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僕の心を取り戻すために(4)

「心を豊かに」の幻影(その1)


(承前)

 長々続いてしまっているこのシリーズです。頭の中では、実は(その10)くらいまで行ってしまったのですが、書く方が中々追いつかない。書いてる間にどんどん膨れてくるし。あんまりエンターテイメントとして成立してない書き物なのですが、ご興味のある方だけお付きあいください。

 さて、心が豊かになるということはイイコトばかりじゃないのでは?というところまででした。


 ハッキリ言って、僕は人の「精神世界」というものが恐いです。その怖さは、パソコンの中の、なんだか良く分からないけど重要そうなファイル、馴染みのない拡張子が並んでる一群のファイルをあれこれいじくる怖さに似てます。妙なものを削除してしまって、二度とパソコンが立ち上がらなくなるのではないか。人の精神世界はそれと同じように、うかつに触れるべきではない領域のように思えます。


 だってここをいじくると、自分が全く無価値な人間であると思えるかもしれないし、明日から全然仕事する気がなくなるかもしれないし、新興宗教にハマるかもしれないし、オカルティズムに走ってしまうかもしれない。

心象感度の増幅

 まずは身近な話をしましょう。精神が鋭敏になって、見えないものが見えてくるとどうなるか?

 企業のリストラ担当の人の場合、自分が肩叩きしなきゃいけない人々、そしてその家族の悩み、苦しみ、後日訪れるであろうどうしようもない荒廃が見えてしまうかもしれません。コスト削減のために下請に無理難題をふっかける役回りの人も同じです。何にも知らないでニコニコ笑っている患者さんに、「この人もあと三ヶ月の命」と知りながら日々冗談を交わさねばならない看護婦さん。

 自分が「加害」的立場に立つ場合だけではありません。「被害」にも鋭敏になるでしょう。他人が漏らした一言に「あれはどういう意味なのか」と思い悩むかもしれません。周囲の人間から発せられる曰くありげな視線、どことなく軽蔑しているかのような目つき、あの人の言葉は丁寧なのにどこかしら冷たいものを感じるのはなぜかしら?などと惑うかもしれません。「どうしてくれるんだ!」という客の罵声に、今まで以上に多感になってしまうかもしれない。

 自分が当事者になる場合だけではない。世事風俗にも敏感になるでしょう。救いのない愉快犯・便乗犯、根性ないくせに私腹だけはセッセと肥やす連中、新幹線や飛行機の中での傍若無人な宴会をやる連中、いちいちやりきれなくなってくるでしょう。

 現実社会に適応しようとすれば、どうしても心にバリアを張って鈍感にならざるを得ないでしょう。他人の痛み、自分の痛みにあまりに敏感になってたら、刺激が多すぎて打ちのめされてしまうから、「それはそれ」「他人は他人」で軽くかわしていかなければやってらんない。しかし、心と感情が豊かになって、そのバリアがはずれると、今まで以上にグサグサ・チクチク・ズキズキする場面は増えるでしょう。


 それだけではないです。心が豊かになるということは、それまでの小さな音で鳴っていた微かな悩みが大音量で聞こえてくるということかもしれません。「俺はいつまでこんな仕事をしてるんだ」「剥製のように無表情な人々と仮面劇を演じ、コンクリートのマス目をうろつきまわっているうちに俺は老いぼれて死んでいくのか」と今まで以上に思い詰めるかもしれません。いつも「疲れた、疲れた」しか口にしない配偶者に愛想がつきることもあるでしょう。今まで以上に吐息は長く、重く、「こんな筈では無かった」という思いが臨界点まで高まってくるかもしれません。

 心象世界が豊かになることは、視力が良くなるようなものでしょう。視力が良くなって以前よりもクリアに見える風景は、必ずしも感動的で美しい風景ばかりではない。絶対数でいえば、退屈な風景や醜い風景の方が多いでしょう。

 「心象世界を豊かにしましょう」というと、「豊か」という言葉が持つポジティブさに引っ張られて、ゆったりしたイイコトであるかのような感じがしますが、実はそんなことはないのではないか。こんなものは言い方ひとつ、言葉の選びかたひとつで、「心象世界に覆いつくされる」「取り囲まれる」「飲みこまれる」「とらわれる」とも言えるわけです。こういった方が本来的なオドロオドロしさが出てきて正確かもしれません。しかし、いかにゲームに行き詰まったからといって、そんなオドロな世界に迂闊に足を踏み込んでいいんか?という問題があります。

