延々続いている「うつ」をめぐる風景です。
いつもいつも同じ注意書きで恐縮ですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策するに留めます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。
前回、「国家や社会を良くして→個々人を救済」という方法論そのものが破綻を迎えているのかもしれない」とか書いたところで終ってました。そこからもう少し敷衍します。
国家、社会、政治というのは、「みんな」(=全体、マス=国家、社会)をどうするか?という方法論です。
「みんな」のあり方を良くすることで、その一部である個人もまた良くなっていくということですね。
この方法論の前提には「皆が同じ生活システムに乗っている」という事実が必要です。同じ集団=同じ統治機構の下にいる人々は、同じような生き方をしている。
「みんな」と自分の同一性が核にある。だから「みんな」を良くすればオートマティックに自分も良くなる。
あまりにも当たり前すぎて「何を今更」な議論ですが、しかし、このやり方は昔ほどの神通力が無くなってきているように思います。なぜなら、「みんな」の規模が全世界にまで広がってしまって、それを統治するシステムが無くなってしまったからです。まずはそのあたりから。
全&個の同一性=「そうせざるを得ない」経済基盤
そもそも、なぜ「みんな」と自分が同一になっていたのかといえば、
「そうせざるを得ない」というソリッドな経済基盤があったからでしょう。日本を例にとると、江戸期までの日本は、米食い民族として、集団で米を生産して集団で食っているというベーシックな構造があった。社会が複雑化して、米を作ってる人達(農民)だけではなく、米の収穫を優先的に持っていってしまう武力集団・階層(武士)がおって、米を全国に流通したり、その他の生活財を生産・販売する経済分業に携わる人々(商工)がおって、、という。しかし、それは単に役割分担に過ぎず、皆で同じシステムに乗ってることに変りはない。経済=米というベースの上に乗っかる「みんな」のシステムとして、米の優先権や配分のシステムがあり、それが政治や経済、ひいては個人の人生のありようだった。その良し悪しはともかく、江戸期までは日本独自の閉鎖的な回路だった。ガラパゴスだった。
ところが、 明治期以降、世界のシステムと日本とがシンクロしていきます。帝国主義という国家間競争に参加し、勝利するという新しいパラダイムに入る。そのためには、あるときは軍事力をつけ、あるときは経済力を付けた。そして国際競争で得た「獲物(領土や外貨)」を皆で配分するという国内システムになった。このパラダイムは現在においても基本的に続いています。
しかし、ここ10-20年の間に、そのシステムがさらに変化していきます。世界⇔国内という二元論のバランスが崩れてきている。グローバル資本主義が先鋭化して、国家レベルを超えた世界経済がダイレクトに国内をも支配するようになってきている。
例えば、タイで洪水が起きれば、回りまわって自分が失業する。タイ洪水で影響を受けた日系企業はなんと460社に及び、現地生産が出来なくなるために、玉突き衝突的に日本国内の部品や組立て操業も停止してしまい、結果的に自分の町の工場も停止、自分自身は雇い上げになってしまう。
あるいは、中東あたりでドンパチ起きると石油が入ってこなくなる。イランがホルムズ海峡を封鎖すれば(その可能性は低いらしいが)、ヘタすれば第三次オイルショックになる。又よりにもよって原発停止で火力に移行し、原油に全体重を乗せようとしているこのタイミングで。あるいは、ギリシャ国債がムーディーズにデフォルト格付けされましたが、つま先立ちでバランスを取りながら、思惑先行でチビチビ売り買いしている世界市場が「やっぱダメじゃん」方向に傾いたら、それこそリーマンショックのパート2になる。
このように、地球の反対側のローカルな出来事が、回りまわって自分の生活に影響を与える。虚空を不気味に回転しているブーメランのように、因果の連鎖がスルスルと伸びてきて、やがてはあなたの家の玄関のドアを叩く。自分の収入やライフプランにまで波及する。
