、なれるような気がすると、その時は心の底から思います。でも「本当に誰でも愛せるわけ?自分を裏切ったA、さんざんひどいことをしたBなんかも愛せるわけ?」となると、やっぱり話は違ってきます。「なんであんなクソガキ愛さんといかんのじゃい、法律がなかったらぶっ殺してやる」と強烈な憎悪感情が起き上がってきたりします。折角の悟りも流れてしまいます。

 理屈の上では「人はみな弱いのです」というのに同意できたとしても、自分の世界観を作ってる感情断片が相互に矛盾したり対立したりしてて、自分が思ったように自分の感情がついてきてくれない。自分の中にあるこの膨大な感情記憶群の世界は、よっぽど強力な理論と感情でないと、なかなか「天下統一」することはできないと思います。




 さらにややこしいことに、物事はこんなに単純に「対立」とか「反対記憶の登場」なんて分かりやすい図式で展開してくれるとは限りません。本気でやろうと思っているのだけど、どうしてなんだかさっぱり見当もつかないのだけど、心の中の別の力がそれを邪魔しようとする。心から納得してる筈なのに、いざ現場にいってしまうと何故か逆のことしてしまう。プロ選手のスランプなんてのも、これなのかもしれません。昨日まで楽勝で出来た事が何故か出来なくなってる。どうしてなんだか全く判らないけど、とにかくダメだという。何がどうやってどのように影響を与えているのかすら分からない。

 ハッキリいって、数億数兆あるだろう情報記憶、その記憶の倉庫とフィールド(これを「無意識の世界」と呼ぶことも、「心象世界」そのものと呼ぶことも出来ると思いますが)、これを意図的に統制することは不可能だとおもいます。何が入ってるのか判らないものを統制できっこないです。

 頭の中に巨大なブラックボックスがあるようなものです。不気味といえば不気味です。だから、このシリーズの最初の方で述べたように、心象世界に迂闊に足を踏み入れたり、心象感度を高くしたりすることにタメライを感じるわけです。なぜなら、それはこのブラックボックスが、さらに巨大化し、さらに活発に蠢動を開始するかのような気がするからです。ワケのわからん黒く巨大な力に、自分がどこかに連れて行かれてしまうような。

 こんなブラックホールがあるのなら、自分の世界観を自分で修正しましょう、そして安らかな納得に至りましょう、とかいったって、そんなこと出来る訳ないじゃないかということにもなりそうです。少なく完全に統御することは不可能だと思います。



ブラックボックスを育てる


 ただ、絶望は愚か者の結論だといいます。

 完全に人為的に世界観を構築するなんてことは無理でも、大雑把な軌道修正や改訂は、なお可能だと思います。可能な部分があるならば、手抜きしないでやれるとこだけでもやるべきではないか。



 例えば情報が少ないゆえに勝手に推測したり思い込んだりして嫌いになってるような場合は、もっとそれを知ることによって認識が変わることはありえます。食わず嫌いみたいなものですね。差別や偏見なんかもそうでしょう。

 あるいは、過去に数回イヤな経験があったから、その感情記憶が強烈に焼き付いてる場合。少女時代にレイプされた女性が男性恐怖症になるような場合。これを癒すのは、やはり男性と付き合って、必ずしもヒドイことばかりではないということを徐々に知っていって、バランスを回復させていくことなのでしょう。難しいとは思いますが。

 はたまた、その物事の良さをひきだすアクセスの仕方を間違ってたから嫌いになっていたようなこと。僕の友人でスキーに一回行って「もう二度と行くか」という人がいます。曰く、「寒いし、冷たいし、人はゴチャゴチャしてるし、いいことなんか何もないやん」と。でも好きで行く人はいます。好きな人は、確かに寒いし、冷たいし、ゴチャゴチャしてるけど、斜面を滑り降りる快感があればお釣りがくるほど満足できるのでしょう。また、クラシックを聴くようにしてロックを聴いていても絶対面白くないと思います。同じ音楽と言いながら、頭の中で使う部分が全然違うし、気持ち良くなるなり方が違う。ワサビはツンとくる刺激がいいわけだし、ビールは苦いからいいんです。単なる苦さから、コクなり深さを感じ取るコツがつかめたら好きになる。飛行機は揺れると不愉快だけど、ジェットコースターは揺れないと面白くない。

 僕らは、頭の中に数億数兆の情報記憶を持ってるといいましたが、それだけあっても全然完全ではない。ブラックボックスがいかに巨大であったとしても、同時にそれは出来損ないでもある。穴だらけで、スカスカで、間違ってばかりいます。膨大な記憶容量であったとしても、この世界を作っている森羅万象は、そのまた数億倍の量がある。ほんの一部をかじってわかった気になってるだけとも言えます。

 この世の中、ありとあらゆる領域でそれが好きな人がいて、マニアと呼ばれる人がいたりするわけですから、コツさえつかめば大抵のものは面白く感じられるようになるのでしょう。そうやって何でも体験したり学んだりしていくうちに、徐々に世界観が修正されていくことは沢山あると思います。というより、日々その連続なのでしょう。




 世界観を意図的に修正することは不可能だと言いました。電気製品の蓋をパカッとあてて、「ははあ、ここが断線してるね」とハンダでチョッチョとくっつけたりするような具合に修正することは出来ません。そういうアプローチではない。

 相手がブラックボックスならブラックボックスなりにやりようはあると思います。あたかも植物を育てるように、もっと時間をかけて、「育てて」いくことは可能だと思います。何がどうして何でそうなるのかは詳しくは判らないまでも、全体として好ましい方向に持っていくことは、尚も可能であるとおもいます。

 さらに続きます。




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1999年02月02日:田村
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