 これこそが中心課題になるのですが、その前に、やや長くなりますが片づけておきたい問題があります。

「心が豊か=ストレス減少→ハッピーになる」という道筋の謎

 本論に入る前に触れておきたい点とは、世間一般で言われている「心の豊かさ」とそれに対するこれまでの自分の関わりです。

 ここ10年くらい、日本でも(オーストラリアでも)、ヒーリングだのリラクゼーションだの、精神性の強いものがブームになってます。ブームというより完全に定着しているといっていいでしょう。メンタルヘルスに関する一般認識のレベルも着実に上がってると思います(専門家から見ればまだまだでしょうけど)。

 当然「心を豊かに」系のココロ関係の言説も沢山出回っています。「高度に管理された現代社会で多忙を極める現代人達は、心のやすらぎを求めている」ということで、そう言われると、「そうだろうね」という気がします。




 これ字面的には何となく分かるのですが、具体的にどういうことなの?という僕にはよくわからない。勿論、意味内容は論者によって様々だとは思いますので、「これだ」と一義的に明白なものでもないでしょう。普通だったら、「そうだよなあ、もっと心豊かに生きていきたいもんだよなあ」で納得するのでしょうが、僕はひねくれているのでしょうか、あんまり納得できなかった。ピンとこなかった。ハッキリ言ってしまえば、あまり意味のあるフレーズとも思えなかった。だって分かんないんだもん。

 通例使われている文脈では、「アクセクするのをやめよう。もっと大らかな気持ちでリラックスしよう」とかいうポジティブな方向、早い話が「幸福になろう」みたいな脈絡で語られています。だから、上述の「心象感度を向上させて泥沼化」という意味とは違うようです。

 そういったポジティブな意味、心が「楽になる」方向であれば、別段敢えて異議を述べることもない。誰だって気持ち悪いよりは気持ちイイ方がいいし、緊張してるよりはリラックスしてる方がいいですもんね。でも、逆にいえばその程度の内容だったら殆ど無内容ではないかと言う気もしてきてしまうわけです。

 というわけで、やや偏執的に、「心が豊かになる→ハッピーになる」という道筋を考えてみたいと思います。従来言われているメソッドで、今の僕の「なんだかな」状態が解消されるのであれば、それに越したことはないでしょう。でも、今の自分からみてもあんまりそんな感じはしない。だから出来合いのものじゃなくて自家製で解決せんとあかんのかなと思ってるわけですが、本当にそうかどうか、もう少し踏み込んでみたいわけです。




 まず「リラックスして幸福になる」ということは、ドライに突き詰めて分析してしまえば、「ストレスやフラストレーションを減らそう」ということでもあるでしょう。そんなに簡単ではないでしょうが、そういう解釈もありうるでしょう。

 では、ストレス総量を減らしたかったらどうしたらいいのか。これまた極端にシンプルに言ってしまえば、「不快によるダメージを減らし、快感を増やす」ということになるでしょう。では、どうやってそうするのか?




 一つの方法は、「不快な出来事については無感動になり、気持ち良い出来事には敏感になる」という方法があります。「悪口は聞こえないけど、誉める声はよく聞える」という都合の良いアンテナ特性にしちゃえばいいのですね。

 落ち込んでる人を慰める場合もこれに似た部分があると思います。「くよくよすんなよ」「女なんて星の数ほどいるよ」「誰でもやってることだよ」「自信もてよ」と、現在の不幸について過小評価させて、「そんなの大したことじゃないよ」という気にさせて、不快ダメージを減殺するということでしょう。あるいは夜空や海を眺めて「この雄大な自然に比べれば自分の悩みなんて大したことないなあ」なんてのも、不快感度を低める作業と言えなくもない。目茶苦茶ドライな言いかたですけど、共通するものがあるでしょう。

 ただこの方向性というのは、罪もない慰めレベルだったらいいのですが、そうやって自分の心をプロテクトしていくうちに、一歩間違えると「他人の痛みは無視、自分の快感だけ考えよう」という、非常にセルフィッシュで、エゴイスティックな方向にいきかねない危険があると思います。

 リストラ担当で首切りばっかりしてても、「首切られるアンタが無能なだけなのさ」「世の中こんなもんよ」とサバサバ割り切れれば、そりゃストレスは溜まらんでしょうよ。教師だって生徒一人一人を真剣に考えてたら疲れるけど、「生徒といえども所詮は他人の人生」と適当にあしらっておけばOK。観光地でボッタクリ商売してても「もう二度と会うことも無い奴ばっかりなんだから」でクリア、と。そうなりかねないでしょう。

 あるいは、外野の雑音をシャットアウトしちゃう。マイペースといえば聞こえはいいけど、行き過ぎてしまえば、外界との接触を断ち自分の部屋に閉じこもって、「想像の王国」で遊ぶという現実逃避の自閉症になっちゃうかもしれない。