つまり世界全体が一つの経済システムに乗るようになった。この環境になってしまえば、一国の政治システムだけではどうしようもない。円高だ、世界不況だ、原油だ、、というのは、もう日本がどんなに優秀な政府を持ったとしても管理不能です。まさに地震や台風のような自然現象であり、やれることは起きてしまった被害の救済、痛みの分配くらいで、その根本的なコントロール権はない。だから世界の事態がこれ以上悪化しないように(台風が来ないように)「お祈り」するしかない。政府の仕事=豊作を祈ってお祈りをするという古代卑弥呼のシャーマン国家みたいなもんです。日銀が亀の甲羅を焼いて占いを立て、短観報告というご託宣を述べるという。
本来なら、世界レベルに広がってしまった「みんな」をコントロールするために、同規模の世界政府が求められるのですが、その実現は当分先だろうし、それが十分に機能するかどうかは分からない。今は、やれヨーロッパ危機だといっては各国連携して事に当っているというレベルに留まっています。
ところで、今から思えば、戦後日本の高度成長は、世界(戦後資本主義の成長)⇔日本(経済復興)⇔個人の生活・幸福、という三者が奇跡的にシンクロしていた時代なのでしょう。そこでは皆で力を合わせて頑張れば日本が伸び、世界経済を進ませ、結果として国民個々人が豊かになる。みんな=個人が強くシンクロしていた。それに、大量生産&大量消費という規模の経済は、和の民族&猫も杓子も民族である日本人の最も得意とする分野でもありました。みんなで同じことをするのに長けているし、みんなと同じモノを買うのも長けている。これだけ条件が整っていたら、そりゃあ経済発展しなきゃ嘘でしょう。
「みんな」との関わりと生き方戦略
さて、そんな中での個々人の人生哲学は何かといえば、やはり「みんな」との関わりで出てきます。江戸封建時代では、とにかく「みんなといっしょ」が大事でした。士農工商ルールにしたがって、ラインからはみ出さず、「分相応」を心がけていれば良かった。しかし、資本主義の競争原理が入ってくると「みんなといっしょ」にプラスして「みんなの中でより高いポジションに上がる」という競争ルールが付加されます。
つまり、子供の頃からガッコ行って、お勉強して、受験競争を乗り越え、就活を乗り越え、ハイレベルの就職先をゲットし、さらにその中でより優先するポジションを得ることが、最小費用・労力で最大リターンを得る黄金の方程式でした。それは今も同じで、だから日本でもお受験とか予備校が流行るのでしょう。
しかし、最近の世界では、それがどんどん過酷になってきている。アメリカのアイビーリーグに入るための過酷な学資ローン負担、韓国の苛烈な受験・就活競争。もうあり得ないレベルで厳しくなっていると言います。
日本国内の見えにくさ
ところで、日本の場合は、少子化+大学数の急増で真逆トレンドになっており、それが事態を見えにくくしているように思います。ちょっと微妙に本題からは外れるのだけど、あとあと関係してくるので書いておきますね。
ここのところの少子化傾向で、日本の受験は随分と楽になっていると聞きます。昔は受験地獄とかいってたけど、最近はそんなに聞かないし。「四当五落」なんて昔は誰でも知ってたけど、今の受験生は知らないかも。知ってます?睡眠時間を4時間まで削って猛勉強した奴だけが合格して、5時間も眠ってる奴は不合格という「お話」です。
しかし、エネルギー保存の法則のように、物事というのは良く出来ていて、絶対どっかで「帳尻」を合わせなければならない。入試という入り口が楽になった分、今度は出口(就職)がキツくなっています。
「見えにくくしている」というのは、@大学の敷居が低くなったので大卒者の平均能力が低下し、それで就職難になるという事実と、A実際に勉強エリート方法論が過酷になっている世界の趨勢、がゴチャ混ぜになっていることです。
@は身近な話なのでわかりやすい。僕の友人連中もそろそろ企業の部長クラスで人事担当になってますが、日本企業は慢性人手不足だそうです。でも就職は氷河期だという。このギャップは、彼らの説明によれば、箸にも棒にもかからない奴が多すぎるからだそうです。優秀な人は確かにいる。もう是非入社して欲しいと思う。しかしそういう優秀な人は、一人で10社も20社も内定を取ってるから結局他社に取られてしまう。その場合、普通は次点候補に行くのだけど、これが居ないそうです。「なんぼなんでもこいつは採れんわ」というくらいレベルが低い。だから仕方なく外国人を雇ったりする。好きでやってるじゃないわい、と。
一説によると、今の東大生の学力水準は20年前の明治レベル、だとしたら僕の時代(30年前)の何になるのかな?、、らしいのですが、これも何となく分からないでもない。10年前の時点で、慶応出てて天安門事件を知らなかった人がいたもんな。もっともトップクラスは変らんと思いますよ。いつの時代も上位に来る連中の優秀さは、これはもう遺伝子の確率問題だから変らんと思うし、各大学の格差も実は無いといいます。法曹界に入ってくる連中だって大学差はあんまり無かった。一定レベルから上は、学歴なんぞあんまり関係ない。首相も大企業の社長の学歴も東大ばっかではない(東大以外が遙かに多い)。大学格差というのは「どれだけアホでも入れるか」という下限レベルで決まるらしいけど、それは本当だと思う。これ、TOEICの点数と本当の英語力の関係に似てるかも。初中級レベルまでは関係するけど、上級になるとTOEICなんぞでは測れない。
それはさておき、この種のアネクドータル・エビデンス(巷の噂レベルの証拠)は事欠きません。先日聞いた話ですが、シドニーにある日本企業の研修センターが日本に帰ったけど、また戻って来そうです。最初はオーストラリアの方が賃金やコストが安いからこっちに来たけど、今となれば日本の方が安いので帰国した。しかし、日本で研修した人材がおよそ物の役には立たないので、ダメだこりゃで、やっぱりオーストラリアに舞い戻ってきたらしいです。日本みたいにぬるい環境でやってても、海外ビジネスが出来る人材は育たない。まあ、分からんでもないです。海外18年目の僕ですら、日本に帰るとどっかしら「弛む」もんな。ホームは楽だもん。海外はアウェイ感との戦いだから、その核のOSを変えられるかどうかでしょう。
まあ、こんな話は幾らでも出来ます。それなりに真実を衝いているのでしょう。
だからこそ余計見えにくくなっていると思うのです。この種の「最近の若いもん」話に落とし込んで、それで分かったような気になってる日本の上の世代も、以下に述べる世界のゾッとするような趨勢が見えていないのであれば、同じように甘いんじゃないか?と思います。
アウトソーシングと中流層の減少
あの、今の資本主義って、そんなお勉強したり、競争したり、勝ち抜いたりという方法論で何とかなるような生やさしいレベルの話じゃなくなっているような気がします。世界企業は買収につぐ買収でどんどん大きくなる。まるでデビルマンのデーモンの合体みたいに、どんどん巨大化する。逆に組織数が減ることで、ポストはどんどん減っている。つまりそれだけ「勝者」の数が減る。
これは日本においても同じで、誰も彼もが課長になれた時代はとうの昔に去り、今では一生正社員の座をキープするだけで、かつての部課長職出世くらいの労力と幸運が求められる。さらに上にまでいける人はより限られる。もちろん、それでも競争に勝ち抜く人もいるだろうけど、その成功歩合は日ごとに低くなっている。
これまでサラリーマンというのは、(敢えてレスペクトを欠く表現をすることを許していただけるならば)、これといった金を稼げる特技のない普通の人達の最後の楽園、最後の安全ネットでした。サラリーマン以外のエリアは、俳優にせよ、カメラマンにせよ、スポーツ選手にせよ、音楽家にせよ、金を稼げる/メシが食えるというレベルにいくのは、相当の天分+努力+運が必要だった。いわば選ばれたエリート達の領域だった。まあ、そこまでの天才レベルまでいかなくても、普通の手に職レベルであっても、何らかの「職人芸」は必要ですし、厳しい修行期間がある。
今のように企業マネジメントが極限まで効率化していく方向が進んでいけば、そのメンバーである従業員においてもより高い能力が求められるようになる。いわば「プロフェッショナルなサラリーマン」が求められる。必要なのは、ほんの一握りのエリートであるスーパーマネージャーであり、一般労働者は世界に幾らでもいるんだから。比喩的に言えば、サラリーマンとして食っていくためには、プロのピアニストとして食っていくくらいの天分と努力が求められるという。
このスタークなリアリティ(stark reality=荒涼とした現実=”キビシー現実”という意味でよく使われる。そういう名前のバンドもあるみたい)を後押ししているのが、企業のコストカッティングの一環としてのアウトソーシング(offshoring)の波です。
先日オーストラリアの新聞で、海外アウトソーシングのオンラインビジネスを立ち上げ巨万の富を築き上げたGreg Bearupという人物が載ってました(