 それが「心を豊かに」という内容ではないでしょう。「豊か」どころか、不快に関してはどんどん心を「貧しく」あるいは「麻痺」させることによってハッピーになろうという方向です。




 ほんでもって、その種の方法は、人間が自己防衛機能として本来的に持っているものともいえます。不快や不幸が増えるほどに、心のバランスを守ろうとして徐々に無感動になっていく。それが嵩じると、外界への反応が極端に乏しくなり、精神障害が生じる。専門的なことは知りませんが、反応性鬱病とかよく刑事裁判の精神鑑定などで目にします。

 人に危害を加えると生理的に不快感が生じます。激昂して殴ってしまったあとの何ともいえない後味の悪さや、いつまでも残る手の感触。誰でも経験あると思います。その不快感があるからこそ、犯罪というのは、道義的、法的に先立って、まず生理的に抑制されるのだと思います。絶対罰せられない、神様も許すというお墨付きが貰えても、見知らぬ人の首をこの手で絞めて殺したいとは僕は思わない。あなただってそうでしょう?

 でもその不快感センサーが麻痺していったら、加害への抑制がきかなくなります。いわゆる幼児虐待のケースなどで、我が子を風呂に沈めて溺死させるとか、アイロンを押し当てる、階段から突き転がすなどムチャクチャやりますが、事件が発覚する前には長い虐待の歴史があったりします。思うにあれも段々と感覚が麻痺していくのでしょう。はたまた昔の侍やガンマンなども、「一人殺せばあとは腹が据わる」とか言ったりしたそうですが(本当かどうか知りませんが)、似たような文脈でしょう。

 最近の子供が他人の痛みを知らず、したがって加減を知らず、とんでもない結果を引き起こしてしまうなんてのも、不快センサーが麻痺してるからかもしれません。つまりは想像力(心)が貧しいわけで、だから「ゆとりある教育」とか言われるのでしょう。ここで「心が豊かになる」ことは、「楽になりましょう」ということではなく、直近的には自責の念や自己嫌悪にかられましょうということでもあり、「正しく不快になりましょう」ということでもあります。





 そんでもって、程度の差こそあれ、この「正しく不快になること」こそが正に僕が問題にしている点でもあります。ゲーム性現実過剰適応病者が、その無神経さゆえにドライな現実世界では強者たりえ、結果的に繊細の人の気持が分からずに傷つけてしまう、そして自分は面白さを求める亡者や餓鬼に 落ちてしまうという。

 だからそれじゃダメなんだって。単純に他人や自分の痛みに無神経になり、不快感センサーを麻痺させて、それでストレス減らしましょう、それでハッピーになりましょうみたいなことだったら、何も最初からこんなこと考えてませんわ。そんなことが「心が豊かになる」ことの内実だとは思わない。

 ですので、「イヤなことは忘れましょう。イイコトばっかり思いましょう」というのは、既にかなり落ちこんでる人、自罰的傾向が強く過剰に自責に念に苛まれてる人、鬱状態の人、ストレスが極限まで溜まってる人にとってはよい処方箋かもしれないけど、これは一種の劇薬であって、誰にでも通じるものではない。少なくとも僕が欲しいものではない。


 あともう一つ、「心象感度を上昇させて、且つストレスを減らす道」として(理屈の上で)ありうる場合としては、こんなケースがあるでしょう。

 すなわち、「ごく普通に暮していて、不快な出来事よりも気持ちいい出来事の方が多く発生する人の場合」です。この場合は、文字どおり単に心象感度を上げればいいでしょう。ほっといてもプラマイで黒字が発生するなら、取引量を増やして黒字の絶対量を上げましょうという簡単な話です。

 でも、ほっといても快感が不快よりも上回るような幸福な環境にいる人は、そもそも「心を豊かに」とか、そのあたりの欲求は持たないような気がします。愛する人と結ばれて幸せ一杯の人、志望校に合格できて有頂天になってる受験生など、そういった環境にある人は、とりたてて「心を豊かに」とかそんなことは考えないと思います。

 世間で言われている「心を豊かに」的な話というのは、まず現状の問題意識あってのことだと思います。ストレスにキリキリ追い込まれて「何とかしてくれ」という人もいますし、どうも暮していてトキメキがない、ワクワクしない、鮮やかじゃない、という人もいるでしょう。だからそんな人が、単純に心象感度のボリュームを上げたって、却って不快感は増すことになるでしょう。



 というわけで、心を豊かに=心の負担が減少してハッピーになろう、と言われても、その内実がいまひとつ分からない。単純に心象を敏感にしても駄目、不快感だけ減らしていくという限定的な劇薬対症療法というのも違うような気がします。

 じゃ、何なのさ。外堀を埋めつつ、しつこく考えてみたいと思います。



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1998年11月25日:田村
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