記事はここ)。アジアやアフリカの無数の新興国にオンラインでアウトソーシングする道をつなぐのですが、ビッグビジネスではなく、中小企業や個人を対象にしている点、そしてオンラインの特性を利用して大量処理をしている点がミソで、現在ユーザーは300万人以上。要するに世界規模で下請仕事の入札システムで、e-Bayの個人仕事版です。
フリーランサー・コムに行くと個々の入札案件が見られます。その数はなんと累積148万件。より安い賃金で落札した者の勝ちということで、仕事はどんどん新興国に流出している。
この零細民間レベルでのアウトソーシング、海外発注が加速していったら、、と思うとゾッとしますよ。およそデジタル化出来る仕事は(データー入力であれ、イラストであれ、WEBデザインであれ、SEOであれ、コンサルティングであれ、建築設計であれ、帳簿処理であれ、税務申告書であれ、契約書作成という弁護士業務であれ)、より優秀で安く請け負う世界の連中にもっていかれてしまう。そんな連中は、インド、中国をはじめ、世界に掃いて捨てるほどいる。逆に言えば、このシステムは、優秀な知能と教育を受けながらも、たまたま生まれた落ちた国によってチャンスに恵まれない人々の希望であり、エリアによっては村おこしになっている。
例えば、
Sourcing cheaper staff the new growth industry によると、インドの田舎町だったGurgaonが、現地のアウトソーシングセンターとして急速に成長し、ショッピングモールが建ち並んでいる状況が報道されています。多分、日本ではあまり耳慣れない言葉だと思いますが、BPO(business-process outsourcing)というのがあります。企業経営の一部分を外注に出すことです。コールセンター、カスタマーサポートなんかが典型的でした。しかし、今は、より上級職すらも外注に出されるKPO(knowledge-process outsourcing)になっている。かなり高度な仕事すらも外注に出すようになっている。
これは何を意味するかというと、現在、先進国で比較的優位に立っているスキルのある高給ホワイトカラー、あるいは資格系ビジネスや「士」系の人々ですら安閑としていられないということです。彼らの仕事がどんどん減っていくし、もう既に減っている。
アウトソーシングについては、オーストラリアは英語圏ということもあり、その危機感にせよ、その構造把握の正確性にせよ、日本よりもずっと進んでます。日本ではまだ「海外進出」というと低賃金の工場作業員みたいなレベルで語っているキライがあるけど、そんなの古過ぎ。今は中上級のレベルの職ですら海外流出しているのであり、その現場では、もはや海外/国内二元論なんて発想すらない。試みに”out-sourcing”というキーワードでオーストラリアGoogleで検索すると
これだけ出てきます。これを
ニュースに限定して検索したものがここです。
オーストラリアでは、現在、銀行など金融系でバンバン首切りが行われようとしていますが、一つは成長センターであるアジアなどでビジネスを展開しているからだと言われます。
The great bank jobs heist: here today, gone overseas tomorrowでは、ANZ銀行がマニラ支店を出す場合、信用調査係をオーストラリア人で雇おうと思えば、年収相当で600〜800万円のコストが要る(面倒だからドル100円で換算)。ところが、より厳しい条件(英語は勿論、同種仕事のより長い経験年数など)を求めたところで、現地のマニラではその10分の1、年収50万円で優秀な人材を雇える。今マニラにはそんな求人広告があふれかえっているそうです。
オーストラリアの労組の調査によると、この傾向が続いていけば、オーストラリアの金融、ITセクターの25万人分の職が失われるかも、としています。この衝撃は、人口を日本並みに置き換えて(約5.7倍にすれば)、日本から144万人の職が消滅することでもあります。2009年の日本の完全失業者数は347万人だそうですから、そのボリュームが分かるでしょう。それも、現在勝ち組とされているような高給サラリーマン、銀行などの中堅どころの中流・中上流層の職が無くなるわけで、それがまた国内景気に与える影響は図りしれません。震災10発分くらいはあるかも。
で、ここまでアウトソーシングが進んでしまえば、昔のサラリーマン層、中流層が益々やせ細る。この20年でごっそり減ったけど、もっともっと減る。そんな過酷な環境で生き残ろうと思えば、ムチャクチャ優秀な能力が要るし、遡って優秀な大学を優秀な成績で卒業することが条件になり、さらに遡って受験戦争はいやが上にも過酷さを増すし、他国では現にそうなっている。この部分があんまり日本で見えていないところでしょう。
まあ、そんなに一直線に事柄が展開するものでもないですので、そんなに焦らなくてもいいですけど、でも何となく「世界で何が起っているか」という事柄のシビアさが分かると思います。ことは日本だけのことでもないし、一過性の不況でもないし、ヨーロッパの金融危機など因果の連鎖の一過程にすぎないし、ましてや震災の影響など全体からすれば微々たるものです。もっともっと大きな構造変化が起きているということです。
公平的正義
そしてそれは異常なことか?とっても不幸なことが起きているのか?といえば、必ずしもそうとは言えないのがツライところなんです。本当はココが一番辛い。
グローバリズムで先進国が落ち込むのは、先進国にとっては悲劇です。でも人類全体としては、これまでがヒドすぎたわけだから、それが正しい方向に是正され、皆が平等公平になっていくということは、いわば「正義の実現」ですらあります。
他方、正社員やサラリーマンの生き辛さというのも同じで、同じ1万円を稼ぐのも、他のプロ仕事(音楽家とか俳優)が死ぬような思いをして稼ぐのに対して、サラリーマンは比較的楽ちんに稼いでいた。その昔は「気楽な稼業ときたもんだ」とか歌われていたわけですから。まあ、言うほど気楽でも何でもないのは知ってますが、でも、プロボクサーほどしんどくはないでしょう。これだって不公平といえば不公平です。だから、それが是正され、生計を立てる=「生きていく」ことのしんどさが全産業を通じて均一化されていくということであり、「プロ」という水準が普遍化していくだけとも言える。どんな仕事をしても1万円を稼ぐために払う労力は同じであるべき、という正義です。
両者合わせて、世界のどこであろうが、どんな仕事であろうが、100ドル稼ぐための労力は同じになっていくということで、大きな視点に立ってみれば、それは慶賀すべきではあっても悲しむべきことではない!ってことになったりもします。しかし、不公平に恵まれていた先進国の中で、さらに不公平に優遇されていたサラリーマンにしてみれば、このプロセスは非常に辛いです。さらに辛いのは、これだけ辛い思いをしつつも、それが理不尽に虐げられているわけではないという点です。「正義は我にあり!」って言い方がありますが、そうではなくて「正義は我にない」というところが辛い。
ここまで書くと、残された不公平を思いつく人もいるでしょう。一つは、年収数十億とか貰っている一部のCEO連中や資産家はどうなるんだ?という点、第二は日本でも論議されている世代間の不公平や既得権不公平です。世代間の点は、これは一定期間が過ぎたら自然に解消されるので「時間の問題」だし、そもそも本当に不公平なのか?という問題もあります。富の配分は何も年金に限った話ではなく、治安、交通、ひいては経済力や自国通貨高などインフラ全般に及ぶわけですから、投下労力とリターン率で計算しなおしたら、どこまで不公平なのかな?という気もします。既得権論は、嫉妬バイアスを排除して純粋に計上してみた場合、一体どの産業にどのくらいいるか?です。案外とその実数は少ないかもしれず、そしてその実部分は、第一カテゴリーとかなり重複するかもです。
で、第一カテゴリーですが、だからそれがWSO(ウォール街占拠運動)なのでしょう。活動はウォール街を離れ全米に広がっているそうですが。この問題を蒸留していけば、結局人類社会に流れている二つの相反するカレント(潮流)、一つは上に述べた水準化のベクトル、もう一つは二極分化していく分化ベクトルのせめぎあいになるでしょう。直感的に思うのは、水準化のベクトルの方が強いかもしれない。CEOが30億円報酬を貰ってたとして、段々と「本当にそんなに払うほどの人材なのか」という疑問が生じ、もっと安い値段で優秀な人材がでてきたらそちらに流れる。また、アウトソーシングの行き着くところは、社長の仕事だって精密に整理していけばアウトソーシング出来るものが多いぞみたいな話にもなっていって、最後の最後に残るのは、芸術家的、天才的な直感だけに値がつくようになるかもしれない。そして、さらに問題は、分化階層が存在することではなく、それが階級として固定化するかどうか、健康な流動性や新陳代謝があるかどうかになると思います。なぜならば---あああ、もう話が逸れすぎなので、また別の機会に書きます。
「みんな」の極大化と極小化
さて、「みんな」論になりますが、これまでの「みんな」が破綻しつつあるということですね。一つは途方もなく広がった全世界の「みんな」の理屈。もう一つは、従来「みんな」のものだった「お勉強→成功」のサラリーマン方法論が、全然「みんなのもの」じゃなくなってきていることです。片や全世界という途方もない広大な海に放り出され、世界の優秀な労働者達と低賃金で競わないとならない、片や従来の船に乗ろうとおもえば蜘蛛の糸を上っていって超エリートにならないとならない。
ということで、「みんな」の極大化と極小化の二つが同時進行で起きている現在、これまでの「みんな」的方法論では限界あるよな、という冒頭の結論になっていくわけです。
客観は客観、純粋に心の問題に残す
「うつ」と銘打ちながらも、ソリッドな国際経済論が延々続いています。
これのどこが「うつ」と関係があるんじゃ?といえば、こういうことです。
現在の日本に「うつ」の蔓延のような現象が仮に本当にあるとしたら、それは日本独自の精神風土というファクター、個々人の特性というファクターもあるでしょうが、より大きく時代や構造の変化が、回りまわって個々人のメンタルに影響を与えている、と見れなくもないです。勿論そういった環境因子が全てではないですけど、一部分は構成している。これはもうゼロということはないだろう。
そういう客観的な要因が個人のメンタルに悪影響を及ぼしているのだとしたら、単なるメンタル的なトリートメントだけでは足りないんじゃないかと僕は思うのです。
「うつ」になってる人にリラックスしましょう、ちょっと休んでみましょうとかいっても、実際それでメシが食えなきゃやっぱり不安は続きます。家が火事になってメラメラ燃えているのに、「さあ、ゆっくり深呼吸」とかいっても出来るわきゃないし、深呼吸したら火事が収まるというものでもない。お金が原因になってメンタルが危なくなっているのだとしたら、最大の対策はお金をゲットすることです。また、それが出来る社会を構築することでしょう。
それが出来ないから苦しんでいるんじゃないかってことだろうし、実際そのとおりなんだけど、言いたいのは、客観が原因になっているものは、客観の問題として出来るだけ切り離して解決方法を模索すべきだ、ということです。前にも書いたことだけど、やはりここは徹底して峻別すべきでしょう。
客観の問題を主観の問題として解決するのは、これはかなりの荒技で、誰もが出来るわけではない。それは例えば火事の最中に「心頭滅却をすれば火もまた涼し」というようなことでしょ。「そんなこと言っても熱いです!」「修行が足りん!」と。まあ、それはそれで偉大な精神のありようだと思うけど、本質的な解決になっているのか?という。「無かったことにする」「我慢強くなる」ことが解決なのだろうか?結局焼け死ぬだけではないのか?と。
かといって、主観の問題を全部客観に置き換えて解決するのも間違ってますよ。何不自由なく物質的に恵まれたとしても、それでも人のココロは渇えますからね。何不自由なく子供に買い与えれば子供はスクスクと育つというものではない。ココロというのは、そのくらいデリケートなものだから、この種の一般的な論述に馴染まない。だとすれば、まずは取っつきやすいところから片付けていこうぜってことです。「うつ」が底なし沼で、その周辺を「めぐる」というのは、まずは埋められる外堀があれば、外堀から埋めていこうということです。
その意味でいえば、メンタルケアというのは、事柄が客観になったら速攻でその部分だけ客観部門で処理できるように、それこそアウトソーシング出来るような体制が望ましいのかもしれません。つまり、精神科や心療内科、カウンセラーはそれだけやってるんじゃなくて、弁護士、税理士、社会保険労務士、労組、警察、家裁、、、などなどの客観サポートと緊密に連携していた方がいいんだろう。またカウンセリングをするにしても、そのあたりの法や行政システム、さらには社会の実情に通暁している必要があるとも思います。これは心の問題よりも家計の問題が本体だから、紹介状を書きますね、みたいな。
ところで、僕自身は弁護士時代のクセなのでしょうが、客観アプローチに馴染んでいます。でも、客観といっても、離婚や破産になってくると、どうしても主観部分が濃厚に混じってくるのですよね。あくまで客観の解決というスタンスで向かいますが、客観的に物事を進めていくにしたがって精神状態が良くなるということも実際にはあります。借金が嵩んで死ぬしかないと思い詰めて、実際に自殺未遂をした人も一人や二人じゃないですけど、それでも最初に全ての道筋を説明し、あらゆる資料を集積し表にまとめあげ、破産申立をし、審尋期日を入れ、その間の注意点を与え、実際に審尋が行われ、破産宣告→免責決定まで持っていく過程=全ての負債から解放されていき、客観的な重荷が軽くなるのに応じて心の重荷も軽くなるという現実はある。そこでは、心の問題は立ち入らないし、立ち入る必要もないです。それらは自然に入ってくるし、自然に流れていく感じ。
離婚でも、最初は「もう、どうしていいのか分からない」と泣き崩れているところから始まって、具体的に離婚するか/しないかの選択肢AorBを説明し、仮に選択肢Aで離婚するとして、子供の親権、慰謝料、養育料、財産分与はこれこれで、実際にこのケースでは限りなくゼロで、だとしたらそれで生活を成り立たせるためには行政上の手当がこれだけあって、このあたりに家賃いくらのアパートを借りて、このくらいの時給のパートを見つけていけば、まあ、こんな感じで生活は廻るかなとか、非常に具体的にビシバシ骨格を作っていくことで、心の負担が軽くなっていくというのはあります。
要は、客観的な悩みと心の問題とかゴチャ混ぜになってるから解決が見えにくく、難しいのでしょう。ある程度分離して、解決できそうなものをバキバキと整理していくと、あとに残るのは純粋の心の問題だけです。逆に言えば、純粋に心の問題にしてお返しするのが仕事みたいなものです。
とりあえず離婚も成立、親権も取った、養育料は月3万となってるけど多分払ってこないと覚悟しておくこと。でも、払ってこなかったら家裁の履行勧告という手続きがある、これは無料で出来るからやったらいい。しかし強制執行力はないので、1年とか適当な期間滞納したらまとめて強制執行。調停調書あるいは執行認諾文言付の公正証書だったら強制執行出来るから。まあ給料でも差し押さえてやれば、相手も勤務先にカッコ悪いから大体払ってくるだろうし、そうしたいときは又連絡下さいね、とか。で、これまでの結婚生活や自分の人生が本当に「失敗」だと思うかどうか、何を基準に何をどう思うのか、それはご自身の問題なので心ゆくまでお考え下さいな。もう人生の宿題くらいに思って、何度も何度も気が済むまで考えたらいいです。そしてなにがしか学んだことがあったら、それを新しい日々にどう活かしていくのか。それはあなたの問題であって僕の立ち入る筋合いではないです、と。
今回も同じで、世界経済という客観要因があるなら、まずこれを解決しよう。まあ、そんなに簡単に解決できるべくもないけど、少なくとも峻別できる問題は峻別しよう。純粋に心の問題にしようと。それが「めぐる」という趣旨です。
そして、それは「うつ」で悩む人、あるいは「うつ」に陥る防止としても有用だと思うのです。客観の問題は徹底的に客観レベルで分析・解決すべし、と。心の問題は心の問題として純化させる。
「うつ」問題で、そんな世界経済の動向まで知らなければならないのか?とお思いの方もいるとは思うけど、そうです、知らなければならないのだ。僕はそう思うぞ。生活不安が精神に影響を与えているとすれば、なぜ現在の生活が良くならないのか、そしてそれはどういう経済原理でそうなっているのかを、もう徹底的に研究し、調べ尽し、知悉する。やたら不安を煽ったり、やたら大丈夫を連発するポップな解説書や雑誌の特集記事に振り回されるのではなく、もっとガッシリと全体構造を掴む。なぜなら、構造が分からなければ有効な対策が立てられないからです。
で、「対策なんかあるんか?」という気にもなるんだけど、それは次回述べます。書いたけど長すぎるので今回はここまで。それより、今回は、ココロを大切に思うなら、客観は出来るだけ客観として片付けるべし、より優秀な実務処理能力を磨くべしというのを強調して締めておきます。心を守りたいなら有能な実務家になれってのは、おかしいですか?でもさ、そのための「勉強」なんじゃないの?
文責:田村